第十回十字軍

第十回十字軍

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 第十回十字軍(英: 10th Crusaders)とは、統一暦137年からローマ・カトリック教皇と神聖ローマ皇帝エリック1世によって開始された聖地奪還戦争である。先に復古した神聖ローマ帝国を含め、欧州の国家を巻き込む一大戦争となった。


        目次
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 1. 背景
 2. 開戦後の経過
  2-1. 緒戦とレグルスの攻勢
  2-2. イェルサレム戦線
  2-3. 一時休戦
  2-4. 奇襲攻撃と再戦
 3. 終戦と講和
 4. 影響
 5. 関連項目
 6. 参考文献
第十回十字軍
▲アナトリア半島に到着した皇帝エリック
交戦勢力
神聖ローマ帝国  
イェリング朝シェラルド王国
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レグルス第二帝国
イズミル大公国
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オラニエ朝ヴァルキア王国
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ザクセン朝スミトラント王国
モレラ共和国
 
 背景
 統一暦132年にシェラルド王国との同君連合を解消したレグルス第二帝国は、同時に国内のシェラルド軍の掃討を開始した。ほぼこの目的は達成されたものの、聖地イェルサレムから一大港テルアビブまでの強固な防衛線を破ることはできず、レグルス第二帝国の腫瘍のように残っていた。

 この中発生した第二次東地中海戦争において、イェルサレムはレグルス軍に対する大きな障害となった。アナトリア軍との挟撃により一時窮地へと追いつめるが、戦線安定後はレグルス軍余剰戦力がイェルサレム軍方面に展開されたため、本来の防衛線まで撤退し、このまま残ることとなった。

 統一暦135年、第二次地中海戦争でイェルサレムの戦略的価値が高まったことを受け、レグルス第二帝国政府は奪還を模索。シェラルド=イェルサレム軍占領地域を封鎖し、シェラルド王国に対して撤退を要求した。しかしシェラルド王国はこれを黙殺、イェルサレム救援艦隊および輸送機によって物資支援をおこなった。封鎖したレグルス軍との戦闘は海空合わせて幾度も発生し、イェルサレム駐屯軍の充足率も下がり始めた。

 イェルサレムを明け渡す気配のないシェラルド王国に対し業を煮やしたレグルス第二帝国上層部はシェラルド王国に対して宣戦布告した。これに対しシェラルド王国は聖地イェルサレムの維持のために神聖ローマ帝国諸邦および教皇に対し十字軍を要請、ただちに受理されると一路アナトリア半島へと向かった。

 
 
 開戦後の経過

緒戦とレグルス軍の攻勢

 戦端はアナトリア半島で開かれた。不休でアナトリア半島に進軍した神聖ローマ連合軍は国境付近でレグルス軍と会敵、戦闘が発生した。昼過ぎに発生した本戦闘では、主力軍同士が激突することとなった。西部方面においては主力軍同士が先頭をおこなう一方、東部方面ではイズミル大公国を筆頭とするアナトリア諸侯軍とアルメニア辺境伯軍が支えていた。夕方に差し掛かったころアナトリア諸侯軍が瓦解し、東部方面の戦線が崩壊すると最左翼で戦闘を続けていたアルメニア辺境伯軍は包囲を逃れようと急に踵を返し撤退。撤退中に河に差し掛かった辺境伯は落馬、鎧に身を包んでいたこともあり溺死する。指揮官を失った辺境伯軍は散り散りに撤退した一方、西部方面の皇帝エリックにも辺境伯死亡の一報が届けられた。これに皇帝は混乱し、精彩を欠いた指揮により全軍が一時撤退することとなった。さらに日が暮れると、レグルス軍は後方の十分な火力支援によって縦深作戦を展開。一部が突破されたものの、準備の整っていない神聖ローマ連合軍の陣形は縦に長く、突破されることなく撤退に成功した。

 一時撤退した神聖ローマ連合軍は態勢を立て直すことを目指すが、その度にレグルス軍が襲来し、被害を次第に増やしながら更に奥地へと押し込まれていく一方であった。しかしレグルス軍も山地であるアナトリア半島において150個師団を投入しており、補給線が限界を迎えるのが早かった。ここで両軍は睨み合いを始めることになる。



イェルサレム戦線

 一方で、より地獄の様相を呈したのがイェルサレム戦線である。レグルス軍は当初、イェルサレム戦線は縦深作戦をもってすればほんの2、3日で陥落するだろうと考えていた様子だが、イェルサレム防衛隊は必死の抵抗を開始した。既にシェラルド本国の潤沢な物資・資金援助によって充分な防衛線と兵器を仕入れていた防衛隊は、レグルス軍火砲をかろうじて耐え抜くことになる。楽観しながら進軍するレグルス軍に対し、これを撃滅せんと防衛隊が抵抗を見せる。イェルサレム・テルアビブ以外の中小都市はほぼ即座に陥落したものの、テルアビブでは休戦の少し前まで、イェルサレムでは休戦までの間耐え抜くことになる。防衛隊はゲリラ戦を主体とし、進軍する歩兵および戦車に対しては携行対戦車ミサイルや機関銃陣地などで対応、火砲陣地に対しては別に編成された遊軍部隊が各個撃破するなど、楽観視していた上層部は面食らうことになってしまった。


一時休戦

 神聖ローマ皇帝とローマ・カトリック教皇は、乗り気でない姿勢を示していたスミトラント連邦王国のハインリヒ9世からさらなる戦力を引き出そうと考えていた。皇帝に指示を受けたローマ・カトリック教皇がハインリヒ9世に対し「破門」を突きつけると、しぶしぶ承諾して自ら第21近衛師団、第22近衛師団を率いて戦線へ出向いた。しかしこれは条件付きの出陣であり、教皇には「到着後1週間以内に外交的にイェルサレムの安全を確保出来たら、我々は十字軍から手を引かせていただきます」と伝えてあった。戦線到着後、白旗を掲げながら少数の部隊と共にレグルス領内に侵入、敵師団と遭遇した。上官に会う旨を伝えると、レグルス兵士はこれをしぶしぶ承認、日を置いて軍団長と対面することになる。軍団長とは穏やかな対面であったとされ、イェルサレムにおける異教徒の礼拝を認めることと引き換えにこれを軍としては承諾した。無事に休戦条約が結ばれるとスミトラント王とその派遣師団はドイツへと帰投した。この話を事前に通されていなかった皇帝はヨーロッパへと帰る義父を見て激怒したようであるが、同行した司教に諭され事なきを得た。一方レグルス軍ではいち軍団長の方針で結ばれた休戦条約に対し強硬派が今こそ攻撃すべきと論じたが、穏健派がこの機に我々も体制を立て直すべきであると説得してこの条約を正式に認めることとなった。


奇襲攻撃と再戦

 休戦条約が非公式ながらも締結されたのちは、ほぼ戦闘が起こることはなかった。神聖ローマ側はイェルサレムへの空路による補給作業、アルメニア辺境伯死亡に伴う息子ジョスランの継承及び出陣、軍隊再編などに追われ、レグルス側も伸び切った補給線の改善、山岳型の師団に変更するなど、両軍ともに多忙に見舞われていたからだった。

しかし、その休戦も長くは続かなかった。というのも、アルメニア辺境伯軍の指揮を継いだ辺境伯ジョスラン3世が、勝手にレグルス側の補給隊に対して攻撃を敢行したのである。彼は血気盛んな男であったので、その危惧は神聖ローマ帝国内では騒がれていることであった。アナトリア半島でのバカンスを楽しみ始めていた皇帝エリック1世もこれには面食らって今度こそ怒りの表情をあらわにしながら「これは戦争再開になる」とつぶやき、全軍に対して攻撃命令を出すことになる。一方レグルス側では、補給隊の損失と敵軍の一斉攻勢に対し、休戦条約締結を推進した穏健派の立ち位置が危うくなっていた。これ以降は強硬派がこの戦争における主導権を握ることとなる。

この奇襲攻撃は当然レグルス軍をアラブへと追い返すことになった。アナトリア半島をほぼ回復し、この戦線を維持するための補給線も充分であったため、今度は旧国境付近での膠着状態へと場所が変わっただけであった。一方でアルメニア伯の勝手な行動が一番衝撃を走らせたのは当然イェルサレムである。防衛隊隊長を任されていたボードゥアンはイェルサレムにおける休戦期間延長を求めたが、ほぼ万全のレグルス軍に当然受理されるはずもなく彼らはまた補給のない状態でレグルス軍に対峙することとなった。


 
 終戦と講和

 イェルサレム戦線ではじりじりとレグルス軍が迫っていたもののアナトリア半島では両軍ともに消耗戦を延々と続けている状況が続いていた。双方とも疲弊し始めたところで中華の財政破綻が恐慌となって両国に波及してしまう。シェラルド・レグルスともに中華に対し7000億ドルの投資を行っていたが、この債権が回収不可能になったのだ。両国経済は破綻寸前になり、国民の間でも講和ムードが加速、そのまま結実する。

 講和会議は国境にほど近いアンティオキア(アンタキア)で、比較的スムーズに行われた。講和条件はいたって簡単で、ほぼ原状復帰で決定した。ただし神聖ローマ帝国側が少々不利であったこともあって、イェルサレム領が少しレグルス側に渡されることとなった。賠償金等は講和の原因から両国とも請求しないことになる(講和会議中、どちらも賠償金欲しさに双方が破格の賠償金を要求していたとの噂もある)。また、この講和条約では停戦期間が設けられ、今後6年間の不可侵条約も同時に締結された。


 
 影響
 影響は起こってるなうだよ
 
 関連項目

 ● 神聖ローマ帝国
 レグルス第二帝国


 
 参考文献

 ● 本間 煮阿点『神聖ローマ帝国の十字軍を見る』2015年、鷽矢出版
 ● 歳津世 羅馬「第十回十字軍再考論」軍事部大学文学部論文集『晴 Vol.65』所収、2019年6月、軍事部大学出版


最終更新:2020年09月17日 01:14