Chapter 6-5 : 望まぬ安息

(投稿者:怨是)


「目は、覚めたか」

 1945年8月27日。
 聞き覚えのある男の声に、キルシーは最悪の目覚めを確信した。
 キルシーは起き上がるなり、男――かつての教育担当官ケイ・カザミの胸倉を掴んで引き寄せる。そのまま暫く辺りを見回し、薬品の匂いや白い天井から此処が病院である事に気付いた。東側の窓から差し込むわずかな光――今日は曇っていて、やけに薄暗い――から、朝である事にも気付かされる。

「――見舞いなら間に合ってるわ。帰って頂戴」

「警告に来ただけだ」

「ふぅん。一体どんなお説教をして下さるのかしら」

「茶化すんじゃない。いいか。お前が本部まで来たのは、そうだな……憶測だが、お前の隣で寝ているMAIDの敵討ちだろう」

「ご名答。借りは一ヶ月以内に返すのが私の流儀だもの。私にとって、今の居場所を構成する大切な人を傷付けられるという事はね、あれぐらいじゃ足りないくらい憎い事だわ」

「お前のそういう蛮勇じみた英雄ごっこで、社会的影響がどれだけ出るか……考えた事は無いのか。大義名分が復讐劇であるのなら、それは所詮、茶番でしかない」

 キルシーは嘲笑した。まだこの男は“英雄”などという単語にこだわっているのか。未練がましい。あの日以来、キルシーは英雄の存在を否定し続けた。「優れた結束こそが英雄の資質」と公言してはばからない、在りし日のケイ・カザミの記憶を、この手で殺した。

「自分が英雄なんかじゃない事くらい、私自身が一番良く知ってるわ。結束も、力も、あの二匹のドラゴンフライの前では何の役にも立たなかった。それがいい証拠だったじゃない。私一人生き残ったと勘違いして、戦い続けて。貴方こそ、私がどれだけ苦しんだか考えた事はある?」

「無い。実を云うと、お前が生きているとは思っていなかった」

「じゃあどうしてあの時、まるで予定調和だったみたいに私の前に現れた!」

 そうとも。奇跡は常に、死神や悪魔の類にのみ味方し、大いなる不幸を以て人々を絶望させる。決して此方側には現れないのだ。多くの場合、人々が奇跡と称すものの裏には、致命的な事実が潜んでいるものである。一方が歓喜すれば、一方は慟哭する。地上のあまねく伝説はその歓喜の陽光のみを語ったものだ。それと同じで、己の傍らに在る英雄などお伽噺の中だけであり、大衆は決して手に触れる事のない虚像を有難がっている。

「黒旗に入った後に、お前の生存を知った」

 ――と嘯く、この男の様に!

「だったら狙撃を止めさせるチャンスはあったんじゃない! 本当に教え子が死ぬかもしれなかったのよ!」

「急所を狙っていなかっただろう。あれは、俺がその様に頼んだ」

「でも、だからって……!」

 その部位を狙わなかったと云って、不意の事故で命中してしまう事とて有りうる。少し狙いがずれていれば、コア・エネルギーを乗せた銃弾が脊髄を抉っていたかもしれない。MAIDの身体は頑丈な為、死に至る事は無さそうだが、それでも恐らく兵士生命は絶たれていただろう。

「力の使い道を間違えれば、この程度じゃ済まされないかもしれない。もう、あんな真似は止せ」

「何はともあれ、黒旗は潰れた。“あんな真似”とやらをする理由が無くなったわ。いい気味よ。これで貴方も足を洗って、真っ当な生活が出来るんじゃないかしら」

「……」

 この男の真意が読み取れない。キルシーを見捨てて勝手に消えたと思ったら、今度は敵同士であるにも関わらず、急所を外させて、気に掛ける。
 ……そんな半端な愛情なら不要だ。キルシーの感情は今にも沸騰しそうだった。ただでさえ他者からの好意は己の無力を思い知らされるのに、意図の読めない好意程、気分を害する物はない。この男、ケイ・カザミの言動の節々から、キルシーにとって鼻持ちならない一種の諦観のようなものが滲み出ている。それが気に喰わないので、キルシーは自分がされた事と同じく、ケイの逆鱗に触れそうな言葉を選んだ。

「お伽噺の英雄さんじゃなくても、親切心から行動を起こす事くらい出来るわ。私が貴方を黒旗から間接的に追い出してやった様にね。どう? 親切でしょ?」

「そうとも……」

 彼の逆鱗には届かなかった。その事実だけではなく、彼の勿体振った沈黙が、キルシーを更に苛立たせた。

「お前は英雄なんかじゃない。風を殺し、空を濁らせ、人類の翼を折る暴風だ」

「出て行って。もう、顔も見たくない」

「安心しろ。二度と会う事は無い。だが、これだけは覚えておいてくれ。お前があの時やってしまった事で、MAIDによる戦争が起きた時にどれ程の禍根を残すかを証明してしまった。黒旗はもう、あのザマだ。今後暫くはまともに活動することは無理だろうが、思想までは殺せない。その事を、よく考えて欲しい」

「……」

 ――思想までは殺せない? いや……あんな考えの連中はそれに相応しい目に遭うと、世界が認識してくれた筈!
 ケイの言葉は、どうせ詭弁だ。組織を潰され、再び居場所を失った彼の負け惜しみだ。自分の力がMAID同士の戦争での被害を証明してしまったという理屈など、絶対に信じるものか。何故なら、あれ程の腕力は自分しか持たない。通常のMAIDなら、もっと弱い。
 しかし、思い返せばそれだけを指して云った言葉ではないと知った。自分が壊した設備はごく僅かだ。多くは、対空設備に至ってはその全てを、自分が道連れに引き連れた空戦MAID達が破壊し尽くしていったではないか。あの被害状況をして、彼があの様な事を云ったのであれば、自分は何という愚行を犯してしまったのか。



 再び、目が覚めた。日は高く昇っているらしいが、相変わらず雲に遮られ、空は薄暗かった。
 そう長い時間は眠っていなかったらしい。あれから暫くキルシーは眠れずに、シーツにくるまりながら懸命に眠ろうとした。脳に「眠れ」と何度も命令した。しかし、それでも脳が安らぐ事は無かったのだ。

「おはよう。何があったか、教えてくれないか」

 シーアがお目覚めらしい。こちらのベッドに潜り込んで来ないのは、傷口が痛むからか。対岸より物憂げに見つめて来る彼女に、キルシーは軽く手を振って応じた。

「ちょっとみんなを誘って、黒旗をボコりにね。あちこち壊して回ったんだけど、狙撃されちゃって」

「それで、彼が此処まで送り届けたと」

「端的に説明するとそうなるわ。貴女、寝てたんじゃないの?」

「途中で少しだけ起きていた。すぐにまた寝てしまったがね」

 またお見通しだったか。流石に気が滅入る。この前の涙であればまだ見せられたものだが、ケイ・カザミとのやり取りは出来る事なら伏せておきたかった。あれは捨て去らねばならない、恥ずべき暗部なのだ。しかし、もう手遅れだった。

「そう……」

 キルシーはこれ見よがしに溜め息をついてみせた。もはや何も隠す事はあるまい。こうして同じ病室で共に過ごすのも何かの縁だと考えておこう。

「あれが私の元担当官。ブラックパンサー隊に居た頃の上司で、馬鹿げた英雄伝説を未だに信じてる。顔を見るだけでも苛々するから、不貞寝してやったわ」

「頭は冷やせたかな?」

「結局このザマだし、私は仲間の為に何も出来ないのが解ったくらいで、あの戦場で私は、何一つ掴み取る事が出来なかった」

 盛大な八つ当たりの末に、盛大な無駄足を踏んでしまったのだ。物理的、人的被害の明確な結果は得られたか? 黒髪のMAIDに一撃でも与えられたか? あの襲撃で、アルトメリア支部を含む黒旗にどれほどの打撃を与えられた? 黒旗を統率している筈のグスタフ・グライヒヴィッツの姿を、一度でも見たか?
 答えは全て“否”であり、単に幾つかの物資と施設を破壊し、代用可能であろう幾つかの部隊を壊滅に追い込み、新たな悲しみを生み出し、ルフトヴァッフェのMAIDが領土侵犯をしでかしたという事実が全世界に広まっただけである。

「もう何だか、心まで冷えそうよ……」

「無理も無い。ただ、私の為にそんな事までしてくれたのは、喜んでいいものなのか」

「喜んでくれなくていいわ。だって結局の所、貴女をこんな目に遭わせてしまった事への、自分勝手な罪滅ぼしと、私の存在を私自身で殺したくないという恐怖感とが、一緒くたになっていただけだもの」

「そうか……」

 普段であれば冗談で茶を濁すであろうシーアは、重々しく口を結んでいた。そこにいつもの軟派癖で知られる彼女の面影は無い。こんなにも長く沈黙した彼女を目の当たりにするのは勿論、初めてだった。反比例するかの様に饒舌になりつつある自分自身を、キルシーは忌々しく思った。

「あの日、私が飛んで行って、貴女を引き留めておけば、こんな事にもならなかったかもしれないのに」

「恐らく私はそれでも止まらなかったな。それに、重傷にはなったが、後輩のMAIDを救えて良かったとさえ思っている」

「じゃあ、私が沢山の仲間を引き連れて貴女の応援に行くべきだった! そうすれば、もっと……!」

「どうかな……騒ぎを大きくすれば、奴らも別の手を考えていたかもしれない」

 己に投げ掛ける怨嗟は、尽き果てた。根元から折れた心を握り締め、ほんの僅かに残った勇気を振り絞り、キルシーはシーアに頭を下げた。

「ごめんなさい。こんな、もしもの話なんて無駄よね」

「そんな事は無いさ。こんなにも私を思って、可能性を提示してくれた。それだけでも、私は嬉しいよ」

 キルシーは返す言葉に困った。シーアが思っている程、キルシーは自分が優しい人柄であるつもりはない。いっそ、こんな不出来な自分を叱ってくれた方がまだ胸のしこりが取れたかもしれない。

「……後輩のMAID、無事なのよね?」

「あぁ。この目では確認していないが、命は無事だ。このエントリヒ帝国で生まれたMAIDでな。名前はトリアに調べさせたんだが、プロミナというらしい」

プロミナ……あぁ、確か、この国の新聞にも載ってたわね。何の記事だったかしら」

「あまり思い出さない方がいい。私も、君も、きっと不愉快になる」

 シーアから、またしても笑顔が消えた。後悔や自責に依る無表情ではなく、堪え難い憎しみに満ち溢れた形相で遠くを眺めている。彼女の怒りの理由は解らないが、余程癇に障る記事だったのだろう。

「既にこの上なく不愉快で頭がおかしくなりそうよ。今更、もう何も問題は無い」

 解決方法が一向に見出せない。シーアの感情は未だ、どんよりと曇ったままだ。冗談を云わなくなったシーアは、大抵の場合、機嫌が悪いのだ。それでいて、お互い気休めで立ち直るほど単純でもない。故に二人とも黙り込んだ。この場を切り抜ける事を諦めてしまった。
 やがて、沈黙が支配する病室の扉の向こうで、ひどく硬質な足音が鳴り響いた。医者や看護婦の靴音ではない。かといって、見舞いに来た者にしては、足音に殺気が篭り過ぎている。短いノックの後、ドアノブが回った。扉を開くのは誰だ。

「御機嫌よう。ここに居たか、キルシー」

 肩口より指三本分ほど上に切られたセミロングの茶髪に、グレーの瞳、鳥で云うところの雁のような焦茶色の黒旗のMAID用制服に身を包んだ、いけ好かないMAID――ガレッサだ。何度か交渉の場で顔を合わせた記憶がある。

「あら、貴女は黒旗の……見舞いなら間に合ってると、次の人に伝えてくれないかしら。じゃないと後でまた殺しに行きそうだから」

「ぞっとしない冗談だ。カザミ大尉はお前に、何と?」

「“二度とあんな事をするな”とか云ってたわ」

「そうか……ではその件について私が口を挟む必要は無さそうだ」

 是非ともそうして欲しいものだ。彼ら彼女ら遠慮を知らぬ者達は瘡蓋(かさぶた)を何枚剥がせば気が済むというのか。包帯を引き千切って今直ぐにでも廊下に放り投げたい衝動に歯止めをかけ、キルシーは押し殺した声でガレッサに問うた。

「要件はこれでお済みかしら」

「まだだ。プロミナについての情報を得たい」

「私は何も知らないわ。お生憎様」

「お前には訊いていないよ。これはシーア、お前に訊く」

 拳を握り締めたシーアが、わなわなと震えるキルシーを制してガレッサに応じた。怒りのあまり訳が判らなくなりそうなキルシーは、包帯を囓りながらそれを傍観する。

「……私か」

「お前だ」

「プロミナに何か吹き込んだか? 奴は各地で放火を起こしている。挙句、我々軍事正常化委員会に罪を着せている」

「君達とは違うさ。何故そんな回りくどい事をする必要がある? 私を含めたルフトヴァッフェは常に正々堂々、正面からの戦いこそが唯一の手段だよ」

 思い出した。プロミナの載っていた記事は、黒旗に協力して各地で放火事件を起こしているといった内容だった。
 ただ、シーアはそれについてあまり語りたくないのか、倦怠感を露わにしていた。ぶっきらぼうな態度で返答するシーアに、ガレッサは掴み掛かった。新鮮味のない光景だ。交渉の場では見せないガレッサの一面も、真新しくは感じられなかった。怒りに身を任せて暴力に訴える姿は、既に何度も鏡で見たものだ。

「嘘をつくな! お前達の云う所の正々堂々というのは大方、プロパガンダか只の喧嘩だろうが!」

「ふん、云い掛かりは止してくれないか。私は何も吹き込んでいないし、何も頼んでいない」

「我々の提携業者の重役の家を焼いたのも、お前達以外の何者かの仕業と見ていいんだな……?」

「気の毒な話だが、やはり私は関与していない。彼女は檻の中で私は病室。指示など出せる筈も無い。もう少し冷静になって物事を考えて欲しい」

「私は冷静だ。以前、私の身の回りでも同じ事があった。病室から監獄の人員に指示を出した人間が居るんだ。医師の免許を持つ者なら伝令を可能とするからな」

 怪我人の胸倉を掴む奴の何処が冷静だ。口に出す程ではないが、キルシーは冷笑した。怒りが収まってくると、ガレッサの所作は滑稽に映る。シーアもそれは同じらしく、口元を釣り上げ、ガレッサの胸元を指差して挑発した。

「そこまで云うなら、まずは身内から疑ってみたらどうだ?」

「現に組織を潰された今も、放火事件が続いているらしいからな。末端の構成員にそんな余裕があるとは思えないし、スパンが短過ぎる。組織的犯行でなければ不可能だ。これでもまだ身内を疑う理由があるか?」

「では、別の可能性に期待する事だな。私からはもう何も無い」

「……」

 あっという間に、尋問まがいのやり取りは終息した。自分が反論する機会、及び相手に反論させないだけの語彙の備蓄を失い、口を閉ざした時点でガレッサは敗北したのだ。何故なら黒旗のやり方は相手が言葉を発する前に畳み掛け、結論に導くというものが常である。常套手段に出られないならば、もうそこは彼らの戦場として機能しない。

「これで話は仕舞いだ。帰りたまえ」

 シーアとキルシーが勝利を確信した瞬間、ドアは蹴破られた。ガレッサの部下らしきMAIDが、ずかずかとこちらに近付いてくる。

「まどろっこしい。動けないなら、銃口を突き付けて、何でも吐き出させてみてはどうです? ガレッサ上級管理者」

エーアリヒ、今はそんな余裕が無いんだ。全体の統率が取れていない今、早まった行動に出れば、またライールブルク事件の様になりかねない」

「私は職務には忠実ですが、愚鈍な上司には従うつもりは無い。宜しければ、下がって頂きましょうか?」

 エーアリヒと呼ばれたMAIDが、乱暴に閉めたドアを後ろ手に殴った。それは、明確な宣戦布告だった。それを見るガレッサの心情は恐らく複雑で、態度にそれが出ている。

「力尽くで押し通せば、お前の忌み嫌う特定MAIDと同じ穴の狢だぞ。それでもいいのか?」

「……」

「頼む。私はお前の云う愚鈍な上司かもしれないが、愚鈍なりに、部下であるお前を大切に思っているんだ。それをどうか忘れ――」

 枕をガレッサの顔面に投げ付け、茶番を終わらせた。怪我で気が滅入っているのに冗長な三文芝居を、演じられるのを、聞き飽きた台詞に見飽きた所作を、誰が我慢できようか。

「茶番はその辺にして頂戴。傷が膿んでしまいそうよ」

「泣こうが喚こうが、茶番なんてとっくに終わっている。お前が茶番と呼んでいるそれは、私達にとって掛け替えの無い日常だ。いつかお前の物差しの鍍金(めっき)を剥がし尽くしてやるからな……それにだ、キルシー」

「何よ」

 この上まだ何か腹の立つ程ありがたいお言葉を賜るのかと思うと、キルシーは空腹も相まってガレッサの首筋に噛み付いてやりたくなった。

「私はお前を許した訳じゃない。カザミ大尉が具体的に何をお前に云ったのかは解らんが、ライールブルクは帝国の領土だ。国際世論が今後、お前達をどう見るかが変わってしまう」

「明らかな領土侵犯。その上、部隊単位での破壊活動。もはや云い逃れ出来る問題ではありませんからね」

「その件については待って頂こうか」

 ついに怒りを顕わにしたシーアが、怪我の残る身体をベッドから乗り出し、この遣り取りに割って入った。

「何だ。庇い立てするという事は、それなりの論拠があるとでも?」

「あるとも。アオバーク市への強行偵察を忘れたとは云わないだろうな? あれによって臨時閉店した店もある。経済的被害は無視できない規模だった」

「本を質せばそれはお前達がカ・ガノ・ヴィヂをこちらに渡さないからそうさせてもらったまでだろう!」

 限界に達したのか、ガレッサは咆えた。シーアもそれに呼応して、ガレッサをぎらりと見据えた。ガレッサは構わず続ける。

「結局そのまま奴を野放しにしたお陰で帝都が深刻な打撃を受け、余波は我々の本拠地、ライールブルクにまで伝わった。帝国全体の軋みが、お前達ベーエルデーの独断のせいで加速してしまったんだ!」

「それもお前達帝国の、303作戦の尻拭いの都合だろうに! 冗談ではない!」

「貴様……! 何処までそれを知っている! 何処でそれを知った!」

「貴様に話してやる義理などあるものか! あの作戦は貴様ら黒旗が仕組んだ事ではないのか!」

「何を勘違いしているかは知らんが、軍事正常化委員会が国防陸軍参謀本部だった時代に、MAIDに関する作戦に関与する権利など与えられてはいなかった! 303作戦は何もかも、私の古巣、エントリヒ帝国皇室親衛隊の内部で組み上げられた作戦だ! 私はその前例を口伝てでしか知らないが、二の轍を踏まぬ様、こうして動いて――」

 遠慮がちにドアが開けられ、シーアとガレッサの熱戦は一時中断となる。恐る恐る入って来た看護婦は、この場の全員に忠告しに来たらしい。眉の根が僅かに歪んでいるのは、不快感故か。

「失礼。病室で騒がれますと、他の患者様の御迷惑となりますので……」

「軍事正常化委員会の者ですが、何か?」

 エーアリヒが振り向きざまに冷たい視線を浴びせると、看護婦がエーアリヒとガレッサの制服を見比べ、はっとした顔をし始めた。

「あ……! 失礼致しました。では、なるべく穏便に願いますね」

「然様で。善処しましょう。……ガレッサ上級管理者、どうぞ続けて下さい」

「すまない、エーアリヒ」

 看護婦がドアを閉め、足音は遠のいた。キルシーは勿論、もっと聡明で達観しているシーアですら、この状況を飲み込み兼ねた。過熱した感情はすっかり霧散し、呆然と双眸を見開いている。キルシーもまた、鏡を見れば同じ様になっているに違いなかった。

「どういう、事だ……?」

「この病院はEARTHが管理しています。EARTHはG-GHQの管轄組織。その意味がお解りですかね?」

「大元であるG-GHQが黒旗と条約を結んでいる以上、この病院の職員は強くは出られないという事か。なるほど、理不尽な話だ」

「ご名答です」

 したり顔でシーアの正答を褒めるエーアリヒの横に、ガレッサが並んだ。

「妙な勘違いをされる前に云っておくが、病院の職員が我々のあらゆる活動に積極的な協力をしてくれる訳ではない。我々がG-GHQに何らかの不利益を与えない限りは、我々の行動に関与しないという、あくまでその一点のみだ。点滴に毒を盛るような真似は、彼らには出来ない。何故ならお前達MAIDは、G-GHQの財産だからな」

「条約はそれさえ除けば、不利な変更も無く、無事に締結されたのか?」

「全てが望ましい結果ではないが、組織としては満足の行く内容である事は間違い無い」

「それはそれは。上手く行った矢先に放火事件の冤罪だからな。痛み入るよ」

 シーアは敵意に満ちた笑みをガレッサに向けた。時折エーアリヒが何かを云いたげに、口を開こうとするが、舌戦に於いて彼女の出番は失われていた。同時に、キルシーの出番も。

「今の所あれで被害を被っているのは帝国と我々だけだが、いずれはそれだけの問題では無くなる。故にここでお前から情報を得るつもりだったが」

「無駄足だったな」

「そうでもない。ここでお前に会っていなかったら、きっと私はお前を疑い続けていただろうからな」

 ガレッサはシーアを含むルフトヴァッフェへの嫌疑が晴れただろうが、逆はそう上手くは行かない。ルフトヴァッフェは黒旗をこれからも疑い、また敵視し続けるに違いない。残党がこうして曲がりなりにも平穏な入院生活を妨げにやって来るのだ。それも、ご大層な暴論まで携えて。
 さて、そんなガレッサは手帳を書き終えると、エーアリヒへ振り向いた。一仕事を終えた後といった風の、清々しい表情だった。

「さて、エーアリヒ」

「何でしょう」

「キング・ラプチャーとフィルトル最高管理者に報告しておいて欲しい。“ルフトヴァッフェはこの件には関わっていない”とな」

「……本当にそれで宜しいのですね」

「まぁ、な。連続放火事件と本部襲撃……関係者を根こそぎ洗い、ルフトヴァッフェの面々を一日に数十件も廻ってこれだ。致し方無い」

 どれだけの人員がその調査に関わっているのかは、キルシーは知らない。だが、ある種の執念じみたものか。本部があの状態であっても尚、そこまで調べるという並々ならぬ努力には恐れ入る。

「真実如何に関わらず、彼女らの態度には納得行きませんがね」

「敵は敵だ。相容れない相手に噛み付くのはお互い様だろう」

「然様で。それでは、迎えの車を手配して参りますので、私はこれにて」

「私も同行しよう。お前とはもう少し、話す必要がある。さて、シーア、キルシー。私達はこれでお(いとま)するよ」

 エーアリヒがドアを開け、ガレッサがそれを通って廊下へ出る。残ったエーアリヒは外からドアを閉めながら、こちらを一瞥した。二人の黒旗MAIDはこうして、病室から消えた。
 魔女狩りの時間は終わり、そこには気怠い沈黙だけが残る。日が暮れて蛍光灯の灯りだけになった病室は、真っ白なこの空間をより無機質に彩っている。

「シーア。私ね、さっき教育担当官だった奴に色々云われたって云ってたじゃない」

「……あぁ」

「思想までは殺せないって、あいつは云ってた。あまりに強いGにも、弱音が溜まって誰かを攻撃せずにはいられない人間達にも、私は勝てない。また、過去の自分にも。だとしたら、私は何と戦えばいいの?」

「すまない。情けない話だが、私にはそれを探してやる権利が無いらしい。何故なら私もまた、敗北を続けている……」

「そう、よね……或いは、元より戦う相手なんて居なかったのかもしれないわ」

 キルシーはこの日以来、闘争に類する何もかもをやめた。正確には、保留していると云うべきか。信念は崩され、覚悟は揺らぎ、己の根幹を為す原始的暴力でさえも悲運には抗えない事を知った今のキルシーには、幾許の選択肢も眼前に用意されていなかったのだ。
 シーアの傍らに活けてあった向日葵の花は、陽光の眩しさから目を逸らさなかったが、長過ぎる曇り空にすっかりしおれていた。その様子が自分の心情に似通っていて、キルシーの心を二重に打ちのめしてしまった。


最終更新:2011年04月02日 15:32
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