(投稿者:エルス)
朝飯も食わず、昼飯も食わず、ずっと銃の整備と装備の確認だけをやっていた。
廃ビル襲撃時に血まみれになったあの黒いコートは、まだ私物として持っていはいたが、今着ているのはエテルネ軍のモーターサイクルコートだ。
俺の手元に着た時には、もう裏側にポケットやらなにやらが取り付けられた、色々と改造が施されている状態で、今まで装備してきたものすべてが収納できる優れものになっている。
ただ一つ欠点を上げるとすれば、防寒性が犠牲になったと言うことぐらいだろうか。
こうしてウィリスジープの助手席でじっとしていると、そのことがよく分かる。
収納性を重視した分、元々の生地が薄くなっているのだろう。仕方ないとはいえ、この時期に防寒性の低いコートを着るのは、少しキツイものがある。
運転席に座る
名無しは完全防寒と言ってもいいほどで、マフラーにゴーグル、厚手の手袋を嵌めている。まるで
エントリヒ帝国の山岳歩兵だ。
俺が寒さに震えながら耐えている間、名無しは無言でジープを走らせていた。
重たくなってきた瞼を閉じまいと、ここで眠ってしまったら笑えない事になるぞと自分に言い聞かせて乗り越え、やっとあの基地に辿り着いた。
検問を抜け、連隊司令部の近くで下ろしてもらう。名無しは別れの言葉も言わずにアクセルを踏み込み、去っていった。
「……ありがとな」
仕方なく
一人で感謝の言葉を呟いてみるが、答えてくれるはずの名無しは既に500メートルの彼方だ。
寒さと座り続けで固まった身体を解してから、まずはマクスウェルに会おうと思って歩きだした直後、
エルフィファーレに会った。
信じられないものを見るような目で見られるのは少しだけむず痒かったが、会えたのには変わりはない。
嬉々とする心を押さえつけ、表情に出さないようにして、エルフィファーレの前に立つ。
表情はすでに変わっており、今はニコニコと笑っていたが、突然表情が変わった。
「エル……」
「――――」
「っ……!?」
いきなりだった。
頬に痛みと熱を感じ、手で触れてみてから、やっと自分がぶたれたのだと理解した。
いや、理解したが、どうしてぶたれたのかは理解できなかった。
「……ボクを気絶させた後、
シリルが行方不明になっている間、ちょっとはこっちがどんな気持ちになっているか、考えてくれました?」
「あ、いや……お前の安全とか、その、アイツがいれば大丈夫だろうと思ってだな……」
「違います! そんなんじゃないんです! 置いていかれる痛みを、考えてくれたんですか? ボクが言いたいのは、それなんですよ」
とん、とエルフィファーレの拳が俺の胸を軽く叩いた。
何度も感じてきた胸の痛み……傷ではなく、自然治癒する訳でもなく、自分から問題を解決しなければ治ることのない痛み。
だが、エルフィファーレは束縛されていた。自分から問題を解決することが、出来なかった。
胸の内に溜まっていたやりきれない気持ちが吹き飛び、申し訳なさと配慮の足らなかった自分への怒りが湧いてくる。
俺がもっと考えていれば、考えてさえいれば、こうなることはなかったのだから……。
思わず、苦笑が漏れる。
「痛み、か……。ああ、そうだな。考えてなかったな。考えてたら、俺はこんなことやってないだろうな」
「心配……させないでくださいよ」
「すまん……」
抱きしめられたと分かるまで、数秒掛かった。薔薇の香水が鼻をくすぐり、震える声が心を打った。
華奢な身体を抱きしめ返し、それでも俺は彼女の顔を見ようとはしなかった。そうすることが、無礼だと分かったからだ。
細い体を抱きしめて、俺は悲しくなった。俺は彼女のためと言って今までやってきた。
だが、どうだ。本当に彼女のためになったのだろうか? 彼女の思いを無視して弄んだだけではないか? そんな疑問の数々が鈍感な胸に突き刺さる。
「でも、俺はやるべきことをやらなければならない。やると決めた。そして準備もした。あとは、行動するだけだから。
だから、アイツと一緒に、もう少しだけ、ほんの少しだけ、待っててくれ」
「そんなの嫌ですよ。もう一回、ボクの気持ちを考えて下さい!」
「いや、でも……すごく危険なんだ。死ぬかもしれないし、それに、お前を気にしながら戦うなんて事、今の俺にはできないし、第一、お前が死んだら……んっ」
濃厚な薔薇の匂いがした。目にくすんだ赤い髪の毛が映っていて、彼女の唇が俺の唇に押し付けられていた。
訳が分からなかった。ビンタといい、このキスといい、なにがどうしてこうなったのか、まったく理解できなかった。
意識せずとも顔が燃えるように熱くなり、凍えきっていた筈の身体が熱を持つ。人の目がなくとも恥ずかしくて堪らない。
エルフィファーレがすうっと俺から離れ、唇をぺろりと舐めたその瞬間、全身が赤くなったのを自覚せざるおえなかった。
「お、お前……何考えて……」
「言い訳ばっかり言う口は、こうして塞いでやるんです。ボクは絶対に付いてきますからね。死体になったって一緒にいてもらいますから」
「………」
唖然とするばかりだ。エルフィファーレは怒っていた。それは初めてみる表情だった。キッと俺を睨みつけているが、どこか中途半端な睨み方なので、あまり威圧感がない。
それでも俺には十分衝撃的で、またしてもどうすればいいのか分からなくなってしまった。なにせ、あのエルフィファーレが怒っているのだ。どうすればいいのか、分かるわけがない。
どうすればいいのか考えて、とっさに口を開いた。考えもしないで話すのが、何故か久しぶりのような気もした。
「あ、ああ、俺が死んだ時は、煮るなり焼くなり好きにするがいいさ。ただ、墓に変な事書くのはやめてくれよ? 恥かくのは生きてる間だけでいい」
思わず、自分で言った事に笑ってしまった。自分で言って自分で笑うと言うのも変だが、この場合、馬鹿馬鹿しいことを言った自分を笑ったのだ。
そうとは知らず、エルフィファーレも笑った。その笑顔を見ると、何故か安心した。肩の力が抜け、戦うことなんか馬鹿馬鹿しく思えてきてしまうのだ。
「そうですねぇ……女ったらし、とは書いてあげますから」
「いやまて、どこで俺が女をナンパした。いったい何時、俺が女ったらしになったんだ」
「だって、シリルから知らない女の匂いが……」
「え……」
「うわぁ……シリルったら、本当にボク以外の女の人と寝たんですね? それで、気持ち良かったですか? どうだったんですか? んー?」
「い、いや、そんなんじゃなくて……」
「へー、そーですかー。いいんですよー べ・つ・に。シリルはなんたって『お・と・こ・の・こ』ですもんねえ」
………何故かいつもより会話が駆け足のような気がするが、ついていくしかないのだろう。
不気味で威圧的な勝てる気がしないオーラを纏ったエルフィファーレに、少しだけ恐怖感を覚えつつ、俺は誤解を解決しようとしたのだが、その前にエルフィファーレが釘を刺した。
「いいですもん。別に。そのうちボク以外の女の人なんか興味を失くすくらいに骨抜きにしてのろけにしてぞっこんにしてやるんですから」
「……今、恐ろしいことを聞いたような気がしたんだが。具体的に言うと、洗脳とかそういった意味で」
「恐ろしい? 洗脳? んふふ、女の子を甘く見ちゃいけませんよ? ボクの本気、見たいです?」
「いや、甘く見てるつもりはないんだがな……そしてお前の本気は見たことないけど恐ろしいものだろうから止めてくれ、結構マジで」
「どうでしましょうかねぇ~……あ、そういえばシリル。ボクって結構気が短い子なので、この前みたいに気絶させたら帰って来た時に凄いことしちゃいますから♪」
満面の笑顔の下にどんな感情が蠢いているのだろうかと思い、戦慄する。いや、なんでこんなに寒気がするのだろうか。さっきは熱いくらいだったのに。
「わ、分かった。連れてくよ、絶対に……」
「絶対に絶対です?」
「ああ、絶対に絶対……でも、あんまり無茶しないでくれよ。お前を守りながら戦うってのは、なかなか骨が折れるだろうからな」
「なあにいってるんですか。守られるほど弱くないですよ、僕は」
「もしも、ってことがある。そのもしもが起きる可能性を考えながら戦うなんてこと、俺にはできない。まだそこまで強くないんだよ、俺は」
「……いつの間にか、カッコいい顔をするようになりましたね」
「そうか? 俺は全然そうは思わないんだけどな。相変わらず弄られるし、なんか丸めこまれてる気もするし」
「弄られたりするのはシリルのキャラですよ。まあ……こう、体に芯が入ったというか……つまり、ニュー・シリルになったということです」
「ああ、そうかもな……いや、そうだな」
「……?」
精確に言えば、身体に芯が入ったのではなく、今まで身体の芯を占拠してたもう一人の俺がいなくなっただけなのだ。
だからというわけではないが、今まで無意識に行ってきた事の殆どを、今は意識して行うことが出来た。きっと、そういうことなのだろう。
俺の認識すべき範囲と、ミシェルの認識する範囲が、被っていたのだ。つまり、今までの俺と言うのは実の所、欠陥品だったってことだ。
自分で自分を欠陥品扱いするのは気が引けた……というのは嘘で、実は自嘲するのにも慣れてしまっていた。
「確かに変わったよ、俺は。でも、根本は変わってないんだ」
「それはつまり……?」
「馬鹿ってことだよ」
「かっこいい馬鹿なシリルってことですね♪」
「いやその……まあいいや、そういうことで」
何故だか分からないが、凄く明るい笑顔でそう言われたので、違うと言いたくても言えなくなる。
呆れながら溜息を吐く。やっぱり俺はエルフィファーレには勝てないなと思う傍ら、少しほっとしている自分がいた。
実を言うと、エルフィファーレに許されるわけないと思っていた。気絶させた挙句に軟禁されて、そしてひょっこり帰って来て。
自分なら声を荒げて怒って、気が済むまで殴り続けるだろう。それなのに、彼女は許してくれた。その優しさが、今は嬉しい。
だからとは言わないが、俺は彼女の華奢な身体をもう一度抱きしめて、気が付いたら、唇を重ねていた。
最終更新:2011年04月30日 00:40