Behind 9-1 : 鳥の飛べぬ空

(投稿者:怨是)


 1945年9月21日。夕陽が辺りを赤く染める、エントリヒ帝国南部の市街クリンゲンショーエンにて。リカルド・デル・ベルモスコ中佐は休憩の為に近くの公園で紫煙をくゆらせていた。ベンチは冷えていたが、構うものか。レベルテ王国の、比較的冷涼な地域で育ったリカルドにとっては寧ろ丁度良いとも云えた。

「研究の調子はどうだい、お友達(アミーゴ)

 隣にデヴィッド・ブーン・ダニエルズ中尉が座り、リカルドと同じく煙草を吸い始める。鋼鉄製の一際大きい右腕は、いつ見ても異様だ。が、この無骨で古臭い形の義手こそが彼の人となりを現しているとも云えた。時代に置いて行かれたのではなく、時代に置いて行かれそうになったものを後生大事に使う。常にレトロで在り続けるのが、彼の生き方なのだろう。

「やぁ、デイヴか。経過は順調そのものだ。あれが飛べば、各戦線の空に変革をもたらすだろう」

「在庫の余った観測気球をあんな形で使うとは、考えるよな、研究室主任も」

 今回の対空試作兵器開発研究室の主導者は、ヘロルト・モーベルス技術大佐である。観測気球を妨害装置に用いるという提案を行ない、『近接信管式誘導浮遊機雷』の名で計画を始めた。内容は、気球の表面にフライ級Gが食物と誤認する様な誘引剤を塗り、一定量の重量が検知されると作動する爆弾を内部に設置するというものだ。また、爆発した際には鉛の粒が周辺に飛び散る為、危害範囲も拡大できる。実戦テストはもう少し先になるが、これが飛んだ暁には、今やフライの餌という不名誉極まる認識の戦闘機、及びその搭乗者達にも活躍の場が訪れるに違いない。期待ではなく、確信があった。

「おれは難しい兵器の事は解らんが、ああいう考え方は好きだぜ」

「と、云うと?」

「兵器の性能そのものを上げるんじゃなくて、兵士が全力を出せる環境を作ってやるって考え方さ」

 デヴィッドはそう云って、次の煙草に手を出す。リカルドも釣られてもう一本吸う事にした。

「お前さんは、此処へ来て半年ちょっとか。じゃあ知らないかな。モーベルス技術大佐の事は」

「あぁ」

(やっこ)さんは親衛隊時代に様々な兵器の開発計画を上申したらしいが、それらは一つとして実を結ばなかったそうだ。当てもなく彷徨って、漸く手に入れた結論が、あの気球爆弾なんだろう」

「結実しなかった奮闘は、私も思うところがある」

 謂わば、自分達は影だ。MAID達が時代に注目され人々に求められるその裏側で、或る者は呪詛を吐きながら、或る者は涙を流しながら散って逝った。影が大多数にとって決して歓迎される存在ではないのと同じく、兵士達もまた世論からは「MAIDが数を増やせば兵士なんて不要だ」「MAIDに任せて、家族と過ごせばいい」「あんなに場所をとるのに時代後れで役に立たない戦車が3台と、同じ値段で百人分の働きをするMAIDを比べたら、云う迄も無く後者を取るだろう」といった言葉を幾つも浴びせ掛けられた。
 リカルドは決して、MAIDそのものが憎い訳では無かった。リカルドはMAIDも人も過ちへと導いてしまうであろう社会が憎いのだ。彼ら傲慢な連中と来たら、兵士達が国を想って戦ってきたのに、手の平を返されて蔑まれ、疎まれてきた事で抱いた感情の悉くを無視している。

「ならばこそ、守らねばならんな。華々しい伝説に押し潰された、影というものは」

 誰に向けたのでもないリカルドの言葉に、デヴィッドも虚空を眺めて、

「コインがひっくり返るその日まで、な」

 と、そっと呟いた。リカルドはその一言が印象に残っていた。



 9月28日、豪雨降り注ぐクリンゲンショーエンにて。
 デヴィッドはリカルドとの会話を回想しながらハンドルを切る。右腕が義手であろうと、慣れれば大した事は無い。右手側……助手席に座るガレッサは、MAIDカービンと呼ばれる自動小銃――旧式の機関銃を、銃身を切り詰めてセミオート発射のみにした代物だ――のマガジンを交換していた。
 あれから一週間の時が流れ、いよいよ実用試験を間近に控えた日となった。怨むべくは、この試作型兵器が何らかのデマか見間違いで、帝国の正規軍側に毒ガスだと誤認され、攻撃を受けている事だ。

「――ガレッサ、積み荷を守るぞ。折角、先方のお偉方が現場視察の為にご足労頂けるんだ。“壊されました”なんて、絶対に云ってやるものか」

「了解しました」

 試作品の浮遊機雷は軍用トラック一台の荷台に三基までしか入らず、数台のトラックに分割しての輸送を強いられた。そのどれもが各々仕様が違う為、どれか一つでも欠けてしまえば有用なデータが取れなくなるという。そのうえ友軍は皆一様に追われる身となっており、襲撃者達は皇室親衛隊、国防陸軍や空軍のみならず、他国――云ってしまえば敵国にも成り得る筈のベーエルデー連邦からルフトヴァッフェまでをも駆り出していた。何がそんなに憎くて、これだけの戦力を差し向けてきたというのか。デヴィッドは嘆かわしさのあまり頭を抱えたくなるのを、必死に堪えた。こんな場所で頭を抱えようものなら、ハンドルを切れずに壁に激突してしまう。

「ここ最近は毎日がメーデーだな。心休まるのはいつだい?」

「解りかねます。永遠でない事を祈るばかりですが」

「そうだな」

 デヴィッドが頷くと、ガレッサは遠くを見て鋭く目を細めた。そのまま間髪入れずに銃を構える。

「何か見付けたのかい」

「撃ってから報告します」

 ガレッサの云う処の“何か”――数百メートル先に在る為、デヴィッドからすればそれは“何もない”様に見えた――を撃ち抜いた瞬間、付近が爆風に包まれた。

「もう撃ってるだろうが。どんな罠か見えたか?」

「恐らく車両用の地雷か何かに、ワイヤーを取り付けたものかと。お察しの通り、既に逃走経路を割り出されている可能性があります」

「相変わらず用意周到な連中だ。毎度毎度、恐れ入るぜ」

 此処まで情報が筒抜けになっているという事は、恐らく既に仲間の誰かが捕らえられ、経路を白状させられているのか。いや、それにしては準備が速すぎる。勤勉実直で時間に煩いエントリヒ帝国の国民性を以てしても、此処まで素早く罠を仕掛けられる訳が無い。組織内の何者かが内通しているのだろう。そういった輩も組織の掟に従って“削除”せねばならないという労力を考えると、デヴィッドはますます暗澹たる心持ちになった。バックミラーを見れば、バイクが何台か追跡してきていた。帝国の軍用バイクは兎にも角にも頑丈だ。それでいてエンジンの造りが良いのか、やたらに馬力がある。トラックであるこちらが気を遣わねばならぬ急勾配――それも雨が降っているのにも拘わらず!――であろうと、お構いなしにフルスロットルで追い上げてくる。ガレッサがどうにかして狙いを定め、運転手の額に風穴を開けて漸く動きが止まる。此処までに何台のバイクを、その様にして横転させてきたか。最早、数えるのも大儀だ。

「――ッ! あのバイク、動きが違うな……ガレッサ、見えるか?」

 そんな連中を更に上回る速度で、一台のバイクが現れる。

バルドル……! ザハーラから戻ってきていたのか」

 ――知り合いかい。
 ふと言葉が胸中を過ぎったが、長話になるやもしれぬと考えたデヴィッドは呑み込むことにした。
 トラックは陸橋の下を潜って右折し、商店街を突っ切る。障害物が多ければ此方も不利になるが、バイクを転倒させるには手段は問えまい。幸い、この近辺の道路は何度か調査して、裏道まで把握済みだ。加えて、いざとなればガレッサが道案内もしてくれる。逃走経路に商店街を使う算段も、元々はガレッサが提案したものだ。
 ガレッサは後方へ向けて何発か発砲し、看板やゴミ箱などを転がせた。しかしそれでも、バルドルとやらが乗っているバイクだけは勢いを止めない。

「振り切れないな。左端ぎりぎりを走るか。ちょっくら蛇行運転になるが、どうにかして狙ってくれ」

「お任せを」

 マガジンを交換し、再び窓から身を乗り出したガレッサは銃を構える。デヴィッドは彼女が車外に放り出されない様に細心の注意を払いつつ、眼前の障害物を丁寧に避けた。散弾を放つ時に出る独特の銃声が右耳の鼓膜を圧迫する。何発か撃つ度に、ガレッサは舌打ちしていた。徐々に彼女が焦心で顔を歪めて行く様子を見るに、(バルドル)はすぐ近くまでやってきているのだろう。

「やっぱり当たってはくれないかい、腕っこきのお友達!」

 わざと、バルドルらしきMALEに聞こえる様にして呼び掛けた。濃密な死の気配、バイクに乗ってやってきた死神に対抗できる手段は、それくらいしか思い浮かばなかった。

「ザハーラは悪路ばかりでしたからね。この程度は造作もない事でございます」

 こちらのトラックにバイクを密着させたバルドルが口を開く。あろう事か握り拳一つで車体を殴打し、ドアに風穴を開けてきた。更にバルドルはバイクからトラックへと飛び移ってその風穴から手を突っ込み、ドアを内側から掴む。理知的な顔立ちの割には、随分と大胆な真似をしてくれる。それから彼は背中に掛けていた機関銃――MG42をこちらに向けてきた。

「その服装、やはり軍正会の方ですか」

 至近距離で喰らえば数秒と経たずに挽肉にされる程の代物をこうも無表情で向けられると、流石に肝が冷えた。ガレッサが彼の機関銃を引っ掴み、天井へ向けさせている事で辛うじて死を免れられてはいるが、連射による銃身の焼き付きを逆手に取られれば、その手も通じなくなるだろう。

「……すみませんが、降りかかる火の粉は掃うことにしていますので」

 デヴィッドはすぐさま左手でホルスターから拳銃を引き抜き、バルドルの鼻っ柱に照準を合わせた。幾ら旧式のリボルバー拳銃で、相手は兜を被っているとはいえ、両目のどちらかに命中すれば何も出来まい。あとは曲芸じみた体術で屋根に飛び移ったりされない事を祈るだけだ。

「阿呆抜かせ! 先に仕掛けてきたのはそっち――」

「――教官。此処は、任せて下さい」

 ガレッサに遮られ、デヴィッドは黙った。下手を打てば死ぬというこの事態に於いて尚、教官を制止するなどといった真似をしてくれたのだ。何かと頭の回るガレッサの事だから、策があると見てもいい。少なくとも今デヴィッドがしている事――バルドルがサーカスの真似事をしない事を願い続けるよりかは何倍もましだろう。
 さて、そんなガレッサはバルドルへと向き直った。

「見逃せ、バルドル。私は振り払うべき“火の粉”なんかじゃない」

「何を根拠にそう仰るのか。プロミナの亡命も、黒旗の名を騙った何者かによるそれの手引きも、貴方がたは黙って見ていただけではありませんか」

「その件については対応中だ。何故お前がそれを知っているのかについてはこの際、不問としよう。だが、それ以上は口出ししないでくれ。出来れば、私達が今やろうとしている事にも」

「それは出来ない相談です。昔のよしみで貴方がただけでも見逃して差し上げる……といった事は出来ますが。果たしてそれで満足ですか? 私も本を質せば単なる一兵卒、否……それにも及ばぬ、軍の備品に過ぎません。一介の備品風情には、この作戦を変える事などできますまい」

「そこまでは求めない。だが、どうにかできないか?」

 ガレッサの問い掛けに、バルドルは気難しい表情をより一層硬化させた。気付けば彼は、トリガーから指を離している。という事は、多少なりともガレッサの説得に応じてくれるという事なのだろう。

「難しい相談です。あまりこういう事は申し上げたくはありませんが、私にも立場というものがございましてね。……まずは車を停めて下さい。此処なら周りに誰も居りません」

「……解った。教官、出来ますか?」

「はいよ。ったく、中々云う様になったじゃないか。後にも先にも、これっきりだぜ」

 云われた通りに停車する。どのみち、従う以外に選択肢は残されては居ないのだ。要求を無視すれば、鎧の死神が持っている物騒な得物で、ずたずたにされてしまうだろう。
 今までエンジンとワイパーの音で全く気付かなかったが、雨の勢いはかなりのものだった。この中をバイクで走るのはきっと、相当に骨の折れる事だろう。他の連中が追い付くにはまだ時間が掛かりそうだ。もしもこれが時間稼ぎの罠だったとしたら、デヴィッドはトラックを急発進させてバルドルを振り落とすつもりでいた。

「ご協力、感謝します。では、落ち着いた所で、まずは私の所感と、親衛隊側の情報を述べさせて頂きましょう。宜しいですかね」

「構わんが、いいのかい。バレたらお前さん、首が飛ぶどころの話じゃ無くなっちまうぜ」

 死神の首が飛ぶ。その様相を脳裏に思い描き、デヴィッドは笑い出しそうになるのを堪えた。

「心配ご無用。首なら既に飛んでいますので。それでまず、貴方がたの輸送している兵器、気球型の爆弾の様な物ですが……親衛隊の中では毒ガスと伝えられています」

「爆弾の様な物というか、爆弾そのものだがね」

「ちょっと、教官ッ!」

 青ざめた顔でガレッサが諫めてきたが、デヴィッドはかぶりを振った。

「こいつの口ぶりを聞いたかい? 今更、隠したって無駄だろ。それに、毒ガスじゃないって事を解って貰えるじゃないか」

「生憎、レンフェルクと呼ばれる皇帝派の団体は、諜報員を貴方がたの研究施設へと送り込み、兵器の情報を掴んだ上で、敢えて毒ガスであるという偽の情報をバラ撒いています」

「連中のやりそうなこった」

「理由は、お察しの通りです」

 その方がプロパガンダには都合が良いからだろう。義憤に燃える若人を動かすのはいつだって、悪という存在だ。眼前に悪をちらつかせる、それだけで人々は怒り、恐怖し、各々の武器を片手に立ち向かうべきか考える。

「それで? 八方塞がりのおれ達に、今、何が出来るんだ?」

「レンフェルクにご用心を。彼らは既に、作戦の最終段階まで推し進めようとしています。彼らは事も有ろうに、これ以上新兵器を作らせない様に、研究所を爆撃するつもりでして」

「その為の国防空軍総動員にルフトヴァッフェか」

「何か問題が起きればルフトヴァッフェに全責任を負わせるつもりの様です。具体的な方法までは、俄には想像し難いですが」

「ぞっとしない話だな」

 ルフトヴァッフェ……ベーエルデー側もある程度そのリスクを承知の上で荷担しているのだろうか。単に黒旗憎しの一心でこの作戦に投入した訳では断じてない筈だ。まして、半年前の強行査察――それでもアオバーク市への被害は与えず、プロトファスマの捕縛という歴とした目的があった筈だが――に対する意趣返しなどといった、子供じみた真似は考えまい。
 やはり、近接信管式誘導浮遊機雷の実用化に伴う不利益を回避する為というのが自然な流れか。あの気球爆弾がどれだけの効果を発揮するかも知らないまま、闇に葬り去るというのは些か早計に過ぎる気もするが。寧ろ捌かねばならないフライ級Gの頭数を減らせるとあらば、奨励して欲しいものだ。それが許せないという事は、各国に恩を売りたいという浅はかな傲慢に他ならない。出来れば、そんな悪意に満ちた独善による派兵でない事を切に願う。どのみち、この場に居る面子には、ベーエルデー連邦の関係者は居ないので、推測だけがデヴィッドの出来る精一杯だ。
 死神は此処に来てやっと、拳をトラックのドアから引き抜き、雨に濡れた石畳へと両足を下ろした。機関銃はもう、此方を向いていない。

「以上が、私の伝えられる情報の全てです」

「ありがとうよ。バル……何だったか」

「バルドル。貴方の伴侶が私を覚えていますよ。私の事については、彼女から聞いて下さい」

「生き残ったらな」

「貴方なら可能です。貴方がたの輸送する兵器は無力化したと本部には伝えますので。それでは、また」

 そう云って、バルドルは坂道を駆け下りずに、滑り降りていった。ブーツにローラーでも仕込んでいるのだろう。他と比べて凹凸の多いこの道を果たして無事に降りられるのだろうかという疑問がふと頭を過ぎったが、あれだけ身のこなしが軽ければ可能だ。何より、彼が転ぶ姿を想像してしまうと運転に集中できなくなる。
 気を紛らわす様に、デヴィッドはガレッサへと目配せした。

「積み荷が本当に無力化されていないかどうか、ですよね?」

「よく解ったな。ちょっくら見てきてくれ」

「了解しました」

 以心伝心という奴だ。それほど付き合いが長い訳ではないのにこれだけ心が通じ合うのは、それだけ気が合うという事なのだろう。不思議と、疑問は生まれなかった。
 暫しの沈黙を経て、ガレッサは助手席へと戻った。ドアに風穴が開けられた所為なのか、助手席のドアを閉める音はひどく気が抜けたものに感じられた。

「無事だったか?」

「えぇ。煙幕を放り込まれていたので喉が痛みますが、あれなら誰かに見られても怪しまれる事は無いかと」

「そうかい」

 クラッチを合わせ、アクセルを踏み込む。それから通信機のボタンを押した。

「こちらダニエルズ。えっと、鉄腕デイヴだ。本部は応答できるか」

《本部のクラインベックだ。君が鉄腕デイヴだね》

 砂嵐の様な雑音が少し続いた後に、聞き慣れた声が返ってくる。

《丁度良かった。良い報せと悪い報せがある。どっちから聞きたい?》

「悪い方からで頼む。粗方、想像は付くがね。遠くに煙が上がっているのが見える。研究所が爆撃されたんだろう」

《ご明察、恐れ入る。技術大佐も死亡が確認された。銃殺だよ。誰がやったかも、目星は付いている。レンフェルクの連中だ》

 ――やっぱりレンフェルクか。

「近頃じゃあ猫も杓子もレンフェルクだな。今、連中は何処まで帝国を牛耳っているのかね」

《さぁな。私が親衛隊に居た頃は、奴らの頭目もまだ大人しくしていた筈だが》

 途中、任務を終了して帰還しているのであろう親衛隊のバイクと何台か擦れ違ったが、撥ね飛ばす事はしなかった。そうしたい気分は山々だったが、此処で敢えて彼らを刺激する真似をせずとも、勝敗はもう決したのだ。黒旗は新兵器を潰されて、敗北した。それに、下手に追跡されて積み荷が無事である事を知らせてしまうのは得策ではない。

「近頃は情報を仕入れるのも難儀するよな。まぁ、愚痴を零しても始まらん。何処へずらかればいい。“ポイント・レッド”かい?」

《ああ。ポイント・レッドだ。10分後に合流したい。速度超過で捕まる事の無い様にな》

「そいつは約束できんな――っと!」

 速度計は、このトラックが時速70kmを超えた事を示していた。軍用の装甲車ならばもう少し速く走れたかもしれないが、単なる民間用のトラックで、しかもこの狭い道ではこれが限界だ。通信機が再びピープ音を鳴らす。

《続いて、良い報せだが》

「そう、それだ。これだけ頭を抱えたくなるニュースが続いて、パンドラの箱みたいに、まだ希望が残されてるもんなのかね」

《ありとあらゆる作家と呼ばれる連中は、本の中には生きちゃいない。我々と同じ人間だよ。人生というものを経験して、多くがそれに基づいて話を書く。今も昔も、それは変わらぬ摂理だ》

「リー・ザンプ辺りは本の中で生活してそうだがね。で? 何がいい報せなんだい」

《レンフェルク側のMAID、アドレーゼを捕獲した。今後の交渉に使えん事もないだろう》

「……その程度かよ」

 試作兵器の研究を続ける為の施設は爆撃によって灰燼に帰し、また研究を取り仕切る者を射殺によって失った。その代償として奪ったのがMAID一体だけとは。アドレーゼと云えば、レンフェルクの頭目ヨハネス・フォン・ハーネルシュタイン名誉上級大将とやらの側近だ。彼がステータスとしてこさえさせたMAIDだが、政治的に重要なカードに成り得るかと云われると、些か疑問が残る。いっそ、ジークフリートアースラウグ辺りでも持ち帰れば話は違ってきただろうが。

「まぁ手ぶらで帰るより、幾らか慰みにもなるよな。通信終わるぞ(オーヴァ)

 それきり、通信機は何も云わなくなった。雨音は先程にも増して勢いが激しく、摩耗したワイパーではフロントガラスの水滴を拭いきる事も出来なくなっていた。流石にこの視界不良で飛ばすわけにも行かず、デヴィッドは舌打ちしながらトラックのギアを4速へと切り替えた。クラッチの噛み合う感触が、空腹に響いて胃を圧迫する。この時ばかりは、多忙を理由にトラックをしっかり整備しなかった事を悔やんだ。

「教官」

「あぁ」

「残った機雷は実験には使わず、そのまま研究用として残せませんかね」

「技術屋連中がどれだけ生き残ったか、それ次第だな」

 ……。
 数時間後にポイント・レッド、エストルンブルク東部地区の埠頭倉庫へと逃げ延びたデヴィッド達は、再びリカルドと会う事となった。憔悴しきったリカルドを見て、デヴィッドは何も云えなかった。正確には、何も云わなかった。交わすべき言葉は幾つも胸中には用意していたが、そのどれもがきっと、あの神経質なリカルドの心を逆撫でしてしまいそうだったからだ。
 寒空を見上げて、デヴィッドは煙草に火を付けた。

「遣ることは山積みだな」

 新兵器の実戦テストは、予定を延期して、およそ三週間後の10月20日に行なわれる。それまでこの倉庫を守り通さねばならないし、プロトファスマ狩りだって終わった訳ではない。カ・ガノ・ヴィヂは相変わらず行方を眩ませたままで所在地の特定は難航している。303作戦がどの様な物であるかをかつて親衛隊だった面々は語ろうともしない。これら全てを済ませるには、後どれくらいの歳月を費やせば良いのか皆目見当も付かなかった。


最終更新:2013年02月05日 12:25
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