(投稿者:神父)
「“どの戦死者も同じに見えてきたら”」
歩兵小隊長、ヨアヒム・ランケ少尉は夜営の焚き火に、貴重なブランデーを注いだ金属製のマグをかざした。
「“潮時だ”……なるほど、それに乾杯と行こう」
マグの側面に刻み付けられた文字を読み終え、アルコールを一息にあおる。
火のついたガソリンをぶちまけられたかのように胃の中が焼灼された。
空になったマグをもう一度眺める。それは、彼の部下の誰かが持っていたはずの遺品だった。
今までに誰が死んだのか、彼はもはや完全には把握できていなかった。補充と戦死のサイクルが早すぎるのだ。
遅かれ早かれ死ぬんだから顔も名前も知らない方がいい、自分だって同じ事だ、と彼は考えるようになっていた。
無論そんな事を言えば除隊させられ、顔のない部下たちの亡霊に悩まされながら人生の残りを送る事になる事は間違いない。
最終的な解決策は死ぬ事だけだ―――しかし、彼は部下の命という責任を負わされていた。
「不潔」
いつの間にそこにいたのか、彼の背後に一人のMAIDが立っていた。
グロースヴァントの夜は冷えるというのに、露出度の高い奇怪な格好をしている。
……とはいえ、軍服を着ている身分からすれば、奇怪さはどのMAIDもさして変わらないが。
比較的ましな状態の足場を選んで歩いてきたのだろう、彼女は彼と比べればまったくきれいなものだった。
「潔癖症で歩兵が務まるものか。火の中も泥の中も同じように歩いて行軍するのがおれたちの仕事だ」
「……理解できません」
「ふん、人でなしからすりゃそんなもんだろうよ。あんた、この戦区を担当していたMAIDかい」
「まあ、そんなところですけど」
「そうか。で、何しに来た」
「あなたに渡すものがあって」
そのMAIDが腰に束ねられた丸鋸の刃を手に取るのを目にした瞬間、ヨアヒムの呼吸が詰まった。
肺を叱咤するほどの時間もなかった―――彼女が丸鋸を彼の喉に叩き込んだのだ。
衝撃が先に訪れ、痛みがやってくるよりも先に意識の圧力が下がり始めた。
彼は黒々とした空を見上げる形で倒れ、大量の血が気管を満たした。
「……」
MAIDが踵を返した。一撃で致命傷を与えた事を確信し、恐らくは次の犠牲者を探しているのだろう。
彼は飲み下せない血液を最後の知覚で味わいながら、急速に黒ずんでゆく視界に入ったその後姿を見つめた。
できる事ならば、その背中に向かって声をかけたかった。大声で叫びたかった。
そうすれば、どれほど感謝しているか教えてやれるのに。
春とはいえ、グロースヴァントの尾根付近ともなれば高高度のために気温は下がる。夜間は氷点を下回る事も当たり前だ。
重症を負い、手当も何もなしで放置されていれば死に直結する―――人間であればの話だが。
イェリコは墜落からおよそ八時間で意識を回復し、ジャケットの表面に凍りついた血液を音高く割り落としながら身を起こした。
「くそ……まったく運が悪い。88mm高射砲の直撃を受けるとは」
無意識の内に頭を庇ったのが功を奏したのだろう、記憶の混濁もなく、比較的明瞭に墜落前後の状況を思い出す事ができた。
脇腹で榴弾が炸裂した直後、追いかけるようにしてあの独特の発射音が聞こえたのだ。
88mmなどという大型弾が直撃すればMAIDとて無事では済まない……右半身に鋭い痛みが走り、イェリコは顔をしかめた。
右腕がこわばり、上手く動かない。左腕で苦労して角型の懐中電灯を腰から外し、自らの状態を点検する。
脇腹にも腕にも無数の金属片が突き刺さり、ジャケットをずたずたにしていた。これが人間であれば胴体が泣き別れどころの騒ぎではなかったろう。
背中の義翼がまるで使い物にならない状態にある事は首を回さずとも理解できた。そうでなければ墜落などしたはずがないからだ。
ぺたぺたと首周りから顔にかけてを触ってみる。肩の陰に入っていたおかげか、目立った外傷はなさそうだ。
さて下半身はと言うと―――
右脚がなくなっていた。
無論、右脚は義足である。しかし、片脚がないという事はすなわち歩く事すらままならないという事だ。
榴弾の衝撃で膝の取り付け部から落下したのだろう。近くに落ちているはずだ……いや、むしろ彼女は近くに落ちている事を祈っていた。
このグロースヴァントの山中、しかも南側の斜面―――人間がいる場所にたどり着くためには、この山地を這い登っていかなければならない。
泥の上を滑り降りていくだけならばいくらでも方法はある。実際、ドラゴン・
フライに叩き落とされた後にそうやって司令部に帰還した事もあった。
しかし片脚のない状態で、しかも大多数を撃滅したとはいえGの勢力圏内から脱出するとなると相当な困難が伴う。
彼女はまたしても―――もう数える事すらやめてしまったが―――死地に置かれていた。
「……」
そういえば、と電灯の黄ばんだ光を周囲に向ける。機関砲はどこへ行った?
本来ならばGに気付かれる危険性を避けるために灯火は抑えるべきなのだが、彼女にそれほどの余裕はない。
そもそも、半日近くも血のにおいを撒き散らして寝ていたのに襲われなかったのだから、今更警戒も何もあったものではなかった。
霜の降りた地面にはいくつかの保弾板と弾薬箱が転がっていたが、砲そのものは見当たらない。
遠くに落ちたか―――といささか狼狽しつつ空を見上げると、月明かりに照らされた樹冠の中に見慣れたシルエットが紛れ込んでいた。
「……あれが今足元にない不運を嘆くべきか、寝ている私の上に落ちて来なかった幸運を喜ぶべきか……」
本体重量のみで実に273kgに達するFlaK18高射機関砲は、彼女の頭上15mほどにある木の枝に引っかかっていた。
あまり明るいとは言えない懐中電灯で照らしつつよくよく確認してみると、幹を割るようにしてがっちりと嵌っている。
ちょっとやそっとでは落ちてこないだろう。
イェリコは嘆息し、夜の間は機関砲は放置して傷の応急手当に専心する事に決めた。
あまりにも多くの傷を負ってきたために神経が麻痺しているが、彼女が負っていたのは長時間放置していてよい類の傷ではなかった。
軍事正常化委員会―――いわゆる黒旗の一隊が、イェリコの墜落した周囲3kmほどに展開する歩兵部隊を無力化していた。
それと同時に装備品を可能な限り奪取し、戦力の拡充を図る。
アルトメリア支部の結成以降支援は行われているが、正規軍も満足に補給が受けられない現状、彼らに充分な武器弾薬があろうはずもなかった。
イェリコを撃墜した88mm高射砲は虎の子であり、しかも正規軍の注意を引かないために捨て置いて撤収する必要があった。
即座に撤収する必要がなければそのまま接近してコアを回収する事もできたのだが、正規軍もそれほど鈍重ではない。下手な動きをすれば爆撃されかねない。
「……こちらロナ、捜索を開始します」
もう間もなく夜が明ける。正規軍から奪ったケッテンクラートの車上で通信機にささやきかけ、夜通しアイドリングさせていたエンジンの回転数を上げる。
下手にエンジンを止めればオイルが固まって再始動できなくなる可能性があった。
腰を浮かせ、ステアリングに体重をかけながらクラッチペダルを踏み込み、ギアを一速に入れる。
お世辞にも体格が良いとは言いがたい彼女にとって、着座姿勢でのクラッチ操作には無理があった。
ケッテンクラートが調子よく進み始めた事に安堵しつつ、彼女は後部座席に積み上げられたツィー・ファウストの山が崩れていない事を確認した。
ただのMAIDが相手ならば―――命中までに数発を使う事を考慮に入れても―――当たれば一撃で片がつくだろう。
これほどの重装備で挑むのはあからさまなオーヴァーキルとしか言いようがない。
しかし相手は20回以上撃墜されてなお生還してきた化物なのだ。これくらいのハンディキャップがなければ、仕留めきれないかも知れなかった。
20回以上の被撃墜―――SS本部の記録によれば25回である―――の中には、幾度かの謀殺の企みも含まれていた。
黒旗がイェリコをつけ狙う理由は単純である。
彼女は彼らの信奉対象である
ジークフリートのスコアを脅かし、その存在価値を地に落とさんとしているからだ。
付帯的に言えば彼女が「この世の理を歪める怪しげな」空戦MAIDであり、
また明らかに過剰な火力―――身長の二倍という大物を担いだMAIDはそうそういるものではない―――を持っているという事もあった。
いずれにせよ、彼女は黒旗にとって目の上の瘤とでも言うべき存在となっていた。
しかも、とロナは思い返しつつ歯噛みした。
「あの白黒女……まだ私たちの存在に気がついてないんですよね……」
何より腹立たしい事に、イェリコはすべての陰謀を単なる敵味方の誤認だと思い込み、「よくある事だ」の一言で片付けてしまったのだ。
存在すら気付かれないとは……敵視されるよりも、あるいは無視されるよりもなお始末が悪い。
そのためにイェリコは黒旗のブラックリストの中でもかなりの上位に位置していた。
「まあ、今度こそ死んでもらいますし、今までの分はそれで精算って事で」
スロットルを開くと、無限軌道は振動を増しながらも速度を上げた。
今度こそ彼らは目的を達するだろう―――少なくともロナや、その上官たちはそう考えている。
彼女を含む一個中隊規模の装甲擲弾兵がイェリコを包囲し、圧殺せんと前進を開始していた。
それは、たった一人のMAIDを相手取るには過剰なほどの大戦力だった。
最終更新:2009年01月28日 00:38