本章で取り上げる問題の中心テーマは、人権規定はどのような社会関係に対して効力をもつか(私人間適用の問題)、および、効力をもつ場合にはどの程度まで保障されるか(人権の限界の問題)であるが、その前提として、そもそも人権規定はどのような意味で効力をもつのかという問題(法的性格の問題)がある。 人権規定は、実定憲法の中に規定されている以上、実定法上の効力をもつのが当然と思われるが、人権規定の中には法的効力をもたないと考えるべきものもあるという見解も存在するから、まずこの点の検討から始めよう。 |
<目次>
1 人権規定の法的性格
(1) 議論の由来
1789年のフランス人権宣言は、社会のあり方の基礎を定める憲法がどのような原理に基づかねばならないかを宣言したものであった。
したがって、それは自然法的な性格をもつ文書であり、実定法的な効力をもつものではなかった。
そこで宣言された諸原理は1791年憲法に取り込まれることにより初めて実定法上の効力をもつに至ったのである。
しかし、その後のフランス諸憲法は、すべてが人権規定をもったわけではない。
特に、第三共和政憲法は人権規定をまったくもたなかったし、第四共和政憲法および現行の第五共和政憲法は、前文で1789年人権宣言を厳粛に確認すると述べただけで、本文には人権規定を置かなかった。
このために、人権宣言あるいは憲法前文が法的効力をもつのかどうかが、長い間学説上対立してきた。
また、ドイツでも、ビスマルク憲法は基本権規定をもたず、詳細な基本権規定を置いたワイマール憲法に関しては、その基本権規定の多くにつき、それらは法的性格をもつものではなく政治の指針・目標を掲げたプログラムにすぎないとする「プログラム規定説」が学説上は有力であった。
(2) 日本における議論
フランスやドイツにおける上述のような議論の影響を受けて、日本でも人権規定は法的性格をもつのかという問題が提起されることがある。
しかし、法的性格あるいは法的効力をどのような意味あるいは次元で用いているかが必ずしも明確にされておらず、議論に混乱がみられる。
少なくとも、次の三つの次元を明確に区別して論ずべきであろう。
第一は、フランスの学説にみられた、人権というのは宣言的意味のものであり、自然法的あるいは倫理的効力はもつにしても、法的効力はもたないという議論である。
日本国憲法の人権規定についても、11条や12条は訓示規定にすぎず法的効力をもつものではないと説明されることがあるが、これらの規定も実定憲法の中に存在する以上法的効力をもつと考えるべきであり、この種の議論は日本国憲法の解釈には当てはまらない。
第二は、人権規定は抽象的性格が強く具体的意味内容を欠くから、法的性格をもちえないという議論である。
たしかに、人権規定には、他の法律と比べると抽象的な規定が多い。
しかし、規定の抽象性は必ずしも法的性格の欠如をもたらすわけではない。
ある規定があらゆる行為を許容するほどに抽象的である場合には、その規定により許される行為と許されない行為を区別しえないから、法的効力をもつとはいえないであろう。
しかし、日本国憲法の人権規定には、それほどまでに抽象的な規定は存在しない。
抽象度が高く、許容される行為の範囲が広いという規定は存在するが、それは広い裁量を許容しているということにすぎず、裁量の限界は存在するのであり、その限度で法的意味をもつ。
第三は、裁判所が人権規定を判決の基礎に援用しうるかどうかというレベルで、法的効力の有無を議論するものである。
この用法においては、裁判所に違憲立法審査権がなければ、法律との関係では人権規定には法的効力はないことになるが、もし行政行為の違憲審査はなしうるということであれば、その限りで法的効力をもつということになる。
しかし、違憲審査権がある場合でも、特定の人権規定については裁判所の判断の基礎にすることができないといわれることがある。
プログラム規定と呼ばれるのがそれで、日本では、憲法25条の生存権規定や9条の戦争放棄の規定につき、かかる見解を唱える説が存在する。
しかし、最近の通説的見解は、プログラム規定の存在を否定している。
実定憲法の中に規定された以上、何らかの法的効力をもつと考えるべきであり、いかなる法的効力をもつかを確定することこそ、解釈学の役割なのである。
以上要するに、日本国憲法の人権規定は、どの意味においても法的効力を有すると解してよい。
しかし、法的効力を有するということは、それがあらゆる社会関係で妥当するということを意味するわけではない。
人権が適用されるべき社会関係を同定することが、次の課題である。
2 私人間における人権の効力
(1) 問題の意味
実定憲法上の人権規定は、もともとは国家(公権力)を名宛人としており、国家と国民の関係にのみ適用されると考えられたが、今日では、現代国家において人権の保障を実質化するには、私人間の関係にも適用すべき場合があると主張されるようになってきた。
その変遷の意味を最初に見ておこう。
(ア) 当初の理解
人権とは、人が人としてもつ権利であった。
権利であるということは、その尊重を要求しうるということであるが、問題は誰に対して要求しうるのかである。
この点を、まず社会契約論の論理に立ち返って考えてみよう。
社会契約論の想定によれば、人は自然状態において、誰に対しても主張しうる自然権をもっていた。
しかし、自然状態においては、各人が自己の権利についての裁判官であり、共通の第三者的裁判官が存在しないから、権利について争いが生じたときには最終的には強者の主張が勝つことになり、必ずしも各人の自然権が護られる保証はない。
そこで、よりよく自然権を保障するために、社会契約を結んで社会を形成し政治権力(共通の裁判官)を創設する。
憲法の制定は、かかる公権力を創設・組織し、必要な権限を授けかつ制限する行為であった。
そうだとすれば、憲法の名宛人は、第一義的には、公権力だということになる。
ゆえに、憲法の中に規定された人権の名宛人も公権力ということになる。
つまり、公権力に対し憲法(人権)を遵守することが命じられているのである。
もちろん、公権力の目的・存在理由は、各人が留保した自然権の擁護・保障である。
ゆえに、公権力(国家)は、個人間の自然権衝突を調整する責務を負い(これを国家の自然権保護義務と呼んでもよい)、そのために法律を制定し、執行し、裁判を行う。
法律の役割は、すべての個人が平等に人権を享有しうるように、各人の人権を必要な限度で制限することである。
フランス人権宣言が述べたように、「自由とは、他人を害さないあらゆることを行いうるということに存する。したがって、各人の自然権の行使は、同じ権利の享有を他の社会構成員に確保する以外の限界をもたない。その限界は、法律によってのみ決定されうる」(4条)、「法律は、社会にとって有害な行為しか禁止する権利をもたない。法律の禁止していないことは、一切阻止することは許されず、また、誰も法律の命じていないことを為すよう強制されることはない」(5条)。
ゆえに、各人は、法律に従っている限り、他人の人権を侵害することはない。
憲法が制定されて以降は(つまり、実定法秩序の内部においては)、個人間の関係(私法関係)を規律するのは法律であり、憲法(人権規定)がここに直接適用されることはないということになる。
人権は公権力を制限するものであり、公権力と個人の関係に適用されるものとなるのである。
もっとも、実定法を超える自然法領域においては、自然権は個人間に効力をもつのであり、近代初期において自然法と実定法がいまだ峻別されていなかった時期には、憲法上の人権が私法関係にも適用されるという観念が存在したが、19世紀後半以降、法実証主義的な思想が支配的となり自然権思想が通用力を失っていくと、私法関係を規律するのは法律であるという思考が支配的となる。
この傾向は、もともと自然権思想が弱く、法実証主義的方法論が風靡したドイツにおいて、一層強く現れた。
(イ) その後の変化
ところが、19世紀末以降、社会の中に大企業や労働組合などの巨大な資本・集団が生み出され、個人に対し社会的権力をふるうようになり、これらの強者による弱者の人権侵害が問題とされるようになってきた。
たとえば、会社や労働組合が社員・組合員の思想を理由に差別的扱いをしたとすれば、思想の自由あるいは平等権の侵害ではないのか、といった問題である。
ところが、社会的権力も法的には私人であり、これらの強者と弱者の関係は私人間の関係ということで憲法の人権規定は適用されないとされた。
本来の論理からいえば、議会が弱者の人権を保護する法律を制定して問題を解決すべきだということになる。
そして、たしかに多くの領域で弱者保護のための法律が制定されたし、場合によっては、たとえば労働基本権の保障のように、私人間に直接適用することを予定したとも解されうる人権規定を憲法の中に書き込むことも行われた。
しかし、社会が必要とするこうした人権保護立法に議会が取り組むことは、どうしても遅れがちとなるし、また取り組んでも議会に反映されている力関係のために弱者にとって不十分なものとなりがちで、人権侵害が生じているのに私人間に適用できる人権規定も存在しないし、これを救済するための法律も制定されていない、あるいは不十分だという状況が生じうる。
このような場合に、裁判所が人権を救済することが可能となる憲法理論を解釈論として構成できないものであろうか。
こうした問題意識から出てきたのが、人権の私人間適用あるいは人権の第三者効力と呼ばれる解釈理論である。
なお、かかる問題意識が生じえた前提として、違憲審査制を導入した現代憲法においては、憲法が裁判規範としての性格を確立していたことも見逃してはならない。
(2) 学説・判例
上述のような展開の結果、私人間に人権規定は適用されないという当初の理解(無適用説)は最近ではほとんど支持を失い、何らかの形で私人間にも人権保障を及ぼしていこうという学説が支配的となっているが、その理論構成において直接適用説と間接適用説が対立している。
これらの議論は、基本的にはドイツの議論に触発されたものであるが、間接適用説に立ちながら部分的にアメリカのステイト・アクションの理論を参照すべきことを主張する学説もある。
最高裁の判例がどの立場を採用しているかについては、微妙な点もあるが、一般には間接適用説を採用したと理解されている。
以上を順次説明した後、当初の理解であった無適用説を再評価してみたい。
(ア) 直接適用説
この説は、人権規定を私人間にも直接適用できる規定であると解する。
もともと人権は社会の基礎に置かれるべき権利であり、社会のあらゆる関係において尊重されるべき権利と考えられていた。
それが、法実証主義の思想によりその適用範囲を国家と個人の関係に限定されてしまったが、法実証主義の問題点が明らかになった今日、原点に戻って考えるべきである、と主張する。
もっとも、直接適用説といっても、実際には、あらゆる人権規定をあらゆる私人間関係に適用すべしと主張する説はなく、規定の種類からは人権の原則規定や制度保障規定に限定し、私人間関係の種類に関しては「事実上の権力」(私的権力)が一方当事者である場合などに限定するのが普通である。
この説に対しては、人権の適用範囲を私人間にまで拡大しその保障を強化するもののように見えながら、その実、人権にとっての最大の脅威は現代においても依然として国家権力であり、人権がまず制限すべきは国家権力でなければならないという立憲主義の基本思想を見失わせる危険をもつとの批判がなされた。
そこで、人権規定が直接適用されるのは国家権力に対してであるという立憲主義の論理を維持しつつ、私人間における人権侵害の救済をはかろうとして提案されたのが間接適用説といわれるものである。
(イ) 間接適用説
この説においても、人権の歴史、性質あるいは規定の文言から私人間に直接適用されるものがあることは否定しない。
たとえば、日本国憲法15条4項(投票の秘密)、18条(奴隷的拘束・苦役からの自由)、28条(労働基本権)などが、それにあたる。
しかし、それ以外の人権については、私人間でその保障をはかるのは法律の役割であるという論理をあくまでも維持する。
そのうえで、問題の私人間関係に適用しうる適当な法律条文を見つけて、その条文の中に可能な限り人権保障の趣旨を読み込むことにより間接的に人権規定を私人間に及ぼしていくという方法がとられるのである。
その場合に最もよく使われる条文が、民法中の一般規定である90条と709条である。
民法90条は「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする」と規定している。
そこで、契約などの法律行為により人権を制限している場合には、その契約を公序良俗違反で無効とすることにより人権の保護をはかるのである。
もちろん、私人間の関係は基本的には私的自治が支配する領域であるから、平等な力関係にある当事者が真摯に結んだ契約なら、たとえ人権の制限がなされていようとも、有効として差し支えない。
問題なのは、強者と弱者の間で、強者が弱者の人権を制約している場合である。
このような場合には、公序良俗に反するとすべきことが多いであろう。
公序良俗違反かどうかを判断するのにもう一つ重要な要素は、そこで制限されている人権の性格である。
内心の自由を制限しているような場合は、公序良俗違反とすべき場合が多くなろう。
いずれにせよ、重要なのは、このような法技術を用いることにより、立憲主義の論理を維持しながら私的自治と人権保障の調和が実現できることである。
民法709条についても同様である。
709条は「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」と規定している。
そこで、事実行為により人権の侵害が行われた場合には、この規定を用いて、この中に人権保障の趣旨を読み込み救済を与えるのである。
この間接適用説は、人権の名宛人は国家であるという基本原則を維持しつつ私人間における人権侵害を救済しうる理論構成として学説上広範な支持を得て通説となった。
しかし、国家を名宛人とする憲法上の人権をなぜ私人間を規律する法律規定に読み込むことができるのか。
この点についての明瞭な説明は、間接適用説からはなされていない。
一般規定の中に読み込むとは、憲法上の人権をたとえ間接的であれ私人に対して主張することを意味するはずである。
そうだとすれば、国家と私人という「タテの関係」で効力をもつ憲法上の人権規定をどのようにして私人と私人の関係という「ヨコの関係」に効力をもつものに転換するのかの説明が必要なのである。
タテの関係のままでヨコの関係に読み込むなどということは、できないのではないか。
読み込む前にタテからヨコへと転換する操作が必要ではないのか、という疑問である。
このことは、日本が学んだとされるドイツの間接適用説と比較するとよりよく理解できる。
ドイツでは、基本権を民法の一般規定に「充填」する前に、ヨコの関係にも及ぼすための解釈論上の操作を行っているのである。
基本権の少なくとも基本的価値を表現する規定(ドイツ基本法1条の人間の尊厳規定や2条の人格の自由な発展の保障規定など)は、客観的価値秩序を定めた客観法的規定として全方位的に、つまり国家のみならず私人に対しても効力を及ぼしており、それが民法の一般規定に充填されると説明しているのである。
日本の間接適用説には、この操作が欠けており、理論的に不十分な説明となっているのである。
(ウ) 一般規定の合憲解釈・適用説
間接適用説の問題点は、「タテの関係」を「ヨコの関係」に転換する操作を欠いている点だと述べたが、そのような転換は不要であると主張するのがこの説である。
間接適用説は、憲法上の人権を民法の一般規定に読み込むという構成をとってきたが、それは正しくは「ヨコの関係」に読み込むということではなくて、あくまでも「タテの関係」に着目しており、裁判所が私人との関係で民法の一般規定を憲法に従って解釈し適用するにすぎないのだというのが、この説の眼目である。
つまり、私人間適用といわれるものの実態は、国家としての裁判所が私人Aとの関係、および、私人Bとの関係で、AおよびBの人権を侵害しないように法律を合憲的に解釈・適用するということにすぎないというのである。
たしかに、裁判所は法律を適用するにあたり、解釈として許される範囲内で合憲解釈を行い、かつ、それを具体的事案に合憲的に適用しなければならない。
ゆえに、裁判所が一般規定を合憲解釈・適用すること自体には何の問題もない。
おそらく従来の間接適用説もそのことは当然の前提としてきたものと思われる。
そこで、問題は、憲法上の人権の私人間効力とは、私人間に適用される法律を合憲解釈・適用するということに尽きるのかどうかである。
もしそれに尽きるならば、そもそも私人間効力という問題設定自体が誤っており、仮象問題にすぎなかったということになる。
しかし、AB間の争いは、裁判所がAとの関係で法律を合憲的に解釈適用し、Bとの関係でも合憲的に解釈適用することにより常に裁定できるのかどうか疑問である。
Aとの関係で合憲であり、Bとの関係でも合憲である解釈が常に一つに収斂するとは限らないからである。
合憲解釈の結果答えが一つに収斂しない限り、AB間の争いの裁定はAおよびBの相互に対立する利益の衡量により決める以外にないが、その利益衡量に人権を考慮しうるかどうかが私人間効力論の要点なのである。
合憲解釈・適用説では、この肝心な点の説明が欠けることになる。
さらに、現実の訴訟の場面を想定して考えると、この説には次のような問題も存在する。
たとえばAがBにより「人権」を侵害されたとして、裁判所に救済を求める場面を想定しよう。
Aは私人Bに対して憲法上の人権侵害を主張することはできない。
にもかかわらず、AはBを被告に裁判所に出訴して、適用法律を合憲的に解釈適用してAに救済を与えなければ、裁判所はAの人権を侵害することになると主張しうるであろうか。
裁判所が救済の義務を負うのは、Aが法的に保護された利益の侵害を論証したときである。
ところが、AはBによる人権侵害を主張しえないのであるから、その論証ができていない。
そうだとすれば、裁判所としてはAの請求を退けるのが当然であり、退ければ裁判所が救済義務を果たさずAの人権を侵害することになるという主張は成り立たないはずである。
(エ) 国家の基本権保護義務論による説明
ドイツでは国家には基本権を保護する法的義務があるという考えが憲法裁判所により認められており、この考えを使って第三者効力論を説明する見解が存在し、日本でもそれに学んだ理論構成が唱えられている。
ここでも裁判所と私人A、および、裁判所と私人Bという「タテの関係」に議論の焦点が当てられる。
AB間の利益対立を裁定するに際して、基本権保護義務を負う裁判所は、Aとの関連で過小保護とならないように配慮し、Bとの関連では過剰介入にならないように配慮しなければならず、両者の均衡点を探ることになる。
この限りでは、合憲解釈・適用説と基本的発想において異なるところはない。
違いは、AがBに対して主張する法的利益の根拠を提示する点である。
それが基本権の客観法的機能としての「基本権的法益」である。
憲法上の基本権規定は、国家に対して主張しうる主観的権利(基本権)として機能すると同時に、全方位的に効力をもつ客観法的機能をも有し、それが法的保護を受けるべき「基本権的法益」を根拠づけるのである。
もしこの基本権的法益が民法の一般条項に充填されると構成すれば、それはまさにドイツ憲法裁判所の判例理論と同じとなろう。
それに対して、一般条項に充填されるまでもなく独自に法的利益の根拠となると解するなら、直接適用説との違いは曖昧化しよう。
いずれにせよ、この説においては、憲法観が変更されていることに注意が必要である。
憲法上の基本権は国家のみを名宛人とするのではなく、たとえ客観法的にであっても、私人をも名宛人としているのである。
憲法およびそこに規定された人権は国家のみを名宛人とするという憲法観を維持したうえで私人間効力の問題を解決しようという立場からは離れているのである。
(オ) ステイト・アクション(state action)の理論
間接適用説がドイツで発展させられた理論を参考にしたものであるのに対し、ステイト・アクション論というのは、アメリカ合衆国最高裁の判例で展開された理論である。
合衆国憲法の人権規定は直接には連邦政府の行為を規律するものであり、もともとは州政府の行為には適用されなかったが、現在では修正14条を通じて「州の行為」(state action)にも適用されることになっている。
したがって、州がたとえば人種差別法律を制定すれば、その法律は修正14条の平等原則が適用されて違憲無効とされる。
しかし、州内の私人が人種差別行為を行っても、これは州の行為ではないので、修正14条を適用することはできない。
ところが、合衆国最高裁は、その私人が州から援助を受けているなどの事情があり、州と特別の関係にある場合には、私人の行為を州の行為とみなして人権規定を適用するという理論を発展させた。
これを参考にして、日本でも私人が国と特別の関係にあるような場合には、その私人の行為を国の行為とみなして人権規定を直接に適用すべきではないかという提案がなされている。
国が、自らは行うことが憲法上禁止されていることを私人を使って行わせるような場合、この理論を使うと国の脱法行為を阻止しやすくなる可能性はある。
たとえば、殉職自衛官合祀事件(最大判昭和63年6月1日民集42巻5号277頁)においては、私人である隊友会が殉職自衛官の護国神社への合祀を申請した形になっているが、実際には自衛隊職員が行ったといってよい状況にあり、申請行為は国の行為として政教分離原則に反すると考えるべきではないかと指摘されている。
(カ) 判例
通説の理解では、最高裁は三菱樹脂事件判決(最大判昭和48年12月12日民集27巻11号1536頁)において間接適用説を採用した。
この事件では、三菱樹脂株式会社に入社した原告が、面接試験に際して学生運動への参加の事実を秘匿する等虚偽の経歴を申告していたという理由で、3か月後に本採用を拒否されたため、それは思想の自由(19条)の侵害であり、また、信条に基づく差別(14条)であると主張した。
これに対し、最高裁は、憲法19条・14条は、「その他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もっぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない」と述べて直接適用を否定した。
しかし、それに続けて、自由や平等の侵害の程度が許容限度を超えるような場合には「私的自治に対する一般的制限規定である民法1条、90条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存する」と論じた。
その後の判例でもこの考えを踏襲している(昭和女子大事件・最三判昭和49年7月19日民集28巻5号790頁、女子若年定年制事件・最三判昭和56年3月24日民集35巻2号300頁参照)。
この判決の基本的発想は無適用説と最も親近性があると思われるが、無適用説に批判的な学説は、判旨が民法90条等に言及したことに着目して、間接適用説を採用したと理解してきた。
しかし、私人間における調整は法律(民法を含む)により行うという論理は、まさに無適用説のものであり、たまたま民法90条等に言及したというだけでは間接適用説に立ったという根拠にはならないであろう。
なお、判例は、私人間への無適用のみならず、国家を一方当事者とする関係においても、その関係の性質が純粋に私法的である場合には、公法関係の規律を目的とする憲法の適用はないとの立場をとっているようである。
それを述べたのは百里基地訴訟判決であるが、そこで最高裁は、私法関係には憲法の適用はないとの立場に立ち、そのうえで、自衛隊基地の建設を目的とする国と私人との間の土地の売買契約をめぐる争いに民法を適用し、争点となった契約や契約解除等の法律行為が「公序」に反しないかを問題とする構成をとったため、外観上は憲法の間接適用を検討したように見える(最三判平成元年6月20日民集43巻6号385頁)。
しかし、私法関係か公法関係かといった区別は、超憲法的な区別ではなく、憲法の下で生じる区別と考えるべきであり、憲法の適用の有無を考える基準とすべきではなかろう。
国家の行為は、私法的形態で行われようと、公法的形態で行われようと、憲法の適用を受けると考えるべきである。
そうでないと、私法的形態を装うことで憲法の適用を免れることが可能となり、不都合であろう。
ゆえに、本件では、国家の私法的行為(土地の取得行為)に憲法の適用がありうるのであり、仮に被告の私人に原告国の行為の憲法違反を主張する適格があるならば、その主張の判断が必要であったと思われる。
(キ) 無適用説の再評価
問題の出発点は、無適用説では私人間における人権侵害に対処しえないということであった。
しかし、本当にそうなのか、どのような意味でそうなのかは、再度厳密に検討してみる必要がある。
その際、重要なポイントは、
①無適用説では、どのような場合に人権侵害が救済されないことになるのかを明らかにすることのみならず、
②この問題が、人権侵害を救済できるかどうかの問題というよりは、救済の役割を誰が中心となって果たすのか、議会か裁判所か、という権限分配の問題に関わっていることを理解することである。
無適用説の論理では、私人間における「自然権」の保障は、法律の役割であった。
憲法は、国家が自然権保護の責務を遂行するに際して従うべき「法のプロセス」を規定している。
それによれば、私人間における自然権の保護は、まず法律により規定され、当事者間に争いが生ずれば、その法律に従って裁判がなされることになる。
したがって、私人間関係における自然権は、法律の制定により「法律上の人権」として実定性が与えられ、それが裁判所により適用されるのである。
問題は、議会が私人間の自然権調整に迅速・適切に対処せず、争いを裁定すべき適切な「法律上の人権」規定が存在しない場合である。
これを裁判所が救済しようとすれば、憲法の中に実定化された自然権である「憲法上の人権」を援用する以外にない。
しかし、憲法上の人権は国家を名宛人とするものであり、これを私人間の争いに援用するためには、私人も憲法の名宛人だということにしなければならない。
しかし、これは立憲主義の憲法観・人権観の大きな修正になり、悪くすれば国家が国民に対し「憲法忠誠」を要求するということにもなりかねない。
それを避けたいなら、「憲法上の人権」は国家のみを名宛人とするという論理を維持すべきである。
しかし、そうすると、法律がない限り裁判所が私人間の自然権侵害を救済することは許されないということになるのか。
法律がない限り、そうならざるをえない。
しかし、現実には、法律は存在するのである。
その最も重要なものが民法90条と709条である。
こうした抽象的な法律規定は、私人間の自然権調整の権限を裁判官に委任したものと理解することができる。
つまり、裁判官は、この規定を自然権保護の方向に解釈することにより、自然権を実定法化する権限を委任されているのである。
自然権保護の方向に解釈することは、「憲法上の人権」を適用することとは異なる。
実定法秩序の基礎あるいは背後にある自然権的価値(自然権という言葉を使いたくないなら、道徳哲学的価値といってもよい)を適用しているのである。
この自然権は、本来、全方位的性格をもつ(あらゆる関係に効力をもつ)ものであるから、私人間関係においても妥当するのであり、裁判官はそれを法律解釈を通じて実定法化するのである。
現実にはこのように法律は存在するのであり、判例上も法律がないために救済が不可能であったという事例は報告されていない。
にもかかわらず、純粋理論上の興味から、法律のない場合を想定し抽象的な理論を組み立てるのは、避けた方が無難であろう。
実際、私法の一般法たる民法が、明示的に「個人の尊厳」という、憲法と同一の道徳哲学的価値にコミットしているのであり(民2条参照)、民法90条や709条の解釈もこの価値に依拠して行うべきことを理解すれば、私人間における人権問題の大部分は民法解釈として解決できるはずであり、「憲法上の人権」の適用を必要とする場面はほとんど想定できない。
3 人権の限界
憲法上の人権規定の名宛人は国家であり、国家は憲法上の人権を尊重する法的義務を負うが、しかし、国家は人権制限を一切許されないというわけではない。
すべての個人を平等に尊重するために必要な限度での制限は許される。
これが人権の限界の問題であり、その解釈論上の根拠や許される制限の方法・程度等を検討するのが、ここでの課題である。
その前提として、人権の保障と制限を論じる場合の論証構造を理解しておく必要がある。
なお、国家を一方当事者とする法関係には人権規定の適用があるというのが通説であるが、かつては国家を当事者とする関係にも一般権力関係と特別権力関係が区別され、人権が適用されるのは一般権力関係だけであり、特別権力関係には適用されないという「特別権力関係論」が支配的であった。
ここで一般権力関係とは、すべての国民が共通に服する関係であり、特別権力関係とは、特別の国民が国家と特別の関係を取り結び、一般権力関係に加えて服する特別の関係であるが、今日ではこれを区別する考えは、ほとんど支持者を失っている。
ゆえに、本書においても特別権力関係論を人権の適用されない関係として私人間効力論と並べて説明する考えはとっていない。
しかし、特別権力関係論が唱えた「法治主義の排除」という論理は、法治主義の緩和として、ある程度命脈を保っているので、法律の留保の緩和として説明することにする。
(1) 人権制限の議論構造 - 人権の正当化と人権制限の正当化
日本国憲法は、国民に保障する権利のカタログを第3章で規定している。
そこで保障された権利には、内容確定型と内容形成型が存在するが(79頁参照)、憲法解釈により保障内容が確定される限りにおいては、後はその権利の制限が存在するかどうか、その制限は正当化されるかどうかの問題となる。
したがって、この場合には、国家により憲法で保障された権利を侵害されたと主張するには、まず最初に、侵害された利益が憲法の保障する権利の「範囲」に属するものであることを論証しなければならない。
保障範囲に属するといえなければ、憲法違反とはならないのである。
しかし、範囲に属することが論証できれば、すべて憲法違反となるかというと、必ずしもそうではない。
なぜなら、憲法による保障の程度は一律ではなく、絶対的に保障される権利もあれば、公益(日本国憲法の言葉では「公共の福祉」)による制限が許される場合もあり、かつ、その制限の程度も人権の種類・性質や制限の態様・状況に応じて様々でありうると考えられているからである。
したがって、絶対保障の場合を除いては、当該権利制限が公益により正当化されるかどうかを論証しなければならない。
絶対的に保障される権利の場合には、その範囲に属する権利の制限がなされれば、制限の正当性を論ずる余地もなく、違憲となる。
しかし、絶対保障の場合には公益による制限はありえないのかというと、それほど単純ではない。
というのは、絶対保障とされる権利については、その範囲を画定する際に公益を考慮していることが多いからである(128頁「利益衡量の二つの場面」参照)。
たとえば、拷問されない権利(36条)は、当然絶対的保障であり、公益により許される場合もあるとは解されてこなかった。
しかし、最近アメリカでは、テロリストが時限爆弾をしかけたとき、その場所を白状させるために拷問を用いることは許されないかという設題が深刻に議論されている。
そのような場合にも拷問は許されない、というのが日本国憲法の立場だと私は解しているが、仮に公益により許されることもあるという立場をとった場合、それをどのような議論として構成するか。
おそらく、多くの人が、憲法にいう「拷問」に該当するが、公益により正当化されるという構成より、憲法にいう「拷問」には該当しないという構成をとるのではないであろうか。
いずれの構成でも、「拷問」の範囲画定がまずなされる点では同じであるが、前者の構成では範囲を広くとり、拷問に該当するとしたうえで公益による正当化を論ずるという構成をとっているのに対し、後者では、拷問の範囲を限定しそれに該当するかどうかで結論を出す構成をとっている。
しかし、後者は拷問の範囲の画定に際して、公益により許されるべき場合を拷問の範囲から除いてその範囲を限定するという思考をとっており、公益の考慮をしていないわけではない。
公益を考慮する場面が異なるにすぎないのである。
前者は、公益の考慮を範囲画定の場面では最小限として、制限の正当化の場面で行うという二段階構成をとるのに対し、後者は、公益の考慮を範囲画定の場面に組み込んで一段階の構成とするのである。
いずれの構成も理論的には可能であり、議論の仕方、アプローチの違いである。
どちらがよいかを一般的にいうことはできず、権利の性質や思考法の特徴などを勘案して決める以外にないが、拷問の禁止に関していえば、拷問であることを認めながら、それが正当化されることもあると議論することには心理的抵抗が強く、おそらく拷問に該当しないから禁じられていないという構成の方が好まれるのではないか。
理論上は、人権すべてについていずれのアプローチも可能であるが、一段階構成は範囲画定が困難であるのみならず、柔軟性を欠くという問題もあるために、多くの場合二段階構成がとられる。
したがって、まず第一段階において、人権の保障範囲の画定がなされるが、このとき中心的に考慮されるのは、当該人権を憲法が保障した理由である。
理由が明確にされて初めて、保障の及び範囲が明らかとなる。
具体的事件との関連では、制限された行為が保障の範囲に属するものかどうかがまず判断されることになるが、そのためには、当該行為が当該人権の保障する価値の実現に関連しているかどうか、当該制限がその価値実現を真に制限しているのかどうかが判断されることになる。
ドイツではこれを「保護領域」に属するかどうか、国家の行為はそれへの「介入」となるかどうかの問題として議論しているが、日本でも参考になるであろう。
人権の制限であるということになると、次に第二段階として、その制限が正当化されるかどうかの問題となる。
制限が正当化されるためには、一般論としては、少なくとも制限により「失われる利益」(人権価値)より「得られる利益」(公益)の方が大きいことが示されなければならないが、問題はそれをどのような手法で行うかである。
基本的には失われる利益と得られる利益に属する様々な利益を数え上げて総合衡量しどちらが大きいかを決めるという「利益衡量」の手法が採用されることになるが、ここで直面する最大の問題は、諸利益の重要度、大きさをどのように比較するかである。
対立する諸利益には質の異なるものも多く、誰もが支持しうる共通の尺度があるわけではない。
にもかかわらず、利益衡量を行いどちらが大きいかの結論を出さなければならない。
それは多かれ少なかれ主観的な価値判断とならざるをえない宿命にある。
それゆえにこそ、利益衡量の過程を透明化し、どのような基準によりどのように評価・衡量を行ったかを説明することが重要となる。
それを通じて利益衡量の仕方についての対立点が明確となり、議論の対象が絞られていくであろう。
そして議論の結果対立が縮小し、場合によっては解消することも期待できよう。
しかし、多様な価値観をもつ個々人により形成される社会においては、常に何らかの対立が最後まで残ると想定される。
その対立は、制度上、多数決によりその都度暫定的な決着をつけざるをえない。
そこで破れた少数派は、多数派の決定を批判し、新たな観点から議論を再構築し、多数派となることを目指すのであり、人権論もこのような永遠の論証過程なのである。
日本国憲法においては、人権制限の根拠が「公共の福祉」と表現されている。
ゆえに、人権制限の正当化論は「公共の福祉」による制限として議論される。
その議論の内容が透明化されるためには、公共の福祉をどのように捉えるべきかを明らかにすることが必要となる。
次にそれを見ていこう。
(2) 人権制限の根拠 - 公共の福祉
(ア) 公共の福祉の性格
人権は、個人の自律的生にとって不可欠の権利であるが、すべての個人に平等に保障されねばならないことから、権利の衝突を調整するに必要な限度で制約を受けることがありうるのは当然のことである。
日本国憲法も、一方で、個人に対し人権の濫用を戒め「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」(12条)と規定し、他方で、国に対し人権を「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で」最大限に尊重すべきことを義務づけ(13条)、人権が「公共の福祉」に服することを確認している。
では、公共の福祉とは何か。
それが人権を制約する根拠であるとすると、その内容をどう理解するかは人権の限界を考える場合重要な意味をもつ。
憲法が個人の尊厳を基本原理とする以上、公共の福祉を全体主義的な思想を基礎にした「全体の利益」という意味に解することが許されないのはいうまでもない。
戦時中にいわれたような国家のための「滅私奉公」というような考えは、日本国憲法の下では許されない。
あくまでも個人主義を前提にしてその意味を理解しなければならないのである。
憲法13条は、このことを明確に示している。
それは、まず前段において、「すべての国民は、個人として尊重される」と規定し、個人主義の原理を謳う。
そして、それに続けて後段において、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定する。
後段は、前段の、すべての国民が個人として尊重されるということをもう一歩具体化した規定であり、一方で、個人が「個人として尊重」されることから「生命、自由及び幸福追求に対する権利」をもつこと、他方で、「すべての」個人がかかる権利を享有するためには、公共の福祉に服しなければならないことを、述べているのである。
ゆえに、ここで「公共の福祉」とは、すべての個人に等しく人権を保障するために必要な措置を核心とする。
立憲主義の下における国家の最も重要な役割が人権の保障にあるとすれば、この公共の福祉とは、国家の目的、国家活動の正当性の最も重要な根拠でもあることになる。
(イ) 公共の福祉の内容
a) 権利・利益の対立状況
公共の福祉とは、人権衝突を調整するための原理であるといういい方がされることがある。
たしかに、人権と人権が衝突するときには、いずれかあるいは双方の人権を制限することにより衝突が起こらないよう調整しなければならず、その調整内容が公共の福祉を構成することに疑いはない。
しかし、人権の制限が必要となるのは、人権同士が衝突する場合に限られない。
一方で、自己の人権行使とは関係のない、他人の人権を侵害する行為というものが存在し(たとえば、殺人や窃盗を考えよ)、人権を保護するためにかかる行為を規制することも、当然、公共の福祉の内容をなす。
他方で、他人の人権を直接侵害するとはいえないのに、自己の人権行使が制限を受けることがありうる。
「個人を等しく尊重する」ために、そのようなことが必要となることもありうると考えられるのである。
たとえば、ある個人の人権を制限することにより、多数の個人の、人権とはいえないにしても重要な利益が、実現されるというような場合(たとえば街の美観を保護するために看板の規制を行う場合を考えよ)、ある程度までは人権制限が認められてもよいであろう。
もちろん、その「重要な利益」は、個人を超えた「全体」の利益であってはならず、あくまでも個々人に着目した利益でなければならないし、また、特定個人の犠牲において他の個人が、たとえ多数派であっても、利益を得るということであってはならないから、人権を制限される個人も他者と同様の利益を受ける必要があるし、そうでない場合、あるいは、そうにしても犠牲が大きすぎるという場合には、代償の与えられることが必要となろうが、そういった条件の下に、利益衡量の結果人権制限が正当化されることもありうると思われる。
さらに、個人を個人として尊重するためには、個人の人権を他人の利益のためではなく、本人の重大な利益のために制限する必要があるということも起こりうる。
本人の利益のために制限するというのは、パターナリズムといわれる考え方で、自由主義の下では原則として忌避される思想である。
なぜなら、何が自己にとっての利益かは本人が最もよく判断できることであり、他人が「これがあなたの利益だ」といって押しつけることは、自由主義に反すると考えるからである。
しかし、子どもや精神障害者など判断能力の不十分な者に、自分自身で判断しなさいといって自由に任せるのは、「個人として尊重」することにはならない。
したがって、パターナリズムによる干渉も、人権制約として許される場合があることを認めなければならない。
それも「個人として尊重」するための制約だとすれば、公共の福祉の内容をなすことになる。
b) 四つの類型
以上の分析から、すべての個人を等しく尊重するために必要な公共の福祉の主要な内容には、次の四種類が存在することが分かった。
第一が、人権と人権の衝突を調整する措置である。
第二が、他人の人権を侵害する行為を禁止する措置。
第三が、他人の利益のために人権を制限する措置。
第四が、本人の利益のために本人の人権を制限する措置である。
もちろん、これは人権制限の根拠としての公共の福祉の内容の性格を分析し分類したにすぎず、具体的にどのような措置が公共の福祉として認められるかは、人権の具体的規制に即して、そこで問題となっている人権と利益を比較衡量することにより決することになる。
その場合に、人権の重要性は常に頭に置く必要があり、特に第三類型については、安易に多数派の利益を重視することのないようにしなければならない。
第三類型は、消極国家においては稀で、積極国家となった現代において急激に増大した「公共の福祉」という性格をもち、主としては経済活動の自由の制限の領域に生じているものである。
日本国憲法もそれを予想して、22条1項(居住・移転および職業選択の自由)および29条2項(財産権)で公共の福祉による制約を明示している。
(ウ) 人権と公共の福祉の対立構造
以上の説明を基礎に、次の点を確認しておこう。
日本国憲法の依拠する基本価値は「個人の尊厳」であり、憲法は個人の尊厳を基礎に置く社会を実定法秩序により保障していこうというプロジェクトなのである。
そこでは個人の尊厳は各種の人権として具体化される。
ゆえに、個々人権の保障範囲は究極的には個人の尊厳と関連づけて理解されることになる。
個人の尊厳が要求する限度で人権の行使として認められるのである。
しかし、人権の保障範囲に属するからといって、絶対的に保障されるとは限らない。
人権の行使が公共の福祉に反するときには、制限されうるのである。
したがって、公共の福祉は人権と対立する位置関係に置かれる概念である。
その意味で、公共の福祉は国家の活動の正当化根拠なのである。
個人と国家の対抗図式において、人権が個人に、公共の福祉が国家に、配置されているのである。
そのような関係において公共の福祉の内容は理解されなければならない。
ここで注意を喚起しておきたいのは、人権の行使が公共の福祉に「反する」ということの意味である。
それは、基本的・原則的には、公共の福祉を「害する」ということであり、公共の福祉を進展・増進するのに「役立たない」ということではない。
個人に認められる人権は、それをどのように行使することも自由な権利である。
唯一の制限は、公共の福祉を害さないことである。
公共の福祉に役立つよう行使することを憲法は命じていないのである。
人権は、個人の自律的生に約立つために認められる権利であり、公共の福祉に役立つことを求められてはいない。
公共の福祉を害することだけが禁じられているのである。
憲法12条後段は、「国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と規定するが、これは公共の福祉を害するような利用を禁じたものであり、公共の福祉を促進するように行使する義務を課した規定ではない。
だからこそ、「濫用」の禁止と連結する規定の仕方をしているのであり、濫用とは公共の福祉に害を与えることなのである。
判例・学説の中には、公共の福祉のために保障された人権の存在を認めるような議論もあるが、日本国憲法のとる立場ではない。
(エ) 公共の福祉をめぐる判例・学説の変遷
上に「公共の福祉」をどのように解すべきかに関する本書の立場を説明したが、この問題については判例・学説の変遷が見られる。
本書の立場を理解するのに役立つと思われるので、ここで簡単に振り返っておこう。
憲法の保障する人権が無制限・絶対的ではなく、一定の制限を受けることについては学説の対立はない。
また、公共の福祉という言葉は、人権の総則的規定である12条、13条、および、経済的自由に関する22条1項と29条2項の合計4か所で用いられているが、いずれにおいても公共の福祉が人権の限界を示す意味で用いられていることについて学説の異論はない。
問題となった主要点は、
①経済的自由権以外の個別人権の制限の根拠をどう説明するか。総則規定である13条がすべての人権規定に適用されると解するのか、それとも、明文の根拠規定がなくとも当然に内在的制約(他の人権を侵害してはならないという制約)があると考えるのか、
②13条の総則規定を、法的効力のない訓示規定と解するのか、それとも、法的効力をもつ規定と解するのか、
③公共の福祉の内容を内在的制約と解するのか、外在的制約(社会経済的制約)と解するのか、
の三点である。
それぞれの組み合わせから、順次、一元的外在制約説、外在・内在二元的制約説、一元的内在制約説が唱えられ、一元的内在制約説がほぼ通説となってきたが、近年その再検討が始まっており、本書の立場も再検討の一つの試みである。
a) 一元的外在制約説
12条・13条が人権の一般的な規定であり、やや抽象的に「心構え」を規定したような響きがあるのに対し、22条と29条は職業選択・居住・移転の自由あるいは財産権といった個別人権につき規定しているのに着目すると、22条・29条こそが公共の福祉の意味を解釈するのに出発点となるべき条文のように思われる。
しかも、この二つの条文は、ともに経済的権利を定めた条文という共通点をもっている。
個別人権の規定につき公共の福祉の限界を規定しているのは、経済的自由権だけだということに着目すれば、経済的自由権を制限すべき特別の理由に誰もがすぐに思いあたるだろう。
近代憲法における経済的自由権の行き過ぎた保障が労働者階級の生存権を脅かしたために、19世紀末以降、経済的自由権の広範な制限が行われるようになった。
22条と29条は、そのことを踏まえた規定であり、ゆえに、そこにいう「公共の福祉」とは、資本主義の弊害を修正し労働者の生存権を保障するという政策目標を実現するものなのである。
このような社会経済的な政策目標により人権を制限するということは、経済的自由権についてのみ認められるものであり、他の人権については妥当しない。
12条・13条は、特に経済的自由権に限定した規定にはなっていないが、これは訓示的規定であって法的効力をもたないと解すべきであるから、公共の福祉のこのような理解の障害にはならない。
しかし、このように解すると、22条・29条以外の個別人権は、無制約ということにならないか。
そうではない。
ある人の人権は他の人の人権を侵害してはならないのであって、すべての人権は、当然、かかる「内在的制約」をもつのであり、わざわざそう規定するまでもないことなのだ。
つまり、公共の福祉とは「外在的制約」をいい、内在的制約はとくに規定されていなくても、当然に存在するのである。
これが、憲法制定後いち早く唱えられた見解であった。
人権保障の歴史と整合した分かりやすい解釈であった。
公共の福祉には外在的制約という一つの意味しかないということから一元的外在制約説と呼ばれている。
b) 内在・外在二元的制約説
一元的外在制約説は、やがて重大な困難に遭遇する。
「新しい人権」を憲法解釈論上認めることができるかどうか、という問題が登場するからである。
きっかけはプライバシーの権利をめぐってであった。
プライバシーの権利は、人権の個別規定には見あたらない。
しかし、現代社会においては、「新しい人権」として保障すべき重大な価値となっている。
憲法に規定のない「新しい人権」を認めようとする場合、憲法上の根拠となる適切な規定は、13条をおいてはない。
ところが、先の解釈は、13条を訓示規定と解していた。
訓示規定を新しい人権の法的根拠とするわけにはいかない。
かといって、13条に法的効力を認めれば、すべての人権が公共の福祉=「外在的制約」(社会経済的政策目標による制約)に服することになり、人権保障の意味がほとんどなくなってしまう。
そこで唱えられたのが、12条・13条の公共の福祉と22条・29条の公共の福祉は意味が違う、前者は内在的制約であるが、後者は外在的制約を意味するという説である。
こうすれば、すべての人権は前者の規定により内在的制約に服するが、外在的制約に服するのは経済的自由権のみであることになり、かつ13条を法的規定として新しい人権の根拠規定に使いうるというわけである。
同じ「公共の福祉」という言葉に異なる意味を与えるという弱点をもつが、同じ言葉が文脈により意味を異にするのは、よくあることだと強弁された。
しかし、最後に、13条に法的効力を認めつつ、公共の福祉を統一的に説明する説(一元的内在制約説)が現れた。
c) 一元的内在制約説とその後の展開
一元的内在制約説は、公共の福祉を人権間の矛盾・衝突を調整する原理(ゆえに内在的制約)として統一的に捉えたうえで、衝突する人権の性質の違いにより公共の福祉の具体的内容は変わりうると考える。
つまり、自由権同士の衝突の場合と自由権と社会権の衝突の場合では、衝突の調整という点では原理的な違いはないが、調整の具体的内容は当然に異なってくると考えるのであり、ここから「自由国家的公共の福祉」(自由国家あるいは消極国家段階で自由権の制約根拠とされた公共の福祉)と「社会国家的公共の福祉」(社会国家あるいは積極国家において社会権を実現するために要請される人権、主としては経済的自由権、の制約根拠とされる公共の福祉)が区別されることになる。
では、より具体的にはいかなる違いがあるのか。
私の理解では、自由国家的公共の福祉の場合には、人権の行使が公益を害するときにのみそれを防止するための制約が許されるのに対し、社会国家的公共の福祉の場合は、公益を《害する》ことがなくても人権を制約することにより公益を《増進》せさることができるときにはそれが許されるという点に最も重要な違いがあると思われる。
一元的内在制約説が今日の通説であるが、最近、これに対する批判が唱えられてきている。
何が問題かというと、公共の福祉を人権間の矛盾・衝突の調整原理だとする点である。
たしかに、人権という重大な権利を制限しうる対抗利益としては、他の人権しかありえないはずではないか、というこの説のいい分もよく分かる。
それに、戦前、全体主義的な公益概念により「滅私奉公」を強要されたことを考えれば、公共の福祉を不用意に漠然とした「公益」と捉えると、同じ轍を踏みかねないから、人権間の矛盾・衝突と厳格に捉えておくのがよい、と考えたのも納得できる。
しかし、そのために、他方で、人権の規制を正当化するときには、対立する人権を明示することが必要となり、人権とはいいづらいような対抗利益を無理矢理人権に結びつけるという弊害を生み、かえって人権の重要性を稀薄化させることになっているのではないだろうか。
たとえば、わいせつ規制の正当化として、わいせつ本を公刊する「表現の自由」は「decent な社会生活への権利」という「他人の人権」と衝突するのだといわれるとき、そのような他人の「人権」が憲法上のどの規定により認められているのだろうか、との疑問がわく。
そのような利益を人権だといい出したら、人権は果てしなくインフレ化し、人権に対する尊重の念が稀薄化してしまわないであろうか。
それを避けるには、人権を規制する目的は、必ずしも他の人権との調整に限定されず、人権とはいえなくとも重大な公益と認められれば、それと調整する場合も含まれると解するのがよいのではないか、というのである。
その場合、公共の福祉とは、すべての国民を平等に「個人として尊重」するために必要となる調整原理あるいは公益とぐらいに捉えておけばよいであろう。
もちろん、その場合の「公益」は、戦前のような個人を超越した全体の利益であってはならないが、すべての個人が具体的に享受しうるような公益なら、人権とまでいえなくても、人権制約が可能であると考え、その公益がどの程度重要な公益であり、それを理由にどこまで人権の制約が可能かを、具体的に考えていくべきだという考えになってきているのである。
その場合の議論の一般的枠組が、目的審査と手段審査といわれるもので(129頁参照)、目的審査では人権規制の目的が規制される人権の重大さに見合っているのか、つまり、釣り合うだけの公益保護が目的となっているのかが、人権の性質に応じて設定された基準に従って審査され、手段審査では、その目的の実現のために採用された方法・手段が目的と適合しているのかどうか、その目的の達成が人権を制約することがより少ない方法で可能ではないか、などが審査されるのである。
このようなアプローチで公共の福祉の内容を詰めていけば、おそらく結果的には自由国家的公共の福祉と社会国家的公共の福祉の違いが識別されるに至り、そこで一元的内在制約説と合流することになると予想される。
d) 判例
判例は、当初より公共の福祉を人権制約の根拠と理解してきたが、公共の福祉とは何かを一般的に明示することはなかった。
そのため、当初は、十分な説明もないまま抽象的な言葉の操作だけで公共の福祉の範囲内と断定するような判決が多く、学説の批判を受けたが、その後1960年代に入ると立法事実を基礎に理由を説明する判決が次第に出てくるようになり、70年代以降には目的審査・手段審査の枠組を意識的に採用するようになる。
そして、経済的自由権の規制に関してのみではあるが、規制目的の区別として消極目的と積極目的を区別し、それぞれにつき審査の厳格度が異なることを明らかにするが、この区別は自由国家的公共の福祉と社会国家的公共の福祉の区別に対応するものと理解することが可能であろう。
(オ) 公共の福祉と憲法上の義務
日本国憲法は、国民の義務として、①保護する子女に普通教育を受けさせる義務(26条2項)、②勤労の義務(27条1項)、③納税の義務(30条)を規定している。
しかし、憲法に義務規定がなければ国家は国民に義務を課すことができないわけではない。
人権を侵害しない限り、法律により義務を課すことが可能であり、これこそが国民に義務を課す場合の通常の方式として憲法が想定しているところのものである。
つまり、国民に義務を課すには法律が必要なのであり、したがって、憲法が義務を規定している場合でも、その義務に関しては法律は不要だ、というわけではない。
では、憲法に規定したことに法的意義はまったくないのかといえば、そうともいえない。
公共の福祉の内容として課しうる義務の中で、憲法が特に重視すべきと判断したものを憲法上の義務と規定したのであるから、これらの義務規定に根拠を置く法律上の義務については、公共の福祉の範囲内かどうかの判断に際して一定の尊重が払われるべきであろう。
なお、「憲法を尊重し擁護する義務」(99条)をもう一つの国民の義務と理解する見解もあるが、99条の文言上この義務を負うのは公務員であり国民ではない。
立憲主義の論理からして、憲法の名宛人は国家でり、憲法を尊重し擁護する義務を負うのは、当然、公務員(国家権力の担い手)でなければならない。
憲法99条は、この道理を正確に表現したのであり、決して国民を書き込むことをうっかり忘れたわけではない。
(3) 人権制限の法形式
(ア) 法律の留保
人権の保障も絶対的ではなく、公共の福祉により制限されうることを見たが、制限する場合には法律により行わねばならないというのが、立憲主義の要請であり、日本国憲法もこれを踏襲している。
そのことを明示した規定は日本国憲法には存在しないが、それが立憲主義の伝統であり、明治憲法でも臣民の権利には「法律の留保」がついていた。
つまり、臣民の権利は、そのほとんどが「法律の範囲内」で保障されていたのであり、制限には原則として法律が必要であった。
明治憲法について法律の留保を語る場合、権利は法律によりどのようにでも制限しえたという意味でいうのが通常であるが、法律の留保は、その裏面として、法律によってしか制限しえないという積極的意味ももっており、立憲主義にとっては、法律の留保のこの側面の方が重要である。
明治憲法では、実は、権利は法律によってしか制限しえないという、この側面は必ずしも保障されておらず、一定の場合には命令により権利を制限することも認められていた(明憲9条・31条参照)。
権利を制限する法を「法規」と呼んだことから、そのような命令は法規命令と呼ばれたが、法規は法律によってしか定めえないという立憲主義の原理に対する例外が認められていたのである。
しかし、日本国憲法は、かかる例外は認めていない。
法規の定めは、すべて法律を必要とするのである。
ただし、法律で制限の基本を定め、細部の定めを命令に委任すること(委任命令)は許される。
しかし、命令に委任する場合にも、法律で定めるという原則を形骸化するような広範な委任は許されない。
なお、明治憲法においては、法律で定める限りどのような制限も許されたが、日本国憲法の場合は、法律で定める場合にも「公共の福祉」として許される限度を超えてはならず、限度を超えたかどうかは裁判所により審査を受ける。
(イ) 特別権力関係論
明治憲法の下においては、当時のドイツで展開された特別権力関係論が日本の憲法学にも導入され、広範な権利制限が正当化されていた。
特別権力関係というのは、通常の国民が国家権力に服す「一般権力関係」と区別される観念で、特別の国民が法律に基づき、あるいは、同意によって、国家の特別の支配に服している関係をいい、監獄につながれた囚人や公務員、国公立大学学生がその典型例とされる。
そして、特別権力関係においては、第一に、法治主義が排除され、法律の根拠なしに人権を制約することが許され、第二に、人権制約の程度についても、広範な制限が許され、第三に、人権の救済を裁判所に求めることはできない、と主張された。
かかる理論は、官僚が天皇に特別の忠誠を誓って特権的地位を与えられており、また、一般に、立憲主義的な権利保障も不十分であった明治憲法下においては妥当しえたが、日本国憲法の下においては、もはや妥当しえない理論である。
たしかに、囚人や公務員は、その制度の目的から必要となる人権制限には服するが、それは一般人が様々な社会関係を形成し、それに内在する制約に服するのと理論上は変わりない。
ゆえに、人権保障の一般原則を前提として、制度や関係の特殊性からどこまでの人権制限が公共の福祉として許されるかを考えていけばよい。
ただし、そのように考えた結果、いわゆる特別権力関係といわれたような関係においては、法律の留保がある程度緩和され、制度自体に内在する人権制限については憲法がその制度を認めている限り法律の根拠は必ずしも必要でなく、また、委任立法の範囲も通常の場合より広く認められてよい、ということはありうる。
しかし、人権の制限内容が正当かどうかの審査が緩和されることはない。
以下に、在監者と公務員の場合の代表的な判例を簡単に見ておこう。
a) 在監者(刑事収容施設被収容者)
監獄(刑事収容施設)の制度は憲法の認めるところであり(18条・31条等参照)、在監者に居住・移転の自由を否定するのに特に法律の根拠を必要とするわけではない。
では、喫煙の自由の制限はどうか。
判例は、法律上根拠のない喫煙禁止を、監獄法施行規制(2002年改正前96条)のみを根拠に合憲とした(最大判昭和45年9月16日民集24巻10号1410頁)が、もし喫煙の自由が人権だとするならば、監獄の制度が本質的に喫煙と相容れないわけではないので、法律の根拠がないということは問題となりうる。
命令(施行規則)による喫煙禁止の定めは、監獄法による細目の委任の範囲内だという説明の仕方も、委任が広範にすぎ困難であろう。
そこで立法委任という説明は避けて、施行規則はその内容が新憲法に反しない限り新憲法の想定する適切な法形式(法律)に移行したものとして存続するのだという説明も提示されているが、法形式が国家の明示的な意思表明なしに変更するというのは無理な説明であり、また、その規則の変更には法律改正が必要となるのかどうかという難しい問題も提起することになろう。
他方、在監者の閲読の自由の制限については、監獄法31条2項が根拠を定めていたので、法律の留保の点では問題なかった(監獄法は、現在では刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律となり、条文も70条1項・71条へと変更されている)。
監獄法下で起きたよど号ハイジャック記事抹消事件において、未決拘禁者が購読していた新聞の記事が看守により塗りつぶされて渡されたことが、表現を受け取る自由の侵害にあたるのではないかが争われたが、最高裁は、「その閲読を許すことにより監獄内の規律及び秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性がある」かどうかを基準に利益衡量を行い、結論として本件の措置は合憲であったとした(最大判昭和58年6月22日民集37巻5号793頁)。
その結論は別にして、「相当の蓋然性」という、ある程度厳格な基準を用いて審査したアプローチは、相当の蓋然性の有無の判断を広い行政裁量に委ねるのではなく、裁判所が裁量統制を行うのであれば、評価できよう。
刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律70条・71条の解釈・適用もこの基準を使って行う必要がある。
なお、閲読の自由の制限に関しては、行政権が予め表現内容を審査して閲読を許すかどうか決定するので、憲法21条2項の禁止する検閲にあたるのではないかという問題もあるが、この点については検閲の説明を参照されたい(206頁参照)。
b) 公務員
日本の公務員は政治活動の自由と労働基本権を広範に制限されており、特別権力関係論の影響が残っているのではないかとの指摘もある。
ここでは、政治的自由の制限に関する判例を見ておこう(労働基本権の制限については、310頁参照)。
国家公務員法102条1項は、「職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てすることを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない」と規定し、これを受けて、人事院規則14-7が「政治的行為」を定め、この違反に対しては国家公務員法82条が懲戒処分の対象となることを規定し、国家公務員法110条1項19号が罰則(3年以下の懲役または100万円以下の罰金)を科すと定めている。
政治的行為の禁止は一般に表現の自由の制限と解されており、そこでまず問題となるのは、禁止される政治的行為の内容を白紙的に人事院規則に委任したことが、法律の留保の原則に反しないかである。
この点につき、猿払事件最高裁判決(最大判昭和49年11月6日刑集28巻9号393頁)は、「憲法の許容する委任の限度を超えることになるものではない」と判示したが、「少なくとも、刑罰の対象となる禁止行為の規定の委任に関するかぎり」は違憲であるという反対意見が付されている。
人事院が独立行政委員会であることを考慮しても、委任が広範にすぎるきらいは否めない。
他方、制限内容についてはどうか。
猿払事件では、被告人がある政党の候補者の選挙用ポスターを公営
掲示板に掲示した行為等が上記規則6項13号に該当するとして起訴された。
地裁判決と高裁判決は、公務員の地位・職務の違い、裁量権の有無、政治活動の場所・時間等の区別なく一律に規制している点に憲法上問題があると考えたが、最高裁判決は、審査基準として①禁止目的は正当か、②目的と禁止される行為との間に合理的関連性があるか、③禁止により得られる利益と失われる利益は均衡しているか、を設定し、一律禁止も合憲であると判断した。
しかし、この基準は、つまるところ③が決め手となっており、その意味で厳密にいえば「審査基準」なしの「裸の利益衡量」であり、政治活動の自由を審査する基準としては適切ではないのみならず、その適用の仕方も緩やかすぎる。
公務員の政治活動の規制の審査にのみ適用される手法と限定して理解するにしても、なぜ公務員についてはこの基準が適切かについて説明がなければ、特別権力関係論をいい換えただけということになってしまおう。
しかも、最高裁はこの審査手法を裁判官の政治活動の規制(最大決平成10年12月1日民集52巻9号1761頁)、選挙における戸別訪問禁止(最二判昭和56年6月15日刑集35巻4号205頁)にも適用し、さらには集会の自由の規制(最三判平成19年9月18日刑集61巻6号601頁)にまで適用範囲を拡大している。
「意見の表明そのもの」を制約するのではなく、「意見表明に付随する行動がもたらす弊害の防止」を目的とする場合に猿払基準が適用されると考えているようであるが、この区別は内容規制・内容中立規制の区別(208頁参照)とも、直接規制・付随規制の区別(220頁以下参照)とも異なり、性格が不明確で正当化の理由が明らかでない。
この点は別にして、最近最高裁は、公務員の政治的行為の禁止に関して、形式的に構成要件に該当する行為であっても、その行為が《実質的》に保護法益を侵害しない場合は、処罰規定の適用はないという判断を示して注目された(最二判平成24年12月7日判時2174号21頁)。
管理的地位にない公務員による、公務員であることの分からない態様でのビラ配布であったことが重視され、公務の中立性とその外観の保護という保護法益の実質的な侵害はないとされたのである。
法益侵害のない表現活動は、その制限が正当化されることはありえず、憲法により絶対的に保障されているのであるから、そのように法律を限定解釈するにせよ(この解釈手法の性格については415頁参照)、あるいは、適用上違憲の判断手法をとるにせよ、当然の結論であるが、政治的行為の処罰規定の射程を解釈により限定した点は、最高裁の新たな動向といえるかもしれない。
(4) 利益衡量の方法
(ア) 比較衡量の不可避性
人権も公共の福祉により制限されることを見たが、公共の福祉という言葉を持ち出せばどんな制限でも許されるわけではない。
問題は、具体的事件においてどこまでの制限が公共の福祉として許されるかであり、抽象的には、人権の制限により得られる価値・利益と失われる価値・利益を比較衡量し、得られる価値・利益の方が大きいとき初めて制限が正当化されるということになる。
重要なのは、この比較衡量を事実を基礎に具体的に行い、説得的に判決の理由を説明することである。
判例は、かつてはこの点の理由説明を十分に行わないで、「この程度の制限は公共の福祉の範囲内で合憲」と結論のみを断定するたぐいのものが多かったが、1960年代後半以降、事実を基礎にした利益衡量を重視する傾向の判決が徐々に増加してきている。
しかし、利益衡量の手法にも問題がないわけではない。
得られる利益と失われる利益の大きさを比較するためには、それぞれの利益を同じレベルで捉える必要があるが、何が同じレベルに属するかは常に自明というわけではない。
また、利益の強度を計ることも常に容易ではない。
しかし、最大の問題は、質を異にする利益を比較する共通の客観的な物差しが存在しないということである。
したがって、どちらが大きいかの決定は、究極的には主観的判断とならざるをえない。
しかし、憲法を含めて一般に法というものは、様々な利益の対立の解決方法を定立することをその使命とするものである以上、利益衡量を避けることは不可能である。
できる限り多くの人が賛成できるような利益衡量の方法を確立していく以外にない。
それを考える際に重要なことは、一つの事件い関連する諸利益をトータルに総合して一挙に結論を提示するという手法(「総合判断」の手法)をできるだけ避け、利益衡量する場面を分節して段階ごとに利益衡量をしながら結論に至るという手法(「分節判断」の手法)を採用することである。
総合判断は、判断者個々人の主観に依存するところが大きくなるから、対論の可能性を狭めるが、判断過程が分節されれば、過程を構成する段階ごとに対論が可能となり、対論の焦点も絞られ、判断者の推論過程がより透明となるから、コンセンサスの形式がそれだけ容易になるのである。
分節の仕方としては、内容確定型人権が問題となる場合には、人権の制限が存在するかどうかを判断する段階と制限が正当化されるかどうかを判断する段階が分節される必要がある(後述「利益衡量の二つの場面」参照)。
前者の段階では、ドイツの審査方法に採用されている「保護領域」と「介入」の区別(分節)が参考になる。
後者の段階では、アメリカの目的・手段審査の枠組と審査基準論が参考にされるべきである。
(イ) 利益衡量の二つの場面
保護される人権の範囲あるいは人権制限の許容範囲を考える場合、二つのアプローチがある。
一つは、保護されるべき人権の範囲あるいは人権としては保護されない範囲を明確に定義し、具体的事例がこの定義に該当するかどうかを判断するアプローチである。
ここでは、許される制限と許されない制限が明確に線引きされることになるが、その線引き、つまり定義づけの段階で利益衡量がなされる。
そして、いったん定義づけがなされてしまうと、あとは個別ケースにおいてそれに該当するかどうかだけが判断されることになり、いちいち利益衡量をする必要はなくなる。
したがって、このアプローチにおいては、予測可能性・安定性が高まるが、しかし、反面、個々のケースの特殊な利益・事情は考慮しがたくなる。
そこで、もう一つのアプローチとして、保護される範囲を予め明確に定義づけることはやめ、個別の事例ごとにそこで問題となっているすべての利益を衡量して結論を出すという考え方が登場する。
この場合には、具体的妥当性は向上するが、予測可能性は小さくなる。
主として法の適用場面で前者のアプローチがとられるとき「定義づけ衡量」(definitional balancing)、後者がとられるとき「個別的衡量」(ad hoc balancing)と呼ばれる。
両者ともに利益衡量を行う点では違いはないが、それを行う時点あるいは場面が異なる。
予測可能性が高度に要求される領域(たとえば、表現の自由の規制)では、可能な限り定義づけ衡量の手法を試みる価値があるが、明確な定義が困難なことが多く、現実には個別的衡量との中間において、類型ごとに大まかな方向づけを与える基準を設定する「類型的アプローチ」を採用することが多い。
(ウ) 法令審査における利益衡量の一般的枠組
a) 目的・手段審査
人権制限に関連して利益衡量が行われる場合に通常採用される思考枠組は、目的・手段審査といわれるものである。
そこでは、まず人権制限の目的(立法目的と呼ばれる)が適切かどうかが検討される。
目的審査においては、一方において、制限される人権の性格や重要性などが、他方において、制限によって得られる利益(政府利益と呼ばれる)の性格、重要性などが検討され、両者が比較衡量される。
立法目的が憲法上許容されるもので、かつ、一定以上の重要性(その程度は事件の類型に応じて異なりうる)をもつものであれば、目的審査はパスする。
手段審査においては、立法目的とそれを達成するためにとられた手段の間の適合性が検討される。
ここでは、事件の類型に応じて、手段が立法目的と合理的な関連性を有するのかどうかとか、目的達成に必要な以上に人権を制約していないかどうか、などが審査される。
b) 国会と裁判所の対立と審査の厳格度
問題は、裁判所が目的審査・手段審査をどのような観点からどの程度厳格に行うべきかである。
法律を制定した国会は、その法律を合憲だと判断したものと想定しなければならない。
そうだとすれば、裁判所が法律を違憲と判断することは、国会の判断と真正面から衝突することを意味する。
国会が国民により直接選挙された代表者により構成されていることを考えると、その判断を裁判所が覆すことは非民主的ではないかとの疑問が生じる所以である。
もっとも、国民が制定した憲法が、裁判所に違憲審査権を与えているのであるから、違憲審査権を行使することは国民の信託に応えることであり、非民主的とはいえないとの反論もありうる。
この反論では、憲法に化体された国民意思と法律に化体された国民意思が対立するという構図となる。
しかし、憲法に化体された国民意思は、現在の国民意思とは異なるかもしれない。
さらに、憲法改正が国会の両院の3分の2以上の多数による発議を必要とする(換言すれば、3分の1により発議を阻止しうる)ことを考えれば、憲法に化体されている国民意思は現在の国民意思の過半数の支持さえ有していない可能性もある。
仮に違憲審査権を行使すること自体は国民意思に反しないとしても、どのように行使するかについては、現在の国民意思を反映すべきではないかという疑問も生じる。
ここから、審査のあり方をめぐって、裁判所は国会の判断を可能な限り尊重すべきであるという立場と、裁判所独自の観点から厳格な審査を行うべきだという立場が対立することになる。
c) 「通常審査」の原則
原則的には、憲法が個人の尊厳を護るために不可欠の権利として人権を規定し、その最終的な保障の任務を裁判所に委ねている以上、裁判所による審査は厳格なものでなければならない。
ここで厳格な審査とは、憲法が裁判所に期待する役割に対応する独自の観点から立法事実を具体的に検討して結論を出し理由づけを行うということである。
かかる審査のあり方を「通常審査」と呼ぶとすれば、現実の審査においては、通常審査を基本線(ベース・ライン)として、問題によっては基本線よりも一層厳格な審査が必要な場合もあれば、より緩やかな審査が適当な場合もありうると思われる。
それは人権の性格や規制の性格などに依存しよう。
たとえば、精神的自由と経済的自由では、その性格上、規制による畏縮効果に違いがありうるから、畏縮効果の弊害が懸念される場合には、畏縮効果を受けやすい精神的自由権の規制は、通常以上に厳格な審査がなされるべきことが多いであろう。
また、表現の内容規制が行われる場合には、政府が自己に不都合な表現を抑圧しようとする危険が大きいから、通常以上の厳格審査をする必要がある。
逆に、社会的弱者たる少数派を保護するために強者たる多数派の経済的自由を制限したような場合には、多数派を代表する国会の判断を尊重すべきことが多いであろう。
これらは、ほんの一例であるが、重要なのは、いかなる場合にいかなる理由でより厳格な、あるいは、より緩やかな審査をすべきかを具体的ケースに即して考え、その類型化・体系化を行っていくことである。
その際に参考になる考えとして、アメリカで議論されてきた審査基準論と二重の基準という考え方、および、ドイツ憲法裁判所の採用する比例原則の考え方を次に紹介しておこう。
d) アメリカの審査基準論
アメリカでは、目的・手段審査の方法として、厳格度を異にする三つの基準が区別されていて、日本でもこれを参考にする学説が有力となってきている。
厳格審査基準、中間審査基準(日本では「厳格な合理性基準」と呼ばれることもある)、合理性基準である。
厳格審査基準は、目的審査においては、政府利益に必要不可欠性(アメリカでは「やむにやまれぬ利益」(compelling interest)と表現されている)を要求し、手段審査においては、目的達成のために必要最小限の手段であること(アメリカでは目的に対し「ぴったりに裁断された」(narrowly tailored)手段という表現が使われている)を要求する。
中間審査基準は、目的審査においては、立法目的の重要性・実質性を要求し、手段審査では目的と手段との「実質的関連性」を要求し、具体的には「人権を制約することがより少ない他の方法」(Less Restrictive Alternatives, 日本ではLRA基準と呼んでいる)がないことを要求することが多い。
もっとも、LRA基準の適用の仕方における厳格度は柔軟で、厳格審査基準における手段審査に用いられることもある。
合理性基準は、目的が正当(legitimate)であること、つまり、憲法により禁止されてはいないこと、手段が目的と「合理的関連性」を有すること、つまり、一般人が合理的な手段と判断するものであることを求めるものである。
議員は一般人の代表であるから、議会が合理的と判断したものは原則的には合理的と認められるべきだとされ、ゆえに、不合理が明白である場合以外は違憲とされることはないことになる。
このため日本では「明白性の基準(あるいは原則)」とも呼ばれている。
アメリカでは、規制される人権の性格や規制の手法などを基礎に、どの場合にはどの基準を用いるべきかを考えるアプローチを採用している。
たとえば、表現の自由の規制には厳格審査あるいは中間審査基準を用いる(特に政治的表現の制限には厳格審査が適用される)のに対し、経済的自由の制限の場合には合理性基準を適用するといった区別が判例上確立されている。
このようなアプローチの基礎にある考え方で最も重要なものが、二重の基準論といわれるものである。
e) 二重の基準論
これは、裁判所が法律の違憲審査を行う場合に、精神的自由権の規制の場合と経済的自由権の規制の場合では、審査基準の厳格度が異なるべきだという考え方をいう。
その根拠として、通常、次の二つの理由が主張される。
一つは、人権の重要度に違いがあるというものである。
個人にとって、精神活動の自由の方が経済活動の自由より重要であり、前者の規制についてはより厳格な基準で考えるべきだというのである。
しかし、人権としてどちらが重要かなど決められないという反論もある。
もう一つは、裁判所の能力と役割という観点からの理由づけである。
たとえば、裁判所は、議会と比べ、その組織・権限・手続の特性からいって、現代国家における経済的自由の規制の合理性を判断する能力を欠いているので、議会の判断をできる限り尊重すべきであるとされる。
しかし、より重要な理由は、民主政論を基礎にした裁判所の役割論である。
民主主義の原則からは、国民の判断が最大限に尊重されなければならないが、国民の意見を直接に代表しているのは議会である。
ゆえに、裁判所は議会の判断を尊重すべきである。
しかし、そういえるのは、議会が国民の意見を忠実に反映している限りのことであり、その反映のプロセスに障害が生じている場合には、この議論は成り立たない。
反映プロセスが正しく機能するためには、表現の自由を中心とする精神的自由が保障され、かつ参政権が保障されていることが必要である。
この民主的プロセスに障害をもたらすような法律が議会の多数派により導入される場合には、裁判所がチェックする必要がある。
民主的プロセスが確保されている限り、経済的自由の規制に問題があればこのプロセスを通じて国民が決めればよいから、裁判所は議会の判断を尊重してよい、というのである。
この民主的プロセスを基礎にした裁判所の役割論は、説得力のある見解であるが、この議論の射程については議論のあるところである。
たとえば、自己決定権が民主的プロセスに関係するのかどうかは、民主的プロセスをどう理解するかに依存する。
民主的プロセスが正常に機能するためには、自律的個人の存在が必要であることを強調すれば、自己決定権を制約する法律も民主的プロセスに関係するといえないわけではない。
いずれにせよ、「通常審査」を基本としつつ、より厳格な審査あるいはより緩やかな審査が妥当すべき場合を考えていくとき、参考にすべき議論である。
日本の最高裁も、考え方としては二重の基準論を受け入れる趣旨の意見を判決の中で述べているが、経済的自由権については厳格な審査は必要ないという文脈で使っているのみで、精神的自由権については厳格な審査が必要だという文脈でこれを使用した判例は、今までのところ存在しない。
しかし、二重の基準的な発想が判例にまったくないかというと、そうでもない。
というのは、経済的自由権の制限を審査した判例においては、利益衡量の結果合憲かどうかを判断するに際して立法府の裁量的判断を尊重するべきだという考えを表明している(薬局開設の距離制限が職業選択の自由に反しないかを判断した最大判昭和50年4月30日民集29巻4号572頁参照)のに対し、精神的自由権の制限については、一般的に立法裁量を尊重すべきだという立場はとっていないが、これは経済的自由権を定めた憲法22条と29条が特に公共の福祉による制限を明示しているということにも関係いしているとはいえ、そこに二重の基準の考えを読みとることも可能と思われるからである。
それに加えて、二重の基準からは優越的権利と位置づけられる選挙権に関しては、厳格な審査を行った判例が存在するのである(在外日本人の選挙権制約を違憲と判断した最大判平成17年9月14日民集59巻7号2087頁参照)。
f) 比例原則の理論
ドイツの憲法裁判所がしばしば使う違憲審査手法は「比例原則」の適用である。
それによれば、審査の焦点は、目的の正当性を前提にしたうえで、目的と手段の関係に置かれ、人権制限が合憲とされるためには、手段が、①目的と適合的であり(適合性の原則)、②目的達成のために必要であり(必要性の原則)、かつ、③目的と均衡するものでなければならない(狭義の比例原則)、とされる。
これをアメリカの審査基準論と比較すると、第一に、目的の正当性は前提とされているようであり(ただし、目的の正当性の審査も比例原則による審査に含まれているという説もある)、目的審査に対応する段階が明確には設定されていない。
第二に、①と②はアメリカの手段審査に対応しており、かつ、①は、実現すべき公益の側に着目し、目的と何らかの適合性があればよいとされているから、きわめて緩やかな基準であり、アメリカの合理性基準における手段審査に近いと思われるが、②は、制限される人権の側に着目し、人権制限が最小限である手段の採用を要求する基準とされているから、ある程度厳格な基準であり、アメリカにおける中間審査あるいは厳格審査における手段審査に対応するものと理解することができよう。
したがって、手段審査の側面においては、①と②を総合すれば、①をパスしたものにつきさらに②の審査を行うのであるから、アメリカの合理性審査基準は排除され、全体としてアメリカの「高められた審査」(=中間審査および厳格審査)が行われるものと思われる。
しかし、手段審査を厳格に行っても、目的審査はないか、あっても「正当な」ものであればよいとされているにすぎないから、目的(公益の実現)が正当ではあるが些細なものである場合には、手段としての人権制約が目的達成に必要最小限のものであっても、失われる人権利益が実現される公益より大きいということが生じうる。
それに対処するために設定されているのが③の審査であり、失われる利益の方が大きい場合には、③により目的と手段が不均衡として排除されるのである。
したがって、アメリカの目的審査に対応する操作が③により担われると理解することができると思われる。
アメリカの審査基準論においては、目的審査と手段審査をパスすることにより、得られる利益と失われる利益の均衡が確認されると考えるのに対し、ドイツでは手段審査により明らかに違憲とされるべき場合を排除した後に、最終的な決め手として、得られる利益と失われる利益の衡量を行うのである。
その背景には、基本的な考え方の違いがある。
アメリカの発想は、得られる利益と失われる利益を比較・衡量する基準を設定し、その基準に従った目的審査と手段審査をパスすれば、利益は均衡しているとみなして、さらに両利益の均衡を審査するということはない。
それに対し、ドイツの比例原則においては、③で行う両利益の衡量こそが決め手であり、①と②は決め手を使うまでもない場合を排除する役割を担わされているのである。
ゆえに、アメリカの審査手法が「基準に基づく利益衡量」であるのに対し、ドイツのそれは基準なしの「裸の利益衡量」と評することができよう。
日本の最高裁判決の中には、猿払判決や薬局開設距離制限違憲判決などのように、ドイツの比例原則により理解した方が説明しやすいと思われる判決も存在するが、最高裁自身がアメリカとドイツの審査方法の違いを意識していると考えるのは困難であり、目的審査と手段審査の枠組で審査を行い結論を出している判決も多い。
いずれの方法にも長所・短所があり、一般論としてどちらがよいと簡単にはいえないが、日本が現在直面している問題は、最高裁が行っている利益衡量が多くの場合基準なしに行われているという点にあることを考えると、可能な限り審査基準論の発想を取り入れることが当面の課題であろう。
最終更新:2014年03月15日 22:08