これまで、日本の民主主義のあり方が論議される際には、日本国憲法の解釈に見られるように、フランス革命の物語が暗黙のうちに前提とされ、それとの距離を計ることをもって、日本の民主主義の未熟さ、欠陥を検出するということが当然の手立てのように思いなされてきた。
確かに、フランス革命の物語は、ロシア革命の物語とともに、近代世界において普遍的な伝播力を誇った魅力的な物語ではあった。
しかしながら、今日、ロシア革命の歴史的な意義が根本的に見直されつつあるのと並行して、フランス革命も、従来の神話化された状態を脱して、ようやく冷静な検討が加えられる対象となろうとしている。
われわれは、どうやら、こうした外国の様々な革命の物語を介することなく、日本の歴史に直接に接して、われわれ自身の国家の物語を模索する時を迎えようとしているように思われるのである。
それでは、その場合、どのような自画像が浮かび上がってくるのであろうか。
国家の制度をめぐる日本の来歴は、どのように語られうるであろうか。
フランス革命の物語を媒介としない日本の国家制度の来歴は、民主主義の形成といったこととは全く無関係な物語となるのであろうか。
ここで改めて想起しなければならないのは、そもそも、来歴を語る際には、今日のわれわれ自身の価値観そのものが出発点になるということである。
既に見たように、今日の日本人の多くは、西欧的な民主主義的な政治的意思決定のあり方そのものを否定することはないであろう。
それは、必ずしも、欧米の政治制度を観念的に賞讃しているためではないと思われる。
日々の実感のうちに民主主義的な政治決定のあり方を支持しているのではないだろうか。
もっとも、かつて、全能のエリートが「人民」の名のもとに専制的な指導を行うような意味での共産圏の「民主主義」的な政治体制に魅力を感じている人々も少なからずいたから、西欧的な民主主義への支持がどこまで人々の意識に根を下ろしたものであるかという点について確実なことを言うことはできない。
にもかかわらず、多くの日本人の平均的な政治意識においては、単独もしくは少数による専制ではなく、合議による意思決定が好ましいという意味で民主主義が支持されているのではないだろうか。
それでは、そのことは、ひとえに、憲法改正を伴った戦後の政治変革の結果なのであろうか。
確かに、戦後の一連の変革は、日本人の政治意識に大きな影響を及ぼした。
しかしながら、戦後になって初めて、日本人が、議会制度や権力の抑制といった民主主義的な諸観念を本格的に見につけることになったとするのは、それ自体、戦前の日本のあり方をトータルに断罪するという実践的な関心に立った戦後の来歴の言うところに過ぎないのではなかろうか。
天皇の存在と民主主義とは本来的に矛盾するといったフランス革命の物語に由来する前提から脱し、また、こうした戦後の来歴のよって立つ関心からも解放された立場から、われわれ自身の民主主義と国家の制度に関わる来歴を構想することはできないのだろうか。
以下では、天皇と国民との歴史的な関係を視野に置きつつ、日本における国民観念の形成の過程を追跡し、さらに、そうした過程と密接な関係を保ちながら民主主義的観念が日本に特有のあり方を通して形成されていく有様を概観してみよう。
はじめに、フランス革命の物語が、日本国憲法を根拠づける物語として不適切なものであるのみならず、より広く視野をとって、わが国の近世後期以降の天皇と国民意識の形成との関係を探る際にも、不適切なものであることを認識しなければならない。
そこで、まず注目しなければならないのは、フランスでは、ルイ十四世のもとで頂点に達する絶対主義王政が既に確立された段階で、ブルジョア層を中心とする「第三身分」のなかで、国民観念が形成されていくという過程が見られるということである。
その場合、重要なのは、「第三身分」の絶対王政への闘争は、単に実質的な政治決定を下す権能としての国王の権力のみならず、絶対王政の正統性原理そのものへの挑戦であったということ、これに対して、日本の場合は、国民観念は、既存の支配秩序である幕藩体制の正統性原理が改めて自覚的に探求され、さらに、それが新たな解釈を受けることで、そうした解釈により適合するような政治体制を新たに樹立していく過程を通して形成されていったということである。
すなわち、そこでは、政治支配の正統性原理は、その解釈の上での変容を蒙りながらも、全く別個の原理によって置き換えられることはなかったということである。
そして、なお重要なのは、フランスを含めヨーロッパの国王や貴族層は、ヨーロッパ各地に所領を有し、相互に婚姻関係によって結ばれ、本来、フランスやドイツ、スペインといった特定の地域に必ずしも自己のアイデンティティーを持たないインターナショナルな存在であったということである。
たとえば、第一次大戦勃発時、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世とロシア皇帝ニコライ二世とは、イギリスのヴィクトリア女王を共通の祖母とする従兄弟同士のような関係にあり、相互に、ウィリー、ニッキーと呼び合うような間柄であった。
もとより、近代的なナショナリズムの勃興とともに、それに対応すべく、ヨーロッパの王室は、それぞれが支配している国家における「国民の王」であるということに、その新たな存立の根拠を求めようとしていた(B. アンダーソン、前掲書参照)。
にもかかわらず、彼らが、その出自のうえでは、本来、そうした支配地域の住民とは切り離された存在であったことは、やはり無視し得ない。
従って、たとえばフランスにおいては、新たな「国民意識」に目覚めた「第三身分」の絶対王権に対する闘争は、国王や貴族が体現するインターナショナリズムに対する、その地域の一般住民が体現するナショナリズムの抗争としてあらわれたのである。
フランス革命の神話化に力のあった歴史家ミシュレが、「民衆」を「国民」の意味で用いていることは、そのあらわれである。
従って、絶対王権が打倒されて「国民主権」の原理が確立されたことは、同時に、ナショナリズムに立つ真の意味での「国民国家」が誕生したことを意味したのである。
これに対して、日本の場合、国民観念の形成は、むしろ、日本国の本来の君主は誰かという問題意識が先鋭化し、そうした本来の君主を国民観念の中核に据えながら、君主と国民との間における「君民一体」、あるいは「一君万民」といった理念の実現が目指される過程と重なりあっていた。
すなわち、既存の支配権力を本来の君主と国民との間に介在する夾雑物と位置づけて、これを打倒するという方向を取ったのである。
にもかかわらず、このことを、新たに政治舞台に登場してきた従来とは別の君主の権力が、そこで改めて絶対主義的な支配体制を築き上げたと解釈することは、やはり適切ではない。
というのも、以下に述べるように、わが国の「立憲主義」や「民主化」も、こうした過程と並行して進行したからである。
以上の点を念頭において、日本の国民観念の形成の過程、および「立憲主義化」と「民主化」の過程を見ていこう。
日本の国民観念の形成の端緒をどの時点に求めるかについては、様々な議論が可能であろう。
ただ、国民の観念形成の端緒を政治的な意味で他国の民と自らとを区別する意識に求めるならば、それは、やはり、十八世紀末葉から十九世紀にかけて、北辺の海防問題が危機感を持って意識されていく状況に求めても誤りとは言えないであろう。
十九世紀に入って、異国船の日本海岸への来航が頻繁に見られるようになり、また、隣国中国のアヘン戦争における敗北が報じられるに至って、わが国の対外的危機意識は、先鋭なものになっていく。
明治の歴史家、徳富蘇峰は、この間の事情を次のように簡潔に語っている。
「国外の警報は、直ちに対外の思想を誘起し、対外の思想は、直ちに国民的精神を発揮し、国民的精神は、直ちに国民的統一を鼓吹す」(『吉田松陰』)。
既に前世紀の末葉から、日本国のあり方を天皇の統治ということと密接に結び付けて理解する考え方は、賀茂真淵や本居宣長などの国学を中心として台頭しつつあったが、十九世紀の対外的危機感が深まるなかで、水戸の会沢正志斎によって、「国体」の観念を初めて体系的に説いた『新論』が著され、そこでは、
万世一系の皇統という点に日本という国家の独自性とその存在理由を求める議論が本格的に展開されていた。
その冒頭の一節で、会沢は次のように述べる。
「謹んで思うに、神国日本は太陽のさしのぼるところであり、万物を生成する元気の始まるところであり、日の神の御子孫たる天皇が世々皇位につきたもうて永久にかわることのない国柄である。本来おのずからに世界の頭首の地位にあたっており、万国を統括する存在である」(橋川文三現代語訳)。
ここから、日本国の民であるとの自覚は、こうした「国体」の観念を明確にし、それを確固として身につけることによって培われるという主張が導かれる。
もとより、この時期の国民観念は、必ずしも一般民衆にまで下降したものではなく、武士を中心とする一部支配層に限られるものであったことは事実である。
にもかかわらず、それが、幕末の政治変革と明治維新を経て、一般民衆にまで定着していく端緒となったことは否定できない。
ところで、わが国のこのような国民観念は、天皇の政治上の地位が確立した状況下において、それに対抗するものとして登場したのではなく、むしろ、天皇の政治的地位が次第に上昇していく過程と並行し、むしろ、それを促進するような形で形成されていったという点が重要である。
江戸期の天皇の政治的地位に関しては、最近、今谷明氏の業績によって、従来一般に考えられていた以上に、重要な意義を帯びていたことが明かにされてきている。
すなわち、天皇は、征夷大将軍の任命から、武家の官位の授与、さらには、東照大権現という幕府の祖神の形成に至るまで、武家政権の正統性が関わる枢要な箇所にすべて関与しており、これに対して、幕府は、独自の正統性観念を創出することができなかったし、対外的な自らの呼称についても「国王」と名乗ることはついになかったのである。
従来、もっぱら幕藩体制の実質的な政治決定のあり方のみが着目されていた限りで、天皇は影の薄い存在と映じていたのだが、その根底にある支配の正統性という点に改めて視点を移せば、天皇の権威は、武家政権存続に不可欠のものとして存在していたという結論が導かれるのである。
今谷氏は、こうした事態を戦国期からの大名の間における天皇の権威の上昇という連続的過程の結果と見た上で、天皇が自らそうした権威を及ぼすというよりは、むしろ、「諸大名が天皇を超越者たらしめている」として、ヘーゲルの言葉を借りて、「服従者が支配者を支配者たらしめている」と述べている(『武家と天皇』)。
こうした今谷氏によって描かれた天皇の権威のあり方について、佐々木惣一のように「法律事実」として、天皇が「統治権」を「総攬」していたと解釈されうるか否かは微妙なところであるが、和辻哲郎の天皇を「国民全体性の表現者」とするような、より抽象的で概括的な表現には十分相応するものであり、それを、別の形で表現したものといってよいであろう。
「正統性」の淵源としての天皇の地位の上昇は、十八世紀末葉から、武家政権の秩序に対して、単に包括的に正統性を与えるということから、限られた範囲ではあるが、個々の政治決定の正当性の承認ということにまで及ぶようになっていく。
それと同時に、朝廷自身が、自己の政治的地位により敏感になり、その権威の上昇に自覚的に取り組むようになる。
藤田覚氏は、光格天皇(1771~1840)の登場にこうした天皇の権威上昇の画期を求め、光格天皇が全国的な飢饉の発生に対して、窮民の救済を幕府に指示したり、あるいは、大嘗祭・新嘗祭の古式の復興や、日本古典講読による天皇の権威の歴史的確認の努力などの様々な事例を紹介して、その点を明らかにしている。
そこには、やはり、この時期の対外的危機感が投影していたのだが、興味深いことは、この時期と前後して、先の佐々木が立論の根拠のひとつとした、朝廷が幕府に「大政」を「委任」したのだという「大政委任論」が、本居宣長や松平定信などによって説き始められたことである。
こうしたなかで、文化四年(一八〇七年)幕府により、朝廷に対して初めて海外情勢が報告され、後に、幕府の対外政策に対して朝廷が介入する端緒が開かれるのである(以上、『幕末の天皇』)。
すなわち、わが国の国民観念は、対外的危機意識の高揚を端緒としつつ、日本全国の本来的な統治者としての天皇という考え方を呼び寄せる形で形成され、その一方で、天皇の側においても、そうした動向に対応するような姿勢が取られるなかで確立されていったのである。
幕末に至ってこうした方向が、ますます本格化していく。
吉田松陰の次の言葉は、その一つの到達点といってよいであろう。
「天下は天朝の天下にして、乃ち天下の天下なり、幕府の私有に非ず。故に天下の内何れにても外夷の侮りを受けば、幕府は固より当に天下の諸侯を率ゐて天下の恥辱を清ぐべく、以て天朝の宸襟を慰め奉るべし。是の時に方り、普天率土の人、如何で力を尽さざるべけんや」。
ところで、先にも述べたように、ヨーロッパにおいて、国民観念の形成は、「立憲主義」また「民主化」の進行と並行しているが、わが国では、それは、それまでの幕府の政治的決定権の独占が動揺していく過程としてあらわれる。
「立憲主義」をここでは、権力が何らかのルールの制限の下にあるべきであるという考え方、また、「民主化」を政治決定の実質的主体が下降していく傾向と捉えよう。
幕府が、ペリーの来航に対して、従来の慣例を破って諸大名に意見具申を求めたことが、わが国の「民主化」の開始を意味していたことは、戦前からの「憲政史」の研究などで広く認められているところである。
安政通商条約締結や将軍継嗣問題を経て、この動きはより本格化し、実質的な政治決定の主体は、幕府から有力諸大名へ、大名からその上士へ、上士から下士へ、さらに「草莽の志士」と次第に下降していく。
一方、幕府の権力低下に伴う政治的多元化状況のなかで、国策の決定は何らかの「衆議」に基づくものでなければならないとする「公議輿論」の考え方が次第に広がっていく。
ところで、このように、政治主体の下降という「民主化」の進行の過程で登場する有力諸大名から「草莽の志士」に至る各政治主体は、いずれも、幕府を迂回して、直接に、支配の「正統性」の淵源としての京都の朝廷を指向し、ここに「京都手入」という現象が生まれるが、そこで興味深いのは、天皇の意思という点に「正統性」を有する「勅命」という観念と、「公議輿論」の観念とが、緊張をはらみながら、合流していくという事実である。
この点に関連してよく引かれるのは、大久保利通が西郷隆盛に宛てた手紙で、朝廷が幕府の第二次長州征伐に対して与えた勅許について批判した次の一節である。
「もし朝廷これを許し給候わば、非義の勅命にて、朝廷の大事を思い列藩一人も奉じ候わず、至当の筋を得、天下万人御尤と存じ奉り候てこそ勅命と申すべく候えば、非義の勅命は勅命にあらず候ゆえ、奉ずべからざる所以に御座候」。
この文章は、大久保のような幕末政治過程において活躍した人々が、あの「玉を奪う」という言葉に示されるように、天皇の政治的権威に対して、ある種の政治的リアリズムによって距離を置いて接していたことを示す例として、よく引用される。
しかしながら、重要なのは、この文章からもうかがわれるように、大久保が「公議輿論」を指向する正統性観念に立ちながら、同時に、「勅命」という天皇の権威に立脚する正統性観念それ自身を何ら否定するものではなかったということ、すなわち、大久保において、二つの正統性観念が並存していたという事実である(松本三之介「幕末における正統性観念の存在形態」参照)。
ここで大久保が直面した問題を整理すれば次のようになるであろう。
すなわち、政治決定の実質的な内容が万人が納得するような「公議輿論」に基づくものでない限り、その政治決定は何ら正当性を持たない。
そのことの意味は、そうした「公議輿論」に沿わない政治決定を勅命として発することを繰り返せば、それは、そのまま、天皇の権威そのものを掘り崩すことになるということである。
こうした危機は、実際に、幕末において、朝廷に各政治勢力が影響力を及ぼし、勅命の内容がその時々の朝廷において有力化した政治勢力の意思に左右されることになった状況下で顕著に見られたことであった。
大久保の認識は、そうしたことの懸念の延長の上に位置づけることが出来る。
と同時に、こうした懸念が生じる前提として重要なのは、「公議輿論」はまた、それだけでは、「正統」な政治決定としての地位を獲得することはなく、やはり、勅命によって媒介されなければならないということである。
おそらく、そこから大久保のような後に明治国家の建設を担うに至る人々において、次のような考え方が確立されていったものと思われる。
すなわち、実質的な政治決定に関して、その内容を確定する方法を合理化すること、そして、そのことで初めて、それを勅命として発する天皇の権威も安定的に確保されるという考え方である。
無論、それは、直ちに議会制などの民主的制度を整えることを意味しなかったであろう。
にもかかわらず、ここで重要なことは、天皇の統治の「正統性」の確立は、天皇個人や朝廷のそれに直属する人々に政治的意思決定を委ねることを通してではなく、むしろ、その政策決定内容の正当性に基づくこと、そして、そうした政治決定を生み出しうるような何らかの合理的な制度の創出が必要であるという考え方があったということである。
この考え方は、明治期以降になって、伊藤博文によって、宮中と府中の区別、ならびに内閣制度の創設などを通して現実に移され、それが「立憲主義」の確立へと導かれていくのである(この点に関しては、たとえば、坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』参照)。
ここで改めて、「しらす」という天皇の正統な統治を表現する観念の具体化として、明治期以降の日本の「立憲主義」の歴史を跡づけることも可能であろう。
すなわち、天皇は、「公議輿論」のあり方を察知し、それを自らの意思として表明することで、その「正統性」を維持し、「立憲主義」の確立は、いわば、こうした天皇の「正統性」の確保と不可分の関係に立つという観点から、明治期以降のわが国の国制の発展を眺めてみるのである。
戦前期の尾佐竹猛などの「憲政史」と称される歴史叙述は、明治期以降の日本の立憲主義発展の端緒を明治天皇の「五箇条の御誓文」に求めていた。
戦後の憲法学説は、これまで述べてきたような事情から、こうした「憲政史」の歴史記述の伝統を重視することはないようである。
しかしながら、戦後の民主主義的価値観を過去の日本の国制との連続性のうえで理解しようとするなら、このような伝統はやはり無視しえない意義を有している。
すなわち、わが国の「立憲主義」は、明治天皇が発した「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」という宣言に発するのである。
もとより、この宣言は、当初の原案で「列候会議ヲ興シ・・・」とされていたようにように、そのまま、後に確立されるような議会制度を意味するものではなかった。
にもかからわず、この宣言が、幕末からの「公議輿論」観念を継承したものであり、わが国の「立憲主義」の歴史において画期をなすものであったことは否定できない。
「五箇条の御誓文」では、それに続けて「皇国未曾有ノ変革ヲ為サントシ 朕躬ヲ以テ衆ニ先ンジ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立テムトス」と述べられている。
ここでは、まさしく、目下の国家と国民が置かれている現状を認識するという意味での「しらす」ということを通して、「万機公論」が宣言されたことが示されている。
こうした「五箇条の御誓文」での宣言が、明治八年の「立憲政体の詔書」でより具体化し、さらに明治十四年の「国会開設の勅諭」において、わが国の議会制度の創設が公約されて帝国憲法制定へと結実していく過程については、詳しく触れるまでもないであろう。
ちなみに、こうした一連の天皇の意思表示は、言うまでもなくわが国の「憲法」を構成している。
すなわち、この過程を法的な過程として眺めるなら、まさしく、こうした一連の天皇の意思表示による「憲法」の積み重ねを経て、「立憲主義」が発展してきたと言えるわけである。
大日本帝国憲法は、既に見たごとく、天皇を「統治権」の「総攬」者である旨を定め、ヨーロッパの立憲君主制理論を導入して、天皇が実質的な政治決定の主体でもあることを明言した。
しかし、この場合においても、立法権については、議会の「協賛」すなわち承認が必要であるとされ、また、行政権についても、大臣の「輔弼」によってなされると定められていた。
このような「立憲制」」を今日的観点からいかようにも批判することは可能であろう。
しかしながら、いわゆる天皇親政ということも、実際は、天皇個人による決定とは異なったことが意図されていたことが、ここでは重要である。
ただ、にもかかわらず、天皇が「統治権」を「総攬」すると定められたのは、そもそも明治国家が「王政復古」によって誕生したという考えに由来するものであることはここで断わるまでもない。
そして、そうした立場に立つ限り、おそらく、「天皇」以外の機関に「統治権」が所属することを明言すれば、それは、かつての幕府政治の復活であり、天皇は「虚器を擁するに過ぎない」という批判が起きることが予想され、それは是非とも避けねばならない事態であったであろう。
そうしたことへの懸念は、自ら徳川幕府を打倒して、新たに権力の地位に就いた明治国家のリーダー達にとってリアルなものであったと思われる。
この点で興味深いのは、明治十五年にかわされたいわゆる主権論争で、民権派に対抗する論陣を張った福地桜痴の議論である。
福地は、民権派の議会主権や国家主権といった論議を批判して、「君主主権」を力説したが、その際、「主権ノ帰着ハ理論ナレバ」、これが天皇にあるとか、国会にあるとか定めたところで、さしあたり「立憲帝政ニ於テ法ヲ制シ政ヲ施クノ実際ニハ多分ノ別異モナカルベシ」と述べていた。
にもかかわらず、「君主主権」を主張したのは、日本の国制の歴史ならびに明治維新の過程を念頭に置き、そのことが持つ長期的な意義を考慮したためであった。
福地は言う。
徳川幕府が崩壊したのは、幕府が「悪い政治」を行ったためではない。
むしろ、「国体」上の原則から、幕府が「正統な政府」ではないとされたからである。
今後も、その統治内容の良否とは別に、同様の批判が惹起される余地がある。
議会が開設されて、イギリスと同様、「議院政になつて国の主権がパーリアメントにある時には矢張り混同して議院幕府」だという非難が起きる可能性があるのである。
従って、天皇に「主権」があるとする「国体」の原則は、議会政治という「政体」を採用して「輿論」による政治が行われる場合でも、明言しておく必要があるというのである(拙稿「福地源一郎の政治思想」)。
ここには、幕末期に幕府の側にいて政局の推移を見守った福地の実際の体験が反映しているが、その後の歴史の推移を見る限り、福地の懸念は根拠のないものではなかった。
たとえば、昭和期になって、近衛文麿による「一国一党」的な国民組織の樹立が意図されたときに、それが幕府政治復活であり憲法違反だという非難が起きて挫折したのである。
日本国憲法は、このような「王政復古」イデオロギーからすれば、場合によっては、幕府政治という非難を招きかねないものかもしれない。
制定当時の人々において、日本国憲法が「国体」を否定するものと見做されたのもそのためである。
しかしながら、幕府政治を批判する「王政復古」イデオロギーそのものが、「国体」についてのあくまでひとつの解釈に過ぎないという点が重要である。
既に述べてきたように、ここでは、「国体」観念の新たな解釈をもとに、日本国憲法を意味づけようとしている。
幕府政治であるという批判を回避するという配慮は、維新後間もない時期において、明治国家の誕生の事情を考慮しなければならない状況によって生まれたものであり、今日の「国体」解釈が、依然としてそれに拘束されねばならない理由はないであろう。
ところで、帝国憲法制定に至る過程を政治史的に見れば、それは、単に天皇の意思表示が積み重ねられていく過程ではなく、様々な現実の政治的な動きが複雑に絡み合っている過程であることは言うまでもない。
明治政府の当局者が、すべてこうした「立憲主義」に同意していたわけではない。
権力の地位にいる者の常として、可能な限り、天皇の権威を独占しながら現状を維持したいというのが、その本来の望むところであったであろう。
にもかかわらず、民権運動による国内からの圧力や、条約改正のための近代的な政治制度の整備の必要という対外的配慮も無視しえないものであった。
そうした様々な政治力学の拮抗するなかで、帝国憲法制定への道が準備されていったのである。
ただ、ここで重要なことは、わが国の「立憲主義」は、天皇の権力と権威に対する国民の闘争ではなく、天皇の権威の承認という共通の前提のもとで、権力を独占した藩閥政府のリーダー達と、そこから疎外された人々との間で、その政治的意思決定に対して天皇から「正統性」が授与される政治主体は誰かという点をめぐる闘争を通して発展したということである。
この点で興味深いのは、明治期において、わが国の「立憲主義」の実現を唱えた人々が、民権運動の活動家も含めて、「君民一体」の理想の実現としてわが国の立憲制度の確立を捉えていたということである。
たとえば『自由党史』(明治四三年)は、「民の富は朕の富なりと宣へるが如く、民の富既に天子の富たらば、民の強も亦た天子の強にして、貧富強弱、憂楽喜戚、倶に與に君民水魚の関係を保維せざる可らざるは、王朝の古よりして殆んど不文の憲法として存在せる所の大義なり」と述べ、こうした「不文の憲法」の現実のあらわれが「維新改革」に他ならないとしたうえで、「直ちに立憲政体を確立して、君民和協の名義を完くし、以て万世不抜の丕基を定むる」ことこそ、「維新改革の精神」をより一層拡充することに他ならないと述べている。
『自由党史』が「不文の憲法」という言葉を用いていることは、「憲法」の原義に忠実であって、それ自体興味深いが(ちなみに、「五箇条の御誓文」については、「立国の憲法」と称している)、それはまた、われわれの文脈に即して言えば、彼ら自身の「国体」解釈と見做すべきものであり、そうした「国体」解釈から必然的に導き出されるものとして、立憲政体を位置づけているのである。
無論、『自由党史』は、明治末年に記されたものであり、帝国憲法の施行の後に確立されていった「天皇制イデオロギー」によって語られた物語であると見ることも出来よう。
しかしながら、民権運動が戦われていた時期から、明治維新と「五箇条の御誓文」を議会制度設置要求の根拠とするといった論理の立て方は広く見られたところであり、また、藩閥を攻撃する際に、それが「君」と「民」との間にあって、上下の意思疎通を妨げるものという見地から批判するという論法もしばしば用いられた。
たとえば、民権過激派による加波山事件の際の檄文には、次のような一節がある。
「奸臣柄を弄して、上聖天子を蔑如し、餓?道に横たわりて吏検するをなさず。国会いまだ開けず、条約いまだ改まらず、言路を壅蔽して志士を逆遇す。かくの如くにしてなお数年を経過せば、国運の前途まさに図られざらんとす。吾人あに黙して止むべけんや」。
民権派は「君民一体」の理念を掲げていたが、それは、彼らの闘争が微温的なものであったことを意味しない。
彼らの闘争は、右の加波山事件をはじめとする激化事件に至るような激しい性格のものであった。
にもかかわらず、そうした過程を、西欧の「市民革命」の物語を援用して、絶対主義王権に対する闘争として叙述することは、果たしてどこまで正しいのであろうか。
もとより、そこでは、明治天皇の発した個々の意思などが問題ではなく、天皇を頂点とする客観的な支配体制 - 「天皇制」との闘争が問題なのだという考え方もできるであろう。
そして、民権派の人々の「尊王観念」は、彼らが明治政府と闘争しながら、イデオロギーの面では、その敵に絡めとられてしまったことのあらわれであり、わが国の「ブルジョア革命思想」の限界を示しているとするのが、これまで、かなりの間一般的であった理解と言ってよいであろう。
しかしながら、この「天皇制」の考え方自体が、いや言葉そのものが、昭和初期、ソヴィエト主導のコミンテルンが、その世界革命の戦略の一環として日本を位置づけるために制作した物語に由来し、日本では講座派と称される人々によって継承されていったものであって、それ自体が、もともとソヴィエトの公定イデオロギーに発するものである。
そうした点は今は置くとしても、そもそも、講座派的理解は、学問的にも妥当なものであろうか。
講座派は、江戸時代をいわば「純粋封建制」と見做した上で、明治維新を、あたかもフランスのルイ十四世の治世にも比肩されるような絶対主義体制の確立と捉え、民権運動をヨーロッパの絶対主義王政下に誕生するブルジョアジーの「民主主義革命運動」と理解するのである。
欽定憲法路線が確定したことは、そのまま、わが国の「市民革命」の挫折を意味し、わが国は、その後、絶対主義体制を維持したまま、「天皇制」という特有の「軍事的半封建的」な支配システムを確立していくと説かれるのである。
「八月十五日革命説」が憲法学者の間に唱えられたり、戦後改革が日本の真の「市民社会」誕生の契機となるといった考え方が知識人の間で広く抱かれたのは、こうした講座派的な日本近代史理解に立って、敗戦後の政治的・社会的な変化に、ようやく到来したブルジョア革命を何とか見出したいという願望が反映していたといってよいであろう。
講座派的見地については、当初から、明治維新をブルジョア社会の誕生と見る労農派からの批判をはじめとして多くの批判があり、とりわけ様々な観点からの江戸時代史の研究の進展するなかで、江戸期の社会発展の実態が従来考えられていた以上に高度なものであることが明らかにされ、講座派の「純粋封建制」などといった理解も成り立ち得なくなっていった。
これに対して、講座派自身においても、このような批判を意識して様々にその見解を修正する試みがなされてきたが、最近十数年来のマルクス主義自体の知的権威の失墜もあって、講座派的歴史理解は往年程の影響力を喪失しているのが現状である。
しかしながら、マルクス主義による見解がどうであれ、そもそも、今まで見てきたように、近代日本における天皇の政治上の地位と国民意識の形成との関係は、フランスをはじめとするヨーロッパのそれとは全く異なった様相を呈しているのである。
すなわち、幕末から明治にかけての国民観念の形成や、それに伴う「立憲主義」や「民主化」の進展をフランス革命における絶対王権に対する「第三身分」の抗争という物語で理解することは誤りであり、同様に、明治期以降の帝国憲法制定に至る過程についても、ヨーロッパの立憲君主制の確立に見られるように、本来、強大な実質的な権力を有していた君主が、その権力を次第に一般国民に委譲していくという過程として理解することも適切ではないと言えよう。
日本の場合は、そもそも、実質的な政治決定の権能を持たなかった君主が、あくまで「正統性」の淵源としての政治的地位を明確化しながら、しかも、その「正統性」の保持の方法が、各政治勢力の対立抗争のなかで、立憲的制度の創出という方向へ合理化していく過程として見ることがことの真相に適うものといえよう。
すなわち、天皇の「正統性」は、「公議輿論」に立脚して初めて安定的に維持されうるという認識が広がるなかで、わが国の「立憲主義」の発展が試みられたということである。
こうした見地に立つとき、わが国の民権運動を「ブルジョア革命運動」と見做して、その思想上の「限界」を云々し、そこに本質的な欠陥を見出すこと自体が、日本国憲法の解釈理論の場合と同様、本来それにそぐわない物語を強引に挿入した結果に過ぎないことが明らかになろう
もとより、民権運動自体が、西欧の民主主義思想や「天賦人権」の観念、あるいは、アメリカ独立革命やフランス革命の物語から様々な示唆を受けていたことは事実である。
すなわち、そこには、様々なレベルでの他国の来歴の借用があったのである。
従って、今日、民権運動を研究する際に、こうした影響関係に着目して、その点についての考察を深めるということが、重要な営みであることは言を俟たない。
また、わが国の「立憲主義」や「民主主義」の様々な側面を欧米と比較しながら検討したり、評価したりすることも欠かせぬ作業である。
しかし、西欧思想の影響があったということは、天皇の権威に対抗するために、そうした西欧の論議が援用されたことを意味するわけでは必ずしもない。
そもそも、広く西欧の制度や思想を参照して、わが国の新たな国制を築き上げるべきことは、やはり、「五箇条の御誓文」の「知識ヲ世界ニ求メ、大イニ皇基ヲ振起スベシ」のうちにあらかじめ包摂されていたと考えられるのではなかろうか。
ところで、こうした見地からの「立憲主義」発達の物語は、昭和期の軍部が政治的に台頭した時期においても、まさしく、それを批判する論拠として援用されていた。
度重なる軍部批判で議会から追われることになる斎藤隆夫は、その有名な「粛軍演説」の一節で次のように述べている。
「我が日本の国家組織は建国以来三千年、牢固として動くものではない、終始一貫して何ら変りはない。また政治組織は明治大帝の偉業によって建設せられたるところの立憲君主制、これより他にわれわれ国民として進むべき道は絶対にないのであります。故に軍首脳部がよくこの精神を体して、極めて穏健に部下を導いたならば、青年軍人の間において怪しむべき不穏の思想が起こるわけは断じてないのである」(『回想七十年』)。
ちなみに、斎藤は、敗戦後、日本進歩党の創立に参加したが、その綱領の冒頭には、「国体ヲ護持シ、民主主義ニ徹底シ、議会中心ノ責任政治ヲ確立ス」とうたわれている。
そして、斎藤本人も、戦後の第八十九回帝国議会での質問で、「如何に憲法を改正するとも之に依つて我が国の国体を侵すことは出来ない、統治権の主体に指を触るゝことは許されない、是は論ずるまでもないことでありまして云々」と述べていた。
昭和の軍国主義が、あたかも帝国憲法体制の必然的産物であったかのような見方が一般化している。
しかしながら、軍国主義の台頭については、むしろ、当時の日本が置かれた国際環境の方を重視すべきであろう。
確かに、後にも述べるように、帝国憲法が、統帥権の独立など、その構造上、軍部勢力の政治的台頭を許すような構造的欠陥を有していたことは否めない。
これは、天皇の実質的な意思決定の制度が、帝国憲法においても十分に合理化されたものとはならなかったことのあらわれであろう。
また、当時の「国体明徴運動」に見られるように、「国体」についての余りに偏狭な解釈が多くの人々を苦しめたことも事実である。
このことは、今後、「国体」という観念を解釈していく上で十分に留意しなければならない点であるし、それはまた、言論の自由をはじめとする人権諸規定の意義を改めて再認識させたという点で、わが国の憲法の歴史に貴重な教訓を残したと言うべきであろう。
しかし、こうした事実をもってして、帝国憲法で「天皇」が「統治権」を「総攬」するとされていることから、直ちに軍国主義が導き出されたという結論を出すことは、いささか短絡に過ぎる。
なぜなら、昭和の軍国主義は、天皇個人の政治的意向が「軍国主義」化し、天皇がそれを「叡慮」として貫徹しようとして生じたものではないからである。
天皇に「主権」があるとされていたことを直ちに軍国主義の台頭と結び付けるのは、むしろ、既に見たような平和と民主主義を一体として捉える戦後の物語に由来し、さらに、そうした民主主義の形成のあり方について、フランス革命をモデルとして評価するような思考態度から生まれてくるものである。
しかも、奇妙なことに、そこでは、フランス革命が徴兵制を生み出し、それ以降の戦争が、全国民レベルで戦われる全体戦争と化して、より過酷なものとなっていったという事実は何故か忘れ去られているのである。
斎藤の例は、帝国憲法下の熟達の議会政治家の憲法感覚からして、軍部支配が異常なものであったことを如実に示すものであろう。
われわれは、帝国憲法のもとでの憲法生活に関して、あまりに戦中派的な体験に捉われすぎているとは言えないであろうか。
ここで戦中派というのは、軍国主義以前の帝国憲法体制を経験せず、異常事態のもとでの帝国憲法体制をそのままその本質として受け取った人々であり、しかも、戦後の世論形成に大きな影響力を有した世代である。
これに対して、斎藤は、より立憲主義的な慣行によって運営されていた帝国憲法体制を経験しており、それゆえ、自らを帝国憲法体制の正統な担い手として位置づけて軍部を批判し得たのである。
われわれもまた、軍国主義への批判と、帝国憲法体制そのものの評価とを区別する視点を持たねばならないであろう。
さて、戦後の日本国憲法も、明治期と同様、天皇の「しらす」という行為を端緒として制定されたと見るべきである。
興味深いことに、日本国憲法が制定された昭和二十一年の新年、
昭和天皇によって、後に「天皇の人間宣言」と称されることになる詔書が発せられている。
この詔書が発せられた状況やその本来の意義について論じる前に、まず指摘しなければならないことは、天皇自らが神格を否定して人間であることを宣言したのだから、天皇制度は根底的に変化を遂げたのだと主張される際、そうした主張が如何に憲法感覚を欠如したものであるかという点である。
そもそも、天皇は憲法から自由にあらゆる行為をなしうるものなのか。
その時期の天皇の位に就いておられる方の見解や発言がすべて効力を持つわけではない。
それは、あくまで、憲法典と、それを含めたあらゆる「実質的な意味の憲法」に則るものでなければならないはずである。
天皇の統治が、天皇の恣意的なパーソナルな支配ではないことは、帝国憲法において確定されており、それは、幕末期の「非義の勅命は勅命にあらず」という大久保利通の言葉にも示されていたところである。
同様なことは、現憲法下における仮設的な想定として、万が一、その時の天皇位に就いている方が天皇制度を廃止しようという意向を発した場合に、どのように考えるべきかという問題にも当てはまる。
天皇自らが神格を否定したことが、たとえ、ある人にとって好ましいことであったとしても、その人が、もし正当な憲法感覚を持っているなら、単にそのことを歓迎して済ますのではなく、憲法学的な見地からそのことの意味と法的効力について、改めて考察しなければならないであろう。
もっとも、この詔書は、もともと天皇のイニシアティヴによるものではなく、占領下という異常事態のもとで、占領軍の半ば強要によって発せられたものであり、その限りで法的効力に疑問の余地のないものとは言えない。
しかも、そこでの「神格の否定」とは、英文で書かれた原テキストを見る限り、天皇は、キリスト教のような一神教的な「神」、すなわち God ではないという、当たり前のことが言われているに過ぎない。
すなわち、この詔は、天皇の意義について、日本においては当然とされていることを、占領軍の意向に従って、改めて確認するために発せられたものに過ぎないと解釈すべきである。
日本で「神」とは、時に「野球の神様」といった表現に見られるように、「神」を God と捉える限り、信じ難いような文脈で用いられうる言葉である。
日本語の「神」がどのような存在であるのかについては、さしあたり本居宣長の「尋常ならず、すぐれたる徳のありて、可畏きもの」という定義を念頭に置こう。
すなわち、人間であれ、動物であれ、自然の事物や現象であれ、人々に常ならぬ感銘と畏れを感じさせるものが「神」と称されたのである(このことは、各神社の御神体とされるものを一瞥すれば明かであろう)。
こうした「神」が、世界の外側にあってそれを創造し、それ故、現世と人間を超越するような絶対的な存在としての God でないことは明かであろう。
にもかかわらず、英語の原文「The Emperor is divine」という箇所を「天皇ヲ現御神トシ」と致命的な誤訳をしたことが、天皇は日本的な意味においても「神」ではないとする宣言と解釈される余地を作ってしまった。
これが問題なのは、「現御神」は、後にも見るように、天皇の本質を語る言葉だからである(参照、大原康男、前掲書)。
従って、この部分は、あくまで誤訳であることを徹底させるか、あるいは、そもそも無効であると解釈すべきであろう。
ただ、そうした個々の部分に関する論議を含めて、異常な状況下で発せられたこのような詔書の意味については、日本国憲法の場合と同様、占領軍側の意向を受け容れる際の日本側の主体的契機が何であったかという点に着目して解釈しなければならないであろう。
この「天皇の人間宣言」が出された当時の昭和天皇の真の意向は、三十年後の記者会見で明らかにされた。
それによれば、昭和天皇にとっては、「五箇条の御誓文」の意義を再確認することにその本来の意味があり、「神格とかそういうことは二の問題であった」とされて、次のように述べられているのである。
「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います」(高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』)。
実際、「天皇の人間宣言」の冒頭には、「五箇条の御誓文」が引かれているが、しかも、それは、占領軍が用意した原文にはなかったものであって、昭和天皇自身の意向によって加えられたものであるという。
詔書では、それに続けて「朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ」という文章が続いている。
この詔書が日本国憲法が制定された年の初頭に発せられたことを鑑みるとき、先の憲法改正の上諭との関連が自ずから明らかになってくるであろう。
もとより、ここでの関連とは、昭和天皇自身がこの時期に憲法改正をどの程度実際に意識していたかということではなく、あくまで法的な論理の連関である。
すなわち、こうした法的な連関を想定することは、日本国憲法を「五箇条の御誓文」以来のわが国の立憲主義の伝統に位置づけることを意味するのである。
すなわち、日本国憲法は、昭和天皇が、明治天皇によって発せられた「立国の憲法」である「五箇条の御誓文」に対して、敗戦の原因についての反省や戦後の劇的な情勢の変化を勘案して、新たな解釈を下したうえで、帝国憲法の「改正」を「裁可」し「公布」した結果、誕生したものに他ならない。
いま引いた部分の「平和主義」や「教養」を強調した箇所や、その先の部分の「人類愛ノ完成」への言及は、「五箇条の御誓文」の「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ」、「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ」、「智識ヲ世界ニ求メ大イニ皇基ヲ振起スベシ」を新たに解釈して説かれていると受け止めることが出来よう。
すなわち、天皇は、時代と情勢の変化、また、国民のこれへの態度を「しろしめした」うえで、日本国憲法制定に対して「正統性」を付与したのである。
日本国憲法の制定が占領軍の意向によるものであったことは繰り返すまでもないが、改めて振り返ってみると、それが、帝国憲法の一定の改良としての面を有していることも見落とすべきではないであろう。
帝国憲法は、天皇に直属するとされた各国家機関が、それぞれ割拠独立して行動することを許すような構造的欠陥を有していた。
しかも、その場合、天皇が「立憲君主」に徹して、パーソナルな命令や指示を控えることで、そうした欠陥が、かえってより顕著にあらわれることになった。
帝国憲法下の各国家機関は、具体的意思を発動しない天皇の名のもとに、それぞれの権限の行使や主張を自由になしえたからである。
帝国憲法の制定以前から生存し、ある意味で憲法外的な個人的権威を持つ「元老」たちが健在な間は、彼らは、彼らの後輩である各国家機関の長たちに対して、その個人的な権威を行使して、各機関の間を調整することで、帝国憲法の円滑な運用が可能であった。
しかしながら、こうした「元老」が次第に死に絶え、帝国憲法下の政治体制が、昭和期以降、数々の内外の難問に直面するに及んで、帝国憲法は、その潜在的な欠陥を露呈したのである。
もとより、如何なる憲法といえども無条件に完璧なものではない。
帝国憲法も、条件に恵まれれば、大正期に確立した「立憲主義」的運用が、準憲法的な慣習としての地位を獲得するに至って、安定的な統治を可能にしたかも知れない。
しかしながら、実際は、昭和期になって、軍部勢力の台頭を許し、「憲法破壊」と称されるような現象まで生じて、帝国憲法体制そのものが大きく変質を遂げようとしていたのである。
帝国憲法の改正の結果誕生した日本国憲法は、国会が「国権の最高機関」であり、「唯一の立法機関」である旨を定め、議院内閣制を明示的に規定したことで、帝国憲法の多元的性格を、少なくとも法律的文言のうえでは克服したと見做すことができるかもしれない。
しかしながら、他方で、帝国憲法を批判することが、そのまま日本国憲法体制について無条件の賞讃を与えることであってはならないであろう。
日本国憲法は、日本が戦後のある種の鎖国状況下に置かれることで、帝国憲法が直面したような試練を未だ経ていないと言えるからである。
最近の内外の情勢は、日本国憲法の体制についても、単なる「国民主権」原則の確認のみならず、その全体的な構造に関しても、新たな検討が必要であることを示唆している。
とりわけ、各国家機関の割拠独立性が真に克服されているのか、戦争や災害など非常事態における集権的な権力行使のあり方についてどのように考えるべきかといった点についての検討が、現在の日本の憲法学、さらには政治哲学の喫緊の課題となっていることは言を俟たない。
さて、以上に概観したわが国の国制の歴史から、われわれは、日本が政治領域において他国に類例を見ない特異な道筋を辿ったと見做すべきであろうか。
確かに、日本の国制は、日本に特有の歴史的条件に規定されたものである。
しかしながら、そうした特有の歴史環境のなかにおいても、権力が一定のルールのもとに抑制されるべきであるという「立憲主義」と、政治的決定権が人民の間に下降していくという意味での「民主化」が、わが国に独自のあり方を通して実現されていったことがうかがわれるのである。
それは、近代化という現象が各国や各地域において、様々な形態を取るのと同様であり、特殊を通して普遍に至るということのひとつの例なのである。
その意味で、日本は、世界から孤立した異質な国制の歴史を有しているわけではない。
われわれは、このような日本の国制の歴史に関して、劣等感も優越感も抱く必要はない。
あくまで、われわれ自身の歴史として、受け容れるべきなのである。
無論、民主化をひとえにフランス革命の物語で理解し、日本もそうした物語に沿った道筋を辿らねばならないとする要請や願望には、とりわけ知識人において依然として根強いものがあろう。
ただ、そのような物語を信奉する人々は、自らが口にする「国民」や「人民」といった言葉が、現実に日本という国土に生活する人々を指すものではなく、あくまで、フランスという他国の物語に登場する観念的存在であることに、もっと自覚的でなければならない。
実際、彼らが、フランス革命の物語に同化しながら、そうした方向への改憲論を現実には主張しえないのは、彼らが、現実の多くの日本国民からは孤立していることを密かに感じ取っているからであろう。
もとより、繰り返し述べるように、外国の法学的・政治学的な理論の知識そのものには、貴重な示唆を与えるものが多々あることは言うまでもない。
しかしながら、そのような知識は、とりわけ憲法のような領域においては、あくまで、日本の歴史と現実の国民の意識に即して活用するのが本来のあり方であろう。
最終更新:2014年04月29日 16:48