随伴現象説

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随伴現象説 - (2011/01/19 (水) 00:47:52) の編集履歴(バックアップ)



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概説

随伴現象説(ずいはんげんしょうせつ、英:Epiphenomenalism)とは、物質的な脳と精神的な現象との因果関係についての仮説で、「意識やクオリアは物質の状態に付随しているだけの現象にすぎず、物質にたいして何の作用ももたらさない」とするもの。すなわち、意識は脳の活動に付随するだけの副産物のようなものにすぎず、因果的に無力な存在だと考える立場のこと。

随伴現象説を唱える論者はその前提として、物質と意識を何らかの意味で別の存在であると捉える二元論的な立場である。しかし物質と意識はそれぞれ別の実体とみなしているわけでなく、唯一の実体の二つの性質とみなす性質二元論的な立場であり、存在論的には一元論となり、その点が実体二元論とは異なるので注意が必要である。随伴現象説と対立する立場に相互作用説がある。

工場と煙の比喩

随伴現象説の考え方を説明する場合、例え話として『工場と煙』の話が使われることが多い。煙突をもったある工場の稼動状況と、煙はどんな関係にあるだろうか? 工場で生産を始めると煙突からは煙が昇り、生産を止めてしまえば煙も止まるだろう。しかしこれと逆のことは無い。つまり煙が出てきた事が原因となって突然工場が生産を始めたり、煙がなくなったことが原因となって生産が勝手に止まるなどということはありえない。

つまり原因と結果の関係は工場から煙への一方向だけであり、煙から工場に対しては何の因果的作用もない。随伴現象説は物質と意識に関して、これと同様の関係を主張する。つまり工場=物質、煙=意識、として上の文章を書き換えると、

  • 意識の状態は脳の物理的な状態によって決まるが、意識は脳の物理的な状態に対して何の影響も及ぼさない。
これが随伴現象説の主張である。

利点

随伴現象説は、物理世界は物理世界だけで因果的に閉じていると考える(専門的にいうならば随伴現象説は物理領域の因果的閉包性を前提としている)ため、物理学との相性はおおむね良い。随伴現象説を採用するならば、今の物理学を改変したり否定したりする必要は特になく、物理学と戦う必要性が基本的にない。そのため科学的な素養を持っている人々からは受け入れやすい考え方となっており、例えば歴史的にはハクスレー、現代ならばチャーマーズや茂木健一郎などが随伴現象説の立場をとっている。

問題点

随伴現象説に関する問題点としては、次の二つがよく知られている。 ひとつめは次のようなものである。
  • 意識が物理現象にたいして何の影響も及ぼさないなら、そんな意識などあってもなくても、どちらでも良いのではないか? 物理現象にぶら下がっているだけの付属物、という意味で因果的提灯(いんがてきちょうちん)という指摘がある。

もうひとつの問題点は、
  • 意識が物理状態に対して何の影響も及ぼさないなら、なぜ私達は意識やクオリアについて、語れているのか?
というものである。物理的存在としての脳細胞に「赤」や「痛み」といった意識やクオリアの情報が現実にあるわけであるが、随伴現象説によると、意識、クオリアからこういう情報はインプットされるはずがない。こういう情報は脳細胞はいったいどこから仕入れてきたのか? 意識が物理現象に対して何の影響も及ぼさないというなら、私達が意識やクオリアについて「語れている」のはなぜなのだろうか。この問題は現象判断のパラドックスと呼ばれている。

補足

随伴現象説を忠実に採用するならば、全ての意識には、それに対応する物理状態が必ず存在するわけであり、意識の世界だけで起きた反応というものは全く存在しないので、現象報告のパラドックスは存在しない。これは意識が生成されるプロセスに対する見地の相違はあるものの、スピノザが考える中立一元論と存在論的には類似の立場であり、廣松渉は同一本体相貌説という。