<目次>

1 法の支配と司法権


(1) 法の支配の目的と構造


法の支配は、支配者の恣意的で気まぐれな支配を意味した「人の支配」を否定するために主張された観念であった。
人の支配は、権力がどのように行使されるかの予測を困難にし被治者の地位を不安定にする。
そこで、被治者の安定した地位と権利を保障することを目的に、法の支配が求められたのである。
支配者の意思からは独立に予め存在する法に従って支配(権力の行使)が行われること、これが法の支配の要求であった。
ゆえに、法の支配を制度として確立するためには、まず第一に、権利を保障した内容をもつ「法」の確立が必要であり、第二に、支配が法に従って行われているかどうかを裁定する中立的な機関が必要である。
立憲君主政において立法権(議会)と司法権(裁判所)が君主の権力から分離・独立したのは、権利保障のための法の支配の確立という観点からはきわめて自然な展開であり、18世紀イギリスの立憲君主政がモンテスキューの三権分立論の基礎となったのもこの観点から理解できる。
国民主権モデルにおいては、この論理はさらに発展し、法の支配の制度化の論理として「法の段階構造」が形成される。
つまり、法はその定立機関との関連でいくつかの法形式に分化され、法形式間に効力の上下関係が設定されて、下位の法形式は上位の法形式に自己の根拠をもたねばならず、上位の法形式に違反してはならないとの原則が確立されるのである。
日本国憲法においては、基本的には、「憲法→法律→命令(政令→府・省令、規則)」という段階構造が形成されている。
それぞれの法形式は法定立機関の違いに対応しており、下位の法形式を上位の法形式の「執行」と捉えると、法定立機関と法執行機関が分離されていることが重要である。
そして、下位の法形式が上位の法形式に違反していないかどうかを、中立的な第三者機関としての裁判所が審査することにより、法の支配の実現が期されているのである。

支配(政治)を法に服せしめるには、政治活動を法的行為・法形式へと「翻訳」しなければならない。
法の言葉に移し換えることにより、政治を法の論理の中に取り込み法による枠づけが可能となるのである。
政治は、法の衣をまとい、法の段階構造の中で法の論理を使って自らを正当化しなければならず、その正当化が受け入れられうるものかどうかが中立的な裁判所により判断される。
これが法の支配の基本構造である。
それは、ある意味では、「目的-手段」思考の政治を「要件-効果」へと枠づける操作ということができよう。

(2) 司法権の意味


(ア) 定義

法の支配が要請するのは、正しい法を制定し、それを忠実に執行することであった。
その目的は、国民の権利の保障であり、日本国憲法はこれを「裁判を受ける権利」(32条)として表現している。
何人も、「法」に違反する権力行使により権利を侵害された者は、裁判所において裁判を受ける権利を有するのである。
そして、その裁判所は、今見たように法の支配の構造において、要の位置を占めている。
そのことが「司法権」の観念に反映されなければならない。

憲法76条1項は「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と定める。
この司法権は、立法権(41条)および行政権(65条)との関連(三権分立)において使われている用語であり、三権分立との関連において定義されなければならない。
三権分立は、法の支配の制度化のための原理であり、そうだとすれば、立法が法定立(法律の制定)作用であり、行政が法律の執行であるのに対し、司法とは法の「執行」における争い(下位規範が上位規範に反していないかどうかの争い)を裁定することを核心とする作用と捉えるべきことになる。
もちろん、裁判所の役割は国民の権利を保護することにあり、そのために「裁判を受ける権利」に応えなければならないが、それに付随して必要な「裁定」を行うのであり、この裁定こそが「司法」の核心なのである。

そのうえで、司法作用は次のような性質も併せもつと考えなければならない。
第一に、立法や行政が上位規範の枠内で自らの判断に基づき行動を起こしうるのに対し、司法は権限の自己増殖を避けるために受動的作用でなければならず、適法な提訴があって初めて活動を開始しうると解さねばならない。
第二に、司法は争いを裁定する中立的な機関であり、その手続も当事者を公正に扱う適正なものでなければならない。
第三に、司法による裁定には終局性が与えられねばならない。

以上より、司法とは「適法な提訴を待って、法律の解釈・適用に関する争いを、適切な手続の下に、終局的に裁定する作用」と定義することができる。
この定義で司法作用の核心をなすのは、「法律の解釈・適用に関する争いの裁定」であり、「適法な提訴」は司法の発動条件、「適切な手続」は司法権行使の態様、「終局性」は効果を表現している。

(イ) 事件性の要件との関係

従来の通説は、司法を具体的事件の解決という点に重点を置いて理解してきた。
司法権の本来の役割は、国民の権利義務に関する具体的な争いを解決することにあると考えてきたからである。
たしかに、国民の権利利益の侵害を救済することは、裁判所の重要な任務である。
憲法は国民に裁判を受ける権利を保障しており、それに応えることが裁判所の権限の範囲に含まれることは疑いない。
しかし、司法の観念自体は、立法・行政との、いわば横の関係における任務分担として決まるべきものであり、国民の裁判を受ける権利との関係という、いわば縦の関係における任務規定とは区別して考察すべきと思われる。
司法権の発動には具体的事件の存在が必要だという意味での「事件性の要件」は、後者に関係するものであり、私の定義では「適法な提訴を待って」という表現で捉え直されている。

司法権の概念が事件性を要件としないとすると、事件性を欠く、個人の権利義務に関する具体的な争いではない、いわば抽象的な争いの裁定も司法権に属するということになる。
しかし、それは、あくまでも潜在的にそうだというにすぎない点に注意が必要である。
司法権への帰属が顕在化するのは、「適法な提訴」があったときである。
憲法は人権を保障しているから、自己の人権を侵害されたと主張する者は、人権規定を直接的根拠として、あるいは、裁判を受ける権利を媒介にして、当然出訴が許される。
ゆえに、人権侵害の場合は、司法権は憲法上顕在化しているのであり、その争いを裁判所以外が裁定することは原則として許されない。
また、国会は法律により個人に具体的な権利を与えることができ、この法律上の権利が侵害された場合にも、裁判を受ける権利を根拠に出訴が保障される。
ゆえに、法律上の権利について争いが生じたときも、司法権は顕在化する。

問題は、憲法上も法律上も実体的な権利が与えられていないときである。
特定個人の権利利益ではなく、国民・住民全体の利益に関係する法適用の争いがその例であるが、このような場合に法律により出訴権を与えることは許されるであろうか。
司法権に事件性の要件を要求する通説の立場からは、これは司法権に属さない権限を法律により裁判所に与えることは許されるかという問題になる。
しかも、行政についての控除説の立場からは、司法権(および立法権)に属さない権限は行政権に属するから、これは法律により憲法上の権限分配を変更しうるかという重大な問題となる。
それに対し、私の立場からは、この問題は、憲法上潜在的に司法権に属し、それを顕在化させるかどうかは国会に属する権限を国会が行使するかどうかという、国会の裁量の問題と捉えることになる。
国会は、憲法上、行政が法律に従って行われているかどうかチェックする権限を、自ら《執行》すると同じにならない限度内で、有している。
その権限行使の一態様として、それを必要かつ適切な限度内で裁判所に委任することは許されてよいであろう。
もちろん、その裁量の範囲を逸脱してはならないが、それは委任を受けた裁判所自身が判断しうることであるから、問題は生じないと思われる。
実際、住民訴訟(自治242条の2)や選挙訴訟(たとえば公選204条の定める選挙無効訴訟)のような民衆訴訟などの「客観訴訟」」が、法律により認められている。
これらは、権利侵害を理由として出訴する「主観訴訟」とは異なり、住民とか選挙人という一般的な立場で行政の違法を争う訴訟と説明されており、裁判所法3条1項が裁判所の権限として掲げた「法律上の争訟」と「その他法律において特に定める権限」の二種のうち、後者に該当すると理解されてきたが、まさに法律によって出訴権を認めたものなのである。

(3) 司法権の限界


司法権の限界とは、司法権を行使しうる範囲はどこまでかの問題であるが、それには、司法権の性格(定義)自体からくるもの(内在的限界)と憲法上の他の規定との調整からくるもの(外在的限界)がある。
内在的限界として最も重要なものは、出訴権との関連で生ずるものである。
つまり、前述のように、司法権が顕在化し、現実に行使しうるに至るためには、適法な出訴が必要であった。
司法権は出訴権の存在により現実的範囲を画されているのである。
出訴権については、法律によりどの限度まで付与しうるかという問題があり、一般的には立法裁量の問題と解するが、これとの関連で抽象的な違憲審査を求めるための出訴権付与が許されるかどうかという特殊な問題がある。
しかし、これについては違憲審査制度を説明するところで述べることにし(410頁以下参照)、ここでは外在的限界を中心に見ておくことにする。

(ア) 憲法が明文規定で設定した例外

国会議員の資格について疑問が生じた場合には、その議員の帰属する議院が裁判権をもつ。
この裁判で議員の議席を失わせるには、出席議員の3分の2以上の多数による議決が必要である(55条、なお国会111~113条参照)。
その結果に不満があっても、裁判所に訴えることはできない。
ただし、選挙争訟において候補者の資格を争うことを法律で認めても、議院の権限を侵害するわけではない。

もう一つの例外は、弾劾裁判所である(64条)。
これについては後に触れる(402頁参照)。
弾劾受け罷免された裁判官は、それを裁判所に訴えることはできない。

(イ) 立法権・行政権との関係における限界

a) 自律権

権力分立が機能するためには、各権力の自律権が必要である。
ゆえに、各院や内閣の自律的判断に委ねられた事項には、司法権は介入できない。
たとえば、法律が成立したのかどうかとか、内閣決定があったかどうかなどの問題は、原則的にはそれぞれが自律的に判断したところを尊重しなければならない(警察法改正無効事件・最大判昭和37年3月7日民集16巻3号445頁、苫米地事件・最大判昭和35年6月8日民集14巻7号1206頁参照)。

b) 立法裁量・行政裁量

司法権は下位規範が上位規範に適合しているかどうかを判断する作用であった。
つまり、立法が憲法の枠内にあるのか、行政が法律の枠内にあるのかを裁定するのである。
その場合に、上位規範が唯一の下位規範しか許容していないということは稀で、多くの場合、上位規範の枠内で複数の下位規範の可能性が存在する。
そのうちどれを選択するかは、第一次的には立法権あるいは行政権の裁量権に属し、司法権はそこで選択された規範が上位規範の枠内にあるかどうかを判断することを中心的な役割とし、第一次的判断権者に代位して自らが最善と考える選択肢を押しつける権限は原則的にはない。
しかし、第一次判断権者がその権限行使の機会をもったにもかかわらず、それを行使せず、または不十分にもしくは誤って行使した場合には、司法権は当該権力に代位して、実効的救済に必要な選択肢を命ずることができると解すべきである(たとえば、定数不均衡訴訟の場合を考えよ)。

(ウ) 人権その他の憲法規定との調整からくる限界

司法権も権力の一つとして憲法に服する。
ゆえに、司法権の行使は人権等の憲法規定に反しないように行われなければならない。
その場合よく問題となるのは、政教分離および結社の自由との関係である。

a) 政教分離原則に由来する限界

宗教に関係する紛争の解決を求められたとき、その紛争の解決のためには宗教上の教義に関する争いを解決する必要があるという場合には、裁判所は介入してはならない。
政教分離により、裁判所は教義に関して一方の立場に与することが禁止されているからである。
最高裁は、教義についての争いは法を適用して解決しうる問題ではないから、法律上の争訟とはいえないとして(板まんだら事件・最三判昭和56年4月7日民集35巻3号443頁参照。この事件では、「板まんだら」を安置すべき正本堂の建立資金を寄付した原告が、「板まんだら」が偽物であることを理由に要素の錯誤を主張し寄付金の返還を求めたが、偽物かどうかは教義の理解に依存すると解された)、これを内在的限界の問題と捉えている。
しかし、教義の問題を法的に解決することは法技術的には不可能とはいえないから、むしろ政教分離の原則からくる外在的限界と解するのがよい。

b) 結社の自由に由来する限界

憲法は結社の自由を保障しているが、結社の自由は結社内部の問題を国家から干渉されることなく自治的に処理する権利を内包している。
自治的処理に関して争いが生じた場合、不満のある側は裁判を受ける権利を有しているが、他方の側は自治的処理の権利を有しており、両者の調整が必要となる。
裁判所としては、結社内部のルールが公序良俗の観点から許容しうるものかどうか、および、許容しうるとして、内部処理がそのルールに従って行われたという主張は尊重しうるものかどうかについては、判断しうると考えられる(結社の自由、232頁参照)。

部分社会論
我々は社会の中で様々な小集団(部分社会)に帰属して生活しているが、部分社会は通常その目的に適した自生的ルールを有している。
社会の自治・自律を尊重する立場からは、国家はできる限りそのルールを尊重するのがよいということになり、かかる観点から司法権の限界を説く議論が「部分社会論」と呼ばれる(部分社会論をとったとされる判例として、地方議会の議員懲罰に関する最大判昭和35年10月19日民集14巻12号2633頁、国立大学における単位認定に関する最三判昭和52年3月15日民集31巻2号234頁参照)。
しかし、他方で、憲法は「裁判を受ける権利」を保障している。
この権利は、社会における平和と秩序の維持のために紛争の自力救済を禁止した見返りであり、紛争の解決を求める者に部分社会論という憲法上明示の根拠のない理論を安易に持ち出して救済を拒否するのは、憲法上問題があろう。
少なくとも、裁判を受ける権利を制限しうるような憲法上の根拠を示す必要があると思われる。
それが上で述べた他権力の自律権や政教分離、結社の自由等であり、地方議会に関しては地方自治、国立大学に関しては大学の自治が援用できるであろう。
こうした憲法上の論拠により説明できる場合に、「部分社会」というような包括的な概念を持ち出して説明することは必要ないし、好ましくもない。

2 裁判所の組織と権限


 - 省略 -

3 裁判所の活動上の原則


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最終更新:2014年03月15日 22:19