KICKSTART MY HEART ◆n7eWlyBA4w
――その心臓に火を入れろ。
▼ ▼ ▼
昼過ぎの太陽が地上に降らす直射光が、路面に三人分の影を落とす。
だが、陰こそ三つでも、そこにいるのは四人。四人分の命が、今もなお道を急いでいる。
額を流れる汗を拭おうともせずに、ただただ前に足を進め続ける
向井拓海。
その背に負われ、未だ目覚めることなく、時折苦しげな呻きだけを漏らす
松永涼。
自分と拓海、二つのディバッグの重みに耐えながら、時折拓海達に不安げな視線を送る
小早川紗枝。
そして一歩遅れて、拓海の木刀をお守りのように胸に抱きながら必死に付いてくる
白坂小梅。
目指すべきは北西市街の救急病院。救うべきは重傷を負い気を失ったままの涼。
絶対に死なせはしない。絶望に抗って生きるという覚悟を見せた彼女を、絶対に助けてみせる。
彼女達の決意は固かった。確かな結束があった。だからこそ、行動を躊躇わなかった。
しかし、道のりは遠く、肩には命の重みがのしかかり、足は思うほど早く動いてくれるわけでもなく。
ただ想いだけで、軽々しく状況を覆すようなことができるというわけでもなく……。
▼ ▼ ▼
《――それでは、六時間後、また生きていたら、会いましょう》
その最後のフレーズが、未だに頭の中で反響している。
二度目の放送が八人の死を告げてからどれだけの時間が経っただろうか。
ろくに時計を確認する余裕もないまま機械的に一歩を踏み出し続けているせいで、時間の感覚が麻痺している。
いつになったら辿り着くのか、そもそもどこへ向かっているのか。それすら曖昧になりそうなのが恐ろしい。
(ふざけんな、アタシたちは助けるんだ……! それだけは見失ってたまるか!)
拓海は歯を食いしばって、自身の弱い考えを頭から叩き出した。
背中に今もずしりとのしかかる人ひとり分の重みが、拓海達の目的であり現実そのものだ。
拓海におぶられたまま未だ意識を取り戻さない彼女――松永涼が片足を失うこととなった、スーパーマーケットでの一件。
あれからきらりと別れた拓海、紗枝、そして小梅の三人は、涼を救急病院に搬送すべく道を急いでいた。
行きは自分と紗枝と涼、三人の足で歩いたこの道を、今は足を失った涼をおぶって、新たな同行者と共に三人の足で引き返している。
ほんの数時間前までは、こんなことになるなんて思っても見なかった。だが、これは確かに自分達の意志で選んだ道だ。
葛藤はあった。迷いもあった。しかし、この選択に後悔はない。自分達の心に従い、生きるために戦った。その結果だ。その心に嘘はない。
だからこそ、生きるためにあえて苦難の道を選んだ涼に、その魂に報いなければならない。絶対に助けるんだ。絶対に、絶対に……
(……だからなんでそんなこと、自分に言い聞かせてんだよアタシは……!)
拓海は自分自身の考えに舌打ちをした。
本来ならば考えるまでもないことだ。涼を助ける、その目的がぶれることなどありえない。
どうやら思った以上にナーバスになってしまっているのかもしれない。冗談じゃない、そんな向井拓海は願い下げだ。
こんなザマでは、涼にも、小梅にも、そしてずっと行動を共にしてくれている紗枝にも示しが付かないじゃないか。
拓海はその紗枝の横顔をちらりと盗み見た。
最初こそは、いつものはんなりとした口調でまだぎこちない拓海と小梅の間を取り持っていた彼女だが、
今はほとんど言葉を発することなく、ただ黙々と歩みを進めている。
流石に延々と続く道中で話題が枯渇してしまったか? いや、きっとそうではない。
あの放送が、何か紗枝の心に影を落としているのだろう。ほとんど直感だが、拓海はそれが間違っているとは思わなかった。
誰か友人が死んだのかもしれないし、そうではないのかもしれない。少なくとも紗枝から知り合いの話を聞いたことは無い。
ずっと一緒にいるような気がするが、拓海は紗枝のことを思ったよりも知らないということに改めて想い至った。
いつも一歩引いたところから、しかしすぐそばで自分を支え続けてくれた、小柄な体躯に見合わないほどの意志の強さと気丈さを持つ彼女。
そんな紗枝が今も心を痛めているのなら、なんとか支えになってやりたい。
彼女が拓海の側にいてくれているように、拓海も紗枝の背負うものを分かち合いたい。
(とはいえ、あいつがそれを表に出さないっていうのなら、アタシが詮索することじゃねえか……)
それは諦めではなく、尊重だった。
少なくとも、この地獄の半日を共に過ごす中で紗枝の人格は理解してきたつもりだし、信頼があるからこそ拓海は踏み込まなかった。
彼女が彼女なりの考えであえて弱さを見せまいとするのなら、今の拓海に出来ることはその気持ちを汲んでやることだけだ。
だから待つ。彼女が自分の内面を打ち明けてくれる時を。もちろんその時まで絶対に死なせたりはしない。
そう思えるぐらいには、拓海にとって紗枝の存在は大きく、そして確かなものになっていた。
むしろ拓海にとって未知の存在なのは、二人の後を一歩遅れて付いてくる新たな同行者だ。
白坂小梅は、あれ以来ほとんど自分から口を開くことなく、拓海の(正確には拓海が背負う涼の)背中を追いかけている。
紗枝に話しかけられた時はおどおどした口調ながら答えていたが、どうも拓海に対しては萎縮してしまっているのか、
未だに会話は長続きせず、お互いに距離を測りかねている感じがあった。
見た目やイメージで敬遠されるのは正直言って慣れているので別に傷つくわけではないが、いつまで経ってもこれではやりづらい。
その小梅だが、どうも見るたびに顔色が悪くなっているように思える。いや、少なくとも気のせいではない。
もともとあまり活発なタイプではないようだし、この半日の強行軍で疲弊しているのかもしれない。それはあるだろう。
だが、それが全てではない。もっと重大な理由を、拓海は知っている。
紗枝だってそうだ。口数が減っているのは、放送だけが原因ではないのは間違いない。
こちらに向けられる不安げな視線、その頻度が事実を物語っている。
そして、他ならぬ拓海が誰よりもその事実を理解している。
だからこそ、こうして焦りを感じている。焦りだけが、今もなお肥大し続けているのだ。
耳元で規則的に響く荒い吐息が、ジャージに染みこむ脂汗の雫が、気のせいではなく上昇しているように感じる体温が。
それら全てが、拓海達をじわじわと追い詰めている。
そう、それはもはや誰の目にも明らかだった。松永涼の容態は、確実に悪化している。
足一本を失い、ろくに手当ても出来ないままこうして負担の掛かる長距離移動を敢行しているのだ。
客観的に見ても、体調が安定するというほうが自然の摂理から反している。
だが、それでもこうする以外にはどうしようもないのだ。北東市街のドラッグストアは禁止エリアで封じられているし、
有り合わせの物品だけで適切な処置ができるほど拓海たちは医術に長けているわけでもない。
彼女を救うための唯一の選択肢。それが彼女の肉体を消耗させ続けている。
いや、消耗するだけならいい。よくはないが、まだマシと言える。
もしも、この傷跡からバイ菌が入って、何かの感染症に掛かったりしていたら。想像するだに恐ろしい。
そして何よりも恐ろしいのは、そういった悪い想像を打ち破るためにできることが、ただ前に進むだけだということだ。
(仮に病院に辿り着いたとして、涼が保っている保証はねえ……! クソッ、どうする? どうしたらいい!?)
考えたところで答えは出ない。足を動かす以外に術はない。
それがどうしようもなく歯がゆくて、拓海は涼の体重を全身で支えながら目を伏せて歩き続けていた。
「っ……! 向井はん、あれ!」
だから紗枝が突然声を上げるまで、拓海はその施設のことをすっかり忘れていた。
確か前回にここを通った時は、直後に北東市街から立ち上る火の手に気付いたせいでろくに調べないまま通り過ぎたのだ。
印象に残っていないのも、ある意味では当然かもしれない。
真昼間から煌々とネオンをギラつかせている、アメリカンスタイルのありふれたダイナー。
しかしそれは今の拓海たちにとって、砂漠のオアシスも同然だった。
▼ ▼ ▼
ボックス席のテーブルの上に、涼の体を横たえる。
サラシで締め付けて止血しただけの痛々しい傷痕が視界に入るが、しかし目を逸らしてもいられない。
ずっと背負い続けていたせいで久々に涼の姿を直接目にした拓海は、思わず呻いた。
「まずいな、こりゃ……」
思った以上に顔色が悪い。呼吸も荒く、どこか不規則にすら感じる。
全身にはびっしりと珠のような汗が浮かび、衣服が肌にぴったりと張り付いてしまっているほどだ。
そのうえ、恐れていた通り、発熱しているのは気のせいではなかった。体力を消費したせいでの一時的なものだと信じたいが。
拓海自身もまた嫌な汗が首元を流れ落ちるのを感じていた。
これは、まずい。担いでいくなんて無理だ。これ以上無理はさせられない。させるわけにはいかない。
「確かにこのまま、病院まで連れて行くわけにはいきまへんなぁ……」
「そ、そんな……! りょ、涼さん、助けるって……!」
拓海と同じことを考えていたであろう紗枝の深刻な声色に、小梅が裏切られたとでも感じたのか悲痛な声を上げる。
だがこれ以上の強行が涼にとってよくないことぐらい小梅にだって分かっているだろう。だからこそ焦っている。
そして焦るだけではどうにもならないからこそ、気持ちだけがぐるぐると回っている。
それは恐らくは紗枝も、また拓海も同じだった。
「見捨てるわけねえだろ。何か、これ以上涼に負担かけねえで済む手を考えねーと……」
「た、助けられる……?」
「助けるさ。こうして目の前にいるヤツの命ぐらい、助けられないなんてことがあるもんかよ……!」
そうだ。考えろ、考えろ、考えろ。
いつも考えるより先に体を動かしてきた自分だが、今だけは頭から動かなきゃいけない時だ。
苦手だからと甘えて、それで片付く問題じゃない。自分の弱点から目を逸らして、仕方ないと言えるわけがない。
拓海は自分のお世辞にも自慢とはいえない脳を叱咤して、打開策を必死に探す。
例えば、そう、目的地を変更するという手がある。
病院に連れてくのを諦めて、このダイナーの備品で介抱するか?
そうすれば涼の容態も少なくとも一時的には持ち直すかもしれない。このまま無理な移動をするよりは体に良いだろう。
しかし、それはただのその場凌ぎでしかない。まだ調べてはいないが、あくまで料理屋程度の設備でしかないここでは。
清潔な水ぐらいはふんだんに手に入るだろうが、今よりはまだマシというだけでは心許ないにも程がある。
結局最後に待っているのは、想像したくもないような最悪の結末。
行き先を変えるにしても、この付近の地図には他に施設らしい施設は載っていない。
もっとも全ての建造物が地図に載っているわけではないだろうが、そんなあるかどうかも分からないものを探しにいくなど、
砂漠で古代文明人が落とした針か何かを探すようなもの。それは冒険ではなく、無謀などと呼ばれるものだ。
やはり病院に行かなければ何も始まらない。しかしどうやって涼を連れて行く?
自分の体力には自信があるとはいえ、流石に涼を背負ったまま全力疾走で何キロも走れる自信はない。
認めたくはないが、道のりのちょうど半ばに辿り着いた今でさえかなりの体力を消耗してしまっている。
今以上に移動速度が落ちてしまうだろうことは間違いない。
紗枝に手伝ってもらうという手もなくもないが、二人で担ぐとすると今度は別の問題が立ちはだかってくる。
体格に差がありすぎるのだ。十センチも身長が違えば、左右から支えるだけでも一苦労となってしまう。
そもそも涼の体調があの調子では、運び方如何でどうにかなる問題でもないだろう。
考えが完全に袋小路に嵌ってきてしまっている。
必要なのはブレイクスルー。この手詰まりの現状を根っこからひっくり返せる何か。
そう、例えば他の移動手段があれば、話は変わってくるのだが……。
俯いて堂々巡りの思考を巡らせる拓海の隣で、紗枝がぽんと掌を打ち合わせた。
「そう言えば、表に車が停めてありはりましたなぁ。あれ、動かないやろか」
「……なんだって?」
紗枝のつぶやきにハッとして、拓海は顔を上げる。
車……そんなものがあっただろうか? 涼を担ぎ込むのに必死で、見落としていたのか?
いや、あった、確かにあった。見るからにオンボロでサビだらけの、白い軽トラが。
確か店の脇の駐車場に放置してあったはずだ。あまりに風景に溶け込んでいて逆に見落としていた。
考えもしなかったが、動かせるのだろうか。キーとガソリンさえ入っていれば、あるいは。
もしも動かせるなら……これまでの前提が全てひっくり返る。
すなわち、涼を救うための、ブレイクスルーだ。
「アタシは単車の免許しかもってねえが、単純に動かすだけならできないことはねえだろう。
涼を荷台に載せれば、背負っていくよりは負担をかけずに早く着くだろうし……。
それでも駄目そうなら、アタシだけが病院まで往復して必要なもん取ってくるって手もある……!」
頭の中でピースが音を立ててはまっていく。
調べてみないと分からないが、これこそが今思いつく唯一の打開策だ。
賭けてみるしかない。
駄目なら他の手を考えなければならないが、どちらにしろ確かめなければ動けない。
「ありがとな、紗枝。決まりだ、アタシはあのオンボロが動くかどうか調べてくる。
人ひとりの命が懸かってるんだ。動きそうになきゃ、蹴飛ばしてでも動かしてやるよ」
希望が全身に充足していく感覚。まだ皮算用に終わる可能性もあるとはいえ、価値のある賭けだ。
拓海は腰掛け代わりにしていたテーブルから、弾みをつけて立ち上がった。
「ほな、うちはお昼の用意でもしてきますわ。腹が減っては戦は出来ぬ、言いますからなぁ」
紗枝もまた今後に少なからず希望が見えたのだろう、心なしか固さの取れた表情でそう言う。
拓海は視線を合わせて頷いた。
「ああ、台所は頼んだ。支給の食料じゃあどうも力出そうにねえしな」
「ふふ、なら腕に寄りをかけんとあかんかなぁ」
紗枝が微かに笑うのを見て、拓海は少しだけ安堵した。
彼女には頼りっぱなしだが、あまり根を詰めるところは見たくないから。
そして、もう一人。
小梅は、所在無さげにおどおどとしながら、何をすべきか図りかねているようだった。
拓海と視線が合うと一瞬びくっと震え、それから縋るような目を向けてきた。
だから、拓海は何か小梅に役割を与えてやろうとした。少なくとも、与えようとした。
そうしようとしたのだ。きっと、何か役目があれば、安心するだろうから。
何かに打ち込んでいれば、不安を忘れられるかもしれないから。
しかし、実際に拓海の口を突いたのは、もっと漠然とした、だけど重みを持った問いかけだった。
「お前は、これからどうしたい?」
なぜ自分の口からそんな言葉が出てきたのかは、拓海自身にもわからなかった。
本当に自分がそう言ったのか、直後にはピンと来なかったほどだ。
今、小梅に適当に指示を与えれば、小梅はその通りに一生懸命頑張るだろう。
小梅とはまだ短い時間だけしか一緒にしていないが、彼女の健気さに関しては漠然と理解していた。
だけど、いや、だからこそ。彼女の一生懸命さを分かっているからこそ。
拓海は、小梅自身の口から、想いを聞きたかったのかもしれない。
彼女が涼のパートナーだというのなら、その想いを彼女の言葉で。
白坂小梅の、本当の意志を。
予期せぬ質問に虚を突かれたのか、小梅はその視線を忙しげに左右に彷徨わせた。
その同年代と比べても明らかに小さい体を小動物のように震わせて、なんと答えるべきか迷いながら。
それでも、最後には拓海の目を見据えて、彼女は――
▼ ▼ ▼
まだ、殺し合いなんてホラー映画の中の出来事でしかなかったあの頃。
仕事終わりに事務所で、前から見たかった映画を涼と二人で見た時のことだ。
見たかったとはいっても、小梅自身はもう何度も見たことのある映画。
それでも楽しみで仕方なかったのは、それを初めて涼と一緒に見るからだ。
自分の好きなものを一緒に分かち合ってくれることが、本当に嬉しくて、嬉しくて。
自分をそうやって受け入れてくれる彼女の存在が、小梅にとって本当に幸せで。
だから二人で過ごす時間は、小梅にとって本当に掛け替えのないものだった。
ラストの急転直下のどんでん返しが終わり、スタッフロールに突入したのを見計らって、小梅は席を立った。
涼の方をちらりと見ると、どうも予想外過ぎる結末に放心しているらしい。
小梅のお気に入りの映画だけに、驚いてくれているのは自分のことのように嬉しかった。
既に他の人が帰ってしまい所々電気の消えた廊下をトイレ目指して歩く。
怪談では定番のシチュエーションだが、それだけに小梅には耐性のある状況だ。
特に怖がるでもなくドアを開けて入り、済ますものを済まして外に出る。
だけど、そこにさっきまではいなかったはずの人がいたのには心臓が跳ね上がった。
「ずいぶん遅くまで見てたのね。映画、面白かった?」
彼女こそなんでこんな時間まで事務所に残っていたのだろう。
小梅が知らなかっただけで、いつもこんなに遅くまで仕事しているのだろうか。
そんな疑問が生まれたが口には出さず、小梅はただこくこくと頷いて問いに答えた。
ちひろはそんな小梅を見て微笑み、口を開いた。
「本当に仲がいいのね、涼ちゃんと小梅ちゃん。いつも一緒にいるみたい」
「……? あの、えっと」
言わんとする意味がよく分からない。
なんで今、呼び止めてまでわざわざそんな話をするのだろうか。
確かに涼は今の小梅にとって大事な人で、こういうのをきっと仲がいいというのだと思うけど。
でも、それが一体なんだというのだろう。
しかしそんな不信感は、ちひろの次の言葉で吹き飛んだ。
「――ねえ、小梅ちゃん。もしも、涼ちゃんと離れ離れになるとしたら、小梅ちゃんはどうする?」
「……っ!?」
「もしもある日突然、独りぼっちになっちゃったとしたら。誰も小梅ちゃんを助けてくれないとしたら」
いつもの温和な雰囲気とはどこか違う口調で、淡々と言葉を口にするちひろ。
その唇から零れた仮定は、小梅にとって恐怖以外の何物でもなかった。
ただの喩え話だと頭の片隅では分かっているのに、それでも考えたくないほど恐ろしい仮定。
「や、やぁっ……やだっ、一人はやだっ、涼さんと離れ離れはやだっ……!」
ホラー映画を見ている時は何ともなかったのに、体がぶるぶると震え、目には涙が滲んでくる。
なんでちひろはそんな酷いことを言うのだろう。
涼さんはずっと一緒にいてくれるはずなのに。そのはず、なのに。
「ごめんね、怖がらせちゃったかしら?」
いつの間にかちひろは元の雰囲気に戻っている。それとも気のせいだったのだろうか。
まだ涙目の小梅に向かって済まなそうな表情を浮かべながら、彼女は最後に一言だけ付け加えた。
「でもね、これだけは覚えておいて。いつか、自分だけでどうするか決めなきゃいけない時が来るってこと。
その時、小梅ちゃんはどうするの? 何を選ぶのか、それとも選べないのか……なんてね」
それから「気をつけて帰ってね」などと大人らしいことをいくつか言って、ちひろは立ち去った。
小梅はしばらく放心したように立ち尽くしていたが、はっと我に返って涼の待つ部屋に戻った。
涼は小梅の青ざめた顔を見て何を勘違いしたか、まだまだ子供だなと笑っていたけれど。
小梅の中では、さっきの言葉がぐるぐると回り続けていた。
とはいえ、次の日からのちひろは今まで通りで、あの日のことは変な夢だったように思えて。
そのうち小梅は、そんなことがあったなんてことは忘れつつあった。
そう、今日までは。
殺し合いの中に投げ出された。
今まで作り物の中だからこそ楽しかった血と死の世界が目の前に広がることに、心の底から恐怖した。
そして、あの日のことを思い出したのだ。
だから本当は涼に助けて欲しくて、守って欲しくて、大事にして欲しくて。
なのに、信じ切れなかった。涼も自分を見捨てるんじゃないか、そう思ってしまった。
ちひろが言う離れ離れになる日が、とうとう来てしまったのかと思った。
そして、それから。
幾人ものアイドルと、小梅は出会った。
殺そうとするもの。しないもの。アイドルであろうとするもの。その過去を捨てるもの。
小梅の鋭敏な感受性はその中で揉まれ、傷つき、それでも何かを求めて藻掻いて。
それでも必死に、ただ懸命に、ここまで生きてきた。
“……あなたは、もう『アイドル』じゃないみたいね”
銃を構えた大人の女性、小梅はその名を知らないアイドルを捨てたアイドル、
和久井留美の姿が浮かぶ。
迷ってばかりの自分に顔色一つ変えず銃口を向けた彼女の、迷いのない視線が頭をよぎる。
“私は、アイドルで在り続ける。だからこそ、いずれ必ず、あなたも笑顔にしてみせます”
穏やかそうな外見に似合わない苛烈なまでの意志を秘めた少女、
岡崎泰葉の言葉が蘇る。
最初は恐怖の対象でしかなかった彼女の、しかしその真っ直ぐさは、今なら理解できるかもしれないとぼんやり感じる。
“『誰か』をハッピーにするためにいっしょーけんめーなのが、『アイドル』だにぃ!”
今まで見たことないほど大きくて、そして体だけじゃなく心まで大きく輝いていたアイドル、
諸星きらりを思い出す。
アイドルってなんなのか、悩み続けていた小梅に光を与えてくれた。あんな人になれたらいいなと、そう思う。
――そして。
“……ありがとう、小梅。無事でいてくれて”
松永涼。
彼女は、自分を見捨ててなんかいなかった。その当たり前のことが当たり前であることが、こんなにも嬉しいなんて。
だけど、今までの二人の関係でいちゃいけないということを、小梅は確かに感じていた。
彼女のためにできること。そのために、今、小梅はここにいる。
この半日間、いろんなことがあった。
目を背けたいこと、逃げ出したいこと、そんなことばかりだった。
怖かった。寂しかった。辛かった。泣いて、泣いて、それでも何も変わらなかった。
だけど、だからこそ、今、自分は変わらなきゃいけない。
小梅は意を決して顔を上げた。
こちらを真っ直ぐに見据える拓海の視線と正面からぶつかって、思わず目を逸らしそうになる。
だけどそんなことはしない。するわけにはいかない。譲れないものが、あるのだから。
口を開く。声を発するのにすら勇気が必要で、小梅はその小さい手のひらをギュッと握り締めた。
そして、心の奥からの、本当の思いを。
「わ、私、今までずっと、涼さんの影に隠れてばっかりで、その、頼ってばっかり、だからっ」
辿々しい口調でしか言えないけれど。そんなにすぐには変われそうにないけど。
自分の意志を言葉にするのが、こんなに難しいことだと感じる自分には、かっこいいことなんて言えそうにないけど。
それでも、どうしても口にしたい言葉がある。
「だけど、私、私は……私は『アイドル』なんです……涼さんと、二人で一人の、アイドル、今までずっと、これからも……!」
『その言葉』を口にした時、微かに声が震えた。
だけど、留美に怯えた時とは違う。泰葉の一途さに応えられなかった頃とは違う。そして、自分を認めてくれたきらりの為にも。
小梅ははっきりと、アイドル、と口にした。そして。
「だから……だから! 私、私は……涼さんの相棒だって、胸を張って言えるようになりたい……!
今度は私が、涼さんを守らなきゃって……そして、絶対、絶対に、二人一緒に……っ!」
それが今の小梅の、本当の願いだった。
いつもこそこそと影に隠れてた自分ではなく、対等に、涼と並んで立ちたい。
まだ何も分からないけど。アイドルとは何か、完全に答えが出たわけではないけれど。
だけど、なりたい自分が、進みたい道が、それだけはおぼろげに見えていた。
拓海は、黙って小梅の話を聞いていた。
そして、おもむろに手を伸ばすと、小梅の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「涼の相棒、か……すまねぇな、アタシ、お前のこと見くびってたかもしれねー。
それだけ言えりゃ十分だ。誰がなんと言おうと、お前は涼の相棒だよ。アタシが保証する」
ぽかんとする小梅ににやりと笑いかけてみせながら、拓海は続ける。
「だったら、涼のそばにいてやってくれ。涼のために出来ること、全部任せるぜ。いいな?」
小梅が頷くのを見ると、拓海は何か布のようなものを広げて、小梅の背に掛けた。
それがいわゆる特攻服というものだということに、小梅は遅れて気がついた。
「景気付けだ。アタシが背負ってきたもの、少しだけ貸してやるよ。血まみれで気持ち悪いかもしれねーけどな」
確かにそれは乾いた血で赤黒く染まっていて、それにそうでなくてもあちこち擦り切れてボロボロで、
それに小柄な小梅とはまるでサイズが合っておらず、袖も裾もだぼだぼになってしまっていたけれど。
だけど、小梅は不快とは思わなかった。拓海の言う、背負ってきたものが、何となく分かった気がしたから。
「き、気持ち悪く、ない、ないです。想い、感じます」
「……そうか。だったら、今度はお前が走る番だ。自分の道が見つかったんならな。
その心臓に火を入れろ。エンジンが掛かったら、あとは脇目振らずに真っ直ぐだ」
「……はいっ」
拓海の言葉を、胸の奥で反復する。
最初は怖い人だと思ったけど、涼が信頼している理由が分かった気がした。。
今度こそ車の様子を見るべく立ち去ろうとする拓海の背中に、小梅は最後に聞きたかったことを投げ掛けた。
「あ、あの……た、拓海さんにとって……アイドルって、なんですか?」
「……さぁな。走り続けりゃ、そのうち見えんだろ」
手をひらひらと振りながら、店内にいやに大きなベルの音を響かせて、拓海は出て行った。
「おっきい人やろ?」
いつの間にそばに立っていた紗枝が、慈しむような目で拓海の出て行ったドアを見る。
小梅が頷くと、一転いたずらっぽい口調で付け足した。
「でも、あれで結構突っ走りがちだったりするんよ?」
「そうなんですか……?」
「ふふっ。放っとけへん人やね」
そう語る紗枝は、本当に拓海のことを信頼しているようで、自分にとっての涼のような人なのかなと思う。
きっと小梅が知らない間に育んできた絆があるのだろう、そう感じる。
「ほな、涼はんのこと、頼みますえ。小梅はんが支えてくれはるんなら、松永はんも安心やろ」
「は、はい、頑張る、頑張ります」
大きく頷く小梅を見て紗枝はもう一度微笑むと、調理場の方へ足を向けた。
立ち去る時に、「周子はんのことで、泣いとる場合やないな……」と呟く声が聞こえた気がした。
一人きり、いや涼と二人きりになった小梅は、大きく深呼吸した。
涼は未だに意識を取り戻さず、何からしてあげたらいいか分からないぐらいだ。
自分なんかが満身創痍の涼のためにしてあげられることが本当にあるのか、不安だらけで潰れそうになる。
だけど、守ると決めたから。背負うと決めたから。自分だけの道を、走ると決めたから。
だからもう、怯えてなんていられない。
「ま、まずは……、汗、拭く、拭いてあげないと……!」
小梅はだぼだぼの特攻服の裾を翻らせながら、洗い場に走った。
武器はなく、戦意もなく、今も殺し合いが続く島では場違いとしか言えない姿。
だけど、彼女の本当の戦いは、ここから始まる。
【B-5 ダイナー(駐車場)/一日目 午後】
【向井拓海】
【装備:鉄芯入りの木刀、ジャージ(青)】
【所持品:基本支給品一式×1、US M61破片手榴弾x2】
【状態:全身各所にすり傷】
【思考・行動】
基本方針:生きる。殺さない。助ける。
1:駐車場の軽トラックが動くか確認する
2:軽トラックが動くようなら、涼を助けるための方法を考える
3:引き続き仲間を集める
4:涼を襲った少女(
緒方智絵里)の事も気になる
【B-5 ダイナー(店内)/一日目 午後】
【白坂小梅】
【装備:拓海の特攻服(血塗れ、ぶかぶか)】
【所持品:基本支給品一式、USM84スタングレネード2個、不明支給品x0-1】
【状態:背中に裂傷(軽)】
【思考・行動】
基本方針:涼を死なせない
1:涼を介抱し、ずっとそばにいる
2:胸を張って涼の相棒のアイドルだと言えるようになりたい
【小早川紗枝】
【装備:ジャージ(紺)】
【所持品:基本支給品一式×1】
【状態:健康】
【思考・行動】
基本方針:プロデューサーを救い出して、生きて戻る。
1:ダイナー内を調べて、皆の分の昼食を用意する
2:引き続き仲間を集める
3:少しでも拓海の支えになりたい
4:(周子はん……)
【松永涼】
【装備:イングラムM10(32/32)】
【所持品:基本支給品一式、不明支給品0~1】
【状態:全身に打撲、左足損失(サラシで縛って止血)、気絶】
【思考・行動】
基本方針:小梅を護り、生きて帰る。
0:―――――
※放送前よりも消耗しています。
※千夏がダイナーに仕掛けたベルなどの仕掛けは、そのままになっています。
最終更新:2013年06月05日 10:08