これまで、日本とは何かという問に対しては、様々な「日本文化論」や「日本人論」と称しうるようなタイプの議論が展開されてきた。
そして、その多くは、日本人の特性や、発想法法、集団の組織原理、あるいは、様々な文化遺産などを列挙して日本を明らかにしようとするものであった。
しかしながら、個人の場合と同様、このようなある種のアンケート方式による説明は、通時的に存在している日本の姿を明らかにするものでは必ずしもなかった。
実際、このような特性を様々に列挙してみたところで、たとえば、戦前と戦後の間における日本の変貌といったものを説得的に説明することはできないであろう。
かくして、日本とは「何者」かという問についても、日本の歴史を語ること、われわれの言葉で言えば、来歴を語ることが要請されることになるのである。
個人に関して、その来歴が問題になるのは、他者から自らの「何者」を問われる場合であり、さらに、不確実な事態を前にして、自分自身が、自らの「何者」であるかを確認しなければならない状況においてであった。
同様のことが、日本の来歴についても当てはまる。
数年前の、アメリカ合衆国から突如のごとく突きつけられた「日本異質論」は、日本が他国から「何者であるか」を問われた戦後初めての事例であった。
それ以降、湾岸戦争への参画やカンボジアPKO派遣という、これまでの日本が際会することのなかった事態をめぐって、自らにふさわしい行動のあり方が何であるのかが、当の日本自身にとって、にわかに切実な問題として登場してきたのである。
ただ、今日の日本が直面しているのは、新たに誕生した国家が、自らの来歴を新たに構想するというような状況ではなく、従来の少なからぬ人々が前提としてきた日本の来歴に対して、まず、どのような態度を取るべきであるかという問題であるように思われる。
戦後の来歴については、さしあたり、日本国憲法の理念とされた平和主義と民主主義を軸とする物語を思い浮かべればよいであろう。
そこでは、戦前までの日本が、非民主的な政体のもとにあって、対外的には、軍国主義的な侵略戦争の道を歩み、その目論見が失敗した結果、「国民主権」の実現と非武装の確立という新しい理想に目覚めて再出発したという「回心」の物語が語られていた。
湾岸戦争の際に、半世紀近くにわたる戦後の日本の「平和主義」の危機が叫ばれたり、ここ数年来の「戦争責任」・「戦後補償」をめぐる喧しい論議も、このような従来の来歴が改めて先鋭な意識の対象に上っていることのあらわれである。
先に、戦後のわれわれが前提としていた来歴が、あくまで物語であり、客観的な歴史そのものではないということを述べた。
そのことの意味は、この来歴には、特定の語り手がおり、そこには、その語り手の実践的な関心が投影されているということである。
このような物語は、誰によって語られたのであろうか。
今さら言うまでもないが、日本に対して極東国際軍事裁判を挙行し、日本国憲法の実質的制定者となった連合国軍司令部であるということになるであろう。
そこには、第二次大戦を「全体主義」に対する「民主主義」の戦いと定義することに対応して、日本を民主化し、軍隊の所持を禁止することで、日本が今後国際社会の中でトラブルメーカーたりえないようにするという実践的意図が働いていた。
国際社会は、本来、「平和を愛好する諸国民」によって構成されており、日本を含めて、旧枢軸国の勢力が台頭しない限り、世界の平和は維持されるという考え方が、その前提となっていたのである。
しかしながら、このような考え方が、およそ戦争勃発についての因果分析としては非常に不十分な見解の上に立脚しており、それこそ物語の域を出ないのは、自ずから明かであった。
実際、冷戦の開始とともに、当の連合国の中心にいたアメリカ自身が、このような物語を放棄して日本に再武装を要請することになったのである。
日本政府は、警察予備隊の設置でこれに応えたが、本格的な再軍備の要請に対しては、国力の欠乏のゆえに、これを拒否した。
しかしながら、これ以降、アメリカによって与えられた憲法の条文と、これまた、アメリカの要請によって設置されたところの、限定されたものとはいえ、「軍隊」の存在との矛盾に、他ならぬ日本人が苦しむという奇妙な光景が展開することなった。
にもかかわらず、これが、それほど奇妙なことと意識されなかったのは、マスコミや知識人を中心とする国民の少なからぬ部分において、このような他国によって語られた来歴に真剣に同化しようという傾向があったためである。
日本国憲法の平和条項が、日本側の発意によるとする説が熱心に支持されたり、アカデミズムの世界で、日本の平和主義の淵源を歴史的に探求するといった試みがなされたのは、そのあらわれである。
一般的に考えると、他人によって強要された物語を自分の物語として語るということは、個人の場合においても、自尊心を傷つけるものである。
従って、占領終結以降、「自主憲法制定」が一部の人々によって主張され続けたことも無理からぬところである。
にもかかわらず、このような主張よりも、新たな来歴を自己のものとするという傾向の方が優位を占めたのである。
それは何故であったか。
ひとつには、逆説的な言い方になるが、多くの人々の間に、自らの歴史において未曾有の犠牲を払ったうえでの敗北という事実を、合理的に納得したいという感情があったことである。
すなわち、何ら非難すべきでない行動を取ったにも関わらず、惨憺たる悲運に見舞われたとすれば、それは、この世が、なにか言いしれぬ根本的な不条理によって蔽われていることを意味する。
無論、現実の世界史の過程には、このような事例が、それこそ山のように満ち溢れている。
二十世紀に限定してみても、ナチス・ドイツは断罪されたが、ソ連支配下にあったユーラシア大陸に眠る数千万の人々に対してなされた犯罪については、決裁はおろか、その実態さえ十分に判明しないままである。
にもかかわらず、国際社会に参加して間がない日本人にとっては、こうした歴史的な悲運は初めての経験であり、どうしても受け容れがたいことであった。
この場合、もし、日本が不正な働きをしたことの罰として、このような経験を嘗めているのだと考えれば、少なくとも、この世は、ついには正しい正義が貫徹する場なのだと見做すことが可能になるわけである。
すなわち、日本人は、いわば、世界の合理性についての信念に固執したいという願望の代償として、過去の日本の側の不条理を受け容れたのである。
かくして、戦後の日本においては、自国の過去を糾弾する一方で、国際社会というものが、国内の市民社会以上に、正義が貫徹する倫理的に高い次元にあるものだとする一般通念が抱かれることになった。
日常生活においては、それなりにリアルな感覚で生きている人々が、こと国際関係を論じるとなると、不思議なほど「理想主義」的な観点から発言したりする傾向が見られるのはその一例である。
次に考慮すべきは、戦後の日本の来歴の根底にあった、民主主義と平和とを不可分のものとして捉える考え方が、連合国によって、単にその時点で打ち出されたものではなく、十八世紀以来、自由主義に立脚する国際政治観として、それなりの思想的伝統を持つものであったということである。
そこでは、戦争は、各国君主たちの個人的な名誉や栄光を追求するためになされるのであり、これに対して、民衆は本来平和愛好的であり、民衆が政治権力を獲得すれば、すなわち、各国で民主主義が達成されれば、世界の平和は自ずから招来されると考えられていた。
この考え方が、後にみるように、第一次大戦後、欧米諸国の新たな国際法観念に影響を与え、第二次大戦の連合国の共通のイデオロギーとして掲げられることになったのである。
そして、このような考え方が、そのまま「人類」を主体とする「世界の進歩」の来歴として語られうるものであったことは言うまでもない。
戦後の日本に課せられた来歴を積極的に受け容れようとした人々は、連合軍の実践的関心の向こう側に、そうした特定の国家という語り手を捨象した「世界の進歩」の来歴を読み取り、まさしく「人類」の名において、それを自らのものとしようとしたのである。
日本国憲法が、その実際の制定者が誰であれ、その内容が正しいのだから受け容れるべきであり、日本は、世界に先駆けて平和国家を実現しなければならないとする主張は、そのあらわれに他ならない。
その際、日本が「唯一の被爆国」であるということも、日本がそのような「特別の使命」を帯びていることの根拠であるように思われた。
このような人々にとって、冷戦開始以降の連合国、とりわけアメリカ合衆国の動きは、先に自らが提示したはずの日本国憲法にうたわれた輝かしい人類の理想を放棄して、国際社会の中にことさら対立を持ち込み、世界の進歩の大勢に逆行するものと映じた。
すなわち、アメリカが、一見して理想主義的な装いを保ちながら、実は、その利己的な国家利益に基づいた無節操な方針転換を行っているのではないかということへの反発が生じたのである。
そこには、また、アメリカ占領軍を日本に民主主義をもたらした「解放者」と捉えながらも、アメリカ軍がやはり、何と言っても強大な占領権力であるという実感から生まれる潜在的な敵愾心もあったように思われる。
そこから、たとえば、朝鮮戦争が韓国側によって開始されたという説が熱心に主張されてアメリカ批判の論拠となったり、また、冷戦の開始の原因をアメリカ側の対外政策に求める議論がいち早く紹介されて、多くの支持を集めたり、さらには、ベトナム戦争や、先年の湾岸戦争において、一部の日本人が日本国憲法の理念を掲げてアメリカ合衆国に抗議するという現象が見られることにもなったのである。
このようなアメリカへの批判を側面から主導する形で大きく登場してきたのが、もうひとつの「人類」を主体とする来歴であるマルクス主義的歴史観の影響であった。
マルクス主義による来歴の公定的解釈権は、当初ソ連が独占しており、戦前のコミンテルンによって発せられた様々な「日本に関するテーゼ」は、ソ連が以後に実現していくべき世界革命の物語の一環として、日本の来歴を位置づけるものであった。
戦後に復活した日本のマルクス主義においても、しばらく同様の事態が見られたが、やがて中国をはじめとして、他の社会主義国が誕生するに及んで、日本のマルクス主義の各党派は、マルクス主義的な日本の来歴の解釈を、それぞれの社会主義の模範とする国に仰ぐという状態が続き、やがて、「現存社会主義」のすべてに失望した人々の中から、新たなマルクス主義の解釈の試みがなされることにもなった。
しかしながら、このような様々なマルクス主義の各党派に共通していたのは、ひとつには、アメリカを「帝国主義国家」と見做して、これと戦うべきことを主張していたということ、そして、アメリカに追随する現存の日本国家やその社会体制を、社会主義革命のために打倒すべき存在と位置づけていたことである。
かくして、冷戦開始以降のアメリカを批判する平和と民主主義の来歴と、アメリカの政治社会体制よりも進んだ段階を志向すると称するマルクス主義の「人類」の来歴とが、後者が前者を主導する形で合流することになり、戦後日本の現存の政治社会体制を批判する言説の構造が成立することになったのである。
そして、このことが、戦後の様々な価値観や観念に特有の歪みをもたらすことになったのである。
たとえば、「人権」の擁護といった普遍的な観念が、もっぱら日本の政府与党や大企業、あるいはアメリカやその同盟国への批判の文脈でしか登場することが殆どなかったのもそのあらわれである。
自衛隊員の子弟の公立学校への通学が普段は人権を主張する人々によって妨げられるといった奇妙な現象が生じたり、かつて、大韓民国やフィリピンの人権状況が様々に非難されながら、北朝鮮やソ連などの共産圏の人権状況については、国家の制度が西側とはそもそも異なるといった理由にならない理由によって問題にされることがなかったことは、なお記憶に新たなところであろう。
かくして、こうした来歴のもと、日本人は、かつて、偏狭な「国家」観念の悪夢から目覚め、新しく、「人類」的立場において、世界に臨まねばならないという考え方が広がることになった。
すなわち、この新しい来歴においては、そこで相対的な意義しか持たない「国家」という観念が忌避され、「人間」とか、「市民」とか、「人民」とかいった「普遍的」な名において、日本のありうべき態度が語られることになった。
戦後の日本の来歴が持っているある種のコスモポリタンな性格はそこに由来し、また、戦後の人々を捉えた「国際連合」への過度な思い入れも、そのことと無関係ではない。
そこから、たとえば、国際社会において様々な問題が生じる度に、日本人の多くにおいて、当事者意識が稀薄なまま、それを日本という具体的国家の生存や利害と関連づけて理解するのではなく、あたかも高踏的な第三者のような立場で臨むといったような姿勢が生まれたのである。
湾岸戦争の際に、アメリカの「本当の意図」について倫理的見地から様々な批判が加えられたり、「国際貢献」といった本来他人の事業への協力を意味する言葉で日本の施柵が論じられたり、あるいは、隣国である北朝鮮の核疑惑をめぐって、もっぱら世界のNPT(核拡散防止)体制の維持といった観点のみが前面に出てくるのは、そのあらわれである。
戦後の日本が同化しようとした来歴の問題点は、それが、もともと他国によって語られたものであるという以上に、その内容が著しくリアリティを欠くという点にあった。
もとより、戦後の多くの人々の平和への願望は、実感に基づくものであった。
しかしながら、その上に織りなされた「平和と民主主義」をテーマとする「人類」の来歴は、本来、ある特定の歴史観に由来するものであり、そうした歴史観は、とりわけ二十世紀以降の現実の歴史を説明するものでもなければ、また、ある具体的な国家の過去の事蹟に一貫して言及していくような来歴でもなかった。
この点、たとえば、アメリカ合衆国のように、世界各地から流入した人々によって構成された国家の来歴の場合は、「人間」とか「人類」の名において、それを語ることは、一定のリアリティを持ち得るかもしれない。
もっとも、その場合でも、それは、アメリカという具体的な場を想定し、そこで生じた個々の事実に言及する限りで、あくまでアメリカ合衆国という国民国家の来歴に他ならない。
すなわち、世界には、「人類」の来歴を、真の意味で自らの来歴として語りうるような国民は存在せず、したがって、それは、一定の場において生起する個々の言及すべき具体的な事実を欠いたきわめて抽象的な人類史の見取図のようなものに留まるものであった。
比喩的に言えば、それは実在性を欠いた架空の理想的な人物の生涯を描いたフィクションのような存在に過ぎなかったのである。
この点は、戦後の日本において、「平和と民主主義」の物語と合流したマルクス主義というもうひとつの「人類」の来歴についても、ある程度当てはまる。
しかしながら、マルクス主義は、ソ連をはじめとする現実の行動主体たる国家の来歴に組み込まれ、世界史の舞台で、そうした見取図の一部が実際に演じられることで、単なるフィクションに留まらないリアリティを有していた。
このような戦後の来歴が日本に要請する行動が、かの非武装中立政策であった。
非武装が、「平和と民主主義」の歴史観についての十九四五年時点での連合国側の解釈、すなわち日本を世界のトラブルメーカーと見做す解釈に固執するところから生まれるものであり、平和主義の直接的帰結であり、中立が、国際社会における高踏的な第三者的立場を象徴するものであったことは、敢えて言うまでもないであろう。
しかしながら、それは政府与党の採用するところとならず、その結果、こうした来歴は、せいぜい、世界の現実に対する、「市民」としての、あるいは「人民」としての抗議の姿勢としてあらわれるしかなかった。
ただ、非武装中立政策が実行に移された場合、日本の将来は、より強力なリアリティを持ったマルクス主義の来歴の成就へと、具体的にいえば、マルクス主義的歴史観に立脚した他国が日本について想定する物語の実現へと組み込まれていった可能性が非常に大きい。
ところで、このような非武装中立の道を選択しなかった政府与党においても、本来「自主憲法制定」を党是としながらも、「平和と民主主義」の来歴の内容を真に受け容れるか否かということとは別に、その物語が要請する日本の国際社会でのあり方が、さしあたり、日本にとって有利であるとの判断が次第に大勢を占めることになった。
すなわち、政府与党とそれを支持する人々の間においては、一部では、戦前の失われた来歴への郷愁が抱かれながらも、全体としては、国家の来歴といったことに正面から取り組むことを避け、もっぱら当面の現実主義的な判断に依りつつ、戦後復興と経済成長に専念するという方向がとられることになったのである。
その際、「人類」の来歴は、そこから「理想主義」的要素が排除されてしまうと、単なる物質的欲望と生理的な意味での快・不快という基底レベルの「普遍性」に着目する「人間」の立場に転化することが容易であった。
すなわち、「人類」の来歴は、この意味での「人間」の立場に転換することで、戦後日本の経済活動への専念と平和主義的心情を側面から合理化することになったのである。
「経済的豊かさを享受したいと思うのは、人間に共通の感情である」。「自分や自分の家族が戦争の犠牲になるのは、誰にとっても忌まわしいことである。故に、他のあらゆることを無視しても戦争を避けねばならない」という論理がそれである。
このような「人間」の立場は、しかし、その都度現前してくる様々な基底レベルの衝動や喜怒哀楽の情が、人間一般に普遍的であることを説くのみであり、もはや、いかなる意味でも文化的・倫理的なレベルでの通時的な存在としての人間を根拠づけるようなものではない。
かくして、戦後の日本人は、こうした来歴の形骸化もしくは喪失のなかで、時に応じて噴出してくる、これもまた単なる自然的な同胞感情に過ぎないナショナリズムに身を委ねながら、それを日本という国家の来歴のなかに自覚的に昇華して語ることがないままに、かつての鎖国時代にも似た安穏な日々のうちに、それぞれの私的生活の充実にその関心を集中することになったのである。
ところが、湾岸戦争以降、次第に明らかになってきたのは、日本が、国際社会での軍事を含めた活動への不参加を表明する際に、「人類」を主体とする来歴をその「理由」として掲げ、「人間」としての立場を強調してみても、世界の国々が、必ずしも理解を示すものではないということであった。
その場合、そもそも重要なことは、先に述べたように、「平和と民主主義」というテーマは、それこそ「普遍的理念」として、世界の多くの国々で賛意を表明されることはあっても、その抽象性の故に、日本という特定の国家の長期にわたる事蹟を特徴づけるものとして受け止められる性格のものではなかったということであった。
しかも、戦後の日本の国家としての現実の軌跡を決定してきた政府与党とそれを支持してきた人々が、そうした「人類」の来歴に真の意味で内面から同化しているか否かも不明であった。
すなわち、戦後の日本の平和主義をいくら強調しても、日米安全保障条約という現実の国際政治の力学を決定するシステムのなかに現に位置している日本の姿が念頭に置かれて、要するに、日本は西側の大国の軍事的庇護のもとで、単に大規模な軍備を自前で調達する必要はなかったのだと解釈されるに留まったのである。
湾岸戦争は、また、世界の国々の人々が、単に「人間」の基底レベルの普遍性に立脚してのみ思考したり行動したりしているわけではないことも、明らかにした。
当時、夫が多国籍軍の一員として中東に派遣されることになったあるアメリカの婦人はインタヴューに答えて、「夫が戦場に派遣されることは、大変つらいけれども、イラクの犯した不正を放置することはできない」と語った。
このひとりの平凡なアメリカの主婦の言葉の中に、日本人と同様の「普遍的」な「平和主義」的心情が表明されながらも、それに重なり合うような形で「正義」の観念が影を落としていることは容易に見て取れる。
もとより、当時もしばしば議論されたように、国際社会において、「正義」とは何かということは容易に決着がつかない問題であろう。
しかしながら、ここで少なくとも明らかになったのは、「人間」としての普遍的な喜怒哀楽の感情をストレートに表明すれば、そのまま世界に受け容れられると考えるのは、日本人だけの思い込みだったのではないかということである。
確かに「平和」は誰にとっても望ましい。
しかし、「大いなる不正」のもとでの「平和」についても、そのようなことが無条件に言えるのか。
おそらく、ここから、人間の基底レベルの感情や反応を越えた真の思考が始まるのであり、湾岸戦争は、そのことを改めて告知するものだったのである
ここで改めて考えねばならないのは、従来のわが国で、非武装による「世界平和」の実現といった考え方が、何の留保もなく、直ちに「理想主義」とされてきたことについてである。
そのような主張に対して、「そうした理想は立派だが、現実には・・・」といった言説もまた、ステロタイプとして流通してきた。
問題は、果して、このような主張そのものが、無条件に「理想主義」と呼びうるものであるのかという点である。
もっとも、一切の侵害に対して、武力による抵抗を行うべきではないということが道徳的見地から積極的に主張される例は、日本では、必ずしも戦後に限られるわけではない。
明治期において、中江兆民は、その著『三酔人経綸問答』(明治二十年)のなかに、「元来人を殺すは悪事なり」という前提から、正当防衛の場合の暴力行使も禁止すべきことを導き出し、そうした考え方を国家全体の外交政策にも及ぼすべきことを主張する人物を登場させ、次のように語らせている。
「僕の意に於て我邦人が一兵を持せず一弾を帯びずして敵寇の手に斃れんことを望むは、全国民を化して一種生きたる道徳と為して後来社会の模範を垂れしむるが為めなり」。
湾岸戦争の際にも、これに似た発言がみられた。
しかしながら、日本が同盟国も持たず、周辺に巨大な帝国主義国家が控えていた時期における、こうした道徳的な「理想主義」の主張と、日本が実際の戦闘に直面したわけでもなく、単に多国籍軍への協力を求められ、それを機に、「戦争」をめぐる言葉のみが飛び交うようになった状況にさえ危機を感じて、そうした主張がなされるのとでは、現実に対する緊迫感の度合において、格段の開きがあるように思われる。
しかも、戦後の日本の「非武装中立論」は、多くの場合、現実に脅威は存在しないとか、あるいは、武装を行うことがかえって危機を招くといった観点からも唱えられていたのであり、実際、「非武装中立論」の方が「現実主義」的であるといった主張さえなされてきたのである。
その場合は、兆民の著書に登場する人物に見られるような道徳的な緊張感はきわめて希薄であったといってよい。
ところで、注目すべきは、兆民自身は、このような「非武装無抵抗論」の立場には必ずしも同調していなかったことである。
実際、兆民は、文明国であるための基準は「善く戦ふ」か否かにあると述べて、日本の大規模な対外遠征による富国強兵化を主張する別の人物を登場させ、「戦は勇を主とし勇は気を主とす、両軍将に合せんとす、気は狂するが如く勇は沸くが如し、是れ別天地なり是れ新境地なり、何の苦痛有らん哉」と語らせる。
すなわち、戦争が、人間のある欲求や感情にかなう面があることを指摘するのである。
無論、兆民は、必ずしも、この立場に同調するわけでもない。
実際の兆民の立場は、この著書に登場する、さらにもうひとりの人物によって代表されているように思われる。
すなわち、その人物は、はじめの二人の人物の見解を、いずれも現実には施し得ない極論として斥け、外交はもっぱら「和好」を旨として、いたずらに戦争に訴えることは避けるべきであるが、万が一侵略を受けた場合は、戦術的には、「防守」を主眼として戦うべきであるというのである。
今日、兆民のこの著作を通してわれわれが学ぶべきことは、戦争と平和の問題を論じる際に、国際社会の現実を考慮し、さらに、そうした現実のなかで、人間や国家にとって価値とされることが多様であることを視野に入れて、複眼的に物事を眺めねばならないということである。
すなわち、武力による抵抗を否定する考え方を、誰もが無条件に承認する絶対的な「理想」と決めてかかるのではなく、あくまで、人間にとって追求されるべき他の様々な価値との関連で、その意義を考慮しなければならないということである。
実際、他ならぬ湾岸戦争を舞台として、このことを改めて思わせるような事態が生じた。
すなわち、最近明らかにされたところによると、イラク軍がクウェートに侵攻した際、クウェート軍司令部は事前にそれを察知し、政府に対して緊急事態発令を求めたが、政府はその発令を拒否、また、実際に侵攻が開始された時点においても、政府は、「何もするな」、「撃つな」という命令を発するのみで、クウェート軍は、イラク軍による国土の蹂躙を単に座視するしかなかったというのである。
当時のクウェート政府首脳部は、イラクの侵攻なしとの周辺のアラブ諸国の見通しを過信し、また、イラクのフセイン大統領の「政治的圧力」に屈したのだとされているが、このようなクウェート政府の対応が、「イラクから、クウェートに戦意ないと受け取られた」という(『読売新聞』、平成七年五月一四日朝刊)。
おそらく、軍事的な抵抗の姿勢を示すこと自体が、攻撃を挑発すると考えられたようであるが、結果は裏目に出たのである。
こうしたクウェート政府の態度は、われわれに何を考えさせるであろうか。
このクウェート政府の例は、もちろん、兆民の登場人物のように、自覚的な道徳的意思のもとに無抵抗を指示したわけではない。
しかしながら、そのことは、なおのこと、戦後の非武装論が現実に貫徹された場合の事態について考えさせるものを持っている。
先にも述べたように、日本の非武装論は、武装することが、かえって危機を招くという「現実主義」的見地からも合理化されているからである。
無論、どの程度に武装を行い、どの程度に抵抗することが、実際に、その国の平和と安全を確保することになるのかについては、具体的な状況によって様々な可能性があり、一般的なことを言うのは困難である。
問題は、むしろ、実際に抵抗したり、その用意をすることが、かえって攻撃を招くことになるといった考えのみに基づいて施された政策が失敗した場合、それがどのような評価を受けるかということである。
当時の自国政府のこうした対応の仕方を明らかにしたクウェートの調査委員会は、今日、それを「怠慢の極み」と非難しているとのことである。
実際、当時のクウェートの「怠慢」は、政治的な「怯懦」と「愚鈍」以外の何物でもないとの印象は免れないであろう。
戦後の日本は、折りに触れては「平和国家」であることを主張しなければならないという思いに駆られてきた。
しかしながら、「平和」の理念のもとに、武力による抵抗を一切放棄することは、人間や国家が追求すべきだとされている他の価値に照らして、無条件に賞讃されるものでは必ずしもないのである。
それでは、当初から、道徳的見地に立って非武装無抵抗を国策として掲げていた場合に、こうした「怠慢」との評価は回避されうるであろうか。
その場合、そうした方針に対して一応の理解がなされたとしても、兆民の登場人物が期待したように、他の国がそれを「模範」として仰ぎ見るか否かは疑問である。
というのも、良心的兵役拒否は、いくつかの国で、個人の倫理としては容認されているが、それを国家全体の方針とするといったことは、おそらく、一般には殆ど見られないことであり、賞讃される前に、むしろ、何か異常な行為のように受け取られる可能性が高いからである。
もっとも、ここで、外国の評価は問題ではない、日本自身の理想として掲げればそれでよいのだという主張も成り立ちうるであろう。
この場合、それは、日本という国の精神的自閉化を示す以外の何ものでもないが、ただ、これまで、何故、日本のみが、そのような理想に立たねばならないのかという疑問に対しては、かの「唯一の被爆国」ということが掲げられるのが常であったようである。
すなわち、核兵器が登場した時代においては、通常の軍備は無効であり、戦争は直ちに核戦争となって、世界そのものの終末を意味するが故に、「平和」ということが何にもまして至上の価値となった、人類史上、最初の原爆の洗礼を受けた国である日本は、こうした新しい段階に入った時代において、他国に先駆けて、実験的な意味においても、「非武装」の理想を追求する「特別の使命」があると説かれてきたのである。
しかしながら、原爆投下という事実は、日本がそこから汲み取っていたような教訓を、果たして各国に対しても等しく伝達するものだったのであろうか。
確かに、原爆は、短時間のうちに通常兵器とは比較にならない程に巨大な被害を与え、被害者に対して、その後も永続的な苦痛を残すという点で、まことに残虐な兵器であり、そのことは、その直接的な被害者がまさしく身を持って理解したところである。
しかしながら、原爆を含めて、戦争による被害の全体の比較ということになると、日本より多大な被害を蒙った国々は多数存在しており、「唯一の被爆国」ということは、戦争の惨禍を経験したという点については、日本に必ずしも特別の地位を保障するわけではない。
また、原爆という兵器そのものの持つ特異性についても、各国は、必ずしも、戦後の日本が当然としたような認識を持つわけではなかったようである。
実際、アメリカの核戦略の専門家で、後に米ソ核軍縮交渉におけるアメリカ代表となるP. ニッツェは、敗戦直後に日本を訪れ、広島、長崎の被害の調査に従事したが、そこで彼の下した結論は、当時の日本人にとってまことに驚くべきことに、この程度の被害状況なら、核戦争は将来も十分に有り得るのではないかというものだったのである(P.H.Nitze, From Hiroshima to Glasnost, pp. 42-43)。
このような結論は、今日のわれわれにとっても、まことに非合理なもののように思われる。
しかしながら、こうした見解が、戦後のアメリカの世界戦略の中枢を担う人物によって現実に抱かれていたという事実は、戦後の日本の来歴の基盤をなすとも言える事実に関してさえも、他の国々は、そこから、日本人が自明と考えるような教訓を必ずしも引き出すものではなかったということを示すひとつの例と言えよう。
ちなみに、最近のスミソニアン博物館における原爆に関する展示をめぐるアメリカ国内の根強い批判や、原爆投下は、それがなければ、その後の戦闘でより巨大な被害が生じたと予想されるが故に正しい決定であり、それについて謝罪の必要はないとのアメリカ合衆国大統領の発言は、広島や長崎の問題が、日本人が当然と考えるような物語としては必ずしも受け止められてこなかったことを示唆するであろう。
もとより、アメリカ側のこのような論議は、日本の立場から、いかようにも批判できるし、批判しなければならないであろう。
原爆投下は、明瞭な戦争犯罪だからである。
にもかかわらず、そのこととは別に、少なくともここで考慮に入れねばならないのは、どうやら、日本に対する原爆の投下という事実は、核兵器による被害の巨大さや、それが有する人類史上における画期的意義を強調するだけでは、相手方に必ずしも大きな印象を与えることはなかったのではないかということである。
すなわち、そこでは、核兵器に対するストレートな恐怖や嫌悪の情の表明に留まらず、一方では、戦時国際法や国際社会の倫理のあり方、他方では、今日の核戦略を含め、戦争の捉え方への内在的理解に基づいた、より立ち入った議論が必要であったように思われる。
実際、改めて振り返ると、核兵器が存在するが故に、あらゆる戦争は究極的には核戦争に到達するのであり、武力を保持すること自体が無意味だとするのは、いささか短絡的な議論であった。
核保有国を含めて各国が核戦争に至らない範囲で武力行使を行い、自国の利害を貫徹させるという選択を取る余地がかなり大きな程度で残っていたのである。
そして、核兵器については、それが、実際には、使用し得ない兵器であることを認識しつつ、米ソ両国は、核軍縮の競争をやめることはなかった。
こうしたなかで継続された米ソの冷戦は、双方の核兵器の総量と、それぞれの兵器の技術水準、そしてその運用の仕方をもとに、実際にそれが使用された場合を互いにシミュレーションの上で予想し、そうした仮想的モデルのなかで、自己の優位の認識を相手方が受容するようなゲームとして戦われた。
すなわち、将棋の例で言えば、互いに相手の王を取ることが自分の王をも危うくする可能性があるが故に、実際に王手まで指すことを控えながら、相手の駒の数や配置、実際の運用を見つつ、それに応じて自分の駒を増やしたり配置したりし(柔軟対応戦略)、時に実際に金銀レベルの駒のやりとりを行い(代理国による限定的な通常戦争)、場合によっては、差し違えを覚悟しながら、わずかのチャンスを求めて王手まで指すような素振りを示す(瀬戸際戦略)ことで、現状維持、相対的優位、さらには、実際に王手に至る前に相手が先に投了することを期待するようなゲームだったのである。
冷戦の終了とは、ソ連が、ゲームを続行すれば、自分の王の詰みがより早いことを予想して途中で投了したことを意味する。
その意味で、もっぱら互いの仮想的な認識の上で勝敗を決するような、シンボルの上での戦争であり、見方によっては、「狂気のゲーム」と呼んでもよいものであった。
しかし、他面から言えば、それは、戦争とか戦略というものに新たな次元を開くものであったと言えよう。
これに対して、核廃絶の運動は、どのような論理に立っていたか。
それは、核戦争は、核兵器を用いて戦われる戦争であるが故に、核兵器が廃絶されれば核戦争はあり得ないという、定義上当然で、「1+2=3」という算術的命題の如く自明な論理の上に立っていた。
そして、こうした自明の論理のゆえに、核廃絶の運動は、自らの主張の正しさを疑うことはなかったのである。
にもかかわらず、核保有国、とりわけ、米ソは、あたかも、1+2という演算を行うことには同意しながら、4という誤った答えを執拗に繰り返す子供のように、核軍備競争をやめなかった。
そこから、実際には正しい答えを知りながら、何か特定の意図があって、ことさら誤りを繰り返しているのではないかと考えられたし、また、このような誤った答えを繰り返すのは、この子供の脳にどこか欠陥があるのではないかとさえ思われた。
「軍産複合体」が、人々の平和への願望にもかかわらず、自らの利益のために、こうした軍備競争を継続させているのだといった意見は、前者のような判断のあらわれである。
確かに、「軍産複合体」の存在ということも無視できない問題であったであろう。
また、核戦略が、どこか「狂気のゲーム」に似たものではないかという表現は、既に記したように、実際、根拠のないものではなく、その背景には、後者の比喩が意味を持つような局面があったのである。
しかしながら、より深く検討してみなければならなかったのは、米ソが表面上、1+2という演算には同意することで、3の答えを期待させながら、実際に行っていたのは、「1+2=3」ではなく、「1+2+5-4=4」といったより複雑な演算だったということである。
すなわち、両国は、1+2の後に実は+5-4といったより込み入ったことを行っており、しかも、目指す答えは、3=単なる平和ではなく、4=自国が好ましいと思う状況下での平和だったのではないだろうか。
そして、この3と4の相違ということも、やはり、完全に無視してよい問題ではなかったように思われる。
すなわち、核戦略の展開は、単なる非合理なものとして批判の対象となるに留まらず、そもそも平和とは何か、そして、平和とは、人間のどのような生のために存在するのかという、まさしく政治哲学や人間学的見地からの根本的な問を誘う性格のものだったのではなかろうか。
ともあれ、冷戦の終了や湾岸戦争以降の情勢は、戦後の日本が自明としていた来歴が、それほど当然のごとく世界から理解されるものではないことをますます明らかにしつつある。
そうしたなかで、今日の日本の一部では、従来の戦後の来歴の危機を感知して、その再構築を意図し、日本の過去の「悪事」を前面に出して、それを糾弾するという傾向が見られる。
しかしながら、このような動きは、関係する一部の国々において、その現実的利害関心から興味を寄せられても、今日の日本の国際社会における姿勢についての「理由」として十分に納得されることはないであろう。
というのも、かつて「侵略戦争」をした国であるが故に、今後の武力行使に関しても、再び同様の道を歩むかもしれないので自制しているといった説明は、およそ自己の責任能力をはじめから放棄した奇妙な言い分に聞こえるからである。
実際、昨年の村山首相に対するマレーシアのマハティール首相の発言に見られるように、もっぱらこのような形で日本の過去に言及することは、日本が積極的な対外活動を忌避するために設けた単なる遁辞とさえ、受け取られかねないのである。
このことの意味は、わが国が、従来の形骸化した「人類」や「人間」としての来歴をそのまま維持しながら、国際社会に臨むことは困難になりつつあるということである。
今日の「生活者大国」という言葉は、これまでの戦後の安穏な日々への郷愁を抱きながら、にもかかわらず、何らかの形で国家ということに言及しなければならなくなったという漠然たる思いを象徴するものである。
それでは、われわれは、どのような新たな来歴を構想すべきであろうか。
来歴が、将来の行動に向けての「理由」を語るものであるとすれば、それは、日本の国家としての今後の活動についての構想と不可分の関係に立つはずである。
ここでは、そのような実際の政策面について具体的に立ち入って検討する余裕はない。
そこで、以下、今後の日本の来歴を語る際に基本となるいくつかの問題について触れておこう。
日本の新たな来歴を語るに際して、まず重要なのは、戦前・戦後を通しての日本の国内の政治体制のあり方に見られる変化をどのように理解すべきか、すなわち、そこにみられる「不調和」を、何がしか「調和」を持った物語として語るためには、どのような「筋」が構想されうるかということである。
その点に関しては、戦後において確立されたとされる「国民主権」の原則をどのように理解すればよいかという問題が関わる。
そのためには、戦後の日本の来歴を規定したもうひとつの他国の物語を問題にしなければならないし、それは、さらに、日本近代の国家制度の歴史の検討と、それを踏まえた上での日本国憲法の再解釈を要請する。
次に重要なのは、近代の国際社会におけるこれまでの日本の行動やあり方を、どのように捉えるべきかということである。
そこでは、近代前半期までの日本の国際社会における歩みをより詳しく検討し、戦争責任・戦後責任といった問題に関しても、より立ち入った考察を加えねばならないであろう。
そして、この双方に関して、われわれが留意しなければならないのは、国際社会において、日本が、他国と比較できないような「独自」な存在であり、しかも、何らかの意味で他国より優越するといったことを弁証したり、そして、それ故に、何か特別の使命を帯びているといった前提に立つ必要はないということである。
戦前の「八紘一宇」とか、「アジア解放の盟主」とか、あるいは、戦後の世界に先駆けて「非武装中立」の「平和国家」を実現するといったテーマは、いずれも、日本に理想主義的な意味での「特別の使命」を表示するものであり、そこから、日本の来歴に、特別の「独自性」が要求されることになった。
この点では、「
万世一系の皇統」の主張も、「唯一の被爆国」の強調も同様である。
「万世一系の皇統」は、『神皇正統記』に登場する観念であるが、とりわけ、江戸期において、隣国中国が王朝の交代おびただしく、それ故決して安定した統治が実現されないとする考え方をもとに、日本の優越性と独自性を強調すべく国学によって掲げられた観念であった。
この観念は、十九世紀初頭以来、とりわけ、水戸学などにおいて、日本を日本たらしめるための根本的な原理として継承され、それ以来、近代国家の道を歩み始めた日本の来歴の中心的テーマとなった。
今日においても、日本の来歴といったことに言及すると、ややもすれば、直ちにこのような水戸学の国体論などが想起され、警戒の念が抱かれるのが常である。
確かに、水戸学の国体論は、多くの有益な示唆を与えてくれる点で有力な学説であり、本書も随所でそれに言及するけれども、ただ、それは、あくまで「国体」についての一解釈であるということを念頭におくことが重要であり、そこで主張されていることを、ことごとく「国体」として受け容れる必要はないであろう。
水戸学の思想は、当時の状況への先鋭な対外的危機認識のなかで培われ、それゆえ、そこには、日本の「独自性」が過度に意識されねばならない状況が反映していた。
すなわち、それは、あたかも個人の場合における、ハイデガーの言う死への「先駆的決意」のもとであらわになるとされる「本来的存在」にも似たものであり、同様の状況は、昭和二十年の敗戦の際にも見られた。
すなわち、そこでは、日本の滅亡が意識されるなかで、ただ「国体の護持」ということのみが、日本の同一性を保証するものとして捉えられていたのである。
しかしながら、今日において、こうした先鋭な危機意識のなかで培われた「国体」の解釈論は、われわれの将来の来歴を構想する点で重要な示唆を与えるものではあるが、それを、他国と比較した場合の日本の「優越性」を弁証する物語として理解する必要はないであろう。
確かに、後に触れるように、皇室制度の伝統は、日本の憲法の意義を考察する際にも、決しておろそかにしえない問題であり、日本の同一性を考えるうえで、無視し得ない位置を占めている。
ただ、皇室制度そのものが、日本の優越性とか、あるいは、「特別の使命」といった観念と必然的に結び付いていると考える必要は必ずしもないであろう。
日本は、それ自身の伝統を帯びた君主を戴きながら、世界の他の多くのそれぞれの伝統を帯びた君主制の国家と並んで国際社会に参加していると考えればよいのである。
そもそも、日本の来歴は、他の国ではなく、日本という国に生じた個々の事実に言及する物語である限りで、いやおうなく「独自」である。
そして、日本の過去を眺めれば、「特別な使命」を果たしたといえるような局面が確かに存在している。
しかし、ここで留意すべきは、そのような「独自性」や、「特別の使命」は、どの国に関しても、それぞれの国がおかれた条件に応じて、ある程度言いうることではないかということである。
すなわち、多くの国々は、それぞれ「独自」の来歴を保ちながら、共通した一つの「近代国際社会」あるいは「近代文明」といった普遍的なカテゴリーに属していると考えることはできないであろうか。
敢えて日本の「独自」性といったことを、ことさらに重視したいという願望があるのは、古代以来、日本が諸外国の制度や文化を移入し、その一つ一つを取り出してみると、いずれも日本に固有のものであることを主張できないという認識によるものであろう。
とりわけ、十九世紀の半ば、欧米の文物や制度を本格的に移入をし始めた時期においては、こうした新しい事物を受け容れるということについては、様々な分野で抵抗があった。
そこから、日本独自の文化や制度といったことへ固執する傾向が生まれ、日本の「本来の伝統」の探求の試みがなされた。
「万世一系の皇統」の強調も、そうした試みのなかで育まれてきたものである。
しかしながら、近代化の道を歩み始めて一世紀半近くが経過した今日、われわれが眼前にしている欧米由来の制度や文物に対して、日本人のなかのどれだけの人々が真に違和感を抱いているであろうか。
問題は、日本が、海外から移入したものを、自己の物語のなかに、どのように位置づけるかということに関わるのである。
そもそも、制度や文化の学習や模倣ということは、世界史において、様々な時代や国々においてしばしば見られることである。
かのヨーロッパ諸国においても、キリスト教やギリシア・ローマの文明は、本来、異なった文明圏のものなのである。
にもかかわらず、まさしく、それを彼らの来歴の必須の要素をなすものとして語られていく過程で、彼ら自身のものとして定着しているのである。
個人の人生においても、自らの独自性や個性といったことに過度に固執するのは、少年期や青年期に特有の現象であるといってよい。
日本は、この問題についても、そろそろ、成熟した態度をとっても良い時期ではなかろうか。
最終更新:2014年04月29日 16:50