ちと、この頃、格差社会についてあれこれあるので、幾つか思うことなどを描いておこうと思う。
まずだが、平等社会というのは、ミクロでは善だが、マクロでは悪となる。
一方で、競争社会は、ミクロでは悪だが、マクロでは善となる。
そもそも、善悪という概念自体が問題があるのだが、それはさておき。
なぜ、ミクロとマクロで評価が分かれるのかは、これから説明する。
部品の共通化や、一人の人間の才覚にたよる事は、リスクを増大させる。
共通化された部品に欠陥が発見された場合には、その損失は多様な部品を使用していた場合に比べて跳ね上がるし、一人の人間に頼りすぎると、その人間を失った場合にどうしようもなくなる。
また、一人のハンサムの子供しか、女性が作らなくなると、そのハンサムの遺伝子に何らかの欠陥があった場合や、環境変動などにさらされた場合のリスクが跳ね上がる。
弱肉強食による淘汰、競争による淘汰、ある程度の一極化、集中は、善悪を超えて必要である。それによって、より強い存在の因子を次世代に持ち越せるからだ。
が、一方で、集中によるリスク因子の発生もまた無視できない。一つの因子のみに頼ると、その因子に何らかの欠陥があった場合や、環境変動によるリスクにより無防備になりリスクが高まる。
そのため、分散、多様化が常に確保され、リスクヘッジされておく必要がある。
一番悪いのは、競争をやめること。
なぜなら、競争をやめると、強いものは、自らの自己改革をそこでやめてしまうからだ。結果、社会が停滞してしまう。
そのため、弱者は、弱者なりに競争にコミットし、強いものに努力を続けさせないといけない。そのほうが、全体としてはこのましい。
弱者の存在意義とは、彼らの尻を叩いて、努力をやめさせないことにもある。だから、弱者も努力をやめてはならないのである。例え、勝つ事はできなくても、弱者に追い抜かれないように強者が常に努力するならば、それによって社会全体では、プラスになる。種としても強靭になる。
安穏と平穏に暮らさせてはいけないのである。常に競争を。
勿論、その過程において、競争の結果、裏切り合いが酷くなり、やがては協調せざるを得なくなる。こういった自然的協調体制がととのうぶんには構わない。
悪いのは、故意の協調、馴れ合いであり、そうやって競争そのものを排除するのは悪となる。
安定株主工作や、強者連合による弱者の抑圧、排斥。
それは競争そのものを否定し、自己保身のみをもたらす。競争がおきない状況では、全体としての成長は望めない。
よって、ミクロでは善だが、マクロでは悪となる。
よって、好ましくない。
特に強者が連合して、弱者を排斥することによって、競争を否定するのは好ましくない。
特に強者が連合して、弱者を排斥することによって、競争を否定するのは好ましくない。
また、こういった考え方をすると、他のいくつかの要素も説明可能になる。
つまりだが、オープンソースやブログのように、我々は自己にとって、一見、全く無意味な行為をも行う。
つまり、ミクロ的、個々の生存にとっては、全く無意味な生産行動を行う。
が、それはあくまでミクロな視点であり、マクロな視点、つまり種の保存という観点からは、全く別の見方が可能になる。
ブログやオープンソースは、ミクロでは無益だが、マクロでは有益なのだ。
ブログであれば、それは人類全体で知を共有する優れた媒体だ。個々のアウトプットを促進し、情報流通を促進することによって、人類全体での知的進歩を促進することにつながる。
ここのところの共謀罪関連では、ブログ界でもエントリが連発しているが、1銭にもならないことを何故、皆がするかといえば、共謀罪が、日本という社会にとって深刻なマイナスになりかねないからだ。それは、マクロ的にはマイナスだ。そして、それは巡り巡って自分のところへもマイナスになってかえってくる。
勿論、ミクロにみれば、共謀罪によって恩恵をうける人がいるから、あんな法案がでる。ここでもミクロとマクロの対立が見出されるわけである。
またオープンソースにも同じことがいえる。これは、ミクロ的にみればマイナスだ。リナックスなど、MSにとってみれば悪夢以外の何者でもない。
が、オープンソースというシステムは、ソフト業界やハード業界、また、ウィキペディアのようなシステムは、人類全体にとっては、とてつもない資産となる。マクロでは、物凄くプラスなのである。
だから、マクロ的には、この人類の行動には合理性があるのである。種の存続と発展には、極めて有用なシステムなのだ。
これらは、コストとして、ミクロとマクロの間のコスト差が少なくなったせいで出てきたシステムでもある。
以前なら、自分の書いた文章を数百人に読ませるのには多大なコストがかかったので、マクロのために行う行為はコストがかさみすぎ、ミクロ、つまり個々人にとっては負担が多すぎてトータルではマイナスだった。その為、人はミクロに集中したが、ネットの登場で、マクロのために行う行為が、さほどミクロ、ここの生存にとってのコストとはならなくなった。、
そして、むしろ、マクロのために行う行為が、ミクロにとってもプラスになるコスト状況になってきた。
これによって、オープンソースという潮流が生まれたと考えられる。
無論、これによって、ミクロでは、生存を脅かされている分野もあるのは確かである。メディアは、いい例であり、以前なら、マクロのための役割を彼らはかねていたが、ネットの登場で、その役割から下ろされた。
そして、メディアは、マクロのためでなく、ここの生存、事業としての存続のために、自己を最適化しているように見られ始めている。
悲しいが、時代が変わってしまったせいで、一つの害悪として取られ始めた産業でもある。
個々の生存・快楽と種の存続・発展の間で、我々は揺れ動き、その都度、その二つを秤にかけて、最適化された行動を取る。
この二つは、時として対立し、あるいは、融和する。
ミクロのために力をつかわないと自己の生存は危うくなるし、又、自己の遺伝子を残せないため、我々は時として利己的になる。
一方で、ミクロになりすぎると、種全体としてマイナスになる。個々人が自己の利益を最適化しようとすると、他人と協調せず、相手の持分ですら奪おうとする「万人の万人に対する闘争状態」に陥るからだ。これは危険すぎる。
個々人の力は限られており、協力したほうが全体としては好ましい。だから、我々は、マクロ的な視点を常にもつ。
一方で、マクロすぎるのもマイナスになる。
国のため、種のためというマクロ的な形で「不適」な因子を排除することは、一極化と集中を推し進めるが、それは、多様性を失わせ、環境変動へのリスクを高める。
マクロな形で物事を進めると、一番イイモノを集中して使うことになる。
ハンサムと美女同士しか結婚するなとか、人種排斥とか、頭がいい奴だけ使うとか、優秀な部品だけ使うとか。
ただ、もし、その「優秀だと思われていた」部品に欠陥がみつかったり、環境変動により、その部品が役立たずになった場合には、種の絶滅の危険性すらある。
種全体が、ひとつの方向で進化を続けると、全員が同じような能力しか持たなくなる。その結果、例えば、そういった傾向をもつ人間にかかりやすい病気などが流行ると、一気に絶滅してしまう可能性すらある。
そういったリスクをヘッジするためにも、多様性が失われるのは好ましくないのだ。
だから集団主義や「一人はみんなの為に」だけではまずいのである。
強いものを認めるのは大事だ。競争の重要だ。そして、競争のして、社会全体で優秀な因子を多くすることも合理的だ。
一方で、競争の帰結として、一つの能力に頼りすぎたり、弱いものを排斥しはじめると、多様性が失われ、定型進化がはじまり、たった一回の環境変動で、ゲームのルールがかわっただけで、絶滅するという可能性が高まり、逆にリスクを高めてしまう。
というわけで
「一人はみんなのために、みんなは一人のために」
結局、ここにいきつく。