悪魔のささやき ◆RVPB6Jwg7w



  何かを望むなら、代価が必要。

  供物が多ければ多いほど、得られるものは、大きい。

  これは、普遍的な真実だ。








  「ドリンク、いかがですか?」







    *    *    *



「移籍……ですか?」


その日、事務所でプロデューサーとの合流待ちをしていた小日向美穂は、予想外の言葉に首を傾げた。
ソファの向かい側の席にいたのは、既に馴染みの事務員の1人。
黄緑の制服も眩しい、千川ちひろだった。
それぞれの前には、湯気を立てるマグカップ。
これを持ってきたということは、ちょっと腰を据えて話したい事があるということなのだろう。
そこに来て、この単語。
強張った表情を隠しきれない美穂に、ちひろは落ち着いて、とばかりに微笑んで見せる。

「あ、今すぐって訳じゃないですよ。
 というか、別に具体的な話があるって訳じゃないんです。
 それに、美穂ちゃんだけに限った話でもなくって……
 そうですね、これは所属アイドルに対する、ちょっとした意識調査みたいなもの、と思って下さい」
「はぁ…………」

一瞬身構えてしまった美穂は、溜息のような声を漏らして肩の力を抜く。
そんな美穂に、ちひろは自分の分のコーヒーで唇を湿らせ、言葉をつづける。

「それで、美穂ちゃん。
 もしこの先、なんらかのお話があったとして――
 『小日向美穂が欲しい』、という人が現れたとして。
 プロダクションの移籍や、プロダクションはウチのままでも、担当プロデューサーの変更とか。
 受けるつもりって、どれくらいあります?」
「ない……です……」

言葉は消え入りがちだったが、迷いなく即答だった。
少し上目づかいにちひろの顔をうかがいながらも、はっきりと言い切る。

「わたしは、今のプロデューサーさんのお蔭で、今の自分があると思っています。
 まだまだ学ぶことは沢山ありますし、とても、移籍とか考えられないっていうか……正直、イヤです」
「イヤ、ですか……うーん……」

ちひろは少し思案する素振りを見せる。
騒々しい事務所の一室、遠くで電話が鳴り、誰かがそれを取る。
電話越しに何か話している。
自分たち2人の話を気にしている者はいない。
考え込むちひろの沈黙に、美穂も不安になってくる。

「あ、あのっ……!
 こ、これって、プロデューサーさんがわたしのこと要らないとか、そういうことじゃ、ないんですよね?」
「ええ、そういうことじゃないんですよ。
 ただ事務所全体で、ちょっと所属アイドルの再編も考えるような時期でして……
 ほら、プロデューサーさんごとに、担当してる子の人数ってずいぶんと違うじゃないですか」

確かにそうだ。
同時に10人ほどの面倒を見てる人もいれば、ほとんど一人のアイドルにつきっきりの人もいる。
もちろんアイドルごとに事情は大きく異なるから、ある程度の差がつくのは当然でもあるのだが……
それでも、どうしても歪みというのは出てくる。
そして歪みは、何らかの形で直していく必要がある。

今まで、我が身に起こる話として考えたことはなかったけれども。
別の事務所への移籍は極端としても。
担当プロデューサーの変更くらいなら、美穂もすでに何例か見聞きしている、そう珍しくもない話だった。

「美穂ちゃんのところは、まあ、平均的ではあるんですけど……
 他のプロデューサーの調整の関係で、影響を受ける可能性がありますから。
 こう、玉突き式に、ね。
 それでこうして余裕のあるうちに、ちょっと聞いておこうってだけなんです。
 もちろん、美穂ちゃんの意志を無視して無理やり進めることはありません。そこは信じて下さい」
「そういうことですか」


懇切丁寧な説明に、美穂はホッと安堵の溜息を吐く。
どうやら、切羽詰まった話でも、断り切れない話でもないようだ。
ちひろが断ったように、あくまで、意識調査くらいの位置づけの話。
なら――心配することはなさそうだ。

デビュー以来、ずっと美穂を支えてくれたプロデューサー。
さきほどは『まだまだ学ぶことは沢山ある』と言ったが、それを抜きにしても、離れたくはない。


恋する乙女として。
1人の女の子として。
小日向美穂には、今のプロデューサー以外、ちょっと考えられない。


そんな美穂の心中をよそに、ちひろは一口コーヒーをすすると、軽く小首を傾げてみせた。

「ただ……美穂ちゃんは本当に、今のままが一番いいんでしょうか。
 事務所としては、その辺も気になっちゃうんですよ」
「それって――どういう、意味ですか」

「『小日向美穂』というアイドルは、『もっと上』を目指せる逸材なんじゃないか、って話です」

「え」

思わず声が掠れる。
しかしちひろは微笑みを崩さない。さらに畳みかけてくる。

「例えばそう、美穂ちゃんは、素質としてならFLOWERSの高森藍子ちゃんにも匹敵すると思っています。
 もちろん方向性は、少し違いますけどね」
「そんな……言い過ぎです」

たった半年ほどでスターダムに駆け登った、4人組アイドルグループのリーダー格。
シンデレラガール・十時愛梨とも並ぶほどの存在感を放つ、この事務所の出世頭の片割れ。
急にそんな大物と並べられて、美穂は戸惑う。
喜びよりも先に、困惑が来る。

「確かに美穂ちゃんの今のプロデューサーさんは、良いお仕事をしてくれています。
 特にデビュー前後の働きは、たぶん、彼ほど上手くやれる人はそういなかったんじゃないでしょうか。
 でも――
 そろそろ経験豊富な別の人に、バトンタッチしてもいいのかな? って。
 ドラマや演劇の方面に強いベテランの方は、何人もいらっしゃいます。
 美穂ちゃんさえその気なら、担当になりたいって人はいくらでも手を挙げるでしょう。
 きっと、選び放題ですよ?」
「…………」


ちひろの言葉に、美穂は下唇を噛んでうつむいた。
美穂とはそう年齢の離れていない、彼女のプロデューサー。
この業界では、まだまだ若手の部類。
まだまだ、経験不足。
ドラマに演劇にと活躍の場を広げつつある小日向美穂を、扱いきれなくなってきているのは否定しきれない。


彼のためにと頑張れば頑張るほど、彼の負担になりかねないという矛盾に、突き当りつつある。


彼のお蔭でここまで来れた。
彼への恩返しとして、一緒にさらなる高みに行けたらいいな、とも思っていた。
けれど、千川ちひろは、さらなる高みを目指すためには彼では足りないと言う。難しいと言う。
数多のアイドルとプロデューサーを間近で見てきた事務員の言葉は、重い。

「さっき名前を挙げた、高森藍子ちゃんですけど……
 彼女も実は、大ブレイクしたのは担当のプロデューサーさんが替わってからなんです。
 FLOWERSになる前を知る人は、あまりいませんけどね」
「…………」
「そういう例を、何度も見ているから――だから、つい、こんなことを言っちゃう訳ですけど」

しばしの沈黙。
事務所の喧騒が、どこか遠いもののような気がする。
美穂は両手で自分のカップを抱えるようにして、しばし悩んだ末に口を開く。


「……それでもわたしは、今のプロデューサーさん以外、今は考えられません。
 あの人を裏切って、わたしだけ先に進みたくは――ありません」

「『裏切る』ってのは違うと思うんですけど……。

 うーん、そうですねぇ。これは、『恋』みたいなものと思って下さい」

「――恋?」


ちひろの唐突な言葉に、美穂は心臓を鷲掴みにされた気がして、顔を挙げる。
まさかとは思うが、自分の秘めている感情を見透かされているのだろうか?
しかし、ちひろの表情に変化はない。
ちひろの表情からは、その真意が読めない。
相変わらずの調子のまま、ちひろは自説を披露する。


「そう、恋です。

 人は誰でも恋をしますし、でも、初恋が叶うことって正直、稀です。残酷なことですけどね。
 けれど、人は失恋を乗り越え、何度でも恋をします。
 何度でも、恋ができます。
 それって別に初恋を『裏切った』とかいう話じゃないですよね?」

「…………」

「女の子には『幸せになる権利』があって、だから何度でも恋ができるように……
 お仕事上の関係も、何度だって移り変わっていいんです。
 手続きさえちゃんと踏めば、別に不義理なことじゃないんです。

 初恋の思い出は、それはそれで大事にして構わないんです。
 むしろ、初恋のドキドキを覚えていればこそ、次の恋ができるんです。
 同じように、最初の志があればこそ、アイドルだって頑張れるんです。

 例えば藍子ちゃんだって、最初のプロデューサーさんとも、関係をこじらせたりしてません。
 会えば挨拶もしてますし、ちょっとした立ち話くらいはしてますよ。

 ただし――」


そこで彼女は一旦言葉を区切って、美穂の目を見つめ直して言い切った。


「ただし。
 それはあくまで『幸せになりたいと願うなら』――

 つまり、『アイドルとして高みを目指したいと願うなら』、という条件付きですけどね」


ニッコリ笑って、ちひろはマグカップ片手に立ち上がる。
彼女の視線を追えば、そこには事務所の扉を開ける、美穂の「今の」プロデューサーの姿。待ち人の姿。
ちひろは呆然とする美穂に向けて、悪戯っぽく微笑んだ。

「あ、今の話は彼にはナイショですよ。変なこと吹き込むな、って怒られちゃいますから。
 それから、別に今すぐでなくても構いません。どれだけ先でも構いません。

 ほんとうに、どんな状況になってからでも、構いません。

 でも、もしも『その気』になったなら、いつでも声をかけて下さいね。
 ぜったい、美穂ちゃんに悪いようにはしませんから!」

邪気の欠片も見えない、いつもの笑顔。
その笑顔が、逆に美穂には辛かった。



    *    *    *



千川ちひろとそんな会話を交わした、その翌日。
小日向美穂は、道明寺歌鈴と腕を組んで楽しそうに歩く、自らのプロデューサーの姿を目撃することになる。

それが大体、一週間ほども前のことだった。



    *    *    *



「――――ッ!!」

声にならない悲鳴を上げて、小日向美穂は跳ね起きた。
脂汗を滲ませながら、周囲をあわてて見回す。

周囲を取り巻く、円形のレンガの壁。
高いところにある、ドーム状の屋根。
広く空虚な空間には、牧草の1本も落ちてはいない。
そして……すぐ傍には、さっきまでの自分と同様、寝ている者が1人と1匹。

大の字になって小さなイビキを立てている日野茜と。
足を曲げて床に腹をつけ、ウトウトと大きな鼻ちょうちんを膨らませている、ブリッツェンだった。


ようやくにして、小日向美穂の記憶が現実に追い付いてくる。

そう、ここはサイロだ。牧場で見かけた一番手近な建物。
ふわふわの牧草のベッドを期待して入ってみたはいいけれど、中身はまったくの空っぽ。
実はこの種の塔型のサイロ、入れるにも出すにも手間だということで、最近はあまり使われないのだが。
頑丈過ぎて壊すのも手間、あればあったで観光用にもなると、放置したり転用したりといった例も多いのだが。
そんな事情を知らない2人(と一匹)は、大いに落胆した。

しかし2人とも、いい加減に疲れ果てていたのは事実。
遠くに見える別の建物まで、また歩いていく気力もない。
ひとまず日差しは避けられるし、次の放送の時間も近いし、ココで少し休んで、放送を聞いてから考えよう。
そう茜が提案し、共に床に腰を下ろしたところまでは覚えている。

どうやら、自覚以上に疲れ切っていた2人は、ついそのまま眠ってしまっていたらしい。

硬い床に寝ていたせいか、身体のあちこちが痛い。
茜もブリッツェンも、良く寝ていられるな、と美穂は呆れる。
というかブリッツェンはなんでこう一緒についてきてるんだろう。付き合う義理もなかろうに。

溜息をつきつつ、とりあえず美穂は時計を確認する。
……どうやら、少し寝過ごしたようだ。放送を聞きのがしてしまった。
重要事項は後から確認できるはずだから、まだいいにしても……

あんなイヤな夢を見てしまったのも、きっと、放送のせいだ。
寝ている間に聞いた音が夢の内容を左右してしまうような、たぶんそんな感じの――


「あ……。
 ゆ、夢……?」


そう――あれは夢。
過去のワンシーンを再現した、リアルな夢。

すっかり忘れていた記憶。
無意識のうちに封印していた会話。
翌日に見た親友と想い人の逢瀬の衝撃が強すぎて、深層意識によるブロック機構が働いていたのだろうか。

だって、あの時のちひろの誘いは。
2人の恋仲に気づいてしまった時点で、まったくその意味が変わってくる種類のものだったから――

今更ながらに、美穂の身体が震える。


恋の話。
女の子には幸せになる権利があるということ。
初恋が実ることなんて稀だということ。
次の恋を探すことは、決して初恋を裏切ることではないということ。
むしろ初恋のトキメキを知っていればこそ、次の恋もできるのだということ。

移籍の話。
美穂にはさらなる高みを目指せるだけの素質があること。
残念ながら、経験不足な彼の下ではこれ以上を望むのは厳しいということ。
担当を換えることで、さらなる先に進める可能性が十分にあること。
他ならぬFLOWERSの高森藍子こそ、その良い実例であること。
美穂さえ望むなら、ちひろたち事務所はそのバックアップを買って出るということ。

それは、つまり――


「わ、わたしに、『諦めろ』、っていうんですか――!?
 この気持ちを諦めて、それで代わりに、夢を掴め、って――!」


そして、さらに重ねて、この悪趣味なイベントだ。

高森藍子のような強さが美穂にないことは、嫌でも思い知らされてしまった。
塩見周子の救助待ち戦略がいかに頼りないものかは、彼女の命をもって示されてしまった。
なら、他に取れる道といったら――?!

「…………ッ!」

全て分かってしまった。
ポケットの中に入っている、強力で使いやすい毒薬の意味。
それが自分に――自分のように、誰からも無害と思われがちな印象の者に渡された意味。


それは千川ちひろからの、無言のメッセージ。

あの恋を諦めろ。
失恋を受け入れて、夢を選び取れ。
あらゆる手段を尽くして、己の意志を示してみろ。
首尾よく生き延びた暁には、ちひろたちは、小日向美穂の栄光を、全力をもってサポートし保障してみせる。


「あ……悪魔ッ……!」


それはまさしく、悪魔のささやき。
弱った心に忍び寄る、誘惑者の声。
条件が整った時に初めて効果を表す、遅効性の猛毒。


何より恐ろしいのは――それがあまりに、魅力的に聞こえてしまうこと。


もう自分の初恋には望みがない。
美穂だってそれくらいのことは勘付いている。
最悪の想像ではあるが、仮にこの場で歌鈴が「居なくなった」としても、彼は美穂を振り返らないだろう。
彼の傷ついた心につけこむような真似は、美穂だって望むところではない。
ならば美穂は彼の全てを諦めるしかないのか。
彼との出会い、彼と過ごした日々の全てが無価値だったと認めるしかないのか。
違う。


恋は実らずとも、彼と共に見た夢は、まだ、手が届く可能性が残されている。


アイドルとして成功する夢。
さらなる高みへと登っていく夢。
美穂を見出した彼の眼力が、美穂を育て上げた彼の実力が、正しかったと証明する夢。


彼の手元を離れたとしても、彼のことを肯定できる、そんな道。


そしてちひろは、それが可能だと断言する。
数々のスーパーアイドルを育て上げた事務所の実績をもって、不可能ではないと太鼓判を押す。
美穂がそれを望むのならば、今よりも高いところに連れていけると言い切ってみせる。

悪魔は決して、安易な嘘はつかない。
そこに悪意はあるかもしれない。
邪な意図もあるかもしれない。
けれど、契約だけは、何があっても裏切らない。


「…………ッ!」


美穂は両手で自分の身体を抱きしめる。
言いようのない寒気に、襲われる。

すぐ傍には、いまだに呑気に寝息を立て続ける、日野茜とブリッツェン。
枕替わりにしていた荷物の中には、鋭い草刈り鎌。
それはきっと、すごく簡単なコトだ。
あるいは血を見るのがイヤなら、ポケットの中の毒薬を使ってもいいだろう。
この状況下、目が覚めたら軽く食事でもしよう、という提案はそれほど不自然なものではないはずだ。

「わ、わたし、は……っ!」

言葉が出ない。
思考がまとまらない。
思わず、ごくり、と唾をのみ込む。


夢と現の狭間で、確かに聞いた気がする千川ちひろの言葉が、耳の中でリフレインする。


  『 それが例え人殺しでも、私は歓迎します! 』


  『 自分が信じる“希望”を持って、強く生きなさい。』


小日向美穂の瞳が、揺れる。



【G-6・牧場、サイロ内/一日目 日中】


【小日向美穂】
【装備:防護メット、防刃ベスト】
【所持品:基本支給品一式×1、草刈鎌、毒薬の小瓶】
【状態:健康】
【思考・行動】
基本方針:…………。
1:…………。
2:藍子の考えに嫌悪感。


【日野茜】
【装備:竹箒】
【所持品:基本支給品一式x2、バタフライナイフ、44オートマグ(7/7)、44マグナム弾x14発、キャンディー袋】
【状態:健康、熟睡中】
【思考・行動】
【思考・行動】
基本方針:殺し合いには乗らない!
0:美穂をどう励ますべきなのかが、わからない。
1:他の希望を持ったアイドルを探す。
2:その後藍子に連絡を取る。
3:熱血=ロック!


※2人のすぐ傍では、ブリッツェンも眠っています。
※2人とも、眠っていて放送を聞きのがしました。禁止エリアや死亡者リストもまだ確認していません。
 夢うつつの間に、断片的にその内容を聞いている可能性はあります。


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最終更新:2013年05月13日 07:39