鬱蒼と茂る森の中で、バルタザール・デリージュは無言のまま立ち尽くしていた。
どこまでも高く伸びる樹木が僅かな月光すらも遮り、足元には苔むした岩と朽ちかけた倒木が散らばる。
彼はそんな原始的な自然の風景とは異質な存在であった。
全身を包む重厚な拘束具と鎖、それを振り回せば容易に人を砕き散らすであろう鉄球。
そして彼の頭部を覆う無機質な鉄仮面は、この場所の静寂に馴染まぬ鋭利な光沢を放っていた。
数時間前、彼は自らが獲物として狙った少女たちを逃がしてしまった。
葉月りんかと交尾紗奈――あの二人を取り逃した失態は、バルタザールの精神に深い亀裂を生じさせていた。
特に紗奈を前にした際に感じた、説明しがたい混乱。
これまでに感じたことのない内なるざわめきが彼の身体を縛りつけていたのだ。
あの瞬間、彼の中で自分でも理解しがたい感情が沸きだし、自由という目的への明確な焦燥を生み出していた。
――――――自由。
その言葉は、バルタザールの中で今や呪文のように繰り返されていた。
彼は自らの罪状を覚えていない。
過去の記憶も、何もかも失われていた。
ただ気づけばアビスの中で、30年以上もの月日を鎖と共に生きていた。
あるものと言えば自らに寄り添う一人の刑務官の存在だけ。
自分が何者であるかを考えることすらなく、ただ淡々と日々を過ごすだけの空虚な日常を送ってきた。
しかし、アビスを脱する可能性を持つこの刑務作業の中で、バルタザールは初めて明確な目的を抱いた。
恩赦を得て、外の世界に戻るという目的を。
だが、それは容易なことではない。
先ほどのジェイ・ハリックによる襲撃もそうだ。
透明なナイフによる奇襲は効果的に機能し、事前に着込んでおいた鎖帷子によって辛うじて防ぐことが出来た。
命拾いしたと言っていいだろう。正しく相手を警戒したバルタザールは露骨な誘いに乗ることなくその場に留まる。
今の己の力だけでは限界がある、それを理解した。
ただ単純に暴力を振るうだけでは、今後も恩赦のための首輪を獲得することは難しいだろう。
彼はその事実を、ここまでの戦いを経て、強く認識したのだ。
そのため彼は、森の中で鎖を操る訓練を積んでいた。
細かな鎖を空間に張り巡らせ、獲物を捉えるための繊細な感覚を養うために。
鎖の先に付いた鉄球を放ち、狙った木の枝や岩を砕き、すぐに鎖を引き戻して新たな攻撃に備える。
力任せの攻撃ではなく、正確な技術と戦術的な立ち回りを身に着けようとしていた。
開闢以前から服役していたバルタザールは超力をまともに使用した経験がない。
超力は体の一部の様なものだ、使用するのに問題はないが、格闘技術などと同じく使いこなすにはそれなりの経験と鍛錬がいる。
バルタザールが呼吸を整えながら再び鎖を構えると、彼の周囲は一瞬にして鋭い鎖の刃で埋め尽くされた。
彼の意思と一体化した鎖がまるで生き物のようにしなり、螺旋を描いて幹や岩を穿つ。
「……■■■■」
仮面の下から低い唸り声が漏れる。
感情を表す言葉は、もはや彼には存在しなかった。
だが、その唸り声には確かな苛立ちが滲み出ている。
不完全。まだ足りない。
スポンジが水を吸うがごとく、驚異的な速度で技術は向上している。
しかし、それでも彼の内なる焦りは消えない。
鉄仮面の下の目が不安定に揺らめいているのが自分でも分かる。
一方で彼は、自分の中に芽生えつつあるもう一つの違和感に気づき始めていた。
鎖を振り回す時、鉄球が木々を破壊する瞬間に感じる心地よさ。
拘束されることに安堵を覚えていた彼にとって、暴力を振るう瞬間だけが唯一の解放感をもたらすようになっていた。
『恐怖の大王(ドレッドノート)』。
自らを縛るための枷と鎖が、今では彼自身を解き放つ武器となっている。
暴力こそが、彼を拘束する記憶の欠落から唯一解放してくれるのだろうか。
「―――■■」
バルタザールは低く唸りながら、自らの異常性を否定するかのように再び鎖を強く握り締めた。
そうして、周囲の木々をあらかた伐採し終ええると、僅かに視界が開けた。
鉄仮面により狭まった視界に広がるのは工場の立ち並ぶ旧工業地区だった。
「―――」
再び彼の思考は冷静な狩人それに戻っていた。
あの場所にいるのは獲物か、それとも自分と同じように恩赦を求める敵か。
いずれにせよ、いつまでもここで自然破壊に勤しんでいるわけにもいくまい。
乾いた枝を踏みしめながら、バルタザールは無言のまま歩みを進める。
引きずる鎖がピンと張り、鉄球が地面に線を描いた。
その背後には、彼が破壊した森の痕跡が静かに広がっていた。
内心の葛藤を抱えつつも、彼は自由への希求を込めて進んでいく。
その度に工業地区の輪郭が闇の中に明確に浮かび上がっていった。
次の戦いが始まる気配が、鉄仮面越しに肌を刺すように感じられた。
■
旧工業地区。
かつて様々な工業製品を造り出していたであろうこの場所も、今はただ静寂だけが支配する廃墟の森と化していた。
錆びた鉄骨が無数に積み重なり、朽ちた廃工場が並ぶその地区は、かつての栄光を失った墓標のようにひっそりと佇んでいる。
そこに巨大な巌のような人影が一つ、工場跡の薄暗い室内に佇んでいた。
呼延光。
『鉄塔』の異名を持ち、かつて中国の黒社会でその名を轟かせていた凶手。
飛雲帮の尖兵として数多の敵を葬り去った武人は、今や刑務の名を借りた生存闘争に身を置いている。
先刻、大金卸樹魂との戦いが彼にもたらしたものは、疲労感ではなくむしろ懐かしさに似た高揚感だった。
長いこと眠っていた彼の魂の奥底にある『闘い』への渇望が再び目を覚ましたのである。
かつて彼が義兄弟達と共に功夫を磨き上げた日々、その激烈さを彷彿とさせるような戦いだった。
呼延は深く息を吐きながら、軽く目を閉じる。
筋骨隆々の肉体には微かな傷痕がいくつか刻まれていた。
自身の鋼鉄の身体をもってしても大金卸の強力な打撃を完全には凌ぎきれず、体表の所々が削れ落ちている。
だがそれすらも彼には心地よかった。
これこそが戦い、生と死の境を渡る闘争なのだ。
呼延はゆっくりと呼吸を整え、身体を緩やかに動かし始める。
彼が使う形意拳の動きを、ゆったりとしたテンポで繰り返していく。
あらゆる細胞の一つ一つまで感覚を研ぎ澄ませ、己の状態を正確に把握するための儀式。
大根卸との死闘の最中、彼は自身の未熟さを垣間見た。
かつてはただひたすらに強力無比な力を追求していた。
敵を倒し尽くすために武を磨き、『鉄塔』として恐れられるに至った。
しかし今はそれだけでは足りないと感じている。
己を未熟と感じる事など何時以来の事か。
それを思い出すには開闢より以前、まだ呼延が最強でなかった頃まで遡らねばならない。
呼吸から内功を練り、内面から力を発する内家拳。
筋骨を鍛え技を磨き、外面から力を発する外家拳。
実戦性を追求する場合、一方ではなく双方を学ぶことも多いが、呼延の拳風は内家拳に傾倒していた。
内家拳は外家拳に比べ習得に年月を要する。
呼延がどれほどの才を持とうが、大成は遠く、彼はどこにでもいる門徒の一人でしかなかった。
だが、開闢により世界は変わった。
彼の外家は文字通りの鋼鉄と化した。
地道に練り上げた内家とそれは異常なまでにかみ合い、天才的な内家と鉄の外家を併せ持つ最強の凶手が生まれたのだ。
その武力は嘗て中国黒社会に存在した『殺』の一字の名を冠する伝説の凶手に匹敵するとさえされていた。
20を迎える頃には敵なしとされ、開闢の前後に姿を消した『殺』の後釜を狙う黒社会の群雄割拠を制したのが、呼延の属していた『飛雲帮』である。
呼延は形意拳の型を繰り返す。
崩拳、炮拳、横拳。三拳を織り交ぜながら身体を動かしつつ、深く息を吐き出す。
新たな敵と遭遇したときに即座に反応し、動きを修正できるようにするためにも、あらゆる技のイメージを呼び起こし、筋肉に刻み付けておく必要があった。
一通りの型を終えると、呼延はゆっくりと瞑想の態勢に入った。
呼延は静かに座す。
頭を空にし、精神を深い静寂へと沈めていく。
肉体に刻まれた痛みが、意識の底へとゆっくりと沈んでいく。
湖面に落ちた小石。その波紋が広がるように心と身体が一つになる。
瞑想の中で、彼の心に現れるのはただ一つ。
武の道。
武の頂点を極め敵のいなくなった虚無。
信頼していた仲間たちに裏切られた虚無。
亡霊となった義兄弟を討ち果たした虚無。
鉄の器に満ちていたのは虚無ばかりだった。
だが、その虚無を満たすのはやはり『武』しかない。
己を極限まで高めるために闘い続けること。
相手がどれだけ強大であろうと、それを超え、より高みに登りつめること。
闘いの中にこそ自身の真価を見出すことができるのだと、改めて確信している。
瞑想が深まるにつれて、呼延の身体は再び鋼鉄のような強靭さを取り戻しつつあった。
微細な傷もまた、彼の気迫と意志に応じるかのように修復されていく。
やがて瞑想を終え、呼延は目を開けた。
瞳に宿るのは研ぎ澄まされた闘志。
彼は立ち上がり、廃工場の奥深くから出口へと向かってゆっくりと視線を向ける。
ひび割れた壁面、朽ちかけた鉄の扉、そんな薄暗く陰鬱な風景の中に、不気味な巨体が立っていた。
呼延以上の巨躯に重々しい鉄仮面、手足には巨大な鉄球を鎖で繋がれた拘束具。
彼の姿はまさに異質であり、この旧工業地区の風景に奇妙なほど調和していた。
巨人は無言のまま、ただ静かに鎖の擦れる音だけを響かせる。
それは大根卸とは違った異質な気配を纏った男だった。
大根卸は言わば見惚れる程に美しく整えられた宝石である。
だがこの男からは剥き出しの原石の様な、重苦しく、どこか混沌とした気配が漂っている。
しかし呼延の胸に恐怖や動揺は無い。
むしろ微かに笑みすら浮かんでいる。
目の前の相手が何者であるのか、呼延は知らない。
アビスに墜ちて以来、獄中生活を虚無の心持ちで過ごしてきた呼延は、獄中で他の受刑者の存在に注意を払うことはなかった。
だが、この敵が何者であれ、自分をさらなる高みに押し上げる存在となるであろうことを確信していた。
「……貴様は何者だ」
静かな口調の中に鋭利な敵意を滲ませ、呼延は尋ねた。
廃工場で静かに心を整え己と向き合っていた彼は、既に殺気を隠そうともしない鉄仮面を前に全身に戦意を漲らせていた。
「――――――――――」
鉄仮面の男――――バルタザール・デリージュは応えない。
ただじっと、鉄仮面の隙間から呼延を見据える。
「答える気はないか。まあ良い」
呼延は軽く腕を動かし、肩をほぐした。
巨大な肉体と強烈な殺気を放つバルタザールを前にしても、彼の表情には歓喜に似た闘志が浮かんでいた。
呼延は右足を僅かに前に出し、馬歩に開くと拳をゆっくりと握りしめる。
その動作は自然かつ流麗でありながら、確かな破壊力を秘めていることが一目でわかった。
「我が名は呼延光。名乗らぬならば、構わん。その仮面を割り、貴様の顔を拝むまでだ」
武人として名乗りを上げる。
低く静かな声音が、バルタザールの胸を震わせた。
「――――――――■■■!!」
次の瞬間、バルタザールの巨躯が動いた。
入口から動くことなく右腕を高々と振り下ろすと、そこに繋がれた鎖が唸りを上げる。
狂った鉄球が廃工場の壁を粉砕しつつ、嵐のように呼延を襲う。
だが、呼延は微動だにせず、ただ静かに鉄掌を前へと差し出す。
轟音とともに鉄球が掌に激突した。
しかし呼延の鉄の肉体は衝撃を易々と受け止める。
掌をわずかに旋回させ化勁で力を受け流すと、猛り狂った鉄球は勢いを失い、虚しく地に落ちた。
「鉄球を易々と振るうその力は認めよう。だが、力だけでは俺に届かんぞ」
微笑を浮かべる呼延の眼差しは、挑発の色を帯びてバルタザールに注がれる。
その瞬間、鉄仮面の巨人の胸中に異様な感覚が芽生えた。
仮面の奥に潜む記憶の残滓が疼き、過去の影が再び心を揺らす。
混乱を払い、バルタザールは鎖を引き戻す。
しかし、呼延がその隙を見逃すはずもなかった。
地を蹴ったその足は風よりも早く、跳ね戻る鉄球を追い越して彼は刹那にして間合いを詰めた。
「砕ッ!」
低い掛け声と共に呼延が繰り出したのは形意拳の一種、虎形拳。
虎は大地を踏み、嶺を越える獣。その動きは重く鋭く、狙った一点を断ち切る。
一歩踏み込むごとに足元が微かに沈み、その脚力を伝導させた拳は、獲物を食い破る猛虎そのもの。
両手の指を鉤状に曲げた獰猛な掌がバルタザールの喉元を狙い突き出される。
だがバルタザールも、即座に応じる。
右足の鉄球を蹴り上げ、宙に舞わせた鎖を呼延の拳へと迎撃させた。
鉄と鉄、激突の火花が闇を裂き、金属の叫びが廃工場に響き渡る。
されど勝利したのは拳であった。
鉄をも断つ虎の拳は容易く鎖を断ち切り、鉄球は力を失い空へと弾け飛ぶ。
呼延はその軌道に一瞥もくれぬまま、一歩、いや、半歩。まっすぐに防を失った敵の懐へと歩み寄る。
呼吸と共に丹田より沸き上がらせた内功を拳に込め、腰を落としたまま一気に踏み込む。
崩拳――形意拳の中でも、進撃の勢いと剛力を象徴する技。それは「突き」ではなく「砕き潰す」ための拳。
狙いは水月。人の中心を為す急所を的確に捉え、鉄の壁すら内側から粉砕せんとする一撃が叩き込まれた。
だが、響いたのは肉砕の音にあらず。
耳を打つは、再び金属の激突音。
崩拳はいつの間にか新たに生み出された鎖により阻まれていた。
同時に、先ほど呼延が追い越した鉄球がようやく彼の後頭を狙って迫る。
しかし、呼延はそれを振り返るでもなく、当然のように身を逸らすと、静かに後退して間合いを取る。
予測はしていたが、この鎖の鉄枷は超力によるものだと呼延は確信を得る。
無限に生み出されるのであれば武器破壊は意味がない。
「――――――面白い」
呼延は震わせるように地を踏み鳴らすと、再び腰を落として構えを取った。
敵が操る超力を前にして、彼の胸中にはますます旺盛な闘志が燃え上がっている。
対するバルタザールもまた、鉄仮面の下でわずかに唇を吊り上げ、呼延の言葉を認めるかのように笑みを浮かべた。
鉄の肉体を持つ凶手呼延と、鉄の鎖鉄球を武器とする鉄仮面の怪物バルタザール。
旧工業地区の平穏はすでに跡形もなく崩れ去り、廃工場は激烈な金属の火花飛び散る鉄火場と化していた。
両者の眼差しが交錯するその刹那、空間そのものが凝固したかのような異様な殺気が辺りを満たす。
その緊張を先に破ったのはバルタザールである。
鉄仮面の隙間から射抜くような眼光を放ちつつ、四肢の拘束具に繋がる重厚な鎖を豪快に振り回した。
先ほどの短い攻防で、近接戦では呼延には及ばぬと悟った彼は、鎖鉄球の間合いを生かす戦術を取る。
バルタザールは両腕を大きく広げ、左右から同時に振り切った。
その動きに従って唸りを上げる鉄の球は縦と横、軌道を交差させつつ、風を裂きながら呼延へと殺到する。
されど呼延、心を静め、内息を整えて悠然と構える。
迫りくる鉄球の動きを見切り、身体をわずかに捻って縦の軌道をかわす。
風が頬をかすめるも、彼の足取りは揺るがず。
続けて横軌の鉄球を掌にて受け止め、そのまま力の流れを転じて上空へ弾き飛ばす。
二つの鉄球を瞬時に捌ききり、呼延は即座に攻勢に転じようとした。
だが、その刹那、呼延に第三の殺意が迫る。
それはバルタザールの右足首から放たれし第三の鉄球。
腕を超える脚の豪力で振り抜かれた鉄球は、これまで以上の速度で呼延に迫った。
「墳――――ッ!」
呼延は疾如として振り返り、文字通りの肘鉄を叩きつけて鉄球を迎撃する。
金属の衝撃音と爆裂する気の波動が周囲を震わせ、建物の壁が震えた。
肘に貫かれた鉄球には、明確なヒビが走っている。
だが、その瞬間にバルタザールは既に次の動作に移行していた。
地に落ちた鉄球と宙を舞った鉄球を同時に引き戻し、その鎖を旋回させて呼延の背後より猛襲させる。
されど呼延、それすらも見切る。この男からすればその動きは一手遅い。
その鉄球が届くよりも早く低く身を沈め、一歩、また一歩と爆雷の如く踏み込み、雷霆のごとき炮拳を繰り出す。
鋼鉄すらも砕く拳が胸元に届かんとする。
瞬間、バルタザールの超力が瞬間的に鎖を編み上げ、即席の鎖帷子となって衝撃を遮った。
だが、鉄仮面の巨人は膝を折った。
それは、外殻を無視し内部へと通す浸透勁。
鎖の防を突き抜け、内より骨髄を震わせる衝撃がその肉体を直撃した。
常人であれば、即座に命を落とすであろう打撃――それを耐え抜くも、バルタザールは地に膝をつく。
そこに一切の容赦なく、呼延の拳がとどめを狙い放たれた。
だが、その一撃は空を穿つに留まった。
バルタザールの巨体が突如として後方へグンと引きこまれたのだ。
彼の左足に繋がれた鎖がまるでワイヤーフックのごとく縮まり、彼の身体を後方へと引き寄せたのである。
鎖は天井近くの鉄骨に巻き付いており、引き込まれたバルタザールの巨体がそこにぶら下がった。
見れば、廃工場の薄暗闇に隠れて、緊急回避用の鎖が張られていたことに、この瞬間初めて気づいた。
思った以上に慎重、そして応用のきく超力だ。
だが、所詮は道具頼り。本人の技量は武人には遠く及ばない。
近接戦の技量はもとより、近づけさせない技術も呼延に通用するものではなかった。
幼少のころに叩き込まれたような気配はあり、基礎は出来ている。。
首元の『無』の一時からして、長期の服役により実戦経験を積むことができなかった類だろう。
バルタザールは天井にぶら下がりながら、先ほどの一撃によりせりあがった胃液を仮面の下からぽたぽたと零していた。
だが、それすらも気にならないといった風に、凄まじい集中力で呼延を見つめ考え込んでいる。
バルタザールは今を持って成長中なのだ
リアルタイムで実戦を学んでいる。
この巨大な原石のカッティングをしているのは呼延という鋼鉄か。
惜しいと感じる心があるのも事実だが。
死合の場で出会った以上、手心を加える甘さを呼延は持ち合わせていない。
「そろそろ降りてきたらどうだ?」
「――――――――」
その言葉に応じるように鉄骨に括り付けられていた鎖が解けた。
地を砕く勢いで流星のように恐怖の大王が舞い降りる。
「■■■■■■■■■■■■■■■■!!!」
鉄仮面の怪物が仮面の下で声にならない雄たけびを上げた。
バルタザールの双眸が鋭く煌めいた刹那、腕を大きく振りぬき、鎖鉄球が再び風を裂いて奔った。
だが、その軌道は明らかに呼延の体から逸れていた。
一見すれば、的を外したかのような一撃。
呼延が訝しむ間もなく、バルタザールの意図が露わになる。
鉄球の軌道より延びる鎖が、まるで狩猟具“ボーラ”のように円を描き、彼を絡め取らんとしていた。
力押しから一転、拘束による捕縛戦術へと変化したのだ。
「小賢しい……!」
風を切り裂き迫り来る鎖が地を這い、鋭利な蛇のごとく呼延の足元を払う。
だが、呼延は縄を跳ぶ如く空へと軽やかに跳躍し、それを回避する。
しかし、その刹那、背後より轟音が響いた。
振り抜かれた鉄球は呼延を外れたまま、廃工場の背後に立つ鉄柱を真っ向から打ち砕いていた。
鈍い金属音と共に破砕された鉄柱は凄まじい勢いで、空中にある呼延へと覆いかぶさるように倒れ込む。
宙に浮かぶ呼延にとって、これを避ける術はない。
だが、呼延はこの状況下においても恐れず、空中で瞬時に身を捻る。
空に舞う中、体を捻り、脚に気を込める。
その動きは、まさに飛燕が空に舞うがごとし。
「破――――ッ!」
次の瞬間、折れた鉄柱に足が吸い付くように乗り、風を裂いてそのまま後ろ蹴りを叩き込んだ。
轟音と共に、巨木のごとき鉄柱が唸りを上げ、今度はバルタザールへと逆襲する。
バルタザールもこれに即座に反応して瞬時に身を翻す。
外れた鉄柱はそのまま廃工場の壁面へと激突し、凄まじい衝撃と共に鉄板を引き裂き、錆びついた梁ごと吹き飛ばした。
土煙が舞い上がり、鉄屑が雨のように降り注ぐ中、鈍く軋む金属音が空に響き渡る。
それを避けた巨人はそのまま絡めた鎖を一息に引き寄せる。
この引き戻された鎖の軌道こそがバルタザールの真の狙いであった。
鎖の一閃――まるで蛇が咬みつくが如く、呼延の身体に襲いかかる。
空中にあったその身体をかすめた鎖が、鋼鉄の皮膚を掠めて行く。
凄まじい火花とともにズギャギャギャという、金属を削る嫌な音が響いた。
高速で巻き取られる鎖は鋭利な鑢のごとく、呼延の鉄身を擦り抜け、血が宙に飛沫を描いた。
鉄と鉄の衝突。鎖の方も削れているが、いくらでも生み出せる道具と替えのきかない肉体とでは余りにも釣り合いが取れない。
「别小看我(嘗めるな)」
皮膚を削られる痛みなど、呼延にとっては些事に過ぎぬ。
呼延を止めるには至らず、むしろその内に秘められし戦意をさらに燃え上がらせただけだった。
地に舞い降りるや否や、呼延はすぐさま重心を沈め構えを取る。
刹那、内功が凝縮されると、前方へと崩拳が放たれた。
その拳が風を裂くと、目には見えぬほどの衝撃波が一直線に奔り、虚空を切り裂いて鉄仮面へと襲いかかる。
絶技、百歩神拳。
遠距離攻撃はバルタザールだけの専売特許ではない。
放たれた勁力は、遥か彼方のバルタザールの鉄仮面を叩き、仮面が激しく揺れて軋んだ。
バルタザールの巨体がわずかに仰け反る。
その衝撃に怯んだ僅かな隙を、呼延が逃すはずもなかった。
瞬息の踏み込み、「燕形」の身法にて間合いを詰める。
背筋を通した直線の動きは鋭く、迷いなくバルタザールの懐へと疾駆する。
しかし、バルタザールもまた無策ではない。
あらかじめ遠くに仕掛けていた鎖を再び引き寄せ、間合いを取り直そうとする。
先ほどまでの回避と同じ手である――だが、同じ策が二度通用する呼延ではない。
呼延は即座に鉄柱倒壊の余波で散乱した廃材を素早く蹴り上げる。
正確に蹴り飛ばされた廃材が唸りを上げて鎖に絡まると、その軌道が歪んだ。
その刹那、引かれるはずだったバルタザールの軌道が狂い――逆に呼延の間合いへと誘われる。
引き寄せられる鉄仮面の下で、バルタザールは見た。
既に拳の構えを整え、「炮拳」の形で内勁を最大限に練り上げている呼延の姿を。
膨れ上がる気は風を巻き込み、廃工場の埃を押しのける。
「――――――――――――疾ッ!!」
轟音。火花。
鋼鉄を打ち砕く、武林最上の一撃。
地を震わせる咆哮と共に放たれた渾身の炮拳は、雷の如き勢いで寸分違わずバルタザールの鉄仮面を直撃した。
周囲の瓦礫や鉄骨までも巻き込みながら、巨躯バルタザールの体が錐もみ回転しながら弾丸のような勢いで吹き飛ばされる。
鋼鉄の肉体が凄まじい衝撃とともに壁に叩きつけられ、工場の一角が轟音と共に崩壊した。
だが、呼延の表情は晴れなかった。
拳の手応えに残る僅かな違和感に眉をひそめる。
呼延の放った一撃――その炮拳は鋼鉄の巨人の首ごと吹き飛ばしてもおかしくないほどの威力を持っていた。
だが、確かな“断ち切れた感触”がなかった。
その予感を的中させるように、舞い散る粉塵と鉄くずの向こうで、瓦礫の山が蠢く。
その中から、バルタザールの巨体が、まるで屍になるのを拒むかの如くゆらりと立ち上がる。
破壊されたはずの肉体は、あまりに静かに、あまりに重々しく動いていた。
だが、立ち上がったバルタザールの挙動はどこか異様で、まるで魂を失ったかのような虚ろさが漂っている。
何かにおびえるように鉄仮面を両手で抑え、全身を細かに震わせている。
見れば、彼の鉄仮面には大きな亀裂が入り、その一部が剥がれ落ちていた。
露わになった目元、その奥から覗く瞳には狂気と戸惑いが入り交じり、虚空を彷徨っている。
動揺と混乱に喘ぐバルタザールの視線が、足元に転がるガラス片に映る己の顔を捉えた。
砕けた鉄仮面、その目元からは褐色の肌と鋭く切れ長な瞳が露わになっている。
長きにわたり封印されてきた自我――その眠りを覚ますように、胸底で何かが弾けた。
「……ァ……アァァ……!」
まずは掠れた呻きが喉奥から漏れた。
鉄仮面に声を奪われ、一言たりとも人間の言葉を口にすることのなかった巨人が、数十年ぶりに人としての呻きを放つ。
「アアアアアアアアアアアアアァァァァァ――――――――!!!」
呻きは瞬時に絶叫へと変わり、叫び声が周囲の空気を震わせ、轟然とした衝撃波が工場内に広がった。
その瞳に狂気の光が宿り、鋼の筋肉は激しく脈打ち、身体を覆う鎖が意思を持ったかのように暴れ始める。
まるで、永き封を破って溢れ出した何かが、暴走を始めたかのように。
頭を両手で掴み、腕を覆う拘束具から無数の鎖が乱れ飛び、巨大な嵐となった。
その度に彼の怒りと混乱は激しさを増し、辺り一帯を埋め尽くすほどの鎖が、まるで意思を持つ蛇の群れのように暴れ狂う。
「アァァァァァァァ―――!」
怒声と共に鉄球を振り回せば、重厚な鉄骨が砕け、壁は紙のように引き裂かれて飛び散る。
工場内は激しく揺れ動き、瓦礫が次々と舞い上がり、あたり一帯は砂塵と粉塵で視界を失った。
暴れ狂う鎖と鉄球が容赦なく工場の壁や柱を打ち砕き、破壊された鉄材が飛び交い、激しい風圧が嵐となって全てを薙ぎ払う。
呼延はその猛威を目の当たりにしながらも、静かに暴走する鉄鎖から身を躱していく。
だが、その破壊はもはや個人の範囲に収まるものではなくなっていた。
鎖が激しく旋回し、建物を次々と破壊し、工場はもはや倒壊寸前である。
ついに巨大な梁が砕け折れ、支柱が歪み、工場そのものが轟音と共に完全に崩れ落ちた。
呼延もまた逃げる間もなく、その激しい崩壊に巻き込まれ、巨大な瓦礫の奔流に呑まれてゆく。
暴走するバルタザールの咆哮と共に、廃工場は巨大な墓標の如く完全に崩壊し、瓦礫と砂塵が旧工業地区の夜空を覆い尽くした。
■
廃工場は、完全に崩れ落ち原形を留めていなかった。
壁は崩れ、鉄骨はねじ曲がり、地面には無数の瓦礫と鉄屑が散乱している。
粉塵がなおも空中に漂い、月明かりさえ遮る灰の帳となっていた。
先ほどまでの激烈な戦闘の痕跡が、あたり一帯を無言で物語っている。
その荒廃した光景の中に、ふと静けさが広がった。
だがその沈黙は、突如として舞い上がる瓦礫とともに破られる。
鉄の塵を裂いて、再び現れるは『鉄塔』呼延。
彼の身はすでに鋼。
建物の倒壊に巻き込まれた程度でどうにかなる呼延ではない。
彼は全身に気を巡らせると、自身を覆い尽くす瓦礫を一撃で吹き飛ばし、悠然と立ち上がった。
だが、そんな彼の目の前に広がる光景は、地獄そのものであった。
暴走するバルタザールは、多頭の竜ヤマタノオロチさながら四方八方へと無秩序に鎖鉄球を振り回し続けている。
狂ったように舞い飛ぶ鉄球たちはアメリカンクラッカーのようにぶつかり合って縦横無尽に軌道を変え、破損したその破片が周囲へ散弾のように散らばってゆく。
そして破壊よりも早い速度で新たな鉄球が次々と継ぎ足され、荒れ狂いながら周囲の建物を巻き込んで、辺り一帯を蹂躙し尽くしていた。
混沌。混沌。混沌。
完全に予測不能な無秩序の極みがそこにあった。
狂気じみた破壊の嵐が旧工業地区を飲み込み、建物は次々と破砕され、巨大な瓦礫の雨が降り注ぐ。
バルタザールは完全に恐怖と破壊をまき散らす『恐怖の大王』と化していた。
「ゥゥウオオオオオオオオオオオオオオォォォ――――――――――――!!!!!」
バルタザールの悲痛な叫びが絶え間なく響き、狂乱状態のまま周囲を破壊し尽くしていく。
轟音と共に、地面に亀裂が奔り、大地そのものが引き裂かれる。
衝撃波が工業地区の建物を無差別に打ち砕き、崩壊した建物が砂塵を巻き上げて呼延の視界を遮った。
呼延は全身に張り詰めた緊張を解かず、その暴走を鋭く見据えていた。
彼の理性は完全に崩壊し、誰がどう見ても暴走している。
もはやこれは勝負ではない。既に呼延の存在など認識の外になっているだろう。
呼延にとって、巻き込まれぬようこの場を離れることは容易い事であった。
ただ、引けばいい。すでに敵を見失っている相手が追ってくることはないだろう。
だが、それはありえない選択だった。
呼延は深く息を吸い、拳を握り締める。
呼延は孤高の頂にあった。
強すぎるが故に敵はおらず、仲間からも恐れられ裏切られた。
だが今、目の前には怪物がいる。
この暴力の化身たる『恐怖の大王』こそ、まさしく待ち望んでいた強敵である。
それを前にして引くなどという選択肢をこの呼延光がとれるはずがない。
何より、どちらか死ぬまで終わらぬからこその『死合』である。
呼延は再び地を踏みしめ、獣のように静かに、だが熱く構えを取り直す。
「现在是挑战怪物的时候了(怪物退治だ)!」
決意の声は低く静かに呟かれたが、その内に燃える闘志は天を衝くほどに激しかった。
呼延は激烈な気勢と共に、暴れ狂う鋼鉄の怪物へと真っ直ぐ立ち向かっていった。
呼延は凄まじい震脚で足元を踏み抜く。
その反動で倒壊した瓦礫や廃材が僅かに浮かび上がった。
それらを掌打で鉄砲玉の如く飛ばし、凄まじい速度でバルタザールの方向へと射出する。
その礫は無軌道に暴れまわる鎖に弾かれる。
だが、それでいい。
礫によって鉄球の軌道が変わり、一瞬の道が切り開かれる。
その中を、呼延は風の如く駆け抜けた。
だが、内に飛び込んだ鎖の嵐はますます熾烈を極めた。
鎖の動きは乱れ、狂い、予測不能の軌道で襲い掛かる。
呼延をして読み切れぬ混沌の渦。
呼延が僅かな迷いを見せた瞬間、その隙を狙ったかのように鉄球が側頭部を掠める。
その鎖はもはや質すらも違うのか、わずかな接触で擦れた鎖が頭部を削り、鉄の頭皮がベロりと捲れた。
そこに頭大を超えて子供ほどの大きさはあろうかという鉄球が容赦なく襲い掛かる。
「グゥ――――ッッ!!」
受け止め弾く。
鋼鉄となったはずの骨が軋み、身体が悲鳴を上げる。
それでも呼延は冷静に対応し、受け止めた鉄球につながる鎖を掴み取って渾身の力で引きちぎった。
痛みを堪え、自らの血で赤く染まった呼延の目は鋭さを増した。
次の瞬間、展開された鎖がまるで生き物のように四方八方から襲い掛かる。
一本一本が独立した動きを持ち、絶妙なタイミングと軌道で攻撃を仕掛けてくる。
呼延を包囲するような多方向同時攻撃による飽和攻撃。
呼延は息を静め、混沌の中で丹田に意識を集中した。
視界を埋め尽くすほどの鉄球が迫りくる、逃げ場などない。
だが呼延の全身に気が巡るや、その身体は羽毛の如く軽くなった。
鉄の蛇が迫る瞬間、わずかな歩法で身を捻り、燕形の身法で華麗に宙を滑り抜ける。
続く無数の鎖が十方より同時に襲い掛かるが、呼延はあえてそれを引きつけ、蛇形の勁で鎖の軌道を見切って指先で僅かに逸らし、絡め取る。
次に襲い来る鎖の嵐は、龍形の螺旋の動きで風を巻き起こすかの如く、その流れを掌で操り、鎖同士を激突させ絡ませることで勢いを殺した。
一歩進むごとに鎖は逸れ、乱れ、絡まり、自滅するように落ちてゆく。
それはまさに、技と呼吸、内功の三位一体の境地。
生涯をかけて学んだ中国武術の技術が、思考よりも早く彼の体を動かしていた。
しかし、まさにその瞬間。
呼延が躱したはずの鎖が不規則な動きを見せ、ついに彼の右脚を捉えた。
呼延を引きずり倒さんとする鎖の枷を、足刀にて断ち切る。
だが足を止めた一瞬の間に、巨大な瓦礫の影から猛然と放たれた鉄球が、呼延の左肩を直撃した。
全身の筋肉が裂けるような激痛が走り、意識が飛びかける。
痛み。
この鉄の体を得てから、久しく感じていなかった痛みだ。
呼延は内功を巡らせ、全身の痛みを意志の力で封じ込める。
痛みよりも、それ以上の歓喜が体を動かす。
呼延は、ただひたすらに突き進んでいた。
考えるよりも先に体が動き、痛みを忘れ、ただ「辿り着く」ことだけを渇望している。
何かを目指すことなど久しく忘れていた。
敵の懐へ――否、そのさらに先にある何かへと。
この戦いで彼は何を求めているのか。
敵を討つことか。いや、違う。
既に武の頂を極め、孤高に生きてきた自分が、これ以上どこへ行こうとしているのか。
この一撃を打ち込んだ先に、果たして何があるというのか。
だが、ふと彼は理解した。
行き先など、もはや問題ではないのだと。
彼が渇望していたのは「どこか」ではなく、「辿り着こうと足掻くこと」そのものだったのだ。
そう悟った刹那、気づけば呼延はついに敵の懐へと踏み込んでいた。
刹那。彼の足が地を打つ。
それはただの踏み出しではない。
丹田より発した気が、脊柱を駆け、肩、肘、腕、拳へと一線に流れる。
精神の統一による内三合、体の統一による外三合、合わせて六合。
束ねて発するは形意拳、究極の理たる『合勁』也。
血に濡れた呼延の目が、まるで星辰のごとく光った。
全身が一つの鞭のようにしなり、螺旋のごとくねじれ、力が凝縮されてゆく。
もはや一撃に全霊が宿り、彼自身が鉄の「拳」と化す。
「――――――――――――――――――破ッ!」
混元一撃。
形意拳の極意たる一撃必殺。
全身の力を一点に集中させ、相手の中心を貫く一撃が放たれた。
鮮烈な血飛沫が空を染める。
呼延の拳は肘の先からバルタザールの水月に埋まり、その身を貫いていた。
「――――――」
間違いなく生涯最高の一撃。
今の一撃は、およそ人間の肉体に発せられる最大の一撃だった自負がある。
だが、違和感があった。
その手応えに心中で首をひねる。
呼延の拳に敵の肉を貫いた手応えがなかった。
その理由はすぐに判明した。
呼延の右手は肘から先がとっくになくなっていた。
己が武人として命と同義に鍛え上げてきたその右拳は、すでに遥か前、鎖の嵐の中で砕かれていたのだ。
飛び散った大量の鮮血は、相手のものではなく、彼自身の失われた腕から噴き出したものだった。
そんなことにすら気づかないだなんて、よほど夢中になっていたらしい。
まだ弱く、まだ未熟で、ただ伝説に憧れていただけの門徒であった頃。
汗に塗れ、拳に血をにじませ、倒れてもなお立ち上がろうとした、あの必死さ。
それを思い出していた。
「呵呵…………不成熟的、不成熟的」
己が未熟を笑う。
未だ道半ば、その先がある事を喜ぶように。
笑みを零した直後、背後から猛然と迫る巨大な鉄球の影を、呼延は薄れゆく意識の中でぼんやりと感じていた。
無数の鉄球が彼の肉体を叩き潰し、呼延の姿は瓦礫と血煙の中に飲み込まれていった。
■
やがて、狂乱の嵐にも終わりが訪れる。
鉄球のうねりは徐々にその勢いを失い、暴れ狂っていた鎖もまた、力なく地に落ちた。
まるで嵐が吹き荒れた後の荒野のように、世界は不自然な静寂に包まれる。
バルタザールは、膝をついた。
仮面の奥で、濁った呼吸が乱れ、鉄仮面の隙間から幾筋もの熱気が漏れ出す。
鎖の奔流はもはや影もなく、超力の過剰使用によって彼の身体は限界に達していた。
「――――は……ァ……」
静寂の中、低く掠れた息が漏れる。
幾度も重ねた戦闘によって限界を超え、暴走という形で解放された力の代償が、今や彼の身体と精神に深い代償を刻みつけていた。
ふらりと立ち上がろうとして、崩れる。
手をついたその下、地面ではなく、鉄とコンクリートの砕けた平面が広がっていた。
そこには、もはや工場の姿はなかった。
鉄骨は骨のように砕かれ、コンクリートは土と交じって押し潰されている。
建物だったものの痕跡はほとんどなくなり、地面は幾本もの亀裂が走った巨大な裂溝となっていた。
旧工業地区の一角はまるで爆撃を受けたかのように、すべてが平らになっていた。
鉄屑と瓦礫、粉塵と残響のない空間。
それは暴力によって塗り替えられた、誰のものでもない死の大地だった。
そんな中で――その光景のただ中に、バルタザールは見た。
瓦礫の中心にそびえ立つ一本の『鉄塔』を。
それは人の形をしていた。
だが、もはやそれが人間かどうかも怪しい。
肩は砕け、腕は失われ、顔には深く鮮血がこびりついている。
それでも、全てが破壊された地に、その存在を示すように両の足で立っていた。
呼延光。
あれほどの破壊の中で原形を保っているのが奇跡である。
彼は死してなお『鉄塔』の名に恥じぬよう、風化した工場の亡霊の中にあってただ黙然と立ち尽くしていた。
拳の構えを解かぬまま、死のような静寂の中で、その影は風に揺れることもなかった。
バルタザールは、それを見ていた。
どれほどの時間が経ったのか。
思い出したように、バルタザールは動き出し、立ち往生していた呼延の首元に手を伸ばす。
今の彼を動かすのは自由への渇望。
ポイントの獲得を完了すると、何も言わずに振り返ることなく、瓦礫の中をゆっくりと歩き出す。
断片的な記憶の奔流が脳裏をめぐり、止めようもない頭痛が続く。
ただ、自身の鎖が音を立てて地に落ちる音だけが、虚しく耳に残っていた。
【呼延 光 死亡】
【F-2/工場跡地周辺(東側)/一日目・早朝】
【バルタザール・デリージュ】
[状態]:鉄仮面に破損(右目)、疲労(極大)、頭部にダメージ(大)、腹部にダメージ(大)
[道具]:なし
[恩赦P]:100pt(呼延 光の首輪より獲得)
[方針]
基本.恩赦ポイントを手にして自由を得る
0.休む
1.(俺は……誰だ?)
2.(なぜあの小娘(紗奈)を殺そうとした時、動けなくなったのだ?)
※F-2で廃工場が一つ消滅しました
最終更新:2025年05月25日 13:46