朝靄に包まれた草原に、ひとりの影があった。
ジャンヌ・ストラスブールの面影をそのまま写した容貌。
だがそれは、奇跡ではなく執念の産物。超力による整形、調整、模倣。
風にたなびく青みがかった地毛は、唯一、獄中で染められぬ彼自身の証明だった。
ジルドレイ・モントランシー。
彼は歩く。朝露に濡れる草の中を、ゆっくりと。
目的地など無い。あるのはただ、探すという執着の一点のみ。
その歩みは、目覚めと眠りの狭間にいる夢遊病者のように、危うく、脆く、だが決して止まることはない。
「ジャンヌ……貴女は、どこへ行かれたのですか……?」
澄んでいるのに酷く悲しい声。
まるで泣き声のようでいて、そこに涙は伴わない。
彼の魂は、涙という現象を知らない。
悲しみを演じることはできても、感じることはできない。
草の匂い、朝露の冷たさ。
東の空には、昇り始めた太陽が金色の光を落とす。
けれどジルドレイの胸に射すものは、ただ凍てついた沈黙のみ。
「早く…………早く、貴女を……見つけねばならぬ……っ」
その足元で草花が凍りつき、ぱきぱきと脆く砕ける音が微かに響く。
彼の超力が、無意識に滲み出ていた。朝の温もりすら彼の存在を拒むかのように。
「そうだ……崇高なる御身を拝謁できれば、我が信仰を否定せんとする下らぬ妄言に揺れる事などなくなるはずだ……っ!」
ジルドレイは微笑んでいた。
しかしその笑顔は空虚で、頬を動かすという表情の定義を模倣しているにすぎなかった。
「『誰でもジャンヌになれる』だと? 笑止千万……!! ああ、否、断じて否!!
貴女は……誰でもなれるなどという、安い神聖ではない……そのような世迷言、断じて認めてはならぬ……!」
神父の言葉が脳裏を苛み声が震える。
怒りか、あるいは自分が信じてきたものを失う恐怖か。
唯一、信じるに値すると選んだ光が、無数の偽物の中に溶けて消えてしまう恐怖。
その否定のために、ジルドレイは叫ぶ。
崇拝を壊すものすべてに牙を剥く。
けれど、現れるのは光ばかりだった。
あの神父も。
燃え尽きたフレゼアも。
手を取り合った幼い少女たちさえも。
彼らは光を放った。
彼の知らぬ、けれど確かに誰かのためを想う心から生まれた輝き。
「違う、違う……奴らの放つ光など、偽りだ……違うと言え……!!」
否定せねばならぬ。
それらの光が『本物』だったならば、自分が信じたものが、凡庸の果てに過ぎなくなってしまう。
そんなことはあってはらない。
「貴女は……貴女だけは、特別なのです。唯一無二の光なのです……そうでしょう? ジャンヌ……」
時さえ凍てついたような、悲しき沈黙。
草原に一陣の冷気が走り、朝露が一面の霜へと変わる。
その瞬間、朝霧の中に光が揺れた。
白銀の鎧に身を包んだ聖女の姿が、草原の彼方に立っているように見える。
ジルドレイは片方になった目を細め、震えるように手を伸ばす。
「……ああ、ようやく……」
しかしそれはただの光の戯れの生み出した幻想。
揺れる陽光と朝靄が描き出した一瞬の偶像にすぎなかった。
彼は立ち尽くす。
伸ばした右腕は既に失われており、そこには虚空しかない。
彼はしばし沈黙したのち、かすれた声で呟いた。
「ジャンヌ……私は、貴女を見つけねばならぬ。
貴女の神聖さを、この眼で見て、この身で触れなければ……この歪んだ世界に、貴女以外の光など存在しないと、確かめねばならぬ……!」
ジルドレイは再び歩き出す。
ふらつきながら、それでも真っ直ぐに。
これほどの狂信を捧げながら、ジルドレイはジャンヌ本人と一度も会ったことがない。
画面越しに、記事越しに、ただ情報と映像の中の彼女を見続けてきただけ。
だが、それこそが彼の純粋さだった。
現実を知らぬからこそ、幻想を神聖化できたのだ。
だからこそ、直接その威光に触れれば、この惑いも、紛い物たちの光も、全て払えると信じている。
信じずには、いられなかった。
朝の陽光が、彼の背に長い影を落とす。
それはまるで、ジャンヌその人の姿。
草原を、狂気と信仰の狭間で彷徨う影。
それはまるで、神を求めながら、神に見放された巡礼者のようだった。
■
「……フレゼア」
朝の草原を一人歩いていたジャンヌ・ストラスブールは、放送で告げられたその名を思わず繰り返すように呟いた。
雲ひとつない青空の下、港湾を目指していたその途中だった。
巨悪ルーサー・キングとの決戦を見据え、ただ前を見据えて歩いていた足が、不意に鳴り響いた定時放送の声に止まる。
耳に馴染んだ看守長の無機質な声。
その口から告げられた十二名の死――そして、その中にあったのは、因縁深き名だった。
フレゼア・フランベルジェ。
その名が胸の奥を貫いた瞬間、何か重たいものが沈む。
ジャンヌは静かに立ち止まり、両の掌を胸の前で重ねる。
薄く目を閉じたその顔には、死者への祈りと慈悲、そして何よりも深い哀惜が滲んでいた。
浮かぶのは、あの狂気を孕んだ狂熱の瞳。
そして無垢な笑顔で自分の名を呼んだ少女の声。
かつて救いの手を差し伸べた少女――そして、やがて戦場で剣を交えた炎帝。
歪んでしまった魂。
だがその歪みを生んだのは、他ならぬジャンヌ自身の存在だった。
彼女はジャンヌに憧れていた。
正義の象徴と信じ、ひたすらに追いかけた。
けれど、その憧れはいつしか歪み、暴走の果て、破滅の道へと変貌していった。
(その魂に……救いは、あったのでしょうか)
その答えは誰にも分からない。
彼女がどのように己が業と向き合い、どんな最期を迎えたのかも、今となっては知る術もない。
この地で、なお罪に囚われたまま逝ったのか。
それとも、ほんのわずかでも救いを掴めたのか。
願わくば、せめてそうであってほしいとジャンヌは思う。
「……どうか、貴女の魂が安らかでありますように」
ジャンヌは草原に膝をつき、祈りを捧げる。
その声は、風に乗って遠くへと届いていく。
「この地に堕ちた者にも、罪に囚われた者にも……どうか等しく赦しが与えられますように」
そよぐ風が、金の髪を優しく揺らす。
露草の匂いが仄かに香り、静かな朝に、たしかな祈りの余韻を残した。
たとえこの地に、救いが見えぬとしても。
たとえ祈りが届かぬとしても。
れでも、自分は正義を信じ続ける。
かつて、自分を正義と信じてくれた少女のためにも。
迷いを抱えながらも、それでも彼女は歩いていく。
自らの罪と、世界の業と、全てと向き合いながら、自らの正義を貫くために、
ジャンヌは顔を上げる。
ジャンヌの翠の瞳には、再び静かな決意の光が宿っていた。
「――――――」
だが、そのジャンヌが目の前の光景に言葉を失っていた。
決意に満ちていた瞳が困惑に揺れる。
ジャンヌの目の前には、鑑写しのように自分自身が立っていた。
■
朝日に煌めく草原には、まるで神の吐息が残されているかのような静謐が漂っていた。
冷たい空気は夜の名残をわずかに引きずりながらも、神聖な祈りの気配に満ちていた。
ジルドレイ・モントランシーは片目をゆっくりと開き、凍りつくような視線をその先に送る。
視線の先――朝露に濡れた草原に、ひとりの女が静かに祈りを捧げていた。
囚人服であるはずの衣が、朝日を受けて淡く輝き、まるで神聖な法衣のように見えた。
彼女は掌を重ね、瞼を閉じ、誰かの魂に静謐な祈りを捧げている。
きっと、この地で倒れた名も無き誰かのために、彼女は祈りを捧げていたのだろう。
ジルドレイの呼吸が止まる。
青空の下、清らかに祈るその姿こそ、彼が心の中で数え切れぬほど夢見た、あの人だった。
ただ一人の聖女。その理想。その幻影。
そして、次の瞬間。
彼は崩れ落ちるように膝をついた。
「……ああ……ああ……!」
風が吹いた。
それは草原を撫でる優しい朝風ではなかった。
ジルドレイの内奥から噴き出した、歪んだ信仰の冷気。
喜悦、感動、崇拝――いや、それらを模した陶酔と狂気が雫となってぼれ落ちる。
「見つけた……見つけたぞ……ついに……! 私の、ジャンヌ……私だけの、貴女が……!」
風の音に紛れても、その嗄れた声は確かに届いた。
ジャンヌは静かに目を開け、声の主に視線を向ける。
そして――彼女の目に映ったのは、自分自身の姿だった。
驚愕を声には出さず、しかしジャンヌの顔に戸惑いと緊張が走った。
十五歳の自分。まだ現実を知らず、ただ理想だけを抱きしめていた、純粋無垢の頃の古い鏡。
違うのは、片目と片腕、そして髪の色だけ。
だが、最も決定的に違ったのはその眼差しだった。
慈しみでも哀しみでもない。戦意でも、情熱でもない。
そこにはただ、命を持った蝋人形のような虚無と執着が宿っていた。
「貴女に……ようやく……ようやく、会えました……」
恍惚とした笑みを浮かべ、ジルドレイは立ち上がる。
残った左腕を広げ、一歩、また一歩とジャンヌへとにじり寄っていく。
その動きに、ジャンヌは一瞬身を引き、眉をひそめた。
「……貴方は……何者ですか?」
毅然と問う。
明らかな警戒があったが、それでも相手を理解しようという意志がそこにはあった。
ジルドレイは応えない。
ただ、頬に穏やかな笑みを貼り付けたまま、再び口を開いた。
「ジャンヌ……ジャンヌ・ストラスブール……本当に……貴女なのですね?
ああ、なんという神の采配か……この邂逅、まさに奇跡……!
いや! これはもはや、奇跡などという生温い言葉では足りませぬ……神慮の祝福そのもの……!」
片膝をつき、胸に手を当てる。
それは祈りであり、讃歌であり、崇拝そのものだった。
「申し遅れました。私は、ジルドレイ・モントランシー。
貴女の姿に、貴女の在り方に魅せられ、貴女の影を追い続けてきた者です。
本当に御身を拝謁する誉に授かれる日が来ようとは……このジルドレイ幸甚の極みにございます!」
ジャンヌはその姿を凝視し、目を細めた。
困惑と警戒を押し殺しながらも、彼の姿をしっかりと見つめる。
「……その姿は……」
まるで問いかけるように、彼女は言った。
なぜ自分と同じ顔をしているのか――当然の疑問だった。
世界には自分と同じ顔をした人間が3人いるとは良く言うが、このアビスに偶然それがいたと考えるほどジャンヌは楽観的ではない。
偶像から直接問いを投げられたこと自体に歓喜してジルドレイは、嬉々として語った。
「私は、貴女の足跡を追っております。心から、魂から!
この姿もまた、そのためのもの……超力による施術にて、貴女の御姿を借り受けたのです」
「借り受けた…………」
「はいぃ! これも御身が偉業をなぞらんがため」
整形により外見を弄る行為自体は他人がとやかくいうような事でもない。
誰かの存在に憧れその行為を模倣するという行いそのものだって悪ではないだろう。
むしろ、何かを始める切っ掛けとしてはありふれた話だ。
だが、どのような行為を行き過ぎると醜悪さを帯びる。
ジルドレイの模倣は明らかに常軌を逸している。
自身の姿を捨ててまで行なう模倣は信仰の域を通り過ぎて狂気に踏み込んでいる。
「貴女が微笑んだと知れば、私は鏡の前で幾度もその笑みをなぞりました。
貴女が涙を流せば、その意味を知りたくて私も涙をこぼしてみました。
貴女が戦災孤児を救ったと聞けば、私は財を投じて彼らを支えました。
貴女になり替わろうなどと言う烏滸がましい考えはありませぬ。ただ、貴女に近づきたかったのです。
貴女という軌跡をなぞりジャンヌ・ストラスブールという『奇跡』をこの身と世界に刻み付けたかったのです!」
ジルドレイは祈言のように語る。
大方の人間はその在り方に嫌悪感を抱くのだろうが、当の本人であるジャンヌはそのような感性は持ち合わせなかった。
善行を成そうという相手を咎める事は出来ない。
「……ジルドレイ。私を慕うその思いは、確かに受け取りました。
けれど私は、この地に巣食う悪を討ちに行く最中。ここで立ち止まることなど許されぬ身なのです。
どうか、道を開けてはいただけませんか」
毅然として、揺るがぬ声。
心に葛藤を抱えながらも、ジャンヌは正義として在り続ける者の姿を見せた。
ジルドレイは一瞬、沈黙した。
顔を曇らせかけ、すぐに再び恍惚の笑みを浮かべる。
「……ああ……その高潔さ、その気高さ……! 貴女は……本当に、貴女なのですね……!
やはりこの凍った我が心を震わせし聖女は、この世にただ一人……!」
信仰は、熱狂のうちにさらに高まる。
ジャンヌの凛とした態度が、彼にとっては祝福の鐘に聞こえたのだ。
「そして、此度は巨悪を討たれると。なるほどなるほど。
おお……ここは悪徳蔓延る地の底なれば、悪逆よりも正義の方が為しやすい。
このジルドレイ、後期のイメージに引かれそこに思い至らず不徳の至りにございます」
「……どういう意味です?」
語り口に不穏な気配を感じ、ジャンヌは問う。
そして――彼は語り出す。まるで聖典を朗読するかのように。
「無論、この不詳ジルドレイ、正義の象徴たる貴女のみならず、悪徳の象徴と貶められた貴女すらも、等しく崇め奉っておりますとも……!
貴女が政治家を惨殺なされたと騒がれれば、私もまた、偽りの正義を掲げた議員どもを一人ずつ絞殺いたしました。
貴女が孤児を手に掛けたと報じられれば、私も救いを求める無垢なる子らに愛を注ぎその魂を永遠の静寂へと導いて差し上げたのです。
貴女が信徒を焚刑に処したと報道されれば、私は信仰を騙る偽善者たちを火にくべ、罪と共に焼き尽くしました。
貴女が敵軍の降伏者を虐殺したと囁かれれば、私もまた、降りた兵らを祝祭の舞台にて氷の刃で浄化いたしました。
教会を血で汚したと嘲られれば、私はその嘲笑を真実に変えるべく、教壇の上で神の名を口にした司祭を屠り、聖書を血で綴り直しました……!
――すべては、ジャンヌ。特別な存在である貴女の軌跡を、この哀れな魂に刻みつけるために……!」
ジャンヌの模倣。その名目で自らが行ってきた様々な悪行。
それを、親に褒めてもらいたがる子供のように、誇らしげに口にする。
悪徳を誇るのではなく、自分の行ってきた献身を、ただ相手に認めて欲しいという純粋な哀願が込められていた。
その告白に、ジャンヌは全てを理解したように深く、長く、目を閉じた。
目の前の相手はフレゼアと同じだった。
目の前にいるのは、自分という象徴が生んでしまった『歪み』そのものだった。
ジャンヌは、目を開ける。
その瞳には、迷いがあった。痛みがあった。
それでも彼女は決して揺るがぬ聖女としての声で、まっすぐに言葉を紡いだ。
「……ジルドレイ。あなたのしてきたこと。その動機も、その歩みも……すべて私を慕うその一心から。
その心に偽りはなく、その始まりに何の悪意もなかったと私は信じます」
その声は澄んだ響きをもってジルドレイの耳を貫いた。
ジャンヌは、模倣と狂信に取り憑かれた目の前の男の存在を否定しなかった。
それは彼の心にとって、最初で最後の承認だった。
ジルドレイの顔が、一瞬で歪む。狂喜の熱がその頬に走る。
「けれど――それが正しい行いであるとは言えません。
模倣そのものは悪ではない。人は誰しも、誰かに憧れて、真似て、そこから道を歩き始めるもの。
けれど、その行いが『正しいかどうか』を決めるのは、貴方自身の心でなければならないのです」
風が草原を撫でた。
どこか寂しげで、冷たい風がジルドレイの頬を撫で、彼の皮膚を薄く凍らせてゆく。
彼は目を細めた。困惑するように。
「な……何をおっしゃるのですジャンヌ。
正しき貴女の行いであれば、それは正しきことなのでしょう!?」
ジルドレイの声が荒れる。怒りではない。
それは、怯えと、何かに縋る不安の声だった。
ジルドレイは心を持たず、共感という概念を知らない。
だからこそ、世界で唯一『絶対に正しい存在』であるジャンヌをなぞり続けてきたのだ。
彼にとってそれは、正しき人であるための唯一の道標だった。
だが、その道標たるジャンヌは痛ましげに首を振った。
「……私は、決して全てを正しく導けるような特別な存在ではありません。
たとえ人々が聖女と呼ぼうと、私の本質は変わりません。私はどこいでもいるような小娘でしないのです。
当たり前の正義感を持って、目の前の苦しみに手を伸ばした、ただそれだけの人間です」
その言葉は優しく、それゆえにあまりに残酷だった。
ジルドレイの内側で、何かが壊れる音がした。
「……な……ん、ですと……?」
ゆらり、と彼の身体が揺れた。
瞳に宿っていた狂信が、ひび割れたガラスのように音もなく軋む。
「違う……違う……そんなはずは……! 何をおしゃるのですジャンヌ!?
貴女は選ばれし者だ……唯一無二の聖女だ……!!」
ジルドレイの声は、掠れたように震えていた。
まるで道に迷った幼子のように。
「それが……どこいでもいるような凡俗? 誰でもなれる?
何故そのような世迷言を……貴女は、特別でなければならないのに……。
あの愚かな神父と同じことを言うのですか、ジャンヌ……ッ!!?」
脳裏に、かつてジャンヌを凡俗と貶め自分を否定した神父の言葉が浮かぶ。
それと同じことを、彼にとって『聖典』だったジャンヌが口にしたのだ。
それはジルドレイにとって、全てを否定されることに等しい。
「私が……何も感じず、誰にも共感できなかった人生で……ただ、貴女だけが……唯一、美しかった。光だった。
貴女を特別だと……信じていた想いだけは……どうか、それだけは……奪わないでくれ……!」
嗚咽のような声だった。
それは、泣けない生き物が泣こうとしたような、命の音だった。
「だから……どうか、それだけは――それだけは否定しないで……」
草原に立つジャンヌの姿を、ジルドレイは懇願するように見つめる。
その目に宿るのは、歪な信仰でも、純然たる憧憬でもない。
けれど確かに、ジルドレイ・モントランシーという人間にとって、それは唯一の尊き灯火だった。
ジャンヌは、黙してその姿を見ていた。
拒絶ではない。ただ、言葉を探していた。
目の前にいる、導を失った迷子に語りかけるための、たったひとつの言葉を。
彼の足元から、静かに冷気が広がる。
草花が凍りつき、霜が白く地表を覆ってゆく。
ジルドレイの感情が、超力とともに世界へ滲み出していた。
「……ジルドレイ。貴方が私を通して見た『光』が、たとえ歪んでいたとしても……それを私は否定しません。
それが貴方の中に、初めて灯ったものだったのなら、それは……確かに貴方のものです」
その声は、限りなく優しかった。
けれどその優しさは、ジルドレイの魂を裂くほどに痛みを孕んでいた。
「……ですが、あなたは、その光の使い方を間違えた。
光を盲信するのではなく、自らの足元を照らす灯火として、進むべき道を照らすべきだったのです」
言葉の温度がわずかに下がる。
ジャンヌの声は、今や決意を帯びた硬質な響きを纏っていた。
「貴方が私の光によって生まれた影だと言うのなら……私は、貴方を止めなければなりません」
その瞳が、真っ直ぐにジルドレイを見据える。
赦しではなく、責任として告げられた非情な宣告。
これを受けたジルドレイは、笑っていた。
それは歓喜の笑みではない。
諦め、壊れ、崩れた、泣き笑いのようなものだった。
「おお…………おおっ……正しくそれだっ!! その輝きッ、これこそが、私のジャンヌ……!」
嗚咽と歓喜がない交ぜになった声。
口元に、血のように薄い笑みがにじみ、わずかに引きつる。
自身に向けられる意志の光。
これこそが、心無きジルドレイが焦がれたジャンヌの光。
これほど眩いものが、凡庸な紛い物などであるはずがない。
「なんという…………なんという悲劇だ……まさか貴女ご自身が、それに気づいておられないとは!!」
その声からは、もはや先ほどの哀願は消えていた。
氷のように粉々に砕け散った信仰が、継ぎ接ぎのまま形を成して行く。
同じではなく、都合のいい形を成すように、歪んだ違う形で。
「確かに……自身の光というものは、己には見えぬ。道理です」
氷の花が一輪、彼の足元に咲く。
それは、まるで神像の祭壇に捧げられた供物のように、儀式的で、厳かだった。
「よろしいっ!! ならばこの不肖ジルドレイ・モントランシーが証明致しましょうぞ!
貴女こそが唯一無二、真なる神聖であると、この世の隅々に至るまで知らしめて差し上げます……!」
ジルドレイの両目が見開かれる。
欠損したはずの右目には、青白い氷のレンズが構築され、幽かに輝く義眼となった。
目としての機能がある訳ではないのだろう。だが、もうそこに忌々しい神の幻影は映さない。
外ならぬジャンヌのためと言う使命感が、その幻影を塗りつぶすように打ち消した。
失われた右腕には鋭利な氷の義肢がせり上がり、冷気が血管のように皮膚下を這っていく。
美しさすら感じさせる彫刻のような形状。
しかし、それは冷たく、禍々しく、まさに異形の象徴。
ジャンヌと同じ顔をした怪人がそこに立っていた。
ジルドレイ・モントランシーは、いまや人を超え、聖女の形をした祈りの偶像と化していた。
「な、にを…………?」
ジャンヌは困惑に眉を寄せた。
ジルドレイは、祈りにも似た敬虔な口調で答える。
「ご安心めされよ! ジャンヌが凡俗を自称し、己が光を否定する。ならば……ッ!!」
ジルドレイの声は、静かに、けれど確かな熱を孕んでいた。
瞳に映るジャンヌを仰ぎ、胸に手を当てるように一礼すると、告げる。
「この私が、それをお見せいたしましょう。
貴女の知らぬ貴女の光を……ジャンヌ・ストラスブールの正義を、この身にて、貴女様に証明してみせます!!」
その声音には、誓いにも似た敬虔な決意が宿っていた。
だがそれはあまりに一方的で、狂気じみた献身だった。
続けて、ジルドレイは思案するように呟く。
「確か、御身はこの先で巨悪を討つご予定でしたか。
ふぅ~む。この先にある施設と言いますと、港湾と灯台でしたか……どちらかに『巨悪』がいるのですね。
まあどちらも両方を訪ねるとしましょう。正義の証明に相応しい舞台ですから」
氷の靴音を響かせ、ジルドレイが歩き出す。
「お待ちなさい!!」
ジャンヌの声が、鋭く空気を裂いた。
彼女が駆け出そうとした、だがその刹那――氷が爆ぜ、地を這い、彼女の足元へと一気に迫る。
瞬く間に草花が凍結し、大地は白銀の監獄と化した。
「く……ッ!」
身体を翻す間もなく、膝上までを凍てつかされる。
さらに分厚い氷の壁が、彼女の周囲を静かに覆い囲む。
それは攻撃ではない。
触れさせず、近づけず、穢れさせぬための――隔絶の結界だった。
「そこで少々お待ちを、貴女が訪れる頃には既に証明は完了していることでしょう。
存分にご照覧あれ、私の信ずるジャンヌの光を。さすれば貴女もご理解なさる事でしょう、御身が特別な存在であると!!」
「ジルドレイ……!」
ジャンヌの叫びは、氷壁に吸い込まれ、音すら凍るようにかき消える。
瞬時にジャンヌは焔の翼を広げ、氷を融かした。
彼女の身体を包んでいた霜が、一気に蒸気となって立ち昇り、周囲を朝靄のように覆ってゆく。
白煙が晴れたときには、もうそこにジルドレイの姿はなかった。
草原の彼方、港湾へと続く道を、氷の風が駆けていく。
「くっ……!」
歯を噛み締めるジャンヌ。
港湾に待つのは巨悪。宿敵たるルーサー・キングだ。
それがジルドレイと潰し合うのならジャンヌにとって好都合な展開である。
だが、彼女の脳裏にはそのような損得勘定など一切浮かばなかった。
ジルドレイがこれ以上間違いを重ねる前に止めねばならない。
彼女を動かすのはその責任と使命だけである。
凍りついた朝露の大地に、炎を帯びた足が再び触れる。
まるで陽光のように、ジャンヌ・ストラスブールは、走り出す。
残る氷は溶け、砕け、どこにもなかったように消え去った。
【D-4/草原/一日目 朝】
【ジャンヌ・ストラスブール】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(大)、右脇腹に火傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.正義を貫く。だが、その為に何をすべきか?
1.ジルドレイを追い彼の凶行を止める
2.ルーサー・キングとの合流地点(港湾)を目指す。
3.刑務の是非、受刑者達の意志と向き合いたい。
※ジャンヌが対立していた『欧州一帯に根を張る巨大犯罪組織』の総元締めがルーサー・キングです。
※ジャンヌの刑罰は『終身刑』ですが、アビスでは『無期懲役』と同等の扱いです。
【ジルドレイ・モントランシー】
[状態]: 右目喪失(氷の義眼)、右腕欠損(氷の義肢)、怒りの感情、精神崩壊(精神再構築)、全身に火傷、胸部に打撲
[道具]: 無し
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本. ジャンヌを取り戻す。
1.港湾と灯台に向かい、ジャンヌの光をジャンヌに証明する
2.出逢った全てを惨たらしく殺す。
※夜上神一郎によって『怒りの感情』を知りました。
※自身のアイデンティティが崩壊しかけ、発狂したことで超力が大幅強化された可能性があります。
最終更新:2025年07月04日 21:39