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巨大な岩が、ベルの視界を覆った。 ――しまった。 ベルがそう思ったときにはすでに、岩は振り上げられていて、彼には回避する余裕がなかった。 岩は拳(こぶし)だった。巨大な体躯を持つ、岩の巨人。その腕だ。 岩で出来た巨大な拳が振り上げられるのを、ベルはしっかりと見た。それが振り下ろされるであろう場所に、自分が居ることを一瞬で理解して、冷や汗が一気に吹き出す。 岩の拳が止まって見える。一瞬の時間が圧縮されて、そのまま停止してしまったような錯覚を受けた。 一つ一つ丁寧に作られたであろう指の、岩肌が良く見える。 ごつごつとした岩の質感。長い年月によって侵食されたのだろう、小さなひびがいくつも走っている。中には、大きな亀裂になっている部分さえある。 目の前を、木の葉が通り過ぎた。 ベルは、過ぎてゆく木の葉に一瞬気を取られて、時間が止まっていないことに気が付いた。ただ、岩の拳が止まっていたのだ。 ぴしり、と小さな音が響いた。 ひびが亀裂に変わり、次第に大きくなっていく。そしてついには完全に割れ、岩の巨人は轟音を立てて崩壊してゆく。 岩が地面を打つ音が、辺りに響き、ベルはあわててその場を離れた。 音がやむと、岩の巨人は完全に人の形を失っていた。 「あぶなかった……」 ベルは息を吐き出すと、ひとりつぶやいた。 足元にまで、岩の破片が転がってきている。間一髪、下敷きにならずに済んだ。 ベルは残骸となった岩の巨人を見た。 もはや人の形を保ってはいなかったが、岩の山になってもそこに命があったことをベルは感じていた。 岩の巨人は、自然発生したモンスターではない。完全な人工物だった。誰かが、作り出したものだ。 術師につくられた、魔力によって使役されるもの。ゴーレム。それが巨人の正体だ。 ベルはそれを知っている。 もう一度、深く息を吐いて、ベルは服に付いたほこりを払う。 叩いてほこりを落とすたび、着ている外套が揺れた。 外套には、魔力の紋章が描かれていた。魔力の紋章は『術師』の証だ。 ベルは術師だった。
魔力とは命の力である。本来、誰もが魔力を持っているのだ、とベルは考えていた。
単に強力な魔力、すなわち生命力を持って生まれたものが術師なのだ、と。 外套のほこりを払ったベルは、ふと、魔力を感じて顔をあげた。 岩の残骸の中に、かすかな魔力がある。命が、そこにあるのを感じる。 魔力を感じるのは、術師特有の能力でもあったが、ベルはこれが得意だった。わずかな魔力さえ、知覚できる。その位置すらも。 ベルは注意深く、その魔力の元へ近づいていく。 岩の破片の下に、手のひらに収まるくらいの、小さな球体があった。 長い年月を過ごしたはずの球体は、まったく劣化したような気配がない。表面はつるつるとした硬質な金属で出来ているようで、細かな模様が刻まれている。ところどころにくぼみや、でっぱりのような部分があって、すこしいびつな形をしている。 そして、かすかな魔力を感じた。 「まだ生きている……!」 ベルは慎重に岩をどかすと、球体を手に取った。 ゴーレムを作るには、必ず魔力の供給源となる部品が必要になる。俗にゴーレムの心臓と呼ばれる部品だ。 この球体が、おそらくは、このゴーレムの心臓なのだろうとベルは思った。 彼はゴーレムの心臓を手に取ると、大事そうにカバンにしまった。 満足そうにうなずいて、カバンをかけ直す。 そのとき、ふと視線を感じて、周囲を見回した。 森の中は静かで、時折吹く弱い風が木の葉を揺らすだけだった。生い茂る草木は何も語らない。遠くの空で、鳥の群れが飛んでいるのが見える。 「緊張しているのか……」 さっきまで死に掛けていたことを思い出して、ベルは頭を振った。 緊張で気が立っていただけだ。視線などあるわけがない。 ベルが居るのは、カーランドから徒歩で2日以上離れた森の中だった。誰も居るはずのない場所である。ベルのような変わり者だけが、危険を冒して、街道から離れたりするのである。 くるりと振り返ると、ベルは歩き出した。 「とりあえず、カーランドに帰らなければ」 ベルは、ゆっくりと、今度は慎重に、森の中を歩き始めた。中身を確かめるように、カバンをなでながら、一歩づつ歩く。 不意に、何かを思いついたように立ち止まって、ベルはつぶやいた。 「……どっちに行けばいいんだったかな」 カーランドまでは2日以上は掛かる。
王都カーランドから西側の街道を2日ほど行ったところに、あまり人の訪れない大きな森があった。街道のすぐ横に広がっているこの森は、街道の見えない奥まで行くと戻ってこられないと言われていた。
そこに、ベルは居る。 どっちを向いても同じような木々が茂っている。風が吹くと木の葉がざわざわと音を立てて、ベルの聴覚をふさいだ。持っていた磁石を使って方位を探ろうとしたが、北を示す指針はぐるぐると木々の間を指して回った。 普通の人間であれば、なすすべもない遭難である。 しかし、ベルにはよくあることだった。 ベルはひとつ、深呼吸をした。自分自身の奥底にある力を、周囲に溶け込ませるようにゆっくりと広げていく様子を想像する。そうすると、辺りの魔力を感じることができる事をベルは経験上知っていた。 魔力を知覚する感覚を研ぎ澄まして辺りを探る。 術師であれば、誰しも魔力を知覚できる。しかし、ベルほどの広い知覚範囲と精度を持っている者はそうは居ない。それは、ベルに生まれながらの素質があったというだけでなく、彼がしょっちゅう道に迷い、そのたびにこの力で道を探ってきたからでもあった。 ベルは森の息遣いを知覚しながら、ひたすら魔力を探った。 カバンに入れたゴーレムの心臓が小さな魔力を放っている。 今度襲撃されれば、生き残れる保障はない。ベルは、眼前に岩の拳が迫った光景を思い出して身震いした。油断は禁物である。 ベルは慎重に周囲をさぐりながら、ゴーレムの残骸の周りを円を描くように歩いた。その円を徐々に広げるようにして、森の外側を目指して歩く。 この森は北に向かってかなりの広さを持っており、まっすぐ歩いて北に向かうと、一月は森の中で過ごすことになる。そうなるよりは、近くを通っている街道に当たるまで、円を広げていったほうが森を早く抜けられるだろう。 時折立ち止まっては、知覚の範囲を広げる。さすがのベルも、歩きながら広範囲を知覚し続けることはできなかった。 歩いては立ち止まり、また歩いては立ち止まった。そうしてお腹が空くと、干し肉をかじったり、木の実をほおばったりしていたが、持ち合わせがなくなるとそれもしなくなった。 森の中、たった独りだった。 術師というものは孤独なものである。 魔力で以ってモンスターを使役し、街を守る。故に守り人と呼ばれ、崇拝に近い感情を向けられる。 必然的に、対等な友人というものは居なくなる。すこし成長して、同じ術師の仲間を見つけると、今度はライバルとして競争することになる。 そうして、いつかは街に雇われて、名実ともに守り人となるのだ。 本当にそれでいいのだろうか、とベルは疑問を感じずにはいられなかった。 術師が、全員良い人である保障はどこにもない。守り人となった術師が、街に害をなすことがあってもおかしくないはずなのだ。彼自身、いつ力に溺れて人々に害をなすか、わかったものではなかった。 そんな彼を、周囲の人々は守り人と呼んだ。 ひたすら期待が増してゆく視線に耐えかねて、彼はよく街を抜け出して森に入っては迷子になっていた。そして、そのたびに帰ってきたのである。 「生還することにかけては自信があるんだ……」 ベルは自分に言い聞かせるように、ちいさくつぶやいていた。 日が沈みかかると、モンスターを召喚して寝床を作った。 空間に、紋章が浮かび上がり、ツルの塊のようなモンスターが現れる。うねうねと動いていなければ、モンスターだとは思われないかも知れない。 ベルの使役するモンスターはプラントと呼ばれる植物のモンスターで、森の中で使うには最適だった。これも、ベルが森で迷子になっても生還できる理由の一つになっている。 危険な夜は、召喚したプラントに見張らせたまま、寝る。 起きるとまたふらふらと魔力を探りながら歩く。 そうして、4日ほど経った頃だろうか、ベルは魔力が伸びて道のようになっている場所を知覚した。 街道である。 二十四都市を繋ぐ街道は、術師によって施された術が組み込まれており、歩き易くなっている。その魔力を知覚したのだ。 これがベルの探していた街道なら、西に行けば領都ルーフェがあり、東に行けば王都カーランドがあるはずだ。 ふらふらとおぼつかない足取りで街道に出てきたベルは息を吐いた。 「やれやれ……」 そのまま街道に倒れこむ。 食べ物はもう残っていないが、別段空腹というほどでもない。ただ、疲れていた。恐ろしく疲れていた。森を抜けた安心感が、どろりとした眠気となってベルの全身を支配しつつあった。 どこか遠くからカラカラと音が聞こえてくる。 聞き覚えのある音だ。どこで聞いたのだったか、ベルは思い出せなかった。思い出すその前に、ベルは眠りに落ちていた。 |
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石畳の上をカラカラと車輪が回っているのが見える。 土ぼこりをあげて、馬車が目の前を通り過ぎていった。 うっすらとした意識の中、次第に景色が鮮明になってゆく。 辺りが暗い。空は雲に覆われて、光がない。月のない夜のような暗さが、辺りを塗りつぶしている。 目の前を人々が通り過ぎてゆくのが見える。 着の身着のままといった態で、人々が走る。その顔には等しく恐怖が張り付いていた。 遠くで轟音が響き、人々の悲鳴が聞こえてくる。 頭がすっきりしない。まだどこか眠っているように朦朧(もうろう)としている。 自分がなにをしていたのだったか、思い出すことが出来ない。 ふいに、視界に異形のものが写った。 黒い、それは全身が漆黒で出来ているかのような、異形のモンスターだった。 黒く細長い腕に、漆黒の帯を巻きつけている。細身の体からは、犬を思わせる脚と、コウモリのような形の巨大な翼が生えている。ちらちらと見える尻尾は、細い糸の先に槍が付いているような形状をしている。 そして、頭がない。 異形のモンスター。この世に存在するあらゆるモンスターとは性質が違う。禍々しい気配が周囲を呑み込んで、空気さえ黒く染めているようだった。 これを破壊しなければならない。 そう思って、不意に、自分の目的を思い出した。 「――対象を捕捉。排除します」 知らず、言葉がこぼれる。 刃状の白い光が、円を描いて体を包んで、自分が起動したのを感じる。 この異形を、排除する。その為に、私は生まれてきたのだ。
「ん……?」
ひょいっと顔を覗き込んだ少女と、ベルの目が合った。 ベルは、自分の状況がまだ飲み込めなかった。あの黒いモンスターはどこだろうか、などと思って、それが夢だと気が付いた。 ベルは地面がゆらゆらと揺れているのを感じた。いや、地面ではない。硬い木の板に布を敷いた、簡易寝具の上で横になって居る。 ゆっくりと体を起こして、周りを見渡すと、どうやら馬車の中のようだった。 「おとーさん。起きたよ」 少女に呼ばれた御者が振り返ってベルを見た。 人のよさそうな男が、にこやかにベルを見ている。年齢は40ほどだろうか、見るからに商人といった風情である。 その横には、いつの間にか移動していた、先ほどの少女が座ってこちらを伺っている。 肩で切りそろえられた髪が馬車のゆれに合わせてゆらゆらと揺れている。 十代だろうか、幼い印象を受ける。 男と顔つきがどことなく似ていて、親子だとすぐにわかった。 「体調はどうですか? 術師様」 男がベルに尋ねた。 術師様と呼ばれて、ベルは無意識に視線を下げた。 自分の着ている外套が目にはいる。 すべすべとした布地は、複雑な模様などはないものの、一目で高級品だとわかる代物である。内側には小さなポケットがいくつも付いており、ルーン鉱石を納められるようになっている。 外套の背中と肩に描かれているのは、ひし形に渦を抽象化したような模様。魔力の紋章だ。誰が見ても、術師と分かるように、法規制された意匠である。 術師と見て助けてくれたのだと、ベルは理解した。普通の旅人だったら、あのまま放置されていたかも知れない。 ――特別扱いは差別と変わらない、か。 ベルは頭を振ると、暗くなりかけた思考を追い出した。 とにかく、助けられた。まずはお礼を言わなければ、とベルは思った。 ベルの頭には、もう黒いモンスターのことは残っていなかった。
「なんであんなところで倒れていたんです?」
行商人の男は、快活な笑顔でベルに尋ねた。 お互いの自己紹介を終えて、街道に倒れているベルを見つけて馬車に乗せてくれた経緯を説明した直後である。 ベルの思ったとおり、術師の外套がなければ、モンスターと思って素通りしていたかもしれない。と言って行商人の男は笑った。 ベルはカバンの中の魔力をちらりと確認して、男に向き直った。 「森にゴーレムが居ると聞いてですね」 「ゴーレム……?」 行商人の娘、ミチカが首をかしげた。 最初に術師の外套に気がついたのはこの娘の方だった。そう聞いて、ベルはすこし驚いた。手綱を握っている父親より、馬車の中にいた娘の方が早く気がつくということは、通常ではありえないことだ。 ただの偶然か、別の知覚で気がついたか。 彼女は術師ではないから、恐らくは偶然だろうが、そもそも魔力とは命の力であると思っているベルは、彼女に魔力知覚の素質があるのかも知れないな、とぼんやり考えた。 ベルは貰った水を飲みながら、答える。 「ええと、術師の使役する、モンスターのようなものです」 我ながら、ざっくりとした説明だな、とベルは思った。 今時、ゴーレムについて説明する機会もない。知りたがる者が居なかったし、説明できる者はもっと居なかった。 「ほう。街を守るというやつですな?」 行商人の男は、名前をロジュといった。 彼は術師ではないし、街に住むものでもなかったので、ゴーレムというものにあまりなじみがなかった。それでも、旅をする事で得られる情報は多い。 「そうです」 とベルが答える。 ゴーレムとは人工的に練りだしたモンスターのようなもので、一定の術式を組んで使役する。ゴーレムをつくり出すことを錬成と呼んだ。 そして、術師の中でも、ゴーレムを使役する術師は、錬成師と呼ばれていた。 「私はゴーレムを作る、錬成師なのです」 ベルは、数日前に遭遇した岩の巨人、ゴーレムを思い出した。あの個体は良い出来だった。作られてからかなりの年月が経っていたらしく、遭遇した時点ですでに限界を超えていたようではあったが、丁寧に大切に作られたのがわかる出来だった。 「なるほど……。それで、ゴーレムを見に来たということですな」 「そういうわけです」 ベルはこくり、とうなづいた。 もちろん、物見遊山で来たわけではない。 ゴーレムは、モンスターに比べて使役が難しく、術式の施された街でしか活動できないとされていた。本来、森の中に居るはずがないのだ。だから、ベルは実際に自分の目で確認しに来たのである。 その結果、死に掛けることになった。 「いや、熱心なことですな!」 ロジュはうれしそうに言って、ベルの肩を叩いた。 「術師様が勤勉だと、我々も安心できるというものですよ!」 そう言われて、ベルはあいまいに微笑んだ。 この大陸から戦いがなくなって、ゴーレムが必要とされる時代は過ぎ去っていた。誰も、ベルのゴーレムを必要としていない。カーランドの守り人といえば聞こえはいいが、ベル自身は必要のないものをこねくり回しているだけだ。 ――それに比べたら。 ベルの脳裏を、金髪の男がよぎる。 整った顔立ちに、いつも苦々しげな表情で絡んでくる。周りからはライバルなどと言われている男だ。 彼は、魔法を戦いにしか使わない時代は終わったと常日頃から口にして、ベルのゴーレム作りを批判していた。 そうなのかもしれない。とベルは思う。 それでも、ベルはゴーレムを錬成する。 ――ゴーレムは守護者だ。絶対にないがしろにしてはならん。 ベルの頭の中で、師匠の声が響いた。そうだろうか、という疑問は尽きない。だが、今は亡き師匠の言葉に従って、ベルは錬成を続けている。 「私も娘も、行商人などしておりますからな。街道の恩恵は一番受けております」 そういって、彼は娘の頭をなでた。娘のミチカはくすぐったそうに笑った。 思わずベルの口元も緩む。 難しいことを考えることはない。自分にできることは、結局錬成くらいしかないのだ。それをすればいい。と、ベルは自分を納得させた。 ふいに、カーランドの工房に残してきた、作りかけのゴーレムを思い出した。完成させるにはあと一月半掛かるはずだったが、森で手に入れたゴーレムの心臓を使えば、あと半月で完成させることもできる。 素材は何にしようか。いつもの粘土ではなく、何か新しいものを使ってみようか。そう考えると、ベルは楽しくなってきた。 馬車がゆっくりと走る。街道に落ちていた小石が、馬車の車輪がはじかれて道の外へ跳んだ。 カーランドに着いたのは、それから3日経った後だった。 |
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王都カーランドは、街の中心に王城を抱える巨大な城塞都市である。そして、ベルの故郷でもあった。 王城にはカーランド王が住み、この国の全ての領土を統治してる。といっても、領土が広大であるため、直接の統治は行っていない。多くの権限を各地の領主にゆだね、大まかな方針だけ指示を出していた。 そのため、王都カーランドは王の直轄地として、全ての都市の規範となっていた。王都で許されることは、他の全都市でも許される。という具合である。 法はもちろん、多くの慣例がカーランドに倣っている。 他の都市がカーランドに倣ったものの中でも、特に有名なものが、四方門である。 カーランド城壁の四方に配置された門は、石造りで頑強な構造になっている。この四方門はカーランドの特徴だったが、他の都市もこれに倣ったため、繋がる街道の数は四つまでという慣例ができている。 ロジュの馬車はカーランド西門をくぐって街に入った。 街道の地面が土から石敷きに変わる。 「ほんとうにここでよいのですか?」 ロジュは、どことなく申し訳なさそうにベルに聞いた。 カーランドの中心地まで、一直線に敷かれているこの西側街道は、東を見るとカーランド王城を視界に納めることができる。王城に突き当たった街道は左右に分かれ、上から見ると八角形に王城の周りを巡っている。八角形の四方からは街道が延びており、それぞれ四方門を通ってカーランドの外へと通じている。 その街道の西側、西門をくぐったばかりの所である。 「ええ。ありがとうございました」 ロジュもミチカも名残惜しそうだったが、いつまでも世話になっているわけにもいかない。 「このお礼は必ず」 ベルは頭を下げた。 「いやいや、ベル殿。術師様にはいつも助けていただいておりますからな。このくらいどうってことはありませんよ」 と、ロジュは手を振った。 「ありがとうございます」 ベル自身は、この親子に何もしてはいないのだが、と思ったが、それは言わないことにした。 「何か入用でしたら、ご用意いたしますよ。そのときは西市場にお越しください」 ロジュは商人の顔になってそう言うと、にやりと笑った。 「ええ。ゴーレムの錬成にはなにかと素材が要りますからね」 ベルもにやりと笑い返す。 「ではまた!」 「ベルお兄ちゃん、またね」 ミチカが馬車の中から手を振って、ベルも手を振り返した。 「またね」 ゆっくりと街道を進んでいくロジュの馬車から、ミチカがいつまでも手を振っているのが見えた。 馬車が見えなくなると、ベルは自宅の工房を目指して歩き始めた。
ベルの暮らす工房は、カーランドの西側、街道から外れたところにある。西門から歩くとすこし距離があるが、一時間も掛からない。
すこしも歩かないうちに、ベルは何かよくわからない、ざわざわとした違和感を感じて、立ち止まった。 「よう。ベル」 横からいきなり声を掛けられて、ベルは驚いて振り向いた。 術師を示す外套を着た、長身の男だった。日の光と浴びて、金色の髪がきらきらと輝いている。 「エイリ……。こんなところでどうしたんだ」 エイリと呼ばれた男は、すこしむっとすると、ベルの方へ寄ってきた。 「また散歩で迷子か? え? お前は相変わらずだな?」 嘲笑まじりのエイリの口調に、ベルはため息がでそうになる。 黙っていれば整った顔立ちである。けっこう絵になる男なのだが、ベルはこの男がどうにも苦手だった。 「ああ、また迷子さ」 うんざりするようにベルは答えた。 「ふん。それでまた生還したわけか。つくづく悪運の強いやつだ!」 これ以上話もしたくないといった顔で、エイリは吐き捨てた。 「エイリ。用件を」 急に女の声がして、ベルはもうひとり術師がいたことに気がついた。 エイリの後ろに隠れるように佇んでいた術師は、クレナイという美しい赤髪の女だ。 ベルは彼女を昔から知っている。術師同士会う機会が多かったのと、なにより、日の光を浴びて燃えるように輝く、美しい赤い髪が目立っていたのでよく覚えている。 だが、ベルは今、彼女を見た瞬間に背筋が凍りつくような感覚を覚えた。 人間の気配ではない。術師としても、おかしい。なにか、おぞましいものが、彼女に絡み付いているような、そんな気がした。 カバンの中のゴーレムの心臓が、急に強い魔力を放ち始めたことにベルだけが気がついた。 ベルの脳裏に、一瞬黒い影がよぎったが、すぐにエイリに話しかけられて思い出せなかった。 「あ? ああ、そうだった」 エイリは何も気が付かなかった様子で、ベルに向き直った。 「ベル、王城研究室へ来い。俺の研究を手伝わせてやる」 ふてぶてしくエイリは言い放つ。ベルが断るなどとは微塵も思っていない口調だった。 エイリはクレイナの禍々しい気配に気が付いていないように見える。 クレナイに感じた気配について警告するべきだろうか、とベルは考えたが、本人の前で言うことではないだろうと思って言葉をのみこんだ。 「遠慮するよ。王城は息苦しい」 顔の前で手を振って断ると、ベルは歩き出した。 エイリは不満そうな顔をしたが、ベルはそれどころではなかった。ベルは、自分の魔力が、クレナイの禍々しい気配に侵食されるのを感じていた。 早くこの場を離れるよう、頭の奥で警鐘が鳴り響いている。 「は! そうだろうな! せいぜい街の隅っこで粘土でもいじっているといいさ!」 エイリの声を背に受けながら、ベルは足早にその場を去った。
まったく、忌々しいやつだ。ゴーレムなど何の役に立つと言うのか。
エイリはベルの歩き去った路地を眺めながらそんなことを考えていた。 戦争もない、紛争だって起こっていない。いたって平和な世だ。 戦いから街を守る為のゴーレムなど、もはや無用の長物なのだ。だから、いまだにゴーレムの錬成なんてことをやっているベルが何を考えているのか、エイリには分からなかった。 これからはルーン鉱石をつかった産業が伸びる。ルーン鉱石をエネルギーとしたさまざまな装置が発達するだろう。生活は今より豊かになり、人々の行き来は今よりずっと楽になるはずだ。と、エイリは考えている。 だが、そのためにはルーン鉱石が要る。今の生産量では足りない。 鉱山から採掘するという方法が非効率なのだ。石の山を切り崩して、山のような石ころの中からルーン鉱石だけを選別してゆく今の方式では、産業に使えるほどの量を確保できない。 現在、ルーン鉱石を消費しているのは術師のみである。消費するのが術師だけだから、供給量に問題はない。だが、裏を返せば、術師以外はルーン鉱石を十分に使うことができないのだ。 なにか別の方法で、効率よくルーン鉱石を得られれば、この国は目覚しい進歩を遂げるだろう。とエイリは主張し続けてきた。 同年代で優秀な術師だったベルとは馬が合わなかったが、エイリに賛同するものは多かった。 今はカーランド王すら、彼の賛同者だ。 ルーン錬成術。 エイリが研究している新しい魔法だった。 ゴーレムの心臓が魔力を生成できることに着目したエイリは、これを利用してルーンの大量生成ができるのではないかと考えたのだ。 結果は大当たりだった。ゴーレムの心臓に刻む術式に手を加えることで、ルーンを生み出す術が出来た。 ただ、大量に生み出そうとするとどうしても失敗して『出来損ない』になってしまう。 ベルの錬成技術があれば、すぐにでも実用化できるかもしれなかった。それだけに、ベルが断るのが腹立たしかった。 「……勝手にするがいいさ!」 吐き捨てるように言って、エイリは踵を返した。 後ろからクレナイが付いていく。 エイリにとって、彼女はルーン錬成術の最初の賛同者だったが、ここのところ様子がおかしい。 エイリは魔力を感じ取るのが苦手だったが、それでもクレナイから流れ出ている不吉な気配を感じていた。それを後ろから浴びて、エイリは背筋に冷たいものが這ったような気がした。 それが、エイリを益々いらだたせた。 |
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カーランド王城は、カーランドの中心地にある、内壁に囲まれた区画の建物群の総称である。建物は大きく五つの宮に分けられていて、中央の宮と、北宮、東宮、南宮、西宮があった。 エイリの研究室は王城の西宮に併設される形で建てられている。 西宮と調和するように建てられた研究室は、つるつるとした白い石で作られていて、細かく装飾された外観は美しかった。 エイリは、研究室に帰ると、すぐに実験の準備を始めた。 どろどろとした気配が部屋の中に溜まっているのが、エイリにも分かる。 ルーン錬成術の失敗によって出来た『出来損ない』が部屋の隅に積まれていた。気配はそこから流れ出ている。 「ちっ……」 エイリは粘つくような気配に当てられて不快感をあらわにした。 クレナイは『出来損ない』について詳しく調べているようだったが、彼には興味のないことだった。どの程度ルーン鉱石に近づいたか分かればそれでいい。 エイリは床を見下ろした。床には複雑な模様が刻まれている。いくつもの術式を刻んだ術陣である。 術師の使う術には、大きく分けて二つのものがある。使役と術式が、その二つだ。 モンスターを召喚し、魔力で以って操ることを使役と呼び、特殊な模様を使う術を術式と呼んだ。 術式の多くは失われてしまっていて、使えるものは多くない。『継承の術式』などの有名なものの他には、ゴーレムの錬成や街道の術式くらいしかエイリは知らない。 この、術式のための模様を、術師は術陣と呼んでいる。 ゴーレムの心臓を錬成する術陣に何度も修正を加えて作り出したこの術陣は、エイリの研究の成果そのものだった。 通常、ゴーレムの心臓は錬成するのに一月掛かる。 長い時間をかけてゆっくり、慎重に、魔力を練りこんだ素材を錬成してゆくのだ。途方もない労力を必要とする作業に、好き好んでやる術師ももうほとんどいなくなっている。 ちらり、とベルの顔が思い浮かんで、エイリは頭を振った。 エイリは練成師ではない。もともと専門ではないのだ。 この術陣も、そこに組まれた術式の意味も、半分もわからない。 魔法というものは元来そういうものだ。使う本人さえ、どういう意味があって模様を組むのか理解していないことも多い。使えるのだから問題はないのだというわけである。 だから、エイリがルーンを錬成しようとしているのは、凄まじく困難な挑戦だった。暗闇の中にあるたった一つの正解をめざして、危険を顧みず手探りで歩いてゆくような、情熱と勇気を必要とする道だった。 しかし、もう少しで大量のルーン鉱石を錬成できるという確信が、エイリにはあった。 前回できた『出来損ない』はルーン鉱石に近い性質を持っていた。 術陣にすこし修正を加える。 あと数回の実験で、ルーン錬成術は完成するだろう。そうなれば、この国は最繁栄期を迎える。 エイリの口元が緩んでいることを、隣で見ていたクレナイだけが知っていた。
クレナイはどんよりとした気分で、『出来損ない』を見つめていた。
今日の実験も失敗に終わった。 エイリは失敗に落胆しながらも、口元が緩んだままだったのを彼女は思い出した。 研究が進むにつれて、『出来損ない』の量は増えている。しかし、その質は確実に変わっていることを、彼女は知っていた。 ――石から流れ出す気配が禍々しくなってはいないだろうか? そう彼女が気がついたのはもう何日も前のことだ。気になって調べるうち、『出来損ない』は魔力を生んでいることがわかった。 禍々しい魔力を生んでいるのだと気がついて、彼女はふいに獰猛な獣と遭遇したような衝撃を感じた。 何か、してはならないことをしているのではないか、という思いが、彼女の中で芽生えるのに、そう時間は掛からなかった。 ルーン鉱石は魔力を生み出さない。この『出来損ない』は、ルーン鉱石の出来損ないではなく、まったく違う別の何かではないのか。 彼女の疑問は尽きなかった。 エイリに許可をもらって、クレナイは『何か』について調べ続けていた。 どのような性質があるのか。 どうやって錬成されているのか。 好奇心とは違う。義務感のようなものが、彼女を突き動かしていた。ただ、ぼんやりとした恐怖だけを感じていた。 本人の意思なのか、それとも頭に掛かった闇がそうさせているのか、誰にもわからない。 だか、彼女の研究は無駄にはならないだろう。そういう確信が、彼女にはあった。 クレナイの頭の中に、声が響く。 「危険であるならば、より深く知れ」 それは、彼女の師がよく口にした言葉だった。 このところ、毎日のように彼女はこの言葉をつぶやいていた。 エイリは特に気にした様子もなかったが、他のものは気味悪がったり、心配したりした。 そして、この日の実験で、彼女はついに分かった。 エイリの魔法陣はルーン鉱石を錬成してはいない。彼が『出来損ない』と呼んでいる『何か』を錬成しているのだ。 『何か』はルーン鉱石と同質の性質を持っている。 つまり、ルーン鉱石の代用品として使えるのである。 また、自ら魔力を生成しているという特徴があった。 まともな術師なら、眉をひそめる類の禍々しさを伴う魔力だったが、一般人には関係がない。魔力自体がそもそも有害なのだ。魔力の漏洩を防ぎ、一般人への被害を防ぐために、術師は特製の外套を着ているのだ。 恐ろしい発見だった。 エイリはルーン鉱石に拘っていたが、できあがった『何か」はそれを超える性能を持っている。しかも大量に錬成される。 エイリの実験は意図しない方向で成功していたのだ。 だが、クレナイは喜びも興奮も感じなかった。 ふいに、彼女は冷静になって、『何か』から発生している魔力を研究室から出さないようにしなければならないことに気がついた。 クレナイは『何か』に自分の着ている外套をかぶせてみた。術師の外套は、周囲の一般人に害を及ぼさないよう、魔力を遮断する機能がある。外套をかぶせておけば、禍々しい魔力も遮断できると彼女は考えたのだ。 しかし、変わらず、寒気のする魔力が、部屋の中にある。 外套の効果を受けないのだろうか、と思ったクレナイは、部屋の中にある禍々しい魔力の出ところを探った。 そして、彼女は気がついた。 彼女自身が、『何か』と同じ魔力を帯びていた。 その瞬間、クレナイは、自分が何者なのかはっきりと理解した。 ――私はナニカだ。 |
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ベルの工房は、カーランドの南西区にある。 カーランドの南西区は西と南の街道に挟まれた区画で、術師ベルの関係施設はほとんどこの区画に建てられている。 なかでも、ベルの工房は「古い屋敷を横から殴ったら歪んでしまった」ような形をしており、『壊れ屋』と呼ばれて親しまれていた。 その壊れ屋に、一人の男が尋ねてきていた。ベルの帰還を聞きつけたのだ。 男の風貌は、特に特徴がない。短く切りそろえられた黒い髪が、そよ風になびかないのを見て、硬い髪質なのだと判断できるくらいである。ただ、彼は術師の外套を着ていた。 外套のフードに白いわたがついていて、もこもこしている。冬用の外套だった。 男は、暑さをしのごうと、すこし外套をはためかせると、壊れ屋の戸を叩いた。 「おーい。ベルー」 しばらく待っても返事がない。耳をすませると、奥からなにか音が聞こえるので、帰ってきたのは本当のようだった。 「錬成に夢中か……?」 男は一言つぶやくと、不意に涼しくなったのを感じた。彼の居る場所に影が落ちたのだ。 彼は上を見上げると、壊れ屋の屋根に、見覚えのあるモンスターを見つけた。 赤い衣を纏った細身の人型モンスター。『忍者』と呼ばれるモンスターだ。 「エイリか」 男は思わずつぶやいて、はっと口をふさいだ。 誰にも言うなと約束されているのを思い出したのだ。 周りにだれも居ないのを確認すると、男はそっと胸をなでおろした。 ――エイリの忍者が居るということは、ベルも居るはずだ。壊れ屋には居ないのか? 男は、忍者の視線を追って、ベルがここに居ないらしいと見当をつけた。 もう一度忍者を見上げると、もう居なくなっていた。素早い。 エイリの忍者はベルを守っている。ベルの戦闘力の低さを、エイリがこっそりカバーしているのだ。本人には絶対言うなと言われているので、誰も言わないが、ベルが気が付かないのも面白かった。 それにしても、と男は思った。 街中で忍者を見るのはめずらしい。カーランドの中では、ベルの戦闘力は低くない。ゴーレムが、彼を守れるからだ。 何かまずいことでも起こっているのだろうか、と男は考えた。 ベルの行き先を推理しながら、男は歩き始めた。 男が歩くと、外套がなびいた。わずかにできた隙間から、着ている服装が見える。バルドルの紋章が刻まれた領主の服だった。 男は、カーランドからもっとも離れた都市、バルドルの領主だった。
ベルは自分の施設の一つ、交易所を訪ねていた。
カーランド西市場と呼ばれる場所である。 「ベル様!」 入り口の、術師の紋様が刻まれた石柱を通り過ぎてすぐ、ベルは大声で呼ばれて体をびくつかせた。 声のしたほうをベルが向くと、栗色の髪をなびかせながら、一人の少女が走ってきていた。 彼女はベルの元までくると、息を整える間も惜しいといった様子だった。 「ベル、様……、やっと、帰って……」 「落ち着けリーン。逃げたりしないから」 ベルはリーンと呼ばれた少女が息を整えるのを待った。 息が上がって、肩で呼吸している。汗が染み出して、栗色の髪が首筋にぴったりとくっついていた。 ベルは、彼女と初めて会ったときのことを思い出した。 彼女はベルの交易所の管理人である。術師の施設には全て、管理人を任命する。施設の保全と運営がその仕事である。 ベルが街中を歩いているときに、こうやって走ってきた彼女に、自分を雇って欲しいと言われたのが出会いだった。その時も、彼女は息を切らしてベル様と呼んだのだった。 「すみません。久しぶりに会えたので……」 そう謝りながらも、リーンの表情は満面の笑顔だった。 ベルは、相変わらずいい笑顔だなと思い、交易所の管理人はやっぱり適役だったと確信した。 「……ただいま、リーン」 そう言って、ベルがリーンに笑顔を向けると、彼女の笑顔が更に輝いた。
「あ! ベルお兄ちゃん!」
ミチカが、ベルを素早く発見して手を振った。 すぐにロジュが辺りを見回して、術師の外套を着た見覚えのある青年を見つけた。 寝癖のついた黒い髪に白い肌が映える青年だった。外套は高級だったが、その下に着ている服装は適当でよれよれである。 青年の隣には、見知った少女が居る。ロジュは彼女がこの市場の管理人だと知っていた。 「これはベル殿。おひさしぶりです」 ロジュはそういって頭を下げた。 「おひさしぶりです」 ベルも頭を下げた。 「管理人殿、おはようございます」 続いて、ロジュはリーンに挨拶した。リーンは毎朝交易所内の店すべてに顔を見せているので、いつもの挨拶だった。 「おはようございます、ロジュさん。ミチカちゃん」 「おはようございます、リーンお姉ちゃん」 リーンとロジュはそのまま事務的な話を始めたので、ベルはミチカに話しかけることにした。 「ミチカちゃん、ずいぶん早く僕に気が付いたね」 ベルはミチカの察知能力が異常に高いことを疑問に思っていた。もしかしたら、術師の才能があるのかもしれない、とベルは考えたのだ。 「えっとね、ベルお兄ちゃんは、あったかい感じがするから、近くに居たら、すぐにわかるよ!」 ミチカはすこし気恥ずかしそうにしながら答えた。 ベルはまたわからなくなったと思った。ミチカがベルを発見した方法は魔力知覚のようでもある。だが、ベルの魔力知覚にはあったかいなどということはない。力の強さを感じるだけだ。 「ミチカちゃん、他にも感じるものはあるかい?」 ベルは質問を重ねた。 とたん、ミチカの顔が急に曇った。 「ミチカちゃん……?」 心なしか、ミチカの体が震えている。 「あっち……」 ミチカはカーランド王城の方を指差した。 「あっちになにか感じるのかい?」 「……こわい」 ミチカは見て分かるほど、震えている。今にも泣き出しそうだ。 ベルは思わずミチカの手を取った。 ミチカの表情がすこしやわらいだのがベルにも分かる。 「どういうことでしょう……?」 ロジュとリーンが、ベルの後ろから声を掛けた。 二人はすこし前から二人の会話を聞いていたのだ。 ベルは振り返ると、二人に首を振った。 「わかりません。すこし、調べてみます」 ベルは、工房に置いてあるゴーレムの心臓を思い出していた。カーランドに来て、クレナイにあってからずっと様子がおかしい。錬成前から戦闘態勢に入っているようだった。 「おねがいします。ここのところずっとこうなのです……」 ロジュは鎮痛な面持ちでベルに言った。 王城に行ってみる必要がありそうだ、とベルは思った。
エイリは、錬成された石をぼうぜんと眺めていた。
その後ろには、クレナイがいる。 「それは本当なのか……?」 エイリの声からは、いつもの高慢さが消えていた。震え気味の声に絶望感が混じる。 「……はい」 クレナイの声が小さく響いた。 しばらくの間、二人はまったく音を立てなかった。二人の心臓さえ、鼓動を止めたような静寂が、部屋を支配する。 動いたのはエイリだった。 足元の石を拾う。 「これが……」 エイリは石を凝視した。クレナイによると、これが『ナニカ』という鉱物らしい。 その性質は禍々しく破壊的で、破滅を呼ぶ。王家に関わる者たちが、『破滅の石』と呼んでいる伝説上の物質だ。発見次第速やかに報告し、可能ならば破壊せよと言われている石である。 知らず、エイリは震えていた。 エイリはなぜ自分が震えているのか、理解できなかったが、それが好ましくないことだけは分かった。 後ろを振り返ると、まったく動かないクレナイが居る。その外套から禍々しい気配が溢れていた。 「おまえ……」 クレナイは呼吸していないようだった。まったく動いていないのはそのためだ。体が石で出来ている様に、まったく動かない。うつろな目が、エイリの手にある石を眺めている。 クレナイは自分がナニカに成っていることをエイリに報告していた。王に謁見して報告する時間がないと言っていたのをエイリは思い出した。 「クレナイ。知らせてくれてありがとう」 エイリの声はもう震えていなかった。 なんとかしなければならない。これは史上最悪の災害になる。そういう予感をエイリは確信した。 エイリの声が聞こえた瞬間、一瞬だけクレナイの目に光が差した。 「エイリ……」 クレナイの体はもうほとんど自我で動いていなかった。自分の意識さえ、時折途切れている。ここまで来れたのも奇跡なくらいだと、クレナイは思っていた。これが、最後かもしれなかった。 「壊して……」 クレナイが搾り出すようにつぶやいた。研究室が静寂でなかったら、聞き逃してしまうほど小さな声だった。 エイリははっとしてクレナイを見た。 クレナイの目からは完全に光が失われていた。ゆっくりと右手があがってゆく。 エイリは何が起こっているのか理解できず、一瞬呆けてしまった。 クレナイの前に紋章が浮かび上がる。森林と弓の模様をクレナイの術師の紋が飾っている。 召喚の紋章だ。 エイリは状況を理解して、とっさに研究室から飛び出そうとした。 紋章から、黒い、美しいモンスターが現れた。長い耳、端麗な容姿、そして弓。エルフだ。だが、その身は黒く染まっている。 「往け、ダークエルフ」 クレナイの声がはっきりと響いた。 |
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ベルは交易所を離れると、まっすぐに王城へ向かった。 いやな予感がしていた。ベルの魔力知覚は恐るべき範囲と精度だったが、それでもカーランド全域どころか、南西区全体すらカバーできない。 ベルの交易所、通称カーランド西市場から王城まではそれほど遠くない。街道と通っていけば半時も掛からないだろう。 ベルは足早に街道を歩いた。そこへ、後ろから声を掛けられた。 「おーい! ベルー!」 よく響く、男の声だった。ベルはこの声を覚えていた。 ――たしか、バルドルの領主にして術師という変わり者…… もこもこした外套を着た男が、ベルの前たどり着いた。ベルは知らなかったが、数刻前、彼の工房を訪れていた男だった。 銀色の髪を揺らして、いかにも暑そうに外套をはためかせている。外套の下には、バルドル領主を示す、高貴な服装が見えていた。 「セイト様……なぜここに?」 「なに、野暮用さ」 両手を広げながらすこし肩をすくめてセイトが答える。 バルドルの領主であるセイトは、その立場ゆえに自由に行動できなかった。だが、彼の術師としての性質が、執政室にこもりきる生活に満足できるはずもなく、見聞を広げるためと言ってはよくカーランドを訪れていた。野暮用とは、つまりそういうことである。 ベルと出会ったのも、野暮用で、錬成に興味をもったセイトが壊れ屋を訪れたのが始まりだった。 「ああ……」 ベルは、置いてこられた執政官に心の中で合掌した。 「それよりも、ベル。どうしたんだ?」 セイトは、ベルが急いでいる様子を見ていた。それでも声を掛けたのは、自分も付いていこうと思っているからである。 「そうだった。気になることがあって、今から王城に行くところなんです」 ベルは正直に話すことにした。 隠しても意味はない。そして、セイトは優秀な術師だった。なにかあったとき、手を借りられれば心強い。 「私も行こう」 セイトは、面白くなってきたと言いたげな表情で、大きくうなずいた。
王城に近づくと、ベルは初めてナニカと接触した。
ベルの魔力知覚が、禍々しい破滅の魔力を探知したのだ。そして、ベルは天地が揺らぐような嫌悪感に襲われてその場に膝を付いた。猛烈な吐き気を感じる。 「なんだ……?」 ベルはとっさに身を守るように自分の魔力知覚を硬直させていた。いきなり大きな音がして耳を塞ぐようなものだ。 ゆっくりと硬直を解くと、カーランド王城の西宮から禍々しい魔力が発生しているのが分かった。 「クレナイ……とは違うな」 ベルはいま知覚しているものを知らなかった。先日思いがけず出会ったクレナイの気配によく似ているが、確実に違う。これはもっと異質なものだとベルは感じた。 しかし、ミチカがこわいと言ったのはこれが原因だろうと確信した。 「どうした、ベル」 セイトが、心配そうな顔でベルに手を差し出している。 ベルは自分の知覚に困惑しながら、セイトの差し出した手をとって立ち上がった。 ベルはひとつの疑問をセイトに聞いてみることにした。セイトはバルドルの領主だから、もしかしたら王城のこともなにか知っているかもしれないとベルは考えたのだ。 「王城の西宮でなにか起こっているのですか?」 「西宮……? 俺は何も聞いていないが……」 一度言葉を切って、セイトは顎に手をあてて考え込むと、はっとしてベルに向き直った。 「そういえば、エイリの研究室があるな!」 行ってみたか? と続けた。 ベルは、エイリの研究室と聞いて、そこが原因だと確信した。先日のクレナイの気配は明らかにおかしかった。もしそれが、研究の結果なのだとしたら、この禍々しい魔力は研究室から発生しているはずだ。 「これから行くところです」 ベルがそういうと、セイトはほほえましいものを見るような顔になった。くるくるとよく表情の変わる男である。彼にはまだ、事態の深刻さに気づくすべがなかった。 そして、二人が王城を目指して再び歩き始めた時だった。 ベルは、エイリの魔力を感じた。禍々しい魔力に埋もれて、正確な場所がわからなかったが、西宮に居るらしいことが感じられる。 そこに、エイリが居るのがはっきりと分かる。それだけではない。エイリの魔力は急激に増幅し、揺らいでいた。 ――エイリが本気で戦っている……!? ベルの表情が、急に硬直したのを、隣にいたセイトが気が付いた。 「どうした?」 瞬間、セイトの視界の端で、赤い衣が通り過ぎていった。 信じられない速度でエイリの忍者が疾走していく。 その姿を認めて、セイトは異変を感じた。エイリの身に、深刻な事態が発生していることに、セイトはこのとき始めて気が付くことができた。 セイトには、エイリがベルの護衛につけている忍者が、王城に走っていく理由が、ひとつしか思い浮かばなかった。 エイリは最大で3体のモンスターを使役できる。それは術師が使役できる数としては多くない。だが、忍者が2体居てどうにもならない事態というのはあまりない。 あるとすれば、全力の戦闘だ。 「急ごう。何かあったのかも知れん」 セイトの声には緊迫感が漂っていた。ベルの隣には、さっきまでのやわらかい表情は消え、真剣な表情で王城を見据えているセイトが居た。 二人は走り出していた。 二人の術師が、街道を駆け抜けていく姿が、人々の目に映った。
カーランド王城でもっとも研究室から近い施設は西宮だ。だが、研究室が視界に入る施設はなにも西宮だけではない。研究室の壁が見える場所、それが央宮執務室だ。
カーランド王は日中の大半を執務室で過ごす。各方面の事務処理を全て自分で処理しているためであるが、他の領主も似たような仕事をしているから、王だけが特別忙しいわけではなかった。 それでも、毎日執務室に篭りきりでは退屈してしまう。書類をにらみつけるのに飽きると、カーランド王は窓から外を眺めるのだ。 このときも、王は気分転換に窓から外を眺めていた。 事件が起きたのはまさにそのときだった。 西宮に併設された研究室の白い壁に亀裂が走った。遠くから、硬いものを粉砕するような音が聞こえている。 不意に、赤い衣を纏った細身の人物が中庭に現れた。王城の城壁を軽々と乗り越えて、中庭に降り立ったその姿は、人間とは思えない身のこなしだった。 「忍者……?」 カーランド王はこの人物に見覚えがあった。 ――たしか、研究室のエイリという術師が使うモンスターだったはずだ。それがなぜ。 王が思考に沈みかけたその時、忍者は刀を引き抜いて、ひび割れた研究室の壁に突きつけた。頑強なはずの壁が一気に突き崩れる。 ――あれは『破壊工作』か。 大きく破壊された壁から、一人の男が外へ出てくるのが見える。 外にいた忍者とは別の忍者が、彼を抱えていた。 抱えられた男は術師の外套を着ている。エイリだろうと王は思った。 一瞬、エイリの近くで光がきらめいた。 王は、地面に落ちた矢を見て、忍者が飛来した矢を打ち落としたことに気が付いた。 恐るべき早業だった。 飛来する矢を打ち落とすのは尋常ではない。自分に向かってくる矢を目で捉えることさえ難しいと、王は武官に教えられていた。 王は改めて、使役されるモンスターの武力を認識した。 そして、続けざまに閃光がきらめいて、王は我に返った。 ――攻撃を受けている!! 王城で研究しているということは、エイリはいわば、王お抱えの術師である。そのエイリが何者かに襲撃されている。これは国家に対する攻撃と判断してもよかった。 「すぐに召集できるのは近衛隊くらいか」 王はそこの知れない危険が迫っている予感を感じていた。可能な限り迅速に事態に対処しなければならないという思いが、王の中にあった。 王は身を翻すと、剣を手にとって執務室を出た。 |
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この国の軍隊は少ない。平和で、戦いがないから、軍事力の備えがなくていいと思っているわけではない。単純に、術師の持つ武力が軍隊に匹敵するのと、維持費が掛かりすぎて大人数を雇えないことが、軍隊の少なさの原因だった。 エドガーは、その年やっと訓練を終えたばかりの新米だった。 カーランドの東宮は軍事訓練施設と、軍隊の居住地だ。そこで、一年ほど訓練を積んだ者が、正式に兵士として雇われる。 エドガーは、衛兵に配属された。 警察機構を兼ねるカーランド軍は、街の見回りや、四方門の警備、王城の警備が主な任務だ。衛兵とは、特にそういった任務にあたる者たちのことだった。 彼はこの日、カーランド北西門の警備に当たっていた。 カーランド王城の入り口は四つある。北西、北東、南東、南西一つずつ門があり、王城四方門と呼ばれる。 北西門と南西門は、入ってすぐ東側に折れる通路に出る。北東門と南東門は通路は逆の構造になっており、西に折れる。北と南の通路は、王城の内側の城壁、内壁で王宮とは隔離されており、北側は正門、南側は裏門をくぐって始めて王宮へと至ることができるようになっていた。 王城は、その中心地に行くに従って地面が高くなっており、内壁を挟んでいる北西門からは、王城の内部が見えない。それらの構造は、外敵への備えだったが、エドガーはこのとき、王城の内部が見えないことを残念に思った。 エドガーは、鈍い音を立てて、なにかが破壊される音を聞いていた。 その直前、赤い衣を纏ったモンスターが、王城の西側城壁を乗り越えて侵入するのを見ていたし、彼には王宮で何かが起きていることがわかっていた。 あわてて上官に報告したが、上官も、持ち場を離れるわけにはいかないといって、現状の維持を命じるだけだった。 そこへ、二人の術師が駆け込んできた。 手続きも略式で行うよう要求され、エドガーは一瞬困ったが、術師の一人がベルであることに気が付いて、すぐに通行許可を出した。 何か良くないことが起こっている。ベルが来たのは、無関係ではないだろう。彼なら、非常事態を何とかしてくれるかもしれない。エドガーはそう思っていた。
ベルは自分の見ているものが信じられなかった。
カーランド王城の中庭、北宮から西宮へと至る空間で、6体のモンスターが火花を散らしている。 黒いエルフが矢を放ち、信じられない速度で忍者が叩き落す。そのたびに空間に光が舞った。 モンスターを挟んで相対しているのは、エイリと、黒く染まったクレナイだった。クレナイも黒いエルフも、禍々しい魔力を放っている。 黒いエルフが放つ矢は、まっすぐにエイリを狙っていた。 「なにが起きているんだ!?」 そう叫んだのはセイトだった。 セイトの叫びで我に返ったベルはすぐにプラントを召喚した。 空間に紋章が浮かび上がる。 プラントの戦闘力は低い。だが、拘束力に優れるこのモンスターはこの場を納めるのに絶好の特性を持っていた。 ベルの動作を見て、セイトも我に返った。 セイトが手を掲げると、その場に紋章が浮かび上がる。紋章からは、青いペンギンが剣を構えて現れた。途切れることなく、次々と現れる。 セイトのモンスターはペンギンナイトと呼ばれるモンスターだ。格上に対して強い特性は、セイトの性格によく合っていた。 中庭に出現したペンギンナイトは12体となった。 セイトが使役できるモンスターは最大で12体だった。術師の中でも右に出るものの居ない数である。その圧倒的統率力で、セイトはバルドルを守っている。 黒いエルフの矢が、ベルのプラントを貫く。恐ろしい威力だった。一撃でプラントは消滅するダメージを受けてしまった。ガラスを砕いたような光を放って、ベルのプラントが一体消滅した。 その様子を見て、ベルとセイトが驚愕する。 エルフにそれほどの力はないはずだからである。黒いエルフは別種と思ったほうがよさそうだと二人は判断した。 セイトのペンギンナイトは隊列を作って猛攻を仕掛けた。しかし、黒いエルフはまったくひるむことなく迎撃の態勢を取った。指揮しているのはクレナイのはずだが、彼女に動きはない。まるで石になってしまったようだった。 黒いエルフがペンギンナイトを撃滅した。 格上に強いはずのペンギンナイトは、特性が発動していないようだった。黒いエルフは格上ではないらしい。特性がなければ相性はよくない。地力ではエルフに勝るペンギンナイトも黒いエルフの前には長く持たなかった。次々と光に還される。 だが、それで十分だった。 エイリの忍者が、黒いエルフの背後を取っていた。『侵入』によって相手の懐深くまで進入するのが忍者だ。そしてその火力は尋常ではない。 黒いエルフは同時に崩れ落ちた。 モンスターが倒されたときのきらめく光はなく、闇でできた砂が崩れるように、黒いエルフは消滅した。 瞬間、ベルの残ったプラントがクレナイを拘束した。一切の動作を封じられて、クレナイは召喚陣を描けなかった。 そこへカーランド王と近衛隊が登場した。
「これはどういうことか!」
王は地面がえぐれ、矢が砂となりつつある光景を見て、その場に居る者に視線を走らせた。その視線が、エイリのところで一瞬止まり、クレナイを見て硬直した。 「私が説明いたします」 エイリが起き上がり、王に向き直った。 「うむ、その前に、無事か?」 王はクレナイから視線を外すと、先ほどまで死と隣り合わせだった術師を心配した。 「はい。誰も怪我はありません。ですが……」 エイリが言いよどむ。 「どうした」 「やむを得ず壁を壊しました」 研究室の壁には大きな穴が開いている。その穴の前に拘束されたクレナイが居た。 王はわずかに笑むと、言った。 「無事ならよい。壁は直せる」 そしてクレナイに視線を合わせた。 「あの者はたしか、研究仲間の術師ではなかったか?」 「はい。ですが、彼女は今、人ではありません」 その場に居た全員が目を見開いてエイリを見た。戦闘でおかしくなったのかと言いたげな顔の者も居る。 「どういうことだ?」 その場にいる全員が、エイリの答えを待って、中庭は静まり返った。 「彼女は『ナニカ』です」 エイリがそういった瞬間、ベルは、カーランド王が狼狽(ろうばい)するのを見た。 めずらしいことだった。数年前、カーランドと北の街道で接する都市『シェルバーグ』と軍事的衝突に発展しかけたときも、こうはならなかった。 ベルは、ナニカという単語を『何か』つまり、よくわからないものとして受け取っていたが、王の様子を見て、その考えが違うらしいことを察した。 王は短く、そうかとつぶやくと、その場にいた主要な面々に会議室に来るよう命じた。
会議室は、王城の中央の宮、央宮にある。
主な政務は王が執務室で執りおこなっているため、ほとんど使われることのない部屋だった。 カーランド王は、会議室に呼んだ面々を見渡した。 エイリ、ベル、セイト、近衛隊長と執政官の五人が、広くもない執務室で肩を並べていた。 「さて……」 カーランド王は全員が揃っているのを確認すると、おもむろに話始めた。 「ナニカが現れたとなれば、王家の伝承に従い、それを消滅させねばならぬ」 エイリがうなずいた。 「王家の伝承……?」 ベルは始めて聞く単語だった。彼は、王城で術師として活動するよりも、個人でゴーレムを錬成しているほうが好きだったので、王に関わる者ではなかった。だから、王家の伝承も、ナニカについても知らされていない。 「うむ。説明しよう」 王は、すこし目をつぶり、過去を思い出すように語り始めた。 ナニカとは、またの名を『破滅の石』という。 その性質は禍々しく破壊的で、破滅を呼ぶとされ、極めて危険な鉱物であると言い伝えられていた。 見つけ次第直ちに封じ、可能であれば破壊する。それが、ナニカの伝承だ。 それが、実際にどういった鉱物なのか、そういった情報はほとんどない。ただ、警告だけが脈々と語り継がれてきた。 決して忘れてはならないと、王家に伝わる伝承である。 王は一旦話を区切った。 ベルたちの反応を見て、 「では本題に行こう」 と言った。 「ナニカを消滅させる」 王の声は、否定を許さない響きを持っていた。 だが、エイリが声を上げた。 「しかし、ナニカは破壊できません」 エイリはクレナイが既に何度か破壊を試みていたことを覚えていた。そのときは、それがナニカだとは思っていなかったが、今思えば、本能的に危険を察して破壊しようとしていたのかもしれなかった。 「うむ、通常の手段では消滅はおろか、破壊すらできぬ。そこで、やらねばならないことがある」 王の表情には、ある種の決断を迫られたような気迫があった。 「全領主を招集するおつもりですか」 セイトが答えた。 「そうだ。王家の伝承に従い、全領主を招集して『古の紋章』を起動する」 やはり、といった顔でセイトが沈黙する。 「どういうことですか?」 執政官が、王に尋ねた。 カーランド執政官は、背の高い女で、鋭い目をしていた。 彼女は、全ての領主を招集することが困難であることを知っている。 王は一旦、全員の顔を見渡すと、続けた。 「この国が24都市に街道を敷き、カーランドを首都としているのは、ナニカを封じ、消滅させるためだと伝わっている」 セイト以外の全員が、息をのんだ。 「この国全体が、ナニカに対抗して作られているのだ」 急に話が壮大になって、ベルは付いていけなくなった。 エイリはだから戦争がなかったのかとつぶやいている。 「『古の紋章』は発生してしまったナニカを消滅させる術陣だという話だ。これを起動する。だが、『古の紋章』は起動するために24都市の領主の紋章が必要になる。そこで、全ての領主を集める必要があるのだ」 セイトが領主の証である、金属片を取り出した。領主が肌身離さず持っているものだ。 三角形の底辺が丸くなったような形をしている。言われて見れば、ちょうど24個並べると円形になりそうだった。 「これが要るわけですね」 セイトは術師でもあったから、この証がなにかの術陣らしいことには気が付いていた。 「そうだ」 王はうなずくと、他の者たちを見渡した。 事態を飲み込めないながらも、ベルはあることに気が付いた。 「今から全ての領主を招集すると、数ヶ月は掛かりますが……」 執政官が、ベルの発言を聞いて、うなずいた。 「急いで手配しても、召集には時間が掛かります。それまではどう対応しましょう」 王は、こともなげに答えた。 「全ての領主を集めるために、『跳躍術』を使う」 「跳躍術!?」 近衛隊長が驚いた声を上げた。 跳躍術は、街道に仕掛けられた術式で、表向きは歩き易くするためのものとされているものだ。莫大なルーンを消費して、短時間で長距離を移動する。それが跳躍術だった。その術式が組み込まれているために、ベルは遠くからでも街道の位置を知覚できるのだ。 「それはルーンの消耗が莫大で、ほぼ使えないのでは……?」 エイリが疑問を口にした。簡単にルーンを使えれば、そもそもルーン錬成術など必要なかったのだ。 「戦時備蓄を使う」 王はすでに決めたことを繰り返すような調子だった。 「そ、それほどの事態ですか……」 近衛隊長が言った。 戦時備蓄とは、その名の通り戦時に向けて備蓄されたものである。カーランドが攻められたとき、術師の武力を最大限発揮させる為に備蓄しているルーンだ。それを消耗するということは、カーランドの防衛力を削ぐに等しい行為だ。 王は近衛隊長にうなずくと、ベル達を見た。 「跳躍術には術師の力が要る。領主とともに跳躍する術師と、こちらで受ける術師だ。諸君には跳躍術の受け取り側をやってもらいたい」 ベルは、やっと自分達が呼ばれたわけを理解した。 王は中庭で報告を受けたとき、すでに全てを決断していたのだ。 「できるかぎりの事をしましょう」 ベルがそういうと、残りの者もそれに続いた。 王は満足そうにうなずくと、すぐに全領主召集の令を出した。 令も、術式によって瞬時に各都市へと届けられ、その日は国中が大忙しとなった。 |
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ミチカは、あの日以来、あまり怖がらなくなっていた。 あれから数日のうちに、ベルのようなあったかい感覚が、カーランドの街に溢れ始めたからだ。 相変わらず、王城の恐ろしい気配を感じてはいたが、それも、なにかに押さえ込まれているような気がしていた。 それでも、ふと、王城の方を眺めてしまうのは、自分ではどうしようもなかった。底冷えのする冷たい気配が、ミチカを見ているような気がして、身が震える。 そのたびに、ロジュや、周りの人たちが心配そうにするのをミチカは感じていた。 そんなときは、笑顔を見せるとリーンもロジュも喜ぶので、ミチカは極力笑顔をみせるようにしていた。
ロジュは、ミチカが笑顔を見せるようになって喜んでいた。
市場での商売も上手く行っている。どういうわけか、最近は各地の領主を見ることが多かったが、商売相手として優良だったので、特に気にしていなかった。 彼が、最近の異変に気が付いたのは、商売仲間との会話だった。 「近々、良くないことが起こるらしい」 そういったのは、抜け目ないことで有名な商人だった。 各地の領主がありえないくらい集まっている。これはなにかある。というわけである。 そういわれてみると、ロジュも思い当たることがあった。 ベルの様子を最後に見たのはいつだったか、切迫してはいなかっただろうか。 急に不安を感じ、ロジュは近いうちにカーランドを出るべきだろうかと考え始めていた。
エイリはクレナイの囚われた牢獄を訪れていた。
王城の地下に作られた牢獄は、夏の熱気が停滞して蒸すように暑かった。 クレナイはプラントに封じられて動かないが、たとえ拘束されていなくてももう動かないのではないか、とエイリは思った。 クレナイは石のようにまったく動いていない。呼吸も、心臓の鼓動すらないようだった。 エイリはクレナイの最後に言った言葉を思い出していた。 ――壊して……。 こうなっては、エイリの独断でクレナイをどうにかするわけにもいかなかった。そもそも、ナニカに成ってしまったなら、破壊できないかもしれない。 「そんなんになっちまいやがって……」 エイリは立ち上がると、もう動かないクレナイの元を去った。 調子が良くない。エイリは頭の中にもやが掛かっているような感覚を感じるようになっていた。
研究室の奥、実験の資料が収められている部屋に、エイリは居た。
彼は、山のようにある資料を眺めた。 その量の多さが、そのまま、彼とクレナイの実験の日々を示している。 エイリは、厳重に封じられている資料を手に取った。 ――壊して……。 エイリの頭の中には、クレナイの言葉がこびりついていた。 手に取った資料には、ルーン錬成術について書かれている。それは、ナニカを練成してしまった術陣とは別のものだった。 あれはまだ、エイリもクレナイも、ルーンの錬成という難問に、なんの糸口も見出せていなかったときのことだ。 クレナイが、ベルの仮説を思い出したのだ。 「魔力とは生命力である」 エイリは、ベルの術師としての能力の高さと、高い知覚能力を知っていたから、この仮説は正しいかもしれないと感じていた。だが、ベルに負けを認めるようで、そのことは頭から追い出していた。 「やってみましょう?」 クレナイが言った。 エイリは気が進まなかったが、他になんの糸口もなかった。 幾度かの実験が繰り返され、数年の歳月をかけてついに、ルーンの錬成に成功した。 いや、成功してしまった。 それは、生きた家畜をルーンへと錬成する術だったのだ。 エイリは、これは発展とは真逆を行く破滅の術だと思った。 どちらから言い出したのか、自然と二人は、このルーン錬成術を封印した。 それから、ベルがうっかりこれを発見しないように、忍者をつけて見張った。 それは同時に、恐るべき才覚を持っているベルを守る為でもあった。 エイリは、手に持った資料をおもむろに床へ置いた。 ナニカを錬成してしまった以上、もうルーン錬成術は研究されないだろう。そうなれば、成功してしまったこの禁断の術は、絶対に見つかってはいけなかった。 クレナイの願いを叶えられるとしたら、もうこれくらいしかないだろう、とエイリは思った。 エイリは、資料に火を付けた。 彼は、クレナイの望みが、この研究自体の破壊だと考えていた。 ナニカ錬成術は、壊せない。今後の対策に必要になるだろう。だからせめて、こちらだけは完全に壊してしまおう。それが、今エイリにできる全てだった。 エイリとクレナイの、唯一の成功が、灰になっていった。 ナニカ錬成という、歴史に残る最悪の結果だけを残して、エイリは唯一成功した実験を闇に葬ったのだ。
セイトは、王城で跳躍術を発動させる日々だった。
彼は、バルドルの領主だったが、彼自身、自分を術師だと思っていた。 体調の優れない様子のエイリに代わって、セイトは進んで任務に付いていた。 跳躍術は、莫大なルーンを消耗する。 そして、その発動は、ある程度の間隔を空ける必要があった。多い日で午前と午後、それぞれ二組づつ跳躍するのが限界で、23組が揃うのには、5日は必要だった。 セイトは、跳躍術の発動で疲労を感じていたが、集まってくる他都市の領主や術師に挨拶もしなければならなかった。 何年も会っていないような人たちが、カーランドに召集されつつある。 急な召集で、しかも跳躍術によって集められたため、準備ができなかったのだろう。寒い地域から来た者が、セイトと同じようなもこもことした服装をしていて、夏の暑さにあえいでいたり、暖かい地域から来た者が涼しげな格好で過ごしていたりする。 色とりどりの服装、模様、装飾が、カーランド王城の賓客館に集められている様は、どことなくお祭りのような体裁をしていた。 まるでカーランド評議会のようだと、セイトは思った。 10年に一度開かれるカーランド評議会は、全ての領主が政治的な話し合いをする会議だ。セイトは一度だけ見たことがある。そのときはまだ、彼は領主ではなかった。 新参の領主として、セイトは各都市の領主に挨拶して回った。 気のいい人ばかりではなかったが、彼が術師でもあることを認めると、すぐに受け入れられた。
ベルは今までにないほど忙しかった。
跳躍術の発動に、ルーン錬成術の解明とナニカを破壊する手段の模索を頼まれていた。 エイリの研究室にあったナニカは、央宮の地下に移され、現在は術師の外套と同様の方法で魔力の漏洩を防いでいる。 その一部を、ベルは与えられていた。 いくつかの方法を試して、ベルはこれが破壊できないものであることを確認した。 禍々しい魔力が、ベルの魔力を侵食するので、ベルはすぐに気分が悪くなった。 各地の術師が集まってくると、ベルの負担は減った。 跳躍術を他の術師に任せ、ベルはナニカの研究を進めるよう王に命じられたのだ。 ベルは、あの禍々しい魔力に中てられると思うと気がめいった。 「ナニカか……」 ベルは研究室へ向かう途中、誰に言うでもなくつぶやいた。愚痴を言う相手もいまは居ない。 「……ナニカ?!」 驚いたような声が、ベルを呼び止めた。 「今、ナニカといいましたか?」 ベルに話しかけてきたのは、術師の男だった。 黒い髪が日に焼けて茶色くなっている。着ている服装から、ルーフェから来たのだとわかった。 男はハクレンと名乗った。 集められた術師の中で、唯一、ナニカについての情報を持っている術師だった。
ベルとハクレンは、ナニカについて情報を交換しあった。
ハクレンの語ることは、ベルにとってはもちろん、カーランド王さえ知らない情報だった。 ルーフェには書庫楼という建物があり、そこに納められた石版に、ナニカについての情報が書かれていたのだった。 ベルは、書庫楼という名前に聞き覚えがない。カーランドには書庫楼がないのだ。 書庫楼のある位置は、ルーフェの中心地だった。カーランドの中心地には王城がある。書庫楼らしい施設は、なかった。 あるいは、王家の伝承が、石版の代わりなのかもしれないとベルは思った。 ナニカという鉱石は『魔軍』を呼ぶのだ、とハクレンは言った。 魔軍に対抗するために、なにか手を打っておく必要があると、ハクレンは訴えていた。 ベルは、魔軍と聞いて、黒く染まったクレナイの姿を思い出した。使役していたのは、黒いエルフだった。エイリの話によると、ダークエルフと呼ぶらしい。 彼女は魔軍に成ってしまったということだろうか、とベルは考えた。 そして、ナニカが自分の魔力を侵食するのを思い出して戦慄した。 ナニカは魔軍を呼ぶ。それは、術師を侵食することで発生させるのではないだろうか? ベルはこの仮説をハクレンに語った。 「もし、もしもそうだとしたら、クレナイという人物だけじゃない。ここに集められた我々全員が、彼女のようになってしまう危険があるのではないですか?」 ハクレンは言った。声には緊迫感が漂っている。 ベルはなにかが頭に引っかかった。 「そうですね……。今は魔力を封じているので、そこまで危険ではないかも知れませんが……」 そこまで言って、ベルは気がついた。 クレナイと同じくらい、ナニカに接触していた人物が、もうひとり居る。 「……エイリ」 ベルは、大切なものがどんどん手のひらから落ちていくような感覚に襲われて、心の底から寒さを感じた。 王城の中庭はまだ、夏の面影を残している。 |
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王城にはいくつかの庭がある。 その中のひとつ、北西の庭にセイトの姿があった。隣に数人の術師が居る。 西宮と北宮の間にあるこの庭は、先日クレナイとベルたちの戦闘があった庭である。庭はまだ整備されておらず、戦闘の痕跡があちこちに残っていた。 地面のところどころはえぐれており、丁寧に作られたであろう花壇には矢を受けた穴が見える。西宮の方を見れば、壁に穴を開けたままの研究室が見えた。 「これは……。本当に戦闘になったのですね」 そういったのはセイトの隣にいた女の術師で、ナンナの術師だ。思慮深げな視線を走らせては納得したように何度もうなづいている。 「はい。これが、たった一人の術師がナニカと成った為に起きた戦いの跡です。制圧するのに三人の術師を必要としました。ナニカの脅威は分かっていただけましたか?」 セイトは周りの術師たちに向かって言った。 王城に召集された領主は、概ね理由を知っていたから、特に説明もなく待機することになっても不満が噴出するということはなかった。だが、跳躍術のために付き添った術師はそうではない。術師たちは、何が起きたのか興味津々だったのだ。セイトは、そんな術師たちにかいつまんで状況を説明する役をカーランド王より頼まれていた。 「ふむ、確かに、ナニカというものが術師を操って戦いを起こしたのなら脅威ですな」 今度は、老齢な術師が答えた。彼はディアドラの術師だ。 長いひげをゆっくりと撫でながら、セイトを見る。 ベルの仮説は、信じるに値するか聞いているのである。 つい先ほど、ナニカは術師を蝕んで魔軍と成すという仮説が知らされたばかりだった。カーランド王は直ちにナニカを保管している場所を出入り禁止にした。 「脅威でしょう。私にもベルほどの魔力知覚を持っていればわかるのですが、ナニカは近くに居る者の魔力を侵食するとか。彼は嘘をついて我々を混乱させるような人物ではありませんから、我々はもちろん、ほかの者も不用意にナニカに近づかないほうがよいでしょうね」 セイトの顔をみていたディアドラの老術師は、ひとつうなずいた。 「そうですな。では、わたしからも他のものに話しておきましょう」 それぞれ思案顔の術師たちは、とりあえずうなずいて同意を示した。 その場に居る誰もが、自分で調べてみたいという顔をしているのを、お互いに知っていた。 「頼みます」 そういって、セイトは空を見上げた。太陽が高く昇って、日差しが熱い。そろそろ夏も終わるというのに、暑さは衰えることを知らないようだった。外套をすこしはためかせて、セイトは暑さを逃がした。 それを見ていたナンナの術師が、にこやかに笑った。 「夏用の外套をご用意しましょうか?」 「ああ、いや、これはこれでいいのです」 セイトは答えると、もこもことした自分の外套を見下ろした。 凍えることのないようにと作られた外套だった。
ベルとハクレンはエイリを探していた。
仮説がほんとうだとしたら、エイリは極めて危険な状態にあるはずだった。いつクレナイのようになってもおかしくはない。 だが、そう思いながらも、ベルは疑問を感じていた。 クレナイには禍々しい魔力の気配があった。エイリからはそういったものを感じなかった。この差はなんだったのだろうか。 考えても答えは出そうになかった。 エイリを見つけたのは、西宮の研究室だった。 壁にもたれかかったまま、エイリは動いていなかった。 「エイリ!」 ベルが叫んだ。ベルの脳裏には、クレナイの硬直したような姿が思い浮かんでいた。遅かったかという思いが、一瞬ベルの心を支配した。 ベルとハクレンがエイリに駆け寄った。 「寝ている……」 ハクレンが、緊張をいくらか解いたように言った。 よく見ると、エイリの肩がわずかに上下して、息をしているのが分かった。 ベルも肩の力が抜ける。 「なにもこんなところで……」 ベルは大きなため息を吐いた。よかった、とベルは思った。 「運びましょう」 ベルとハクレンは、顔を見合わせると、そういった。 ハクレンは、ベルがエイリに手を伸ばしたときに、ふと不自然なことに気が付いた。 エイリは呼吸をしているが、腹部は動いていない。かといって、肩の動きは少なすぎるのだ。 エイリはほとんど呼吸していないように思えた。 「……ベルさん、彼はほとんど呼吸していない」 ハクレンがそういうのを聞いてベルも気が付いた。 声に緊張が戻っている。 ベルは、エイリの腹部が完全に硬直している部分と、そうではない部分とに分かれているのに気が付いた。右側の腹部が硬直している。 「右側になにかある……?」 ベルはつぶやくと、ハクレンと目を合わせた。 「調べてみましょう。緊急を要するかもしれない」 ハクレンが言った。 ベルはエイリの服をまくって、腹部を調べることにした。 石だった。 薄く青みがかった水晶のような石が、エイリの腹にへばりつくようにして在った。それは、まるで、エイリの体の一部であるかのように、腹部の形に沿っていた。ベルは、エイリの腹が結晶になったのだと思った。 ベルはこの石を見たことがある。ハクレンも同様だった。 「これは……」 ハクレンが息をのんだ。 「……う」 そのとき、エイリが目を開けた。 「ベルか……」 エイリはベルを見、自分の状況を見て青くなった。 さっと腹部を隠すと、ゆっくりと立ち上がった。 「誰にもいうんじゃねーぞ」 「あ、ああ」 ベルはそう答えるしかなかった。 言っても、誰も信じないだろうと思った。 腹がルーン鉱石になったなど、誰が信じるだろう。だが、今はナニカのこともある。あるいは信じてもらえるかもしれない。 ベルとハクレンは、エイリが研究室を出て行くのを見守って、あわてて追いかけた。
カーランド王は、集まった術師たちの提案を聞いていた。
先日、ベルがナニカの仮説を話して以来、術師たちはナニカに興味津々のようだった。 術師たちは、古の紋章の調査をしたいと言っていた。古の紋章を発動したとき、実際に何が起こるのか正確なことがわからないのでは、あまりに危険だというのである。 「それはわかるが……」 近衛隊長が言った。彼は術については専門ではないし、得体の知れない術が発動するときには、王を遠ざけておきたいと思っていた。 「時間がないし、他に方法がないのだ」 近衛隊長はそう説明した。 王の言った説明をそのまま繰り返しただけである。 ナニカの即時消滅を狙う王としては、のんびり調査などしている場合ではないし、調査したからといって、何が起こるか正確にわかるわけでもないことを、王は知っていた。 だが、それで術師たちが納得するわけはなかった。 「本当にほかに方法がないのですか?」 シェルバーグの術師が聞いた。 細身で長身な彼は、棒のようだった。ロウで固めたような顔は青白く、ドラキュラですと紹介されたら信じそうなくらいだった。 「実は他にも方法があって、そちらだと不都合があるから隠しているなんて噂もありますが。実際、ベルという術時は調べていたのでしょう?」 どこか怪しげな笑みを浮かべて、彼は続けた。 実際、王城ではそのような噂が流れていた。召集には時間が掛かる。その短い時間で、ベルにナニカの破壊方法を調べさせたのを邪推したものが居た結果だった。 カーランド王は大きく息を吐いた。 全員の注目があつまり、場が静まってから口を開く。 「よかろう。そこまで言うならやってみるがよい。それで消滅させられた暁には褒美をとらす」 王が宣言すると、その場にいた者がどよめいた。 シェルバーグの術師、ヤラクは満足そうにうなづいた。 「ではさっそく実験を開始しますので、これで」 そういってヤラクは退室した。 「よいのですか?」 近衛隊長が王に聞いた。 ヤラクといえば、数年前にも難癖をつけて衝突し、あわや軍事衝突へと発展しかけた男である。勝手を許すとなにをするか分からない危険があった。それでも、シェルバーグ最高の術師であるから、無碍にもできない。 「よい。――変な工作をされるよりましだ」 後半は、近衛隊長にしか聞こえないように耳打ちした。 「明日の夜には全員が揃うのだ。それまでに他の方法が見つかるとは思えないが、見つかれば良し、見つからねば紋章を使う。それだけのことだ」 そう言いつつも、カーランド最高の術師と、エイリたちが認めているベルが発見できなかったのだ。他の誰でも見つかりはしないだろう、と王は思っていた。 |
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ヤラクに残された時間はほとんどなかった。今日の午後には全領主が揃う。そうなればすぐにでも古の紋章とやらでナニカは消滅させられてしまうだろう。 昨日の夜から、いくつかの方法でナニカの破壊を試したが無駄だった。 ハンマーで叩いても傷が付かず、その他のあらゆる物理的手段を用いても結果は同様だったのだ。 「素晴らしい……」 ヤラクは手に持ったナニカを見て、にやにやと笑みを浮かべた。 圧倒的硬度。これほど素晴らしい鉱石は他にない。加工が難しくとも、使い道はいくらでもあった。 あらゆる鉱物よりも硬く、壊れない代物が、なぜ利用されず消滅させられるのか、ヤラクには意味が分からなかった。 不意に、ナニカに触れている手から寒気が走った。氷の蛇が手から体の内側を通って這い上がってくるような感覚。 ヤラクは舌打ちした。 もう何度もこの不愉快な感覚を味わっていた。 この忌々しい性質さえなければ、もっとよかったのだが、と彼は思った。 ヤラクは知らなかった。クレナイがこの感覚を味わうたびに、すこしずつナニカに成り代わっていたことを。そして、ヤラクが着実にナニカに成り代わっていることを。 ナニカの保管されている王城の地下は、その位置のせいで昼間でも肌寒い。ナニカに触れているヤラクの体感は、さらに寒かった。 彼の体に震えが走った。 彼はその震えが寒さによるものだと信じた。 「そろそろ行くか」 次は錬成方法を探るつもりだった。王城の西宮に行けば、まだ術陣があるはずだ。 ヤラクは、手のうちにあるナニカを放ろうとして、自分の意識が消えかかっていることに気がついた。
ベルは、やはり、と思った。
エイリからはナニカの禍々しい気配を感じない。腹のルーンがナニカをはじいたのだろうか? 「なんか用かよ?」 ベルとハクレンが自分を追ってきたので、エイリは気だるそうに振り返った。 態度にはいつもの傲慢さが戻っている。ベルはすこしだけ安堵している自分に気がついた。 「エイリさん、クレナイさんはナニカに侵食されてああなったんですよね?」 聞いたのはハクレンだ。 意図を察して、エイリはうんざりしたような、狼狽したような、どっちともとれない奇妙な顔をした。 「ああ、そうだろうな。俺はまだ大丈夫そうだが、いつなってもおかしくはねぇか……」 エイリは首を振った。 「エイリからはナニカの気配を感じません。たぶん成り代わってはいないでしょう」 ベルがそう言うと、エイリが目を見開いた。 「ナニカの気配だと?!」 エイリが勢い良くベルの肩をつかんだ。エイリの顔が苦しそうにゆがんだ。急な運動に対応するように、呼吸が荒くなっていない。浅い呼吸のままだった。 「あ、ああ、ナニカには禍々しい気配があるだろう?」 驚きながらも、ベルは答えた。 エイリの体調が悪くなっているのがわかる。先日の戦闘が、ルーンに蝕まれた体には耐えられない負荷を与えてしまったのかも知れなかった。 「いいか、ベル。お前は魔力を探知する才能がある……」 エイリが、苦々しげに話し始めた。 「だが、モンスターの気配は感じなかったはずだ」 「ああ、モンスターは探知できない。魔力だけだ」 ベルは、エイリの勢いに驚きつつも答えた。 ふと、ベルの脳裏にミチカが思い浮かんだ。彼女も同様なのだろうか、とベルは思った。 「そう、か」 エイリの、ベルの肩をつかんでいる手から力が抜けた。 「ナニカの、気配はわかるんだな……」 エイリは、つぶやいた。 「それがナニカだとわかればね」 ベルはクレナイの変化に気がつけなかったことを今更思い出した。 「成り代わる、というのは……?」 話がひと段落するのを待っていたハクレンが、ベルに聞いた。聞かれて、ベルは自分がなぜ成り代わるという言い方をしたのか考えなければならなかった。とっさに出た言葉だった。 「わかりません。とっさに言っただけで……」 そう答えつつ、ベルはこの表現が正しいのではないかという予感を感じていた。同じ予感をハクレンとエイリも感じていた。 「……とにかく、エイリさんはナニカに成ってはいないようで安心しました」 ハクレンが言った。 「ふん、そんなことを心配されるいわれはねぇな……」 エイリは決まりが悪そうに言った。 その時、ベルはナニカの気配を感じて思わず視線を下げた。体が身構えている。 「どうしました?」 ハクレンが、ベルの様子を見て聞いた。 「ナニカの気配が……!」 ベルは緊張しつつも言った。 地下に保管されているナニカは、魔力を遮断して封じてあるはずだった。魔力が流れ出ていなければ、ベルにも知覚はできない。その気配が、出現した。 ハクレンとエイリに緊張が走った。二人は気配を察することが出来なかった。 「聞いてはいましたが、すごいものですね」 ハクレンは感心したように言った。 エイリはいらだたしげに、舌打ちした。 「誰かが持ち出しやがったか?」 「わからない。行ってみよう」 ベルとハクレンがうなづきあった。 「エイリはカーランド王に報告してくれ!」 ベルはエイリにそういうと、ナニカの気配のする方を目指して走り出した。 エイリは舌打ちで答えたが、ベルは気にしなかった。戦闘になるかもしれない場所には、エイリをつれていけないと思っていた。 ベルとハクレンが走り去ったあとを、赤い影が追っていくのを、数人の術師が目撃した。
ナニカの保管されている地下から西宮の研究室へ行くには、央宮から中庭の通路を通って行く必要がある。その通路の入り口で、ヤラクとベル、ハクレンが対峙していた。
ヤラクは術師の外套を揺らめかせながら佇んでいる。 ベルは、ヤラクからナニカの気配を感じ取っていた。だが、その右手に持っているものに気がついて、驚いた。 ヤラクはナニカを握っていた。 「ヤラクさん。なぜナニカを持ち出したんです?」 ベルは慎重に聞いた。 ハクレンが、ヤラクを伺いながら、いつでもモンスターの召喚を行えるように構えている。 ヤラクのどんよりとした暗い目が、ベルを捉えた。 「……ベルか」 ヤラクの手が、ゆっくりと持ち上がっていった。体の前に手をかざすのは、術師の召喚の姿勢だ。ハクレンとベルに緊張が走った。 だが、ヤラクの手はすぐに止まった。ゆるやかに開かれた手から、石が落ちていった。からん、と音を立てて、ナニカが床に転がる。 途端、うつろだったヤラクの目に、光が灯った。 「……ベルか?」 ヤラクが、驚きと戸惑いの混じったような声をだした。まるで、今気が付いたような口ぶりだった。 別の何かから、体を取り戻したばかりであるという印象を、ベルは受けた。 「正気に戻ったのか……?」 ハクレンの後ろから、そう言う声が聞こえて、ベルとハクレンは振り返った。セイトと何人かの術師が、召喚の姿勢で立っていた。
ヤラクは拘留されることになった。
正気になったヤラクはそれを受け入れつつも、貴重な証言であるとして、自分の証言を聞くよう要求した。セイトや、数人の術師がそれを行うことになった。 そして同時に、ナニカの危険性と、対応の緊急性も知らしめられた。本日中に、古の紋章によって、ナニカ消滅を行うことが正式に決定された。 もはや、古の紋章に対して危険性を指摘するものは居なくなっていた。 |
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術師がナニカに成ってしまうという知らせは、現実感を持って城内に知れ渡った。その結果として、すでに城内にいた術師は、すでに成り代わっているのではないかなどという噂まで立っていた。 「だとすると、私達の持っている情報は、どこかに書き記したほうがいいかもしれませんね」 そういったのはハクレンだった。情報を持ったままナニカに成ってしまっては、誰もそれを知らないままナニカと相対することになってしまう。それは避けたかった。 西宮のある一室を借りて、ハクレンは手紙を書いていた。そばにはエイリとベルが居て、三人で情報を出し合っている。 手紙はナニカについて書いたものだ。まだ、誰に宛てるかは決まっていないが、ベルやエイリも、情報を残しておくことには賛成だった。 「それで、ゴーレムの心臓を錬成する術陣の改造は、禁止したほうがいいんでしょうか?」 ハクレンは、手紙を書く手を止め、ベルとエイリに向き直った。 ベルとエイリは顔を見合わせて、すこし悩んだ。 「禁止しても、やるひとはやるのでは?」 そういったのはベルだ。 それを聞いて、エイリも同意した。 「特に、ベルみたいなやつがやるだろうな」 「……ううん、まあ、やるかもなぁ……」 知りたいという欲求は、止めようがない。ベルはそういう人種で、ハクレンもそうだった。実際、ベルもゴーレムの錬成に関してはすこし手を加えている。錬成期間を短縮するのがその成果だが、莫大なルーンを消費するので使えなかった。 「そうですね。では、ナニカ錬成術の詳細は伏せたほうがいいのかもしれません」 ハクレンがそういった。 「ああ、そうだな……」 エイリは、すこし眠そうに言った。 壁際に寄りかかって、だるそうにしている。あまり体調がよくないようだったが、心配すると機嫌が悪くなるので二人は何も言わない。 「あまり詳しい内容を書くと、悪用される危険が増すので、警告するに止めるしかいけど……」 ベルはつぶやきながら、王家の伝承や、ハクレンの話した石版の情報が、どうして断片的で警告しか書かれていないのか、悟った。 「…・・・そういうことですね」 ハクレンも思い至ったようだった。 エイリは鼻で笑うと、自嘲気味に言った。 「いっそ全部書くのもありかもな!」 「危険では……?」 「それも含めて判断を委ねられる相手はいねぇのか?」 「それは……」 ハクレンは一人の少女を思い出していた。使役の出来ない術師。ルーフェに残してきた彼女はどうしているだろうか。 彼は筆をとると、もう一度書き始めた。 「今日、何かが起こる。そんな気がします。だから、保険をかけておきたい。」 「ああ……」 エイリは、どうでもよさそうに答えた。 ベルは、ハクレンの書いている手紙を見て、全てを書くことにしたのを知った。 「託すんですね」 「託します。彼女なら、その判断ができると思います」 ハクレンが信頼する相手とはどんな人だろうか、とベルは気になった。ちらりと手紙の宛名を見て、ベルはその名前を覚えておくことにした。 宛先は、ルーフェのユエナという人物だった。
手紙を出すには、術師はモンスターの使役を使うことが多い。
使役されたモンスターから品物を奪うのは人間には難しいからだ。そして、モンスターは術師から離れても命令を実行するし、裏切らない。安心して任せられる。 だが、今から手紙をモンスターに託しても、途中でモンスターが消えてしまう危険があると、ハクレンは思っていた。 術師が死ねば、使役されたモンスターも消える。 ハクレンは、手紙の重要性と、モンスターを使役するリスクの間で揺れた。 「では、行商人に頼みますか?」 ベルが、ハクレンに提案した。 幸い、ベルには最近知り合った行商人がいる。 「お願いできますか?」 「やってみます」 ベルはうなずくと、ハクレンとともに、カーランド王城を出た。
ロジュは、カーランドを出る準備を進めていた。明日の朝にカーランドを出られる予定だった。
そこへ、ベルとハクレンは訪ねてきた。 「こんにちは、ロジュさん」 ベルは、まだ起きたばかりだという顔をしてロジュにあいさつした。 「これはどうもベルさん。あいかわらずのようですな」 ロジュはにこやかに言った。術師には変わり者が多いが、ベルという人物はいつも眠そうだな、とロジュは思っていた。もちろん、それを嫌っているわけではない。 「あ! ベルお兄ちゃん!」 ベルに気がついたミチカが、ベルに飛びついた。 ベルはミチカにあいさつしつつ、頭をなでた。 ロジュとハクレンは、二人の様子をほほえましく見守っていた。 「それで、今日はどんな御用ですかな?」 ロジュが、ベルに聞いた。 「実は、今日中にカーランドを出ようと思っておりましてな。商売はできそうもないのですが……」 ロジュはちらり、とミチカをみて、すまなそうに言った。 「ああ、それはちょうど良かった。実は、ルーフェに手紙を届けてほしいのです」 ベルは、ハクレンを紹介して、手紙を頼んだ。 「なるほど。それくらいでしたらお安い御用です。承りましょう」 ロジュは快諾して笑顔を作った。 「お願いします」 ベルとハクレンが言った。 「御用がそれだけですかな?」 「ええ、それだけです。ありがとうございました」 ベルとハクレンは頭を下げた。 「ああ、いえいえ、とんでもありません。時間があるのでしたら、お茶でもどうですかな?」 ロジュは、家の方を指しながら言った。 空はすでに傾き始めていた。すでに日が赤い。紋章の発動時には、クレナイとエイリのそばにいようと思っていたベルはこれを断った。 「そうですか、しかたありませんな。では、またの機会に」 「ええ、そのときはお願いします」 ロジュとベルは別れた。 「ベルお兄ちゃん。ばいばい」 ミチカはうっすらと涙を浮かべていた。
ベルたちがカーランド城に戻ると、既に日は落ちていた。
全領主が揃い、いよいよ古の紋章を完成させるところだった。 紋章の発動は、地下室で行われることになっていた。 ナニカをあつめ、クレナイや、念のためヤラクも、ナニカ同様に紋章内に配置された。それを囲むのは、領主と、付き従ってきた術師である。総勢で50人ほども居た。 「では、これより、伝承に従い、古の紋章を発動する」 カーランド王が重々しく宣言した。 全ての領主が、欠片を取り出して配置していく。 地下室は、領主と、術師とナニカでいっぱいいっぱいになっていた。 ベルは、ちらりとセイトを見た。 欠片をおきながらも、もこもことした外套が暑そうだった。 そうして、紋章が完成した。 カーランド王が発動の言葉を言えば、古の紋章が発動する。 ふと、ベルはヤラクを見た。 腑に落ちないという顔をしていた。何かを見落としているときにする顔だった。 そのまま、エイリを見た。 同じような顔をしていた。 そう思って見渡してみると、術師の多くがそんな顔をしていた。 何かを見落としているのだろうか、とベルは思った。 古の紋章が何をするのか、明白ではない。ただ、ナニカを消滅させる術陣であるというだけである。 ふと、ベルの脳裏に、カーランド王の言葉がよぎった。 ――ナニカは破壊できない。 確かに、破壊できなかった。傷一つ付かない。ベルは、侵食されないように気を払っていたから、多くは試していなかったのはたしかだ。それでも、ナニカの強固さはわかる。 それを消滅させる。 そんな術陣が目の前にあった。 いったいどんな仕組みになっているのか、と思って、ベルは決定的な見落としをしてるような気がしてきた。これは、発動してもよいものなのだろうか、と思った。 カーランド王が、術陣の端に立ち、手をかざす。 「発動せよ! 変魔!」 置かれた欠片が、光を放ち始めるのを、ベルは見た。そして、術陣に絶対に必要なはずのルーンが用意されていないことに、気が付いて戦慄した。 ――これは術陣ではない、何かだ。 |
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古の紋章から放たれた光が、ナニカを照らした。照らされたナニカは、その硬度に関わらず、ぐにゃりと変化した。 誰もが、消え去るナニカを想像して、裏切られた。 ナニカは黒く染まり、急激に膨張した。 うねうねとうごめくように、巨大化したナニカは、次第に形を整えていった。 黒い、それは全身が漆黒で出来ているかのような、異形のモンスターだった。 黒く細長い腕に、漆黒の帯を巻きつけている。細身の体からは、犬を思わせる脚と、コウモリのような形の巨大な翼が生えている。ちらちらと見える尻尾は、細い糸の先に槍が付いているような形状をしている。 そして、頭がない。 その見覚えのある姿に、ベルは絶句した。 そして、そのモンスターが、ナニカの数だけ、数十体は出現したことに、恐怖を感じた。 領主の一人が倒れた。 モンスターが、出現と同時に攻撃したのだと、ベルにはわかった。それはベルの目の前にいたモンスターが、ベルを攻撃していたからだ。恐ろしい硬度の爪が、ベルを貫こうとして、止まっていた。 鈍い銀色の刃が、爪を受け止めていた。 赤い衣の忍者。エイリの忍者だった。ずっと、ベルを守っていたのだ。 忍者が、ベルを見た。この視線を、ベルは覚えている。 「あ、……」 ベルは森の中で、ゴーレムから自分を救った存在を察した。 モンスターが、一旦距離を開いた。ベルの視界が開ける。そして、目に映ったのは、地獄だった。 最初の攻撃で、8人は死んでしまったようだった。続けざまの攻撃に対応できず、もう6人ほどが死んだ。 エイリは見えなかった。ハクレンも見えなかった。セイトも、クレナイも見えなかった。判別できなかった。 部屋の温度が急激に下がっている。 極寒の空気を、モンスターが連れて来たかのようだった。 実際、部屋の床に霜が下りている。温度が下がっているのだ。 目の前の影がかすかに揺らいで、ベルはあわてて、プラントを召喚した。
エイリは、自分の体を貫いた黒い爪を見つめていた。痛みはない。まだ、痛みを感じるほどの時間が経過していなかった。世界がゆっくりと、静止しているのではないかと思うほどゆっくりと流れていた。
左のわき腹から爪が食い込んでいた。体の一部がルーンになっていたおかげで、分断は免れたが、同じことだった。もはや助からない。ここで死ぬのだと、はっきりわかった。 ふいに、爪が引き抜かれた。引き抜かれた爪は、黒いモンスターの指先で、伸縮した。そういう構造になっているらしかった。 熱い。そして寒い。 視界の端で、自分の忍者がベルを守っているのが見えた。常につけていた護衛の忍者だった。どんなときも護衛を外さなくてよかったと、エイリは心底思った。 まだ、死ぬわけには行かなかった。死ねば、使役されたモンスターは消える。そうなれば、ベルの戦闘力は低い。助からないだろう。 そういえば、クレナイは、と思って、見上げた先に、黒いモンスターが居た。エイリを襲ったモンスターは、まだ消えては居ないのだ。 まだ、まだ死ねない。死なない。エイリは地下室に居た誰よりも早く、使役モンスターを召喚した。
ハクレンは、一歩前にでていた。
術陣がおかしいと気が付いたとき、とっさに止めに入ろうとしたのだ。そして、ナニカが変化するのをみて、足を止めてしまった。何が起きているのか、観察し、分析しようとしていた。ハクレンの、何事も分析しようとするクセだった。このクセのおかげで、多くの人を偏見なしで分析し、友好を築いてきたハクレンは、警戒することを忘れていた。 黒い、どこまでも黒いモンスターが、ハクレンを襲った。 とっさの反応が間に合わない距離だった。そして、ハクレンには、ベルのようにあらかじめ守っているモンスターは付いていなかった。 全身を、するどいつめが襲った。豆腐を包丁で突き刺すような容易さで、ハクレンの体は貫かれた。 爪が根元まで突き刺さって、拳がハクレンの体を突いた。凄まじい衝撃で、ハクレンは後ろに飛ばされた。 後ろに居た何人かが、ハクレンを受け止めつつも壁に押し付けられた。 ハクレンの意識は、すでになかった。
セイトは、光を見た瞬間に下がっていた。まぶしかったからだが、結果的にそれが良かった。セイトは出現と同時の攻撃を受けなかった。
目の前で出現した異形のモンスターに絶句して、数瞬動けなかった。もし、最初に攻撃を受けていたら、セイトは死んでいただろう。それを理解して、セイトは戦慄した。同時に、召喚した。 ペンギンナイト12体。セイトの全力の召喚だった。 数では黒いモンスターと同等だった。だが、黒いモンスターにとってペンギンナイトは敵ではなかった。12対1で、やっと拮抗。圧倒的な力の差だった。 セイトは、素早い身のこなしで、敵との距離をとりつつ、周囲の状況を確認した。 床に霜が下りている。凄まじい寒さだった。 夏の夜から急に真冬の気温になって、服装のちぐはぐさが逆転した。 セイトの外套は冬用だった。彼だけが、この場で唯一、寒さを感じずに済んでいた。
ヤラクは拘束されていなかった。
やろうと思えば、古の紋章の発動前に、モンスターを召喚できた。だが、そうはしなかった。自分がナニカに成り代わっていたという事実が、ヤラクを躊躇させた。 ナニカが変化を始めたころ、ヤラクの中でも変化が起きた。 その感覚は、おぞましい。その一言に尽きる。 すさまじい吐き気で、ヤラクはその場に吐いた。 吐き出されたものは、黒い塊だった。ヤラクは、すぐにこれがナニカだと気がついた。そして、すぐさまモンスターを召喚した。 浮かび上がる魔法陣は血と夜の紋章。ドラキュラが、ヤラクの使役モンスターだった。 ヤラクが吐き出したナニカが、他とは遅れてモンスターとなった。ヤラクを見下ろして、既に攻撃の態勢に入っている。 召喚されたドラキュラに、命令を与えようとしたそのとき、ヤラクの視界にシェルバーグの領主が写った。 領主の前には黒いモンスター。狙いは明確だった。 ドラキュラが、領主に降りかかる爪をそらしたのと、ヤラクの体を攻撃が貫いたのが、ほぼ同時だった。
クレナイが気がつくと、そこは地獄だった。
氷付けの地下室で、何人もの人が切り裂かれて死んでいる。その向こうには、戦うモンスター。 倒れている人は、術師の外套を着ているか、そうでなければもっと高貴なものを着ていた。領主だろうと、クレナイは思った。 ゆっくりと体をおこして、即座にモンスターを使役した。 エルフ。射撃の強力なモンスターだった。 敵はすぐにわかった。ベルが黒いモンスターと戦っている。赤い忍者はエイリのだろう。 クレナイのエルフが、黒いモンスターを射撃した。 急に横から射撃を受けて、黒いモンスターはよろけた。その隙を逃さず、ベルは距離を取る。やった、とクレナイは思った。 矢の射線を追ったベルとクレナイの目があった。 ベルが、戦慄しているのが見える。なにやら必死でこちらに手を向けようとしている。あいつ、あんな顔もするんだ、とクレナイはぼんやりと思った。そして、そこで意識は消えた。 クレナイから出された黒いモンスターが、クレナイの頭を飛ばしていた。
ミチカは、理解した。
敵が来た。私達の天敵が。 夜、寝静まった時間だった。多くの者は起きてはいない。行動しなければ、とミチカは思った。 すぐに父を起こした。ロジュは、眠そうにしながらも、娘の必死の様子に頷いた。すぐに出発の用意に取り掛かった。 逃げなければいけなかった。すぐに、出来るだけ遠くに。 知らせなければいけなかった。すぐに、できるだけ多くに。 ミチカは、大声で叫びながら、街道を走った。 何事かとおきだした人々が、はだしのまま走り、叫んでいる少女にぎょっとした。そして、叫んでいる冗談のような内容とのギャップに戸惑った。しばらくして、王城から響く破壊音で、少女の言葉を理解した。
「魔軍が来ました! 早く逃げてください! 魔軍が来ました!!」
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凍りつくような冷気が、ベルの顔をなでた。同時に、粘りつくような臭気が鼻を突く。 霜の降りた石床に、赤黒い液体が塗りたくられている。 横たわる術師、あるいは領主の体から流れ出たそれは、いわば生命そのものだった。 死んでいる。 あれから、幾分の時間も経ってはいないというのに、倒れた者の多くが絶命している。それは、ベルの目の前にいる黒いモンスターが、いかに絶大な殺傷能力を有しているのかを簡潔に示してた。 ぶちぶちと音を立てて、黒いモンスターに絡みついていたプラントのつるが引き裂かれる。 ベルの使役するモンスター、プラントは強くない。それでも、その拘束力は甘くはないはずだ。その拘束を、くもの巣を払うかのように解いてゆく。黒いモンスターの力は、術師一人で対抗するにはあまりに強い。 「――ちっ」 知らず、ベルは舌打ちした。 元々、ベルはモンスターを使役するのが得意ではない。まともに使えるのはプラントくらいで、戦闘能力は術師とは思えないほど低い。だが、それを気にしたことはなかった。改善しようとも思わなかった。必要なかったから。今更ながら自分の無力さを自覚させられて、ベルは後悔と自責の念に駆られた。 (訓練しておけばっ!) 短い思考の間にも、黒いモンスターの攻撃は迫る。 ベルに降りかかる攻撃を、忍者がいなした。 だが、無傷では済まない。圧倒的な破壊力をいなすのに、忍者は大きな負荷を受ける。既に四度の攻撃からベルを守った忍者は、片腕を失い、動きも緩慢になってきている。消え去るのも時間の問題だった。 しかし、エイリの忍者が守っていなければ、ベルは既に死んでいる。いや、それだけなら、ベルはもう死んでいる。クレナイや、他の術師の援護を受けて、やっと生き延びていた。 黒いモンスターの右肩には、矢が数本刺さっている。クレナイの援護だ。彼女は、この援護の後、死んでしまった。ベルはその光景を見てしまった。 竦んではいられなかった。黒いモンスターはこちらの心情など気にかけない。回避と足止めが、精一杯だが、そうして生きるしか、ベルには出来なかった。 ゴブリンナイトが、黒いモンスターに斬りかかった。 連携の取れた3体のゴブリンナイトは、一つの刃のようだった。間合いの外から騎獣の跳躍によって接近し、そのまま斬る。 人間なら対応しきれない速さと鋭さを持った連携攻撃は、ダメージを与えた様子もなく振り払われた。 「くそっ! なんて硬さだ!」 ゴブリンナイトを使役していた術師が叫んだ。 地下室は、今、どこも似たような状況になっていた。 黒々としたモンスターを、数人の術師が相手取っている。そして、倒しきれずにいた。 戦い、身を守りきれずに一人、また一人倒れてゆく。そして、凍った床の上で、物言わぬ者の仲間となっていく。 ふいに、ベルの視界にエイリが写った。 苦しそうに身をかがめており、外套が血に染まっている。誰かの血か、それともエイリ自身のものか、ベルには判別できない。だが、降りかかろうとしている黒い爪は見えた。 プラントの利点は、コストが低いこと。そして、下級モンスター故の、召喚の速さ。 ベルのプラントが、エイリを襲っていた黒いモンスターの腕を絡め取った。瞬間、そこへエイリの忍者や、どこから来たのか、リザードマンや、ボス猿といったモンスターが一斉に飛び掛った。 黒いモンスターは、まったくダメージを受けた様子を見せなかったが、しかし、動きが緩慢になった。そして、徐々にゆがみ、端から黒い砂のようになって散り、消滅した。 初めて、黒いモンスターが消滅した。 ナニカが、消滅した。
倒すことが出来る。それがわかっただけで、希望がわいた。絶望的な状況で、希望が見えた。そのことが、返って事態を悪化させた。
安心してしまったのだ。 一瞬の気の緩みが数名の命を奪った。そして、戦力が減った。地下室の戦いは、どうしようもないほどの苦境に立たされていた。 セイトは、出口から脱出することを考えていた。戦いが始まってから、ずっと出口に接近していったし、途中で何度か術師や領主の危機を救った。 だが、それだけだった。 救ったそのすぐ後で、彼らは死んだ。セイトも、全ての攻撃に対処できるわけではない。それは、当然のことだった。だが、納得は出来ない。 黒いモンスターが倒せると分かって、その思いはさらに強くなった。 もっと、何か出来たのではないか、と思ってしまう。自分だけが、この場で寒さに対応できる。最も多くのモンスターを使役し、その分敵を食い止めることができる。セイトはそう思っていた。 出口にたどり着いて、地下室を見渡したとき、セイトの心は決まった。 「出口から脱出を! ここは私が守ります!」
ベルは、倒れこむように崩れたエイリを受け止めた。
自分を追っていたモンスターは、ゴブリンナイトに気をとられ、そちらへ行ってしまったようだった。 「エイリ!」 声を掛けたが、返事はない。ぬめり、とした感触が、エイリ自身からの出血であることを、ベルは察した。 セイトの声で、ベルは出口という選択肢を思い出した。同時に、その方向もわかった。 逃げよう。 ベルは、エイリを担いで、出口へと向かった。 一歩踏み出すたび、床を染める液体がはねる。 体から出てそれほど時間が経過しているわけでもないのに、床に広がった血は氷のように冷たかった。 温かみをもたらしてくれるものは全て凍ってしまったような地下室で、ベルは背中に、確かな温かみを感じた。 出口までは距離があったが、ベルのところへ黒いモンスターは来なかった。それは、ベルが部屋の中央を突破してきたからで、中央に出現した黒いモンスターは、戦うにつれて部屋の隅にいる生存者の元へ移動していたからだった。 最後に、セイトの援護を受けて、ベルは地下室を脱出した。
これで、8人は脱出しただろうか。
セイトは、ぼんやりした頭でそう考えた。 地下室の出入り口は、セイトの後ろにある階段一つだけで、それ以外にはない。他の方法で脱出することはできないのだから、セイトの横を通った人数が、そのまま脱出できた人数だ。 ちらり、と部屋の中を見渡す。 いくつもの骸が横たわっている。石の床は血でぬれて、赤黒い。息のあるものはほとんどいないようだった。 階段の前に陣取っているセイトの、そのすぐ後ろにいるナンナの術師が階段に足をかける。怪我をしているらしく、足取りは苦しそうだったが、背中に背負っているハクレンを捨てていくことは考えていないようだった。確か、スズナリと名乗っていたな、とセイトは思い出した。 セイトに迫る黒い腕が、ドラキュラの猛攻を受けて逸れる。 階段を守っているのは、セイトだけではなかった。ヤラクが、壁にもたれかかったまま、部屋の中を眺めている。セイトからは見えなかったが、ヤラクの体には前後をつなぐ空洞が出来ている。ドラキュラの力だろうか、直接血を操ってむりやり生存していた。 対する黒いモンスターは9体。 集中攻撃で数を減らしはしたが、攻撃が偏った分、それぞれを守るモンスターは減った。その結果が、この有様だった。 目の前で、セイトの使役するペンギンナイト3体が掻き消えた。 セイトは、ここまでだと思った。 「行ってください」 セイトは声を絞り出した。 右の腹が熱い。もう、手の施しようがないほどの重傷だろう、とセイトは思った。 右腕も、いつなくしたのかわからない。 ナンナの術師、スズナリは、一瞬迷うような気配を見せたが、すぐに階段を駆け上がった。 覚悟と犠牲を無駄にするわけにはいかない。と思っているのが、セイトにもわかって、不思議な気分だった。 ヤラクは、下がらなかった。 「守るのが、術師の役目……」 ヤラクはそれだけつぶやいた。 その為に、手段を問わないのが、ヤラクという人物だ。先制攻撃さえ、彼にとっては守る為の手段のひとつだ。 セイトは、ヤラクという人物を好ましいとは思っていなかったが、このときは、心が通じ合っていると確信した。 セイトは、黒いモンスターを見据えた。 突然現れ、襲い掛かってきた敵。 だが、不思議と当然のような気がしていた。 襲い掛かって当然。これは、我々の敵なのだ。 ふと、ハクレンの話していた言葉を思い出した。 魔軍。 そうか、こいつらが、とセイトは思った。 「もう少し、付き合ってもらおうか」 セイトは声にならない声でつぶやくと、背後の階段を壁ごと破壊して埋めた。 |
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目を開けたエイリは自分を見つめる男を見た。なんて顔をしているんだと思ったが、声にはならなかった。ただ、空気の抜けるような音がしただけだった。 この世の終わりでも来たかのような、表情で、ベルはエイリを覗き込んでいた。 エイリの体からは、急激に温度が失われていく。もはや声もでないのか、と思うと、エイリは奇妙なおかしさを感じた。 もはや戦いはない。ゴーレムなど不要であると、さんざん説いた。その報いかもしれないと、エイリは思う。 戦いが起きたとき、戦力は必要だったのだ。ベルはそれをわかっていた。だから、無駄だといわれても、ゴーレムを作り続けたし、その錬成法の研究もしていた。 それに対して、自分はどうだろうか。 こんな惨劇を生んで、なにもすることなく力尽きようとしている。 最後は、ベルに担がれて、助けられて。 なんて無様なんだ。 せめて、最期に出来ることを、エイリはしようと思った。 「使え」 声になったかどうか、エイリには分からなかった。もう、自分が喋っているのか、頭の中で考えているだけなのか、判別がつかない。 急がなければ、もう時間がなかった。 エイリは、自ら禁術とした、命を貶める外法、ルーン錬成術を発動した。
ベルは、エイリを抱えたまま動けなかった。
ひどく浅い呼吸は、もはや回復することのできないほど弱っていることを伝えていた。静かに流れ出る血は、押さえても止まらない。 「……て……」 かすれた声で、エイリは言った。何を言おうとしたのか、ベルには聞き取れなかった。聞き逃すまいと、耳をすませて、エイリを見る。 笑っているようだった。気のせいといわれればそれまでというくらいの、かすかな笑みだった。自嘲ぎみな、エイリらしい笑い方だった。 失敗したときに、エイリが見せる笑みだ。 「……ゴーレム……」 そういったのが聞こえた。 ベルははっとなった。 自分の本領を、今思い出したのだ。 ゴーレム。ゴーレムを使えば、あの黒いモンスターともまだ戦える。術師の使役するモンスターでさえ、ゴーレムは易々と突破できる相手ではない。まさに、黒いモンスターがやったように、術師のモンスターを振り払うだけの力が、ゴーレムにはある。 ベルの脳裏に、在庫のゴーレムがいくつもよぎった。そして、まだ錬成していない、森で手に入れた心臓。 手に入れたときは気がつかなかったが、エイリに助けられて生き延び、そして持ち帰った、あの心臓。 思い返せば、知らずのうちに助けられていたと思えることが、いくつもある。 いつも、エイリに助けられてきた。 自分は、なんてバカなのだ、とベルは思った。 「……使え……」 エイリが、消え入るような声でそう言った。 ベルは、涙でゆがむ視界のなかで、エイリを見た。ゆがんでいて、よくは見えなかったが、何かをしようとしているのがわかった。 エイリは、まだ、自分を助けようとしているのだ。こんなバカな自分の為に、もう生きることさえ難しいエイリが、何かをしようとしている。 自分だけが、何もしないわけにはいかない、とベルは思った。 青く、やさしい光が、エイリの体を包んでゆく。ベルは、消えかかっているエイリの魔力が徐々に揺らめきを失っていくのがわかった。命が消えてゆく。そして、結晶化した魔力となって、その場に出現しているのだ。 そして、エイリは消え去った。ベルの腕の中に、巨大なルーン鉱石を残して。
エドガーはその日、夜間警備の担当だった。
一人ではなかったが、それでも、夜というものは心細い。 明かりのないところには何かが潜んでいるような気がして、あまり近づきたくはないし、日が落ちると気温が下がって肌寒い。夏の今はマシだが、冬は凍える。 そう思いながら、自分が息を吹きかけて、手を温めようとしていることに気がついた。 はて、と思った。 今は夏ではなかったか、と。 なにかはわからないが、いやな予感がした。 「なにか、やな感じですね」 近くにいる隊長に、話しかけた。 だが、話しかけられた方は、もっといやな予感を感じ取っていた。 「血の匂いだ……」 そう言われて、エドガーは驚いた。 隊長が、元々狩猟で生計を立てていたことは知っている。だから、鼻のいいことも。 だが、いきなり血の匂いといわれて、真面目に捉える者はすくない。エドガーは、不吉な予感を感じていなかったら、冗談だと思っただろう。 何歩か遅れて、エドガーは身構えた。 「どっちですか」 「こっちだ。警戒を解くなよ」 匂いは、城の中から来ていた。 央宮の一階に踏み入れたとき、地下から激しい音が聞こえた。 岩を砕くような低く、よく響く音だった。 そこで、ベルとすれ違った。 状況を聞こうとした隊長が、話しかける間もなく通り過ぎてしまった。 エドガーは、あの人のあんな必死な顔は見たことがないと思った。 中に入って、地下への階段辺りまで来ると、状況が分かってきた。 敵襲。 被害は甚大だったが、まだ襲撃が終わったわけではない。 兵が、職務を全うする時だった。 敵が城の中に出たのなら、城門を閉じて閉じ込めてしまえばいい。そうすれば、街への被害は防ぐことが出来る。 エドガーがそういうと、すぐに実行に移された。 「お前はいざというときに頭の回るやつだな」 滅多に人を褒めない隊長が、エドガーを褒めた。最初で、最後のことだった。
ベルは、見たことも、聞いたことさえないほど巨大な、莫大なルーンを持って、カーランド城を走った。
かつて、エイリだったもの。そして、今、ベルの頭の中にあるのは、ゴーレムだった。 森から持ち帰ったゴーレムの心臓。今から練成しても、とても間に合わない。だが、それはふつうの錬成をすれば、の話だ。 ベルは、長い間続けた研究で、錬成の時間を短縮する方法を見つけている。そのために必要なルーンの量が膨大な為、実用化できなかった術陣だ。 腕の中に、必要なものがある。 このルーンを使うことに、ベルは躊躇しない。今使わなければ、一生使うことなどできないと、わかっていた。 正門を抜け、北西門に走る。 後ろで、すさまじい音が響いた。 開きっぱなしの正門から、城が見える。 白塗りの綺麗な壁に、真新しい亀裂が走っている。轟音が一つ響くたび、亀裂が増える。 あの、黒いモンスターが暴れているのだと、ベルにはわかった。 城の東宮から、兵の走ってくるのが見える。 ベルは、それを確認したところで、再び走り出した。 もう、一刻の猶予もない。
誰かが叫んでいる声で、リーンは目を覚ました。
ベルに与えられた交易所の事務所で、書類を前に寝てしまっていたようだった。 「うっかりうっかり……」 よだれで書類がだめになっていないか確認していると、叫び声がミチカの声だと気がついた。 そして、その内容も聞き取れた。 魔軍という単語に聞き覚えはなかったが、すぐに、ベルの身に危険が迫っていることを直感した。 リーンは、事務所を飛び出すと、そのまま交易所の馬に飛び乗って街道を駆け出した。 街道には、ミチカの叫び声に反応して、数人の人が出てきていたが、誰も、深刻そうな顔はしていない。ただ迷惑そうにしていた。 まだ、誰も彼女ほど深刻に事態を捉えては居ないのだ。だが、注意喚起するつもりはない。リーンの頭には、ベルのことしかなかった。 ゴーレムの錬成以外には本当になにもかも気にかけないベルは、リーンが選んだ服を着ているし、そのおかげで、数日程度の遭難では死なない。リーンがそういう服装と装備を整えているからだ。 ただの遭難なら、大丈夫だ。でも、今は? 魔軍。 よくわからないが、この胸騒ぎは、危機感を持って行動するに値する。そう、彼女は思っていた。 リーンがベルを見つけたのは、カーランド王城北西門だった。 馬に乗って駆けつけたリーンは、ベルの無事を見て、ほっとした。そして、その着ている服が血にぬれていることに気がついて凍りついた。 どこか怪我をしているんじゃ! そう思って近づこうとしたリーンは、ベルの方から近寄られてあわてて回避した。 「工房まで乗せてくれないか」 息を整える間も惜しいといった様子のベルに、リーンは手を伸ばした。 「どこへでも!」 |
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ハクレン、と呼ぶ声が聞こえる。聞こえた気がした。 全てが真っ白で、でも、どこか狭い、そんな場所に、ハクレンは居るのだと思った。 白い光の中で、淡い影が揺れる。人の気配だ。 その影が、自分の名前を呼んでいるのだと、ハクレンにはわかった。 声は、どこか懐かしい少女の声だ。 この声をどこで聞いたのだったか、と思い出そうとして、これが夢なのだと気がついた。 なぜこんなところに居るのだろう、と思った。 自分を呼ぶ声が、遠ざかっていく。そして、光が、遠ざかっていく。 ぼやけた視界に、天井が見えた。 白い、綺麗な天井だった。 ここはどこだろうか、と思って、ハクレンは、自分が床に直接横になっていることに気がついた。 床に触れる部分が、やけに冷える。そのせいか、異様に寒い。 今は冬だろうか、と思って体を起こそうとして、しかし動けずに悶える。体に激痛が走った。 そこでようやく、ハクレンは自分が死に掛けていることに気がついた。 寒さも、気温だけではなく、出血が原因のようだった。 近くで、話し声が聞こえる。 ゆっくりと首を回して見ると、一人の女が、床に空いた大穴の前に立っていた。なにかを警戒している様子の彼女の顔が、ハクレンからちらりと見えた。 ナンナの術師か、と思って、名前が思い出せないことに気がついた。 急に知り合いが増えて、全員の名前は覚え切れなかった。ふと、ベルは無事だろうか、と思って、すぐに何を心配したのか分からなくなった。 彼女の隣には、ミノタウロスが居た。 使役されているのだ。 あの大きさでは、地下室では使いづらいだろう、と考えて、また疑問を感じる。 何か、忘れている。 ハクレンの口から、とろっとした液体が流れ出た。 よだれか、血か。ハクレンにはわからなかった。 ただ、視界にある大穴の不吉さだけが気になっていた。地下室の天井を打ち抜いたような、大きな穴。塞がなければ、と思った。 穴から黒い首があわられた。 頭を切り落として、首だけ残したような、断面。すべてが黒く塗りつぶされているために、グロテスクというよりは、異様だった。 それを見た瞬間、ハクレンは思い出した。 鉛のように重くなった右腕を、出来るだけ早く体の前へ持っていった。術師の召喚の姿勢だ。 あの黒いモンスターを、魔軍を、外へ放つわけには行かない。
スズナリは、自分に向けられた恐ろしい爪が、途中の空間でせき止められるのを見た。
あわてて距離をとって振り返ると、ハクレンと目が合った。 彼は、魔術師を使役していた。 あらゆる攻撃を遮断するバリアをもつ、強力な人型のモンスターだ。召喚できていれば、ハクレンは今、横たわっては居なかっただろう。 そして、彼女の肋骨も、折れてはいなかったかもしれない。 ナンナで術師をしていた彼女は、古の紋章発動時、ハクレンの後ろに居た。その位置に居たために、跳んできたハクレンを受け止めて、肋骨をやられていたのだ。彼女が緩衝材となったおかげで、ハクレンは生きていたが、ほとんど死に掛けていた。 いっそ、死なせてやったほうが楽だったかもしれない、とスズナリは思う。思いつつも、背負って出口まで連れ行った。 結果、ハクレンは生き、そして、戦っている。 スズナリは、気持ちを引き締めた。 こいつらを、外へ出すわけには行かない。術師とは、街を守る者なのだから。 だが、どんな覚悟をもってしても、黒いモンスターを止めることはできなかった。
ベルが工房へついたとき、カーランド城から響く戦いの音は、すでに街中を騒然とさせていた。
ミチカの言葉を信じて、街から逃げ出す人も現れている。 ベルは、すばやく作業場に入ると、その奥にある倉庫に入っていった。 中には、作り終わったゴーレムがある。 使い道がないからと、文字通りお蔵入りになっていたものだ。 悪魔を象った石の彫刻が並んでいる。その大きさは、人間の二倍もある。これが、ベルの錬成したゴーレムだった。 ベルは、一つ一つ丁寧に起動してゆく。 ただの彫刻にしか見えなかったゴーレムは、起動した瞬間、止まっていた時間が動き出したかのように、滑らかに動いた。 リーンのような素人がみても、丁寧に作られているのがわかる。 ごてごてとした装飾も、煌びやかな飾りもない、ただ実直で、機能だけを追及しただけの彫刻は、ベルらしくて、リーンは思わずにやけた。 全てのゴーレムが無事に起動すると、ベルは魔軍の殲滅を命じた。 街に入った魔軍を殲滅せよ、と。 工房に来るまでに、ベルはリーンからミチカの行動を聞いていたから、そう命じたのだと、リーンは思った。 ベルは、魔軍という単語を聞いた瞬間に、理解していた。あれが魔軍だと。そして、ミチカは、魔軍を察知できるのだ、と。
エドガーが、正門を閉じようとしたとき、黒々としたモンスターは、央宮の外壁を突き破っていた。
内側からの追撃を歯牙にもかけず、周囲にあるもの全てを破壊しようとしているようだった。 エドガーは、その姿に恐怖を感じた。 痛みも、恐れも抱かずに、ただただ破壊する為だけに破壊しているように思えたからだ。それはなんて破滅的な存在だろう、と思った。 衛兵として、あれから街の人を守らなければならないとは思っていたが、心はすっかり竦んでしまっていた。 術師が束になっても勝てないのに、自分ごときに何が出来るだろう。 門を閉ざして、外に出ないように妨害するだけだ。それで精一杯だ、とエドガーは自分に言い聞かせて門を閉じた。 だか、エドガーは気がついてしまった。 あの黒いモンスターには羽がある。とても飛べるような構造ではないと思うけれど、羽がなくても飛ぶモンスターは飛ぶ。そして、飛べれば、城門も城壁も、意味がない。 エドガーは、気がつくと城壁に上っていた。 自分でも、なぜそんなことをしたのか、わからない。 だが、その行動は、衛兵としては正しかった。 エドガーの予想は当たり、城壁を飛び越えようとしたモンスターを、視界に納めたのだ。 覚悟があったわけではない。使命を感じたわけでも、ない。 強いて言うなら、城壁の向こうに居た、小さな少女と目が合ったせいかもしれない。 エドガーは、黒いモンスターに飛び掛った。
城壁の上に、黒く、禍々しいモンスターが現れた。それは、夜だというのにはっきりと見えた。
最初に思ったのは、何故、だった。 遠くで、逃げろと叫んでいる少女の声が響いている。 すべてが、くっきりと見えた。 自分が、これから死ぬのだということも、あの、黒いモンスターにやられるのだということも、はっきりわかった。 それほどの不吉。そして絶望が、そこに、形を伴って現れた。一体何故? カーランド城には今、腕利きの術師が20人以上いるのではなかったか。 術師が居て、何故、こんなモンスターが、城壁の上から見下ろしてくるのだ。 誰も、声を上げなかった。 一瞬、世界が止まったかのような錯覚を受けて、すぐに戻った。 黒いモンスターに、勇敢にも、無謀にも、衛兵が飛び掛るのが見えた。守ろうとしているのだ、とわかった。 誰を。 私達を。 誰が。 衛兵が。術師でさえない、衛兵が。 愕然とした。そして、その衛兵が、紙切れのように吹き飛ばされるのを見て、ついに誰かが悲鳴をあげた。 風に乗って、血の匂いが漂ってきていた。一人や二人分ではない、大量の血の匂いだった。
ベルの集中力は凄まじい。
一度錬成に入ってしまえば、周囲の状況など見えなくなる。たとえ火事が起きようと、ベルは錬成し続け、焼け死ぬだろう、とリーンは思っている。 ベルは、森から持ち帰ったゴーレムの心臓を持っていた。 錬成するのだろうか、と思って、すぐに否定した。 いまから錬成しても、完成は一月は先になるはずだ。心臓があるといっても、錬成に掛かる時間は長い。リーンはベルからそう聞いていたし、実際そうなのだろうと思っていた。 だから、ベルが錬成を始めたとき、リーンは驚いた。 こんな状況でなにをしているのかと思ったが、そもそもベルとはそういう人だったと思い出して納得した。 自分に出来ることは、錬成中のベルを守ることだ。 リーンは、そう思った。
心臓が戦闘態勢をとっている。
異常だ、とベルは思った。錬成される前から命令を実行しているように見える心臓は、ゴーレムのあり方としては異常だった。 だが、ベルはなんとなく納得できるような気がしていた。 この心臓は、魔軍を倒す為に作られたのだ。そういう気がする。 何で出来ているのかわからない、金属のようなつるつるとした表面に、いくつかのでっぱりと模様がついている。 模様はさまざまで、波打つ二重螺旋や、光の目と呼ばれる紋章に似ている模様もある。ベルは、術師の紋様に似ていると思った。 手に触れているゴーレムの心臓から、どこか懐かしい、それでいて力強い魔力を感じる。これは大丈夫だ、という確信が、ベルにはあった。 時間を短縮する錬成陣を使う。 エイリのルーンを使って、錬成する。 全ての準備が整って、綺麗に揃えられている感覚がある。 時間はない。でも、大丈夫。ベルは、ゆっくりと息を吐くと、静かに錬成を開始した。 |
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信じられない光景だった。 極めて精密な作業を、早送りで見せられているような、息をのむ光景が、リーンの目の前にあった。 見たこともないような巨大なルーン鉱石を使って、ベルは、ゴーレムを錬成していた。 ある程度の形は出来ていたのか、いくつものパーツが部屋の中から引っ張り出されては、中核となる球体に張り付いてゆく。 張り付いたパーツは、ゴーレムの一部となって生気を帯びるようだった。 それは、ベルの繊細で丁寧なゴーレムではあったが、確実に異質なものでもあった。 魔力を感知できないリーンでさえ、このゴーレムの持つ魔力は、想像を絶するだろうことがわかる。気配が違う。存在感が違う。 魔軍とは真逆に、この世のものとは思えない圧倒的な力を、錬成の途中から感じていた。それはいわば、神の意思とでも言うべき代物だった。 一時間も掛からず、ゴーレムは完成した。 水晶の原石のような形をしたゴーレムだった。 リーンは、いままで見たことがないタイプのものだった。それはつまり、誰も見たことのないゴーレムである。 ふわり、と宙に浮かんだままのゴーレムは、ベルの命令を待つでもなく、そこに君臨していた。 透き通るような青い、青い結晶は、ルーンそのもののようにもみえるし、そうではないようにも見えた。その表面にすべるように描かれている模様は、リーンには見覚えがない。 ぐらり、とベルの体が崩れるのを見て、リーンは正気に戻った。 あわててベルを受け止めて、リーンはぞっとした。 ベルに生気がない。 まるで、自分の命さえ注ぎ込んでしまったかのようで、リーンはそう思った。 そっと手で触れて、心臓の脈打つのがわかると、すこし安心した。 そこへ、黒い影が襲い掛かった。 魔軍が、ここまで到達していたのだ。 黒い爪が、出来たばかりのゴーレムを吹き飛ばした。 ゴーレムは道に転がり出て、民家に激突して止まった。 一瞬の出来事で、リーンはあっけにとられた。何が起きたのか、分からなかった。 近くから、馬車の走る音が聞こえる。遠くからの悲鳴も。だが、目の前にあわられた黒く、どこまでも黒いモンスターに、意識が占領させれていた、ほとんど聞いてはいなかった。 動き出した黒いモンスターが、自分達の方へ向いていることに、どんな意味があるのかはかりかねて、呆然としていた。 次の瞬間、光の刃が黒いモンスターを襲うのを見て、リーンは我に返った。 水晶のようなゴーレムが、光の刃をまとって宙に浮かぶのを、リーンは見た。
ベルは夢を見ていた。
いつか見た夢だった。 そうだ、魔軍を倒す為に。そのために生まれてきたのだ。 黒いモンスターに、光の刃を振り下ろす。 確かな手ごたえを感じたが、それでも倒せてはいないこともわかった。 続けて刃を振ろうとしたベルを、エイリが止めたような気がした。 なぜ止めるのかと聞くベルを、そっと手放して、エイリが刃を握ったような、そんな気がして、ベルの目は覚めた。 リーンの心配そうな顔が、目の前にあった。
街道は地獄と化していた。
カーランド王城はいまだに多くの魔軍を引き止めてはいたが、数体の魔軍が、城壁を突破してしまっていた。 そして、引き止めるのも、もう限界に近かった。術師は全滅に近い。かろうじて息のあるものも、朝まで持つかどうかという傷を負っていた。 戦闘力のある城内でそれだから、街の人々はその比ではなかった。 全てを破壊してしまおうとするかのような魔軍は、手当たり次第に殺し、壊し、気まぐれに跳躍しては叩き潰した。 圧倒的な力を持つ術師が、守りきれていない。そして、どうやら戦った末に敗北し、死んでしまったという。その絶望が、街の人々をさらに震えさせた。 暗く、寒々しい中を、悲鳴と絶望に苛まれながら逃げ惑う人々は、救いを求め、そして、救ってくれるはずだった術師が、城にいたはずなのを思い出してまた絶望した。 もはや救いはない。 床にたたきつけられるトマトのように、あっさりと、そして残酷に死ぬのだ。 夜の闇の中を、漆黒のモンスターが駆ける。 魔軍というらしい。 なんでこんなものが、と思ったが、もうどうしようもなかった。 目の前にそいつが来ても、ああ、自分の番か、と思うだけだった。助かりたい。生きたい。と思うけど、希望は残っていなかった。 ふいに、光の束が、黒いモンスターを押しのけた。 鋭い金属音が、魔軍を攻撃した音だと理解するまで、すこし時間が掛かった。 それは、ゴーレムだった。 見たことのない、綺麗なゴーレムだった。 空中に浮いて、光の刃をまとっている。 誰かがつぶやいた。 「ゴーレムだ……」 「そうだ……ゴーレムだ!」 希望がわいた。 術師が、ただ守る為だけに全力を出して作り出す、最強の盾。術師の盾。 最後の希望が、そこにあった。
床の大穴から、魔軍が這い出ようともがいている。
がりがりと床を削りながら、それでもでることができないのは、ハクレンの使役している魔術師が、連携をとって塞いでいるからだ。 その封鎖も、隙はある。 数体の魔軍は、穴から飛び出してしまったし、そのままどこかへ行ってしまった。ハクレンには、追いかける手立てがない。代わりに、その場にいた他のものが追った。 ナンナの術師は、どうしただろうか、とハクレンは思った。 視界の中にはいない。彼女に使役されているであろうミノタウロスも見かけない。 城内から戦いの音が聞こえてこない。 と、そこまで思って、ハクレンは自分の耳が聞こえなくなっていることに気がついた。 もう、死がそこまで来ている。 この穴から魔軍が出るのを食い止めるのも、そろそろ限界だった。 魔術師のバリアは、もう残っていない。ボルトの詠唱も間に合わない。魔軍の攻撃が、ハクレンのモンスターを蹴散らしてゆくのが、狭くなってきた視界の中で見えた。 だめか、とハクレンは思った。 ふいに、天井から光の束が降り注いだ。穴から出たばかりの魔軍が、それに打たれる。 水晶のようなゴーレムが、光の刃で魔軍を攻撃しているのだ。 ベルのゴーレムだと、ハクレンにはわかった。 まだ、かなり残っていた魔軍が、一斉にゴーレムに襲い掛かった。 戦闘は激しく、ハクレンの視界からは外れてしまった。 白い。真っ白な光が、ハクレンの視界を覆っていた。 震えるような寒さも、冷たい床の感触も、ハクレンは感じなかった。 ぼんやりと、黒く、人影が見える。 ハクレンは横になっていなかった。真っ白な空間で、ハクレンは立っている。 目の前の人影が次第に見覚えのある少女の姿になって、ハクレンの前で止まった。 記憶より、すこし大人びている。 ハクレンは、少女の頭をなでた。 そして、永遠に覚めることのない眠りについた。
カーランド歴最後の年、晩夏。この日、魔軍は消滅した。
多大な被害をもたらした魔軍は、居合わせた術師や、衛兵たちの力で全てが消滅させられた。 もたらされた被害は甚大で、結局、ほとんど全ての領主と術師は死んでしまった。 完全に破壊されたカーランド王城は、昨日まであった安寧とともに消え去ってしまった。カーランド王も、領主も居なくなったこの国がどうなってしまうのか、誰にも分からない。 ミチカは、ベルや、リーンや、他の術師たちが、そのあとカーランドでどうしたのか、知らない。 ロジュの馬車に揺られて、ミチカはカーランドを後にした。 届けるものがある。 ミチカは、ベルとハクレンに頼まれた、手紙を大切そうにしまった。 |