地獄のような交渉の場から抜け出したディビットとエネリットは、夜の草原を一気に駆け抜けた。
冷たい風が頬を切り裂くように吹き抜け、背後の闇が追いすがるように広がる。
二人がたどった軌跡は川に沿い、やがて石橋の近くに至る頃、先頭を走っていたディビットが速度を落とした。
「ここまで来れば十分だろう。あの腰の重いジジイが、わざわざ追ってくるとは思えん」
軽口を叩くディビットに、エネリットも息を整えながら立ち止まった。
背後を振り返ると、自分たちが逃れてきた道はすでに闇に呑まれ、遥か遠くなっていた。距離としては充分だ。
闇の皇帝――ルーサー・キング。
その狡猾に張り巡らされた罠の糸に絡め取られかけた交渉の最中、少女たちを囮にすることで辛くも脱出できたのだ。
ディビットはわずかに少女たちのことを思った。
彼はそんなことでいちいち罪悪感を抱くほど甘い人間ではなかったが、これは倫理ではなく矜持の問題だった。
裏社会に生きる者として、堅気の人間を巻き込まないことが彼の中で最低限のルールだった。
だが、その理屈がこの深淵へ墜ちた人間にまで通じるなどとは、彼自身も思っていなかった。
「どうするんですか、それ?」
エネリットが視線を向けたのは、囚人服の胸ポケットから顔を覗かせる一本の葉巻だった。
交渉決裂前にキングが前金代わりとして忍ばせた代物である。
「ふん、決まっているだろう」
ディビットは大袈裟な舌打ちとともに、いかにも下らないという表情を浮かべ、握りしめた葉巻を地面に叩きつけようと振り上げた。
しかし、その手は途中で止まり、しばし逡巡の末、まるで見えない糸で引き止められたかのようにゆっくりと降ろされた。
彼は今度こそ葉巻を指の間で真ん中からへし折ろうとしたが、それもまた躊躇うように首を振り、そのままエネリットに背を向ける。
改めて握りしめた葉巻を大きく振りかぶって、野球で言えばボークを取られてもおかしくない躊躇いの後、意を決したように宙へと投げ捨てた。
「あのジジイの施しなど受けん」
(…………けっこう躊躇ったな)
それを口にしない優しさがエネリットにもあった。
月明かりの下で、後悔と達成感が入り混じった複雑な表情を浮かべていたディビットは、やがて気を取り直し、再びエネリットの方へと向き直った。
「エネリット」
「なんでしょう」
薄々次の言葉を察しながらも、エネリットは平常心を保って返事を返す。
「俺はこの場で――――あのジジイを殺す」
裏社会の皇帝ルーサー・キングに対する殺害宣言。
しかし、エネリットは顔色ひとつ変えることなく、いつも通りの冷静な口調で返した。
「意外ですね。あなたがそんな割に合わない判断をするだなんて。あのご老公は無視するのが得策かと思いますが」
「別に感情論で言ってるわけじゃない。
いいか、俺が優先する利益ってのは俺個人の利益だけじゃない。俺とファミリーの利益だ。
あのジジイを殺すことはバレッジ・ファミリーの未来にとって絶対的な利益になる――――親父が天下を取るためには、あのジジイは邪魔だ」
冷徹に割り切った声が、静寂の中に低く響いた。
『キングス・デイ』のルーサー・キングはバレッジ・ファミリーの勢力拡大にとって最大の障害である。
「『キングス・デイ』のアンダーボスであるイヴァンは政治にかまけて現場を知らないボンボンだ。
口先だけは達者だが、大した男じゃない。頭(ルーサー)を獲れば、後は飲み込める」
厄介なのは頂点であるルーサー・キングだけだ。
逆に言えば、あの男が頂点にいる限りバレッジ・ファミリーに欧州進出のチャンスはない。
かといって表立って殺せば、両組織は全面的な抗争に突入するだろう。
それは組織にとって大きな消耗となる。その展開は避けたい。
だが、この刑務作業内での殺害なら、詳細が表に漏れる事はない。
組織にとってもこの刑務作業は千載一遇のチャンスである。
「勝算はあるのですか?」
エネリットは淡々と問いを重ねる。
エネリットからすれば欧州裏社会の勢力争いに関心はない。
彼にとって重要なのはこの場での勝算があるかないかである。
問いかけられたディビットは、すぐには返答せず、視線をゆっくりと川の流れに落としながら逆に質問を返した。
「エネリット。お前は俺の超力がどのようなものか予測がついているな?」
「そうですね。ある程度は」
先ほどのディビットとルーサー・キングの交渉中、エネリットは周囲の警戒を怠らず、同時に会話の内容にも耳を澄ませていた。
二人のやり取りの内容と、これまでに得た情報とを照らし合わせれば、凡その推測は難しくない。
「自身の特定能力の倍化、といったところでしょうか?」
「そうだ。ただし、その代償として強化した能力と同価値の別能力がランダムに弱体化するリスクがある」
ディビットはまだエネリットに気づかれていないであろう自らの弱点を明かした。
これからの戦略を立てる上で、正確な戦力の把握が不可欠であるという事情もあるのだろうが。
それに加えて、先ほどの立ち回りでこの程度の情報は共有できると信頼を得られたのだろう。
「あのジジイを相手にするなら、リスクの運用がうまくいくことが大前提だ。
それでようやくお前と二人がかりで五分といったところだ。下手なところにリスクが回れば話にならん」
「運に任せて五分では厳しいでしょう」
「理解してるさ。だからあの場では仕掛けなかった」
それはそうだ。
勝ち目があるのなら、交渉などせず交戦していただろう。
だがエネリットには、まだ一点気になることがあった。
「リスクのコントロールは出来ないのですか? 意図的に抑えたり、制御することは?」
「……できないな」
「間がありましたね。本当ですか?」
「ふん。相変わらず目聡いバンビーノだ」
エネリットの鋭い指摘に、ディビットは皮肉混じりの笑みを浮かべた。
相手の小さな違和感や隠し事を見逃さない彼の観察眼は自分に向けられるのは厄介だが、味方であるのだから心強いとしておくべきか。
「そうだな。リスクなしで発動すること自体は不可能じゃない。
ただし、『自分の意思ではできない』というだけだ」
「どういうことです?」
普段は簡潔な説明を好むディビットだが、珍しく歯切れが悪い。
「スロットの『ジャックポット』みたいなものだ。俺の意思とは関係なく、ごく稀にアタリが出ることがある」
「…………ジャックポット、ですか?」
カジノオーナーらしい例えだったが、カジノに縁のないエネリットにはその比喩がいまいちピンとこない。
「そのアタリが出れば、リスクなしで超力を発動できる、と?」
「それだけじゃない。その時は強化が一カ所だけではなく、全身が強化される」
確かにそれは破格の性能だ。
鬼ごっこで追い詰められた経験のあるエネリットだからこそ、その超力の強大さは理解している。
それがリスクなしで数倍の効果があるとなれば、発動さえすれば敵なしだろう。
「だが、俺がジャックポットに入ったのは超力に目覚めてからたったの二回しかない」
ディビットは楽観的な希望に釘を刺すように言った。
「開闢が20年前ですから10年に1度、アビスでの懲役分を差し引いても8年に1度の確率ですか……具体的にはいつ頃の話で?」
「1度目は15年前。つまらんチンピラとの小競り合いの時だ。初めての体験だったのでな、加減が分からずおかげで少しやりすぎちまった。
2度目は6年前。ヴェネチアの利権をめぐって現地のカンナバーロ・ファミリーとの抗争の時に発動した。この時は大いに役に立ってくれたがね」
「条件が分からないのでは計算に入れるのは難しそうですね」
確かに狙って出すのは現実的ではない。
条件を検証するにしてもし何かの累計であるのなら、検証中に発動しては目も当てられない。
これに頼るのはあまりにも運頼みが過ぎるだろう。
「現状の戦力が頭打ちなら、協力者を増やすしかないでしょう」
単純に考えればそういう結論になる。
頷きこそしないが、その言葉をディビットは否定しない。
数を増やすというのはもっとも手っ取り早い戦力補強だ。
だが、それだけに課題も多い。
このアビスに信用して背中を預けられる人間がどれだけいるのか。
「お前のように刑務作業中の協力者を増やそうとまでは言わん。1戦だけでいい。
あのジジイはそれ相応に恨みも買ってるからな、命を狙っている輩は少なからずいるだろうさ」
ルーサー・キング殺害という一時的な利害の一致。
これに乗る人間は少なからずいるはずだ。
「まあ、恨みという意味では俺も人のことを言えた立場ではないがな」
ディビットは皮肉めいた笑いを浮かべた。
長年、イタリア方面で勢力を拡大してきた彼にも、恨みを持つ敵は多い。
キングと同じく狙われる側である自覚はある。
「なるほど。それなら、牧師殿が殺害依頼を出した5人は候補に入るでしょうね」
キングが殺害依頼を出したということは、その標的たちはキングの命を狙う存在であると言うことだ。
その依頼自体がキングにとっては危険な刃物となって跳ね返ってくる。
ディビットは思考を巡らせながら頷いた。
「そうだな。ネイ・ローマンあたりは確実に乗ってくるだろう。
逆にジャンヌ・ストラスブールは無理だろうな。あの手の聖女様は”潔癖症”だ、俺のような悪党(カモッラ)と手を組むことはないだろう」
ディビットが確実に協力を予測できるのはこの二人のみだった。
怪盗ヘルメスとブラッドストークについては行動を読むことが難しい。
そして、あと一人については情報不足が顕著だ。
「エネリット。お前、どの程度受刑者のことを把握している?」
ディビットの視線が真剣さを増す。
アビスで育ったアビスの申し子ならば、この刑務所内の事情にも精通しているはずだ。
それがどの程度のものなのか、その実態を今一度確認しておきたかった。
「流石に歴の浅い受刑者は微妙なところですが、1年以上いる受刑者であれば顔と名前くらいなら全員わかりますよ」
「それは『秘匿』も含めてか?」
「ええ、『秘匿』も含めてです。まあ面識があるとまではいきませんが」
どうやって知ったのか気になるところだが、今はそれを問い詰める状況ではない。
もっと重要な事項がある。
「ならば、エンダ・Y・カクレヤマとの面識はあるのか?」
「遠目で見た程度ですので面識と言うほどのものでは、お奇麗な方でしたよ。性格までは存じませんが」
「少なくとも顔を見れば判別はできるということだな?」
「ええ、それは問題ありません」
エネリットの返答は理想とは言えないまでも、決して悪くない。
問答無用に殺し合いに発展する前に、交渉を持ちかけるだけの余地があるということだ。
協力者を増やす方針が確実とは言えないまでも、選択肢が増えることは好材料である。
「とは言え、数を増やす方針は不確定だ。交渉の成否以前に出会えるかもわからん。
当面の方針は変わらずまずは恩赦Pを得る。そのポイントを使って戦力の強化を計る。いいな?」
「堅実な策だとは思いますけど、時間をかければ向こうの戦力も整うのでは?」
刑務作業者の条件は同じだ。
ポイントによる戦力強化できるのはディビットたちだけではない。
時間をかければキング側も強化されて、いたちごっこになるだけではないのか?
「いや。恐らくそれは、ない」
ディビットが静かに、だがはっきりとその懸念を否定した。
「そもそも奴は無理にポイントを稼ぐ必要がない。それが奴の強みであり、同時に最大の弱点だ。
あのジジイには積極的にポイント集めに奔走する動機がないのさ。それこそ1ポイントも獲得できなかったとしても、あと4年アビスに勤めればいいだけの話だからな」
ルーサー・キングにとって、この刑務作業自体が想定外のアクシデントにすぎない。
元々、短期間の獄中生活を甘受しているキングには、この恩赦Pを必死になって集める理由がほぼ存在しない。
短い刑期という利点は、同時にリスクを冒してまでポイント獲得を目指す動機が薄れるという弱点にもなっている。
ポイントが集まらなければ副次的な恩恵も受けらず、戦力の強化も図れない。
「無駄なリスクは冒さん男だ。俺たちに持ちかけたように、自分のポイント獲得は度外視で他人を使って危険を排する方向に動くだろう。
まあ、ポイントの方から転がり込んでくれば話は別だろうがな」
暗黒街の首領は自ら積極的に動くことはない。
仮に動くとしても、ポイントのためではなく、己の安全確保のために人を手駒にして使うはずだ。
フィクサーとしてのキングをよく知るディビットはそう予測している。
「ですが、食料の問題もあるでしょう。この刑務作業、ポイントを稼がないと飲まず食わずになる」
今回の刑務作業は食料の支給がなく、自力で確保しなければならない。
しかし、森には動物どころか果実すら見当たらず、この孤島での自給自足は難しい状況だった。
「24時間程度なら飲まず食わずでも死ぬことはないだろう?」
ディビットは軽く言い放ったが、エネリットはそれに慎重な意見を述べる。
「死にはしませんが、補給があるかないかでは体力や集中力に明確な差が出ます。
序盤である今はともかく、終盤においては恩赦Pで食料を買っておかないと、体力差で押し切られる可能性があります」
「ふん。確かにな。特にネイティブ世代(おまえら)は燃費があまりよくないらしいからな」
「育ち盛りなもので」
ディビットはエネリットの懸念に同意した。
ネイティブ世代は超力を制御する脳活動が活発で、必然的に消費カロリーが高い。
刑務作業の後半になればなるほど、その影響は顕著になるだろう。
後半戦を考えるなら食料の確保も一つの課題になりうる。
「そうなると、水場の確保は争いの種になるかもな」
「そうですね、海水は飲み水になりませんし、湖は南に一つだけですから」
食料問題だけでなく、水場も極めて重要な資源となる。
目の前の川の先にも湖があるが、海からつながる汽水湖であるため飲み水としては使えないだろう。
後半になれば参加者は水を求めて湖に集まる可能性は高い。
それを待ち伏せに使うか、それとも先んじて水の確保に向かっておくのも策としてはありだろう。
「そう言えば、あの牧師殿、衣服がずぶ濡れでしたね。何があったんでしょう?」
「さてな。海にでも落ちたか、それとも水を生み出す超力者と戦いでもしたか」
もしそんな超力者がいるのなら、水の確保という意味でも大きなアドバンテージである。
接触したい気持ちもあるが、ルーサー・キングと一戦交えるような輩だとするのなら下手に接触すれば命取りになるかもしれない。
そんな相手とは関わらない方が無難だろう。
「まあ、いいさ。いざとなれば俺のポイントを使って食料を確保すればいい」
ディビットは豪胆に言い切った。
無期懲役のエネリットと異なり、必要ポイントが比較的少ないディビットには多少の余裕がある。
ディビットは守銭奴ではあるが、投資すべきところでは躊躇なく投資をする。その使いどころは見誤らない。
ルーサー・キングを排除する価値を考えれば、安い投資だ。
「いえ。自分の食料くらいは自分で確保しますよ。装備の確保も僕も自分ポイントを使って用意しますよ」
あくまでも対等でいたいという矜持か、エネリットはその申し出を断った。
その発言にディビットは怪訝そうに眉をひそめ、目の前の少年を睨みつける。
そうして、これまで感じていた違和感の意味を悟った。
「どうしました?」
「そうか。やはりお前、最初から出獄(で)るつもりがないな?」
それは質問というより、確認のための指摘だった。
エネリットはポイント獲得の意欲こそ示していたが、それを自らの出獄に使うとは一度も明言していない。
最初の森でディビットに問い詰められた際も一般論を答えただけで誤魔化している。
その指摘を受けたエネリットは僅かに眉を顰め、困ったように肩をすくめる。まるで犯行を言い当てられた犯人のような仕草だった。
「ない、と言うより殆どできないと思っている、ですかね。
この刑務作業は最初から死刑囚や無期懲役囚を恩赦するようにデザインされていない」
エネリットは冷静かつ明瞭な口調で、自らの分析を静かに述べた。
「何故、そう思う?」
ディビットは眉をひそめ、問い返した。
出獄のハードルが高いことは誰もが理解している。
だが、そこまで断言できる根拠はどこにあるのか。
エネリットは少しだけ間を置いて、その説明を始める。
「まず大前提として、この刑務作業の中で獲得できるポイントの上限は決まっています。
当然ですが、恩赦ポイントが刑期に相当する以上、それは絶対的な上限です。
そして、その総数は減ることはあっても増えることはない」
恩赦Pが刑期とイコールである以上、報酬である恩赦Pは刑務作業者全員の刑期の総量を超えることはない。
ここまでは誰もが理解することだ。ディビットは静かに頷き、先を促した。
「そして、このポイントは譲渡不可能で、一度獲得したポイントは獲得者本人しか使用できません。
報酬を物品に変換すれば間接的な共有は可能ですが、それでも唯一共有できないものがあります」
「刑期だな」
ディビットの回答に、エネリットは小さく頷きを返す。
刑期の恩赦こそ、この刑務作業における、ある意味でのメインコンテンツである。
だからこそ大抵の受刑者はそれを目標とするだろう。
「問題なのは死刑囚や無期懲役者が一括払いしか許されないという点、そして刑期の恩赦は刑務の終了後に清算されるという点です。これが何を意味するか解りますか?」
その問いに、ディビットは即座に理解を示した。
「多くの参加者は大量のポイントを最後まで保持し続ける必要がある、ということだな?」
「その通りです。死刑囚や無期懲役囚ほど多くの恩赦Pが必要であり。それを抱え続けねばならない。そして、」
そこまで聞けばディビットにもエネリットが言わんとすることが理解できたようだ。
エネリットの言葉を引き取ってディビットが続ける。
「そして、死刑と無期懲役は高ポイントの『マト』として狙われやすい、か」
エネリットは静かに頷いた。
「そう。つまりこの刑務作業は意図的に『抱え落ち』が発生しやすいように設定されている。
僕の予想では、この総ポイントの半分以上が使われることなく死蔵されることになるでしょう」
大胆な推測だが、ここまでの説明でディビットもそれが十分にあり得ることを理解していた。
多くポイントを保持した人間が死亡しやすいように設計されている以上、多くのポイントが使い切る前に命と共に失われるだろう。
「さらに、単純に400ポイントを稼ぐだけでも難易度は高い。
アビスの連中が一筋縄ではいかないというのもありますが、それ以前に、恐らく刑務作業が進むにつれて恩赦を諦め生存だけを目的とする連中が現れて徒党を組み始めるからです」
生存目的の集団と恩赦を目指す単独行動者という二極化が進行する。
それがエネリットの予測する勢力図だった。
弱者は集団の中に身を隠し、恩赦を追い続ける強者は孤立する。つまりは状況が進むにつれカモがいなくなる。
刑務作業が進めば進むほど、孤立する恩赦目的の受刑者は狙われやすくなる。
だからこそディビットとの恩赦Pを目的とした協力関係は、エネリットにとって極めて貴重なものだった。
「これを回避するには、まだ集団が形成される前の序盤に荒稼ぎするしかありません。
ただし、仮にポイントを確保できたとしても、今度は作業終了までポイントを保持して逃げ続ける立場になりますが」
鬼ごっこの鬼と子の立場が逆転する。
膨大なポイントを抱えて刑務作業の終了まで逃げ延びなくてはならない。
「24時間程度なら、どこかに隠れているのはそう難しくないだろう?」
ディビットの見通しにエネリットは首を横に振る。
「禁止エリアのルールがあります。穴熊を決め込むのは難しいでしょう」
徹底して、恩赦ポイントを失わせる仕掛けが刑務作業のルールには組み込まれている。
希望を与えておきながら届かない位置に設定しているのは、悪辣なヴァイスマンらしい仕掛けである。
「だからこそ使用前の首輪には価値がある」
エネリットが保持しようとしているのは、失われない生のポイントだ。
最初から出獄を目指していないエネリットにとっては、ポイントも首輪も自分のために使う必要がない。
だからこそ、エネリットは恩赦Pという制度を最初から人を使うための道具としてみていた。
それは、闇の皇帝ルーサー・キングとは別種の人の上に立つ資質だった。
「なるほどな。お前の言う理屈は分かった。なら、お前の目的は何だ?」
ディビットは鋭く問う。
出獄を目指していないのならば何故、ディビットと手を組んでまで恩赦Pを集めようとしているのか。
その問いにエネリットは淡く笑い、冷静に答えた。
「前にも言ったでしょう? ――――――復讐ですよ」
その静かな微笑みの中に宿る冷たい炎に、ディビットは底知れぬ不気味さを感じ取った。
その先の真意を問うべくディビットが言葉を放とうとした、その時だった。
石橋の向こう、月光の薄く射す廃墟から、ゆっくりとした足音が響いてきた。
ほどなく現れたのは、まるで月明かりが彫り出したかのように完璧に整った顔立ちの青年だった。
長く伸びた艶やかな髪が、夜風にさらわれ青白く煌めいている。
その美しさは現実離れしており、見る者に夢幻のような錯覚を抱かせた。
「やあ、エネリット。こんなところで会うとは奇遇だね」
「こんばんは。図書館以外でお会いするのは初めてですね、蓮さん」
耳に心地よい柔らかな声が夜の静寂を微かに震わせる。
エネリットはまったく動じる素振りを見せず、いつもの穏やかな微笑を浮かべて静かに会釈した。
穏やかに交わされる二人の会話とは裏腹に、見えない刃が互いの喉元に向けられているかのような緊迫感が場を支配していた。
まるで瞬き一つが命取りになりかねない危うさが、その場に立つ誰の目にも明らかだった。
現れた青年――氷月蓮とエネリットは、図書館で哲学や倫理を何度も議論し合った間柄だ。
互いの深い知性を認め合い、同時にお互いが油断ならない存在であることを知り尽くしていた。
氷月の鋭い視線が一瞬だけディビットへ向けられ、そして再びエネリットに戻る。
瞳に何を映しているのか、その微かな笑みに込められた本心を読み解くことは難しい。
その視線を受けたディビットの背筋に冷たいものが走り、思わず警戒心から拳を強く握りしめた。
エネリットがゆっくりとディビットへ視線を送った。
それは、この場の交渉を自分に任せるという無言の合図だった。
ディビットは即座にそれを理解し、小さく頷いて後方へと控える。
それは、先ほどのルーサー・キングとの交渉とは逆の構図となっていた。
「ところで、その服。どうされたんですか?」
まるで日常の世間話のように、エネリットは何気ない口調で尋ねた。
氷月は薄く微笑んだが、その微笑は感情を窺わせない。
「ああ。これかい? 焔の魔女に襲われて囚人服を失ってね。そこの廃墟の民家から拝借させてもらったんだ」
「それは、災難でしたね」
互いの言葉遣いは柔らかく、表面的にはまるで友人同士の他愛もない会話のようだ。
その内面では相手の真意やわずかな動きを一瞬たりとも逃さぬよう神経を尖らせているのがディビットの目にもわかる。
その証拠に、氷月の視線はさりげなくディビットに注がれ、明らかな牽制を感じさせる。
「蓮さんは、この刑務作業をどのように進めるおつもりですか?」
探るようにエネリットが尋ねると、氷月は静かに首を傾げながらも、微笑を絶やさずに答えた。
「積極的に作業を行うつもりはないよ。今は、身を守るために信頼できる同行者を探しているところさ」
生存目的の人間が集団を組もうとしている。
それは先ほどエネリットがディビットに語った考察通りの内容だった。
だが、その想定内の答えに対して、エネリットは驚いた表情を作るように軽く眉を上げる。
「それは意外ですね」
「そうかい?」
「ええ、だって蓮さん。今は『見えている』のでしょう?」
ディビットには意味が分からない言葉だったが、その言葉に、氷月の微笑が一瞬深まった。
それは相手の殺し方が見えるという氷月の超力を知らねば出てこない言葉だった。
「失礼ながら。図書館で同席するようになってから調べさせて頂きました」
「人の秘密を探るだなんて、悪い子だ」
「アビスの子ですので」
戯れのような蓮の軽口に、エネリットは悪びれず澄ました顔で返した。
やんごとなき血を引く人間にとって付き合う人間の身辺調査が嗜みである。
だとしてもアビスの囚人がそのような事をどうやって調べたのか、その底知れなさに氷月は一瞬だけ瞳を細める。
自らの超力が割れている事実を受け、静かに口を開いた。
「なら、今がどういう状況か、君には分かっているはずだ」
氷月の視線の奥には、すでにエネリットの死が刻まれていた。
どの角度から、どの力加減で、どの順番で攻撃すれば最も効率的に殺せるのか――その答えは、まるで目の前に浮かぶ設計図のように、明瞭に彼の脳内に広がっている。
まるで本に書かれた結末を朗読するかのように、彼がそれをなぞるだけでエネリットは殺害されるだろう。
「では、なぜやらないんですか?」
エネリットは不敵な顔で問う。
氷月の持つ殺害の最適解が見える超力。
その対抗策は警戒心を緩めない事だ。それが最適解の難易度を上げる事に繋がる。
余りにも容易な最適解を目の前に用意されれば、氷月はきっと殺人衝動に抗えない。
加えて、背後のディビットが鋭く目を光らせている。
エネリットに対して下手な動きを見せれば、すぐさま彼に叩き潰されるだろう。
冷静に損得を見極められる氷月だからこそ、今は殺せる状況ではないことをよく理解していた。
「お辛そうですね、蓮さん」
「そう見えるかい? エネリット」
エネリットは全てを見透かすような瞳で氷月を捉える。
これまでは見えないからこそ耐えられた。
だが、この場でシステムAと言う首輪から解放され『殺人の資格』を獲られたのだ。
殺せる相手を目の前にして殺せないという状況は氷月にとっては耐えがたい苦痛である。
「そうですね。僕だけ一方的に相手の超力を識っていると言うのはフェアじゃありません。
ですので、僕の超力について明かしましょう」
アビスの申し子は唐突にそんなことを言い出した。
その意図がつかめず氷月の表情が怪訝に曇る。
傍で聞いているディビットですら、どういうつもりなのか読めていない。
周囲の困惑を余所にエネリットは説明を続ける。
「僕の超力は他者の超力を一時的に借り受けることができるのです。
借り受けた超力の精度は僕に対する信頼度によって変動します。
そして、互いの合意の下で借り受ける場合、元の持ち主はその力を一時的に使えなくなるんです」
「なるほどね。そういう事か」
そこまで説明を聞いて、氷月の表情に理解が浮かぶ。
「つまり、私の常時発動型の超力を君が引き受けるという事だね、エネリット」
「ええ。だって蓮さん、見えていたら耐えられないでしょう?」
それは、氷月蓮という男の本質を突く一言だった。
逆鱗に触れてもおかしくない言葉を嫌味なく平然と言ってのける。
その人間力こそが超力以上のこの少年の力だろう。
「僕らと手を組みませんか? 蓮さん」
そう言って、エネリットは手を差し出す。
戦力強化を目論むディビットの目論見と、集団を作ろうという氷月の目的は一致している。
自分の殺し方を観ている相手に自ら踏み込んでいく。
恐ろしいまでの大胆不敵さである。
「なるほど。互いのメリットが明確になっているいい提案だ。君と手を組んで、あの日の議論の続きをするのも悪くないだろうね」
生徒を褒める教師のように氷月は手を叩く。
エネリットの超力は使い用によっては疑似的なシステムAとして機能できる。
見える殺意も信頼率により軽減され、何よりサイコパスである氷月と違い、エネリットに強い衝動性はないため、見えた所で問題はない。
氷月は殺人衝動に振り回されず、エネリットは戦う力を得られる、互いに益のあるWIN-WINの提案である。
だが、氷月は差し出された手を取る事はなくその手を収めた。
「だが、前提を間違えているね。この刑務作業においてはその衝動は耐える必要がない、違うかな?」
「それは状況次第でしょう。誰も彼もを殺しまわっていてはそのうち立ち行かなる」
氷月は思案するように整った目を細める。
その様は月下に照らされ、一つの芸術品のようでもあった。
車が進んでいくにはアクセルだけではなくブレーキが必要だ。
そうでなければただの暴走と変わらない、そのうち事故になるのは目に見えている。
それが分からない氷月ではないはずだ。
「その提案は魅力的だが、今回は遠慮しよう。おそらく私の目的と君の目的は一致しない」
だが、氷月はこの提案を蹴った。
氷月は集団に潜り込むことを目的としていたが、その対象は彼らのような積極的な刑務者ではない。
何より、図書室での問答を思い出せば、最終的な目的すらも大きく異なるだろう。
「それは残念。では――――殺し合いますか? この場で」
何の恐れもなく、明日の予定でも確認するかのように問いかける。
交渉が決裂した以上、そのなるのは必然の流れだ。
氷のように冷たい静寂が周囲に落ちる。
「それもやめておこう。2対1では分が悪すぎるし、君を殺したくないと言うのも本音だからね」
「そうですか」
氷月は張り詰めた空気をいなすように涼しい顔で返答する。
その答えをエネリットも平然とした顔で受け止めているが、一瞬でも気のゆるみを見せれば氷月は即座に殺害衝動を刺激することを理解していた。
「せっかくのお誘いを断ったお詫びと言う訳ではないが一つ情報を上げよう。
私の確認した限りでは北の廃墟には誰もいなかった。人を探すなら別の所を当たった方がいい」
「なるほど。ありがとうございます」
人がいないと言う情報は人がいると同じように戦力を探すにしても、標的を探すにしても有用な情報である。
それだけを告げると、氷月は静かに歩き出した。
まるで夜の闇に溶け込むような、滑らかな動きだった。
氷月は二人の間を抜け、そのまま一定の歩調を崩さずに歩いていく。
その横を通り過ぎるその瞬間、ピクリとディビットの指がわずかに動いた。
だが、その動きをエネリットが片手を上げ、静かに制す。
遠ざかる足音が止まることなく、冷たい夜の空気に静かに吸い込まれていった。
「行かせて良かったのか?」
低く押し殺した声でディビットが問う。
それは情緒的な意味ではなく、交渉が決裂したのならここで殺しておくべきではなかったのか? と言う意味の問いかけだった。
「ええ。戦っていれば勝てはしたでしょうが、どちらが殺されていた可能性は高かったでしょう。
たった一人を殺すと言う点においてはあの人の超力は最強……いえ最適に近い」
だからこそ、あの超力が欲しかったのだが、残念ながら交渉は決裂してしまった。
エネリットであれば実行の部分を他の超力を生かしてより効率的に行えただろうに、それだけに惜しい。
「だが、また標的を逃したとなると痛いな」
「そうですね」
今の所、出会った相手がルーサー・キングとその囮にした少女2人。そして氷月。
出会いの運が悪かったと言えばそれまでだが、恩赦Pを稼ぐための同盟がまだ1ポイントも稼げていない状況はあまりよろしくない。
「人の集まる場所を目指すべきだな」
どちらの目的のためにも恩赦Pは必要だ。
道すがらの偶然を頼るよりは、人の集まりそうな場所を目指した方がいい。
廃墟も候補の一つだったが、氷月からの情報によればあまり人気はないようだ。
「人が集まりそうなランドマークは中央のブラックペンタゴンと南西の旧工業地区でしょうか? それとも先に水場を確保しますか?」
「そうだな…………」
エネリットの提案を受けディビットは思案する。
人がいないのは話にならないが、かといって人が集まりすぎると言うのもウマくはない。
出来れば数の利を生かして各個撃破が理想である。
長期戦を考えるなら水場の確保も重要だろう。
水も恩赦Pで買うと言う手段もあるが、熊を狩る前に毛皮を売る算段をしても仕方あるまい。
決戦は刑務作業の後半。
それまでに武装と食料を整え英気を養い、体勢を万全にして暗黒街の皇帝を殺害する。
その為の第一歩として、次の行動を決断をせねばならない。
【D-7/橋近く/1日目・黎明】
【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:鼻と胸に傷、衝撃波での身体的ダメージ(小)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.復讐を成し遂げる
1.標的を探す
2.ディビットの信頼を得る
※刑務官『マーガレット・ステイン』の超力『鉄の女』が【徴収】により使用可能です
現在の信頼度は80%であるため40%の再現率となります。【徴収】が対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。
【ディビット・マルティーニ】
[状態]:苛立ち
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを稼ぐ
1.恩赦Pを獲得してタバコを買いたい
2.エネリットの取引は受けるが、警戒は忘れない。とはいえ少しは信頼が増した。
3.ルーサー・キングを殺す、その為の準備を進める
【氷月 蓮】
[状態]:健康
[道具]:Tシャツ、ナイフ3本、フォーク3本、デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを獲得して、外に出る
1.まずはチームを作る、そしてその中で殺す
最終更新:2025年04月21日 22:40