| いかに立派な憲法を制定しても、それが権力行使者により遵守されなければ画餅に帰す。 ゆえに、立憲的憲法は、通常、憲法の遵守を担保するメカニズムを憲法自体の中に組み込んでいる。
 権力者に憲法を護らせるためには、一方で、その違反に対して違反者の処罰とか違反行為の無効化といったサンクションを科す必要がある。
 それを通じて憲法規範の内容の維持・回復が図られねばならないのである。
 しかし、同時に、他方で、憲法規範の内容を時代の変化に適合したものに修正し、遵守の強制が合理性をもつよう配慮することも必要である。
 憲法の維持(憲法保障)と変化への適応(憲法適応)との均衡のとれた運用を行っていくことが重要なのである。
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<目次>
Ⅰ 憲法保障
憲法の名宛人は権力行使者であった。
権力行使者に憲法を護らせることが問題なのである。
憲法99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と規定するが、ここには「国民」は注意深く除外されている。
これは、国民が憲法を護らなくてもよいということをいっているのではない。
何人も他者の人権(自然権)を尊重すべきなのはいうまでもないことで、仮に国民が他者の人権を侵害するような行為を行えば、通常何らかの法律に違反し、国家権力により制裁を科されるのである。
しかし、権力行使者が憲法に違反する行為を行うときには、これに制裁を科すのは容易ではない。
だからこそ、権力行使者の憲法尊重擁護義務を明文で宣言し、注意を喚起しておく必要があると考えられているのである。
のみならず、それと同時に、違反行為を予防し除去する論理とメカニズムも必要である。
まず第一に、権力を国民が監視することを可能とする制度が必要である。
国民の政治参加、表現の自由、情報公開制などが、この目的に動員されよう。
第二に、権力が権力を阻止する制度が必要である。
一つの権力が憲法違反を犯したならば、他の権力がそれを阻止するというメカニズムを組み込むことにより、これを可能とすることができる。
なかでも、ここで取り上げる裁判所による違憲審査制は、その最も重要な制度である。
しかし、第三に、こういったメカニズムがついに機能しえなかった場合、究極の憲法保障として抵抗権が問題となる。
それと関連して国家緊急権の問題もここで見ておくことにしよう。
A) 違憲審査制
1 司法審査型と憲法裁判所型
法律が憲法に違反するかどうかを裁判所が審査する制度には、二つのモデルが区別される。
(1) アメリカ型司法審査
憲法は国の最高法規であり、これに違反する国家の行為は、法律であれ命令であれ、効力を有しない(98条1項)。
問題は、憲法に違反するかどうかを誰が判断するかである。
最終的には主権者たる国民が判断するといえようが、それに至る前段階ではいずれかの国家機関が判断せざるをえない。
近代立憲主義においては、法律の合憲性の判断権は議会に与えられるのが通常であった。
議会が憲法解釈の最終的権限をもち、議会が合憲と判断して法律を制定した以上、実定法上はこれに異議を唱えることはできなかったのである。
唯一例外をなしたのは、アメリカ合衆国であった。
アメリカにおいては、憲法に明文の規定はないが、合衆国最高裁判所は、1803年のマーベリー対マディソン事件の判決において、裁判所には法律が憲法に違反しないかどうかを判断する権限があると述べて審査を行い、その結果法律を違憲と判断してその適用を拒否した。
以後、これが先例となって裁判所による違憲審査権が確立されたのである。
それを根拠づけた論理は、次のようなものであった。
すなわち、裁判所は具体的な紛争に法を適用して解決することを任務とするが、適用すべき法の間に矛盾があれば、どの法を適用すべきかを決定しなければならず、憲法と法律が矛盾している場合には当然憲法が優先するから、憲法に反する法律は適用から排除される、というのである。
実は、この論理が成立するには、法の間(憲法と法律の間)に矛盾があるかどうかの判断権を裁判所がもつという前提が認められねばならない。
議会の判断が最終的だという考えは、この判断権は議会がもつという前提に立つのであるが、アメリカの最高裁は、憲法の明文の根拠なしに、それを裁判所がもつとしたのである。
ともあれ、かかる論理によって、裁判所が具体的事件の解決に際して、つまり、解決に付随して、必要ならば違憲審査を行いうるという制度をいち早く確立したのである。
これを「付随審査制」と呼ぶ。
(2) ドイツ型憲法裁判所
これに対し、ヨーロッパ大陸諸国においては、
①人権を護る砦は議会であるという考えが強く、反面、通常裁判所に対する信頼が弱かった、
②憲法を裁判所を通じて執行する法規範としてよりは、政治的に担保すべき政治規範とみる考えが強かった、
などの理由から、通常裁判所による違憲審査という観念は浸透しなかった。
第二次世界大戦後、法律により独裁政治を行ったナチスの経験を反省して、法律を裁判所がコントロールする必要が痛感されるに至るが、近代以来の通常裁判所に対する信頼の欠如から、審査機関として特別の「憲法裁判所」を設立する方向に向かった。
ドイツの憲法裁判所がその典型である。
この制度の特徴は、第一に、違憲審査の権限は原則的に憲法裁判所に集中され(そのため「集中型」と呼ばれる)、他の裁判所には違憲判断をする権限は認められない。
第二に、ここでは違憲審査が、具体的事件の解決に付随してではなく、違憲か合憲かを直接の審査対象とする独立審査として行われる。
その意味で、「抽象的規範統制」としての性格をもつ。
具体的事件を前提としないので、ここでは、通常、特定の出訴権者が憲法上定められている。
もっとも、憲法問題が他の裁判所で具体的事件を契機に提起され、その憲法判断を求めて憲法裁判所に移送されてくることはあるが、この場合でも、憲法裁判所は、その具体的事件を離れて、憲法問題のみを抽象的に判断するのである。
2 日本の違憲審査制度の性格と運用の仕方
(1) 性格
憲法81条は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」と規定する。
これにより授けられた違憲審査権は、いかなる型に属する権限であろうか。
日本国憲法がアメリカ合衆国憲法の影響を受けてつくられたことから、それが付随審査制の性格をもつことについては、学説上争いはなく、ゆえに、最高裁判所のみならず下級裁判所も事件の解決に付随して審査権を行使しうると解されている。
問題は、最高裁判所が、それに加えて、さらに憲法裁判所としての性格も認められたのかどうかである。
通説はそれを否定するが、少数説として、これを肯定し、法律が憲法に反すると考える者は誰でも81条を根拠に最高裁判所に審査を求めることができるとする説(A説)、あるいは、81条のみを根拠に提訴することはできないが、法律で出訴権者や手続等を定めて憲法裁判所として機能する条件を整えれば可能であり、憲法はそれを禁止していないと解する説(B説)が存在する。
最高裁判例は、自衛隊の前身である警察予備隊が創設されたとき、A説に基づき社会党委員長がこの違憲確認を求めて直接最高裁判所に出訴した取消訴訟において、「わが現行の制度の下においては、特定の者の具体的な法律関係につき紛争の存する場合においてのみ裁判所にその判断を求めることができるのであり、裁判所がかような具体的事件を離れて抽象的に法律命令等の合憲性を判断する権限を有するとの見解には、憲法上及び法令上何等の根拠も存しない」と判示した(警察予備隊違憲訴訟・最大判昭和27年10月8日民集6巻9号783頁)。
これは一般には通説の立場を表明したものと解されているが、しかし、「現行の制度の下において」と述べている点を重視し、憲法裁判所としての条件を整備する法律の存在しない現状においては許されないというのが、その真意であり、A説を否定しただけでB説まで否定したものではないと解する立場もある。
(2) 権利保障型とその憲法保障型運用
付随審査制においては、法的紛争の解決に付随して必要な限度で違憲審査が行われる。
法的紛争は、普通、権利侵害に対する救済を求めて始まるので、この型の違憲審査を権利保障型という。
ここでは、権利保障が直接の目的で、憲法の保障はその結果にすぎない。
これに対し、独立審査制においては、憲法違反の有無が審査の直接的な目的とされ、権利の保障はその結果として実現されるものである。
ゆえに、これを憲法保障型という。
このように、両者は何を直接の目的と考えるかの点で異なるが、しかし、権利の保障と憲法の保障は密接な関係にあり、両面を視野に入れて問題を考えていく必要がある。
実際、憲法裁判所を採用するドイツにおいても、権利侵害の救済を求める「憲法異議」の制度が導入されているし、司法審査制のアメリカにおいても、事件性の要件を拡大して抽象的な規範統制に近い審査の仕方をする場合も見られ、両型のこういった展開に着目して両者の「合一化傾向」が語られている。
したがって、日本の制度が基本的には権利保障型であるとしても、その憲法保障的な運用も考慮に入れて考えていく必要がある。
そのための方法として、憲法裁判所的な制度を取り入れるという意見もあるが、憲法改正なしにそれがどこまで可能かという問題もあり、むしろ付随審査制を前提にして、事件性の要件の再検討等を通じて違憲審査を行いうる場面を拡大していく方向を追求するのが生産的であろう。
3 違憲審査権行使の限界
(1) 司法権からくる限界
違憲審査権は裁判所がその本来の権限を行使するのに付随して必要な場合に行使される権限である。
ゆえに、その本来の権限により限界を画定される。
そこで、通説のように、本来の権限を司法権であり、司法権とは具体的事件を解決する作用であると解すると、審査権は事件性の要件が存在する場合でなければ行使しえないことになり、審査権の拡大には事件性の要件の緩和が必要ということになる。
アメリカの最高裁は、事件性の要件を相当緩やかに解しており、有権者や納税者の立場で訴訟を提起することも認められることが多いが、日本の最高裁は事件性の要件を厳格に解しており、いわゆる客観訴訟を事件性の要件との関係でどう理解するかにつき問題をはらんでいる。
客観訴訟が事件性の要件を満たさず、法律により特別に認められた訴訟類型であるとすれば、それは憲法に違反しないであろうか。
仮に司法権には属さない訴訟類型を法律で認めることも憲法上許されないわけではないと解したとしても、そのような「抽象的な訴訟」において違憲審査を行うことは、抽象的規範統制となり憲法に違反するのではないかという疑問も提起されている。
こうした疑問に答える一つの方法は、日本の制度が付随審査制であることを基礎に置いて、裁判所の権限行使に付随して行われる違憲審査は合憲であることをまず確認し、そのうえで裁判所の権限として司法権の範囲を拡大するか、あるいは、司法権以外の権限を承認することである。
その際に、裁判所の権限あるいは職責として「裁判を受ける権利」に応える責務があり、それは司法権の概念とは理論上別問題だと考えれば、従来の事件性の要件がカバーしたものは、すべて裁判を受ける権利で説明できる。
そのうえで、司法権の観念から事件性の要件を排除し、それに代えて「適法な出訴」があれば裁判所は司法権を行使しうると考えれば(389頁参照)、法律で出訴権が認められている限り、司法権の行使の要件は成立し、その権限行使に付随して違憲審査権を行使することに憲法上何の問題もないことになる。
最高裁の先例(前出警察予備隊違憲訴訟判決)も、このような理解と必ずしも矛盾しないと思われる。
では、法律の違憲性を《直接》争うための出訴権を法律で認めること、つまり、独立審査制を法律で導入することは許されるか。
国会は行政のコントロール権を有するから、その具体的あり方を法律で定めることは許され、その際に「法律に基づく行政」の担保として客観訴訟を制度化することも憲法の禁ずるところではない。
しかし、法律が合憲かどうかを《直接に》判断する権限は、憲法上国会に授けるというのが日本国憲法の立場と思われる(憲法自身が出訴権者に関する規定を置かなかったこと等の反対解釈)から、その権限・責務を放棄することは許されず、ゆえに独立審査制は憲法改正なしに導入することは許されないと解される。
(2) 違憲審査の対象からくる限界
(ア) 条約
憲法81条は、審査の対象として法律・命令・規則・処分を挙げるが条約は掲げていないし、98条も1項で憲法に反する「法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為」は無効と規定し、条約については2項で「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守」することを命じて、明らかに条約を別扱いにしている。
このため、条約は違憲審査の対象となりうるのかについて疑問が生じる。
条約については、そもそも条約は憲法の下位にあるのかという問題がある。
憲法の下位になければ、違憲審査という問題も生じようがないのである(17頁参照)。
この点につき、条約の締結権限とその手続は憲法に規定されており(61条・73条3号)、それを根拠として締結される条約が自己の授権規範の下位にあることは、法論理的にみて疑いない。
また、条約締結の手続と憲法改正の手続を比較しても、改正手続の方がはるかに重いものとされているから、条約により憲法を改正するのと同じ結果を生み出すことを認めるのは困難である。
ゆえに、通説は憲法優位説をとっている。
しかし、条約の中には、日本国憲法を実施しうる前提そのものを取り決めたものもある。
たとえば、ポツダム宣言(その受諾を条約と解した場合)や講和条約がそれにあたる。
こういった条約は、憲法の上あるいは外にあるものと考えるべきで、その限りで違憲審査の対象とはなりえない。
また、一般的に条約が憲法に優位するという条約優位説に立てば、すべての条約について違憲審査は問題にならない。
これに対し、通常の条約は憲法の下にあるという立場からは、その違憲審査は論理上可能である。
しかし、憲法が条約について慎重な規定の仕方をしているのをみると、特に条約については違憲審査の対象から外したのではないかが問題となる。
この点につき、判例は、砂川事件判決(最大判昭和34年12月16日刑集13巻13号3225頁)において、条約も審査の対象となりうることを承認した。
学説も、審査の対象になるという点では、ほぼ一致している。
(イ) 統治行為
国家統治の基本に関わる高度に政治的な問題の審査には、裁判所は関わるべきでないという考え方があり、これを統治行為あるいは政治問題の理論と呼んでいる。
裁判所がなぜ関わるべきでないかの説明としては、権力分立論に重点を置くものと、民主主義論に重点を置くものがある。
前者によれば、裁判所が扱いうる政治的問題は、法的言語に翻訳しうるものに限られ、政治性が強度で法的問題に翻訳するとかえって問題の本質を見失い適切な解決ができなくなるようなものは、もともと裁判所の権限外のものと考えるべきだとされる。
これに対し、後者によれば、政治性が強度でも法的に構成することは可能であり、その限りで裁判所の権限に属するが、しかし、政治性の強度な問題の解決は政治部門に委ね、最終的には主権者国民が政治プロセスを通じて解決するのが最適であるから、裁判所は権限行使を抑制すべきであるとされる。
両者の説明は、相互に排他的と考える必要はないであろう。
事案によって、いずれの説明がより適切かを考えればよい。
具体的に何が統治行為に該当するかを考える場合には、統治行為の理論が違憲審査の例外を認めるものであることから、安易な拡大を許さないよう気をつけなければならない。
したがって、他の理論で説明のつくものについては統治行為の理論を援用すべきでない。
たとえば、議院や内閣の自律性を理由とする審査の限界については、それぞれの自律権により説明すれば十分である(警察法改正無効事件・最大判昭和37年3月7日民集16巻3号445頁、苫米地事件・最大判昭和35年6月8日民集14巻7号1206頁参照)。
もっとも、それは違憲審査の限界以前に司法権の限界であろう(391頁参照)。
最高裁は、アメリカ軍の駐留と安保条約の合憲性が争われた砂川事件において、この問題は「わが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有する」ものであり、それが「違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじま」ず、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの」であると述べた。
これが統治行為論の先例となっているが、理論上はここには統治行為論と裁量論の混同があると指摘されている。
これに対し、衆議院の解散の違憲を争った苫米地事件判決では、「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外」にあると判示した。
ここには裁量論との混同はないが、裁判所による介入を留保した砂川事件判決とまったく留保しない苫米地事件判決でどちらが優れているかは、一概にはいえない。
4 憲法判断の方法
(1) 司法消極主義と司法積極主義
これは、裁判所は違憲審査権の行使を抑制的に行うべきか、積極的に行うべきかという問題である。
裁判官は議員のように直接国民から選出されるわけではない。
その裁判官が、国民を代表する議員が合憲と判断した法律を覆すのは民主主義に反するのではないか。
こう考えれば、審査権の行使は謙抑的に行うべきだということになる。
もっとも、問題は裁判所が国会の判断を覆すことにあるから、合憲判決を出すことは民主主義に反しない。
合憲判決でも政治部門の多数派の判断を正当化するという政治的効果をもつから、それを積極的に行うのは司法積極主義であるという捉え方もあるが、違憲審査の役割を考える場合に最も重要なのは裁判所が国会と対立する判断を行う場合であるから、そこに焦点を当てて消極主義・積極主義を考えるのがよいであろう。
そこで、民主主義を強調すれば、司法消極主義こそが裁判所の原則的な態度であるべきもののように見える。
しかし、政治部門による民主的判断は尊重すべきであるという考えが妥当するのは、政治プロセスの民主性が確保されているときに限られ、仮に民主的プロセス自体を形骸化するような立法がなされたときには、その審査に際して立法府の判断を尊重するという論理は成り立たないであろう。
さらに、そもそも違憲審査権は主権者国民が憲法制定により裁判所に授けた権限であり、その際の制憲者の意図が、国民からさえもある程度独立した、その意味で民主的性格のより小さい独立の裁判所こそが立法府をコントロールするのにふさわしいというものであったとすれば、この意図こそ、それが改正により変更されない限り、より民主性の強いものとして尊重されるべきではないかという議論もありうる。
この立場に立てば、裁判所の基本的な態度としては、憲法により与えられた権限を職務として忠実に果たすということでなければならないであろう。
それが、憲法問題を立法事実を基礎に具体的に審査し、説得的な理由を付すという「通常審査」の考えの基礎にあるものである。
それを原則にし、事件の類型により特に理由がある場合には、より「厳格な審査」あるいはより「緩やかな審査」も認められると考えていこうというのが本書の立場である。
(2) 憲法判断の回避と合憲解釈のアプローチ
(ア) 憲法判断の回避
付随審査制を基本とすれば、違憲審査は紛争の解決に必要な場合に行うものであり、憲法判断に立ち入らないで紛争を解決する方法が他にあるならば、その方法を援用することにより憲法判断を回避することは許される。
たとえば、自衛隊の演習用通信線を切断して自衛隊法121条の「武器、弾薬、航空機その他の防衛の用に供する物」の損壊罪に問われた恵庭事件において、裁判所は通信線を「その他の防衛の用に供する物」には該当しないと判断して無罪とし、自衛隊法121条が憲法9条に反しないかどうかという問題の判断は回避した(札幌地判昭和42年3月29日下刑集9巻3号359頁)。
裁判所としては、本件の解決方法として、自衛隊法121条の憲法判断を行い、合憲判断をしたうえで構成要件に該当せずという論理をとることもありえたであろうし、あるいは、違憲の判断をして本件への適用を排除するという論理をとることもありえたであろう。
しかし、本判決のように憲法判断を回避することも可能であり、どの筋道をとるかは基本的には裁判所の裁量に委ねられるものと考えられる。
これに反対する立場には、構成要件に該当せずという判断は、自衛隊法121条を「適用」したうえでの判断であり、合憲性が前提となっているという理解を示す見解もあるが、そのように理解すべきでない。
構成要件に該当しないとは、本条項は「適用できない」という意味に理解すべきであり、そこでは法律に関するいかなる憲法判断も前提にはなっていないと解すべきである。
判断回避の特殊な事例として、第三者の憲法上の権利の援用という問題がある。
アメリカでスタンディング(standing)の問題として論じられているが、そこでは「訴訟を提起する原告適格」(standing to sue)と「第三者の権利を援用する当事者適格」(standing jus tertii)が区別されている。
前者は、訴訟を提起するには訴訟の結果に本人独自の利益(personal stake)が関わっていなければならないという問題であり、その存在の主張がなければ適法な提訴とはならず、裁判所の判断はなされえない。
これに対し、後者は、訴訟が適法に係属したことを前提に、その訴訟において自己の主張の根拠として自己の権利ではなくて訴訟外の第三者の権利の侵害を援用しうるかという問題であり、通常被告にとっての問題として生じる。
権利保障を目的とする付随審査制においては、他人の権利の侵害は許されないのが原則であり、裁判所は通常はその主張を取り上げて判断することはないが、例外的に判断が許されることがあるとされる。
第三者の権利の侵害に関する判断を事件の解決の基礎に取り入れたからといって、付随審査制に反するわけではないので、判断するかどうかはある程度裁判所の裁量に属することになろうが、どのような場合に判断し、あるいは、判断を回避するかのルールが問題となるのである。
たとえば、第三者が自ら訴訟を提起することが困難である場合や、早期に争点についての裁判所の判断を示すことが望ましい場合などには、判断することが許されるのではないかといわれている。
このことが問題となった事例に、第三者没収事件がある。
そこでは、密輸に関係した貨物が第三者の所有に属していたので、その没収を、本人に防御の機会を与えないまま、被告人に対する附加刑として科すことができるかどうかが問題となった。
最高裁は、最初、第三者の権利(所有権侵害)を援用することは許されないとして主張を退けたが(最大判昭和35年10月19日刑集14巻12号1574頁)、すぐ後に判例を変更して主張を認めた(最大判昭和37年11月28日刑集16巻11号1593頁)。
没収により所有権が確定的に国家に帰属するのであれば、第三者は別訴で争うことはできないから、裁判所は違憲かどうかを判断すべきであろう。
この問題は、たとえば教科書訴訟で教科書執筆者の原告が生徒の教育を受ける権利の侵害を主張しうるのかとか(杉本判決(208頁)参照)、宗教団体が信者の権利を援用しうるか(観光税訴訟(177頁)、オウム解散命令訴訟(178頁))といった形でも現れている。
(イ) 合憲限定解釈
憲法上違憲の疑いのある条文を適用する場合にも、その条文の意味を憲法に適合するように解釈することにより、違憲判断を回避する「合憲限定解釈」という手法もある。
全逓東京中郵事件判決や都教組事件判決がこの手法を用いた代表例である。
法律を違憲とするわけではないので、立法府との真正面からの対立を避けうる点に利用価値があるが、そのために無理な解釈をすれば、事実上法文を書き換えるのと同じになり、司法の権限を逸脱する危険が生ずるから、「解釈として許容される範囲内」にとどまらなければならない。
最高裁は、公務員の争議権の制限規定については、不明確な合憲限定解釈によりかえって刑罰の明確性の要請に反する結果となっているとして、それまでの合憲限定解釈をした判例を変更した(最大判昭和48年4月25日刑集27巻4号547頁)が、表現の自由を規制する法律については、「限定解釈をすることが許されるのは、その解釈により、規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制し得るもののみが規制の対象となることが明らかにされる場合でなければならず、また、一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるものでなければならない」と述べ、「風俗を害すべき書籍、図画」を「猥褻な書籍、図画」と合憲限定解釈することも許されるとしている(最大判昭和59年12月12日民集38巻12号1308頁)。
この基準の前段部分は、合憲限定解釈の結果が明確かつ合憲的内容でなければならないことを示したものであり、当然のことである。
これに対し、後段部分は、やや曖昧ではあるが、元の規定からは一般国民が読みとりえないような内容に解釈することは許されないことを示したものと解されるので、ここでいう「解釈として許容される範囲内」を判示したものと理解できる。
「風俗を害する」とは「猥褻な」という意味だと一般国民が読みとりうるかについては、反対意見も存在した。
なお、合憲限定解釈という解釈手法は、条文に合憲的部分と違憲的(違憲の疑いのある)部分が含まれている場合に、違憲的部分を解釈により切り落とす手法であり、通常の解釈手法(文理解釈・目的論的解釈・体系的解釈等)により違憲の疑いのない意味に解釈しうる場合には、合憲限定解釈とは呼ばない(最二判平成24年12月7日判時2174号21頁の千葉補足意見参照)。
したがって、徳島市公安条例判決(最大判昭和50年9月10日刑集29巻8号489頁)は、「交通秩序を維持する」という構成要件に違憲の疑いを認定することなく解釈により条文の意味を限定しているから、合憲限定解釈を採用したとはいえないが、税関検査事件判決は「風俗を害する図画」という要件に違憲の疑いを認定したうえでその意味を「猥褻な図画」と限定したから合憲限定解釈を採用したということになる。
しかし、両者の違いは現実には相対的であるので、税関検査事件判決は合憲限定解釈が許される場合の先例として徳島市公安条例事件判決に依拠している。
いずれにせよ、合憲限定解釈が許されるためには、合憲的部分と違憲的部分とが「可分」でなければならない(418頁参照)。
不可分であれば、全体として違憲とするか、あるいは、後述の適用上判断をすることになる。
(3) 適用上判断と文面上判断
「法律」を「事実」に適用するに際して、「事実」に着目してその憲法的評価をする場合と、「法文」に着目してその憲法的評価をする場合がある。
前者の場合、事実が憲法上保護されたものであるときには、これを規制する法律を適用すれば違憲となるので、「本件に適用する限りにおいては違憲」(適用上違憲)と判断して事件を解決することが可能となる。
逆に、事実が憲法上保護されたものでないときには、たとえ法律自体に疑問があっても、「本件に適用する限りにおいては合憲」(適用上合憲)という判断が可能となる。
このアプローチにおいて注目されるのは、法律自体の憲法的評価は直接にはなされず、いわば法律そのものの憲法判断が回避されることである。
これに対し、文面上判断とは法律そのものを直接審査し、それが違憲である場合には、「違憲であるから本件に適用できない」として事件の解決を行う方式である。
では、文面上判断をすれば法律が違憲となる可能性があるが、適用上判断をすれば本件事実は憲法上保護されたものではなく適用上合憲となりうるという場合、どちらのアプローチをとるべきか。
たとえば、法律の規制対象が広汎にすぎ、憲法上保護された行為まで規制対象に含まれているが、本件の行為自体は憲法上保護されたものではないとか、あるいは、規制の文言が漠然不明確で規制対象のコアの部分は分かるものの周辺部がどこまで及ぶのか分からないが、本件の行為自体はコアの部分に該当するというような事件において、この問題が生じる。
これは、本人に適用する限りでは合憲であるが、訴訟外の第三者に適用する場合には違憲となりうるということであるから、前述の第三者の権利の援用の一例でもある。
一般論としていえば、規制の「畏縮効果」を懸念すべき表現の自由等の領域については、法律の違憲性を早期に確定するために文面上判断を優先すべきであるが、畏縮効果を必ずしも懸念する必要のない経済的自由等の領域については、適用上判断をとるのがよいと考えられる。
5 違憲判決の種類と効力
(1) 違憲判決の種類
違憲審査は、法令そのものを対象とする場合と、法令の適用の仕方を対象とする場合があり、この区別は、基本的には文面上判断と適用上判断の区別に対応している。
そして、この区別から文面上違憲(法令違憲)と適用上違憲が生じることになる。
文面上違憲は、法令そのものを違憲と判断するものであるが、関連条文を全面的に違憲とする場合と、その一部だけを違憲とする場合がある。
関連条文のなかで違憲である部分が他の部分と「可分」であれば、その部分だけを違憲と判断し、不可分であれば全体を違憲とすることになる。
全部違憲となるか部分違憲となるかは、可分かどうかによるが、その判断は、基本的には、その違憲部分がなかったならば立法者はこの立法をしたのかどうかを基準になされる。
全部違憲も部分違憲も法令違憲である点では同じであり、立法者がこれに対応しようとする場合、何が違憲とされたかは判決理由から判断する以外にないから、両者の区別自体に意味があるわけではなく、重要なのは可分かどうかの判断だといえよう。
適用上違憲は、適用の仕方を審査の対象とするが、法令の適用には、通常、適用する行為と適用される側の状況とが存在し、そのいずれに着目するかにより議論の仕方が異なる面がある。
適用上判断の本来的なあり方は、適用される側の状況を憲法により評価するものであり、その状況が憲法により保護されていると評価された場合に適用上違憲の判決となる。
この場合には、適用されるべき法令についての憲法判断は回避される。
これに対して、法令の執行者がそれを適用する行為に着目するときには、通常は、適用行為が法令に従っているかどうかが問題となる。
従っていなければ違法であり、憲法判断の必要はない。
適用法令が違憲かどうかが問題とされるなら、それは適用上違憲ではなく法令違憲の問題である。
したがって、適用行為に着目して審査する場合には、憲法判断は必要ないはずである。
ところが、適用行為を法令に照らして評価して違法性を判断するのではなく、直接憲法に照らして評価し、違憲かどうかを判断するという手法も理論上は可能であり、これも一般的には適用上判断と呼ばれている。
何を適用上違憲と呼ぶかという用語上の問題にすぎないともいえるが、視点を異にする違いがあることは意識しておく必要がある。
いずれにせよ、適用上違憲は個別的な事例についての判断であり、法令そのものについての判断ではないので、当該事例への適用が違憲であることは判断されたが、それ以外に適用違憲となる場合があるかどうかは、不明なままに残される。
この点で、法令違憲である部分違憲とは、法令の適用の一部を違憲とする点では似ているようであるが、法的効果を異にする。
判例の中には「運用違憲」という手法を採用したものも存在した(東京地判昭和42年5月10日下刑集9巻5号638頁)。
東京都公安条例に関する事件であったが、公安条例自体の合憲性は最高裁判決で確定しているため、文面上判断は回避してその運用の仕方を問題にした。
その際、当該事件における運用を問題にする(その場合には適用上判断となる)のではなく、それまでの他の事例を含めた運用全体を評価して違憲と判断し、そのうえで本件もその全体としての運用の一環としてなされたものであるから違憲であるとした。
しかし、本件の適用の仕方を評価するのに他の事例と一体として評価するのは、付随審査制の論理と必ずしも整合しない(本件の高裁判決である東京高判昭和48年1月16日判タ289号171頁参照)。
もし全体としての運用が違憲であるというなら、そのような運用を許容している法令そのものを違憲とすべきであろう。
いかなる種類の違憲判断を行ったかにつき見解の対立がある判例に、第三者没収判決(最大判昭和37年11月28日刑集16巻11号1593頁)がある。
この判決は、関税法の定める没収規定(犯罪行為の用に供した船舶・貨物の没収を規定していた当時の関税法118条1項)自体は合憲であるが、その船舶・貨物が第三者の所有に属する場合には、所有者に防御の機会を与える手続のないままに没収刑を宣告するのは違憲であると判断した。
この判例の理解につき、手続規定を置く法律改正をしない限り合憲とはならないのであるから、法令違憲と同視しうるという見解、関税法の没収規定を手続規定のないまま本件に適用するのは違憲であるということであるから適用違憲の判決であるとする見解、手続規定がないことを違憲としたのであるから立法不作為の違憲判決であるとする見解などが対立しているが、没収を判示した判決が違憲であり、その判決は憲法81条の「処分」に該当するから処分違憲の判決と理解すべきであろう。
「処分」は行政処分としてなされることが通常であろうが、裁判所の判決も憲法81条の「処分」に含まれる。
処分を行うには法令の根拠が必要であるが、授権の実体規定には問題がないのに憲法の要求する手続を定めた法令が存在しないというような場合には、その処分が実体的には合法であるが手続的には違憲ということが起こりうるのである。
その場合には、違憲の手続でなされた処分そのものが違憲であると理解することができる。
上に述べた適用上判断における適用行為に着目した適用違憲も処分違憲と理解する場合が多いであろう。
(2) 違憲判決の効力
付随審査制においては、憲法判断はその事件の解決に必要な限りで行われるから、法律が違憲と判断されても、それは当該法律をその事件では適用しないということにすぎず、一般的に法律が無効となるわけではない。
一般的に法律が無効となるとすれば、法律を廃止したと同じ意味をもち、裁判所が消極的な立法権をもつことになろう。
これは、国会が唯一の立法機関(41条参照)であることに反するのではないか。
このように考える立場を「個別的効力説」という。
違憲判決の効力は、法律をその事件に適用しないということに尽きると考えるのである。
もちろん、最高裁の判決は判例(先例)として機能するから、最高裁が判例変更を行わない限り、法律が違憲であるということは後の事件でも踏襲される。
しかし、それは、当該法律が一般的に無効となったからではなくて、先例のもつ効果にすぎない。
これに対し、違憲と判断された法律も、国会が廃止しない限り法律として存続し続けるとするならば、内閣はその「法律を誠実に執行」(73条1号)しなければならないことになり、不合理な結果を生み出すことになるから、違憲とされた法律は一般的に効力を失い、法律が廃止されたと同じ効果をもつと考えるべきだとの見解もあり、「一般的効力説」と呼ばれている。
しかし、法律の憲法適合性の最終的判断権を有する最高裁が違憲と判断した以上、その後に特別考慮すべき事情が生じない限り、内閣は最高裁の判断を尊重する義務を負うのであり、その限りにおいて「法律の誠実な執行」義務は解除されると考えるべきであろう。
違憲判決の効力に関しては、その効果が遡及するのかどうか、遡及するのが原則とした場合に遡及しないという判決を書くことは許されるか(将来効判決の可否)という問題も議論されている。
遡及するかどうかについては、個別的効力説の立場からは、違憲であるという判断は以降の事件においても先例として踏襲されるであろうから、判決以前に生じた事例にも遡及するのが原則である。
では、判例変更で違憲と判断された場合(たとえば、尊属殺違憲判決を考えよ)、以前の合憲判断の下で確定した判決はどうなるか。
再審理由として認められれば、それで救済されるが、そうでなければ恩赦による救済しかない。
判例変更で合憲となった場合はどうか。
その事例は存在しないが、公務員の争議権の禁止に関する合憲限定解釈が変更された事例は、この場合に似る。
合憲限定解釈は違憲部分の存在を前提にした解釈であり、その違憲部分が合憲に変更されたからである。
この場合、合憲限定解釈判決後に生じた事例に合憲判決の判断が遡及するとすれば、改正法律を遡及させるのに似るから、改正法律を遡及させることが許されるかどうかの問題とパラレルに考えるべきであろう。
こうした遡及に伴う困難に対処するために、違憲判決のなかでその判断は将来の事例にしか適用しないと判示する(「本件を除いては」という条件を付す場合と付さない場合がありうる)ことが考えうる。
たとえば、選挙無効訴訟で定数不均衡を違憲と判断しながら、その効果は将来の事例にしか適用しないという判決は許されるかが議論されている。
日本の裁判所は法律に規定のない救済方法は回避する傾向が強い。
しかし、行為が許されるかどうかを定めるいわゆる第一次規範については裁判所による法創造は慎重であるべきだが、違反行為に対する救済方法に関しては柔軟な法創造により適切な救済を図るべきだという見解も有力である。
B) 抵抗権と国家緊急権
1 抵抗権
ヨーロッパ中世においては、国王も法に服し、国王が法を犯し臣民の権利を侵害すれば、抵抗権の発動が正当視された。
抵抗権が法の支配の担保だったのである。
しかし、抵抗権の行使は多くのコストを伴うから、日常的に訴えることのできるものではない。
むしろ抵抗権に訴える必要のないように、権利侵害の予防や救済方法が整備されることの方が好ましい。
立憲主義的制度の発展は、まさにこのような要請に応えるものとして展開してきたのである。
しかし、いかに立憲主義的制度が整備され、抵抗権の出番が極小化されたとしても、権力は制限されねばならないという立憲主義の論理が維持される限り、権力が制限を無視した場合に対する抵抗権の論理も存続し続ける。
抵抗権は立憲主義のエートスなのである。
抵抗権を正当化する論理は、自然法・自然権である(自然法上の抵抗権)。
抵抗権が問題となるのは、実定法上の救済手段が尽きたときであることを考えれば、自然法に訴えて正当化するのは自然な論理である。
しかし、抵抗権を実定法上の権利として捉えようという見解もある(実定法上の抵抗権)。
立法権や行政権の憲法破壊的行為に抵抗して刑事罰に問われたとき、裁判所が抵抗権を援用して無罪とすることが認められてよいのではないかと考えるのである。
しかし、通常は正当防衛・緊急避難等の刑法上の理論で対処可能であり、抵抗権に訴えなければならないような問題は想定しがたいし、抵抗権としてしか正当化しえないような状況が生じたとき、裁判所が正常な機能を保ちえていると想定することも困難であろう。
2 国家緊急権
外敵の侵入や内乱のような緊急事態が起こり国家の存立そのものが脅かされたとき、これに対処するために行政権に権力を集中し財産権や表現の自由などの人権を制約する必要が生じることがある。
しかし、これを認めることは人権保障と権力分立を中心とする立憲主義と衝突するから、立憲主義憲法の下においては許されないのではないかが問題となる。
この点につき、立憲主義も国家の存立を必要とするのであるから、それを護るために一時的に立憲主義を停止することは、立憲主義と矛盾しないはずだ。
こう主張して、国家緊急権を国家の自然法的な権利として承認しようとする見解もある。
抵抗権が権力による立憲主義への攻撃に対する国民の権利であるのに対し、国家緊急権は権力の側が立憲主義の防御を口実に発動する権利である点で、同じく立憲主義の擁護を唱えながらも、対照的構造をもつ。
自然法上の国家緊急権という考えは、濫用の危険が大きく支持する見解は少ないが、憲法自体の中に一定の要件の下に緊急権の発動を許す規定を予め書き込んでおき、万一の必要に応えるとともにその濫用を阻止しようという考えもあり、フランス第五共和政憲法16条やドイツ基本法115a条にその例が見られる。
明治憲法の戒厳大権(14条)や非常大権(31条)もその一種であるが、日本国憲法は明治憲法下における濫用を反省して規定を置くのを避けた。
しかし、有事に対処するための法制を法律で定めることまで禁止したと解すべきではなく、人権保障や権力分立を完全に停止するような内容でない限り、特定の場合の人権制限や行政権の強化を法律で定めることは許されよう。
いわゆる「有事法制」(「武力攻撃事態法」、「国民保護法」、「米軍行動円滑化法」等から成る)は、かかる観点から吟味すべきものである(57頁参照)。
Ⅱ 憲法適応
絶えず発展し変化する社会は、憲法に対して適応を迫る。
憲法の基本価値として護るべきものは、社会がいかに変化しようと、それに抗して護っていかねばならないが、基本価値を実現するための手段的憲法規範は、時代の変化に適応してつくりかえていく方が真に憲法を護ることにつながろう。
変化への適応は、まず第一に、憲法解釈の変更を通じて行われる。
憲法条文が担いうる意味には幅がある。
その幅の枠内で、変化と調和しうる意味へと解釈を変更するのである。
しかし、枠内での適応が不可能となれば、条文自体の変更が必要となる。
それが憲法改正である。
ところが、ときには、解釈の枠内には収まりきらない憲法運用が憲法改正を経ないまま実行されることもある。
これは、本来は憲法違反であり、違憲審査等の憲法保障のメカニズムにより除去されるべきものである。
しかし、何らかの事情でその機会をもちえないままそのような憲法運用が長期にわたって継続あるいは反復され、そのうち次第に多くの国民に受け入れられていくということも起こりえないわけではない。
これが「憲法変遷」と呼ばれる現象である。
1 憲法改正
(1) 改正の手続
憲法96条1項前段は、「この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」と定め、憲法改正に(ア)国会による発議と(イ)国民による承認の二段階の手続を予定している。
通常の法律の制定に必要とされるものより重い手続を要求しており、日本国憲法が硬性憲法であることを示している。
(ア) 国会による発議
発議には「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」が必要である。
総議員とは、法定数か、それとも欠員を引いた現在数かの争いがあるが、憲法改正の重大性を考えれば、偶然的要素の介入する現在数ではなく、法定数と解すべきであろう。
議院への発案(原案あるいは修正案の提出)については、憲法に定めはないが、各議院の議員が発案権をもつのはいうまでもない(ただし、国会68条の2・68条の4参照)。
問題は、内閣に憲法改正案を提出する権限が認められるかどうかである。
法律案については、内閣法が提案権を認めており(内5条参照)、通説もそれを合憲と解しているが、憲法改正案については、憲法上内閣には認められないとする説も有力に唱えられている。
(イ) 国民による承認
国民による承認には、「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする」(96条1項後段)。
過半数とは、総投票数の過半数か、無効投票を差し引いた有効投票数の過半数かの対立があるが、いずれにするかは法律で定めることができると解する。
特に定めがない場合には、有効投票数が極端に低い場合に対処するために「国民投票法」(正式名称は「日本国憲法の改正手続に関する法律」)では、改正案に対する賛成票と反対票の合計の過半数と定められている(126条1項・98条2項)。
国民による承認が成立すると、「天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する」(96条2項・7条1号)。
(2) 改正の限界
憲法改正の手続さえ践めば、いかなる内容の改正も許されるか。
たとえば、憲法の基本価値(個人の尊厳とそこから演繹される人権保障および国民主権がその核心を構成する)を変更するような改正さえ許されるのか、という問題である。
事実としては、そのような改正も起こりうる。
ここでの問題は、法理論としてそのような改正を「憲法改正」として認めうるのかという問題である。
もしそのような改正は改正権の限界を超えるものであると考えるなら、それは、法的な説明としては、新たな憲法制定権力の発動であり、改正ではなくて「革命」であると捉えることになる。
この問題は、憲法制定権力と憲法改正権の関係をどう理解するかとも関連し、改正に限界なしとする無限界説と限界ありとする限界説が対立している。
(ア) 改正無限界説
この立場の代表的な説は、憲法改正権は憲法制定権力が実定憲法の中に形態変化をとげて入り込んだものであるから、その本質は憲法制定権力と同じであり、憲法上の改正権に変身する際に自らに課した手続的な拘束以外には縛られない、と説く。
また、憲法制定権力の観念を法的には認めない法実証主義の立場からは、憲法規範の間に価値の序列はないから、改正手続さえ守ればどの条文も改正しうると説明する。
(イ) 改正限界説
この立場は、憲法改正権は「憲法により設立された権力」(pouvoirs constitues)一つであり、憲法制定権力(pouvoir constituant)とは質的に異なるという理解を前提とし、憲法改正権は自己の存立の根拠となっている憲法制定権およびそれと密接に結びついた諸規範を否定することは法論理上許されない、と説く。
憲法制定権と密接に結びついた諸規範とは、憲法制定権そのものの法的根拠となる個人の尊厳と人権保障・国民主権、すなわち憲法の基本価値を定める規範であるが、これを根本規範と呼ぶとすれば、この立場は憲法の中に「根本規範→憲法改正規定→その他の憲法規範」の序列を設定し、憲法改正権は法論理上自己の上位に位置する根本規範を改正することはできないと主張する説と合流する。
なお、この説のバリエーションとして、改正権を制定権の変身と認めつつ、その制定権自身が自然法に由来する根本規範に拘束されているのだと説く立場もある。
いずれにせよ、改正の限界を超えた場合には、それは法的には改正ではなく「革命」(あるいは「反革命」)と説明されることになる。
この限界説からは、いかなる規定が限界に該当するかが問題となるが、通常、個人の尊厳(人権尊重主義)、国民主権および平和主義(ただし、現状において軍隊の保有が直ちに平和主義に反するというわけではなく、9条2項の改正は可能)が改正権の範囲外とされる。
問題は、改正規定(96条)自体の改正が許されるかであるが、少なくとも国会による改正の議決要件を加重することなく国民投票を廃止することは国民主権に反すると解すべきであろう。
国民投票制は維持しつつ国会による発議の要件を「各院の3分の2」から「各院の過半数」に変更することはどうか。
改正の国民投票を国民が直接「決定」する制度という趣旨に解すれば、最終決定権は国民に保持されているから、改正の発議の変更は決定的意味をもたず、国民主権に反しないといいうるかもしれない。
しかし、発議権が権力行使者の側に独占された国民投票は、運用の仕方によっては、真に「国民が決定する」というのではなく、独裁的権力行使を正当化する方向でプレビシット的に機能する危険をもつ制度であることも忘れてはならない。
発議に3分の2の賛成という過重要件を課しているのは、この危険を小さくしようという意図も込められているのである。
また、このことと密接に関連するが、かかる改正は、日本国憲法の統治原理の基本をなしている代表制の精神と整合するか、疑問なしとしない。
国会の各院の3分の2という特別多数を要求したのは、国会による発議こそが憲法改正の最も重要な局面だという趣旨を表現していると思われるからである。
この理解からは、国民投票は国民が「決定」する制度というよりは、たとえ代表者の3分の2が賛成しても、国民がそれを「拒否」しうる歯止めを組み込んだものと理解することになる。
代表制における国民の主要な役割は、日常的な政治を「政治のプロ」に委託し、その時々に「同意」や「拒否」を通じて代表者が提案し遂行する政治を監視することだからである。
2 憲法変遷論
憲法変遷とは、事実を叙述する「社会学的概念」として用いる場合には、憲法に違反する事態が生み出され、かつそれが国民の広範な支持を受けている事実状態を指す。
この意味での憲法変遷は、長年にわたる憲法運用の過程でほとんど不可避的に生起するものであり、そのことの認識自体に学説上の対立はない。
問題は、この概念を解釈論上の概念として、すなわち違憲状態の正当化の論理として使う場合である。
これを安易に許すことになれば、本来は憲法改正の手続を経なければ許されないはずの行為が、国民の支持等を口実に正当化されることになり、立憲主義は空洞化の危険にさらされる。
しかし、他方で、国民の支持を完全に失い、その意味で「実効性」を喪失した憲法規範をいつまでも援用し、憲法違反の主張を続けるならば、逆に憲法自体に対する国民の信頼を動揺させ、かえって立憲主義の基礎を掘り崩しかねない。
この両面を睨みつつ、立憲主義を護るためにはどのように考えるのがよいかが、憲法変遷論の中心問題なのである。
憲法を社会の変化に適応させるには、通常、条文解釈の変更を用いる。
条文が担いうる意味には幅があり、その幅の枠内ならば解釈を変更しても憲法違反とはならない。
憲法変遷が問題となるのは、この枠を超えた場合である。
しかし、枠自体も不変とは限らない。
長い年月の間には、条文の担いうる意味の幅が変遷するということも起こりうる。
この場合には、当初の枠から判断すれば憲法違反というべき行為が、枠そのものが変遷した結果、今では枠内にあるという捉え方になる。
枠内であるから、解釈の変更で対応しうるということになるが、ここでは枠の変遷を承認するかどうかが争点となろう。
枠の変遷を認めてしまえば、あとは難しい理論上の問題は生じない。
これに対し、枠外の行為の憲法変遷の場合には、憲法規範とそれに違反する事態が対立しているから、両者の関係をどう説明するかが困難な問題として残る。
この問題は、日本では、憲法慣習法の問題との関連で議論されてきた。
違憲の状態は、当初は違憲というにすぎなかったが、期間の経過のなかで国民の法的確信により支持されて法的効力を獲得し、この慣習法規範が実効性を喪失した憲法規範に取って代わったというのである。
慣習法に関する日本法の原則では、慣習法が制定法を改廃することは許されない。
そうすると、憲法変遷論は憲法慣習法が制定憲法を改廃することを例外的に認めるかどうかという問題となる。
この点で、それを認める説(規範説)と認めない説(事実説)とが対立してきた。
しかし、憲法慣習法が憲法規定に「取って代わる」という捉え方は、ミスリーディングであろう。
憲法慣習法が憲法規定を押しのけて自らが形式的意味の憲法の位置につくかのような印象を与え、その憲法慣習法の改正には、憲法の定める改正手続を必要とするかの誤解を与えるからである。
むしろ、実効性を喪失した憲法規定はいわば「仮眠」に入り、法の欠缺と同じ状態が生じ、その欠缺を慣習法が埋めている状態と理解するのがよい。
こう解すれば憲法慣習の改正は法律でも可能であるし、憲法規定が眠りから覚めることもありうることが無理なく説明できる。
この理解を前提として、憲法慣習法の成立を認めるには、長期間の経過と国民の圧倒的な支持(憲法改正も不要とするほどの)を必要とすると考えるべきであろう。
最終更新:2014年03月15日 22:25