目次
Part56
>>133~
朱色の灯りが店内を照らす。カランっと手元で汗をかいたグラスが鳴いた。腕時計が午後6時を指し示す。
取引先に電話で交渉する初老の男性。和気藹々と会話するカップル。注文したコーヒーが冷めるのも気にせず黙々と本を読み進める学生。さりげなく周囲を見渡せば飛び込んでくる情報。
遠慮がちに伸びをして肩を解す。この店に入ってかれこれ1時間か。深くため息を吐いて視線を移す。眼下では傘の花が多々開き右へ左へ流れていった。集まっては溜まり流れては散っていく。そのすぐ近くで赤やオレンジ、黄色の眩い明かりが環を放ちながら宝石のように輝きながら花より早く流れていく。
曇りガラス越しに映るその光景を眺めながら傘を忘れた自分を恨めしく呪った。本当ならもう寮に着いててもおかしくない。だが、急に振り出した雨のせいで思わぬ足止めを喰らっていた。
いつ晴れるともしれない空を眺めながらもう一度大きく息を吐いた。トレーナーにも連絡して車を回してもらおうかとも考えたけど残念ながら今日に限って地方に出張中なのを思い出して断念。
一応、寮長のフジキセキには連絡済みだ。
それと同室のイチにも心配かけないよう連絡しておいた。一瞬、迎えに来てもらおうかとも思ったけど流石にそこまでしてもらうのは申し訳ない。
タマ先輩は――なんか恥ずいからパス。あの人には情けないとこ見せたくない。そんな複雑な乙女心のせいでアイコンタップはしたものの結局バックしてそのまんま。
いじいじとスマホの画面に映ったタマ先輩のを指先で撫でるとすっかり味の薄くなったアイスティーを吸った。
流石にカフェで時間を潰すのが辛くなった――というより意外と客足が良くいつまでも席を占領したままだと迷惑をかけると思って店を出るとエレベータ脇に取り付けられたフロアマップを見た。
レストランフロア……は流石に飲み物のために梯子するのも厳しいし無し。家電店……は見たら何かと欲しくなって余計な散財しちゃいそうだからパス。本屋……別に普段から紙媒体の本を読まないから興味無し。――イチならしばらく時間潰せるんでしょうけどね。
となると――。
思考を進めながら辿り着いた結論はショッピングモール内の大手衣料品テナント。
ここならいくらでも暇を潰せるっしょ。そう思い立ったが早いかモニーは颯爽と誰もいないエレベータに乗ると目的の階を押して扉を閉めた。
いざテナントに入って服を眺めていてもたいてい自分のものじゃない。
いや最初はこのコートいいなとか思ったりもした。けど、時間が経つにつれて気が付けばサイズが小さいものに目がいってしまう。特に青と赤の色合いや稲妻チックなデザインに。
というのもやっぱりかの先輩のせいだ。やれ「これ先輩着たらかわいい」だの「このかわいいやつ先輩に着てほしいだの」と服を見ているうちに頭の中で先輩がすっかり着せ替え人形になっている。――ちなみにどの服着せても先輩の表情は苦虫を嚙み潰したようなものだった。
店内を一通り見廻って手首の時計を眺めればカフェを出てからもう1時間は過ぎていた。学園は既に夕飯時か。
冷かすだけ冷かして店を出るなり窓から外を眺めればさっきよりは弱まった雨。
もうこの際走って帰ろうか。雨脚が弱まったのがモニーの背中を押した。
ショッピングモールの入口。湿気を帯びた寒風モニーの体を震わせる。意を決して走り出そうとしたその時――。
「モ二ちゃん!!」
名前を呼ばれた。声の方へ視線をやれば傘の下で赤と青のわたりが揺れていた。
「先輩!? なんでここに!?」
タマ先輩だった。連絡は入れなかったはずなのに。私の疑問に息も切れ切れに先輩は答えた。
「イチちゃんがな教えてくれてん……。あんたが困ってるってな……」
それを聞いて思わず顔をしかめた。あのバカやりやがった。絶対にこうなるって分かってたから言わなかったのに。
先輩に余計な面倒をかけたくなくて本人はもちろん他の人にも必要以上の連絡は入れなかった。それでも先輩はここにいる。衣服や髪が濡れているのが雨のせいか汗のせいか分からないくらい。ていうか、傘差してんだから濡れんのおかしくない?
そんな疑問は先輩の一言で氷解した。
「モ二ちゃん傘持ってへんのやろ? それ聞いて慌てて駆けてきたからうちもずぶ濡れや」
どこか恥ずかしそうに言う先輩に胸がときめいた。
気が付けばモニーは自ら意図せずタマモの手を取って自分のもとへ引っ張った。
ショッピングモールの入口、屋根の下でほとんど抱き合う形で身を寄せる二人。
「ちょ!? モニちゃん人前やで!?」とタマモが声を上げるが聞こえない。出入りする人たちの視線が身に突き刺さる。でもそんなの知ったことか。
「もー!! ほんとバカなんですから!!」
「だあほ!! せっかく来てやったのにバカとはなんや! バカ言うならあんたのほ――」
先輩の抗議を遮るようにモニーは手にしたハンカチで濡れたタマモの顔を拭った。焼け石に水とは分かっていてもそうせずにはいられなかった。
「ああはいはい!! 分かってますよ!! こんな日に傘も持たずに外に出たわたしは大馬鹿です!!」
丹念に濡れた顔を拭ってやる。髪も拭ってみるがほとんど意味なし。ひとしきり拭ってびしょびしょになったハンカチをくるんでいると袖で顔を拭いながら「余計な事せんでええねん」とタマモから抗議の声が上がる。
「そんなこと言って~。風邪でも引いたらどうするんですか?」
「ふん、あんたのためにそないなったらむしろ誇らしいわ!!」
小さい体で盛大に胸を張る先輩にまた胸を高まらせる。ああもう、どうしてこの人はこうも人の心に突き刺さることを弁えてるんだろう。
今にも胸を突き破ってきそうな心臓を必死に抑えていればタマモが「ほな帰るで!」と自分の鞄に手を突っ込んだ。
「まったくしょうがない娘やなモニちゃんは~。こんなよー分からん天気の日に傘持ち歩かんなやんて」
――おのれまだ言うか。
鞄の中身を弄りながら呆れとからかいの混じった小言を言ってくるのをモニーは口を真一文字に閉口して聞いていた。言い返す余地のないほどのド正論。全く持って耳が痛い。
これは帰り道でしばらく言われるなと覚悟をしていると、 ピタリとタマモが動きを止めた。かと思えば突然味わい深い顔で天を仰ぎ始めた。
「え、えと……、どうかしました?」
心配そうに顔を覗き込めば苦しげに「あかん……。やらかした……」と絞り出すような声を漏らす。
「モニちゃん迎えに行くのに夢中になってモニちゃんの傘忘れてもうた……」
さぞ無念そうに呟きながら片手で顔を覆って俯くタマモ。なんとも哀愁漂うその姿。
一瞬、間の抜けた沈黙が流れたがすぐにモニーの吹き出す声で破られた。
「ぷ、くくく、あはははははは!!」
「笑うな!!」
「いや、だって無理っすよ!! これは無理!! あんなカッコよく登場したのに――」
目に涙を浮かべながら上半身を前に傾けるモニー。機嫌を損ねたのか、はたまた恥を隠したのかそっぽを向くタマモ。
ひとしきり笑い終えて息も絶え絶えになったモニーの目の前にずいっと突き出される手のひら。
「ほら、さっさと帰るで!」と拗ね気味に言うタマモ。
めいいっぱい開かれた手のひら。相変わらず小さいなあと感想を抱きながらまじまじと見つめていれば「早くしい!」と再びずいっとこちらに突き出される。
「はいはい」と苦笑交じりに手のひらを重ねる。私の手のひらですっぽり隠せてしまう。トクン、トクンと小さく脈打つその小さな手のひらからじわりと温もりが伝わる。
その温もりが伝播したみたいに胸のうちに心地良い温もりが湧いてくる。
「まったく……。先輩を揶揄いおってからに……」
「揶揄われるようなことするからでしょ~?」
そう言いながらモニーは何かを言い返そうとしたタマモの隙を突いて彼女の手から傘を盗む。
「ちょ!? なにすんねん!? 返してや!?」
「なーに言ってんですか? 私が持った方が二人とも濡れなくて済むしタマ先輩も楽でしょ?」
モニーが悪戯っぽく微笑んで言う。
タマモは何か言いたげに口をパクパク開かせていたがやがて「好きにせい」と黙り込んでしまった。
「ほらもっとこっち寄ってくださいよ」
「ちょっとくっつきすぎちゃうか? 歩きにくいで?これ」
「いいじゃないですか。こっちのほうが温かいでしょ?」
「そらそうやけど……」
しとしとと道路を叩く小雨の中、一つの傘の下ふたつの影が揺れていた。
Part58
>>37~
――パシャッ、パシャッ、パシャッ。
水が飛沫をあげて弾ける音。一定のリズムを刻むその音を聞いて誰か走ってるのかしらと疑問を抱く。こんな雨の中なんて無茶な娘なんだろう。
思わず文字の海から浮上する。そして目に飛び込んだ景色を見てかぶりを振った。
そんな娘がいるはずもない場所だった。
トレセン学園からほど遠くない商店街。その一角に店を構える隠れ家的なバー。
自分が現役の時、練習終わりの夕暮れに自分のトレーナーたちが足取り軽やかにどこかへ向かう背中を見て何処へ消えていくのか不思議に思っていた。
そんな少女のささやかな疑問は卒業後に自らもトレーナーとなったお祝いの席で氷解した。
元トレーナーが連れてきてくれたのがそのバーだ。
今や何かと通い詰めてるその店のカウンター席にレスアンカーワンは腰をかけていた。
暖房の風が優しく頬を撫でていく。そして、早く続きを読ませろと言っているみたいに小説のページを浮かばせていた。
マスターの趣味で店内はクラシックの音色で充満していた。
薄暗がりの中、グラスに灯されたアロマキャンドルがその音色に合わせるように彼女の手元で身を躍らせる。
ゆっくりグラスを傾けてカクテルで喉を潤していれば、リンっと音が鳴るなり店内に冷気が流れ込んできた。
入り口に目を向けるとシックなビジネスコートの裾を揺らしながら眼鏡を曇らせるウマ娘が立っていた。
「よお! 待たせたか?」
右手を上げながらブラッキーエールはレンズが白くなった眼鏡を外しながらカウンター席へと近づいてきた。
「まあ、ね」
「おいおい、そこは気を利かせて『今来たとこ』の1つくらい言ってもいいだろ?」
「今更あんたにかける気遣いなんてあると思う?」
ブラッキーエールには目もくれず、再び手にしたカクテルを飲み干すとグラスを磨くマスターにお代わりを頼む。
グラスをマスターに渡していると「そうかよ」と不貞腐れたような声色で吐き捨てながらコートを脱ぎ隣に腰を下ろした。
「ご注文は?」とマスターの問いかけに彼女は暫しメニューを眺めてからホットビアを頼む。
手を揉み合わせている彼女を伺うだけで外が如何に寒いかが伝わってくる。
不機嫌そうにレンズを拭う彼女を観察していれば、二人の元へ注文した酒が差し出された。
「それじゃ、まあ」
「今日もお勤めご苦労様でしたってことで」
カチン、とグラスのぶつかる音が鳴った。
「しかしまあ……。お前がトレーナーとはねえ……」
「いまさら何言ってんのよ?」
「いや、だってよー。お前のことだからてっきり食堂の従業員とか定食屋の店主か、あったとしても管理栄養士とかになると思ってたからさ」
そう言ってすでに二杯目になるホットビアを呷る。寒さで凝り固まっていた舌もほぐれたらしくすっかり饒舌になっていた。
「まあ、一番の大本命は主婦だったけどな」
からかい調子でそう言う彼女に「やかましい!」と一喝してからレスアンカーワンも一口にグラスを空けた。
少し度数の高い酒だったせいで爽やかな奔流の後に喉を焼くような感覚が走る。
口を真一文字閉じながらその痛みに耐えている間、トレーナーを目指していたときのことがよぎる。
トレセン学園を卒業してからほどなくして学園から教官にならないかと提案された。当時のレスアンカーワンはせっかくの機会だったのでそれを受諾し、日々の業務にあたっていた。
当初は自身が得意としていた料理などを通じて栄養管理などのサポートに努めていたが、彼女自身にも意外なことにどうやらトレーナー適性も高かったようだ。
教えを請けるウマ娘たちの悩みに真摯に向き合いながら自分の現役時代のことを思い出しつつ丁寧にアドバイスしていくと今まで成績の悪かったウマ娘たちの走りが目に見えて改善されていった。また、生来の面倒見の良さが功を奏し彼女たちとの信頼関係も築きやすかったのも大きかった。
自分にもこんなことができたのかと1人感心していると彼女をスカウトした教官から、今度は「トレーナーを目指してみないか」と再び提案された。
正直なところ自信はなかった。現役時に劇的な成果を挙げられなかった自分に彼女たちを導けるのか? それはあまりにも説得力を欠くんじゃないのか? そんな不安があったからか提案された当初は断った。
だが、時が経ち多くのウマ娘たちと接していくにつれて「自分が教えたことで救われている娘も確かにいるんだな」と実感を得るようになり、それが「自分の教えたことで誰かが救われるなら」という思いに昇華するまでそう時間はかからなかった。
そう思い立ったが吉日、その日のうちに教官へトレーナー希望を告げた。
そこからがまた長い道のりを歩くことになるのだがそこはまた別のお話。卒業してから十年近く経ち、晴れてトレーナー試験を突破し正式に中央トレーナーの仲間入りを果たすことができた。あのときの苦労はあまり思い出したくない。特に任命式のことは。
理事長から辞令を受け取るときなんて実にみっともない姿を晒してしまい、未だに頬が熱くなる。
出席していたブラッキーエールには「出来の悪いロボットダンスを見せられてる気分だった」と揶揄われたのも記憶に新しい。
「で? 調子はどうなんだよ?」
不意の一言で現実に引き戻された。
「へ?」と間抜けな声を上げればブラッキーエールが酔いも回ってきたのか胡乱げな目でこちらを見つめていた。
なんの調子についてか測りかねて思考を渦巻かせていれば、焦れたらしくブラッキーエールが「お前の担当2人のことだよ!」と補足してくれた。
「ああ、あの二人のこと?」と察したようにレスアンカーワンは答えた。
「んー、まあ良くも悪くもこれからって感じかしらね」
「ハッ! そうかい。それなら結構」
「なに? 心配してたの?」
「まあ、それなりには、な」
視線を下に落としグラスの縁を指で撫でているかと思えばすぐに顔を上げて「テメーのことじゃねえぞ?」と念を押す。
「分かってるっつの。アンタ、あの二人のこと気に掛けてたものね」
「そりゃな。今時、オグリに憧れる奴なんざごまんといる。それ自体は別に珍しいことでもなけりゃ大した問題にもなんねえ」
そう言いながらいつの間に頼んだのかマスターから受け取ったカクテルを眺めながら「でもな」と続ける。
「そうやって憧れに近づこうと努力して、努力してもまだ遠いってんでいくつも無理や無茶を背負い込んで、――そんで最後はどうなるか知ってるか?」
答えるまでもない分かりきった問いかけに無言を貫いて先を促す。
「結局、最後はその背負い込んだもんに潰される。怪我して心折られてそのまま”上がり”だ」
力のこもった一言だった。その一言が妙な説得力を持っているのは、他ならぬ彼女が実際に目にしてきたからだろう。そうして挫折するままに道を外れていった生徒たちのことを。
「アイツらだってそうさ――特に片割れのお嬢様の方は、な? 熱が強すぎるんだよ。憧れへの熱がな」
カクテルを一口飲んで「気づいてるんだろ?」と顔は正面を向いたまま視線だけを送るブラッキーエール。
それを受けて1つ息を吐くと手元のグラスに目を落としながら「まあね」とレスアンカーワンは応じた。水面に映るその表情は少し険しいものだった。
この春、彼女が担当することになった2人は確かに実力もあった。伸び代も期待できる。極め付けは彼女の元トレーナー、そして親友でありライバルでもあったエイジセレモニーのトレーナーからも太鼓判をもらったくらいだ。
だが、それはあくまで中央で活躍できる最低保証でしかない。それでも十分すぎる保証なのだが、彼女らが憧れる背中はその中でもその姿が霞んで見えないくらい高い場所にあった。
――現実は厳しい。
それは自身も経験した残酷なまでの真実だ。
「どこぞの英雄よろしく太陽に憧れるのは結構だが、近づきすぎて地面に叩き落とされちゃたまったもんじゃねえだろ?」
「……相変わらず詩人ね」
「うっせ! 真面目な話なんだから茶化すな!」
憤慨するブラッキーエールを他所に散々見下ろしていたカクテルを目線まで持ち上げてその澄んだ青色の液体越しに向こうを眺めながら事もなげにレスアンカーワンは言った。
「ご心配なく。あの子たちはあんたが思うよりずっと強いもの。それに――」
「それに?」
「いざとなったらアタシが全力で止めるわよ」
「――だってそうでしょ? そういう"バカ"のことは私が一番よく知ってるもの」
そう言う彼女の横顔をしばらく見つめていたブラッキーエールはやがて破顔してひとしきり笑ったあと「違えねえ」と手元のグラスをあおった。
「確かに、お前を差し置いて他にいねーな! そういう"バカ"を知ってんのはよ」
「でしょ?」
「ま、気張らずに頑張れや。元”大バカ”野郎」
「言われなくても」
そうして不敵な笑みを浮かべた2人。
お互いの顔も見ず正面を向いたまま互いのグラスだけがかち合った。
Part59
>>56~
夢を見ていた── 一目で夢とわかる夢だった。
満員の客席。万雷の歓声。爆発的な拍手。
『□※▼ー!! □※▼ー!!』
客席から浴びせられるそのなにか。聞き取れないはずのそのなにかが私の中にストンと入り込んでくる。
それでようやく確信した。
──これはオグリだ。オグリが見た景色なのだ。
周囲のウマ娘がいつの間にか用意されたゲートに収まっていく。そして私は4枠4番のゲートに自らの意志と関係なく脚を進めた。
──一瞬の静寂。永遠とも思える抑圧された沈黙。晴天の霹靂とも思える機械音。
気づけば私は虎狼と化したウマ娘の一群に加わり駆け出していた。
客席の大音声。奔る私。その私を一歩も二歩も離れたところから眺める私。
走りながらも周囲の景色は目まぐるしく変わっていく。
ブラッキーエールを追い越し、ヤエノムテキを追い越し、シリウスシンボリも後塵に控えさせた。
疾い。そして強い。
遠くに控える歓声がとても大きくなったように感じた。
しかし、そう感じた時だ。すぐ後ろに大きな稲光と同時に地鳴りのような音が私の背に襲いかかった。
思わず後ろを振り返る。そして危うく目を焼かれそうになった。
激しい白光りとともに雷が迫っていた。思わず逃げる私。しかし、雷は私に並び追い越そうとまでした。
必死に食らいつきながら雷を見やれば見覚えのある姿。いや、それどころか親しみのあるウマ娘の姿に転じていた。
”白い稲妻” タマモクロスその人だった。
Part62
>>15~
潮鳴りの音を聞いた。栗東寮の扉を開けたドゥアスグリザリアの鼻腔を甘みを含んだような爽やかな香りがくすぐる。
穏やかな陽の光を受けたなにかの照り返しが目を眩ませる。シパシパと瞬きをして薄目ごしに見てみれば、通い慣れた通学路に淡いピンク色の大河が現れた。
見慣れぬ光景に驚き、息をすることも忘れて見惚れていると、どこからか風が吹いてきた。
また潮鳴りの音がした。海なんてないのに。
音の正体に目をやれば、大河を挟んで植えられている木々だった。
風の吹くままに大河と同じ色をした花束をたくさん抱えたその枝先を互いにこすり合わせる。
さらさらと、ザアザアと、まるで会話でもしているみたいにあちらこちらでその音は鳴った。
――再び風が吹く。
今度はさっきよりも勢いづいた風。まるで飛燕のように、地面すれすれを駆け抜けるその風を受けて大河はにわかにうねりを見せる。
やがて大きな白浪が、その飛沫をグリザリアに浴びせる。
顔に引っ付いた飛沫の一つを剥がし、手のひらに乗せてみる。
ハート形の薄い鱗のようなもの――桜の花びらだった。
その正体に気づいた時、グリは昔のこと思い出した。
まだ故郷のブラジルにいた頃。大好きな祖母に手を引かれ、これよりもだいぶ紅味の強い桜を見に行ったときのこと。
――祖母曰く、「桜は祝いの花」らしい。新たな門出を迎えた者立ちを祝福する花だとか。
その時はいったいなんのことだか分からなかった。ただ、なんとなく”とても嬉しいこと”だということだけはわかった。
「とても素敵なお花なんだね」と元気いっぱいに言えば、祖母は優しい笑みを浮かべてその温かい手のひらでグリザリアの頭を撫でてくれた。
郷愁のトゲが胸をチクリと突き刺す。遠い故郷はもう夜か。なかなかタイミングが合わず言葉を交わすことができていない。
胸のうちにじわりと寂しさが湧き出してくるのを感じているとさざめきが響き、桜たちが再び会話をしだす。
その声に耳を傾けているとひときわ勢いづいた風が駆け抜けた。
桜の枝先から、道路の大河から、荒々しく花びらを掻っ攫い舞い上げる。
その光景はまさしく"吹雪"。咲いて、散って、天に昇り地を奔り、そして宙を舞う。
神秘的だった。陽の光を受けてキラキラと光って見えた。
顔が熱くなる。胸が高鳴る。気持ちが湧き上がる。
――気がつくとグリザリアは理由もわからず駆け出していた。
そして、その桜の舞い踊るその舞台へ踊り入り夢中になって一緒に飛び跳ねた。
風と一緒になって桜の花びらを放り上げた。
その表情はさっきまで郷愁にかられて差していた陰はなく、太陽のように輝く笑顔だった。
花びらを撒き散らすことに夢中になっていると、どこからか「あ、いたああッ!!」と聞き覚えのある声が聞こえた。
声の方へ向くと、銀色に輝く大きなツインテールと自慢にしていた縦ロールを激しく振り乱しながら駆け寄ってくる芦毛のウマ娘。
グリザリアのルームメイト、グレイベリコースだった。
「ちょっとグリ!! 何をしてるの!! こんなところで油売って!!」
「あ、ベリ!! オハヨー!!」
「オハヨー!! じゃないわよッ!? このスカポンタン!!」
髪の毛どころか尻尾まで逆立てて怒るベリコース。自慢のツインテールも天に向かって突き立てそうな勢いだった。
「せっかくオグリ先輩がお花見に誘ってくださっているのに何をこんなところで油を売ってますの――って何でそんなに汚れてますのっ!?」
怒声が急に悲鳴に切り替わる。怒ったり驚いたり忙しくしているベリコースを前にして自らの格好を顧みる。
確かに花びらまみれだし、私服に至っては飛んで跳ねてを繰り返したせいでヨレヨレのぐちゃぐちゃだった。
「あーもうっ!! 顔もこんなに汚して……。ちょっとこっち向きなさい!!」
そう言いながらポケットからハンカチを取り出してグリザリアの顔を丁寧に拭う。桜の花びらやら汚れを取り終えると「髪も乱れてるじゃない、もー」とひとしきり何か文句をこぼしながら丁寧に整えてくれる。
その時、優しく頭を撫でるその手が温かく感じた。どこか懐かしささえ思えるほどに。
すぐに祖母と同じ温かさだと気づいた。祖母と同じように優しくて温かくて、心が安らぐ心地よさ。
そして、思わず口に出してしまった。
「――お婆ちゃんみたい」
髪を梳く手が止まる。ピシッと音が鳴った気がした。
呆けた表情のまま固まるベリコース。何を言われたか理解できずにいるようだ。
桜の揺れる音だけが聞こえた。
しばらくしてグリザリアの言葉を咀嚼してようやく嚥下したベリコースが自分が何を言われたのかを理解した。
「な、なな、なんですってええええぇぇー!!??」
桜舞い春の日差し降り注ぐ通学路。一人の絶叫がけたたましく響いた。