日本国憲法は、戦後の日本の来歴を方向づけたものであり、日本の新たな来歴を構想するにあたっても、この日本国憲法にどのような態度で臨むかということが大きく関係するのである。
もっとも、日本国憲法は、戦後の来歴そのものを過不足なく表現したものではない。
というよりは、むしろ、日本国憲法は、戦後の来歴から見ても、むしろ、正統ならざる継子のような扱いを受けているのである。
すなわち、日本国憲法は、まことに孤独で不幸な憲法なのである。
その意味は、それが真の護憲派を有していないという点に示されている。
このように言うことについては、若干の説明が必要であろう。
日本国憲法をめぐって「護憲派」と「改憲派」が存在してきたことは、改めていうまでもないであろう。
この区別は、たとえば、憲法第九条をめぐる対立を念頭におけば自明のことのように思われる。
しかしながら、この区別が、日本国憲法の他の条項についても問題になってきたことに改めて注意を向けると、とりわけ、護憲を主張する人々が果たして真の護憲派と称しうる存在であったのかということが、にわかに疑問となってくるのである。

右にいう条項とは、言うまでもなく、日本国憲法第一条である。
護憲派の多くは、果たして、日本国憲法第一条そのものを、その文言に即して、真に擁護しようとしているのであろうか。
彼らが本当に擁護しようとしているのは、日本国憲法第一条そのものではなく、彼らがそれを解釈する際にもっぱら依拠している特定の解釈理論であり、そして、その前提になっているある物語なのではなかろうか。
このことをうかがわせるのは、第一条についての戦後の通説的解釈である。
いまさら、詳しく述べるまでもないが、多くの通説的解釈においては、第一条の「主権の存する日本国民」の部分にのみもっぱら焦点が当てられ、同じ条項に登場する天皇の位置づけに関しては、「象徴に過ぎない」とか、「実質的な政治的権能を持たない」とかいったように、総じて消極的、否定的に解釈されるのみである。
従来の憲法教科書やその他のマスコミの論議に慣れ親しんだ感覚からすれば、「国民主権」が唱われている以上、この点は当然ではないかと考えられるかもしれない。

しかしながら、それでは、「国民主権」であるにもかかわらず、何故、「天皇」の存在が憲法上に明記されているのであろうか。
しかも、その行為が「国事行為」という形で、「国政」とは厳格に区別されながらも、広義の「統治」に関わるものとされているのは何故であろうか。
通常、この点については、憲法制定当時において、現実との「妥協」の結果として、天皇の制度が残されたためであり、それゆえ、日本国憲法は矛盾を抱えることになったのだと説かれているようである。

実際、多くの護憲派においては、天皇の存在やその行為について積極的な法的根拠を提示すること自体が、「国民主権」の原理を脅かすことになるとして、天皇の存在をいわば「無化」するような方向で憲法を運用すべきだと説くのが一般である。
すなわち、今日の護憲派の多くは、この天皇に関する文言に関しては、本来無意味ないし有害と考えているかのようであり、実際、天皇の地位が「国民の総意」に基づく以上、天皇の制度を将来において廃止するような改憲も可能であるとする説さえ存在しているのである。
とすれば、彼らは、本来の意味では改憲派ということになるのではなかろうか。

にもかかわらず、彼らがそのような方向での改憲を積極的に主張しないのは、彼らにとっての逆方向の改憲派の動きを警戒し、現在の憲法を、「国民主権」の物語を擁護するための「防波堤」と見做していること、そして、何よりも重要なことは、彼らにとってまことに不本意なことに、国民の多数が、天皇条項を廃止するような改憲に賛成しないであろうと見ているためである、
こうして、日本国憲法は、特定の政治目的のための一種の手段とさえ見做され、その全体について、真に擁護する護憲派を持たない孤独で不幸な憲法に留まり続けているのである。

ここにおいて、ひとつの問題が浮かび上がってくる。
そもそも、日本国憲法の草案を作成した占領軍司令部において、何故、天皇の制度を存続するような「妥協」がなされねばならなかったのであろうか。
言うまでもなく、それは、天皇の存在が当時の日本国民の意識に深く根を下ろしており、天皇の制度を廃止すれば、円滑な占領統治が不可能になるという認識によるものであった。
今日この点はどうか。
おそらく、一般国民において、天皇に対する意識は、敗戦直後とはかなり異なったものになっていると思われるが、天皇の存在を国制から完全に排除するということには、なお大きな抵抗が存在するのではないだろうか。
天皇の存在が、憲法上に明記されていることや、国事行為が定められていることの法的意義については、こうした、歴史的に培われた国民の天皇観念、さらには、それを受け継いだ形での今日の国民の多数の天皇についての意識をもとに、それなりの論理を構築することは可能であると思われる。
ところが、護憲派の多くは、こうした国民多数の意向にかかわらず、天皇制度については、潜在的に廃止を願望している。
その理由はどこにあるのか。

それは、言うまでもなく、本来の「国民主権」においては、君主の存在が認められないと考えているためである。
そのように考えられる根拠とは何か。
それは、「国民主権」ということが最初に打ち出されたのが、フランス革命の過程においてであり、そこでは、究極的には王政が打倒されたという事実をもっぱら重視するためである。
もとより、細かく見れば、「国民主権」がうたわれたフランスの1791年憲法においても、国王は行政権を保持する旨の規定があり、そのことの意味をより深いレベルで検討すれば、より豊かな知見が得られることが予想されるが、フランス革命の際の政治変動の最終的帰結を念頭に置き、フランス革命を、何よりも王権打倒の「革命」の物語として理解するために、「国民主権」と君主の存在は本質的に矛盾するという見解が導かれるのである。
すなわち、護憲派にとって何よりも重要なのは、日本国憲法の文言そのものではなく、18世紀末のフランスの政治変動を特徴づける「革命」の物語なのである。

こうした「革命」の物語が、日本国憲法の解釈に如何に大きな影を投げかけているかは、そもそも、日本国憲法の成立自体が、ある種の「革命」によるものだとする考え方が、戦後の正統な学説として広く通用してきたことにもうかがわれる。
その学説とは、宮沢俊義氏によって提唱された、かの有名な「八月十五日革命説」である。
この考え方によれば、日本国憲法は、形式的には、帝国憲法の改正規定に基づいて誕生したのだが、一般に、憲法というものは、自己の根本的な部分を占める原理を変更もしくは廃棄するような改正を予定しているはずはない。
しかるに、日本国憲法は、「国民主権」を掲げている点で、「天皇主権」に立つ帝国憲法とは、全く相容れない原理に立脚している。
そうだとすれば、日本国憲法は、帝国憲法から見て「違憲」の憲法であるということになり、帝国憲法の改正によって誕生したと見ることはできない。
すなわち、日本国憲法は、帝国憲法の連続のうえに位置づけることはできないのであり、ここに、国制上の断絶としての「革命」といった事態を想定しなければならないのである。

それでは、ここでの「革命」とは具体的には何か。
それは、日本国政府が、ポツダム宣言を受諾したことで、昭和20年8月15日以降に生じた事態を指す。
すなわち、ポツダム宣言は、戦後日本が軍国主義を清算すべきこと、「民主主義的傾向の復活強化」をすべきこと、基本的人権を尊重すべきことなどを要請している。
帝国憲法のもとでは、これらの事項を実現することは困難であり、しかも、ポツダム宣言は、こうした目的達成のためには、「日本国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらる」ことが必要であるとしている。
これは、すなわち、「国民主権」の原理の確立を述べているに他ならない。
すなわち、帝国憲法は、ポツダム宣言を受諾した時点において効力を失い、ここに「革命」が行われたというのである。

この「八月十五日革命説」に関しては、そもそも、ポツダム宣言が、将来の憲法改正を要請するものだったのか疑問であり、そのことと関連して、「民主主義的傾向の復活強化」という文言は、帝国憲法下においても、「民主主義的傾向」が存在していたことを前提にしているのではないか、また、「日本国民の自由に表明せる意思」という言葉の「日本国民」とは、Japanese People の翻訳であり、天皇と区別された「国民」ではなく、端的に「日本人」を意味し、日本人が外国の意思から「自由に」そこで示されたような政府を樹立する旨を述べたに過ぎないとする異論がある(たとえば、佐々木惣一「国体は変更する」)。

こうした点に関する細部にわたる検討は、今はおくとして、ここで、まず確認しなければならないことは、実際に、昭和20年の8月15日に、日本国民の眼前で、「革命」といった言葉でわれわれが通常理解するような事態が生じたのかという点である。
8月15日に日本国民を襲ったのは、敗戦という衝撃と虚脱感であり、やがて進駐してくる占領軍への不安であった。
無論、そこには、戦争終結によって、空襲や攻撃の危機が去り、やっと命拾いをしたという安堵の念もあったであろう。
しかし、このような事態を、当時の人々も、今日のわれわれも、「革命」とは称しえないであろう。
もっとも、戦後、時が経つにつれて、8月15日の時点で、国民が直ちに軍国主義の重圧から解放されて自由を享受したかのように描くドラマや小説が現れたことは事実である。
しかし、それは、占領軍進駐後の日本の世相の変化を、それ以前にまで遡らせている結果であり、そこには、他ならぬ「八月十五日革命説」を通俗化した物語が語られるようになった結果なのである。
しかし、この場合でも、こうした敗戦による自由の享受を、そのまま「革命」と呼ぶことは、少なくとも通常の言語感覚では無理があろう。

ただし、本来、法学的な思考というものは、法律上の文言の論理的・意味的な整合性と一貫性を確立することを目指すものであるから、この「八月十五日革命説」についても、時に「法律的意味」での「革命」であると説かれているように、法律的論議を一貫させるための論理的工夫であると考えればよいとも言えよう。
実際、これに似たような、一般人からすればともすれば虚構とも思われるような物語的な構成は、その他の法律解釈の分野においても、しばしば見られるものである。
しかしながら、法律専門家のみが互いに了解して共有していればよいような法律解釈の他の分野における虚構はともかくとして、憲法のように、国民の全てにその全体が開示されて、その正統性が確立されねばならないような法律体系において、このように、一般人には事実との照応が容易とは言えない虚構の物語によって、その成立の根拠が説かれていることは、やはり問題とされるべきであろう。
それは、とりもなおさず、憲法というものが真の意味で護持されるのは、法律学の秘教的解釈に通暁した法律専門家の間においてのみであるということを意味するからである。

そもそも、「八月十五日革命説」は、何故要請されねばならなかったのであろうか。
既に紹介した点からも明らかなように、それは、日本国憲法の文言が、「国民主権」を規定しているという一点に帰着する。
そして、「国民主権」の原理の誕生は、フランス革命の際に生じた「君主主権」から「国民主権」への転換の事実と同質のものであり、従って、日本においても、フランス革命に相応する「革命」を想定しなければならないというのである。
ここには、しかし、何か論理の転倒のようなものがないだろうか。
フランスにおいては、その複雑な事実過程はここで省略するとして、まず、「革命」と呼びうるような事態が進行して、君主の支配が打倒され、「国民主権」の原理が宣言されたのである。
すなわち、政治上のある種の事態が生じ、それを歴史上の断絶をもたらした「革命」として語る物語が誕生し、さらに、そうした物語をもとに、「国民主権」と「君主主権」の絶対的な原理的区別を説くヨーロッパの近代憲法理論が誕生したのである。
もっとも、フランス革命に関しては、既に触れたように、そもそも、こうした絶対的な「断絶」の物語として、それを語ることが果たして妥当であるかが以前から問題とされており、今日なお様々に議論されているところであるが、それはともかく、そうした物語が、従来のフランスの来歴の主要な部分を構成していたことは事実であろう。

これに対して日本はどうか。
日本では、一方で「主権の存する日本国民」と、他方で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」という憲法の文言上の相違がまず存在し、そこから、この相違が絶対的な国制上の原理の断絶を意味するという憲法理論が援用され、さらに、この理論の成立の前提となっている革命の物語を、そのまま日本国憲法成立の過程に強引に押し当てようとしているのである。

無論、戦後の日本において、ドイツやロシアの帝制の廃止に見られるような事態が生じたのであれば、こうしたフランス革命に由来する物語を援用することには十分意味があろう。
個人の来歴と同様、国家成立の物語においても、他国の来歴を援用することを一切斥ける必要はない。
帝国憲法を解釈する際にも、当時のヨーロッパの立憲君主制理論が援用されたのであり、それが、日本の根本的な国制や実際の明治国家体制の成立の過程とどの程度整合するものであったのかは別に検討しなければならないけれども、少なくとも、そうした援用は、帝国憲法の意味を部分的に明らかにするのに一定の意味を持ったであろう。
また、より一般化して、世界の歴史においては、国民が実質的に政治決定に与る傾向が次第に増大しているという、より抽象的なレベルの物語であれば、それは、日本国憲法のみならず、帝国憲法についても、十分に適用可能であったであろう。

にもかかわらず、君主制の打倒という、より具体的な事実を中心とするフランス革命の物語の場合は、そうはいかない。
日本国憲法は、天皇を国家の制度の上から廃絶することはなかったために、フランス革命の物語をそのまま適用することには多大な困難があるからである。
実は、戦後の日本の憲法学者が従事してきたのも、こうした困難にどのように取り組むのかという課題であった。
この点につき、ある論者は次のように述べている。

「主権原理の転換は、権力の担い手の転換を意味するものとして、通常は革命的転換の実体をふまえる。しかし、戦後変革は、この実体を欠いていた。主権原理の転換はあったが、それを不可避とする意識は生み出されていなかった。革命的変革をたんなる憲法改正の問題とみせかけようとした占領軍と為政者の対応が際立っていた。・・・・・・敗戦から憲法制定までの過程は、国民主権についての理論を深化させる絶好の機会であったが、それをなしうる状況にはなかったのである」
(杉原泰雄他編『文献選集 日本国憲法2 国民主権と天皇制』、杉原泰雄、解説、9頁)。

かくして、彼らにおいては、日本においても、本来は、フランスにおけると同様の「革命」が存在すべきであったのだが、やむを得ず不徹底な「革命」に甘んじるしかなかったのであり、今後は、日本国憲法の解釈理論のレベルで、真の「革命」が生じたのと同様の効果がもたらされるべく努めるのが、憲法学者の義務であるということになったのである。
先に触れた、多くの憲法解釈に見られる「天皇」条項の消極的・否定的解釈はここに起因しており、そこでは、天皇の存在が「国民主権」原理と矛盾するということが、憲法解釈の絶対的な前提となっているのである。
多くの護憲派の憲法学者において、彼らが真に帰依しているのが日本国憲法ではなく、実は、フランス革命神話とその物語なのだということの意味が、ここに集約的に示されているのである。

もとより、憲法学者がひとりの市民として発言したり行動したりする際に、フランス革命神話に帰依して、彼らの考える真の「国民主権」の確立に努めるということは、認められてよいことである。
しかし、憲法学者は、憲法学者である前に、そのような意味での「国民主権論者」であるべきなのであろうか。
憲法学者にとっては、眼前にしている憲法について、より整合的な解釈を用意することも、またその職務なのではないだろうか。
「象徴天皇」の地位と「国民主権」ということを整合的に解釈することは全く不可能なのであろうか。
このようなことを述べると、おそらく、そのような方向をとることは、直ちに、基本的人権の尊重や平和主義とった日本国憲法の別の根本原則をも危機に陥れることになると主張されるかもしれない。
しかしながら、そのような考え方自体が、絶対主義から民主主義へというフランス革命物語に拘束されている結果ではなかろうか。
日本国憲法が、事実として、「象徴天皇」制度を規定し、同時に、かなり進んだ各種の人権規定を定めていることを整合的に説明するような物語を何故新たに構想できないのであろうか。
しかも、国民の多数が、その憲法感覚については様々に問題があるにせよ、実際に、民主主義的な政治決定の方式を支持し、人権規定を享受し、しかも天皇制度の存続を希望している以上、国民のこうした一般的な感覚に即した解釈理論を提供すべきではなかろうか。

日本国憲法の物語は、単に憲法というひとつの法典をめぐる物語ではない。
現実には起きなかった革命が起こるべきであったとされ、「日本国憲法」という不徹底な変革の故に、日本の民主主義は未熟な存在であるとされ、時には「日本の民主主義は、血で贖(あがな)われたものではないがために定着しないのだ」といった発言さえなされてきた。
果たして、われわれは、フランス革命に見られたような百万単位の人命の犠牲を払うべきであったのか。
そして、そのようにして獲得されたフランスの今日の政治体制は、それほど賞讃に値するものなのか。
そもそも、フランス革命自体が、ヨーロッパを念頭においた場合でもフランスに特殊な現象である。
「ヨーロッパは革命もジャコバン派も抜きで」、政治的代表制の確立とかブルジョア社会の成立といった「同一の道をたどった」のである。
もとより、その模倣者は存在したとしても(F. フェレ、『フランス革命を考える』)。
にもかかわらず、フランス革命の神話に拘束された言説が流布するなかで、日本は民主主義の意識の点で、世界に遅れているという、自己否定的な来歴が、戦後の日本人を拘束することになったのである。
すなわち、日本国憲法の物語は、そのまま戦後日本の来歴そのものを規定しているのである。

それでは、新たな日本国憲法の物語は、如何に語られるべきか。
「八月十五日革命説」が、一般の日本人において、リアリティを持って受け容れられない性格のものであるとすれば、新たな憲法制定の物語を構想しなければならない。
もとより、ここで制定の物語といわれるものは、日本国憲法が制定される現実の政治的過程をリアリズム的に描写するものを意味しない。
ここでは、あくまで、日本国憲法の正統性を弁証するような成立の物語が模索されねばならないのである。
実際の制定の過程においては、日本国憲法の草案そのものが、占領軍指令部によって用意されたものであること、これに対して、日本の側においては、こうした占領軍の意向を感知して、改正作業が進められたが、占領軍の草案のような新憲法の制定は全く意図するところではなかったこと、にもかかわらず、それを受け容れねばならなかったことといった諸点は広く知られているところである。
こうした事実の故に、日本国憲法は制定の当初から無効であるとする論理は、それなりに成立しうるものである。
とはいえ、既に制定から半世紀を経て、実際の日本国の統治がそれに即してなされてきたことを考えれば、現在の時点で、日本国憲法が制定の時点に遡って無効であるとすることは、「八月十五日革命説」以上に生産性を欠くものと言わねばならない。

そもそも、憲法制定の実際の過程は、そのまま、その憲法成立の法的意義やその正統性の根拠に重なり合うものではない。
伊藤博文や井上毅が憲法の内容の確定や制定の過程を主導したことをもって、帝国憲法が欽定憲法であることを否定することにはならないからである。
日本国憲法についても同様である。
この点を念頭におきつつ、以下見ていこう。

まず、日本側が、不本意ながらも、占領軍によって示された草案をもとに日本国憲法を制定するに至った点に関して、それなりの日本側の主体的判断があったことを認めねばならない。
それは、当時の日本が、連合軍による軍事占領下に置かれており、この新憲法案の拒絶が、占領軍側のより過酷な措置を予想させたからである。
いわば、日本は、連合国と依然として潜在的戦争状態にあり、占領軍の意向の無視は、より徹底した敗北をもたらす可能性があったために、日本はその国家としての存続という、国家としての最も基本的な規範的要請に従って、日本国憲法の草案を受け容れたのである。
さらに、その際、より積極的な理由として、その内容において、受容することを可能にする最低限の条件を備えていると判断されたからだということも重要である。
すなわち、日本側は、そうした自主的な判断の結果、新憲法を受容することを主体的に決断したのである。
日本国憲法の正統性を語る物語は、何よりも、こうした日本側の主体的契機に着目しなければならない。

それでは、その最低の条件とは何か。
それは、言うまでもなく、「象徴天皇」という形で、天皇制度の存続が規定されていたことである。
それ故に、新たな憲法案の基本原理が、帝国憲法のそれと一定の連続性を保持していると考えることが可能となり、受け容れることが可能となったのである。
ここで改めて、日本国憲法が、大日本帝国憲法の改正手続きによって成立したということの意味を考えねばならない。
しかも、それは、次のような天皇の「上諭」に基づくものであった。

「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国憲法の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」。

日本国憲法前文と比べて、それほど注目されることのないこの文書は、日本国憲法の歴史的意義を考察する上で、やはり無視しえない意味を持っているように思われる。
にもかかわらず、この「上諭」については、圧倒的な通説においては、たとえば、「もちろん、日本国憲法の構成部分ではない」とされ(宮沢俊義著・芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』)、日本国憲法が、こうした天皇の勅命による帝国憲法改正の結果として誕生したのだとしても、それは、単に「形式」を借りたに過ぎないと説いている。
それでは、そこで、「形式」とされているものに対する「実質」とは何か。
この点をたとえば、美濃部達吉は次のように解している。

「即ち旧憲法第七十三条の手続に依つたのは、唯形式上のみで、実質的にはそれと全く意義を異にし、勅命を以て議案を付議したのは単に議会に於ける審議の参考に供したに止まり、議会は之に対し完全に自由な修正権を有したのであること、天皇の裁可は国家意思を決定する行為ではなく、既に成立して居る国家意思に対し単に之を認証するの意義を有するに止まるものであつたことを理解するに依つてのみ、新憲法が民定憲法たることを説明することが出来る」(『新憲法の基本原理』、三五頁)。

確かに、新憲法制定は実際の天皇のイニシアティヴによるものではないであろう。
しかしながら、そもそも、「形式」を軽視して、もっぱら「実質」を尊重するのだとすれば、その「実質」のレベルはどこに求めるべきなのか。
占領軍のもとでの憲法制定という現実の政治過程そのものなのか。
もとより、先にも述べたように、憲法理論のレベルでは、必ずしも、そういした現実の制定過程に着目する必要はない。
その点、美濃部の説明は微妙である。
美濃部は、議会の審議の過程に言及したうえで、しかも、「議会は之に対し完全に自由な修正権を有したのである」と述べている。
もし、美濃部が「実質」を憲法制定の政治的な事実のレベルに求めているなら、「完全に自由な修正権を有した」ということも、占領軍支配という当時の状況を考慮すれば、「形式」となりかねない。
もし、美濃部の議論が、こうした制定の政治的な事実過程を念頭に置くものでないとすれば、美濃部の説明は、日本国憲法の制定における、一連の法的手続き過程のある一面を「形式」とし、他の一面を「実質」だとしていることになる。

それでは、そこでの「形式」と「実質」とを分かつものは何か。
先の美濃部の文章からも明らかなように、ここで「形式」に対置されて「実質」とされているのは、ここでも、フランス革命神話に由来する「国民主権」誕生の物語を敢えて挿入できそうな部分なのである。
というのも、引用した美濃部の文章の末尾は、「形式」と「実質」の区別が、日本国憲法が「民定憲法」であることを「説明」するために要請されたものであることを示しているからである。
実際、美濃部は、右の文章に続けて、国民が、新憲法制定の「国家意思」を有することが出来たのは、帝国憲法の規定によるのではなく、ポツダム宣言の結果として生じた「憲法違反の革命的行為」によるものであるとして、先の「八月十五日革命説」を援用する。
それでは、そもそも、そのような新憲法制定の「国家意思」を何故天皇が「認証」する必要があったのか。
「革命」が生じていながら、何故、そうした「形式」を必要としたのであろうか。
そもそも、「認証」とは何なのか。
ここには、直ちに、日本国憲法において、天皇の「公布」や「認証」を含む「国事行為」が如何なる意義を帯びているのかという問題が関わってくるが、多くの通説が、そこにおいても、その「形式」性を強調していることは周知の通りである。

そもそも、日本国憲法が欽定憲法か民定憲法かといった論議そのものが、「国民主権」と「君主主権」との絶対的断絶を説くヨーロッパの憲法理論の問題関心に発するものなのであり、そうした理論にかなうべく「革命」を想定するといった、法律専門家の間にのみ通用して、国民一般にはリアリティを持たないような物語に、いつまでも拘泥すべきではないであろう。
すなわち、日本国憲法についての憲法学的論議をするに際しては、実際の法的な手続き過程全体を整合的に説明できない物語を前提にするのではなく、「形式」とされている部分も等しく考慮するところの、新たな物語を考えねばならない。
すなわち、昭和二十年の八月十五日には、「革命」などは生じなかったのであり、それゆえ、日本国憲法成立までは、占領軍の権力のもとにおいてであれ、帝国憲法が有効に機能していたのである。
そして、日本国憲法は、帝国憲法改正の結果として誕生したのである。

日本国憲法前文は、「国政」が「国民の厳粛な信託」によるものであり、「その権威」が「国民に由来」する旨をうたっている。
このような考え方は、「国民主権」について、ヨーロッパ憲法理論が下している解釈、すなわち、国民自身が「憲法制定権力」の担い手であり、自らの名において統治を行うことで、直ちに国民自身が「正統性」の淵源になるということを取り入れたものに他ならない。
しかしながら、問題は、日本国憲法の成立の過程、ならびに憲法の全体的構成をすべて視野に収める限り、この前文そのものが、天皇の上諭を伴うことによって、初めて法的効果を持っているということである。
すなわち、日本国憲法は、「国政の権威」が自らに由来するという「国民主権」の原理を「国民」が宣言することそれ自体を、改めて、天皇が「裁可」し「公布」することで成立しているのである。
この独特の論理構成をどのように説明するのか、これこそ、日本の憲法学の課題でなければならない。

天皇の行為と「国民主権」の原理とは、そもそも、どうような関係にあるのか。
より具体的な側面から見ていこう。
日本国憲法は、帝国憲法における天皇の「統治権」のうち、実質的な政治決定者としての権限が「国民」にあることが改めて宣言されている点に特質を持つ。
それでは、天皇には、何が残されたか。
それは、日本国憲法が定めるところの「象徴」としての行為、ならびに、内閣総理大臣、最高裁判所の長官の任命、そして、第七条に列挙された一連の国事行為である。
これらは、いずれも、現行通説が、その「形式」性を強調するものであるが、それは、それで構わない。
しかしながら、そもそも、「形式」とは何であろう。
「形式」とは、直ちに無意味なものを意味するのであろうか。
「形式」とはまさしく「形式」であることによって独特の機能を果たすのではなかろうか。
天皇の行為の「形式」性を強調する論者は、いずれも、それでは何故、そのような「形式」が必要であるかを説こうとはしない。

天皇の「形式」とされる一連の行為は、既になされた政治決定に対して、それが、日本国および日本国民による「正統」な決定であることを確認し、これを公的に表現する意義を持つと解すべきである。
すなわち、日本国憲法においては、「国民主権」のもと、「国民」の代表である国会や内閣が実質的な決定を行う権能を有するけれども、単にそこで実際に決定がなされるだけではなく、天皇の行為を媒介にすることで初めて、そうした決定に、日本国および日本国民の決定としての「正統性」が付与されるのである。
ここには、先の日本国憲法における上諭と前文との関係が、そのまま反映されているのである。

それでは、何故、天皇は、そのような権能を有するのか。
それは、まさしく、日本国憲法第一条により、天皇が、「日本国」ならびに「日本国民統合」の「象徴」であるとされていることによる。
しかも、その場合、重要なのは、この第一条が、単に、日本国憲法成立の時点で全く新たに誕生した原理を表明したものではなく、日本の国制上の歴史に対するひとつの解釈のもとに成立したと考えるべきであるということである。
「象徴」とは、後に改めて詳しく述べるが、ここでは、その原義に即して、本来、無形で不可視の理念的存在に形を与えることで可視的存在にするものと解すべきであり、その意味で、「天皇は象徴に過ぎない」といった文脈で言われるような消極的な概念ではない。
すなわち、いずれの国においても、国家という理念的存在は、その国の元首ないしそれに準ずる首長を中心とする建国の儀式や式典を通して、ありありと実感的に把握しうる存在として現前することは、われわれが通常経験するところであるが、「日本国」もまた、天皇に関わる儀礼を通して、可視的に現前するとされているのである。

また、天皇が「日本国民統合」の「象徴」とされていることに関しては、後に詳しく述べるように、わが国近代の国民観念の成立に関わる歴史的事情が関係している。
わが国の国民観念は、近世末期以降、天皇を日本全国の本来的な統治者として仰ぐという意識が一般化するなかから形成されていった。
すなわち、そこでは「国民として」行動することが、そのまま、「天皇の名において」行動することを意味するような状況が生まれたのである。
この点は、革命以後のフランスにおけるように、「国民の名において」行動することが、「君主の名において」行動することと正面から矛盾していたのとは、著しい対照をなしている。
すなわち、日本においては、「国民」が「国民」としての政治決定を行う際、それが、日本国全体を象徴する「天皇」の存在を意識してなされたという事情から、政治決定は、天皇の行為を介して、改めて「正統性」を獲得するという統治の原理が生まれたのである。
この点を抜本的に改めるような政治的変革は、日本国憲法についての従来の解釈理論の根底にあった架空の「革命」の物語の内部以外には存在しない。

従って、「国民主権」における「国民」という観念についても、それが日本の憲法に登場する場合には、右に見たような日本国民の国制史上の来歴を担うものとして理解しなければならない。
従来の「国民主権」の解釈においては、「国民」という観念をいつでもどこでも妥当する普遍的な観念として理解するつもりでいながら、実は、フランス国民という特定の来歴を担った国民の観念をそのまま無自覚に導入して解釈していたのである。

ところで、このような日本の国民の来歴を念頭に置くとき、政治決定が究極的には天皇自身の決定とされるゆえに「正統性」を獲得するのか、あるいは、天皇の行為は、その政治決定が「国民」による「正統」な決定であることを確認し表明する点に意義を持つのかは問題となるところであるが、日本国憲法においては、その前文の趣旨、および国事行為について定めた第七条の「国民のために」との文言、また改正規定である第九十六条第二項の「国民の名で」との文言に即して、後者として理解するのが妥当であろう。

もとより、天皇のこうした行為は、日本国憲法第三条に定めるように、内閣の「助言と承認」を必要とする。
そのことの意味は、天皇は、「正統性」が付与されるべき政治決定の内容には関与することが出来ないことを意味する。
天皇が「国事に関する行為」のみを行い、「国政に関する権能」を有しないとの第4条の規定は、改めてそのことを定めたものである。
そして、後に述べるように、天皇の行為について言われるところの「形式」性は、実質的な政治決定に与らないことで、むしろ、「国民統合の象徴」としての機能をより適切に果たすことが出来るという具合に、より積極的に理解すべきであろう。

もっとも、「正統性」という観念自体が、政治哲学的には、様々に探求すべき余地を残している。
従って、以上の点に関しては、他にも様々な理論構成が考えられよう。
憲法学者を含め一般国民の間において、より活発な論議を期待したいところである。
ただ、ここで繰り返し強調したいのは、フランス革命の物語を借用した上で「国民主権」を解釈し、それが天皇の存在と矛盾するという前提に立って、天皇の行為の「形式」性のみをひたすら強調することで、天皇の存在の意義を限りなく「無化」して捉えようとすることは、憲法そのものの条項を過不足なく体系的に解釈するうえでは、適切ではないということである。

ところで、仮に八月十五日にフランス革命に相応する事態を想定しなかったとしても、日本国憲法成立の時点で生じた、天皇の地位をめぐるこのような大きな変化は、あるいは、「革命」に類似するものかもしれない。
実際、占領軍から、その憲法草案を受け取った際の日本側の印象は、そのようなものであった。
ここにおいて、天皇の「裁可」と「公布」が天皇の意思であるとしても、天皇は、帝国憲法において、このような内容を持つ意思を発動することが許されるかという問題が生じる。
帝国憲法は、その第四条で、天皇の「統治権」の行使は「憲法の条規」による旨定めている。
天皇は、無条件に万能の権限を振るえるわけではない。
あくまで、帝国憲法の各条項、また、帝国憲法の根本的な原理に従わねばならない。
帝国憲法下の通説的解釈は、日本国憲法が成立するような憲法改正を「違憲」と見做したはずである。

もっとも、この場合、そうした通説的解釈自体が、やはり、フランス革命の物語に立脚する憲法理論に依拠していたことを想起しなければならない。
戦前の憲法学理論の多くは、ヨーロッパの立憲君主制理論に依拠していたが、この立憲君主制自体が、ドイツにおけるように、フランス革命の物語の現実の政治過程での進行が中途で停止しているような状況において成立する一種の妥協形態であるとされていたのである(たとえばC.シュミット『憲法論』)。
この場合、帝国憲法の定める国制が、立憲君主制理論の特にドイツ的な解釈によって、やはり君主制の一形態とされる限りで、フランス革命の物語は、やはり、当時の憲法学者を拘束したのである。
美濃部や宮沢のような帝国憲法下において指導的な憲法学者であった人々が、当初、帝国憲法の全面改正には反対し、日本国憲法が制定された後には、「八月十五日革命説」に立たなければならなかったのもそのためである。

しかしながら、今日の時点で、帝国憲法と日本国憲法との連続性を語る新たな物語を構想する場合、必ずしも、こうした帝国憲法下の通説的解釈理論に従う必要はない。
先にも述べたように、立憲君主制理論をはじめとするヨーロッパの憲法学理論は、帝国憲法を部分的に解釈するには有効であっても、その全体的な意味をすべて説明するわけではないからである。
まず、帝国憲法は、『憲法義解』も明言するように、天皇の地位については、「憲法に依て新設の義を表するに非ずして、固有の国体は憲法に由て益々鞏固なることを示す」ものとされていた。
すなわち、天皇という制度は、帝国憲法の制定によって、初めて誕生したものではなく、「固有の国体」に淵源するものとされていたのである。
このことは、天皇の条項に関しては、ヨーロッパの憲法理論のみをもって解釈することが出来ないことを示唆する。

まず、ここで何よりも重要なのは、「憲法」という言葉を、近代の成文憲法の体裁をとったもの(この意味の憲法を「憲法典」と呼んでもよいであろう)に限定せず、およそ国家が存在する限り、いずれの国家も有しているはずの、その根本的国制を規定するルール全体(これを、憲法学がいうところの「実質的な意味の憲法」と呼んでもよい)を指すものと考えねばならないということである。
このルールに関しては、明示的に文章化されたものと並んで、現実に行われていた慣行や、これに関する解釈や観念も含むとしてもよいであろう。
戦後においてのみならず、戦前においても、わが国では、「憲法」というと、もっぱら「憲法典」を指す傾向が強かった。
しかしながら、「憲法典」の文言のみで国政の根本に関わる諸問題を処理することは事実として出来ない(小島和司『憲法学講話』、参照)。
従って、ここでは、単に帝国憲法や日本国憲法の文言にのみ依存するのではなく、より広い視野に立って、すなわち、律令体制や幕藩体制といった様々な過去の国家体制の根本的なルール - 日本の「憲法」全体の歴史を考慮に容れて、改めて天皇の国制のうえでの位置を検討しなければならない。
とりわけ、実質的な権力関係というより、統治の正統性の原理に着目する限り、幕末まで存続したと考えられる「憲法」としての律令体制を考慮に容れねばならないであろう(上山春平『天皇制の深層』、参照)。

ところで、ここで、まず問題となるのは、帝国憲法第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の「統治」の意味である。
もともと、井上毅の憲法草案においては、第一条に該当する箇所では、「統治」という言葉ではなく、「治(シラ)ス」という言葉が用いられていた。
井上によれば、この「しらす」は、私的所有や支配を意味する「うしはく」とは区別される概念であり、「うしはく」が、「オキユパイド」や「ゴーウルメ」と表現されるような、あたかも私的物権と同様に考えられているヨーロッパの君主の権力に対応するのに対して、「しらす」は、日本の天皇に固有の概念であって、当初から公的な意義を担った観念であったというのである(「言霊」)。

それでは、そもそも、「しらす」とは何か。
それは、端的に「知る」ことを意味し、その具体的意味は、諸説あるが、要するに、「神の言葉」を伝える「まつる」に対応するものであり、「神意を知る」ことを指す。
「神意を知る」とは、そのことで、国の安泰と繁栄が保証されるが故に、「統治」ということと結び付くのである。
その場合、天皇の「しらす」は、また、三種の神器の「鏡」に象徴されるような、人々の心をすべて、自らの心のうちに映し出すような理想の精神のもとでの統治であるとされる。
井上の「しらす」の理解について、たとえば、小林昭三氏は、西洋の君主は、私的支配の権能としての「権力」の所有者であり、それ故、「権力抗争の一方の当事者」であるのに対して「日本の天皇は、権力抗争の外にあって、権力抗争をつつみ込む」存在とされていたと説いている(『明治憲法史論・序説』)。
もとより、これは、あくまで天皇の理念について言われているものと解すべきであって、歴代の天皇がすべてこのような理念に近い存在であったか否かは別である。
それは、国民代表の理念そのものとが、それが、そのまま現実の個々の国会議員に妥当するか否かが別の問題であるのと同様である。

それでは、上に見た、帝国憲法の第一条の「統治」と第四条の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」といわれているところの「統治権」との関係はどうであろうか。
この点につき、大原康男氏は、井上の考え方を引きつつ、第四条の「統治権」は、第一条の「統治」とは異なり、全面的に外国憲法を継受したものであって、それゆえ、ヨーロッパ憲法理論での「主権」をめぐる論議は、もっぱらこの第四条に関わるものであったと述べたうえで、そこでの「統治権」はまた、本来、第一条の「しらす」の原理によって領導されるべきものだとされていたのだが、後の憲法学者の多くは、天皇主権説論者、天皇機関説論者双方を含めて、この区別を見落としてしまったのだとしている。
そして、このように、第一条と第四条とでは、本来的に異なる「統治」の観念が表現されていたにもかかわらず、第一条においても、「治(シラ)ス」に替えて「統治」という言葉が用いられることになったのは、ひとつには、井上と異なり、国学的教養が薄く、むしろ、ドイツの憲法理論に通じていた伊藤博文と伊東巳代治の意向の方が優位したためではないかというのである(『現御神考試論』)。

帝国憲法第一条の「統治」については、先の『憲法義解』も、詳しい説明を省きながらも、井上の見解を反映して、「しらす」と解している。
この「しらす」をめぐる解釈学は、さらに深化させる必要があるが、上に見ただけでも、それがヨーロッパの「主権」の観念のみによっては解釈しきれないものを持つことは明かとなろう。
おそらく、天皇が行う「しらす」としての「統治」は、第四条の「統治権」以上に根源的な観念を表示すると解すべきである。

もとより、このような解釈も、あくまでも、帝国憲法の一解釈であり、帝国憲法下の少なからぬ学説が解するように、第一条を第四条と同じ意味で理解することも可能である。
しかしながら、その場合においても、日本語の「統治」には、単なるヨーロッパ的な「Govern」によっては蔽い尽くせない意味があり、それ故、また「主権」という言葉では等値しえないものがあることは認めねばならないであろう(成沢光『政治の言葉』参照)。
しかも、帝国憲法は、とりわけ、天皇の制度に関しては、そこにおいて初めて成立したものではなく、帝国憲法以前から存在する「国体」に由来するものであるとしている。
従って、「しらす」のように天皇に関わる根本的な観念の本来的な意味を無視することはやはり適切ではなかろう。

ところで、「しらす」を上のような意味で解するとき、たとえば穂積八束や上杉慎吉のように、天皇の大権をあたかもヨーロッパの絶対君主のそれに比肩させて解釈するということも、天皇の伝統を逸脱したものであると言うべきであろう。
言い換えると、彼らもまた、戦後とは逆の立場から、フランス革命の物語に拘束されていたと見るべきであり、ヨーロッパ絶対主義下の君主権力をモデルとして天皇の「統治」を考えていたのである。
興味深いのは、帝国憲法をその独自の「古神道」によって理解していた憲法学者、筧克彦は、穂積や上杉の見解を、「しらす」と「うしはく」とを混同するものだと批判し、大正期に上杉と美濃部との間でなされた「国体」論争では、むしろ、美濃部に好意的な立場に立っていたという事実である(長尾龍一「法思想における『国体論』」)。
戦後の憲法学は、帝国憲法を穂積や上杉のような見地から理解した上で、それと日本国憲法との断絶性を必要以上に強調する傾向があるのではなかろうか。

なお、ここで重要なのは、ここでの「しらす」の意義をめぐる論議は、単なる経験科学でもなければ、古代の言葉の意味の単なる解明でもなく、あくまで、法解釈学としての憲法学における探求であるということである。
すなわち、そこにおいては、物語の構想と同じく、実践的な関心に基づいた「理由」の探求がなされているのだということである。
われわれがいま試みているのは、日本国憲法に言う「国民主権」と「象徴天皇」との関係を如何に解すべきかという問題であり、さらには、それが、帝国憲法とどのような意味で連続性をもつのかという点の探求なのである。

さて、帝国憲法第一条による「統治」すなわち「しらす」の主体が天皇であり、しかも、それが、第四条の「統治権」の「総攬」の主体としての天皇よりも根源的な意味を持つとすれば、帝国憲法の改正としての日本国憲法の誕生は、この第四条の天皇の地位が変化したに留まるのであり、第一条の天皇の地位には、根源的な変化はないが故に、そうした改正は、「合意」であると解することが可能ではなかろうか。

日本国憲法制定後、この憲法によって「国体」は変更したか、という点をめぐる論争があった。
この論争は、宮沢俊義と尾高朝雄との間で、また、和辻哲郎と佐々木惣一との間でなされたが、ここで着目したいのは、後者の和辻・佐々木論争である。
佐々木は、「八月十五日革命説」には立たなかったが、日本国憲法が帝国憲法第四条を否定する内容を持つが故に、「国体は変更した」という立場をとった。
これに対して、和辻は、「国体」ということを帝国憲法の制度と同一視すれば、そのように言うことも可能であるが、もともと、明治以前には、天皇が「統治権」を「総攬」するという事実はなかったのであり、にもかかわらず、天皇が、古来より、「国民全体性の表現者」、すなわち「日本国民の統一の象徴であるということ」は、「日本の歴史をぬいて存する事実」であり、さらに、日本国憲法において、天皇が「象徴天皇」という形で国家制度のなかに明確に規定されていることは、江戸時代に比べれば、その地位は、はるかに「統治権の総攬ということに近づけられている」ことになり、「国体の変更」について云々するには当たらないと主張した(『国民統合の象徴』)。
これに対し、佐々木はさらに、江戸時代においても、「大政委任論」に見られるように、「社会的事象」においてはともかく、「法律事実」としては、天皇が「統治権」を「総攬」していたのであり、それに反するような事態があったとすれば、それは単に違法な状態に過ぎなかったのだと主張した(「国体の問題の諸論点」)。

この論争に関しては、それが、本来曖昧な「国体」という観念をめぐるものであったが故に、法学的論争としては「不毛」なものであったということ、また、「国体」をどのように理解しようとも、日本国憲法の誕生によって、国制の根本的な変化があったという前提に立たねばならないとするのが、今日の多くの憲法学者の間における大勢であるが、そこには、言うまでもなく、過去との何らかの連続性を説くこと自体が、「国民主権」の原理を脅かしかねないという危惧の念があることは疑いえない。
確かに、「国体」という観念に対しては、今日多くの人々において警戒心が抱かれるのが常である。
また、この観念は、多くの論者が指摘するように、曖昧で多義的なものである。
しかし、このことは、「国体」という観念が一概に無用のものであることを意味しないし、また、それをめぐって行われた論争が徒労であったということを意味しない。
「国体」という観念が、わが国の憲法の歴史において、それなりの重要な意義を帯びて用いられていた以上、この観念を一切思考の外に追いやることはやはり適切とは言えないであろう。

ここで、和辻の立論を改めて眺めてみるならば、和辻が専門の憲法学者でなかったために、一般の憲法学者に共通するところの、もっぱら「憲法典」のみを重視するといった傾向から解放されて、「国体」をより広い歴史的見地から考察する立場に立っていたことが解る。
それでは、和辻のそうした態度は、非法学的な、そして、非憲法学的な態度だということになるであろうか。
むしろ、和辻の論議は、「実質的な意味の憲法」をも視野に入れたものだと理解すべきではないであろうか。
ここでは、和辻のそうした思考態度をもとに、「国体」を「実質的な意味の憲法」に属する観念であり、しかも、その根本的な規範の部分を指す観念であると考えてみてはどうであろうか。

それでは、「国体」の意味の確定は如何にして可能か。
それは、あくまで英米の判例法的な解釈にも似た手続による。
すなわち、過去の憲法やその解釈を参照しながら、目下の決定に関連する先例を求めていくということである。
その際、「国体」について、様々な論者が展開した議論は、いずれも、「国体」の解釈論であり、水戸学の「国体」論は、あくまで、その有力解釈学説のひとつと見做すべきであろう。
「国体」の解釈は、こうした有力学説や、過去の現実の国制の実態ならびに、それについてなされた当時の解釈を踏まえつつ、その最大公約数的なものを摘出した上で、実践的に意味の確定を行うべきである。
このような見地に立つとき、帝国憲法や日本国憲法自体も、「国体」についての公定解釈の一例を示しているということになるであろうし、それまでの「国体」の解釈との相違や発展の局面についても憲法学的な考察が可能であるということになるであろう。

ところで、佐々木・和辻の論争に戻って、江戸期の「法律事実」がどうであったかは、議論の余地があるところである。
問題は、佐々木の言う「法律事実」をどのように解するかによるのだが、敢えて佐々木のように解釈しなければならない必然性はないであろう。
佐々木の場合は、「国体」の解釈の余地が狭く、和辻の場合は、それより広いということが言えるであろう。
われわれは、今日の象徴天皇という制度との関係で、「国体」を解釈しようと試みている。
その際、和辻の「国体」解釈は、和辻自身が意図したように、戦後の天皇制度のあり方にきわめて適合的なものではなかろうか。
ただ、「象徴」という概念そのものについては、和辻が述べていることも踏まえて、より具体的なレベルで、その意義を確定する必要があるが、それについては後に改めて述べよう。

「国体」が、「実質的な意味の憲法」の根本的な規範の部分を示す観念であるとして、それをひとつの文章で示すとすれば、それは、「日本は、天皇がしろしめす国である」ということになるであろう。
すなわち、この古言をどのように解釈するかによって様々な「国体」論が生まれるわけである。
もっとも、古代語である「しらす」が、「神意を知る」ということを原義としている以上、そのような神話的ないし宗教的な意味合いを持つ観念は、近代憲法の基本原理たりえないという批判もありうるであろう。
事実、戦後において、日本国憲法の誕生は、帝国憲法の天孫降臨の物語に立脚する神話的な正統性原理を打破したところに重大な意義を持つとされているのである。

しかしながら、翻って考えると、今日の日本の憲法学は、ヨーロッパの「主権」観念自体が、キリスト教的な神の全能・神の絶対性という観念に由来しているという歴史的事実には無感覚なようである。
すなわち、「主権」の絶対性といった観念も、それ自身の本来の意義を把握しようとすれば、世界の超越的支配者であるキリスト教的な神の観念についての実感的理解が必要であり、それが、全能の神を中心とする世界観から人間中心の世界観への転換を伴いつつ、王権神授説を媒介として、世俗の世界の絶対的権力を指示するに至り、さらに、それが、「人民主権」の観念に継承されているということを念頭に置かねばならないのである(小野紀明『精神史としての政治思想史』、第三章、参照)。
ヨーロッパの「主権」観念をめぐるこうした歴史的な経緯は、今日の法学的観念を問題にする場合においても、それが、単に宗教的起源を持つというだけで、その「非合理性」を云々して排除すべきではないということを示唆する。

実際、「しらす」の意義にしても、当初の神秘的な方法で「神意」を知るということから、次第に、その「世俗化」が進行して、とりわけ、儒教的な「有徳君主思想」の流入とともに、仁徳天皇の有名な歌にみられるように、竈の煙が立つのを見て、民の暮しを「知る」ことを意味するに至る過程が見られるのである(成沢光、前掲書)。
そして、こうした「しらす」の様々な意味を探求して、その意義を改めて今日的見地から解釈する際、以下に見る丸山真男氏の「しらす」をめぐる見解は、象徴天皇の意義を考える際、きわめて示唆的である。

すなわち、丸山真男氏は、「しらす」に対比される「まつる」の用法を見る限り、それを必ずしも宗教的意味に限定すべきではなく、ひろく「奉仕」の意味として解釈すべきであるとして、日本の政治文化においては、この「まつる」の内容が、上位者のために、政治の実質的処理や決定をすることで「奉仕」するという意味となり、しかも、その主体が次第に下降する傾向にあり、これに対して、「しらす」の主体は、ますます、そうした実質的決定過程から超越して、もっぱらその「まつり」の内容を承認する「正統性」付与の主体となっていくと述べている(「政事の構造」)。
この丸山氏の見解は、「国体」観念の持つ歴史的な動態的構造を、きわめて要領よく簡略に表現したものと受け取ることが出来る。
日本国憲法は、「国体」に関するこのような解釈をもとに、象徴天皇の制度を定めたものと理解することが可能となり、しかも、それは、日本国憲法を過去の一連の憲法の連続の上に位置づけることを意味するのである。
最終更新:2014年04月29日 16:47