目次
Part60
イチちゃんがカサマツトレセン学園に移籍した話 ①(>>182)
───オグリ1着!オグリ1着!!オグリ1着!!!
古ぼけたテレビから実況の声が鳴り響く。
何度も何度もオグリキャップが有馬記念を勝った事実を叫び、最後には声が掠れていた。
スピーカーを壊さんばかりの大歓声がテレビを襲い、同時に寮のあちらこちらから同じように絶叫や嗚咽が木霊していた。
周囲の熱気を尻目に私は明日が期日の課題に勤しんでいた。
中央から地方へ転落した負け犬には、少々…いや、非常に鬱陶しいことこの上ない状況ではあるが、私が異常なだけだろう。
そもそも地方のぽっと出ウマ娘が中央の重賞を連勝し、破竹の勢いでG1レースを制覇したのだ、盛り上がらないわけがない。
もっとも、怪我で一年程度療養を挟み、いまだ治りきっていない病み上がりの身体を圧してレースに出ていたようで、天皇賞もジャパンカップも酷いものだったが。
聞けばマスコミが一日中付き纏い、ストレスで食事すらままならない事態に陥ったと言うのだ、正気の沙汰とは思えないし、同じ人間がやった所業とも考えたくなかった。
───オグリキャップか。
中央からここ地方へ移籍した分際で言うのもなんだが、1人のウマ娘が背負うには余りにも大きく、重くなりすぎたナニカをよくもまぁ平らげたものだ。
恐らく私がやっていた事も彼女は呑み込んでいるのだろう。
「…生意気ね、ぽっと出の田舎娘のくせに…」
そう言いながら自嘲する。
そのぽっと出にした仕打ちを棚上げし、嫉妬混じりの憧憬を吐く。
なんと惨めだろうか。
勝手に嫉妬し、憧憬を抱き、挙げ句の果てに自分勝手な罪悪感と自己嫌悪から中央から、オグリキャップから逃げてここに来た。
なんと醜いのだろうか。
「ノルン達は…あぁ、みんな今日は現地観戦とか言ってたっけ…この分だと明日は臨休かな」
熱気冷めやらぬという感じで、いまだに寮中…いや、町中から歓声が轟き続けていた。
これでは集中なぞ出来るはずもなく、私は仕方なく課題をしまい、軽くランニングでも行こうと部屋から出た。
Part61
イチちゃんがカサマツトレセン学園に移籍した話 ②(>>19)
───1月15日、オグリキャップがカサマツへ帰ってくる───
笠松町中へあらゆる情報媒体を駆使してもたらされたソレは、当然の如く私の耳にも入っていた。
明けの1月13日に京都で引退式を行うはずだが、それだけオグリキャップのもたらした社会的影響が大きいということだろう。
ノルン達も京都へ前日入りすると言っていたが、果たして前日入りで場内に入れるのかどうか疑問である。
私も行かないかと誘われたが、生憎とあの場所には苦い思い出しかないため丁重にお断りした。
もっとも、その苦い思い出とやらも独りよがりの罪悪感から来るものでしかないのだが。
オグリキャップが有馬記念で勝利した時、周りの人間は奇跡だ何だと持て囃し、手のひらを返していく様は見るに堪えない。
あれだけ散々オグリキャップは燃え尽きたと煽っておきながらこの有様だ、呆れを通り越してもはや笑いすら込み上げてくる。
最後まで彼女のことを信じていた者など、果たしてどれだけいたのやら。
───いや、少なくとも彼女のトレーナーや友人達は信じていたか…
移籍後同室となったノルンエースは、典型的なオグリギャルだったが、あれで元々はイビっていたと言うのだから人生何が起こるか分からないものだ。
『随分と上から目線でものを言うのね。それとも、自分はアイツを信じていたなんて綺麗事でも吐くつもり?』
───またか…
いい加減飽き飽きして来たが、こんなんでも業腹だが私自身が生み出した半身のようなものだ。否定することはできない。
「別に、アイツがどうなろうが知ったこっちゃないわよ。ただトレーニングの邪魔ぐらいにしか思ってないわ」
『トレーニングねぇ…そのトレーニングとやらだって殆どやってないのに?精々毎日河川敷をランニングしてる程度じゃない』
あぁクソ、自分自身だから日頃の行い全部知ってやがる。
最早ぐぅの音も出ない私の様子を見た『私』は肩をすくめながら視界から消えた。
傍目から見たら1人で勝手に喋ってる様にしか見えないであろう光景は、しかし私にとっては確かに相手が存在する会話なのだ。
どう考えても精神科案件である。
ここまで自分を追い詰められるのも才能ではなかろうか?まぁレースの才能はなかった様だが。
「ちょっと、アンタまた1人で会話してたわけ?いい加減それ見せつけられてるあーしの身にもなってくんない?」
「あぁ、ごめんなさい。私も気をつけてるんだけどね…」
「折角オグリが帰ってくるんだから、あんまし水差さないでよね」
そう言いながら大量にあるオグリのぱかプチを一つ一つ手入れしている様は最早ギャグとしか言いようがない。
何故か私にもノルンから押し付けられた物が一つあるが、ろくすっぽ手入れなどしていない。
流石にカビるのは嫌なので、陰干しくらいはしているが…
仕舞いっぱなししているのだって、単にぬいぐるみであろうとオグリを直視出来ない私の身勝手さ故のものだ。つくづく私は度し難い。
「京都の方にも行くらしいけど、多分相当人来るだろうから気をつけなさいよ」
「言われんでも分かってるし。てかアンタはホントに来ないの?あっちの方で多少融通効かせてくれるって話だけど」
「私はオグリキャップに興味無いから」
信じられないものを見る目で見られているが、私以外にも普通にいるだろう。
別に全部が全部ウマ娘で周っているわけでもあるまいに。
私の両親もオグリにそこまで入れ込んでないし、あってもいちアスリートとしてしか見ていないだろう。
まぁあの2人は年中新婚みたいなものだが。
未だに宇宙の彼方へ飛び立ったまま帰還しないノルンを横目に私は課題を終わらせ、その足でいつもの河川敷へと向かうため部屋を出た。
イチちゃんがカサマツトレセン学園に移籍した話 ③(>>25)
「………」
「オグリちゃん?最近ずっと考え事してるけど大丈夫?やっぱりまだ疲労が残ってるんじゃ…」
「ん…あぁ、ベルノ。うん、大丈夫だ。見ての通り私はピンピンしているぞ」
京都での引退式を終え、笠松へ向かう列車の中で、私は有馬記念前の事を回顧していた。
秋の天皇賞とジャパンカップでの惨敗、精神的ストレスからくる食欲不振により身も心も満身創痍の状態から回復したのは、ひとえに皆んなが私を助けてくれたからだ。
壊れたガラスの靴をベルノが打ち直し、キタハラが笠松の皆んなと共に届けてくれた。
深い深い闇の底から浮上出来たのは、我ながら奇跡としか言いようがない。
シンデレラに掛けられた魔法が解けたからといって、何も全てが泡沫に消えるわけではないのだ。
そこに至るまでの繋がれて来た縁に私は助けられた。
───だからこそ、私は知りたい。
───知らなければならない。
食事が喉を通らず、身体が弱っていく中で私が唯一食べることが出来たあのお弁当の主を。
私があの日、件のお弁当があった中庭のベンチへ行ったのは全くの偶然だった。
日課であったはずのランニングすら覚束ず、幼少期よりも酷い状態であった私は、ふと、いつかの日にあそこで毎朝誰かと一緒にお弁当を食べていた頃を思い出した。
何故思い出したのかは分からなかったが、無意識のうちに碌に動かぬ身体を引き摺りながらその場所へ向かった。
擦り切れて既に顔すらも思い出せなくなってしまっていた私が最後に縋ったのは、何故かキタハラや笠松の皆んなの下ではなく、顔も思い出せぬ誰かであった。
(…何を期待していたんだ、私は)
当然そこには誰もいるはずがなく、未だ朝日が昇らぬ薄明の中、私は1人立ち尽くしていた。
(もう、疲れたな…)
最早走る意味すら見失った私には、ただ立っているだけですら酷く辛く、そして重かった。
ベンチに腰掛け、私はいつかの日の誰かが来るのではないかと思い待ち続けた。
当然そんな都合良く事が起きるはずもなく、ただただ時間だけが過ぎていった。
声も、顔も、何もかもを忘却していたくせに、自分が耐えきれない重圧に晒された瞬間に縋り付く。
随分と浅ましく、そして卑しいのだろうか。
薄情なのか、はたまた面の皮が余程厚く出来ているのかと独り自嘲していた。
ベンチで項垂れているうちに、ついに日の出の時間となったのだろう。
太陽が顔を出した刹那、世界が白く染められ私は本当に独りになってしまったかの様な錯覚に陥った。
───あぁ、いっそこのまま灰になってしまえば
諦念に支配された胸中で、そんな事を思っていた私の視界に、ふと誰かの背中が見えた。
私よりも少し小さく、しかし比べようもないくらいに大きな背中を。
肩甲骨辺りまで伸びた明るい栗毛の癖っ毛が、擦り切れた私の記憶を刺激する。
忘れてしまったいつかの日に、私と共にこの場所にいた誰かがそこにいた。
───君は、誰なんだ
永遠にも思えた刹那の時間は、太陽が昇り切った瞬間に閉じられた。
茫然と薄明の中にいた誰かの背中を眺めていた私は、いつまでもここにいる訳にもいかないとかぶりを振り、立ち上がろうと緩慢にベンチに手をついた。
同時に指先が何かに触れたのを感じ、そちらに視線を向けるとそこには大きなお弁当箱が鎮座していた。
(私が来た時には無かったはず…いつから?)
普段であれば得体の知れない物に手を出そうなどと思わなかった私は、しかし無意識にそのお弁当を手繰り寄せていた。
キタハラへの郵便の中に脅迫状や、カミソリが入った封筒が送り付けられ、一時期URAが検閲を行う事態にまで発展した件を考慮すれば、これも同質の物だと考えるのが自然だ。
ベンチの上に放ったらかしにされている弁当なぞ、何が混入しているかも分からない上にそもそも中身が傷んでいる可能性だってある。
手を出してはいけない理由など、挙げればキリが無いのにも関わらず私はそのお弁当を開いた。
「! こ、これは…」
お弁当の中身は、色とりどりの野菜がこれでもかと敷き詰められていた。
しかも見たところ作られてからそう時間も経っていないようで、変な匂いもしない。
酸っぱい匂いを感じるが、それは酢の物が入っているからだ。腐敗臭ではない。
お箸を手に持ち、ほうれん草のお浸しを口に入れる。
「───」
言葉を失うという表現があるが、あの時の私はまさにその表現通りだった。
食欲などとうに枯れた筈の満身創痍の肉体が、もっと寄越せと唸りを上げる。
まるでお母さんの手料理を食べたかのような、そんな懐かしさを感じ、目尻に涙が浮かぶ。
はやる気持ちを抑え、私はもやしのナムルに箸を伸ばす。
醤油の塩っ気を鶏がらが補完し旨味を引き出している。加えて胡麻の風味がニンニクと共に鼻を抜け、もやしのシャキシャキとした食感が私に空腹を思い出させてくれた。
その後もふきのとうのおかか煮、キャベツと塩昆布の和物、セロリの胡麻和え、紫蘇巻き、ミョウガと生姜の甘酢漬け、カブと人参の浅漬けなど、色んな野菜料理と、極め付けのニンニク味噌を無我夢中になって食べ続けた。
気がつけばお弁当は空になっており、程よい満腹感と充足感が私を包んでいた。
「…もう、無くなってしまったのか」
一抹の寂しさを感じながらも私はお弁当箱を包み、寮へ戻るために立ち上がった。
ひたすらに辛く、重かった事が嘘だったかのように軽くなった身体を弾ませながら私は駆けていった。
イチちゃんがカサマツトレセン学園に移籍した話 ④(>>53)
後になって聞いた事だが、その日はベルノもキタハラも用事で学園にはいなかったらしい。
なら、あのお弁当は一体誰が用意してくれたのだろうか。持ち主の分からぬまま自室の机にしまっていた弁当箱が、有馬記念後に消えた時は、私の生み出した都合の良い幻覚だったのかと思ったくらいだ。
誰に聞いてもお弁当の事を知らないようで、むしろ何故そんな得体の知れない物を食べたのだと逆に叱られてしまった。
あまりにも真っ当すぎる意見に私はなす術なくぐうの音を出した。
「そういえば、一年くらい前に中央から転入生が来たってフジマサマーチさん言ってたけど、会えるかな?」
「マーチが?珍しいな、ノルン達以外の事を話すなんて…ん?でも一緒にいるのは見た事ないな」
「なんか、こっち(中央)で色々あって人と話すのが苦手なんだって」
「あぁ…」
その言葉だけで何となく事情を察せてしまう。
私のように、地方から中央へ挑む者がいれば、逆に中央から地方へ去っていく者も大勢いる。
厳しい現実を散々嫌というほど見せつけられた身からすると、移籍自体は特段珍しいとは思わない。
ただ、マーチがノルン達以外の事を話すなんて…交友関係が広がるのはいい事だな、私も中央に来てからタマやクリーク達に出会ったのだ、件の転入生にとってもきっといい影響があるだろう、皆んな優しいからな。
…それにしても、どうして笠松に帰るだけなのにキタハラ達はあんなに慌てていたんだ?
移動手段もURAの方で手配したらしいが…
中央での引退式は済ませたし、笠松の皆んなに会いたいから引退式を笠松の方でもやりたいと言っただけなんだが。
どうしてこんなに大事になってしまったのだろうか?
「?!な、何だこのアイスは…硬すぎてスプーンが折れてしまったぞ、ベルノ!」
「何で列車にシンカンセンスゴイカタイアイスがあるの?!」
イチちゃんがカサマツトレセン学園に移籍した話 ⑤(>>92)
「待ってくれ!?」
───待てと言われて待つ奴はいないッ…!
「ずっと探してんだんだ!君の事を!」
───私は探して欲しくなんてなかったッ…!
「君の事を忘れていた事は謝る!だから…!」
───私の事なんて忘れたままでよかったのにッ…!
「また私と、私と一緒に…!」
───私は、私には…
「ご飯を食べてくれないか?!」
「誰がアンタなんかと!!!」
───貴女の隣に立つ資格は、無い
───⏰───
オグリキャップが笠松での引退式を取り行っている最中、私は河川敷の堤防上で群衆に揉まれ身動きが取れずにいた。
何故こうなったのかという経緯を話すと長くなるのだが、私は今日も今日とてすっかり日課となってしまった河川敷のランニングをしていた。
オグリキャップに対して思うところが無い訳ではないが、かと言って今更謝ったところで済むような問題でもないのだから、それならば彼女に関わらずにいつも通り過ごせばいい。
そんな訳でいつも通りの日常をおくっていた
『あーあ、せっかくノルン達が誘ってくれたのになぁ…友人の気遣い無駄にしちゃってさー』
「分かってて言ってんでしょアンタ」
憎たらしい事に私と並走している『私』は、これみよがしに中央の時の姿のまま走っていた。
対して私はカサマツトレセン指定の青と白のジャージを着ている。
元々寒色系の服ばかり持っているため結構お気に入りになってしまった。
そういえば、マーチはインナーが苦手だと言っていたが…それで素肌にジャージを着ようとするのは果たして乙女として、アスリートとしてどうなのだろうか。
ノルンや柴崎トレーナーの必死の説得で渋々タンクトップを着用しているようだが、それでも尚不満そうにしていたあたり相当嫌なのだろう。
『てか凄い人じゃん。まだ6時前なのにもう並んでるよ』
「みんな暇なんでしょ」
『そうかしら?あのオグリキャップが来るならって、どれだけ忙しくても一眼見たがるのがサガってもんじゃない?』
「なら私は例外ね」
あいも変わらず減らず口を叩く幻影に対して私も減らず口を吐き出す。
それきり肩をすくめた『私』は黙り込む。
これ以上は話したところで無駄だろうという事なのだろう、私も丁度そう思っていたところだ。
しかし、本当にこの悪癖はどうにかしなければならないレベルにまで進行している。
『私』と並走していると言ったが、この場にいるウマ娘はカサマツトレセンの指定ジャージを着た私ただ1人なのだ。
決して中央トレセン学園のウマ娘ではない。
土手に刻まれる軌跡も、足跡も1人分しかないのにも関わらず、まるで誰かと会話しているかのような素振りで独り言を呟きながらランニングするウマ娘など不審者極まりない。
一度マーチと合同トレーニングを行っている最中にやらかしてしまってから、私には週一度のカウンセリングが義務付けられてしまった。
思考が鬱屈としたものになってきていると判断した私は一度休息を摂ろうと堤防のいい感じの芝生に手足を放り出し、大の字に寝転がる。
1月の中頃ということもあり、未だ肌寒さの残る空気だが、元々ウマ娘は基礎体温が高い上に先程までのランニングで火照った体には心地よいそよ風程度にしか感じない。
(オグリキャップか…)
時代を創るウマ娘がいる。
時代を変えたウマ娘がいる。
時代を超えたウマ娘がいる。
この先、オグリキャップを超えるウマ娘なぞ掃いて捨てるほど台頭してくるのだろう。
しけしそれは決して悪い事ではない。
いつまでも古臭い過去の栄光に縋り付くよりも、新しい時代を創るウマ娘達が走り抜けてくれれば、先駆者達も本望だろう。
───だからこそ、この先未来永劫、本当の意味でオグリキャップを超えるウマ娘は現れないであろう事も理解してしまった。
オグリキャップは時代を創り、時代を変え、時代を超え、その果てに新時代の礎となった。
どれだけの功績を立てようとも、そもそも全ては礎の上に成り立つものだ。
その点で言えばオグリキャップは余りにも罪深い存在だと思う。
───なんて、どの口で言ってんのだか
薄れゆく意識の中、私の視界には『私』が私を見下ろしているのを知覚していた。
その表情は果たして何を思っていたのか、余りにも楽しそうで、嬉しそうで…悲しそうだった。
イチちゃんがカサマツトレセン学園に移籍した話 ⑥(>>129)
「……。……?…み!…と…!!起きて!」
「んぇ?何…」
知らない声に呼びかけられ目を覚ます。
人が折角悪夢も見ず、久しぶりに熟睡出来ていたのに起こしてきた不粋な不届者の顔を拝んでやろうと目を向ける。
…ところで、周囲がやたら騒がしいが何かあったのだろうか?
「場所取りするのはいいけど、他の人の迷惑も考えなさい!」
「場所取り…?いやここ土手だし…いつもお散歩してるお爺さんくらいしか人いな……え、何この人の壁」
「あぁ!押さないで下さい!危険ですのでゆっくり!ゆっくり進んでください!!ほら、君も立って立って!オグリキャップを見たいのは分かるけど怪我したら元も子もないだろう?」
言われるがままに、格好からして警備員の人に立ち上がらせられた私は状況把握の為に周囲に目をやる。
つい数瞬前まであった空間が即座に埋まり、私は一歩も動けなくなってしまった。
───ここ土手だよね?何でこんなに人でごった返してるの?
寝ぼけた頭で必死に思考を回すが、人の多さに酔ってきてしまった。本当に何でこんなに人がいるんだ。
「あの、何でこんなに人が集まってるんですか?今日なにかありましたっけ…」
「おいおい嬢ちゃん何言ってんだ?!オグリキャップが笠松で引退式やってくれるんだぞ!掲示板とか見てないのか?!」
「あぁ、オグリキャップ……ん?オグリ?」
「おう、丁度ここからならカサマツレース場がよく見える…お!見えたぞ!」
そう言うや否や、話を聞いていた八百屋のおっちゃんが正面を向き、釣られて私もそちらに視線を向ける。丁度向正面にカサマツレース場がハッキリと見えた。
警備員に場所取り云々言われたのはこれかと納得しつつ、身動きが取れないので惰性でレース場に意識を向ける。
そこはまさに人による万里の長城といった風貌で、普段の閑散とした会場が嘘であるかのように人で溢れていた。
観客席どころか場外にまで人の波が蠢いており、その一部がこの土手に集まっているようだった。
…というか、ここまでの騒ぎなのに起こされるまで寝入ってた私はどれだけ神経が太いんだ?
『あーあ言わんこっちゃ無い。だからノルン達に着いてけって言ったのに』
ふと頭上から『私』が私を批難してきた。
上を見るとそこには空中で横に寝そべった体勢の『私』が欠伸をしながらこちらを見下ろしていた。
寝る直前に見せたあの表情は、人が集まって身動きが取れなくなる事を見越してのことだったのだろう。
言い返そうにもこんな状態でやろうものなら即座に補導からの学園に連行ルートだ。
恨みがましい視線を送るが、どこ吹く風といった感じで呑気に昼寝をしている。
溜め息を吐き、大人しくレース場へと意識を戻す。
どうやらオグリキャップがコースを走っているようで、会場からも周囲からも空が割れんばかりの大歓声が轟き響く。一部では感極まったのか、卒倒し救急車で運ばれていく人すら出ていた。
メンコ付きのパーカーを置いてきてしまったため、耳を塞ぐ手段が頭に貼り付けるくらいしか方法がない。
頭痛がしてきた辺りでどうしたものかと頭を悩ませていると、遠目から見ても分かる程度にはオグリキャップが土手の方へ手を振りながら走っている。
どうやら会場から溢れた観客にも見えるようにと配慮しているようだ。
───そんな配慮が出来る奴だったっけ
ぼんやりとそんな事を思いながら眺めていると、早くも2週目に突入したオグリキャップと不意に目があった。
───瞬間、オグリキャップの瞳が溢れんばかりに見開かれる。
しかし、それも一瞬のうちに掻き消える。
これだけの距離で、しかも人集りの中数年前に消えたモブE程度の関わりしか無かったウマ娘など覚えているわけがない。
よしんば覚えていたとしても、嫌な奴の顔が見えて不快になったとかその辺りだろう。
それだけの事をしたのだから、寧ろこうしてオグリキャップを見ている私の方が余程イカれている。
───自惚れるな、私は私利私欲のために他者を害したゲスだ
───どの面下げて今この場にいる?
奥底に蓋をして閉じ込めていた罪悪感と自己嫌悪が再び溢れ出す。
あぁ、気分が悪い。吐き気がする。頭痛もだ。
膝が崩れそうになるが、人の壁に挟まれた私は倒れる事すら出来ずただその場に立ち尽くすしか無かった。
「オグリ〜〜〜!!!」
「わっぷ、どうしたんだノルン」
「だっで…だっでぇぇえええ〜〜…」
「綺麗な顔が凄いことになっているぞ…」
「これを使え、どうせ安物だ」
「マーチ!ありがとう。ほらノルン、チーンするんだ」
「おい待て!流石にそれは…あぁ…」
「ノルンエースさん京都の方でも会ってたよね」
「あー…気にすんなアイツのアレはもうどうにもなんねぇから」
「こっちもいい加減慣れたし、うん…」
「そうだ、マーチ!栗毛のウマ娘を知らないか?!明るめの感じで癖が強くてマーチみたいな髪型の!さっきそこの土手の方にカサマツジャージを着てたんだ!」
「栗毛ならそこら辺にもいるだろう…だがまぁ、それならアイツだろうな」
「あぁ、アイツか…こっちの誘い断っといて結局見てんじゃない…ツンデレ?」
「つん…?それで、アイツがどうかしたのか?後で紹介しようと思ってたが…」
「私の探し人だ、ようやく見つけたぞ…!」
「お前がそこまで執着する程なのか?中央から移籍してきたとは聞いていたが…」
「は?何アイツ、あーしを差し置いてオグリとうまぴょいしてたわけ???」
「まぁまぁ落ち着けって、な?」
「はーい話が進まないからノルンはあっち行ってよーか」
(なんかやけに手慣れてるなぁ…)
「それで、アイツとはあっちで何があったんだ?」
「彼女は私に毎日お弁当を作って来てくれたんだ。いつの間にかいなくなっていたから、ついこの間まで忘れてしまっていたが…」
「通い妻…?何それ私知らない。多分キタハラトレーナーも…」
「ん?ベルノライト達も知らないのか。ふむ…まぁ、アイツはゴネそうだが…どの道紹介予定だったんだ、問題はないだろう」
「ありがとう、マーチ」
「あの、それでフジマサマーチさん。その子の名前って…」
「普段は皆"イチ"としか呼ばないからな。確か、フルネームは…」
───レスアンカーワン
イチちゃんがカサマツトレセン学園に移籍した話 ⑦(>>159)
ふと意識が浮上する。
辺りを見回すが、あれだけいた人は既に疎に散っている。おまけに太陽まで沈み始めているようで、自分がどれだけの間立ち尽くしていたのかと靄がかった頭で思考する。
カサマツレース場もまだ人がいるようだが、普段の様な閑散とした雰囲気が戻っている。
『まさか立ったまま気絶するなんて…』
「…あぁ、やっぱりそういう感じか」
『オグリなら2時間前には引退式終えて帰ったみたいよ』
「そう…なら、私もそろそろ帰らないと…」
身体を動かすのも億劫だが、このままだと風邪を引いてしまうし、何よりノルン達に心配を掛けてしまう。鉛の様に重くなった足を引き摺りながら帰路に着く。幸いにも、この土手からコース内のウマ娘をはっきりと視認できる程度にはトレセンから近いため、食堂は閉まってしまうが、門限までには帰れそうだ。
しかし、非常に不本意ではあるが、誘いを蹴ったくせに結局オグリキャップの引退式を見てしまったため少々…いや、かなり後ろめたいことこの上無いのだが、ここでゴネる方が方々に迷惑をかけてしまう。
ならば、私のそこら辺に生えてる野蒜未満のくだらない自尊心なぞ捨ててしまわなければならない。
まぁ、流石にオグリキャップがトレセンで宿泊なんてするわけも無いだろうし、ノルンから嫌味を言われるくらいで済むだろう。
帰宅ついでに切らしかけてた安物のシャンプーを薬局で買い足し、コンビニの肉まんを齧りながらトレセンに着く頃には、重くなっていた足もすっかり元通りに軽くなっていた。
寮母さんに軽く注意をされながらも特に変わった事はなく、部屋に戻りそのまま浴場へ向かう準備をする。
程なくして部屋の扉が開き、ノルンが帰って来たのかと思い着替えとバスタオルをタンスから取り出しながら声を掛ける。
「…ぁ」
「ノルン、もうお風呂入って来た感じ?私は今から浴場に行くから、アレだったらノートの課題写しちゃってもいいわよ」
「ぁ、あぁ…ありがとう」
「ん…なんか声低く無い?風邪でも引いたの」
「い、いやぁ?そ、そんな事はないぞ…あっ、無ぃわょ…?」
「…?まぁいいけど、調子悪いんならさっさと寝ちゃいなさいよ。明日オグリキャップとショッピング行くとか何とかって自慢してたんだから」
「う、うん。そうしよう…」
支度を済ませ、寮の浴場へと向かう。何とも煮え切らない返事を繰り返す同室だなと思うが、アレだけの人混みの中にいたのだ、きっと疲れているのだろう。
後で何か喉に良いものでも差し入れてやろうか迷うが、あまり世話を焼くのも鬱陶しいだろうしやめておこう。
…加湿器くらいはつけておくか。
───⏰───
時間が遅いこともあり、浴場には案の定誰もおらず貸切状態になっていた。湯船に浸かる前に身体を洗い、髪がお湯に入らない様上で一纏めにする。
ところで、髪をお湯に浸けないというのは諸説あるが、一般的には不衛生である事、髪の毛が乾燥しやすくなってしまう点などがあるらしい。
では、ウマ娘の尻尾はどうなのだろう。
ウマ娘の尻尾は毛髪とはまた別の質感だが、当然ながら頭よりも地面に近い関係上毛髪よりも汚れやすい。
そうなるとやはり洗ったとしても、何となく汚れが残っている様な感覚になるし、抜け毛が湯船に浮かぶという何ともアレな光景が出来上がってしまう。
まぁ、大衆浴場ではヒト用とウマ娘用で分かれている場所もあるそうだが、そのうち尻尾用のバスカバーみたいな物が出てくるかもしれない。
「───って私は思うんだけどどう思う?」
『とりあえず今の時間返して欲しいかなって思う。くだらなすぎてカイチョーさんの駄洒落聞いてるほうが有意義だったわ』
なんて奴だ。人が割と真剣に悩んでいるというのに…一体どこの誰がこんな奴を生み出したのか、顔が見てみたい。…あ、私か。
『ていうか、『私』は「私」の見てる脳内フレンズ何だからそりゃ風呂場で服なんか脱がないし風呂にも入らないわよ』
「それもそうね…何バカな事考えてたんだろ…」
『アンタがバカでマヌケでグズの節穴な事は周知の事実だから今更気にしたって遅いわよ』
「ひどく無いかしら?」
いくら自問自答であるとは言え、幻覚にここまで言われると流石に腹が立つ。大体なんだ節穴って。確かに私は救い用の無い奴である事は否定しないしむしろ肯定しかないが、腐って堕ちても元中央所属だったのだ。レースでの状況把握能力と、相手ウマ娘への鑑識眼はそれなりにあると今でも自負しているのだ。…ちっぽけなプライドだが。
『まさかマジで気付いてない感じ?あれだけ堂々としてたのに?』
「気付いてないって、何がよ」
『あー…うん、気付いてないならいいや。そっちの方が面白そうだし』
「…?」
───⏰───
「ふぅ…やっぱり風呂上がりには牛乳が1番ね」
ロビーにある自動販売機から、120円くらいで売られてる瓶詰め牛乳を一息で飲み干したが、まだ少し喉が渇いている。
しょうがないので、隣の自販機でスポーツドリンクを追加購入し、少しずつ飲む。
今日は一日散々な目にあったが、こうしてお風呂に入って牛乳を飲んでいると気分が晴れる。
我ながら単純かつ厳禁な奴だとは思うが、メンタルの不調がダイレクトに肉体に影響を及ぼすのは身に染みて理解している。
だから図太いくらいが意外とちょうど良いのかもしれない。
…図太いと言えば、中央に今もいる友人は元気だろうか。
10月の富士ステークスでG2を遂に初制覇した時は鬱陶しさ20倍マシくらいの勢いでつるんで来たが、その後のマイルCSでボコボコにされてたっけな。
今はタマ先輩…タマモクロスさんの実家に遊びに行っているらしいが、迷惑をかけていないだろうか心配である。
というか、2人の実家がそこそこ近い(ウマ娘感)というのも、何というか辺な因果を感じえない。
「あれ、マーチ?こんな時間に珍しいわね」
「レスアンカーワンか。なに、私だってたまには夜更かしもしたくもなるさ」
「夜更かし…?まだ22時ちょっとなのに…?」
フジマサマーチ。何でも、オグリキャップが中央に移籍前に鎬を削りあっていたウマ娘らしい…
らしいと言うのは、私が笠松に移籍した時には、オグリキャップが中央に来てからそれなりに時間が経っていた事もあり、その頃の人となりを知らないからというのがある。
その為私からしてみたら、ど天然のボケキャラにしか見えない。
実際今もなぜか靴下も履かずに裸足でペタペタ歩いているし。
「レスアンカーワンは風呂上がりか?帰りが遅いのはあまり感心しないな」
「そりゃどーも。優等生サマと違ってこっちは色々とあるのよ」
「色々…か。例えばどんなものだ?」
「川を遡上する鮭が鷲に連れ去られて山で木こりになって最終的に鯛になる感じ」
「土手で寝過ごしたらうっかりアイツの引退式を間近で見る羽目になったのか、なるほどどおりで…」
何がどおりでなのかは分からないが、私には関係のない事だろう。
ところでいつになったらマーチはイチと呼んでくれるのだろうか。正直あまり本名で呼んで欲しくないのだが…
「そういえば、マーチも明日オグリキャップと出掛けるんだっけ?」
「あぁ、私は別に良かったんだが、ノルンエース達がな…なぁ、レスアンカーワン。よければお前も一緒にどうだ?友人として紹介もしたいし」
「あー…悪いけどパス。明日もトレーニングとか課題とかあるし…」
「明日は臨時休校だぞ」
知ってる。というかトレセン側からの配慮だろうなとも思う。
引退したとは言え、それはあくまでトゥインクルシリーズの話であり、所属は中央のままなのだ。
これからはドリームトロフィーシリーズで走り続けることを考えると、運営も息抜きをしてもらいたいのだろう。
…もしくは、衰退の一途を辿りつつあった競バを社会現象にまで押し上げた影響力を、極力維持したい考えなのかもしれないが。
下世話な話、オグリキャップが齎したものは余りにも劇薬すぎた。
地方から中央へのシンデレラストーリーに加え、芦毛は走らないというジンクスをタマモクロスと共に打ち破り、数多のライバル達との激闘に、オグリキャップという時代の終わりを奇跡と共に退けた。
今日の引退式を見れば嫌でもわかるというものだ、それほどまでにオグリキャップは群衆から想われていたのだ、良くも悪くも。
「あー…ちょっと友人と会う予定があるから…」
「そうか…残念だが、無理強いをしてもな」
「ごめん、今度何か埋め合わせる」
「なら、また並走に付き合ってくれ。そろそろレースに向けて調整しなくてはならん」
「それくらいならいつでもするけど」
短めに会話が終わるが、彼女と話す時は大体こんなものだ。
元より口数が多い訳ではないマーチと、自業自得で会話がしづらい私とではどうやっても会話が広がらない。
それはそうと、埋め合わせとして何か滋養強壮に良さそうな物でも差し入れるとしよう。
並走なんて頼まれたら普通にやるし、それが良い。
「それじゃ、私はそろそろ寝るから。マーチもあんまり夜更かししないようにね」
「あぁ、気遣いどうも」
おやすみと一声かけてその場を後にする。
明日は休みになってしまったし、久しぶりにゆっくり寝てしまおうか。
それとも早起きして名古屋巡りでもいい。
どうせ笠松はオグリキャップ一色なのだ、それなら少し遠出をして気晴らしにでも───
「レスアンカーワン、そんなにオグリキャップに会うのが嫌か?」
───足が止まる
「アイツはずっとお前を探していたらしいぞ。何故会ってやらない?」
───呼吸が止まる
「弁当を毎日作ってやってたんだろう。中央から地方へ移籍したからか?アイツはそんな事で友人を区別する様な奴じゃない」
───どうして知っている?
「悪いが、今回ばかりは逃さん。アイツからの頼みだ、一緒に来てもらうぞ」
───やめて
「仲違いでもしてるなら、さっさとヨリを戻しておけ。下らない遺恨などただの毒だ」
───やめろ
「ほら、さっさと来い。もうお前の部屋に─」
「フジマサマーチ」
私は行かないし、アイツに会う気もない。例えどれだけ罵られようが、軽蔑されようが、私はオグリキャップに会う気はない。
それが私の───
「暫く実家に帰るから、トレーナー達に伝えておいて」
───私の、身勝手な贖罪だ
イチちゃんママの現役時代(>>172)
「む?ちょっと今のところ止めてくれ」
「え、何かあった?」
「いや、気のせいかもしれないが…そう、そこだ。…うん、間違いない」
「急にどうしたの?この場面が何か…ん?」
「イチ、ここに映っているのは君のお母さんじゃないか?」
「え?うわ、ホントだ。えぇ…何で母さんがG1に出てるの?しかもクビ差の2着じゃん…」
「パドックの映像が無いから見逃しかけた。なるほど、だからたづなさんが知っていたのか」
「うーん、これもしかしたら他のにも出てるかもしれないからちょっと探してみる?」
「そうだな、イチのお母さんの走りは私たちに近いから参考になる」
「オッケー、じゃあ一先ずこの年代のやつ片っ端から見てくよ」
「あぁ、長くなりそうだな」
───⏰───
「───て事があったんだけど、お母さん強かったんだね」
『あら、そんな昔のビデオ残ってたの?やだわぁ、恥ずかしいじゃない』
「とか言ってるけど、語気から嬉しさ滲み出てるよ」
『うふふふ!そりゃあ勿論嬉しいわよ!何てったって娘とお友達の役に立てるんだもの、親としてこれ以上にないくらい嬉しい事よ?ワンちゃんもいつかわかる時が来るわ』
「ふーん…そんなものかなぁ」
『そんなものよ。あたしだって、あの人と出会うまでわからなかったもの、人生分からないことの方が多いんだから、頼れるうちに頼りなさいな若人よ!』
「若人って…いや、うん。そうするよ、ありがとうお母さん」
『どういたしまして。そうそう!ワンちゃんの晴れ姿、待ってるからね!』
「私はその前に未勝利戦勝たなきゃならないんだけど?」
『ワンちゃんならできるできる!何てったってあたし達の自慢の娘だもの!』
「…ありがと」

Part62
イチちゃんがカサマツトレセン学園に移籍した話 ⑧(>>24)
「おい待て!クソッ、腐っても中央のウマ娘か!」
アイツの頼みでレスアンカーワンを連れに来たが、案の定ありもしない予定を入れて断ってきた。ここまでは想定内だった。
奴がオグリキャップを避けている事は承知していたが、まさかここまでとは。
アイツの話を聞く限りだと、関係は良好どころかかなり親密な間柄だと思っていた。
中央から地方への移籍を気にしているのかとも思ったが、今の反応からして違う。
喧嘩別れをした訳でもない、地方へ移籍した負い目でもないとなると、アイツの語った前提自体間違いであると考えなくてはならない。
…いや、ベルノライトと奴のトレーナーがアイツを認知していなかった時点でおかしかったのだ。
アイツのサポートの為だけに中央へ行くなどという狂気とも取れる執念を掻い潜ってまで何かをしていたのだ、字面だけを受け取っていたこちらの落ち度か。
『もしもーし?どしたの』
「ノルンエース!レスアンカーワンが寮から逃げた!急いでオグリキャップに伝えてくれ!」
『ハァ?!アイツ逃げたの?!あぁもう!やっぱ無理だったんだってオグリと会わせるの!』
「仕方ないだろう!珍しくアイツが頼ってきたんだからな!」
情けない事この上ないが、私の足ではどうやってもレスアンカーワンを捉える事が出来ない。
中央から地方へ移籍したウマ娘の大半は、地方所属を蹴散らせてしまえる程度には強い奴が多い。
中央では、地方で1、2を争う実力である事がそもそも前提条件であると言ってもいい。
トレーニングに付き合って貰ってはいるが、一度も奴が全力を出しているのを見た事がない。
本気を出していないのではなく、全力を出さないのだ。
中央の壁の高さは身に染みて理解しているが、やはり才能の差は埋められないか。
(だが何故だ。何故奴はここまでオグリキャップを避けるんだ?少なくともオグリキャップ側はレスアンカーワンを友人だと認識している。ならば、問題があるのは奴の方か)
アイツと私のルーティーンはほぼ同じだ。
だからこそ、わざわざ早朝に弁当を、それも完全な手作りな物を持っていくぐらい熱心だった事が伺える。痴情のもつれにしては余りにも片方が拗らせすぎている。
寝巻きにスリッパではろくに走れる訳もないだろうに、無駄に洗練されたコーナリングで引き離される。
私が寮の玄関に着いた時には、奴の靴箱からシューズが消えていた。
「マーチ!」
「…お前か。すまない、取り逃した」
「気にしないでほしい。元々、私の無理を聞いて貰っているんだ。それで、イチは…」
「実家に帰ると言っていたが、おそらく嘘だろうな。笠松から北海道まで行ける交通機関は、今の時間存在しない」
「そうか…」
飼い主に遊んでもらえなかった柴犬の様な顔しているオグリキャップを尻目に、奴が行きそうな場所を考える。
奴は休日は大体商店街か、レース場ないしその近くの堤防にいる。先ほどの実家に帰るという発言を加味すると、近場の駅も候補に入る。
23時を過ぎようとしている今、商店街は候補から外していい。となれば、奴が向かっているのは駅か堤防のどちらかだ。
ウマ娘としての本能を考えれば、走って鬱憤を晴らすだろうが…奴の精神面を考えると、確率は五分五分といったところか。
「オグリキャップ、私は駅の方に柴崎トレーナー達と探しにいく。お前はベルノライトとレース場周りの堤防を見てこい」
「堤防…あそこだな!分かった、マーチも気をつけてほしい」
「誰にものを言っている」
奴の精神疾患は深刻な状況だ。オグリキャップと鉢合わせるとどうなるか予想がつかないが…背に腹は変えられん、甘んじて受け止めろ。
各々に連絡を入れ、着替え次第私たちはレスアンカーワンの捜索に向かった。
───おまけ───
「そういえば、先程ノルンエースから部屋で奴と鉢合わせたと聞いたが、その時は大丈夫だったのか?」
「あ、あぁ…うん、大丈夫だった筈…多分」
「何だその歯切れの悪さは」
「実は、ノルンと間違われて…そのままスルーされてしまったんだ…」
「は…?お前とノルンエースだと背格好も声も大分違うだろう…?なのに間違われたのか?」
「こっちを見てなかったからかもしれないが…私も動揺してしまって、咄嗟にノルンのフリをしてしまったんだ」
「お前の下手くそな演技で騙されるのか?」
「酷くないか?」
「だが、部屋の構造的に視認しないというのは不可能だろう。変装でもしていたか?」
「いや、髪を後ろで束ねてたくらいだ」
「なら余計に不自然だな…」
(まさか、気付いててワザと知らないフリをしたのか?それとも、何か別の意図が…)
───『いつもいつも人の視界に入ってきて、何が面白いの?』
───『またアンタ?アイツの母校に堕ちた私がそんなに愉快かしら』
───『…?私と貴女は初対面じゃなかったっけ…?』
───『え?何度も並走に付き合って貰ってる…?そんな筈は───』
───『───ぁ…ご、ごめんなさい。私、貴女に酷い事を…本当にごめんなさい…』
「───そうか!」
「!?ど、どうしたんだ急に…?」
「アイツがお前に気付かなかった理由だ。アイツは今、重度の幻覚と幻聴の症状がある。それでお前をノルンエースと誤認したんだろう」
「なっ、それは大丈夫なのか?!」
「大丈夫な訳がないだろう。今も柴崎トレーナーが週一でカウンセラーに会わせているくらいだ」
「そんな…どうにか出来ないのか」
「どうするも何も、お前達の拗れた関係が原因なのは明白だろう。さっさとアイツを捕まえて、ヨリを戻せ」
「ヨリ…?分かった、それでイチが良くなるなら、是非もない。それに、逃げるウマ娘を捕まえるのは得意なんだ」
2つめ(>>89)
「やぁやぁ!そこにおわしますわ中央のノルンエースことレスアンカーワンでは御座りませぬか!今宵は如何になされ候!?」
「こんばんわ、ゴールドシップ先輩。そちらも変わらず出汁茶漬けはお茶漬けであるか否かの会合帰りのようで」
夜も更けてきた頃、何となく寝付けなかった私はこっそりと寮を抜け出し、いつものベンチで物思いに耽っていた。
そしてこんな状況で声をかけてくるのは…まぁ、案の定声をかけてきたのは黄金の不沈艦こと破天荒、ゴールドシップ先輩だった。
…何となく先輩とつけたが、実際の所この人がどの学年に属しているのか誰も知らなかったりする。
「おーよ!ゴルシちゃん的にはお茶漬けにはお茶使ってこそだろって言ったんだけどな?ジャーニーとオルフェの2人が美味けりゃよくね?って感じで中々話が進まなくてよー。結局なんか良い感じにふやけてたらOKって事になって1000杯用意したお茶漬けみんなで食ってたわ」
「昆布茶あるんですから出汁もいいと思いますけどね、私は。それより1000杯もよく食べ切れましたね?私だったら太り気味になっちゃいそうですよ」
お茶漬け一つにどれだけの労力払ってるんだこのお茶漬けジャンキーどもは。
「いやーオルフェの奴が途中離席した時はどうなるかと思っちまったよ!」
「あの暴君をそれなりに御せるのは流石というか何というか…」
「そーか?アイツ何だかんだ結構付き合いいいぞ」
そう言えるのは貴女達くらいでは?
放浪癖のせいで学園にいないステイゴールド先輩を中心としたヤバい奴らという噂は、どうやら正しかったようだ。
トレーナーを蹴り飛ばしたり、ウチラチに叩きつける二冠ウマ娘と三冠ウマ娘なんて長いURAの歴史上二度と現れないだろう。
現れないで欲しい。
「んで、イッチちゃんはこんな夜中にどうしたのかしら〜?お姉さんが相談にのってあ・げ・る♡」
「うわキツ」
「おい今キツイっつたっかテメー」
「さて、何のことでしょう?イッチちゃん分からなーい。」
つい本音が漏れてしまったが…ま、いっか。
「実は、最近キャップにお弁当作るのやめたんです。もういい加減お互いに将来のこと考えなきゃいけないし、いつまでも学生って訳にはいきませんから」
「あー、だから最近よく食堂で見かける訳だ。おかげさまでゴルシちゃんの焼きそばも根こそぎ持ってかれてるぞ」
「うわ、そっち行っちゃったか…いや、もう私には関係ないですけどね?うん、無関係…」
「いやいいんだけどよぉ…なんかありゃやけ食いしてるように見えてなぁ…イッチの方もなんか悩んでるみてーだったから、ゴルシちゃんが一肌脱いだってわけよ」
何ということだ、そんなに分かりやすく調子を崩していたのか。
もはやルーティンと化していたお弁当作りが、ここまで自分に影響していたなんて…
これではキャップの事を言えないな。
「あぁ〜〜…やっぱり表に出てます?そんなに気にしてないと思ってたんですけど」
「おう、めっちゃ出てるぞ。何度ゴルシちゃんがオメーらをアマゾンに連れてくか迷ったと思ってんだ」
「でも私はもう進学先決まってますし、キャップは暫くはドリームトロフィーシリーズに出るって言ってましたし、もう潮時なんです」
私たちが同じ道を行くことはない。
私は地元の大学に行くし、キャップはこのまま中央で広報をやり続けるだろう。
だから、この微妙な関係はここでおしまいなのだ。
「彼女には感謝してるんです。彼女のおかげで、何だかんだトゥインクルシリーズを走り切れましたし、何よりG1タイトルでも好走できました。彼女がいなかったら、とっくにここから消えてましたよ」
「そうかー?お前ならオグリんいなくてもG1出てたと思うぞ?ま、たられば何て意味ねーけどさ」
「6冠ウマ娘にそう言って頂けるとは恐悦至極。宝塚記念で120億を開幕ブッパしたの忘れてませんからね」
「うん、流石にありゃすまんかったと思ってる」
あの時は場内どころか実況席からも悲鳴が上がっていたが、然もありなん。
「ま、お前らの人生だし、ゴルシちゃんからはあんま言えんけど…後悔だけはすんなよ」
「わかってますよ。卒業したらもう会う事もないですし、最後くらいは笑って別れます」
「…そうか、お前がそれでいいってんなら、あたしからは何も言わねぇ。ま、そんときゃあたしも呼んでくれよな。盛大に祝ってやるからよ!」
「それはちょっと…」
「おい、そこは呼ぶ流れだろ」
「楽しそうな話をしているね、ポニーちゃん達。是非とも私も混ぜてくれないかな?」
さて、いい加減目を逸らしていた事実から向き合わなくてはならない。
私たちの後ろには、既にフジキセキ寮長がいる。私もゴールドシップ先輩も追い込みだから、スタートダッシュで出足がつくかどうかだが…えぇい、なるようになれ!
「うおおおお!マックイーンから逃げ切れるゴルシ様の逃げ足を舐めんじゃねえええ!」
「プールから逃げたキャップで鍛えられた私の末脚よ、唸れぇぇええ!!!」
「1800までに捕まえてみせるさ!」
───
「なぁタマ、イチ達もランニングしているぞ。私たちも並走できないか聞いてみないか?いや、しよう(断言)」
「おう、ちょいと落ち着きーや腹ぺこ虫。アンタら今接触避けとんやろ」
「む、そうだった。しかし、そろそろ良いんじゃないか?いいだろう?いい加減イチのご飯が食べたい」
「はーいお前さんはウチらと一緒に食堂で食うんやでー」
「あ、ああぁ〜〜イチ〜〜…」
「別に今生の別れやないのに大袈裟やなぁ」