(投稿者:神父)
時間とともに黒色から濃紺へ、そして藍色と変化してゆく空を見ながら、
イェリコは懐中時計を取り出した。
文字盤を覆うガラスにはひびが入っていたが、機能に支障はないようだ。ともかく時計を信用するならば、時刻は午前五時という事になる。
充分な休息は取れた。凍りついた地面が再び溶け出す前に移動した方が賢明だろう。
彼女は上着の前を開け、義翼を固定していたベルトを外すと背中に腕を回して残骸となった義翼を掴んだ。
もはや飛行の役には立つまいが、構造材を脚にくくりつければ義足か、最悪でも杖の代わりにはなる。
左脚で片端を踏みつけながら肋材を剥がしていく。
空を飛ばすために強度を犠牲にして軽量に作られているおかげで、半身不随も同然の彼女でも容易に解体できた。
上着のベルトを引き抜き、ジュラルミン材を右足にくくりつける。二本もあれば体重を支えきれそうだ。
「さて、これで帰れるが……」
樹上を見上げる。FlaK18は相変わらず枝に引っかかったまま、冷たく曙光を反射していた。
あれの回収には時間がかかる、今のうちに少しでも移動した方が……。
彼女はしばし逡巡したが、野戦用の食事キットからちっぽけなナイフを取り出して木へ歩み寄ると、その幹に突き立てた。
仮にも陛下に賜った兵器である。回収できる状況で捨て置いてよいものではない。
それに、帰投中にGと遭遇する可能性もある。今頃は捜索部隊も出ているだろうが、それでも火力は多いに越した事はないのだ。
「……堅いな」
せいぜいが肉を切り分ける程度にしか使われない食事用ナイフである。
MAIDの手に握られていると言っても樹木が相手ではそう簡単に切れるはずもないし、右腕には相変わらず力が入らない。
彼女は大樹を前にした樵のごとく、地道な戦いを始めた。
午前七時。ロナに与えられた懐中時計はそう表示していた。
死体から回収してきたものではない事を何度も何度も確認してようやく受け取った代物である。故障するような事もあるまい。
薄く凍結していた地盤は早くも泥濘化の傾向を見せ、彼女はこの上を歩かされるような破目にならない事を祈った。
「奴……れは……見……ぞ!」
通信機がノイズ混じりに兵士の興奮した声を伝えた。
運転席から手を伸ばして音量を上げると、別の兵士の声が入った。
「あれか! いいぞ……よく見つけた。座標は12D-E、やや西。距離800……接近する」
狙撃兵がいれば距離800m程度からでも始末できるが、対G戦闘を念頭に置いた装甲擲弾兵は比較的近距離向けの装備しか持っていない。
Gew42半自動小銃やStG45突撃銃、あるいはロナも持っている
UzF150など、制圧火力を重視しているためだ。
「白黒女め、年貢の納め時だな。何をしてるんだか知らんが、木にもたれて虫の息だ」
誰かの言葉に、複数の笑いが起こる。今まで煮え湯を飲まされてきた相手だけに、打ち倒せるとなれば喜びもひとしおなのだろう。
しばし無限軌道が泥を噛む音が続いた後、充分に接近したという知らせが入る。ロナは後詰めとされている。
MAIDにはMAIDをけしかけるのが効果的だろうが、彼らは確実性よりもMAIDをいたぶる機会を取ったのだ。
「距離200。第三分隊、奴を無力化しろ。手足を狙え」
「殺すなって事ですか? あんな片輪のMAID、ガリア妻にしたってろくな値段にゃなりませんよ」
「案ずるな、それ以外にも使い道はあるもんだ。そら、やるぞ……」
初弾はイェリコの左肩を食い破った。
高初速の7.92mm弾はフライトジャケットに覆われた身体を貫徹し、彼女の目の前の幹に血糊を撒き散らした。
「な……」
何が起こったのか理解する間もなく、次弾が飛来した。
Gew42の利点は旧来のボルトアクション・ライフルに比べて時間当たり火力を稼げるという点にある。
しかし射撃精度においては若干劣る。しかも森林の中での射撃は木の枝で弾道がずれやすい。
7.92mm弾はそれほど弾道が跳ねるわけではないが、それでも致命的な打撃を回避するには充分だった。
小弾雨は左腕の肉を削ぎ落としながら飛び去り、そこで初めて彼女は自分が何者かに狙われている事に気付いた。
彼女は弾の飛んできたであろう方向、背後へと叫んだ。
「何者か! こちらは
帝都防空飛行隊隊長、イェリコだ! ただちに射撃を中止されたい!」
返答はない……いや、あった。山中の静けさの中、弾帯を装填し、カヴァーを閉じるラッチの音が。
イェリコはとっさに伏せ、そしてそれが彼女の命を救った。
聞き間違えようもない骨切り鋸……
MG42-45Vの絶叫が一面に轟き、彼女が切ろうとしていた木の幹がへし折られた。
大音響と共に巨大な高射機関砲が落下する。
あちこちで木の倒れる音が響き、射線を遮った。重機の叫びが途切れ、それに代わって罵声が近付いてきた。
「分隊支援火器……! くそっ、あの馬鹿どもは何を考えているんだ!」
とめどなく血を流す左肩を放置して、怒りに任せて振り返る。しかし、今の銃撃の拍子にFlaK18が落ちてきたのはありがたい。
もし相手が部隊ごと錯乱していて殴り倒さなければならないとしたら、何にせよ武器はあった方がいい。
……できれば
ハルキヨが使っているようなスコップがあればいいのだが、贅沢を言える状況ではないだろう。
機関砲へと這いより、半ば縋りつくようにして体を支え、作動をチェックする。……機関部はきちんと動作するようだ。
砲身が多少曲がっているだろうが、どうせ威嚇射撃程度にしか使わないから問題はあるまい。
「観念しやがれ、女ぁ!」
機関砲を点検している間に、気の触れた分隊は随分と近付いていたらしい。
着剣したGew42を振りかざした兵士が二人、彼女へ向かって銃剣を突き出した。
彼女はかろうじて突きをかわし、明らかにMAIDである姿を視認してなおも攻撃をやめようとしない二人を怒鳴りつけた。
「貴様ら、ふざけるのも大概にしろ! それともその汚い尻をサクリン島辺りまで吹き飛ばされたいか!」
息を荒げて怒鳴るイェリコに、兵士たちは薄笑いを浮かべて銃剣を引っ込めた。
しかし、明らかに彼女に好意的な様子ではない。事ここに到り、彼女は何かがおかしいと気付き始めた。
「……貴様ら、何がおかしい? 仮にも味方を銃撃しておいて謝罪のひとつもなしか?」
二人のうち、上の階級と思しき兵士が口を開いた。
「イェリコ、お前は我々軍事正常化委員会によって削除される。おめでとう」
「……? 今、なんと?」
突然の宣告に、イェリコには状況が理解できなかった。もう一人が口を挟む。
「伍長、さっさと片付けましょうよ。前ん時は慎重にやりすぎたおかげで片割れしか殺せなかったじゃないですか」
「まあ待て、協力的になってくれればそれだけ仕事もやりやすくなる」
「片割れ……貴様ら、何を言って……」
「あいつ、なんて言いましたっけ? エなんとか……ああそうだ、エリノルだ。惜しかったですよねえ、Gに喰われちまって」
「エリノルだと? 貴様、今、エリノルと言ったのか?」
放心気味だったイェリコのまなじりがつり上がる。今の言葉は決して無視できるものではなかった。
「はん、今更気付いたのか? そうとも、お前の大事なウィングマンは俺たちが殺したのさ。
実際のとこ、お前の方が目当てだったんだけどなあ。まいいさ、もうちょっとで後を追え―――」
その歳若い兵士は挑発の言葉を言い終える事ができなかった。彼はあまりに軽率に過ぎた。
そして、当然の結果として、隣にいた伍長も側杖を食った。
「―――貴様らが」
彼らの首はありうべからざる方向へと折れ曲がっていた。
破片の突き立った右腕、銃弾に射抜かれた左腕、その両方を激怒が衝き動かし、二人の首を絞め、へし折ったのだ。
「貴様らが殺したのか。そうか、道理でおかしいと思ったよ。私はともかく、あのエリノルがGごときに後れを取るはずはないからな」
エリノルが死んだあの日、彼ら、すなわちロッテ1はいつも通りに対地支援を行い、そして
フライやドラゴン・フライの迎撃を受けていた。
イェリコは対地攻撃に専念するあまり、いつの間にかエリノルがいなくなっている事に気がつかなかった。
彼女はドラゴン・フライの尾に殴打されて墜落し、そしてエリノルは……ついに発見されなかった。
残された認識票とおびただしい血液から、彼女は死んだと判断された。
何故エリノルが死んだのか、もっと背後に注意を払っていれば助けられたのではなかったか。
長らく彼女を悩ませてきた疑問が氷解したのだ。今や彼女は完全に冷静で、薄く笑みを浮かべてすらいた。
彼女はこわばった死体をその場に捨て、FlaK18と弾薬箱を担ぎ上げた。榴弾と徹甲弾を両側に装填する。
「蛆虫ども。貴様らには教育する価値もない」
もし彼女の瞳を見る者があれば、血液の代わりにエチレングリコールの流れる人型機械だと言われても信じただろう。
憎悪の段階を過ぎた殺意は、冷徹で強固な意思となる。
そして今、イェリコはその暴威を人間に向かって解き放たんとしていた。
何の前触れもなく、木々の隙間を通して発砲焔が見えた。
ロナは思わず座席から立ち上がりかけ、一拍置いて轟いた炸裂音に身をすくめた。
あれは明らかに擲弾兵の火器ではない。イェリコの高射砲だ。
立て続けに六発、一瞬の間を置いてからさらに六発の砲声が響き渡り、通信に怒声と悲鳴が混じった。
「奴……あ……まだ……があッ!」
「退避……の……、ッ」
「落ち着……飛べないひび割れ……ごとき……」
徹甲弾が木々を貫き、通信機の向こうにいる誰かを吹き飛ばした。
彼方で火の手が上がる。兵員輸送車を直撃したのだろう。
焔は瞬く間に木々に燃え移り、いまだ氷点付近にあった山中の空気は突如として熱せられた。
「あ……あの女……ッ」
ロナは恐怖に駆られ、、500mの彼方にいるはずのイェリコの姿を確かめようと目をすがめた。
MAIDの視力をもってしてもこの距離、この状況下で対手が見えるわけはない―――しかし、ロナは確かに見た。
冷厳な怒りと明確な殺意に煌々と輝くイェリコの目と、もはや指一本動かす事も困難なはずの両腕に携えられた暴力の、その砲口を。
その目を見た瞬間、ロナは背筋に凍りついた槍を突き立てられたような気がした。
ロナは初めて、彼女が阿修羅爵と呼ばれている理由を知った。
最終更新:2009年02月16日 01:23