A.D3005年12月 シェラルド軍ローマ入城 |
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政府 | |||||||
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女王 | 政体スライダー | ||||||
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SofiaⅠ af Hjørring | 民主的 | ・・・・・・・・★ | 独裁的 | |||
右派 | ★・・・・・・・・ | 左派 | |||||
Age:21 Female | 自由経済 | ・・★・・・・・・ | 計画経済 | ||||
常備軍 | ★・・・・・・・・ | 徴兵軍 | |||||
後継者 | タカ派 | ★・・・・・・・・ | ハト派 | ||||
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Erik André Hjørring | 介入主義 | ★・・・・・・・・ | 孤立主義 | |||
古代 | ・・・・・★・・・ | 現代 | |||||
Age:17 Male | 紅茶 | ★・・・・・・・・ | 珈琲 | ||||
アブラゼミ | ・・・・・★・・・ | ミンミンゼミ |
閣僚 | Rival指定国家 | ||||||
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王国宰相 | 外務大臣 | 王国元帥 | 海軍提督 | 宮廷司祭 | ディルツラント | ザーティエラ | シランナ |
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1.シェラルド王国の成立とC教の伝播
7世紀以前のシェラルド地域は複数の首長国が林立していたが、その中からSjellann島に拠点を築き、交易と北ドイツでの略奪により財を成したSjellann氏族が台頭した。
彼らは征服活動によりFyn島やJylland半島にまで勢力を広げ、これらの地域はSjelland族の大首長(Ralud)の治める地域として、Sjellaldと呼ばれた。 この名前が確認できる最古の資料は今なおシェラン島に残る碑文であり、鑑定により8世紀半ばのものと推定されたため、この頃にシェラルド王国が成立したとされている。
10~11世紀頃のシェラルド王国についてはハンブルク司教座事績に詳しい。これによると、シェラルド王国は10世紀の初め頃まで多くの領土を古Erige王国に奪われていたようだが、930年頃にシェラルド王Golmが北欧におけるC教伝道活動の容認と引き換えに当時の東フランク王の支援を取り付け、領土を回復している。
彼は元はユラン半島のJulling地域に勢力をもつ豪族だったようで、彼から始まるイェリング家は現在までシェラルド王家として存続している。
2.ヴァイキング活動と北海帝国
3.第一次カルマル同盟
4.宗教戦争の時代
5.革命の時代
6.第二次カルマル同盟と普史戦争
19世紀はナショナリズム勃興の時代であり、北欧も例外なく、全ノルドの連帯と統一を掲げた汎スカンジナビア主義が立ち上がった。シェラルド、エリーエ、ロムスダールの北欧三国は過去のカルマル同盟を復活させようと接近を始めた。
こうした動きを、プロイセンとの間に起ったプロイセン=シェラルド戦争が決定づけた。
シェラルド王ヴァルデマⅦ世は北欧統一事業の一歩として、長らく公位を有してきたシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公国の統合を決定。これに対しシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公国、特にドイツ系住民が多数派なホルシュタインでは、キール軍港を確保したいプロイセンの支援のもと反乱が起こり、これの鎮圧の為シュレスヴィヒへと軍を進めたシェラルドに対しプロイセンが宣戦布告、普史戦争が始まった。
シュレスヴィヒで行われた緒戦では高い軍質と先進的な参謀本部を有するプロイセン軍が圧勝した。
しかし、これによりエリーエ、ロムスダール両王国では、ドイツの干渉への反感とシェラルド王国の劣勢を受けてプロイセンに対しシェラルド側に立っての宣戦を布告、第二次カルマル同盟が発足した。既に有事に備えてシェラルド国内へと送られていた両国軍はシェラルド軍と合流、ヴァルデマⅦ世の元に統帥権を集約した。
プロイセン軍はその後も進撃を続け、シュレスヴィヒのフレンスブルク、ユラン半島中部のオベンロー、コリングと次々に陥落させたが、フレゼレシアの攻勢ではシェラルド軍の頑強な抵抗の前に停止を余儀なくされた。
対してカルマル同盟軍は優勢な海軍の支援の元でロラン島からフェーマルン島を経由してホルシュタインのハイリゲンハーフェンへと上陸し、道中の小部隊を蹴散らしながら北上して背後を衝いた。 完全な挟撃、そして奇襲が決まったものの、即席連合軍の弱みである連携の欠如が災いし、またプロイセン軍の起動戦術もあって紙一重で敗北した。
その後は海戦での勝利はあったものの、着実に進行を進めるプロイセン軍は遂にシェラン島に至り、このままプロイセンの大勝を良しとしない列強各国の干渉により講和交渉が開始され、シェラルド王国は敗戦国として、シュレスヴィヒホルシュタイン全土の割譲を強要された。
しかし、これをドイツやブリテン、ロシアへの重大な脅威と受け取った三国はますます結束を深め、第二次カルマル同盟を継続させた。
世界大戦
欧州ソヴィエト連邦とBTO
ドイツを中心に強烈に巻き起こった社会主義革命の嵐は瞬く間に中央ヨーロッパを飲み込んだ。
ほど近いシェラルド王国ではとりわけ影響が大きく、また地続きであることから世界革命を志すディルツラント民主共和国共産党は大量の活動家を送り込み、遂には首都でクーデターを成功させた。シェラルド共産党はシェラルド人民共和国の樹立を宣言し、欧ソ連に加盟。国王ハンス10世を逮捕し王位を剥奪した。 これらの革命は電撃的に行われたため、カルマル同盟下で同君連合を形成しているエリーエ、ロムスダール両国は完全に対応が遅れてしまった。 両国のうちエリーエは辛うじて亡命に成功したシェラルド評議会を摂政とし、あくまでハンスを国王としたが、ロムスダール王国は独自に評議会を設置し、自国貴族からオラヴ9世を国王として迎えた。外交的にもカルマル同盟を見限りグレートブリテンに接近したため、第二次カルマル同盟は崩壊した。
とはいえ、シェラルドの共産化は明らかに欧ソ連としての地勢的な都合による強行的な要素が強く、シェラルド国民はドイツ人の支配に対して非常に反抗的であり、度々サボタージュで抵抗しては北ドイツの収容所をシェラルド人で満員にしていた。
また、当のシェラルド共産党もイデオロギーへの忠誠に欠けており、同人誌の密売など深刻な汚職が蔓延し、シェラルド国内は常に混沌としていた。
こうした欧ソ連の動きに対し、これ以上の拡大を牽制すべく、スペイン王国は偶然首都バルセロナに留学していたハンス10世の長女シルビア・マグダレーナをシェラルド女王として担ぎ上げ、隣接するアキテーヌ王領を与えて傀儡の亡命自由シェラルド王国を建国した。さらに、欧ソ連への防波堤とすべく自由シェラルド=アキテーヌ王国中心のフランス統一事業を手厚く支援し、イルドフランス、ブルターニュ、アキテーヌ等のフランスの大部分を統合した。
なお、アルザスロレーヌは欧ソ連に取り込まれている。
その後、欧ソ連を取り囲むようにスペイン、自由シェラルド、ベルタティス、ユーラヌス、トラキア・ローマそしてロシアと共に対欧ソ連組織バルセロナ条約機構を設立した。グレートブリテン及びロムスダールは共に武装中立同盟を結成し、エリーエ王国とシェラルド評議会は支持する国王の違いからどちらにも参加しなかった。
欧州大戦と戦後シェラルド
スペインは自由シェラルドを欧ソ連への盾とすべく惜しみない投資を行ったが、そうした異国政府の過干渉や核戦争の戦場となりうる可能性へのおそれから、自由シェラルドのフランス人の間では反スペイン、反BTO感情が高まっていた。
そうした中でパリ大学の民族研究者アルチュール・ケスラーはフランス人の自治と独立を目指し結党。瞬く間に支持を集め、議会を掌握した。スペインは彼らを反政府勢力として逮捕しようと試みたが、既にフランスの支配権は殆どケスラーの元にあり、フランス軍もケスラーを支持したため、自由シェラルド=フランシア王国として、事実上の独立国となった。 ケスラーは正当性を得るべく自身を王国宰相とすることをシルビアに認めさせると、BTOからの離脱を宣言した。
離脱前後で計20年程にらみ合いの冷戦状態が続いたが、BTOの支援を失った状態でのフランス軍備の維持は限界に近づく中で、ケスラーは正気を喪失。突如として自由シェラルド=フランシア王国は欧ソ連と不可侵条約を結び、それぞれ同時にBTOへと宣戦を布告した。
挟撃されたベルタティス連邦は瞬く間に降伏し、次いでスペイン本土を陥落させるも、スペイン軍はモロッコに逃れ粘り強く抵抗した。 一方で欧ソ連も当初はボヘミアやベラルーシで破竹の快進撃を続けたものの、暫くすると攻勢限界に達し、膠着が訪れた。
二年後、またも突如として自由シェラルド=フランシア王国は欧ソ連へ宣戦布告し、東ベルタティスやラインラントへ侵攻。同時にエリーエ王国のシェラルド評議会も欧ソ連へ宣戦布告。それと示し合わせ旧シェラルド王国領にで大規模な王政復古要求の反乱が発生した。
完全な奇襲を受けた欧ソ連は、それでも余力のすべてを工業地帯死守に動員し、なんとか防ぎきったものの、戦力を失った東方では瞬く間に巻き返しをくらい、また各種資源も尽き経戦能力を喪失した。 自由シェラルド=フランシア王国も残る戦力を全て東方に回したためスペインで巻き返しをうけ、さらにパリ目前まで攻め込まれ、経戦能力を喪失した。 とはいえ、スペインも長いアフリカ暮らしで尽き欠けた国力の残りすべてを投入してのギリギリの巻き返しであり、他のBTO諸国も似たような状況であったため、最早どの国も戦争を続けられる状態ではなくなっていた。 そのためやむを得ず、グレートブリテンを仲介とした講和会議がアマリエンで開催された。
講和会議は概ね戦前回復、無賠償無割譲とされたが、これは戦後に遺恨を残した。
例外として自由シェラルド=フランシアは懲罰的に解体され、もとの諸侯林立状態へと戻された。 またシェラルドでは国民投票による独立の採択が行われ、圧倒的多数で独立を果たした。しかし、シュレスヴィヒホルシュタインでの独立及び帰属投票は認められなかった。
戦後になり、エリーエ王国に亡命していたシェラルド評議会は晴れてコペンハーゲンへと戻ったが、ハンス10世は戦争中に病死していたため、新たな国王の選出をしなければならなかった。
継承順位でいえば長女のシルビアが順当であったが、青春の殆どを各国の思惑によって利用され、振り回されてきた彼女は精神を損なっており、公務に支障をきたす状態であったために、次女のソフィアをシェラルド=エリーエ王とした。 グレートブリテンやイタリアは疲弊した各国からさんざん金をせびられていたが、エリーエは影が薄く目立たなかった為にカツアゲから逃れ、各種支援を通して国交の回復を行った。
戦後のシェラルド王国は、戦前から戦中にかけての鬱憤を晴らすかの如く大暴れした。
地中海戦争ではキプロス島を強襲し、またそこを拠点に聖地エルサレムを強襲しそれぞれ獲得し、ミノリニア内戦では反乱軍をシバき倒しアデン・ミノリ公国との交易優先権を得ている。 また、地中海戦争の縁でトラキア・ローマ帝国との関係が非常に友好的になり、遂には回復したシルビアがローマ皇帝に見初められ、晴れて婚姻が結ばれローマ皇后となった。
LTPOと第三次カルマル同盟
戦後暫くして遂に行き詰った欧ソ連は崩壊し、冷戦は終わりを告げた。
民主化したドイツはじめ欧州各国は、欧州大戦のような醜い内ゲバによる疲弊は無意味と感じ、協調路線へと舵を切り、LTPOを発足させた。 しかし、シュレスヴィヒホルシュタイン問題を抱えているシェラルドはじめ、各国の思惑は食い違い続け、イタリア・ハゲ国というパイの切り分けにこそ協調したものの、結局有効な団体行動はあまり見られなかった。 シェラルドはシチリア、バシリカータ、カラブリアといったピースを獲得した。
現在、シェラルド王国は長らく分離していたロムスダールの王冠を再び取り戻し、第三次カルマル同盟を発足させた。
LTPOの限界を感じたシェラルドはこの範囲を拡大させ、北欧独自の地域的包括的同盟へと発展させることを決定し、フアンランド、エストラント、クールラントの三公国が参加を表明している。 |
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▶女王ソフィアの北欧三王冠
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国際関係
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