無内包の現実性


本稿は拙論「映画『マトリックス』で考える現実と真実」から第6節「無内包の現実性」を抜粋し、atwiki用に修正したものである。

本稿に対する入不二氏のコメントも参照されたし。

本稿に関連したものとして本サイトの『現代哲学ラボ 第4号 永井均の無内包の現実性とは?』の書評も参照されたし。


無内包の現実性

入不二基義と永井均の「無内包の現実性」の相違と問題点を検証する。

入不二によれば「現実に」と言う場合、その「現実に」は遍在的に作用し、夢や幻などの非現実も包括し、さらに可能性や必然性といった様相をも包括する極限的に広い意味であり、「絶対現実」と呼ばれるている。絶対現実はただ「あるようにある」だけであり、現実であることは現実の内容に依存しないので、その意味で絶対現実は無内包の現実性とも言い換えられている*1。無内包の現実性は世界の「存在」の全を包括している。

しかし永井が言う無内包の現実性は、永井の哲学である独在論と不可分であり、〈私〉という開闢点・中心性を持っている。これが遍在的で脱中心性を志向する入不二の無内包の現実性との相違である。複雑なことに永井は入不二と同じ意味で無内包の現実性を使っている場合がある。整理すると永井が言う無内包の現実性は以下のように二分される。

[入不二的現実]: 「現実」とは、内包に依拠せず現実であるという意味で無内包の現実性である
[永井的現実] : 〈私〉とは無内包の現実性である(独在性)

二つの相違を一見して理解できる者はいないだろうから説明しよう。[入不二的現実]の方は入不二とほぼ同様の意味での無内包の現実性である。[永井的現実]の方は「〈私〉とは何であるか」、また「永井均がなぜ〈私〉であるのか」という独在性の問題についての主張であり、独在性そのものが無内包の現実性とイコールとされている*2

永井は自分の身体や意識がそのままでありながら〈私〉が他人となり得ること、即ち世界の開闢点が変わり得るという思考実験を行っている。たとえば自分が安倍晋三と入れ替わることは思考可能だとしている。つまり[永井的現実]においては無内包の現実性じたいが「固体化」されて扱われている。もちろん永井自身は無内包の現実性=独在性がそのような問題として見られることを危惧して次のように書いている。

永井の〈私〉が安倍に移る、などと理解してはならない。そう理解されてしまえばすべては台無しである。安倍の心身へと移行するのは、あくまでも〈世界がそこから開けている唯一の原点〉である。*3

しかし私は、永井は上の〈私〉を固体化して扱っていると解釈せざるを得ない。その根拠は以下のようなものである。

永井が言う〈世界がそこから開けている唯一の原点〉の移行とは、即ち〈私〉の開闢点が永井均であることが「現実」であることが、〈私〉の開闢点が安倍晋三であることが「現実」になるということである。

「〈私〉が安倍晋三であることが現実になる」という場合、永井の場合は〈私〉も「現実」も共に無内包の現実性を意味するのだが、前者は[永井的現実]であり、後者は[入不二的現実]である。この違いがなければ上の言葉は「現実が安倍晋三であることが現実になる」と単に可能的なもが現実化するという「様相変化」を示すのみで、「世界の開闢点の変化」は示されない。

これが仮に、この世界では永井以外の人物が皆そこから固有の無内包の現実性としての世界を開闢していない哲学的ゾンビのような存在――現実性ゾンビなら別である。「現実」=〈私〉であるのは永井だけなのだから、「現実が安倍晋三であることが現実になる」という言葉は世界の開闢点の変化を示すことができる。しかし安倍晋三が既に「現実」であるとするならば、世界の開闢点の変化を示すために[入不二的現実]とは異なるものが必要なのであり、それが個体化された無内包の現実性である[永井的現実]なのである。

また仮に「現実」の意味が([永井的現実]として)唯一だとすると、永井均が身体も精神もそのままの状態で「現実」のみが安倍晋三に移動(世界の開闢点が移動)したら、永井均は「痛み」を感じていてもその痛みは現実に痛くない痛みという矛盾したものになってしまう。現実性ゾンビとは矛盾した存在である。

私はここで「現実」を(実質的に)二つに分けた永井が間違っていると批判しているのではない。二つに分けたことは「正しい」と私は考えている。理由は後述するが、永井が言う「無内包の現実性としての〈私〉」は、実際は有内包(個体)の現実性であるというのが私の主張の核心である。

実は永井の思考実験には実在性(reality)と現実性(actuality)の差異が前提されており、それが世界の開闢点の遷移が思考可能だとする根拠となっている。世界には肉体と精神を持っている多くの人物が「実在」しているが、その中で怪我をすれば「現実」に痛いのは私だけだ、という語り方で「実在」と「現実」を使い分けている*4。この使い分けはカントにまで遡る。

カントはアンセルムスによる神の存在証明を批判し、「〈存在〉は事象内容的(レアール)な述語ではない」、また「現実の百ターレルは可能的な百ターレル以上の概念を含んでいない」という指摘を行っていた*5。永井はこのカントの議論から「実在」と「現実」の差異を読み取っているのだが、これはかなり強引な読み方である。カントの主張とはあくまで、事象内容の記述とは、その記述に「存在する」という語を含んでいても、「現実に存在する」とは全く異なるということである。つまりカントには「事象内容」と「現実」の区別はあっても、「実在」と「現実」という区別はないのである。

カントの時代のドイツでは「レアール」とは「事象内容的」という意味であり、現代のドイツでは「実在的」という意味だからややこしい話である。少なくとも永井は今日的な意味で「実在」を使っているのだが、カントには今日的な意味での「実在」と「現実」との峻別は見られない*6

もちろん牽強付会的な読解であってもそれが自分の哲学に益するなら構わないと思う。しかし上述したように安倍晋三が現実性ゾンビならともかく、現実存在だと前提するなら「世界の開闢点の変化」は思考不可能である。

もっとも永井は時間における〈今〉との類比で〈私〉の遷移可能性を示そうとしている。

・〈私〉と〈今〉の相違と類比
永井は〈私〉と〈今〉を類比的なものとみなしている*7。つまり時系列上のどの時点もその時においては〈今〉なのだが、本当の〈今〉は「この今」だけであり、ここに「他者」と〈私〉、そして「実在」と「現実」の対比を見ることができるということである。しかしこれはどのような時間原理を前提するかによって議論の成否が決定される問題である。

仮にA理論=現在主義を前提するならば、過去は「あったが今はない」ものなので「実在」と「現実」の対比が成立しない。A理論では「現実」と「無」の対比があるだけである。また仮にB理論=永久主義を前提すると、過去も未来もブロック宇宙の特定の位置に永久に「現実に存在する」のでやはり「実在」と「現実」の対比は成立しない。B理論では「現実」と「現実」の対比になって、安倍晋三と永井均との関係に等しくなるのである。もちろんB理論でも「この〈今〉だけがなぜ現実の〈今〉なのか」と問うことは可能であるように思える。しかしそれは静的なはずのB系列上にA理論的動性を持ち込んで〈今〉を考えているからである。それは永久主義という形而上学に反した考え方である。

「実在」と「現実」の対比が成立するのは「移動スポットライト説」のような特殊な時間論を前提する場合に限られる。この説ではB系列的な実在上をスポットライトが次々と照らし出していくことによって〈今〉=「現実」が与えられると考える。私の知る限りこの説を支持している論者は皆無なのだが、この説が正しいと仮定すると一見「実在」と「現実」の対比が成立するように思える。しかしスポットライトに照射されていない時点には「現実に痛くない痛み」というような意味不明なものが存在することになってしまう。この説は根本的に矛盾した前提から始まっている疑いがある。

永井は〈私〉と〈今〉を類比的とみなして〈私〉が遷移する思考可能性を示そうとしたわけだが、上で検証したようにどの時間論の〈今〉と類比させても〈私〉の遷移可能性は示されない。*
 *ただし永井は『存在と時間 哲学探究1』でかなり特殊な時間論を展開しており、その時間論を論駁していないため、時間における「実在」と「現実」の対比可能性を私は完全に否定できたわけではない。また重要な点であるが、私は〈私〉の遷移可能性を否定するのではない。これは後述するが、遷移可能性は無内包の現実性の遷移や、〈今〉と類比された〈私〉の遷移の思考可能性でなく、人格の同一性問題における〈私〉の「通時的同一性」の思考可能性においてのみ認められる。

・二つの現実性の哲学
入不二の無内包の現実性には永井のような思考可能性はない。入不二の場合でも現実の内容が変わることは思考可能である。たとえば総理大臣が安倍晋三から入不二基義に変わるというように。あるいは、安倍晋三の身体がそのままでありながら精神のみが入不二基義に変わる思考可能性も認めるかもしれない。しかし入不二の場合は、各人の身体と精神がこの現実世界と同じでありながら、〈私〉という世界の開闢点のみが、入不二基義から安倍晋三に変わるということは思考できない。

入不二には[永井的現実]に類した主張はない。入不二も「〈私〉とは何であるか?」と問われたなら、「無内包の現実性である」と答えると思う。ただしそれは[入不二的現実]の意味であり、遷移可能な世界の開闢点としての[永井的現実]を含意するものではない*8

別の説明の仕方をすれば、「現実の〈私〉とは何であるか?」という問題については、入不二はあくまで「現実」の部分に関心があり、永井はあくまで〈私〉の部分に関心があるということである。

以上の説明で、永井と入不二が共に無内包の現実性という用語を使っていても、両者の用法にはかなりの差異があることが判明になったと思う。

入不二の「現実性の哲学」は、独在性の問題そのものから乖離しているのである。なぜなら入不二の意味での「無内包の現実性」はテーブルでもサイコロでも何にでも該当するからである。独在性の問題とは、「なぜこの私が〈私〉なのか?」や「なぜ私が世界の開闢点なのか?」という仕方で提起される。その問いに入不二の意味で「無内包の現実性である」と答えるなら、それは「このサイコロの目はなぜ⑥なのか?」という問いに対して「無内包の現実性である」と答えるのと同じになってしまう。永井の場合は上述の[入不二的現実]と[永井的現実]の違いによって両者の無内包の現実性の違いを説明できることになる。

テーブルやサイコロは世界の開闢点ではなく、それらに独在性はないのである。

独在性=〈私〉の問題で最も重要なのは、〈私〉というものがデレク・パーフィットが『理由と人格』で否定したところの、物理的でも心理的でもない「何か」であるか否かということである。その「何か」が現実に存在するという点では私は永井に同意する。対して入不二は「現実」を〈私〉のメタレベルに置くことでこの問題を消去してしまっているように思う。「現実」が何であるかという問題と、パーフィットが否定した「何か」が存在するかという問題はあくまで異なる問題である。

私は独在性の〈私〉が無内包の現実性であるとは思っていないが、しかしパーフィットが否定した「何か」としての〈私〉は現実に存在すると思っている。

これは人格の同一性問題でもあるのだが、今の私は四十年前の私と精神も身体も大きく変貌しているにもかかわらず、依然として数的に同一の〈私〉である可能性はある(同一性を確かめる術はないのだが)。ならば、仮に私の精神と身体が何らかの未知の化学物質などの影響で激しく変貌し、十年後に現在の安倍晋三と同一のものになったとしても、その安倍晋三と極似した人物は依然として十年前の私と数的に同一の〈私〉である可能性があるということである。これはパーフィットが否定した「何か」の存在を認めることであり、世界=〈私〉の開闢点が遷移するという永井の思考実験を部分的に認めるものである。

つまり「現実」の意味を二つに分けた上で「現実が安倍晋三であることが現実になる」という世界の開闢点の遷移可能性を私も認めるのである。ただし私の場合は「無内包の現実性」は認めず、〈私〉は内包と一致するので、遷移した〈私〉は「有内包の現実性」である。「痛み」の場合、「現実に痛くない痛み」は思考不可能であり、その理由で経験の内包と現実性は完全に同一である。

これこそが「現実」の最深部にある問題である。この私はなぜだかそこから現実世界=〈私〉が開かれている原点である。これは入不二の「絶対現実」に対して「独在的現実」とでも言うべきものである。永井の[永井的現実]はこのニュアンスに近く、「無内包」という言葉に拘らなければ永井も独在的現実を肯定できると思う。

参考までに入不二は、人は絶対現実を特定の内包を通じてしか推定できないことから、内包を通じて認識する現実を「相対現実」と呼んでいる。これは独在的現実と似ていても論点は独在性と異なっているよう思われる*9

次のウィトゲンシュタインの文章は、永井が1995年の著書『ウィトゲンシュタイン入門』で引用し、非常に高く評価しているものである。

私は私の独我論を「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」と言うことで表現することができる。ここで私はこう言いたくなる。「私は『私』という語でL・ウィトゲンシュタインを意味していない。だが私がたまたま今、事実としてL・ウィトゲンシュタインである以上、他人たちが『私』という語はL・ウィトゲンシュタインを意味すると理解するとしても、それで不都合はない」と。(中略)しかし注意せよ。ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということである。他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。
(『青本』117頁)*10

私の判断では、永井の独在論=〈私〉論はこの頃から一貫している。「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」というウィトゲンシュタインの独我論と気脈を通じた独在論を主張し続けて、それが近年になって無内包の現実性という言葉で表現されるようになったのである。

入不二の遍在的な絶対現実と、排他的な比類なき世界である独在的現実=〈私〉は記述においてトレードオフの関係にある。絶対現実を語ろうとするなら〈私〉は語れない。双方には脱中心性と中心性という対立があるのだから。逆に〈私〉を語ろうとするなら絶対現実は語れない。「他人は私が本当に言わんとすることを理解できてはならない」のだから。もちろんウィトゲンシュタインと永井においては〈私〉も語り得ないのであるが、少なくとも語ろうとする行為の挫折(累進構造)によって「示す」ことはできる。

ここにおいて、二種類の現実性の相違が明らかになった。次のような言い方ができる。

世界には「現実に」多くの人がいるにもかかわらず、怪我をして「現実に」痛みを感じるのは私だけである。

前者の「現実」が入不二の「絶対現実」である。後者の「現実」が私の「独存的現実」であり、また永井の(修正されるべき)[永井的現実]であり、即ち〈私〉である。前者は脱中心的現実であり、後者は中心がある現実である。

中心のある現実と中心のない現実という、二種類の現実の記述は相克する。二つの現実について説明を求められれば、全く異なる説明の仕方をしなければならない。絶対現実によって〈私〉を包括して語ることはできない。

入不二は「永井の無内包の現実性は〈私〉という中心性が残っている」という主旨の批判を行っているのだが、永井は「中心性というのは、現実性という概念に必要だからというのでなく、私の主題だから外せない」という主旨の反論をしている*11。この論点では永井の方が正しいと私は判断する。あくまで絶対現実と独在的現実=〈私〉は異なる哲学問題だからである。

先に私は、永井が「現実」を実質的に二つに分けたことは「正しい」と論じたが、その理由がここにある。

「現実性の哲学」は二種類あるべきなのである。

「現実に私は青い空を見ている」と言う場合、永井と入不二では「現実に」という語が指示する対象は異っている。永井の場合あくまで〈私〉内部の現実の内容を指示し、入不二は絶対現実内部の(相対化された〈私〉の)内容を指示しているということである。

入不二は『〈私〉の哲学を哲学する』において、永井の〈私〉を説明する過程で「無内包の現実性(絶対現実)」という用語を案出したのだが、現在の入不二の問題意識は「現実」に重心を移したことによって〈私〉から離れているように思える。


最終更新:2019年02月09日 19:25