「神の名において――――」

冷たい風が吹き抜ける岩の尾根で、ドミニカ・マリノフスキは再び祈りを口にした。
髪が風にたなびく。その瞳は青空を映しているはずなのに、そこに広がっているのは、奇妙に滲んだ空だった。

見えない境界線を挟み、世界は別の物に分かたれていた。
地平は緩やかに湾曲し、空間は捩れる。花は溶けるように咲いては、意味もなく花弁が逆さに飛ぶ。
風景すべてが、現実の皮を剥がされて歪められていた。

「――――再び、貴女の信仰を問いに参りました……神の冒涜者よ」

ドミニカの足元に重力が集中する。
空間の歪みに抗うように、彼女は球状の重力場を展開しながら進み始めた。

すでに一度、敗北を喫した戦場。
少女が作り出す夢の世界が、いかに現実離れした破壊の領域であるかを彼女は知っている。
そしてその超力が、神の奇跡とは似て非なる、世界を改ざんする冒涜であるということを。
その醜悪さは以前と同じだ。いや、それ以上に悪化している。

しかし、引き返す気は微塵もなかった。
前回の敗北。己の無力さ。メアリーの力に及ばなかった事実。
それらすべてを噛み締めて、なお歩む。祈りと共に、彼女は再びこの悪夢に挑む。
この地に再び立つためにこそ祈りを捧げ、血を吐いて這い上がってきたのだ。

「これは……神の創り給うた世界ではない」

恐怖はない。
純粋なる怒り悲しみと共に拒絶を伝えるように前へ。
メアリーの領域に、真正面から踏み込むと、重力場が波打った。

その瞬間、空間が悲鳴を上げるように捩じれた。
ドミニカの重力場が、再び強大な世界に飲み込まれる。
前回と同じ現象だ。だが、それを恐れる心はもうない。

「――――審判を下しましょう。神罰の名のもとに!」

叫ぶ。
だが、圧倒的な超力の差により一方的に弾き飛ばされた。
それを、信仰心で埋めようとする姿は滑稽ですらある。

それでもドミニカは止まらない。
止まれない。止まってはならない。
彼女は両手を合わせ、重力場を再構築した。

「我、ここにあり――神への誓いを(コールヘヴン)!」

自らを導く祈りの言葉を口にする。
咆哮と共に、ドミニカの周囲に祈りの輪が瞬いた。
信仰を宿した重力が、再び少女の夢世界とぶつかり合う。

重力と無重力。
現実と夢。
光と闇。

その狭間に、ひとりの修道女が立ち続けていた。


岩肌を砕くように砂礫が跳ねる。
動き始めたメアリーの超力領域から逃れるべく駆けだしていたエネリットたちだったが。
突如、エネリットがその軌道を変えドミニカを追うように岩場を駆けていた。

「どうするつもりだ、エネリット!?」

その背を、数歩遅れてディビットが追う。
風を切る声に、前方を駆けながらエネリットが応じる。

「彼女を支援します――貴重な領域型を無駄死にせるのは惜しい」

ドミニカ・マリノフスキは貴重な領域型の超力者だ。
だが、その超力強度はメアリー・エバンスに遠く及ばない。
世界中を探しても、単独であのメアリーに正面から勝てる領域型などそういない。
単独で挑めば、まず間違いなく敗れるだろう。
少なくとも、事前のブリーフィングでは、そう結論づけられている。

「支援だと? どうやって?」

支援すると言うは易しでも行うは難しだ。
領域型同士の衝突に対して、外部からできることなどそうはない。

その問いにエネリットは突然立ち止まり、くるりと振り返る。
ディビットを見つめるその目には何か策があると言っているようであった。

「そのために、ディビットさんにご協力頂きたいことがあるのですが」
「言ってみろ」
「ディビットさんの超力を、一時的に僕に譲渡していただきたい」
「…………なんだと?」

一瞬、耳を疑った。
足を止めたディビットの顔に、露骨な困惑と怒気が浮かぶ。
だがエネリットはそれに気づきながらも構わず、簡潔に説明を重ねた。

「僕の超力には他人から借り受けた超力を、さらに他者へと間貸しする機能があります。
 これを使ってディビットさんの倍加の超力をシスター・ドミニカに貸し与えます」
「……つまり、俺の『4倍賭け』を使ってあの女の超力強度を補強する、と言う事か?」

足りないのなら補える手段を与えればいい。
察しよいディビットの言葉にエネリットは頷く。

「はい。もっとも、僕との信頼度次第で再現度は変わるので、倍率はかなり下がるでしょう。
 4倍どころか2倍にも届かない可能性は高い。それでも、ないよりは遥かにマシです」

ディビットの顔に、渋い色が浮かんだ。

「そのないよりもマシな手段のために、俺に丸腰になれと?」

氷るような冷ややかな声。
エネリットに超力を譲渡している間、ディビットは無防備になる。
それは、この戦場で裸同然で放り出されると同じ事だ。

「はい。その通りです」

一片の迷いもなく、エネリットは言い切った。
その躊躇いの無さにディビットは舌打ちをひとつ、苛立たしげに響かせた。

「……いいだろう。貸してやる。ただし、この貸しは高くつくぞ」
「ありがとうございます。それと、もう一つお願いがあるのですが」
「チッ……まだあるのか」

あれだけの無茶を要求しておいてまだ要求を続けようというエネリットに、ディビットの声には呆れを通り越して諦念すら滲んでいた。

「もしこの試みが成功すれば、一時的にメアリーちゃんの領域は打ち消されて無防備になります。
 だが、それは再度彼女が超力を張り直すまでのごく短い間でしかない」

つまり、その短い間にメアリーを仕留める必要があるという事だ。

「だが、奴は山の上で、距離がある。そう簡単に詰められる位置じゃない……下手をすれば、またあの異常空間のど真ん中で再起動だ」

そうなれば死は確実だ。
いずれにせよ近接を狙うのはリスクが高い。

「その通りです。だからこそ、領域が途切れたその瞬間を狙える遠距離攻撃の手段が欲しい」
「それを俺に用意しろと?」
「はい。方法はお任せします。僕はシスター・ドミニカに借り受けた超力を譲渡しに行かねばなりませんので、そちらをお願いできますか?」

ディビットは虚空を睨んだ。
超力のない状態で、他の受刑者と接触するだけでもかなりのリスクだ。
その状態で存在するかどうかも分からぬ遠距離攻撃の手段を探せというのか。
無茶ぶりにも、ほどがある。

「……クソッタレが」

悪態をついたディビットの眼光が、再び前方を捉える。
既に刑務開始から六時間が経過している。
4分の1を超えても恩赦Pは未だ得られていない。

「いいだろう…………やってやる」

ディビットはこの提案に命(チップ)を張る事を受け入れた。
どこかで賭けに出る必要があるなら、ここが張りどころだ。


黒く焦げた岩肌には、戦いの余波がくっきりと残されていた。
焼け焦げた地面には、幾筋もの亀裂が走り、蒸気のような熱がまだ残る。
その地に足を踏み入れた瞬間、空気が震え、肺が焼かれるような錯覚に襲われた。

再びそこに踏み入れのは、ドミニカ・マリノフスキ。
血に濡れた囚人服に身を包みながらも、彼女はなお清らかな祈りを口にする。

「神よ……どうか、我に今一度……審判の力を――!」

重力場が再び彼女の周囲に発生する。
それは彼女の信仰が形を取ったもの。
質量を持たぬはずの信念が、重力を捻じ曲げ球体を形成する。

メアリー・エバンスの領域は、既にこの地を飲み込むように広がっている。
生成されたばかりの重力球が、目に見えぬ何かにぶつかり、波紋のように揺れた。

「っ……ぐ……!」

視界が揺らぐ。
空間が裂けるように歪み、色彩が滲み、音が反転する。
この場所はもはや現実ではない。
否、現実そのものが、メアリーの夢によって塗り替えられようとしていた。
あらゆる物理法則が捻じ曲げられ、常識が砂糖菓子のように崩れていく。

空気が、笑う。
地面が、歌う。
世界が、彼女の信仰を試すように無邪気な声で囁く。

――「ねえ、ここでは、神さまなんていらないの!」

「神は、どこにあっても在す!! 誰の心にも……必ず!!」

その叫びと共に、ドミニカの重力場が爆ぜるように拡張される。
再びの祈り。
再びの挑戦。
だが――それはまたしても拒絶される。

領域が衝突する。
圧倒的な強度差で夢の領域が、重力場を押し戻す。
引力が緩み、ベクトルが狂い空間が螺旋のように回転する。
重力の渦が彼女自身を引き裂こうとし、ドミニカの体が引き裂かれそうなほど軋んだ。

「ぅあ、あああああああああああっ……!!」

その悲鳴は、祈りというにはあまりにも痛切だった。
信仰の力で拮抗できる時間は、もはやほんの一瞬。
その間に、身体の感覚が剥がれ、骨がきしむ音すら聞こえるような錯覚に陥る。

それでも、ドミニカは祈りを止めなかった。
一歩。たった一歩でいい。
正しき世界を、神の意志を、もう一度この手で示すために。

「神罰は……ここに在り……!」

重力場を押し上げ前方へ踏み込む。
しかし、地面は逆巻き、重力場は回転を始める。
自らの引力に巻き込まれ、歪んだ空間に絡め取られるようにして、彼女の身体は引き裂かれる寸前まで追い詰められる。

それでも進む。
泥に塗れ、血にまみれ、歯を食いしばりながら、体を前へ。
神の意志を、この手で届けるために。
泥と血にまみれ、震える膝でなお前へと進む姿は、信仰者というより殉教者だった。

――そのとき。

轟、と空間が震えた。
二つの世界が交差する、一瞬の均衡。
前回と同じ現象。対極の超力が刹那的に衝突し、中和を起こしかけた――だが。

その前に、ドミニカの重力場は限界を迎えた。

「ッ――!」

力が潰れる。
支えを失った身体が宙に浮かぶ。
逆巻く世界に飲まれ、彼女の身体は再び空へと放り出された。

精神力はなお燃え続けていたが、肉体の方は別だ。
繰り返される無謀な突撃によるものもあるが、ネイ・ローマンとの戦闘のダメージも安くはない。
ドミニカの体は既に限界を超えていた。

「く……っ!」

叫びも、祈りも、届くことはない。
重力の反転が解除され、彼女の体が無防備なまま、下方へと引き摺り下ろされていく。

だが――そのとき。

「シスター・ドミニカ!」

声が響いた。
少年のように若く、それでいて意志のこもった声音だった。
現れた彼は、空間の乱れから弾き飛ばされた彼女の体を受け止めた。

「ご無事ですか?」

誠実そうな顔をした青年だった。

「私はエネリット・サンス・ハルトナと申します。
 どうか、あなたの信仰の助けにならせてください」

静かにドミニカを支えながら、彼はそう言った。
彼の瞳は、迷いのない光を宿していた。
ドミニカの聖なる祈りに――合理と知略を以って、応えようとしていた。


朝の風が草原を撫で、朱に染まりつつある空気が静かに揺れる。
放送が終わってから、ジョニー・ハイドアウトとルメス=ヘインヴェラートの間にはしばしの沈黙が漂っていた。

便利屋ジョニーは無言のまま地面に腰を下ろしていた。
その傍らでは、怪盗ヘルメスが天を仰いだまま、目を細めて空を見つめている。

「……ドンの名が呼ばれたね」

ぽつりと、ルメスが言った。
ジョニーは短く銃口のような鼻を鳴らしてから、乾いた口調で返す。

「あのまま山から転げ落ちて死んだ、なんてオチなら笑えるが……まあ、あの怪物がそんなタマな訳ねぇか」

吐き捨てるように言ってから、ジョニーは肩を竦めた。

「……ま、誰がどう潰したかは、気にはなるな。まあ、生きていれば近いうちに会うことになるかもな」

発表された死者の名に、大海賊――ドン・エルグランドの名があった。
激突の末、岩山から落下した巨躯の海賊。だが、彼があの程度で死ぬとも思えない。
あれほどの怪物を殺した何者かがいるのなら、それこそが生き残った者によっての脅威だろう。

「それより、だ」

そう言って、ジョニーが立ち上がった。
東の山脈を仰ぎ見る。

「……気づいてるか? 東の空が妙だ」

ジョニーの言葉にルメスはゆっくりと頷いた。
その視線の先で、朝日が奇妙に歪んでいた。
山頂の光景は、現実にフィルターをかけたかのような違和感に満ちている。
世界の秩序そのものを歪ませる存在。そんなものは一つしか思い当たらない。

「うん。メアリー・エバンスが……目を覚ましたみたいね」

確信を込めた声で呟くルメス。

「それで、どうする? このまま無視してブラックペンタゴンに向かうって手もあるが」

依頼人の判断を仰ぐべくジョニーが問いかける。

「行こう。メアリーのところへ」

ルメスの返答に迷いはなかった。
その決断に、ジョニーも異論を挟まなかった。

メアリーへの対処を優先する。
彼らの方針は決まった。
だが――。

「……その前に、来客みたいだな」

ジョニーが呟くように言ったその瞬間。
岩陰の向こう。朝日を背負いながら、何者かがこちらに向かって疾駆してくる姿が見えた。
その足取りには焦燥と確信が混じっていた。
どうやら向こうも、こちらを認識しているようだ。

「…………知ってる顔だな」

ジョニーが銃頭を険しくする。
ルメスもまた、目を細めてその姿を見つめていた。

「ええ。私も知ってるくらいの大物ね」

イタリア最大のカモッラ、バレッジファミリーの金庫番にして欧州でも指折りの裏カジノ『クリステラ』のオーナー。
そして、血のヴェネチア事件で抗争をたった一人で終わらせた怪物として知られている。
ルメスとジョニーが構える中、近づいてきたその男――ディビット・マルティーニは、涼しい顔で口を開いた。

「便利屋に、怪盗か。いい組み合わせだな」

直接の面識はないがディビットもこの2人のことは把握していた。
特にルメスはキングが殺害対象として挙げた一人だ。
キング討伐の同盟相手候補の一人だが今はそれどころではない。

「よう。大将(オーナー)。まさかノコノコ顔を出してくれるとはな。どういう要件だ?」

ジョニーの声音には皮肉と牽制が滲む。
このタイミングで接触を試みる理由。恩赦狙いであれば、黙って襲えばいいだけの話だ。
なのに、わざわざ正面から声をかけてくるとは、何が狙いなのか。

警戒を強める二人。
だが、実の所ディビットも内心穏やかではない。

現在、ディビットはエネリットに超力を貸出しており超力の使えない状態である。
それを看過されれば交渉が不利になる。
それどころか相手に襲い掛かられては目も当てられない。
故に、求められる立ち回りは看過されぬような慎重さか、それともあえて正直に打ち明ける誠実さか。

「人手を探していてな。お前らが使えそうだったから、声をかけさせてもらった」

ディビットが選択したのは自分の看板を最大限に利用した強気の交渉だった。
単独で武闘派組織を怪物させた怪物としてディビットの名は知られている。
あれは数年に1度の『ジャックポット』の産物であり、今はそもそも超力自体が使えない。
戦闘になれば不利はこちらであろうとも、裏社会での交渉は虚勢こそが通貨だ。弱みは交渉の死である。

「使えそうと来たか。随分と横暴な話だな。こちらも急ぎなんだが」

急ぐようなその言葉にディビットが何かを察したように目を細める。
この状況の置ける火急の要件と言えば思い当たるのは一つだ。

「急ぎってのは……後ろのアレの事か?」

彼は親指で、振り返ることなく東の空を指した。
そこには――空間が歪み、陽光すらねじれて見える『異常』が浮かんでいる。

「ちょうどいい。俺の要件も、まさにそれだ」

ディビットは一歩前に出て続けた。

「――――メアリー・エバンスを仕留める。そのためにお前らには手を貸してもらう」


「♪わたしの ゆめのなかでは――」

メアリー・エバンスは、微笑んでいた。

地形は崩れ、重力は歪み、空はひっくり返っている。
岩肌は空へと舞い、木々は逆さに根を張り、風は火花をまき散らしながら鳴いていた。
だが彼女は、それらをただ純粋に美しいとすら思っていた。
アビスの特別独房から外の世界に解き放たれた彼女によって新鮮な風景だった。

「♪そらはとっても あおくて ふかくて……」

無重力の世界を泳ぎながら、彼女は世界を編み直していた。

否、彼女自身が世界だった。
彼女が息をすれば風が乱れ、まばたきをすれば空がねじれた。
彼女の中で夢と定義されたものが、外界をそうあるべき世界に塗り替えてゆく。

「♪お花も うたってくれるの。お星さまも わらってくれるの」

崖の縁からこぼれた砂利が、逆に昇っていく。
メアリーが首を傾げると、それに応じて空がふわりと笑うようだ。
重力の反転。時間の遅延。物質の再構成。空間の非ユークリッド化。
これが彼女にとっての現実である。

けれど。

「……さっきからね、“ざらざら”がするの」

メアリーは、胸のあたりをそっと抱きしめた。
世界の端で、何かが何度も衝突を繰り返すような感覚があった。
彼女にとっては羽虫が触れたようなもの。
痛みも脅威もないが、少し不快で、鬱陶しい。

「なんでじゃまするの? ……こんなにステキなところなのに」

彼女の唇が、小さく尖る。
純粋な不満と、少しの寂しさが入り混じるように。

メアリーは無重力の中くるりとまわり、裸足で大地に触れる。
だが、地面はもはや地面ではない。
柔らかい本のページのようにめくれ、花が咲き、笑い声が漏れ出す。

「わたしのこと、きらいなの?」

――誰にも届かぬ呟き。

それは祈りではない。
けれど、祈りのように切実だった。

「わたしは、ただ――すてきな夢を見たいだけなのに」

メアリーの視線の先には、誰もいない。
彼女はどこまでも無垢で、孤独で、それ故に無敵だった。

「もし、じゃまをするなら――」

少女はにっこりと笑った。

「――その人たちも、夢のなかに入れてあげなきゃね」

その一言とともに、空間が震えた。
歪みが拡張し、夢の領域がさらに浸食を広げる。
彼女の楽しいお茶会に、否応なく現実が巻き込まれていく。

けれどそこに――一片の悪意もなかった。
ただ、彼女は世界を可愛く、楽しく、優しくしたいだけ。
ただ、それが誰かを傷つけてしまうだけ。

それが、メアリー・エバンスという無邪気な脅威だった。


「あなたの信仰の手助けをさせてください。
 私の超力であれば、あなたの力になれるはずです」

まるで天啓のように現れた少年エネリットの言葉には、誠意と敬意が滲んでいた。
しかし、ドミニカ・マリノフスキはその提案を断るように静かに首を横に振る。

「……そのご厚意、感謝いたします。けれど、お力添えは不要です」

端正な声音だった。
拒絶は明確だが、感情ではなく、祈りによって整えられた規律としての拒絶だった。
そんな拒絶の言葉を受けても、エネリットはそのまま視線を外さずに言葉を重ねた。

「なぜですか? 信仰とは、他者の助力すら拒むものなのでしょうか?」
「いいえ。汝、隣人を愛せよ。神は、人が互いに支え合うことを望まれておられる。
 けれど。これは神が与えたもう試練なのです。試練は己が信仰心で乗り越えねば、意味がありません」

その言葉に、エネリットはわずかに息を呑む。
拒絶の響きの中に、殉教にも似た覚悟が垣間見えた。

「……これが、神の試練であると?」
「はい。相手は神の創りし世界の秩序を塗り替える破壊者。神の敵に他なりません。
 それを討つことこそが、私に課された使命なのです」

ドミニカの声音には、凛とした強い信念があった。
それが彼女はそれが己に課せられた役割であると信じて疑っていないようである。

「無礼を承知で申し上げますが……先ほどから状況は芳しくないように見える。
 このまま続けてもあなたは敗北するでしょう。それでも構わないのですか?」

エネリットは静かに、しかし確かな口調で言った。
ドミニカが助力を受け入れるよう誘導するように。

「構いません」

迷いなく断言する。
そのあまりの潔さに、流石のエネリットの表情がわずかに動いた。

「たとえ私が敗れたとしても、私以外にもあの冒涜者を誅さんと動いてくださっている方がいます。
 だからこそ、私は何の憂いもなく使命に殉じられるのです」
「ですが、あなたが敗れるということは、あなたの信仰が破れるということ。
 この世界が神の否定者を赦したということになりなるのではありませんか?
 それは神が否定に繋がるということになるのでは?」

エネリットの問いに、敬虔な信徒は感情を露にするでもなく静かに首を振る。

「私が敗れるならば、それは私の信仰が未熟であったというだけのこと。
 それが神を否定する証にはなりません。神は私などより遥かに高き存在。
 私が倒れようとも、神は常に在すのです」
「それでは、命は惜しくはないと?」
「命など惜しくありません。神が望まれるのであればこの命、喜んで捧げましょう」

一切の迷いのない声音。
そこに宿るのは、諦観でも絶望でもない。
清らかな殉教者としての覚悟だった。

「ええ。むしろ、それこそが証となりましょう。
 この身が滅びても、私の祈りは消えません。
 神の御心に届くように、私は生き、そして死ぬのです」

その言葉はあまりにも澄んでいた。
聴く者に痛みすら与えるほどに、透徹していた。

「なぜそこまで、と言う顔ですね。命を投げ出すほどの信仰を理解できませんか?」

エネリットの表情を読み取り、ドミニカは教えを説く修道女の微笑を浮かべる。

「……正直に申し上げればそうです。信仰とは死後の恐怖を和らげるためにあると理解しています。
 それに殉じて死に向かうと言うのは、矛盾のように感じられてしまう」
「信仰は恐怖管理理論の一つであると言う考えですね。それもまた一つの信仰に対する考え方でしょう。
 このような状態でなれば共に信仰につて語らい、あなたの信ずるものを聞かせていただきたい所なのですが、残念です」

小さく息を吐き、ドミニカは空を仰ぐ。

「――十五歳の時、神の啓示を受けました。
 神は、こう仰ったのです」

『君の力は、世に蔓延る悪や神の敵を殲滅するためにある』

「その瞬間、私は理解しました。
 この破壊の力には意味がある。
 神が私に与えてくださった使命があるのだと」

彼女は空を見上げる。
この世界を見渡し、そしてなお、見据えていた。

「この世界には、神を騙る者がいます。信仰を捻じ曲げ、神の名を騙る邪悪がいます。
 私は、そのような偽りを赦せない。それらに私は鉄槌を下す。
 それこそが、私の信仰の形。私に託された、『審判』という祈りです」

エネリットは何も言わなかった。
この少女の中にあるのは、狂気でも献身でもない。
ただ、純然たる信仰だった。

「……その在り方に、恐れはないのですか?」
「あります」

即答だった。
そして、意外な答えだった。

「私は、ずっと恐ろしかったのです。
 神が私に与えたもうた力(ネオス)が、ただの破壊でしかなかったことに。
 いくら祈っても、神が黙して応えてくださらないことに」
「では、なぜ……それでも信じられるのですか?」
「答えは、得られていません。ですが、祈りとはそういう物。
 答えを得るためではなく、答えを信ずるために行うものなのです」

祈りの本質。
祈りとは、自らの信仰の為に捧げられるもの。

「そして、信仰とは恐れを忘れるためのものではない。
 信仰とは恐れを抱えても踏み出せる『一歩』を与えるもの」

信仰とは、先の見えぬ暗闇の中で踏み出す勇気を与えるもの。

「それに……あの言葉だけは、胸の奥にずっと残っているのです。神が私に語られた、あの声を。
 あの言葉が私を救ったのは紛れもない事実。
 だから私は――それを信じたいのです。私を救ってくださったあの言葉を」

ドミニカは、自らの両手を静かに見下ろす。
血に濡れ、震えるその掌に、まだ届いていない何かを探すように。

そして、その掌を合わせる。
神にささげる祈りのために。

「この戦いは、私自身の祈り。
 この身を削り、血を流し、命を賭けて。
 ようやく――神に届く気がするのです」

しばしの静寂が流れる。
合理主義のエネリットには理解できない、合理を超えたものがこの修道女の中には確かにあった。

魔女の鉄槌。異端の虐殺者。
過ちのような道を重ねてきた聖女。
だが、それでもエネリットは、その祈りを否定することはできなかった。
返す言葉を失ったエネリットを見てドミニカがにこやかに笑い、問いかけた。

「エネリット様……それでは、お聞かせください。あなたは、私にどのような役割をお求めなのでしょうか?」

エネリットの表情が、初めて明確な動揺を見せた。
これは、ただの問いかけではない。
その瞳は、これまで続けてきたドミニカの信仰を助けたいというエネリットの建前を見透かしていた。

侮っていたわけではないが、真意を見透かされた事は驚きに値した。
それに応じるように、エネリットは初めて仮面を脱ぎ捨てたような声で、語る。

「あなたには、あの領域を打ち倒してほしい。それは偽らざる僕の本心です。
 ですが、これはあなたの祈りのためではなく、僕自身の目的ために必要なことだ。
 だから――――そのためにあなたの力を利用したい」

耳障りのいいお為ごかしを止めて、言葉を飾らず、ただまっすぐに目的を打ち明ける。

「それが、あなたの祈りなのですね」
「はい。僕一人では届けられぬこの願いをどうかあなたに叶えて欲しい」

ドミニカは、目を閉じて静かに頷いた。
信仰とは、己だけのものではない。
願い、想い、祈り――それらすべてが、神に届くべきものなのだと、彼女は信じていた。
それを届けられるのが己だけだというのなら、彼女にその願いを拒む理由はない。

「受けたまわりました。あなたの祈りを、私が神に届けてまいりましょう」
「はい。僕の祈りを、あなたに託します。シスター」

その言葉を合図に、エネリットは静かに膝をついた。
静かに、誓いを立てるように掌を差し出す。
ドミニカは差し伸べられたその掌にそっとふれる。

ドミニカは、血と泥に染まった姿でありながら、聖女のごとき荘厳さを纏っていた。
朝の光を背負った二人の姿は、一枚の宗教画のようだった。

「シスター・ドミニカ。あなたの信仰心は本物だ。その信仰に、敬意を」
「では、祈ってください。あなたも。この祈りが――――神に届くように」

重なり合った掌から、やわらかな光が流れ込む。
それは祝福のようであり、契約のようでもあった。

――神への誓いと、信頼の取引が、この一瞬に交わされたのだった。


「――――メアリー・エバンスを仕留める。そのためにお前らには手を貸してもらう」

ディビットの言葉が落ちた瞬間、場に重苦しい沈黙が広がった。
その中で、ジョニーの鉄製の指がコツ、コツと乾いた音を立てて鉄の頭を叩く。

「――で? 具体的には、どうする気だ?」

ジョニーが低い声で問うた。
陽光の中、鉄錆にきらめくその異形の頭部が、わずかに軋む音を立てて揺れる。

「こちらの用意した領域型超力者同士をぶつけて一時的に奴の超力を無効化する。
 それが復帰する前に奴を仕留める。その為の遠距離攻撃の手段が必要だ」

ディビットが簡潔にメアリー討伐の作戦を語る。

「つまり、オレらにその手段を求めてるって事か?」

ジョニーからの確認するような問いに、ディビットが頷きを返す。
考え込むように便利屋がふぅんと唸る。

「距離は?」
「500と少しだ」
「500か……ま、出来なくはねぇな」

その返答と共に、ジョニーが左腕を上げる。
軋みを伴って腕の構造が変化していく。
腕全体が砲身のように太く、重々しく再構築されていく。

「オレの超力なら、体内に組み込んだ金属を再構成して砲台を造ることはできる。
 500メートル程度の距離なら弾丸を届かせられるだろうぜ。この銃頭は伊達じゃねぇさ」

平坦な声で語るジョニー。
誇示でも自慢でもない。ただ、できるという事実だけを淡々と述べていた。

「なら話は早い。すぐに準備を――」

ディビットが言いかけたその時、ジョニーが鉄の首をゆっくり振った。

「――気が早ぇな、大将。オレは『できる』とは言ったが、『やる』とは言ってねぇ」
「……なんだと?」
「オレは今、雇われの身でね。やるかやらないかはオレじゃなく依頼人に聞いてくれ」

そう言って、ジョニーは視線を自らの雇い主であるルメスへと送る。
しばし沈黙ののち、ルメス=ヘインヴェラートは静かに口を開いた。

「――――――私は反対」

凛とした声。ためらいのない拒絶だった。
射抜くようなディビットの視線が、真っ直ぐにルメスに向けられる。

「一応。理由を聞いておこう」
「彼女を殺すなんて、そんな解決方法は間違ってると思うから」

ルメスは真っ直ぐに言い切る。

「メアリー・エバンスは、ただ制御できない力を持って生まれた、それだけの子よ。
 そんな相手を殺して解決するなんて間違っている」
「その『それだけ』で、何人死ぬだろうな」

ディビットの言葉は冷酷だった。
その眼差しには、現実主義者の鋭さと、殺意に似た光が宿っている。

「そもそも、拒否権があると思うか?」

武力行使に出て無理やり従わせることもできるのだと、見せつけるようにディビットが腕を鳴らす。
もちろんハッタリだが、彼の看板はそのハッタリに実態を与える。
カモッラを単独でつぶしたという圧は十分に機能していた。

そこに含まれる鋭い殺意に言葉を失いかけたルメスの前に、ジョニーが一歩出る。
だが、守るように立った彼の視線もまた、厳しかった。

「構わねぇぜ。好きに決めな。オレは便利屋で、今の依頼人はお前だ。
 お前が『戦う』と言うなら従う。『殺す』と言うなら従おう。
 だが、考えなしの無謀には従えないぜ。答えを聞かせてくれ」

ここでディビットと戦うのか、それともメアリーを殺すのか。
便利屋は依頼主に方針を示せと言っていた。
ルメスの表情が、一瞬だけわずかに揺れる。
それでも、彼女ははっきりと答えた。

「――私は、彼女を救いたい」

迷いのない声だった。
義賊として生きる者の、信念が宿った一言だった。

「くだらんな」

理想主義者の夢語りだと、ディビットが一蹴する。

「現実を見ろ。あれは生きているだけで他者を殺す存在だ。
 その領域は拡大し続けている。このまま放置すれば誰にも止められなくなるだろうよ。
 今は岩山一帯を包むだけかもしれんが、時間が経てばこの島全体を喰い尽くすだろう。
 そうなれば刑務作業どころの話ではない。アレはもはや排除するしかない災厄だ――違うか?」

その言葉にルメスは目を伏せ、一拍置いてから言う。

「それは……否定しないわ」

今のメアリーはそこに居るだけで人を殺す、一つの災厄だ。
それは否定しようのない事実である。
ルメスもそれは認めるしかない。

「なら、どうする? 奴が被害を拡大させるのを指をくわえてみているつもりか?」
「そんな事はしない」

それは彼女にとって一番嫌いな見て見ぬふりをするだけの無責任な責任放棄だ。
目の前の不幸や理不尽を許せないから彼女は怪盗をしているのだから。

「なら、つまらん夢物語は捨てて現実を見るんだな。
 それとも別の解決策を提示できるとでもいうのか?」

厳しい口調でディビットが追及を続ける。
押しつぶされるような重々し沈黙の後、ルメスが口を開いた。

「解決策なら――――――ある」

予想外の返答にディビットが眉を吊り上げ目を見開く。
ジョニーも、まともな顔があったなら同じ表情をしていただろう。
あの岩山でメアリーの超力に巻き込まれかけた時から、ルメスはずっと考えてきた。

「彼女の脅威は、常時発動型の領域型超力によるもの。つまり、最大の問題は自分の意思で止められないこと。
 なら、彼女が制御を覚えて自分の超力を切ることが出来るようになればいい。そうでしょう?」

それは放置でも殺害でもない、第三の選択肢。
それを出来ないと決めつけて、誰も彼女に教えてあげなかっただけだ。
彼女が自分の意思で超力をオフにできるようになれば、この脅威は解決できる。

「確かに、理屈が通ったいい案だな。不可能であるという点に目をつぶれば。
 どうやって超力制御の方法を叩きこむって言うんだ?」

不可能を唱える者を嘲笑うような声。
不可能に挑む者は怯むことなく答える。

「私が彼女に直接やり方を伝える」
「…………何だと?」

場に、重い沈黙が落ちた。
ジョニーが腕を組み、ディビットが眉間に深い皺を刻む。

「俺の話を聞いていたか? あの少女には近づけない」
「安全に近づく方法(ルート)があればいいんでしょう?」

そう、ルメスは言った。
その目には、もはや迷いはなかった。
ルメスが静かに、傍らのジョニーに向き直る。

「ねえ、ジョニー。あなたの超力で投石機(カタパルト)は造れる?」
「……できなくはねぇが……おいおい、まさか」
「ええ。その投石する『弾丸』に、私が潜り込む。あなたの超力で――――私を彼女の元まで送り届けて」

あまりの無茶な作戦に、ジョニーの首が軋む音を立てた。

「メアリーの元に辿り着いて、そこで力の制御方法を直接伝える。
 無茶かもしれないけれど、彼女を殺さず事態を終わらせるにはそれしかないわ」

ルメスの語る策を聞き、ディビットがこれ以上ないほど眉間の皺を深くして唸る。

「……正気か?」

成功率は限りなく低い上に、失敗すればまず助からない。
それはもはや博打ですらない。
とても正気とは思えない作戦だった。

「正気かどうかはしらないけど、本気よ。
 私は、彼女を救いたい。無力な力で傷つけてしまう者が、排除されるしかない世界だなんて……そんなの、あまりに哀しすぎる」

その解答には揺るがぬ覚悟があった。
それこそが彼女の譲れぬ矜持。

「そもそも、常時展開型にスイッチを伝授するなんてできると思うのか?」
「すぐにできるとは思わないわ、それでもやり方を伝えればいつかできるようになるかもしれない。超力ってそういうものでしょう?」
「悠長な話だな」
「それでも、これしかない」

これしかないというよりは、これでなければ従わないという断言だ。
応じないのでれば戦闘も辞さない覚悟のようだ。

沈黙が落ちた。
しばらく視線を落としていたジョニーが、ぽつりと呟く。

「……お前、バカだな」

ぽつりと呟いて、ジョニーは背を向けた。
だが――

「……嫌いじゃねぇよ、そういうバカは。
 いいぜ。やってやろうじゃねぇか。お前のその無茶、この便利屋ジョニーが叶えてやるよ。怪盗(チェシャキャット)」
「ありがとう、便利屋(ランナー)さん」

ルメスがわずかに微笑んだ。

「あんたもそれで構わないよな? 大将」

ジョニーの問いに、ディビットはしばらく無言だった。
深い皺を眉間に刻み、唇を結ぶ。

この作戦はあまりにも非合理だ。
成功率は著しく低く、リスクも高い。
単純に殺害を狙った方が安全かつ確実だ。
成功した所で相手を殺せるわけではないというのもポイント狙いのディビットとしては痛い。

しかし、ここでこの案を否定すれば交渉は決裂。
本作戦において彼らの協力は得られないだろう。

超力がない今のディビットには暴力と言う交渉手段(カード)も切れない。
今のディビットは強気のレイズはしても、ショーダウンは出来ないポーカープレイヤーだ。

エネリット側の作戦が上手くいけば、それが作戦開始の合図となる。
そのタイミングを示し合わせられるわけではない。
その時を向かえて、最悪は何もできない事だ。

時間はあまりない。
それまでに次の手段を用意できるとは思えない。
蹴った所で次善策がある訳ではない。

「……いいだろう。乗ってやる」

そう答えた。
作戦開始時の瞬間は迫っている。
最善でなくとも、ここで彼らの手段に乗るしかなかなかった。


朝日の中、両手を合わせて清廉なる祈りを捧げる修道女の姿があった。
ドミニカ・マリノフスキ。
神罰を執行する者、魔女の鉄槌。

彼女の掌には、エネリット・サンス・ハルトナから受け取った『祈り』が宿っていた。
それは、ディビット・マルティーニが貸し与えた超力『4倍賭け』の力の一端。
奇跡を起こすために、投じられた賭けだった。

ディビットからエネリットに譲渡された超力の再現度は40%。
1の力に3の加算を行い4倍とする能力。理論上、40%で再現できるのは約2.2倍程度。
さらにそこから、ドミニカの信頼度による伝達補正が差し引かれる。

最終的に運用される倍率は微々たるものになるだろう。
少なくとも作戦の立案者であるエネリットはそう予測していた。

「行ってまいります」

迷い無き静かな言葉と共に、大地が裂けるような轟音が走る。
ドミニカ・マリノフスキの身体が、重力場に抱かれて宙へふわりと舞い上がった。
重力の楕円が彼女を抱え、天を撃つ祈りの矢のように加速していく。

彼女はもはや、ただの重力場を操る修道女ではなかった。
信仰を背負った祈りの導弾(グレイスブレット)。
神罰の鉄槌――マレウス・マレフィカールム。

信仰に命を賭した祈りが、世界を貫く弾丸となった。
球状の重力場が黒い尾を引きながら、メアリー・エバンスの世界へ突撃する。

衝突。

いや、それは衝突という言葉では足りない。
重力と無重力。祈りと夢。神の秩序と少女の幻想。
世界と世界が、真正面から激突したような衝撃があった。

それは幾度目となる突撃か。
巡礼のように繰り返される挑戦。
怠けず、驕らず、休まず、諦めず。
日々のように祈りを重ねる。

遥か高く、異なる空を見上げながら。
血に濡れた唇で、静かに祈りを捧げる。

「――我らの父よ、御名を崇めさせたまえ。
 御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」

壮絶な地獄ような世界の中で。
目を閉じ、嫋やかに微笑む。

「神の名のもとに――この悪夢を、退けん」

その瞬間、ドミニカの全身に激痛が走った。
眼球の毛細血管が破裂し、血涙と共に視界が血に染まる。
喰いしばった奥歯が砕け、口内に鉄の味が広がった。

命を削るような壮絶な祈り。
それでも彼女は、なおも祈り続ける
ドミニカは、信じていた。

信仰とは、何かを信じ切ること。
誰よりも強く、誰よりも真っ直ぐに。
その行為において、彼女の右に出る者はいない。

だからこそ、ドミニカはエネリットの手を、100%の信頼で握った。
疑いも逡巡もなく、ただひたすらに純粋な心で他者の『祈り』を受け入れた。

その信じる心こそが、奇跡を呼び込む。

その信頼が超力を伝え。
ドミニカの祈りと信仰により補われた超力強度が、エネリットに託された祈りによって倍化する。
それは、新世界の寵児メアリー・エバンスに届きうる、一つの奇跡であった。

メアリー・エバンスの領域が軋む。
無垢で、無邪気で、無自覚ゆえに恐るべき支配空間が、初めて外部からの抗いに遭った。

それは、彼女の世界にとっての異物。
全てを拒絶する世界の支配者に、かつて一度も経験したことのない、拒絶される恐怖を齎したのだ。

ドミニカの重力場が空間の中心から放射状に波紋を生み出す。
空気がねじれ、花々が裏返り、空の境界が裂ける。
無垢に歪んだ一つの世界が、人間の祈りに押し返されていた。

「神よ……御心のままに、この祈りを以て――正しき秩序を!」

ドミニカが両手を天へと突き上げる。
血に塗れ、焼け、ひび割れたその掌から、祈りが放たれた。
質量を持たぬ、祈りの凝縮。信仰の結晶。

その意志が、メアリーの世界に届いた瞬間――――空が、砕けた。

世界が爆ぜる。
半径500メートルを超える長大な領域が、中心から花弁のように裂けて弾け飛ぶ。

衝撃が世界を打つ。
空間が断裂し、空気が爆ぜ、音が反転する。
現実と夢の接点が、強引に終わりを迎える。

そして、同時に。
ドミニカの重力場もまた悲鳴を上げるように崩壊を始めていた。
相殺と共倒れの末に祈りと夢の拮抗は終わりを迎える。

「……ああ……」

彼女の声は、まるで子どもの寝息のように穏やかだった。
重力場による支えを失った身体が、当たり前の重力に引かれて落ちていく。
そして、そのまま山の斜面へと向かって落下する。

だが、その表情には悔いはなかった。
むしろ、微かな救いを得たような笑みがあった。

血に染まった唇が、静かに囁く。

「……これでようやく……神に届いた、気がします……」

落ちていく身体。
だがその魂は、どこまでも澄みわたっていた。

誰にも看取られず、誰にも惜しまれず。
ただ、自らが信じる神のために。
ドミニカ・マリノフスキは殉教者として、この地に祈りを捧げ、命を果たした。

空は高く、風は静かだった。

やがて誰かが、この一撃を目撃するだろう。
少女の世界が、一時だけ沈黙した事実を。
そしてそれは、次なる一手の起点となる。

――この瞬間、この神無き地に、確かに神の御業が下された。

【ドミニカ・マリノフスキ 死亡】


ジョニー・ハイドアウトの肉体が、軋む音と共に変形していく。

その鋼鉄の体は、まるで大砲のように上体全体を張り出し、下半身は屈強な台座のごとく地面に根を張る。
膝下の装甲が開き、内部のパーツが複雑に展開。足場を固定するように四本の支柱が地面へと突き刺さる。
上半身は回転しながら重厚なフレームを再構成し、肩から伸びた鉄骨が、巨大な腕状のアームと連動して弓のような弧を描き出した。

それはもはや『人間』の形をしていなかった。

投石機(カタパルト)。
兵器として設計されたかのような、その異形の『道具』がそこに完成していた。

「久々のフル改造だ、腰をいわさねぇようにしねぇとな」

ジョニーが唸るように言いながら、変形を完了させる。
その間、ディビット・マルティーニは射出用の弾丸となる石を探していた。
投擲重量の関係上、サイズは出来る限り抑えたいが、ルメスが潜れる大きさである事が最低条件だ。

数分の探索の末、見つけたのは岩陰に転がる一つの礫岩。
恐らく、岩山が戦闘の余波で崩れたの一部だろう。
直径はおよそ30cm、表面は粗く不規則だが均質な無機物でできている。

「どうだ、いけるか?」

ディビットの問いに、ルメス=ヘインヴェラートはコクンと頷く。

「この大きさなら体を折りたためばギリギリだけどいける」

そう言って彼女は、ゆっくりと指先をその岩へと伸ばした。
次の瞬間、彼女の指先がトプンと石へと吸い込まれるように沈む。

それはまるで水面に指を差し入れるような滑らかさ。
無機物の表面が波打つように揺らぎ、彼女の手、腕、肩、胴体と、順を追って呑み込まれていく。
まるで雑技団のショーでも見ているような光景だった。

完全にルメスが石に潜り込むと最後に呼吸用に口だけを出す。
内部には確かに人ひとり分の意識と覚悟が宿っているとは思えないほどに、その岩はただの石と見分けがつかなかった。
ディビットがその石を拾い、ジョニーの射出アームへと慎重に乗せる。

そのままジョニーは、弦のような鉄線を引き締め、照準を調整する。
ディビットはやや後方で待機し、山頂を眺めエネリットからの合図を待つ。

ふと、射出直前の静寂の中で。
ジョニーは鉄の弓を引き絞りながら、ぼそりと口を開いた。

「……ルメス」
「なに?」

珍しく名前を呼ばれた。
石の奥から、かすかに声が返る。

「いざって時は――引けよ。誰かを助けようとして自分が死んじまうなんて、冗談にもならねぇ」

その声色には、鉄ではなく人そしての温度があった。
しばし沈黙があったが、やがて石の中からルメスの声が返る。

「心配ありがとう。でも、大丈夫よ。怪盗ヘルメスを舐めないでよね。引き際は心得てるわ。
 失敗したとしてもその時は後悔しながら逃げ出すだけよ」
「――あぁ、信じてるさ」

だからこそ心配なのだが、それは口にしなかった。

「まだ報酬をいただいちゃいねぇからな、ちゃんとおっぱい揉ませてもらうからな!」
「まだ言う?」

岩と投石器が互いに冗談めかして笑う。
それを最後に、ルメスも口を引っ込め、鉄の兵器は僅かに弓を引いた。

その瞬間だった。

「――――来たぞッ!! 合図だ!!」

ディビットが叫んだ。
遠方の岩場には、脱ぎ捨てた囚人服を長い髪の毛で振るうエネリットの姿があった。

「撃て――――――!」

ディビットの叫びと共に――
ジョニーの腕が、空を裂くように振り抜かれた。

「ッ――――――――――――行けぇえええええッ!!」

重圧の唸りと共に、石が放たれた。
風を切り、空を翔け、流星の如く蒼穹を斬る。

石に宿るは怪盗ヘルメス。
ギリシャ神話の神に名を借りるならば、それは伝令の神であり、救済の使者であり、交渉の神。
言葉を、想いを届けるために、ルメス=ヘインヴェラートは風の翼を得て矢として空を翔ける。

その軌道はぶれることなく美しい弧を描いた。
そして岩山を砕きながら、弾丸はめり込むように『着地』した。
弾丸の中に溶け込むように身を潜めていたルメスはゆっくりと岩の中から飛び出す。

「……っはあ……!」

呼吸を整えながら辺りを見渡す。
空気が肺に流れ込み、身体の感覚が現実へと引き戻される。

そこは、岩山の一角だった。
射出された石は、メアリー・エバンスのに直撃せぬよう僅かに逸れた位置に正確に着弾していた。

完璧な仕事だ。
便利屋の技前に感嘆を漏らす。

ねじれた空もなければ、異常な重力もない。
この瞬間、超力によって歪められた夢の世界――メアリーの領域は、完全に破綻していた。

そして、破壊された世界の中心に、彼女はいた。
胎児のような姿勢で地に伏せる夢を砕かれた少女。

前段階は成功した。
ルメスの賭けはここがらが勝負である。


「……さて、こっちは仕事終いってわけだ」

ジョニーは軋む体をゆっくりと元に戻していく。
金属が鳴り、骨のように変形し、兵器は再び銃頭の便利屋へと姿を戻す。
やがて静かに立ち上がり、無言で岩の道を歩き出した。

「どこへ行く?」

重々しい音を立てて一歩を踏み出したその背に、ディビットが問う。

「決まってんだろ」

振り返ることなく、ジョニーは言う。

「落とした弾の行方を、見届けにいくんだよ」

その声は、ひどく静かで、ひどく優しかった。

「……失敗すれば、メアリーが再起動する。あの範囲に巻き来れればお前も死ぬぞ」

ディビットの忠告に、ジョニーは歩みを止めることなく応じた。

「……便利屋ってのはな。請けた仕事は、最後まで見届けるのが筋なんだよ」

鉄の背が、朝焼けの中へと遠ざかっていく。
ハードボイルドな背中に、ひときわ冷たい風が吹き抜けた。
この瞬間、希望と死は同じ弾丸に乗って空を翔けていた。

それが、奇跡となるか。終焉となるか。
それこそ神のみぞ、知るだけだろう。

【F-5/岩山麓の草原/一日目・朝】
【ジョニー・ハイドアウト】
[状態]:健康
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.受けた依頼は必ず果たす
1.怪盗(チェシャキャット)の結果を確認する
2.脱獄王とはまた面倒なことに……
3.メカーニカを探す。見つけたらローマンとの取引内容も話す。
4.夜上神一郎への強い不信感と敵意。
※ネイ・ローマンと情報交換しました。

【ディビット・マルティーニ】
[状態]:健康、超力使用不可
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを稼ぐ
0.エネリットとの合流
1.恩赦Pを獲得してタバコを買いたい
2.エネリットの取引は受けるが、警戒は忘れない。とはいえ少しは信頼が増した。
3.ルーサー・キングを殺す、その為の準備を進める
※『エネリット・サンス・ハルトナ』に超力を【献上】しているため、『4倍賭け』は使用不可能です。


少女は岩の窪みにうずくまり、砂金のように美しい金髪を振り乱しながら、喘ぐように痙攣していた。
まるで、陸に打ち上げられた魚のように。
焦点の合わぬ瞳が、虚空を彷徨う。

かつて世界を歪ませていた異常な力は消え、彼女の身体は現実の重みによって地面に沈んでいた。
彼女にとってはこの現実こそが歪みの世界である。

その傍に、ひとりの少女が静かに歩み寄る。
怪盗ヘルメス。足音すら最小限に抑えながら、岩場の冷気に身を沈めるように膝をついた。

「……やあ、メアリー。こんにちは」

声は優しく、けれど芯のある響きだった。
返事はない。だが、それでいい。
これは応答を求めるための言葉ではない。伝えるための言葉なのだから。

「驚かせてしまったよね。突然飛び込んできて、ごめんね」

ルメスは微笑を浮かべた。メアリーの表情は読めない。
それでも彼女は続ける。

「でも……どうしても、あなたに会いたかった。
 どうしても、あなたと話がしたかったの」

少女の目はどこかを見ているようで、どこも見ていなかった。
その視線の奥に、ぼやけた泡のような光がわずかに揺れていた。

「私は、ルメス=ヘインヴェラート。通り名は“怪盗ヘルメス”。
 悪人からお宝を盗んで、弱い人たちに返す義賊、そんな風に呼ばれてる。
 この世界の行く末についてちょっと秘密を知っちゃってこのアビスに放り込まれたんだけど、それはどうでもいいよね」

ふと、ルメスは視線を落とした。
言葉を選ぶように、ゆっくりと語る。

「私は悪党の金、権力、嘘いろんなモノを盗んできたわ。
 でもね、本当に盗みたかったのは――この世界の“絶望”だった」

メアリーの意識が、どこかで微かに反応した。
まるで水中に投げ込まれた声が、波紋となって揺れるように。

「……私もね、たくさんの絶望を見てきた。自分のドジだったり、誰かに嵌められたりまあ色々。
 具体的には……子供に話すようなことじゃないね。ボロボロになって、声も出せなくて、助けも来ないと思った。
 それでもね……今もこうしていられるのは、たくさんの人が手を伸ばしてくれたから。
 その手が、私をこの場所まで連れてきてくれた」

風が吹いた。
岩肌を照らす朝日が、ルメスの背を淡く染める。

「だから今度は――私がその手を伸ばす番」

彼女の手が、そっとメアリーへと伸びる。
けれど、触れない。ただ、そっと存在を示すように。
絶望の中にいる者に、伸ばした手には必ず意味があると信じて。

「君の世界は、たぶん優しいものなんだと思う。
 夢と幻想に包まれていて、あなを傷つけるものなどいない、幸せな国。
 でもね。君自身が、その夢に飲まれてはいけない。そこに甘えてるだけじゃダメなんだよ」

ルメスは続ける。

「現実は冷たくて厳しいけれど、そこに向き合う事から逃げていたら何にもなれない。立派な大人にはなれないんだよ。
 超力に振り回されるんじゃなくて、自分で制御する意識を持つんだ、そうすればきっと君は超力なんかに振り回されずに現実を生きていけるはずだから」

こんな世界でも、救いはあるのだと。
こんな地獄でも、光はあるのだと。
絶望の中でも、必ず希望はあるのだと。
願いを、希望を、祈るように口にする。

「超力っていうのは、きっと人の『意志』の形だから。
 だから、君が『やめたい』『止まりたい』って、心から願えば……その力はきっと、君の声を聞いてくれるはずだよ」

メアリーの肩が、かすかに震えた。
微細な、けれど確かな揺れだった。
水の底にいた意識が、ほんのわずか、浮上しようとする気配。

それを見て、ルメスは微笑む。
きっと彼女には見えていない。聞こえていないかもしれない。
それでも、きっと届いていると信じて。

「君が望むなら、私は何度でも来る。
 君が誰かを傷つけるだけの『災厄』なんかじゃなくて、人として生きられるように。
 ……私は、君の味方でいさせて。忘れないで。君には、味方がいるってことを」

それは宣誓だった。
夢の深奥に沈む誰かに、希望を伝えるための祈りだった。
味方がいるという希望がきっと、明日へと繋がる活力になるから。

沈黙が、再び岩場に満ちる。
けれどそれは、何かが始まるための静寂だった。
ルメスはゆっくりと立ち上がる。

「……さてと。そろそろ、引き際かな」

ショック状態のメアリーが持ち直し始めた気配を感じて怪盗は踵を返す。
再構築された夢の世界が再び現実を侵食する前に、ここから抜け出さねばならない。

言葉を、想いを、希望を。伝えるべきは伝えた。
あとは彼女しだいだ。

ルメス=ヘインヴェラートは、覚悟を決める。
今から逃げたところで、夢の世界に捕まらず逃げる事は出来ないだろう。
だが、この世界に直接攻撃はない。
あくまで殺しに来るような現象が訪れるだけだ。

それを躱しながら、世界の外まで泳ぎ切れるかの勝負だ。

だが、問題はない。
逃げることにかけて怪盗の右に出るものなどそうはいないのだから。

そう自分に言い聞かせながら潜岩に備えて大きく息を吸う。
同時に、メアリーから『不思議で無垢な少女の世界』が領域展開され始めた。
それをスタートの合図として、岩山の中に沈もうとして。

「ぶはっ、ぁ………………え?」

唐突に、血を吐いた。

何が起きたのか。
唇の端から、鮮血が溢れる。

見れば、ダイヤのような形をした穂先が自らの胸から飛び出していた。
振り返る。

そこには――奇妙なトランプの兵隊が立っていた。

赤と黒。スペードにハート、クラブ、ダイヤ。
A、J、Q、K――絵札の名を冠した兵たちが、無言のまま立ち塞がる。

「っ……!」

抵抗の暇も与えず、複数の槍が突き出される。

ザク。

ザクザク。

ザクザクザクザク。

鋭利な音と共に、何本もの槍がルメスの身体を貫いていく。

痛みは、感じない。
ただ、体が沈む。
血飛沫が、夢の空間に赤い花を咲かせた。

少女の想いは、確かに届いた。
伸ばした手には意味はある。
それが、必ずしも、いい意味とは限らないが。

彼女の世界は、静かに沈黙した。

【ルメス=ヘインヴェラート 死亡】


こわい。

こわい、こわい、こわい……!

ここは――どこ?

なにが、おこってるの……?

空が……地面が……。
世界が、ぐにゃぐにゃにゆがんでる。

「……っ、ぅ……ぁ……」

声が、でない。
息が、できない。

風が鋭い。
空気が重い。
太陽がかたい。
重力が、わたしをつぶす。

こわい。

どうして……どうして、こんなことに……?

ここは、いつものおへやじゃない。
ふわふわとうかぶそらのおふとんでも、ゆめのなかでもない。

ここは、わたしのせかいじゃない――!

(こわい、こわい、こわい、たすけて……)

誰かが、少女の世界を壊した。
ただ無邪気に遊んでいただけの少女の夢を。
たった一つの少女の居場所を壊した。

初めての痛み。
初めての侵略。
初めての、外から与えられた害意。

それが、少女に衝撃と混乱を与える。
少女の心は恐怖に染め上げられていた。

「……やぁ……メァ……は……」

そんな時、誰が話しかけてくるような声がした。
水の中のようにくぐもった、ぼんやりした声。

「突然……込ん……ごめんね。
 でも……どうして……あなたに……かった」

だれ……?
なにを、いってるの……?

「私は悪党……嘘……を……きたわ。
 ……本当に……のは……この世界……絶望」

まって、なにそれ……なにをいってるの?
どうして、そんなことを……?

よくわからない言葉。
聞き取れない言葉が過ぎ去っていく。
曖昧だが、確かに何かを伝えようとしている。

「……望むなら……何度でも……。
 君……を傷つける……『災厄』……として生きられるように」

遠くで水面が揺れる。
こころのなかが、ぽちゃんと波立つ。
わたしの中に、ひとつの音が届いた。

「忘れ……で。……ミには、味方がいる…………を」

『味方』その言葉だけが、はっきりと届いた。

「……っ!」

思い出した。
自分を助けてくれる友人。その約束を。

『わたしの名前を呼んで。絶対に助けに行くから!』

いつも夢のなかで、一緒にあそんでくれた、たいせつなともだち。

「ありす……! ありす、たすけて……!」

夢うつつの様な曖昧な意識の中で叫びを上げる。

その瞬間、その呼び声に応えるように――――夢の扉が開かれた。

「メアリー! 待たせちゃったね!」

メアリーの意識の中に白いリボンが空にひらりと舞った。
裂け目の向こうから、銀髪の少女が駆けてくる。
真っ白なドレス、真紅の瞳。夢の中でいつも笑ってくれた――わたしのありす。

「こわかったね、大丈夫。誰かにいじめられたの? ――なら、わたしがやっつけてあげる!」

ありすが指を鳴らす。
空間がトランプのカードで満たされる。

「トランプ兵たち、出番よ! 女王陛下をお守りなさい!」

ハート、スペード、ダイヤ、クラブ。
赤と黒の兵士たちがずらりと列を成し、背後に控える。

わたしは、ありすの背中に隠れた。
なんてたのもしいおともだち。
わたしのこころはうれしさでいっぱいになった。

――でも。

その、ありすの顔が、ふるえた。

「……あれ……? なんだか、変……メアリー、あなたの世界……こんなだったっけ……?」

こくんと、うなずく。
でも、ありすの目から、ぽろりと涙が落ちた。

「だめ……これは、少女の夢じゃない……こんなの、ちがう!」

悲鳴のように叫ぶありすの声が震える。

「これ、だれかの……だれかの“よごれ”が混ざってる……!」

言葉と共に、彼女の手に黒い斑点が染みが浮かぶ。
その斑点は、ありすの足元へと広がり、トランプ兵たちの身体にもじわじわとにじみ始める。
それは、どこかで見たような……まっくらで、にがいもの。

「やだ……やだやだやだ……こんなの、知らない……!」

ありすが、首を振る。
叫ぶように、ふるえるように。
こわれてしまったようにふるえだした。

それは、無垢で穢れない少女の夢に入り込んだ誰かの『悪意』だった。
怒りと恨みと寂しさが、純白の夢を汚す。
それがありすを侵し、彼女の兵隊を狂わせていく。

「メアリー……あなたの、せかいが……! ……ぅ、あ……あぁ……!」

呑まれる。
汚される。
穢される。
汚染される。
ありすのドレスが、にじむように黒く染まる。

白は黒に、夢は現実に。
彼女の姿が、少しずつ、変わっていく。

「ありす……………?」

その声に応えるように、黒のドレスを纏ったアリスが、笑う。
それは純白な少女の笑みではなく、穢れた妖艶な女の笑みだった。

「さぁ、メアリー。
 あなたをいじめた“わるいやつら”を、ぜんぶ、やっつけてしまいましょう?」

黒いアリスが語りかける。
それは、わたしの夢と、誰かの絶望が混ざった混沌。

不思議の国の住人を引き連れて、世界が再び塗り替えられる。

そらが、わらう。
おひさまが、うたう。
おはなが、くるくるまわってる。

なんでもない顔をして、世界はわたしのものに戻っていく。
それがなんだかうれしくって。
それを壊した“わるいやつら”が許せなくって。
わたしは決意するのです。

「わかったよ! こわいものは、ぜんぶぜんぶ、やっつけちゃおう!!」

やさしく、たのしく、うつくしい――。
そんなせかいをまもりましょう。

その奥底で、すべてを壊す悪意がひっそりと笑っていた。


――ルメス=ヘインヴェラートの間違いは、たった一つ。

それは、少女を「純粋無垢な存在」だと思い込んだことだった。

無垢であることは、必ずしも善ではない。
幼いということは、必ずしも清らかではない。

少女が無垢である――それは希望に縋る者が勝手に描いた理想像でしかなかった。

少女は、普通に人間であり。
普通に、自分を守ろうとし。
普通に、悪意を持つこともあるのだ。

元より、メアリー・エバンスの超力『不思議で無垢な少女の世界(ドリーム・ランド)』は、他者を拒絶し、自分だけの安全な夢に閉じこもる『幼児性』の象徴だった。
その力は、無意識の防衛機制として世界を侵蝕し、現実を塗り替え、他者の存在を消し去っていた。
それまではただ『無自覚』であっただけに過ぎない。

けれど今、皮肉なことに。
ルメスの言葉が、夢に方向性を与えてしまった。

「自分の意思で制御すれば、世界は変えられる」
その真っ直ぐな願いは、メアリーの超力にとって最大の引き金となった。

――自分を否定する者は、いらない。
――自分を傷つけるモノは、いらない。
――自分を脅かす現実なんて、消えてしまえばいい。

その否定は、初めて彼女自身の意思で下された。

メアリー・エバンスは、選んだのだ。
黒いアリスに促されるままに。
「すべてを、やっつけてしまおう」と。

そして、最初に『否定』されたのは――ルメス=ヘインヴェラート、その人だった。

夢の世界に潜り込み、手を伸ばしてきた外の者。
助けに来たはずの少女は、逆に否定対象に分類された。

彼女の命を奪ったのは、ただの現象ではない。
ただの暴走でもない。

――それは、メアリーの意思だった。

無意識に周囲を害していた災厄は、初めて自らの意志で人を殺したのである。

不思議の国の住人であるトランプ兵たちは夢の世界の中でも制約も、理屈も、倫理もない。
行動に制限などなく、自由自在に動き回れる無敵の存在だ。
そして女王たるメアリーが命じれば、誰であろうと否応なく殺害する。

ただでさえ他者の存在を拒む世界に、明確な武力が加わったのだ。
これ以上の悪夢があろうか。
もはや、誰もこの世界には勝てない。
メアリー・エバンスを倒すことはできない。

――旅人が植えた「悪意」
――ドミニカが与えた「恐怖」
――ありすが差し伸べた「助け」
――ルメスが授けた「導き」

それらが、すべて最悪の形で交わった。

こうして、夢は自我を得て。
意志を持つ世界が完成した。

否定するための力。
拒絶するための現実。
誰からも傷つけられないための、終わりなき夢。

そして――そこに幼き魔王が誕生した。

誰より無垢で、誰より歪で、誰より壊れてしまった、
誤った旧世界を塗り替える正しき新世界の寵児。
世界を塗り替える少女の夢が、今ここに現実を侵し始める。

「……?」

だが、現実世界に侵攻を始めたメアリーの視界が、ふわりと浮いた。

世界が、くるくると回る。

重さがない。
風景が、流れていく。
色彩が、輪郭を持たず、万華鏡のようにうねっている。

メアリーは上下逆さの世界の中で上を向いた。
そこには首のない一つの死体が立っていた。

――――それは、他ならぬメアリー自身の体だった。

その背後に、ひとりの青年がいた。

ぼんやりとしたその姿に、記憶がじわりと滲む。
見覚えがある

いつだったか、たった一度だけ。
一人ぼっちだったメアリーの独房に、ひょっこり遊びに来たことがあった。
名前は、たしか……そう。

「……………………エネ…………リッ、ト……」

口が、自然に動いた。

その瞬間、世界が崩れ始めた。

夢の世界が、瓦解する。
無限に続くはずだった少女の王国が、主と共に音もなく砕けていく。

身体が落ちていく。
景色が反転する。
夢が、深い眠りへと沈んでいく。

主が眠れば、夢もまた終わる。

――こうして、生まれたばかりの魔王の夢は何も成すことなくその瞼を閉じた。


「……ふぅ」

少年は短く息をついた。
血の匂いが、朝の風に乗って肌を撫でていく。

エネリット・サンス・ハルトナ。
その手で今、ひとつの命を終わらせた男。
額にかかる血に染まった前髪を、指先で無造作に払う。

メアリー・エバンス。
夢の世界の支配者は、いまや空へと消えゆくただの塵となっていた。
『鉄の女』によって用意された髪の刃――エネリットはそれを、寸分の迷いもなく少女の首に通した。

ルメスたちが構想していた作戦の詳細は、彼の知るところではない。
彼に見えたのは、投石が逸れたその瞬間。すなわち――作戦は失敗したという現実だった。
本来であれば、その時点で撤退していたはずだ。

無駄な犠牲は払わない。
無意味な行動は選ばない。
それが、エネリット・サンス・ハルトナという人物の信条だった。

だが、ドミニカ・マリノフスキとの接触を経て、その判断は変化した。
それは感情ではない。
ましてや哀悼でもない。
ただ、彼女の戦いを見て、彼は悟ったのだ。

メアリー・エバンスと言う脅威に対してこれ以上の『勝機』は、もう来ないだろう、と。

あの瞬間を逃せば、もはや再び掴むことはできない。
そう確信したからこそ、エネリットは突入を選んだ。

事前の予想通り、辿り着くよりも先に再起動したメアリーの領域が展開された。
だが、エネリットは無謀な賭けに出る男ではない。
そこには確かな勝算があった。

ドミニカ・マリノフスキの死に伴いディビットの超力『4倍賭け』は中継地点であるエネリットに返還されていた。
エネリットはこれを使用し、自らの対応力を倍加させていた。

そして、領域の中での動き、想定される展開、重力の歪み、現象のラグ。
基本的な世界の法則は既に予習済みである。

倍化した対応力もあり、領域内の移動自体は容易かった。
対メアリーの作戦会議でエネリット自身が提言した『対応力を上げれば夢の世界は突破できる』という仮説は、こうして現実となったのだ。

トランプ兵の存在は予想外だったが、それらはすべて目の前のルメスを標的としていた。
夢の住人たちは、エネリットの存在を認識しないまま、ただ女王に命じられるまま少女の排除に集中していた。
その隙を逃さず背後からエネリットは、無音のまま接近した。

そして、何の感情も挟まず、何の躊躇いもなく。
領域外で事前に設定しておいた髪の刃を用い、少女の首を跳ね落とした。

少女が感情を得たこと。
少女が悪意を得たこと。
自ら選択し、敵意を向けるようになったこと。
それが仇となった。

もしも彼女が、かつてのように無差別で、無自覚で、無指向の存在だったなら。
背後からの侵入者であろうとも、あっさりと消し去っていただろう。

けれど彼女は、自ら望んで敵を定めた。
意志ある存在として選別を行った。
その瞬間に、選ばなかった何かに対する隙は生まれていたのだ。

少女の夢は無垢でなくなった時点で、無敵ではなくなったのだ。

静かに、消えゆき塵となったメアリーの亡骸が空に舞い上がった
朝日の照り返しが空を照らし、風に乗って少女の命の名残が消えていく。
エネリットは、静かにその空を見上げる。

同じアビスで育った。
アビスの外を知らず、アビスの常識で生きてきたアビスの子。

彼女の終わりに、哀悼の感情はない。
けれど、確かに別れの言葉だけは口をついた。

「――おやすみ。メアリーちゃん」

【メアリー・エバンス 死亡】


風が、静かに吹いていた。

夢が崩れた今、トランプ兵たちの姿はどこにもない。
あの無邪気な破壊者たち――無垢の皮を被った災厄は、霧のように世界から消え去った。
そして、少女が望んだはずの優しい夢の国も跡形もなく、どこにも残っていなかった。

まだ朝靄の残る空の下、ひとりの少年が崩れかけた岩場を歩いていた。

エネリット・サンス・ハルトナ。

彼は、静かに小さく呟く。

「……よし。これで、三つ目か」

手にしているのは、三つの首輪。

一つは、ルメス=ヘインヴェラートのもの。
トランプ兵たちに殺された義賊の証には、『無』の一字が刻まれている。
少女の領域に吸い込まれるように消された彼女の死体は、跡形もなく、どこにもなかった。

一つは、メアリー・エバンスのもの。
主の消滅とともに残された首輪には、同じく『無』の刻印があった。
夢と共に崩れ去った少女の命は、塵となって空に消えた。

そして、もう一つ。
メアリーの首輪の傍ら、転がるように落ちていた謎の首輪。
その表面には『20』という数字が刻まれていた。

出自は不明だが、恐らくはメアリーの世界に殺された誰かのものだろう。
不用意にも災厄に踏み込み命を落とした、名前も知らぬ一人。

メアリー、ルメス、そして名も知れぬ第三者。
その首輪を懐に収め、エネリットは再び歩き出す。

向かう先は、岩山の下。
そこには、ドミニカ・マリノフスキの死体と共に首輪があるはずだった。

風が吹き抜ける岩肌に立ち止まり、ふと顔を上げる。
眼差しは変わらず冷静だ。だがその奥には、わずかに、何かを振り返るような影があった。

「……シスターの首輪を回収すれば、あとはディビットさんと合流するだけ、か」

どこか独り言のように、誰に聞かせるでもなく呟く。

地上に残された戦いの痕跡。
夢の終焉と少女たちの意志。
すべてを記録するように、彼は冷徹に歩を進める。

ディビットと合流後には手に入れた4つの首輪をどう分け合うか、分け前の相談になるだろう。
死も夢も希望も、すべては数字に換算され、秩序の中に数えられていく。
血と夢の狭間で終わったこの作戦は、彼にとっては『通過点』にすぎない。

静かに。淡々と。
ただ風の中を歩いていく。
その足音が、ひとつの決着に幕を引いた。

――こうして、少女たちの夢と祈りをめぐる戦いは終わった。

だが、アビスはまだ、沈黙してはいない。

終わりとは、ただ始まりの形をしているだけだ。

【E-5とE-6の間/岩山/一日目・朝】
【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:衝撃波での身体的ダメージ(軽微)
[道具]:デジタルウォッチ、メアリー・エバンスの首輪(未使用)、ルメス=ヘインヴェラートの首輪(未使用)、宮本麻衣の首輪(未使用)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.復讐を成し遂げる
1.シスター・ドミニカの首輪の回収後ディビットと合流
2.ディビットの信頼を得る
※刑務官『マーガレット・ステイン』の超力『鉄の女』が【徴収】により使用可能です。
 現在の信頼度は80%であるため40%の再現率となります。【徴収】が対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。
※『ディビット・マルティーニ』の超力『4倍賭け』が【献上】により使用可能です。
 現在の信頼度は40%であるため40%の再現率となります。

084.私は特別! 投下順で読む 086.We rise or fall
時系列順で読む
ピルグリム・ブルース ルメス=ヘインヴェラート 懲罰執行
ジョニー・ハイドアウト スピリッツ・オブ・ジ・エア
神の道化師、ドミニカ ディビット・マルティーニ
エネリット・サンス・ハルトナ
メアリー・エバンス 懲罰執行
ドミニカ・マリノフスキ 懲罰執行

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最終更新:2025年07月14日 20:03