Chapter 2-1 : 赤いオーケストラ

(投稿者:怨是)


 1943年11月22日。
 ライサ・バルバラ・ベルンハルト少将は、二つのうち一方の書類を机に並べる。

 エメリンスキー旅団の容疑一覧・概要
 同飛行中隊は1943年10月下旬のグレートウォール戦線維持作戦を遂行中、対空ロケットの誤射によって隊員の一部が撃墜されている。
 詳細な現場検証と残留した通信記録の解析の結果、エメリンスキー旅団の名前が浮かび上がった。
 更に詳細な調査を進めている所、ラウコドロフ准尉の指示によるものではないかという結果に至ったというものである。
 調査内容の経緯は別紙に記載す。
 また、新しい事実を発見次第、追って報告するものとする。

 以下、同上。

  • エントリヒ帝国陸軍とのMAID取引への、ココーシン大佐による関与の疑い
 同上。


 など、様々な嫌疑が大量に記されている。
 ベルンハルトの担当MAIDであるレーニシルヴィの姉妹や、信頼できる部下達が独自に動いて調査したものだ。

 同じヴォストルージア(ヴォストラビア)出身と云えども、公正を期した調査を展開せねばならない。
 アシュレイ・ゼクスフォルト少佐は不幸にも担当MAIDを失い、彼自身も国外追放処分となった。
 覆水が、再び盆に還る事はない。前例がある以上、これ以上の悲劇を生み出してはならないのである。
 それならば、悲劇の種となるものを徹底的に洗い出すべきではないだろうか。
 彼らエメリンスキー旅団も無論、例外にする訳には行かないのだ。

 詳細な調査内容の記されたもう一方の書類と見比べながら、赤いインクのペンで目星を付けて行く。
 余白に注釈を書き加え、過去の調査内容とも比較せねば。
 これだけの膨大な量である。本来ならヴォルケンに任せて調査を続行したい所だったが、ついに間に合わなかった。
 手渡すタイミングをこちらで逃してしまったのである。

「幼子とは云えど、無関係な者に見せるべき書類でもないからな……」

 部外者とは云えどMAIDベルゼリアがいる以上、ヴォルケンはそちらの教育に徹するという原則を守らねばならない。
 さもなくば定期チェックで何らかの項目に引っかかり、厳しい叱責は免れられないだろう。
 失脚という最悪のシナリオだけはどうしても避けたかった。

 胸に溜まった嫌なものを飲み下すようにして、再びペンを握る。
 長年の付き合いもある大切な存在だ。少しでも情があるなら親しい者の失脚など想像もしたくないのが道理というものだった。

「失脚だなどと……何を嫌な事を考えているんだ」

 昨夜のヴォルケンの表情を思い出す。
 彼は何かにすがりたいが如何様にしてすがれば良いのか判らない、といった表情をしていた。
 人間の精神は脆弱だ。強い力で叩き付けられれば少なからずひびが入ったり変形してしまう。
 ヴォルケンにとってのそれは、信頼できる部下の喪失と、それに伴う義務の不履行なのだろう。

 不謹慎な話だが、ただの戦死なら悔やむだけで終わり、禍根に悩まされることも無かったろうに。
 生憎、この件はそういう次元で物を計ることも叶わない。

『ライサ。私はいつもそうだ。約束事を完遂する事無く、いつもどこかで挫折してしまう』

 彼が精一杯動いてきた事はベルンハルトもよく知っていた。
 そして自分自身も出来る事は全てやってきた筈なのだ。

 もはや過去の悲劇は鞄の中へと詰め込み、明日を歩むための糧として昇華せねばならない。
 予防策の一つが、便利屋になりつつあるエメリンスキー旅団の調査なのである。

『弱気にもなるさ。ヴォルケン……失敗は得てして避けては通れないし、私達を打ちのめすものばかりだ。
 だが私達は前への進み方を知っているじゃないか。転んで起き上がれない時は……その時は私が手伝ってやる』

『ありがとう』

『だから、同じように私がくじけそうになったら、お前が今までそうしてくれたように、私の手を引っ張ってくれるな?』

『……勿論だ。まったく、お前には何度も助けられる』

『借りを返しているだけさ。まだまだ完済には遠いくらいだ。どれ、返済活動の続きでもするか』

『いや、さっきので充分だ。私も流石に体力が持たん。今はこうして寝ているだけでいい』

『老いは待ってくれないしな』

『ああ、だがそれでいい……』



「――誰だ」

 ふと、何者かがドアノブに手をかける音がする。ノックも無しに何事か。
 スモークガラス越しに人影が伺えない。嫌な予感が脳裏をよぎる。
 書類を全て片付け、懐の拳銃に手を伸ばす。

 常に最悪の事態は想定せねばならない。鍵のかけ忘れとは、迂闊だった。
 拳銃、ヴァトラーPPKは標的となる人間が一人ならば、なおかつこちらが先手を打つことに成功すれば問題なく事を進められるだけの威力はとりあえず持っている。
 相手が複数人いる場合セミ・オートのちゃちな拳銃では太刀打ちできる筈もないが、それでも丸腰よりはいくらか心強くもあった。

「……」

 開くか。開かざるまま時は通り過ぎるのか。


 Five


 Four


 Three


 Two


 One




 Zero



「ッ……――!」

「……んー」

 ノブに手をかける前にドアは小さく開き、隙間から茶色いつぶらな瞳がこちらを覗き込む。

「なんだ、ベルゼリアか」

 幼い少女の姿がうさぎのぬいぐるみを抱えながら、立ち尽くしていた。
 そのぬいぐるみを持ちながら、片手でドアに手をかけるのは骨の折れる作業だったろう。

 労わるのは結構だが、何か忘れてはいないだろうか。
 右手に何らかの重量感を感じる……そうだ。拳銃を握ったままだった。

 ベルンハルトはこの幼い少女ベルゼリアを部屋の中に通すと、慌てて今まで右手に握っていた物騒な黒い鉄塊を懐に仕舞いこむ。
 安全装置のレバーをSへと動かすや否や、制服の布地の隙間からハンマーが安全装置とぶつかる音が聞こえてきた。
 なるべく、先ほどまでの緊迫した雰囲気を覆い隠すように笑顔に戻そう。

「どうかしたのかな?」

「んー、うさぎしゃんは?」

 なるほど、ヴォルケンが云ったとおりだ。ドアをノックする事も教えられていないという事は、よほどベルゼリアは物覚えが悪いのか、それとも技術部が怠慢なのかのどちらかだろう。
 部屋の場所はおおかた、周囲の兵士に訊いて回ったりしながら突き止めたのだろう。または道案内を頼んだか。最低限の会話能力があればそれくらいは出来る。

「ちょいと待っててな。紅茶は飲むか?」

「のむー」

 とりあえずヴォルケンの部屋からはそこそこ距離があったはずだ。その小さな身体ひとつで、わざわざ此方までご足労とは。
 普通の軍人でさえ対した用事も無しに歩くには少し億劫な距離であるし、ましてやここに来るのは彼女にとって初めてだ。間取りを覚えていてもなかなかの労力を要する。

 などと思案を巡らしつつ、書類の数々をブリーフケースに詰め込みながらベルゼリアの様子を伺う。ソファに座りながら足をパタパタさせているところを見るに、元気のほうは問題無さそうだ。
 粉末状のインスタント紅茶をカップにあけ、ポッドから湯を注ぎ込む。あまり飾り気の無い味だが、ベルンハルトにとってはこれがお気に入りだった。

 これが開発されたのは1905年。エントリヒ帝国がこれを完成させ、ヴォストルージア……当時の名前ではヴォストラビアが輸入していた。正確には密輸に近いもので、国境付近の町村が政府に内緒で購入していたのだが。
 ベルンハルトも、ガザエフ家を名乗っていた頃から、つまるところ物心が付いた頃にはこれを口にしていた。
 このエントリヒ帝国へと亡命してからも、相変わらず愛飲していた紅茶である。

 ちなみに通な者は溶け切らなかった粉末に砂糖をまぶして食す者も居るらしい。

「りんごも今、切ってやるからな」

「んー、いい」

「要らないのか?」

「むー、切るのいらない。がじがじして食べる」

「そうか。皮は剥くか?」

「んー……皮もたべる」

 中々にアグレッシヴだ。亡命してヴォルケンに拾われるまでの、路頭に迷っていた時の事を思い出す。
 確か、あの時かじっていたのは恵んでもらったじゃがいもだったか。物乞い同然の有様を見て手渡してくれた老人の表情が今でも忘れられない。
 つい、頬が緩む。

「わかった。じゃあ、はい」

 とりあえず皿に乗せただけの林檎と、粗末なインスタントの紅茶で満たされたカップをテーブルに置き、ベルゼリアの向かいに座る。

「疲れただろう。それを食べ終えたらうさぎさんを対面させようか」

「うん!」

 ライサ・バルバラ・ベルンハルトの10代は苛酷そのものだった。
 確かにそこを潜り抜けてきた為に同世代の他人よりは幾分か強くなれたという自負はあるし、若いうちの苦労は買ってでもしろと多くの人は云う。
 だが、あれと同じ思いをこれからの世代に「経験しろ」となど、とても云えたものでもない。
 この時代においては「眠れる時に眠り、食べられる時に食べよ」という標語のほうが正しいと認識されているのだ。
 間違ったタイミングで無謀な試練を己に課し、生き残る確率を減らす意味など、どこにあろうか。

「んー食べおわった」

「早いなぁ」

 ベルゼリアは早くうさぎの対面をさせたいのか、貪るように林檎を口に放り込み、紅茶でそれを流し込んでいた。
 かなりのペースでムシャムシャするのは構わないが、腹は壊さないのだろうか。とりあえず約束どおりうさぎのぬいぐるみをロッカーから取り出し、椅子に座らせる。

「わー、わふわふ」

 赤い両目のうさぎのぬいぐるみはテーブル越しに向かい合っており、うち向こう側のうさぎは軽い力で撫でられていた。
 しばらく様子を眺めていると、ふとベルゼリアの視線がぬいぐるみからこちらへと移る。

「んー、そうだ」

「どうした?」

「うーくんとさーちゃんって知ってる?」

 うーくん? さーちゃん?
 どこかで聞いたような単語だが、それがいつ、どこで聞いたものかをベルンハルトは思い出せずに居た。

「いやぁ……知らないなぁ。絵本のキャラクターかな? それともこのぬいぐるみ?」

「ぶっぶー」

「間違っちゃったかぁ。正解は?」

「ベルゼリアの武器。かわいくて、カッコイイの。うさぎのグローブなんだよっ! だからこの子たちは、うーくんとさーちゃんのおともだちー」

 記憶の中身がカチリと繋がる。そういえば昨日、このうさぎのぬいぐるみを買いに行っているときに確かに聞いたような気がする。
 考え事をしながらだったから少しおぼろげだったが、今ので完全に思い出した。

「ほほぉ、グローブと来たか。ベルゼリアに良く似合ってる。かわいくてカッコイイじゃないか」

「んー、照れる……」

 存分に照れればいい。照れるほど褒められた事など、当時の私には無かったのだから。
 あの時得られなかったものを補うかのように、ベルンハルトはゆるやかな時を望む。その一方で、先ほど中断してしまった書類の作業をどのように進めたものかを思案する。
 適当な頃合に切り上げてベルゼリアを担当官の所に返してやるか? それとも書類をヴォルケンに渡して、こちらはベルゼリアと仲良くすべきか。いや、それではこの子がヴォルケンに懐かなくなる。
 本来の担当官であるヴォルケンに懐かないようでは由々しき事態だ。中々に厄介である。どう扱ったものか。

「んー、にゅ。にゅ」

 うさぎのぬいぐるみで遊ぶベルゼリアを背にして、新しい紅茶を用意する。
 ベルンハルトは別段、ぬいぐるみに興味は無い。ただ可能性を広げる為に、使えるものを増やしただけである。
 そう、自分に云い聞かせる。

「ラーちゃん、どうしたの?」

「どうもしないさ。私の顔に何か付いていたかな?」

「んー、何か悩んでる顔だった」

 ……中々どうして、優れた洞察力を発揮している。
 ベルンハルトは表情に出さぬよう努力していたというのに。

「いや、そろそろお仕事があるからね。ゆっくりしていられなくて寂しいなと思っていただけさ」

「じゃあベルゼリア、帰ったほうが、いーい?」

 ベルゼリアがソファから飛び降りると、ベルンハルトもそれに合わせるようにして腰を上げた。
 そのまま出入り口のドアまで送る。

「すまないが、今日はここまでという事で。また遊んであげるから、ヴォルケンの所に帰りなさいな」

「んー、遊んでくれてありがとー。ばいばい」

「ああ、またな」

 小さな後姿を見送ると、あとはぱたぱた響く軽い足音をドア越しに聞くだけだった。
 改めて鍵を閉め、ソファにもたれかかるや否や、溜め息がてら天井を眺める。


「……戦争が終わったら、結婚でもしてみるか」




最終更新:2009年01月05日 22:36
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