『モンキーターン』
シートンはかつて、こう問いかけた。
“人間と『霊長類』は、共存できるものだろうか”──と。
人間が仲間へ、自分の食べ物を差し出す。これは『分け合い』と呼ばれる。
では、人間が猿へ食べ物を差し出した時。それは何と呼ばれるのだろう。
──『餌やり』である。
だが、その呼び分けを決めるものが、ただ種の違いだけだとしたら。
人と猿。種の壁を越えて分かち合う食物に、果たして『餌』という名は相応しいのだろうか。
その問いに答えるには、彼らの「食事」を見届ける必要がある。
暗雲が満月を覆い隠す、深夜。
スーパーマーケットの一角で、『二人の餓狼』が牙を剥いていた……。
「……ごっそさん。っつーかゴリラ遅すぎやろ! ブタマン買うだけでどこほっつき歩いとんねん!!」
ガァツ。ガァツ、ガァツ。
スーパーの弁当に給湯ぶっかけて、豪快に掻き込む男──宮沢熹一。
「うま。……でもアンコいらな。ゴリラにあげよ」
あんむ。ハフ、ハフ。
あんまんにイクラを数粒埋め込んで、皮だけをチマチマ齧る女──新田ヒナ。
ガァツ、ガァツ……
ハフ、ハフ……
…………。
「ヒナァ! 食いモンで遊ぶなやボケェッ!──」 「キー坊、食べ方きたな。猿みたい。──」
「「──……かぶんな!!」」
犬猿の仲か、単なる同族嫌悪か。
己を棚に上げて他者を裁く。その一点だけは、恐ろしいほど似た二人であった。
ちなみに、両名自己申告によれば、「ワシャIQ……100とかちゃうの」「へぇ~。私は90だよ」とのこと。
──どちらも不正解であることは、言うまでもない。
「……ふっ。ビギナーには分かんないか。──こいつ《イクラ》の可能性をさ」
「誰が入門すんねん、そんな腐れ道っ!」
先のヒナ支給品──『ゴリラ』との激闘から、数十分。
満身創痍のキー坊は、箸をへし折らんばかりに怒りを噛み締めていた。
その原因は主催者でも、見知らぬ強敵でもない。
一つ。いや──二つ、三つ。
俗に言う『軋轢の三点』からの憤怒である。
一つ目。
それは、喧嘩別れした、一頭のゴリラのこと。
「しっかしヒナ……あいつ、頭よすぎちゃうか。ホンマにブタマンとバフォリン買うてくる気やないケ」
「え? ……あー、確かに。おつかいできるゴリラもすごいけど、ゴリラにおつかい頼む私らもすごいよね」
「ワシらの話はどーでもええんじゃ! ……『ケツの穴の小さい獣やのォ』言うただけで、見てみいコレ。目ェ青タンやぞ! 動物園の民が人間語いちいち理解すんなやっ!」
「……ふっ、ハハァ~……」
「ま、ワシもケツに落書きしてやったけどな。やからさっきの喧嘩、アイツ絶対まだ根に持っとるで、ほんま」
「(……『喧嘩』スか……。喧嘩で済むんだ、さっきの)」
二つ目。
右脚打撲。鼻骨骨折。右腕打撲。満身創痍。
──単純に、身体が痛い。
「ちゅうかヒナァ。なんでバフォリンやねん」
「え?」
「ワシが治したいんは頭痛やない、骨や骨っ。……なんや、自分用か? 片頭痛でも持っとんのか」
「……回想して二年前。足折った私を救ったのもバフォリンだった」
「あん?」
「つまりさ、今のキー坊には万能薬なんだよ。あいつはさ」
「はぁ~~?? そら効いた思い込んどるだけや。アレや、『プラシーボ効果』。アホほどよう効くやつやっ。──」
「──っで、ソイツをワシに飲ませよう言うとんな!! 悪うかったなアホでなァっ! お前にもお裾分けやバカっ!」
「…………あーヤバ。カチーンときたかも」
そして三つ目。
──否。三つの苛立ちは、ほぼ『一つ』に集約されていた。
キー坊の視線の先。
数粒のイクラが宙を漂い、主の口元へ収まっていく。
……もはや、言うまでもない。
「(……ていうか、キー坊。一人称『ワシ』なんだ。 ──)」
「(──ワシで関西弁……どこの人? 大阪県民? 広島民?──)」
「(──大阪と広島……お好み焼きじゃん。──)」
「──……ぶふふっ……! ふふ……っ、くく……」
「ィィィィッ!!!」
──ヒナの『念動力』。
武を生業とする男にとって、それはひどく癇に障る力だった。
「その目や!! そのバカにしきった目ぇ!! おいヒナァ!!」
「え。……あ、なに?」
「ワシャなァ、お前のその念動なんたらいうズル技が気に食わんのや! 見えへん、触れへん、間合いも関係ない! ざけんなや!!」
「(……あ、見えればいいんだ。何色つければいいの?)」
「ああっ、その目ェや! なんやその『へぇ~』みたいな目ェは!」
「いや、実際へぇ~って思ってるし」
「なにっ!?」
もっとも、キー坊はゴリラとの『死合い』そのものを悔いてはいない。
言葉も通じぬ獣を相手に、それでも拳を交わすうち、確かに通じ合えたものがあった。
人も獣も関係ない。あの瞬間だけは、互いを一匹の『闘者』として認め合っていた。
だからこそ──あの死合いを、横から終わらされたことだけが気に食わない。
助けられた恩とは別の話だ。
拳で始めた勝負なら、最後まで拳で決着をつける。
それが、キー坊の譲れぬ一線だった。
だから、今度は、言葉にして伝える。
──キー坊は、ヒナにひとつの『約束』を突きつけた。
「……ヒナ。ひとつだけええか。このクソったれなゲーム、お前とワシで生き抜くための──『協定』や」
「『きょーてい』? きょーていって何──」
「ワシが闘っとる時、お前は手ェ出すな」
「……」
キー坊は、傷だらけの拳を静かに握り締める。
「念動力も使うな。誰が相手でもや」
「…………」
「別に、お前の力が嫌いやから言うとるんやない。ワシが真っ向から向き合うた相手なら……自分だけで話つけたいんや」
「……」
「勝っても、負けてもや。そこにお前の力はいらん。……ええな。頭悪いモン同士の──約束や」
「…………まぁ、……うん」
それきり、二人の間から言葉が消えた。
血に濡れた右手を差し出すキー坊。その眼差しには、ただ揺るがぬ意志だけがあった。
その愚直な意志が、ヒナの胸にも何かを残したのか。イクラを瓶へ戻すと、黙ったまま、足元へ視線を落とす。
『じいちゃん厳選ソフトポルノ傑作選』・『あんこう踊り入門編』。
DVD二枚。
「(……アンキモって、マヨネーズに味似てない?)」
……ヒナは、いい。
キー坊は右手を収め、静かに店の入口へと目を向ける。
交わした『協定』に悔いはない。次に拳を交える時、その決着は己の手でつける。
今はただ──『あの獣』が再び姿を現す、その時を待つ。
「……ゴリラがさ。帰ってきたら仲直りしなよ。……言葉ってさ、案外残るから」
「…………」
「……うん、仲直り(……その点イクラ、新田に買わせれば実質0円だし、味キャビアだし神じゃん)」
再会の時、何を伝えるべきか。
今のキー坊の胸を占めるのは、ただそれだけであった────。
やがて、その視線の先で──。
ウィーン。
静寂を破り、スーパーの自動ドアが開いた。
「キョアアアア」
「「え?」」
聞き覚えのある声だった。
二人の視線が、同時に入口へ向く。
そこに立っていたのは、つい先ほどまで話題の中心にいた、一頭の獣。
件のゴリラである。
「……嘘やん。ホンマに行って帰ってきよった……」
「おー。すご」
「すご、やあらへん! コイツほんっま天才やぞ! 芸達者すぎるやろ!?」
「うん。それになんか機嫌も直ってるっぽいし」
ヒナが半笑いで眺める先。
ゴリラは太い腕に、ブタマンとバフォリンを詰め込んだ買い物袋を提げている。
先ほどまでの怒りはどこへやら。その顔は、実に穏やかであった。
考えてみれば、ゴリラとは本来、温厚な動物である。
遺恨など気に病んでいたのは、案外キー坊だけだったのかもしれない。
「っしゃあ」と、超天才霊長類のもとへ駆け寄るキー坊。
イクラの瓶をしまい、ついでのようにAV傑作選を踏み潰すヒナ。
「キョアァァアア」
「見たかヒナァ! やっぱワシの見込んだゴリラやないケ!」
「……ゴリラ、私の支給品ですやん~」
ゴリラはそんな二人を前に、買い物袋を差し出した────。
「じゃ、再会祝いにDVD丸上げしよ。バズったら私の金ね。この『あんこう踊──」
「キキィィイイイイイイイイイイイイイ────────────ッッッ」
「「は???????」」
──キー坊が『射程距離』へ踏み込んだその瞬間。ゴリラの口元が、ニヤリと歪んだ。
──その背後には、防弾チョッキを纏う、見知らぬ猿。
──頼んでもいない援軍。その無表情には、人間を見下しきったかのような悪意が宿っている。
執念。
ゴリラは、忘れてなどいなかった。
先ほど受けた痛みも。キー坊に浴びせられた罵倒も。そして、己のケツに刻まれた『MONKI』の屈辱も。
拳によって生じた遺恨は、拳によってしか清算できない。
怒りのすべてを乗せたメガトンパンチが、キー坊の顔面めがけて振り抜かれた時。
ようやく人間サイドは状況を理解した───。
「……あ~~。カモがネギ背負ってきたっていうか」
「猿が猿連れてきただけやろがいッ!! ……上等や! やったろうやないケェッ!!」
──ホギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ
────『死合い』、再戦である。
………
……
…
◆
古典映画『キング・コング』(1933)の最期は、あまりにも有名だ。
摩天楼の頂へと追い詰められた巨獣は、複葉機の機銃掃射を浴び、地上へと墜ちた。
鋼の肉体を誇った森の王者が、最後には人間の造り出した兵器によって斃れる。
その結末に、当時の観客は憤り、涙し、あるいは呆然としたという。
──だが、人々は分かっていなかった。
──人類が築き上げた文明の力をもって、ようやく一頭を屠れた。その事実こそが《キング・コング》なのだと。
砂塵の吹き荒れるスーパーマーケット前。
満月。
月下に相対するは、人──宮沢熹一。そして、一頭のゴリラ。
観客はヒナと、銃器を携えた謎の猿のみであったが、もしこの場にて。
次の瞬間に起こる、拳と拳の激突を第三者が目撃していたのならば。
きっと、こう錯覚したに違いない。
“The Second World War never ended──.”
『第二次世界大戦には、まだ続きがあった』、と────。
「キョアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ」
「しゃああああああッ!!!!!」
両者、同時に地を蹴る──ッ。
猛進。交差。
閃光────ッ。
轟突──……。
────人と獣、再び相搏つ─────。
「グッキョアァァアアアアアッッッ」
咆哮と同時、先手を奪ったのはゴリラだ。
巨体が踏み込み、右腕が唸る。
膨れ上がったような拳が、瞬く間にキー坊の視界を埋め尽くした。
まともに受ければ、防御ごと骨を砕かれる。
技も駆け引きもない。ただ圧倒的な質量と膂力のみで相手を潰す、『獣』の一撃。
──だが、力任せの一撃ゆえに、その軌道は『読みやすい』。
「またそれかいっ! 二度も見せたら技やのうて癖じゃボケェッ!!」
激突寸前、キー坊の姿勢が沈んだ。
同時に地面を蹴り、巨腕の真下を──スライディングで突破。一息にゴリラの懐へ潜り込む。
必殺の拳が髪を掠めて、虚空を薙ぐ。
あと数センチ。軌道が高ければ、首から上を持っていかれていた。
その死線を潜り抜けた先──眼前に晒されたのは、ゴリラの二本脚。
『怪力』で勝てぬなら、『土台』から崩す。
キー坊の狙いは、最初からそこだった。
「しゃあっ! もろたでッ!! 灘神……影流…………ッ──『膝十字』やッ!!!」
ゴリラが声の出所を捉えた時には──もう遅かった。
右膝へ、一発。二発。三発。
キー坊の拳が、膝頭だけを正確に叩く。
一撃一撃は軽い。ただし狙いは、最初から『転倒』ではない。
──ゴリラの膝さえ折れれば、それでいい。
「しゃあっ!」
巨体が、わずかに沈む。
その一瞬、キー坊は右脚へ飛びついた。
その様は──まるで『大木に絡みつく蛇』。
両脚で太腿を挟み込み、獲物を逃がさぬまま全身を地面へ投げ出す。
ゴリラの右脚が、一本の棒のように真っ直ぐ伸びる。
その脚を胸元へ抱き込んだ瞬間、──キー坊は勢いよく腰を反らした。
「ギィッ!?」
ゴリラの右膝、その奥で何かが軋んだ。
焼けた鉄を関節へ捻じ込まれたような激痛に、獣の巨体が大きく跳ねる。
大口が開く。──ゴリラが、純粋な苦痛の絶叫で吼えた。
「キョガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!」
────【関節技・膝十字】。
その痛みは、一本の太い枝を両端から掴み、膝という節目だけを逆へへし折るに等しい。
伸び切った脚に逃げ場はなく、キー坊が腰を反らすほど、圧力のすべてが膝関節へ集中する。
靱帯が引き絞られ、骨と骨の継ぎ目が悲鳴を上げる。
常人ならば、ここまで極まった時点で勝負は終わるものであろう。
耐えるか否かではない。耐え続ければ、膝そのものが壊れるのだ。
──だが、相手は『常人』ではない。
「どうや、初めての関節技は! お前の戦術なんぞ、さっきの喧嘩で採点は済んどるんじゃッ!!」
そんな軽口を叩きながらも、キー坊は全身を軋ませ、ゴリラの膝を容赦なく締め上げていく。
だが、彼はまだ知らない。いや、知る由もなかった。
関節を極め、動きを封じ、数多の強者を沈める。それがキー坊の知る『関節技』だった。
──ただし、その常識はすべて、『人間』を相手に築かれたものである。
──人間は、脚に『虫けら』が噛みついた時────、
「さっき散々どつかれたんや、ワシかてお前の──」
「ホギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッキョアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ」
──迷わず掴んで、地面に叩きつける────。
「なにっ。……────ッ!!!」
次の瞬間、世界が反転する。
膝十字を極めたまま、キー坊の身体が宙へ浮いた。
ゴリラは己の脚に絡みついた人間を力任せに引き剥がすと、キー坊の足首を掴んだまま──、
──轟ッ!!
右へ。地面へ叩きつける。
──轟ッ!!
そのまま振り上げ、今度は左へ。
──轟ッ!! ──轟ッ!! ──轟ッ!!
巨腕が往復するたび、キー坊の身体がアスファルトを打ち鳴らす。
右──轟ッ!! 轟ッ!!
左──轟ッ!! 轟ッ!!
轟──轟ッ!! 轟ッ!! 轟ッ!!
轟──轟ッ!! 轟ッ!! 轟ッ!! 轟ッ!! 轟ッ!!
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!!!」
もはや投げではない。
ゴリラによる、人間を用いた杭打ちである。
一撃ごとに肺から空気が叩き出される。
一撃ごとに口から血が散る。
一撃ごとに右脚が嫌な方向へ折れ、裂けた肉から白い骨が覗いた。
天地の区別すら失われていく。
月。地面。月。地面。
その二つだけが、凄まじい速度で交互に視界を埋め尽くす。
そして何発目か──なぜか、まるで関係のない鬼龍の顔が脳裏をよぎったが、
──次の瞬間には、それすら地面との激突で吹き飛ぶ。
「ホギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ」
『人間掘削機』。
ゴリラはキー坊そのものを槌として、アスファルトを容赦なく叩き砕く。
衝突のたびに地面が爆ぜ、大小の破片が散弾のように四方へ飛び散った。
一つはスーパーのガラスを撃ち抜き、一つは大樹の幹へ深々と突き刺さる。
そして、小さな石礫の一つが、──棒立ちするヒナの青髪を掠めて抜けた。
「(……てゆーか、これ完全にポケモントレーナーの立ち位置なんだよね、私ら)」
凄惨な死闘を前に、ヒナは欠伸をひとつ噛み殺す。
協定がある以上、手は出さない。となれば、やることもない。
ただし、退屈と無警戒は別である。
視線だけを、横へ流す。
離れた場所には、銃を抱えたまま微動だにしない謎の猿。
猿もまた戦いには加わらない。ただ静かに立ち、時折その黒い瞳だけをヒナへ向けていた。
「(……あっちも暇そう。何考えてんだろ、あの棒立ち猿)」
轟音の傍らで、二人の傍観者だけが奇妙な静寂を保っていた。
やがて、視線が交わる。
ヒナは何も答えない。
ただ、僅かに目を細めるのみだった。
「……キキィ」
「……」
地面へ叩きつけられること、もはや何十度目か。
弾け飛んだ石礫が、ヒナの腰に巻いたブレザーへ迫り。触れる寸前、念動力によって空中でぴたりと止まる。
ヒナがそれを無造作に払い落とした、その折──、
『轟ッ』────。
──『決着』を告げる断末魔が、夜気を震わせた。
結果を語る前に、一つだけ説明しておく必要がある。
たとえば「重いですよ」と渡された箱。
身構えて力いっぱい持ち上げた──だが、実際には驚くほど『軽かったら』どうなるか。
相手は行き場を失った力で、腕は勢いよく跳ね上がる。
その『空振り』が大きければ、筋肉や関節を痛めることさえある。
──これを、いわゆる『予期しない負荷の解放(unexpected unloading)』という。
(『基礎運動学・姿勢制御と随意運動のメカニズム』より)
──つまり、
──キー坊が狙ったのは、その『空振り』だった。
地面へ叩きつけられ、ゴリラが再びキー坊の身体を引き上げようとしたその瞬間。
「ッ……ここ、やァッ!!」
キー坊は両掌でアスファルトを強く突き、自ら真上へ跳ね上がった。
「キョッ!?」
ゴリラは、キー坊の全体重を引き上げるつもりで巨腕に力を込めていた。
だが、その瞬間にキー坊が自ら跳ね上がる。
持ち上げるはずの『重さ』が、突然消えた。
全力を込めたゴリラの腕は止まらない。勢い余って、一気に頭上まで跳ね上がる。
──その『反動』が、激痛となって肩から肘を貫いたのだ。
ゴキィッ────。
────。
──。
すなわち、以上が、『決着を告げる断末魔』の正体だった。
ならば問おう。
天高き満月を背に、宙へ躍り出た影は、『誰』なのか。
折れた右脚を力なく垂らし、それでも拳だけは固く握る、傷だらけの闘者は『誰』なのか。
そして、苦悶する巨獣の顔面へ、ただ一つの拳を突き出す『勝者』は誰なのか。
「……何べん……地面にキスさすねん……。そない好きならッ……──次は、お前が舐めてこいやァッ!!」
──言うまでもない。
「キョ……キョアアアアアアアアアア……ッ」
「しゃあ……しゃああああああああああああああああああッ!!!!!」
キー坊の拳が、ゴリラの顔面へ決着の一直線に奔った────。
「灘神影流……『怒りの鉄──」
──だが、その技名が最後まで紡がれることはなかった。
勝負は既に、キー坊の『知らぬところ』で動いていたのだ。
「──ぐっ!?」
突如、キー坊の全身へ凄まじい『重圧』がのしかかる。
拳は標的を目前にして止まり、宙を駆けていた身体は勢いそのまま地面へ叩き落とされた。
「がッ……! な、なんや……!? ──あぁあッ!!!」
何が起きたのか。
その疑問が怒りへ変わるより早く、答えは見えた。
戦場の外。こちらへ掌を向ける──ヒナ。
──『念動力』。
「…………ヒナァ……ッ!! お前……何しとんじゃァッ!!」
「……っ」
キー坊は地面へ縫い付けられたまま吼えた。
「手を出すな」。「念動力を使うな」。
たった少し前交わした約束すら守れないのか──怒りが頭を焼く。
だが、そこでキー坊の怒声が止まる。
ヒナの顔から、いつもの気の抜けた無表情が消えていた。
僅かに見開かれた双眸。そこには、明らかな焦燥が滲んでいた。
そして、拳を受けるはずだったゴリラもまた、追撃には出ていない。
突然目の前から消えた獲物を前に、巨腕を振り抜いた姿勢のまま、訝しげにキー坊を見下ろしている。
「……なんや、お前……」
その時、キー坊はようやく気づいた。
つい先ほどまで自分の頭があった場所に──一発の『銃弾』が貫いていたことを。
乾いた銃声を、遅れて脳が理解したことを。
「ヒ、ヒナ──」
「あ。キー坊、後ろっ!」
声はキー坊へ。
だが、ヒナの視線が『その背後』を捉えていたことに気付いた時。
「……キキィッ!」
──その時すでに、キー坊の胸元へ。
『もう一匹の猿』が放った拳は、キー坊の心臓へ一直線に迫り────、
────パリンッ。
「……むっ」
遠く離れた地。
育ての親・宮沢静虎の手から、湯呑みが滑り落ちた。
「………………熹一」
………
……
…
◆
推定知能──IQ・201以上。
腕力──百万人に一頭とされる、規格外の膂力。
奥竹山の群れを束ねるボス猿────『ベン』。
農作物を荒らし、数十頭もの猿を従えてきたこの野獣が、何の因果か殺し合いへ放り込まれた時。
その高すぎる知能が導き出した行動指針は、ただ一つだった。
──“狡猾に立ち回り、最後まで生き残る”。
手始めにベンは、遭遇した見知らぬ一般人を銃撃。
その後、獲物を求めて彷徨う最中、ベンの視界に、一頭のゴリラが映った。
買い物袋を片手に、夜道を歩く巨獣。
その異様な姿を認めた瞬間。
IQ201を超える頭脳派、獲物を支配するための策謀を組み上げていく。
“自分は猿。人語は使えぬ。ゆえに、人間を操るには『駒』が要る”
“この殺し合いを裏から支配し、愚かな人間共を喰い合わせるための、強靱な『牙』が”
“────まずは、この『巨獣』から支配する”
ゴリラから情報を引き出すことに、そう時間はかからなかった。
そして得られた情報の中から、ベンは即座に『一人』へ狙いを定める。
聞けば、その小娘。
義父・新田が風邪で倒れた際、その身体を『見えざる力』で操り、敵対ヤクザ組織を壊滅。戦果すら挙げさせたという。
人間一人を意のままに動かす、規格外の能力。
それでいて、頭の出来は、決して良くないらしい。
ならば、都合がいい。
──新田ヒナ。
「……キキィ」
猿の口端が、邪悪に吊り上がる。
その黒い双眸が見下ろす先には、力なくへたり込む、第一の標的、新田ヒナ。
そして、その傍らには。
鼓動を完全に止め、物言わぬ骸と化した────宮沢熹一。
「キキィイイイイイイイイイッッッッ!!!!」
「キョアアァァアアアアアアア」
「……なに、……これ」
人を欺き、獣を従え、すべてを『駒』として喰らう。
猿史上、最も邪悪なる存在、ベン。
その恐るべき初陣は、一人の闘者の死をもって、ここに幕を上げたのだった──。
バクンッ、バクンッ──。
「……イミフすぎ、イミ、わかんない。…………キー坊……」
ヒナの心臓が、早鐘を打つ。
だが、その鼓動がどれほど高鳴ろうと、血の泡を口端から零すキー坊の胸は、もう二度と脈打たない。
幸か、不幸か。
二頭の猿はなお咆哮を交わしていたが、その会話の意味をヒナが知る術はなかった。
『命令だ。足元の小僧にトドメを刺せ。その頭蓋を踏み砕き、貴様の野生を証明しろ』
『……御意』
知らなくてよかった。
少なくとも、次の瞬間までは。
ゴリラの巨脚が持ち上がる。
その足裏が、物言わぬキー坊の頭上へ重なった瞬間。
「あ……」
バクンッッ──。
心臓が、ひときわ激しく跳ねた。
「……ゴリラ。なにしてんの」
「…………」
バクンッッ、バクンッッ、バクンッッ──。
少女の声から滲んだ異変さえ、もはやゴリラには届かない。
「……それ、やめてって」
「…………」
バクンッッッ、バクンッッッ──。
ゴリラは足を下ろさない。
かといって、引きもしない。
ただ命令を待つ処刑人のように、キー坊の頭上へ巨脚を掲げ続けている。
もはや、ヒナの言葉に従う理由はなかった。
ゴリラが従う相手は、背後に立つベンただ一頭。
野生の間でいつしか結ばれた上下関係は、つい先ほどまで人間と交わしていた奇妙な友情など、とうに塗り潰していた。
「キー坊、もう負けてるから」
「…………」
「……だから、やめて」
バクンッッッ、バクンッッッ、バクンッッッ、バクンッッッ──。
その証拠に。
ゴリラの片手には、ブタマンとバフォリンの入った買い物袋が、さして興味もなさげに握られている。
──ほんの少し前まで、三人で食べる『はず』だったものが。
────バクンッ。
「ホキョアアアアアアアアッ……」
「……ゴリラ」
ヒナは、ゴリラと目を合わせられなかった。
先ほどまでキー坊と拳を交わしていた獣の瞳から、闘争の熱は消えている。
動かなくなった獲物を、確実に仕留める。
ただそれだけの、『狩り』の目だった。
「……キキィ」
その光景を前に、ベンは静かに口端を吊り上げる。
見えていた。この先の未来が。
ここに集められた人間共が次々と地に伏し、その骸へ蛆と蝿が群がる光景。
そして最後には、この殺し合いを仕組んだ主催者──森口悠子さえも、自らの牙が喰らい尽くす未来が。
だが、急ぐ必要はない。
キー坊一人を仕留めるため、ゴリラは随分と手を焼かされた。
ならば最後の一撃くらいは譲ってやる。それが手駒へ与える、せめてもの慈悲だった。
ベンはゆっくりと後方へ歩を運ぶ。
ただし、銃口だけは、ゴリラから決して逸らさない。
従順に見えようと、所詮は野獣。万一こちらへ牙を剥けば、その瞬間に撃ち抜く。
──支配することと、信用することは『別』なのである。
風が吹き抜ける。
ゴリラの手に提げられたレジ袋が揺れ、とうに冷めた肉まんから、微かな湯気の名残だけが夜気へ溶けていく。
「……おねがい、だから」
「……」
掠れたヒナの懇願にも、ゴリラは目を向けない。
ただ静かに。ゆっくりと。
「キョアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ」
足元に横たわる少年の頭上へ掲げた巨脚に、全体重を乗せていった──。
──バクンッ。
「────……ァッ…………」
──かつて、ひとりの少年と肩を並べ、同じ道を歩いた、
────その『同じ足』で。
…
……
………
『キョア……キョァッ…………』
懐かしい匂いだった。
十年前。薄暗い飼育小屋。
ボロ雑巾同然のゴリラは、肉まん──『包子』の底紙を、いつまでも噛んでいた。
味など、とうに残っていない。
それでも噛んだ。
『あの少年』と、半分ずつ食べた味がした気がしたから。
台湾で生まれたゴリラの、最も古い記憶。
それは、一人の少年に抱きかかえられた日のことだった。
芸を覚えた。金を稼いだ。村の人気者にもなった。
そんなものは、どうでもよかった。
芸のない日。二人で川へ行った。ザリガニを捕った。喧嘩した。
少年を川へ放り投げたら、本気で怒られた。
帰り道。少年が買ってくれた包子を、二人で半分ずつ食べた。
ゴリラにとっては、それが何よりの報酬だった。
たとえ、どれだけ春が過ぎようとも。
『……モンキ、俺たちずっと友達だよな? ハハ』
どれだけ、冬が過ぎても。
『……知らねぇし。知らねぇし! だからうるさいつってんだよお袋!!』
どれだけ、周りの人間が自分のことを忘れても。
『……モンキ、テメェ靱帯、切れただって……? 待てよ……じゃあ明日の興行どうすんだよ。金、入らねぇじゃねぇか……。俺、明日までに返さなきゃ……マジで殺されるんだぞ……』
──どれだけ、包子を半分くれた手が、ゴリラを殴る手になっても。
『動けよッ!! 金を稼げねぇボゲ猿に何の価値があるんだよオオオオオオオオオッ!!』
────、
──。
……。
ゴリラは雨の日、逃げた。
背後から、聞き慣れた怒声が追ってくる。
それでも振り返らなかった。
大雨の中を、ただ前へ。前へ。
泥を蹴り、息を切らし、それでも走り続けて、──車にはねられた。
運転していたのは、遠い『ニホン』という国の動物園に勤める人間だった。
傷と痣にまみれた身体は保護され、ゴリラは少年のもとから遠く離れていくことになった。
薄れゆく意識の中。
それでも、ゴリラは脚を動かそうとしていた。
──アイツが悪いんじゃない。
──自分の身体が『弱い』から、アイツは変わった。
──自分が悪かったのだから。
──だから、頼む。
あの夏の日。
自転車の籠いっぱいに包子を詰めて、笑いながら坂道を駆けていく少年。
その背中を、息を切らして追いかけた、あの疲れだけは────、
「……帰ってきたら続きや、ゴリラ。今度こそ決着つけたろうやないケっ!」
………
……
…
────パァン。
「キキィッ……チッ」
乾いた銃声。
一発の銃弾が、役目を果たさなかった『手駒』の眉間を撃ち抜いた。
その瞬間、ゴリラの思考は永遠に途絶えた。
もう考えることもない。思い出すこともない。
ゴリラが最後に行った行動はただ一つ。
──おつかいのレジ袋を、ヒナへ差し出したことのみ。
巨体が、ぐらりと揺れる。
ゴリラの身体が、最後にわずかに傾く。
ヒナを避けるように、その巨体は、前方ではなく『後方』へと倒れていった。
それが最後の意思だったのか。あるいは、ただの偶然だったのか。
「……キキィ」
銃口から立ち昇る硝煙を、ベンが静かに吹き払う。
使えぬ駒を一つ処分した。それだけのこと。
倒れゆく巨体を冷然と見送り、
──その向こう側に現れた『もの』を見た瞬間。
「…………キキ……、──」
「──キキイイイイッ!?」
ベンの顔から、初めて余裕が消えた。
──────バクンッ。
「私、言ったでしょ。成功するって。──念動力での『心臓マッサージ』」
「腐っても……鯛っちゅう、わけやな……。お前の力も……バフォリンも……」
◆
【♪──Way of the Fighting Megaton Punch】
雷鳴が轟く。
閃光が、倒れたゴリラと宮沢熹一を白く灼く。
巨体を越え、着地と同時に右脚が砕けても──キー坊は止まらない。
本来なら、とうに歩ける身体ではない。
それでも一歩。また一歩。壊れた身体を、ヒナの『見えざる力』に支えられながら。
雷光に照らされた無表情のまま、ただ無言で、ベンとの距離を詰めていく。
『理解不能』。
IQ201を超えるベンの頭脳をもってしても、ただ一つだけ理解できなかった。
なぜ、この男はまだ立っている。
いや。なぜ、生きている。
──何にせよ、もう一度殺せばいい。
「キキイッ」
パァンッ──。
第一射──外れ。弾丸はキー坊の足元を穿ち、アスファルトを爆ぜさせる。
だが、距離は縮まった。近づけば近づくほど、次弾の照準は容易くなる。
ベンは動じることなく銃口を持ち上げ、照準を修正。
今度こそ、キー坊の眉間を、正確に捉えた。
「キキッッ」
パァンッ──。
「ィキギッ……!」
──また、外れた。
この距離で。二度も。
偶然では、もはや説明がつかない。
ベンは苛立ちを噛み殺し、迫り来るキー坊の眉間へ、三度目の照準を重ねた。
パァンッ────。
「キキイイッ!!?」
──三発目にして、ベンはようやく理解した。
照準は一度たりとも狂っていない。
弾丸はすべて、確かにキー坊を捉えていた。
だが、眼前の現実を目にした以上、もはや認めるほかなかった。
命を奪うはずの弾丸が、その身へ触れる寸前。
まるで彼だけを避けるかのように、──次々と、その肉体を『滑り抜けて』いく。
ベンの視線が跳ねる。
その先には、キー坊へ掌を向けたまま、微動だにしないヒナ。
言葉もない。表情もない。
ただ彼女の『見えざる力』だけが、キー坊の壊れた身体を前へ運び──同時に、彼を穿つはずの弾丸を軌道から押し退けていた。
そこでようやく、ベンは己が『何』と戦っていたのかを悟った。
──絶叫にも似た猿の雄叫びが、夜を劈いた。
◇
「……キキ……!?」
撃ち抜いたはずの鬼龍が、倒れない。
一瞬よろめき──何事もなかったように、再び駆け出す。
「……やはり獣は侮れん」
◇
…
……
………
“いいの? 私の念動力、使うなって言ったじゃん”
『…………アホ。いつまで『自分一人だけの』力や思うとんのや』
………
……
…
────灘神影流『弾丸すべり』。
──feat. サイキック少女。
「キィ、ギッ、ギギギギィイイイキイイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!!!!」
もはや、策も計画もなかった。
ベンは怒りのまま銃口をヒナへ振る。
狙いなど知るか。撃つ。殺す。それだけでよかった。
──だが、その一手は、あまりにも遅い。
「キキィイアアッ!!??」
銃口の先へヒナを捉えた時には、ベンの視界いっぱいに『拳』があった。
二度も死合いを邪魔し、最後にはゴリラの命まで奪った外道へ。宮沢熹一、怒りの一撃。
避けられない。
防げない。
その刹那、IQ201を超える頭脳は初めて──己の『死』を理解した。
そして脳裏に、過ぎ去った記憶が走馬灯となって駆け巡る。
──そう。
ベンにもまた、『哀しい過去』が────、
「……お前にはいらへんやろ。ボゲッ」
────────ッ。
──。
………
……
…
灘神影流──『怒りの鉄拳制裁《メガトンパンチ》』。
一撃を最後にその技は、拳からふと消えていった。
【ベン@D-LIVE!! 死亡確認】
【残り85人】
【C-3/深夜/1日目】
【宮沢熹一@高校鉄拳伝タフ】
[状態]:健康(全身打撲、右脚開放骨折、裂傷多数、疲労)、罪悪感(中)
[装備]:なし
[道具]:基本支給品一式、ブタマンx10、不明支給品×2
[思考]:鍛える。闘う。強者でも、殺し合いに乗ったクズでもまとめて来いやッ!!
1:……銃の猿。お前も背負ったる。木場も、ガルシアも、ゴリラも……ワシは誰一人、忘れるわけにいかんのやっ。
2:念動力……クソほど気に食わん。せやけど認めたる。ワシが超えなアカン『強さ』が、そこにある。
3:……やっぱ十もブタマンいらへんて。……ゴリラ。
※参戦時期はガルシアの死を乗り越えて以降(鉄拳伝40巻以降)です。
【新田ヒナ@ヒナまつり】
[状態]:健康
[装備]:なし
[道具]:基本支給品一式、バフォリン@ヒナまつり、イクラの瓶詰@ヒナまつり、あんこう踊り初心者講座DVD@ガルパン
[思考]:キー坊を死なせない。今度は、ちゃんと一緒に戦う。
1:キー坊の身体、念動力で支える。壊れすぎ。
2:念動力に制限はなし。問題は私が頭悪いから、使い方あんま思いつかないこと。
3:ゴリラ。……じゃ。
※参戦時期は高校生編(10巻以降)です。
※『ゴリラ@TOUGH 龍を継ぐ男』の遺体は、D-3に安置されています。
【支給品説明】
『バフォリン@ヒナまつり』
……ただの頭痛薬。
かつてヒナが骨折した際、新田が「痛み止め」として飲ませたもの。
当然、骨折そのものが治るわけではない。
だが、思い込みによる『プラシーボ効果』とは時に侮れない。
※実在商品をモデルとしているため、名称を変更しています。
最終更新:2026年08月29日 23:49