葛藤と焦燥が胸を締め付け、氷藤叶苗の足取りは重く揺れていた。
静寂に満ちた暗い森は、まるで彼女の心の内側を映し出すように深い闇を孕んでいる。
月明かりも樹々に遮られ、視界はひどく悪い。頼りない足取りのまま、彼女は背後をちらりと見た。
そこには、必死に自分のあとをついてくるアイの小さな姿があった。
「あうぅ……」
不安げに小さく唸りながらも、アイは叶苗の囚人服の裾をぎゅっと握り締め、片時も離れようとはしない。
その手の震えが微かに伝わってくるたび、叶苗の胸はさらに痛んだ。
森は一層暗くなり、風が葉を揺らす音だけが二人の耳に届く。
叶苗は、震える手で自らの手のひらを握りしめた。
その指先には、キングから渡された鋼鉄の手甲がひどく冷たく重く感じられた。
あの牧師――――ルーサー・キングとのやり取りが、嫌でも彼女の脳裏を占領する。
(どうして、こんなことになったんだろう……)
家族の仇を討つために、ここまで来た。
それだけが彼女の目的だったはずなのに、その道はいつの間にかこんな幼い子供を巻き込で、戻ることのできない深い闇へと続いていた。
叶苗はただ仇を討てればそれでよかった。
だから、自らブラッドストークの殺害を請け負いそれに条件を付けた。
アイを、自分と同じ一人ぼっちの少女を救うことが出来れば、愚かな自分の行為も救われるのではないかと思ってしまったのだ。
どうしようもなく醜い復讐と言う行いが、少しでも良き行いに繋がるように。
だが、それが間違いだった。
――必ず3人は始末するんだ。
キングの要求が何度もリフレインされる。
命を奪うことを考えると、体が強張り、息が詰まるような恐怖に襲われる。
既に叶苗は4人の命を奪った人殺しだ。
それでも、復讐という名の下でしか人を傷つけたことがなかった。
復讐。それだけを胸に秘め、強く生きようとしていたはずなのに、今は心が揺れている。
家族の仇を討つという明確な目的、理由。
それがあったからこそ、自らの罪を受け入れる覚悟ができた。
彼女は復讐鬼であっても殺人鬼ではなかったのだ。
だが今、自分は何の恨みも因縁もない人間の命を奪おうとしている。
それは、誰に言われたわけでもない。
ただ自分でそう決めただけの、思い込みに過ぎない。
けれど、確信がある。
復讐以外の殺しをした瞬間、叶苗は人間を外れ本物の獣以下の、ただの殺人鬼に堕ちる、と。
いまさら何を、と自嘲するように首を振る。
正当な復讐なら殺しが許される訳じゃない。人殺しは許されない、当たり前の話だ。
それを理解した上で、叶苗は復讐の道を選んだ。
だというのに、良い人殺しと悪い人殺しなんてありもしない天秤を定義しようとしている。
なんて偽善。
「うう……」
不意にアイが声を上げ、叶苗の裾を強く引いた。
そこには、思い悩む叶苗を心配そうな瞳で見つめるアイの姿があった。
「アイちゃん、ごめんね……」
叶苗がそっと呟くと足を止め、微かな吐息を漏らした。
アイは不思議そうに彼女を見上げた。言葉は伝わらなくても、その瞳には明らかな疑問と不安が宿っている。
叶苗は力なく微笑んで、彼女の頭を優しく撫でた。
「怖いよね、私も怖い。でも……アイちゃんを絶対に守ってあげるから」
自分に言い聞かせるようにそう囁くと、アイは小さく頷いた。
己が獣に墜ちても、この少女を救うべきなのだろう。
それが、復讐と言う修羅の道に墜ちた自分が出来る唯一の善行と信じて。
彼女が見つめる先には、月の光に僅かに照らされた道が続いている。
まるでその先に何かが待ち構えているかのようだった。
「行かなきゃ、だよね」
叶苗は深く息を吸い込んだ。
もう、戻れない。自分の足で歩き続けるしかない。
暗闇の中で、叶苗は自らの葛藤を抱え込みながら、震えるアイの手を強く握りしめ、再び歩き始めた。
■
川辺に近い深夜の草原は静寂に包まれ、音もなく流れる夜気が肌を撫でる。
騎士のような揺るぎない瞳をした少女――ジャンヌ・ストラスブールは黙々と前へ進んでいた。
その背後には、長い漆黒の髪を静かに揺らす鑑日月の姿がある。
彼女たちは一時の休息を終え、中央にそびえる謎の巨大建造物、ブラックペンタゴンを目指していた。
ジャンヌの後に続く日月は、その背を暗い瞳でじっと見つめていた。
彼女の姿を目にする度に、日月の心がざわめく。
それはまるで身を焦がす恋のようであり、気を狂わす激しい憎悪のようでもあった。
ジャンヌ・ストラスブールという女に対して、日月の中で絶えず矛盾した感情が渦巻いていた。
彼女の言葉や振る舞い、その立ち姿に触れるだけで、否応なく己の未熟さを突きつけられる気がする。
日月は自身の心の奥底にある闇を知っている。
欲望に忠実で、他者を踏み台にしてきた悪性の側面。
だが同時に、純粋で、眩く、誰かの希望になれる偶像(アイドル)に憧れ、その存在になりたいと願う自分がいるのもまた真実だった。
悪性を抱えながら、善性に憧れるこの矛盾を、舞台上で輝きに昇華する事こそが彼女の目指すアイドルである。
その理想の体現が目の前にいる聖女、ジャンヌ・ストラスブールだ。
この少女は、まるで矛盾を矛盾とも感じていないかのように生きている。
迷いも、傷も、悲しみも抱えながら、それを美しく昇華し、「正義」というただ一つの輝きに結実させている。
日月にとって、それは許せないほどに魅力的で、理解しがたいほどに遠い存在だ。
故にこそ、日月は気付いている。
――私は、この女が怖いのだ。
ジャンヌの存在は、自分が決して届かない場所にある「本物」を見せつけてくる。
心の内側を覗き込まれているような不快さ。
自分のような人間を、本来ならば断罪すべき相手だと、どこかでわかっているような鋭さ。
彼女のような「本物」を前にすると、偶像を演じてきた自分が、どこまでも偽物に感じてしまうのだ。
正義を口にするジャンヌが、いつか自分を見下ろし、軽蔑し、その眩しい瞳に断罪を宿して自分を見つめる瞬間を想像してしまう。
最初は、それでもいいと思っていた。
自分は理想の憧れ(アイドル)にはなれないから、その礎になれるのなら本望だと、諦観にも似た感情を抱いていたのだ。
しかし、今は違う。その恐怖に近い感情の裏側には、身を焦がすほどの憧れと嫉妬がある。
彼女のようになりたい。
否、彼女を超えたいのだと――。
この刑務という舞台で自分がもう一度偶像として輝きを取り戻すためには、ジャンヌというこの「光」を飲み込む必要があるのだと、本能が告げている。
ジャンヌの弱さが見たい。
ジャンヌの醜さが見たい。
ジャンヌが膝を折り、迷い、傷つくところが見たい。
どれほどの弱さと醜さを抱えても、偶像は輝きを保っていられるのか、それが知りたい。
だが、その一方で、それを目にすることが怖くて仕方がない自分がいる。
そんな胸の内の嵐を隠したまま、心がどうしようもない堂々巡りをしている時。
自らに向けられる視線に気づいたのか、ジャンヌはふと立ち止まり日月を振り返る。
まっすぐに視線が交わり、心の内側まで見透かされている気がして、日月は思わず視線を逸らした。
「日月さん、どうかしましたか?」
どこまでも透き通った声。
自らに向けられた醜い感情などみじんも気づいていないであろうその無垢な言葉が、鋭い棘のように日月の心に突き刺さる。
「……別に。ただ、もう少し休んでいけばよかったのにと思っただけよ」
適当な誤魔化しを口にする日月の言葉には、皮肉交じりの敵意が滲んでいる。
だが実際の所、休息もそこそこに行動を開始したジャンヌの体調は万全とは言えない。
焔の魔女フレゼアから受けた傷はこんな短時間で回復するはずもないし、短時間での戦闘に体力も消費している。
行動に支障ない最低限の回復が出来た程度のものである。
「そうですね。付き合わせているのなら申し訳ないのですが、私にはやるべきことがあります。そのために休んでいる暇などありませんので」
その自らの体を顧みない揺るぎない言葉に、日月は僅かに唇を歪めた。
どこか挑発するように、しかし隠しきれない嫉妬心を滲ませながら日月が言葉を放つ。
「それって、あの魔女を止める事? それとも今から向かうブラックペンタゴンを調べる事かしら?」
「そのどちらもです。どちらもが私が為すべき責務ですから」
ジャンヌの瞳は少しも揺るがない。
それは日月が望んで止まない輝きそのものだった。
「はっ。迷いは晴れたってわけ。流石は聖女様ね」
日月は敢えてその言葉を嘲笑った。
その美しいまでの強さと潔白さは、日月にとって羨望とも嫉妬ともつかない複雑な感情を呼び起こす。
「日月さん」
「な、なによ」
エメラルドの様な輝きと頑なさを持った瞳が、真正面から日月の目を見据えた。
思わず日月の心臓が跳ねた。己の芯を見透かされるような錯覚を覚えてしまう。
「確かに私を聖女や救世主と持て囃す人もいます。ですが、私は自分の正しいと思う事を実行しているだけのどこにでもいる小娘にすぎません。
それが人々にとっても善き行いであると信じていますが、本当にそれが正しき行いなのか、常にその迷いは晴れることはありません」
ジャンヌの瞳が僅かに陰りを帯びる。
日月はその僅かな陰りに息を呑んだ。
彼女の中で迷いが晴れたのではない。迷いを抱えたまま、それでも迷うことなく前に進める。
それこそが、ジャンヌ・ストラスブールの強さであり輝きの源なのだ。
だがそれでも、これに負けたくないという炎も日月の中に宿っている。
「へぇ。じゃあ改めて聞くわ、あなたの『正しさ』って何?」
最初に出会った時のように、改めて問う。
その問いを受けたジャンヌは慌てるでもなく静かに答える。
「目の前にいる、傷ついた誰かを助けること。それが私の正義です」
今度こそはっきりと答える。
揺るがぬ言葉に、日月の胸が鋭く締めつけられた。
「自分が全てを救えると思うのは思い上がりじゃないの?」
「すべてを救えるなどと思い上がってはいません。ただ目に見える範囲、手の届く範囲だけは救いたい、それだけです。
そして、いつか私の救った誰かが同じ思いで誰かを救い、それがいつか世界を救う手になればいい。それが私の願いです」
善意は金貨のように流転するもの。
その金貨が巡り世界を少しだけ良くすればいい、そんなささやかな願いが込められた言葉だった。
だが、それが理想論に過ぎないことなど、ジャンヌ自身が誰よりも理解しているのだろう。
だからこそ、それを口にできる強さがあまりにも眩しい。
「その願いが、あの魔女を狂わせたのだとしても?」
その強すぎる光こそが、フレゼアのような影を生んだ。
その言葉に、ジャンヌの眼差しは悲しげに細められた。
「そうですね。それは否定できません。ですが、いつか彼女もその罪と向き合い救いが訪れる事を祈っています」
そう言って目を閉じて、ここにはいないフレゼアに向けて祈る。
そして静かに目を開き、目の前の日月を見つめた。
「もちろん、あなたにも」
祈りの矛先を向けられ、日月は一瞬言葉を失った。
果たして己は、何から、救われるというのか。
「私は、」
自分でも何を言葉にしようとしているのか分からないまま口を開く。
だが、その先を告げるよりも早く、ジャンヌが素早く視線を上げた。
「待って下さい。誰かいます――――」
ジャンヌの鋭い視線の先に見えるのは森林の暗がりだった。
警戒態勢を取り、身を低くして静かにその暗がりを見つめると、そこには月明かりに浮かぶ二つの影がある。
その影が、小さな少女のものであると気づいた瞬間、ジャンヌは迷うことなくその影に近づいて行った。
「ちょっと…………っ」
呆れの様な声を上げながらも、日月もその後を追った。
■
行く当てもなくとぼとぼと森を歩いていた叶苗の耳に、微かな物音が響いた。
獣人型の超力者の鋭敏な五感は、すぐに気配を察知して、身構えた。
鋼鉄の手甲が静かに光を反射する。
「失礼。少々よろしいでしょうか?」
木々の間から現れたのは、腰まで届く美しい金髪を持つ少女だった。
その凛とした佇まい、揺るぎない意志を感じさせる瞳は今の叶苗には目を潰しそうなほど眩しく映る。
その背後には、妖艶な雰囲気を纏ったもう一人の女性が続いていた。
「誰……?」
強い警戒心を持って叶苗が慎重に問いかける。
獣人の少女の目に宿る恐怖と動揺を見て取ったのか、現れた少女は敵意がないことを示すように静かに両手を挙げた。
「警戒しないでください、私たちに敵意はありません」
警戒心を溶かすような太陽の様な声。
その穏やかさに、叶苗の緊張が少しだけ緩む。
しかし、彼女は未だ怯えを隠せず、隣の幼い少女、アイを庇うようにして立ち塞がった。
「……私たちに関わらないで」
絞り出すように告げる叶苗の震える声に、背後の女が興味深そうに目を細める。
まるで喰い物にされた少女たちの匂いを敏感に嗅ぎ取るように。
「あら、随分とおびえているのね。何かあったのかしら?」
突き刺すような言葉に、叶苗は更に身を硬くした。
その表情は苦しげで、何か深い秘密を抱えていることが一目でわかった。
金髪の少女が鋭く黒髪の女を制止する。
「日月さん、怖がっています」
日月と呼ばれた女は軽く手を挙げて謝罪の意を示したが、その視線は依然として興味深く二人を見据えている。
少女は改めて叶苗に向き直り、視線を合わせるように膝をかがめ優しく問いかける。
「怯えないでください。私たちはこの場所で困っている者同士。
あなたたちが何に怯えているのか、よろしければお話を伺えますか? 私たちが何かの助けになれるかもしれません」
少女の慈愛に満ちた声に、叶苗は戸惑いを隠せなかった。
何か裏があるのではないかと疑ってしまうほどのまっすぐな善意。
このアビスで、いやこの変わり果てた世界でそんな言葉を聞いたのは初めてのことだ。
「私たちってあなたね……」
「よいではないですか。日月さんも事情を聴きたがっていたでしょう?」
別に2人の助けになりたくて聞こうとしたわけではなかったのか、面倒そうに女はあーと視線を逸らした。
だが、正直にそう言う訳にもいかず、なにか諦めたようにため息をついた。
「……しかたないわね。私は鑑日月よ。そっちは?」
「えっと……私は、氷藤叶苗です。こっちはアイちゃんです」
名を問われ思わず叶苗は名乗りを返した。
そして、その流れに従い最後の一人も名乗りを上げる。
「私はジャンヌ・ストラスブールです。よろしくお願いします。叶苗さん、アイさん」
「――――――――!」
その名を聞いて、叶苗は息を呑んだ。
顔までは知らずとも、叶苗だって名前くらいは聞いたことはあるフランスの聖女。
そしてキングが示した標的の一人、ジャンヌ・ストラスブールだ。
余りにも早い突然の出会いに、叶苗の心臓が激しく鼓動を打つ。
全身から汗がにじみ出て、呼吸が早くなって行く。
冷静になれと自分に言い聞かせるが、キングからの指示が脳裏を駆け巡り、焦燥が募る。
「大丈夫ですか……?」
その葛藤を知らぬジャンヌが、唐突に狼狽を始めた叶苗に優しく声を掛ける。
その瞳は、警戒よりもむしろ他者を慮る慈愛に満ちていた。
日月は横目で叶苗を鋭く観察していたが、何も言わず、ただ成り行きを見守っている。
叶苗は答えることが出来なかった。
ジャンヌのその瞳に映る慈悲の光が、自分の罪悪感を更に深めた。
「体調が悪いのでしたら、お話は後で構いませんので無理をせず少し休んでください」
ジャンヌが一歩踏み出す。
その動きに反応し、叶苗は僅かに後退る。
心臓が激しく鼓動を続け、キングの言葉が耳元で囁かれる。
(――――――やれ。この機を逃せば、次はないぞ)
自分を急き立てる内なる声。
その手に力が入り、手甲が微かに軋んだ。
だが同時に、もう一つの声が囁く。
(本当にそれでいいの……?)
視線が泳ぎ、手が震える。
罪を重ねる恐怖と、キングへの恐怖。
進むも引くも地獄しかない。
2つの恐れの板挟みになり、叶苗は身動きが取れなくなった。
そんな叶苗の異変を感じ取ったのか、アイが不安そうに彼女の手を掴む。
小さなその手の温もりに、叶苗の胸が痛んだ。
(私は、どうしたら……)
答えが見えない迷宮の中で、叶苗はただ震える自分自身を抱きしめるように、ぎゅっと目を閉じた。
そんな叶苗の迷いは繋いだ手を通してアイにも伝わり、彼女の本能的な不安を刺激する。
その不安がキングから受けた恐怖を思い出させたのか、アイは落ち着きを失って視線を激しく動かしながら唸り声を漏らし始めた。
叶苗はそんなアイの様子に気づくと、慌てて視線をアイに戻し握る手の力を強め、彼女の動きを宥めようとする。
しかし、その静止の意思が届く前に、アイは我慢の限界を超えていた。
「うぅぅあああああああぁぁぁぁぁぁっ!」
アイの咆哮が周囲に響き渡り、静寂を一瞬で引き裂く。
叶苗の手を振り切り、野生動物のように跳躍したアイは、恐怖と焦燥に駆られ眼前のジャンヌへと猛然と襲い掛かった。
「なっ!?」
ジャンヌは一瞬目を見開き、反射的に身構える。
そこは最前線で戦い続けた歴戦の聖女。
突撃するアイを見据え、予想外の奇襲にも冷静に防御態勢とって対処する。
年端もいかぬ小柄な少女の突撃ならば受けきれるという判断だろう。
両手をクロスしてアイの突撃を受け止める。
「くっ……!」
だが、彼女の掌がジャンヌの腕にぶつかった瞬間、重い衝撃がジャンヌの全身を震わせる。
アイの身体能力はその幼い体躯からは想像もつかないほど凄まじいものだった。
歯を食いしばり、衝撃を受け流そうとするジャンヌだが、アイの力はまさに圧倒的だった。
衝撃を殺したはずのジャンヌの体が大きく後方に弾き飛ばされる。
自ら跳ぶことでギリギリで倒れることなく踏みとどまれたが、この常識外れの力は間違いなく超力によるものだろう。
アイの超力は体格差により力を発揮する。
ジャンヌは小柄な少女だが、年端もいかないアイに比べれば当然いくらか大きい。
その怪力は岩をも砕く程の威力に達しており、直撃を受ければネイティブの肉体と言えども骨折は免れないだろう。
「ッ! おやめなさい…………!」
ジャンヌの叫びが夜に響く。
だが、その声はアイには届かない。
彼女はまるで恐怖に取り憑かれた獣のように、ただ目の前の脅威を排除しようとするばかりだった。
小柄な身体で繰り出される攻撃の一つ一つが鋭く、次々と迫ってくる。
ジャンヌは盾となるように焔の翼を広げた。
焔を推進力にして後方に引きながら、次々と襲いかかる激しい衝撃をその翼で逸らしていく。
逸らされたアイの攻撃によって地面が割れ、粉塵が舞い上がった。
「アイ、ちゃん…………」
その光景を叶苗は唖然と見ていることしかできなかった。
アイが暴走し、ジャンヌが傷つく姿を目の当たりにしながらも動けない自分自身への怒りと失望が胸の内で渦巻く。
アイがジャンヌを攻撃する姿に胸が引き裂かれるような痛みを感じ、しかし止めることもできずにいた。
なぜ自分はこうも無力なのか。
ジャンヌを狙えとキングに命じられたものの、未だに行動を起こすことができず、かといって未だに復讐以外の人殺しをして人間から外れる覚悟も持てない。
アイに加勢する事も、アイを止める事も出来ず、ただ傍観者のようにその戦いを見守る事しかできない。
なんて半端でどっちつかず。その半端さこそが何よりも罪深い。
何もできないという己が罪科に惑う。
そんな叶苗の視界に映ったのは、アイの猛攻にただ耐え続けるジャンヌの姿だった。
荒々しい攻撃を受け続け、焔の翼が火花を散らす。
「くっ……!」
焔の隙間を縫ったアイの小さな拳がジャンヌの腕を掠め、鋭い痛みが身体を走った。
その膂力は聖女をよろめかせ、想像できないほどの強大な力に勢いよく弾き飛ばされる。
だが、攻撃を受け続ける身体は悲鳴を上げているが、彼女の精神は折れない。
地面に倒れこんだジャンヌは泥だらけになりながら不屈を示すように即座に立ち上がった。
荒い呼吸を整えながら、不安そうに2人の争いを見つめる叶苗に眼差しを向ける。
そして、戦いの最中にも拘わらず彼女を安心させるように笑みを作った。
このような状況で見せるその慈悲の笑みは、もはや狂気すら感じさせた。
それで、気づいた。
「なんで、何もしてこないの……?」
理解できないと言った風に叶苗の口から零れた呟きは震えていた。
その声には動揺と混乱が交じり合い、胸の奥で渦巻く苦しみを滲ませている。
ジャンヌはその焔を一度たりとも攻撃に使ってはいない。
焔の翼はあくまで攻撃を逸らすだけに留め、ただ黙々とその攻撃を受け止めている。
彼女の表情には痛みや戸惑いよりも、むしろ悲しみや慈愛に似た色が浮かんでいる。
先に仕掛けたのはこちらだ。
攻撃を仕掛けた以上、殺されても仕方がない。
それが彼女たちの生きる世界の掟だ。
なぜ反撃しないのか、なぜ抵抗しないのか、全く理解できなかった。
叶苗の問いにジャンヌは答えない。
ジャンヌはなおも攻撃を受け止めながら、その場を一歩も譲らず耐え続ける。
その姿はまるで、暴風雨に打たれながらも揺るがない岩のようだった。
そしてもう一人、日月もまた一歩下がった位置でこの状況を冷静に見つめていた。
彼女の表情は変わらなかったが、その瞳には微かな焦燥が見え隠れしている。
偶像としてのその信念がどこまで貫けるのか確かめたい気持ちもあるが、どういう訳かジャンヌが傷つく姿を見ているのは不快だった。
「何やってんのよジャンヌ! 反撃なさい!」
「なりません…………!」
語気を荒げた日月の言葉を跳ねのける。
彼女がその気になればフレゼアのように一蹴出来るはずだ。
だがジャンヌは、いくら攻撃されようとも決して反撃をしようとはしなかった。
「この子は本気で攻撃しているわけではありません。ただ怯えているだけです……誰かを傷つけようとしている訳ではない」
ジャンヌの翡翠色の瞳は、襲い掛かるアイの動きを静かに捉え続けていた。
その瞳に映るのは、理不尽な敵意でも暴力的な怒りでもない、ただひたすらに追い詰められ恐怖する小動物に対する憐れみや慈しみのような感情である。
アイの眼は恐怖と困惑で揺れ、叫び声は人間というより追い詰められた獣のそれに近かった。
常に弱者の味方足らんとする想いこそがジャンヌの信念だ。
そして、彼女はどのような状況であろうとも己が信念を貫く。
そのためなら自分の命を犠牲にすることさえ厭わない。
そんな彼女が、怯えて惑っているだけの子供を切り捨てるなどどうしてできよう。
たとえ自分が傷つこうとも、守るべき弱者を攻撃することなど許されるはずがない。
ジャンヌ・ストラスブールは、そのように生きてきた。
何より、己の目で罪科を見定めると決めた以上、それを投げ出すことなど許されるはずもない。
その言葉に、叶苗の胸が激しく乱された。
理不尽に襲われている状況にありながら、ジャンヌはアイを理解し、相手の心に寄り添おうとしている。
この地の底でも穢れぬことなく貫かれるその心こそが、何よりも叶苗を鋭く突き刺した。
だが、その強さはアイの混乱をさらに強めた。
目の前の少女は一切攻撃を返さず、ただ静かに自分を見つめている。
その瞳には非難も怒りもない。ただ深く悲しげで、慈しみに満ちていた。
その視線がアイの心に少しずつ、だが確実に影響を与えていた。
アイの瞳が激しく揺れ、呼吸が乱れている。
単純な話だ、誰だって理解できないものは恐ろしい。
弱肉強食の掟に縛られた自然界には存在しない、生存本能を上回る信念と言う名の狂気。
ジャンヌのその狂気(しんねん)は野生の世界で生きてきたアイには理解不能なものだった。
迷いと恐怖が交錯するその顔は、まるで迷子の幼子のようだった。
その瞳にはキングに対する恐怖。ジャンヌに対する恐怖と戸惑いが入り交じっている。
それでもなお、彼女はそのどちらからも逃げることなく戦い続ける。
何故なら、アイの瞳の奥にはそれを上回る別の闘志が宿っていた。
「…………かなえ…………まもる……っ!」
アイの口から零れたその言葉に叶苗に衝撃が奔った。
アイを突き動かしたのはキングへの恐怖だけではなかった。
自分がキングの圧力に屈していることが、アイの精神を追い詰めてしまったのだ。
アイにとって守るべき存在である自分が、アイを最も傷つけ追い詰めてしまっていた。
その現実が胸を張り裂くほどの痛みとなって叶苗を苦しめる。
「もういい、もうやめて……! アイちゃん、お願いだから……!」
叶苗は悲痛な声で訴えかける。
だが、彼女の声ですらも今のアイの耳には届かなかった。
暴れるアイの瞳には涙が滲んでおり、彼女自身がその衝動を止めることができないことを物語っていた。
彼女自身ももう、何をすれば良いのかわからなくなっていた。
攻撃を続ける意味も、止める理由も、自分には理解できない。
ただ体の奥底にある本能だけが暴走しているようだった。
「うああああああぁぁぁぁっ!」
アイは己の迷いを振り切るかのように叫び、再びジャンヌへと突進した。
彼女自身が恐怖と混乱に飲み込まれ、暴力を振るうことしか自らを守る術を知らないかのように。
アイはその混乱を振り払うようにさらに強力な一撃を放った。
ジャンヌは咄嗟に焔の翼を前方に展開し、防御を固めるがその一撃はあまりにも重く。
衝撃で後方へ吹き飛ばされ、叩きつけられるように地面を転がった。
「…………くっ」
泥まみれになったジャンヌの身体は、土と血で汚れていた。
焔の翼も所々が黒く焦げ、火花を散らしながらうねっている。
それでも彼女は、折れそうになる膝を叱咤しながら、ゆっくりと立ち上がった。
その眼差しには依然として揺るぎない強さがあった。
「ぐるるるるるううぅぅぅぅ――――――っ!!」
アイは獣のような叫びを上げ、倒れかけたジャンヌに止めを刺すように飛びかかった。
その瞳は涙に濡れ、混乱と恐怖で理性を失っていた。小さな拳が、決死の一撃として振り下ろされる。
「――――――――――アイちゃん……!」
必死な叫びを上げながら叶苗が、ジャンヌとアイの間に飛び込んだ。
自分がこのままではアイを破滅に追い込んでしまう、そんな恐怖と自責が彼女の背を押した。
彼女の瞳からはぽろぽろと涙が零れ落ち、悲痛な嗚咽が森の中に響き渡った。
叶苗が割り込んだ瞬間、アイの拳が彼女の胸を強く打った。
胸骨に重い衝撃が走り、激しい痛みが全身を貫く。息が一瞬止まり、目の前が暗転した。
その瞬間、アイの瞳が恐怖に染まった。叶苗を傷つけてしまったことに気づいた彼女は、一瞬息を詰まらせ、震える拳をじっと見つめていた。
「ぐっ……ぁあっ……!」
だが、その一撃が割り込んできた体格差の小さい叶苗に向けられた攻撃だったのが幸いしたのだろう。
苦痛に喘ぎながらも、叶苗は倒れまいと踏ん張り、震える腕でアイの身体を強く抱き締めた。
その衝撃は痛烈だったが、それ以上に自分のために暴走したアイを止められなかった悲しみが叶苗の胸を締め付けていた。
「ごめんね……ごめんね、アイちゃん……」
彼女は声を震わせ、涙を溢れさせながら繰り返し謝った。
自分が人殺しになるのを怖れて逃げたくせに、アイにはそれを背負わせようとしていた。
守ると誓ったはずのこの子に、最も重い罪を背負わせかけた自責の念がが、刃より鋭く心を裂いていた。
叶苗を打ってしまったアイはパニックに陥りその腕の中でもがき続けたが、やがてその激しい動きは弱まり、嗚咽を漏らし始めた。
「あぅぅ…………あぅぅ…………っ」
アイは嗚咽を漏らし、叶苗もまた涙を流しながら彼女を強く抱き締める。
叶苗の胸に刻まれたその痛みは、彼女自身の罪悪感を一層深くするものだったが、
同時にそれは彼女が再び人としての道を踏み外すことを止めてくれた、大切な痛みでもあった。
その光景をジャンヌは静かに見つめていた。
叶苗の必死の行動によって、張り詰めていた空気は静寂へと変わる。
木々の隙間を抜ける微かな風だけが、森の奥深くで静かに囁いていた。
「まったく、随分と手間をかけさせてくれたわね」
その冷静で皮肉の混じった声が、沈黙を破った。
叶苗と同じく、成り行きを見守っていた日月だ。
彼女の瞳には微かな苛立ちが入り混じっていた。
叶苗はぎくりとして、日月の鋭い眼差しに気圧される。
その非難の目からアイを守るべく必死に言葉を探したが、喉が詰まって何も出てこない。
日月はそんな叶苗の動揺を見透かしたように小さくため息をつき、堂々とジャンヌと叶苗たちの間に割り込んだ。
「日月さん」
「分かってるわ。この娘たちにもそれなりの事情があるんでしょう。切羽詰まった事情が、ね」
日月はわざとらしく肩をすくめながら、場の空気を測るように視線を巡らせた。
視線の先には、泣き疲れたアイと、その背を支える叶苗の姿。
少し前まで暴れていた獣が、今は怯えた子猫のように縮こまっている。
その姿を見て、日月は軽く鼻を鳴らした。
「……まぁ、感傷に浸るのは勝手だけど」
目を細め、氷のような落ち着いた声で続ける。
「でも、その事情くらいは話してもらわないとね。
一方的に殴られたこっちには聞く権利くらいあるでしょう?」
襲われた本人ではない日月の口調はどこか傲慢で皮肉めいていたが、ジャンヌもその問いには同意するように静かに頷く。
「……話してもらえますか?」
ジャンヌの優しくも真摯な問いかけに促され、叶苗は迷いながらもゆっくりと口を開き、事情を語り始めた。
紆余曲折を経て、ようやく最初のやり取りに戻れたようだった。
キングとの取引、復讐のための殺人、そしてアイを守り故郷へ帰すための条件。
叶苗が声を震わせながら事情を語り終えると、静かな風が深い森を通り抜け葉擦れの音が微かに響いた。
朝の近づいてきた森の中に沈黙が落ちる。
ジャンヌ・ストラスブールは叶苗の話を聞き終えた後も、しばらく黙ったままだった。
緩やかに吹き抜ける風が彼女の金色の髪を撫で、翡翠色の瞳には複雑な感情が浮かんでいる。
傍らの日月もまた静かに話を聞き、思案するように漆黒の長髪を指で弄んでいた。
静かに耳を傾けていたジャンヌだったが、全てを聞き終えるとその瞳が一瞬だけ冷たく細まった。
その話に出た牧師――ルーサー・キングの名。
弱みに漬け込み利用するやり方に内心で静かに怒りを燃やしていた。
ジャンヌの気配に合わせて、その場の空気は再び凍り付いたように感じられた。
少女たちの怯えの様な感情をいち早く察したジャンヌは、すぐにその感情を吐き出すようにそっと吐息を漏らした。
「よく話してくれましたね。つらかったでしょう」
そう言って、俯く叶苗とアイを労うように手を重ねる。
自分の感情をひとまず横に置いておき、叶苗とアイへと寄り添うことを第一とする。
その在り方こそがジャンヌ・ストラスブールであり、何こそ日月の心をざわつかせる。
「馬鹿な真似をしたものね。あのルーサー・キングに取引を持ち掛けるなんて」
日月はその苛立ちを吐き出すように、強い言葉を少女にぶつける。
叶苗は日月の言葉に痛みを感じ、うつむいたまま唇を噛みしめた。
「あの男がそんな約束を守るとは到底思えません。利用され、最後は使い捨てられるのがオチでしょう」
ルーサー・キングという男を否定するジャンヌのその言葉に、日月は静かに首を振った。
「それは違うわ。遂行すれば約束は必ず守られるわ」
裏社会を渡り歩いてきた日月には分かる。
裏社会における契約とは、そういうものだ。
裏社会を牛耳る大首領がその掟を破るはずがない。
「だからこそ、一度関わったら終わり。そもそも関わるべきではないし、関わりを断つにはどちらかが死ぬしかない」
彼女は瞳に冷徹な光を宿しながら、静かに続ける。
約束は破られるのではなく、約束は守られる。何があっても。
だからこそ性質が悪い。
ルーサー・キングはただの犯罪者ではない。欧州裏社会を牛耳る怪物である。
そういう男に狙われている以上、生き残るには別のやり方を考える必要がある。
「だけど、これは見方を変えればチャンスでもある」
「チャンス……?」
叶苗は戸惑いながら日月を見つめ返した。
日月は薄く唇を吊り上げ、酷薄な笑みを浮かべ続ける。
「その男が自ら合流場所と時間を指定してきたのよね。それならば、逆にこちらから仕掛けることも可能なはずよ」
日月の言葉を聞いた瞬間、ジャンヌの瞳が鋭くなった。
彼女は日月の真意を探るようにじっと視線を注ぐ。
「キングを仕留めるために彼女たちを利用しようということですか?」
「ええ、そうよ」
日月はあっさりと頷いた。
第2回放送直後、島北西部の港湾にルーサー・キングは現れる。
この状況を利用しない手はない。
「あなたたちは、奴にとって取るに足らない駒にすぎない。だからこそ、そこを逆手に取れる可能性がある」
叶苗は息を飲み、ジャンヌは険しい顔で日月を見つめた。
アイはただ、不安そうに叶苗の腕を掴んでいる。
「報告の為にデジタルウォッチの履歴を見せるのでしょう?
刑務作業のルールでデジタルウォッチの取り外しが許されない以上、奴は確実にあなたに接近することになる。
そこに攻撃を仕掛けるチャンスがある。初手さえ通れば後は待ち伏せていた全員で叩く。奴を出し抜くにはこれしかないわ。
ジャンヌは宿敵を倒せて、あなたたちは解放される。私にとっても脅威を一つ消すことになって、ついでに世界も少しはきれいになる。ほら、全員が得する話でしょう?」
日月の提案は明快で、非情なほど合理的だった。
ジャンヌはしばし沈黙し、叶苗とアイ、そして日月の顔を静かに見つめた。
その眼差しには、決して揺らぐことのない決意と、彼女自身が背負ってきた数多の苦難の重みが宿っていた。
「その提案は、確かに理に適っているかもしれません。キングを倒すべき、という方針にも賛同します。
ですが、この子たちを『駒』や『囮』にするやり方は、決して容認できません」
ジャンヌの毅然とした瞳に厳しい色が浮かんでいた。
日月はその視線を受け止め、僅かに冷笑を浮かべながら返す。
「それは甘すぎでしょう。子供だろうと関係ない。自分の招き寄せた事なんだから責任は自分で取るべきでしょう。
何もしないまま解決だけしてほしいなんて、都合がよすぎる。あなた達だって、このまま追い詰められていくだけよりマシでしょう?」
ねぇと日月は叶苗とアイへ視線を移した。
怯えるように身を寄せ合う二人は答えられない。
「…………私は、どうしたら」
叶苗は苦悩に満ちた小さな呟きを漏らした。
その声には、途方もない迷いと怯えが濃く滲んでいた。
キングに攻撃を仕掛ける?
あの威圧感と恐怖は身体の芯にまで刻まれ、考えるだけで全身が震える。
かといって、このままキングに従い、他人の命を犠牲にするのもまた同じくらい恐ろしいことだった。
「どうすればいいか、じゃないわ」
日月は静かに、しかし確かな圧力を込めて叶苗を見つめ、鋭く告げた。
「どうしたいのか、よ」
その言葉が叶苗の胸に突き刺さった。
彼女の耳元で心音が激しく脈打った。
「あなたは今、選ばなきゃいけないの。牧師の言いなりになって、他人の命を犠牲にしてでも生き延びるか。
それとも、自分自身のために戦うのか」
叶苗の視界が揺れる。
その中で、彼女は改めて自分自身の内側を覗き込んだ。
復讐を果たすこと、アイを守り抜くこと――本当に望むことは何か?
叶苗はゆっくりと、自分自身の心に問いかける。
「……私、は…………」
心の迷宮に迷い込んだ叶苗の肩に、そっとジャンヌの手が置かれた。
ジャンヌは日月の厳しい言葉を責めることもせず、小さく頷いて静かな息を吐く。
「そこまでにしておきましょう。
キングという男がどれほど恐ろしい存在かは、私自身がよく知っています。
私の全てを奪ったのもまた、あの男とその組織ですから」
ジャンヌの瞳には深く刻まれた過去の痛みが浮かんでいた。
叶苗が抱く恐怖や葛藤は、誰よりもジャンヌ自身が理解している。
「私の人生は既に多くを失い、奪われました。だからこそ私は、同じように奪われ苦しむ人々がこれ以上増えることを許すわけにはいきません。
この子たちはもう十分に傷ついた――これ以上巻き込むべきではありません」
だからこそ、その痛みを抉るような行為を他者に強要することはできない。
ジャンヌの言葉は静かな決意を帯びていた。
「ならどうするっていうの? このまま放っておく? 私はそれでもいいけど」
放っておいてもアイたちの運命がキングに縛られた状況は解決しない。
お前にそれが出来るのかと皮肉に満ちた言葉で日月はジャンヌを挑発した。
だがジャンヌは動じず、迷いのない口調で静かに告げる。
「キングが私を標的にした以上、これは私自身の戦いです。だから私の手で決着をつけます」
「……私の手で? まさか一人で戦うつもり?」
荒げられる日月の声には焦りと苛立ちが混じっていた。
「あなたが死んだら、それこそ奴の思うつぼよ。
ましてや一度敗れた相手なんでしょう? あなた一人で勝てると本気で思ってるの?」
日月はジャンヌの行動を批判する。
自分の命を狙っている男の前に単身赴くなど正気の沙汰ではない。
ジャンヌはその言葉に少しだけ穏やかな表情を作り、静かに頭を下げた。
「私のことを心配してくださっているのですね。ありがとうございます」
「な、に……を?」
その瞬間、日月は戸惑いで言葉を失った。
ジャンヌの表情はどこまでも人間らしく――神聖さよりもむしろ、ただの少女らしい微笑みだった。
「ですが、やはり私は身勝手な小娘なのです。自分の我侭を貫く、それだけしかできない」
小さな罪を告白するような、寂しげで儚い言葉。
神聖さなどない少女の表情。
その姿が、何よりも日月の胸を揺さぶる。
「日月さん、あの子たちの事をどうかお願いできませんか?」
「……どうして、私がそんなことを」
日月は動揺を隠すように突き放した。
だがジャンヌは、少しだけ微笑みを浮かべ、はっきりと答えを返す。
「貴女は、親切な人ですから」
今度こそ日月は言葉を失い、瞳が揺れた。
その視線には戸惑いと、何よりも彼女自身が抱えているジャンヌへの複雑な感情が交錯していた。
それは恐怖にも似た感情だった。
これまでのやり取りで日月の冷淡で冷酷な面を知らぬわけではあるまい。
それを理解した上で、ジャンヌの瞳に皮肉や嘲りはなく、ただ純粋な信頼と感謝だけが宿っている。
「あなたには無関係なことなのに、一緒に考えてくれました。それだけで、私には十分です」
キングとの因縁は叶苗たちとジャンヌのものだ。
日月には無関係な事であるはずなのに、どうするべきか彼女なりに真剣に考えてくれた。
彼女にとってはそれだけで十分だった。
偶像からの感謝に喜ぶ自分がいる。
同時に、その無垢な言葉を迷いなく言えるジャンヌに嫉妬する自分もいた。
羨望と嫉妬で相手と自分を同時に殺したくなった。
「…………ジャンヌさん」
叶苗は胸を締め付けられ、涙をこぼしながら顔を上げた。
自分達がこんな状況に陥ったのも、もとを辿ればキングの策略に翻弄された結果である。
だがそれでも、このジャンヌという少女は自分たちを守ろうとしている。
「私のせいでごめんなさい……でも、私にはもうどうしたらいいのか……」
叶苗の声は震え、その言葉はかすれた。
ジャンヌは叶苗へと振り返ると片膝をついて視線を合わせる。
彼女を振り向いたその眼差しは、慈悲深くも厳しいものだった。
「叶苗さん。私も己が苦境を変えようと自らの意思で剣を取った身、貴女の復讐という行いを非難できる立場にはありません。
ですが、今回の件を脅されただけだから貴女は悪くない、とは私は言いません。
貴女にも間違いがあり、罪があります――それをまず受け入れなくてはなりません」
あなたは悪くなかった、などと言う安易な赦しを与えない。
それが聖女としてのジャンヌの厳しさであり、慈悲そのものだった。
「私たちは皆罪を背負いし咎人。大切なのは、自分の罪とどう向き合い、これから何をすべきかだと、私は思っています。
貴女の罪に答えを出せるのは、きっと貴女自身だけです」
罪を背負いそれでも前に進めるのか。
その言葉は叶苗の心に深く響き渡った。
アイもまた言葉は分からずとも、じっとジャンヌを見つめその心を見つめていた。
「どうか復讐の連鎖に囚われず、貴女の心に救いがありますように」
そう言って両手を合わせ祈りを捧げる。
祈りを捧げるジャンヌの姿は、夜明けの光の中で神聖に輝いていた。
祈り終えた彼女は、最後に叶苗たちへ視線を向ける。
「大丈夫。あの男のことは、私が必ず」
それは誓いのような決意に満ちた静かな宣言だった。
ジャンヌは静かに息を整えると、決然とした瞳で白み始めた空を見つめた。
夜の名残を残す光が微かに差し込み、彼女の金髪を淡く照らす。
まだようやく早朝を迎えようという時刻だ。
合流時刻までは6時間以上の猶予があるが、道中どのようなアクシデントがあるかわからない。
今のうちに旅立って早すぎるという事はないだろう。
そうしてジャンヌは3人に向かって一礼すると、振り返ることなく踏み出した。
その背中は凛とした騎士のようであり、孤独な殉教者のようでもある。
胸の奥で燃える静かな怒りと覚悟の炎はもはや彼女自身をも包み込み、決して消えることなく開け始めた夜を照らす光のように煌々と輝いていた。
彼女の目指す合流地点には、あの恐るべき男――ルーサー・キングが待ち受けている。
手痛い敗北を期そうともその心は折れていない。
彼女は一人、運命の待つ戦いに赴こうとしていた。
残された日月たちは、ただ呆然とその背中を見送るしかなかった。
やがてジャンヌの姿が完全に見えなくなった後、日月は小さく舌打ちをして目を伏せる。
「……結局、私は何もできないのね」
自嘲を帯びたその呟きが、朝霧の立ち込め始めた森に儚く溶けていく。
心の奥底で渦巻いているのは、どうしようもない悔しさだった。
結局、アイドルとして歯牙にも掛けられていない。
一方的に憧れて、一方的に敵視して、最初から最後まで日月の独り相撲だ。
結局、ジャンヌはどんな過酷な状況でも崩れることなくその心は眩しく輝き続けていた。
醜さと美しさ。その矛盾を制御して、最後まで偶像であり続けた。
「……やっぱり、あなたには勝てないってことなのかしら……」
呟く言葉には苛立ちと、どこか哀しげな響きがあった。
鑑日月という女は、常に自らの欲望に忠実だった。
今だって、醜い嫉妬と悪辣さを抑えられず己が醜さに振り回されている。
ジャンヌを前にすると浮かび上がる、輝きとは程遠い自分自身の醜さと弱さこそが本当に憎かった。
「……あの、日月さん」
遠慮がちにかけられた声に、日月はゆっくりと振り返る。
視線の先では、氷藤叶苗が怯えたように立ち尽くしていた。
その背後にいるアイもまた、不安そうな瞳でこちらを見つめている。
(……私に、何をしろって言うのよ……)
この少女たちを連れて行くことに、何の意味があるのだろう。
ただの荷物であり、厄介者だ。
彼女たちを助けたところで、自分が望む舞台(ステージ)への道には何の近道にもならない。
だが、その考えに至った瞬間、ジャンヌの最後の言葉が頭をよぎった。
――あなたは親切な人ですから。
日月の悪辣さを知りながら、ジャンヌが答えた小さな光。
求める答えには程遠いその言葉は、皮肉なほどに日月の胸を締めつけた。
「本当に馬鹿みたい……」
小さく息を吐くと、日月は苛立ったように踵を返し、二人の前へとゆっくり歩み寄った。
「行くわよ。とりあえず、安全な場所を探す。あなたたちをこんな場所に置いておくわけにはいかないから」
叶苗とアイは驚いたように目を見開き、戸惑いながらも日月の後に続く。
日月は歩き出しながら、再び小さく呟いた。
「ジャンヌ、あなたが間違ってるって証明してあげるわ……私は、そんな優しい人間じゃない……」
その言葉には強がりが込められていたが、皮肉にもそれは誰よりも自分自身への問いかけに近かった。
【D-5/草原/1日目・早朝】
【ジャンヌ・ストラスブール】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(大)、右脇腹に火傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.正義を貫く。だが、その為に何をすべきか?
1.ルーサー・キングとの合流地点(港湾)を目指す。
2.フレゼアを追いたい。
3.刑務の是非、受刑者達の意志と向き合いたい。
※ジャンヌが対立していた『欧州一帯に根を張る巨大犯罪組織』の総元締めがルーサー・キングです。
※ジャンヌの刑罰は『終身刑』ですが、アビスでは『無期懲役』と同等の扱いです。
【D-6/草原近くの森/1日目・早朝】
【鑑 日月】
[状態]:疲労(小)、肉体の各所に火傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.アビスからの出獄を目指す。手段は問わない
1.ジャンヌに対する葛藤と嫉妬を抱えつつ、彼女の望み通りに叶苗とアイを保護する。
2.ジャンヌ・ストラスブールには負けたくない。彼女を超えて、自分が真の偶像(アイドル)であることを証明したい。
【アイ】
[状態]:全身にダメージ(中)、疲労(中)、恐怖と動揺
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.故郷のジャングルに帰りたい。
1.(かなえを傷つけたくない、でもどうすればいいかわからない)
2.(あいつ(ルーサー・キング)は、すごくこわい)
3.(ここはどこだろう?)
4.(ぶらっどすとーく?ずっとむかしきいたような、わからないような……)
【氷藤 叶苗】
[状態]:胴体にダメージ(中)、罪悪感、尻尾に捻挫、身体全体に軽い傷や打撲、刑務服のシャツのボタンが全部取れている
[道具]:鋼鉄製の手甲(ルーサーから与えられた武器)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.家族の仇(ブラッドストーク)を探し出して仕留める。
1.アイちゃんを助けたい。
※ルーサー・キングから依頼を受けました。
①ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、恵波流都、エンダ・Y・カクレヤマ。
以上5名とその他の“目ぼしい受刑者”を対象に、最低3名の殺害。
②1人につき15万ユーロの報酬。4名以上の殺害でも成果に応じて追加報酬を与える。協力者を作って折半や譲渡を約束しても構わない。
③遂行の確認は恩赦ポイントの回収履歴、および首輪現物の確認で行う。
④第2回放送直後、B-2の港湾で合流して途中経過や意思の確認を行う。
④依頼達成の際には恩赦後のアイの安全と帰還を保障する。
[共通備考]
※デジタルウォッチには恩赦ポイントの増減履歴を参照する機能があります。
どの受刑者の首輪からポイントを回収したのかを確認することも可能です。
※首輪には装着者を識別する囚人番号と個人名が刻まれています。
※交換リストに「参加者詳細名簿-80P」があります。
最終更新:2025年06月08日 13:42