<目次>
◆1.日本国憲法第一条の解釈
日本国憲法第一条が、日本国憲法の制定の時点で打ち出された新たな原理を表明したものではなく、日本のそれまでの国制のなかに一貫していた「国体」の原則を新たな解釈を加えて表現したものであることは既に述べた。
これまで概観してきたわが国の国制発展の歴史を念頭において、改めて日本国憲法第一条を眺める時、それは、どのように解釈されるべきであろうか。
日本国憲法第一条は、日本国憲法の国制の根本部分を規定するものであって、それを解釈する際、これまで見てきた、幕末以来のわが国の「国体」の観念と「立憲主義」の形成の歴史、また、「五箇条の御誓文」を始めとするそれぞれの「憲法」をすべて考慮に容れた上で、その意義を確定しなければならない。
以下で示すのは、あくまで試論的な解釈のひとつであることを断ったうえで述べていこう。
改めて、第一条を引けば以下の通りである。
「(1)天皇は、(2)日本国の象徴であり (3)日本国民統合の象徴であつて、(4)この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
(※(1)~(4)は原文にはない便宜的な符号)。
◇(1)「天皇」の意義
さて、始めに「天皇」の意義である。
ここで、まず一言しておくべきは、ここで、天皇の地位が、「主権の存する日本国民の総意に基く」とされていることを捉えて、天皇の制度が、あたかも、日本国憲法によって初めて創設されたかのように解すべきだとする説についてである。
この立場は、しかし、根本において無理がある。
というのも、いま、われわれが、「天皇」という言葉や観念について一切の事前の知識を持たないで、日本国憲法や皇室典範の文言だけで「天皇」の意味を確定しようとしても、それは不可能だからである。
すなわち、日本国憲法は、既に存在していた天皇の制度に言及して、それを憲法典のなかに取り入れていると解釈しなければならない。
事実、憲法学者も、一般の人々も、無意識に日本国憲法の文言以外の様々な淵源をもとに天皇について語っているのである。
その際、天皇が、「実質的な意味の憲法」に属する観念であることの自覚がないまま、外国の君主の観念を適宜援用したり、宗教学や民俗学的な見地から、論者各様に天皇の意味を定めて、天皇を論じているのが現状である。
そして、一般の人々においては、甚だしい場合は、天皇が一個の制度であることを忘れて、現在の天皇の位についている方の個人的な性向や考えを論じることが、天皇について語ることであるかのような錯覚さえ横行している。
先の「天皇の人間宣言」が引かれる際の一般の態度にもそうしたきらいがある。
細川護煕氏や村山富市氏の個人的な考えや趣味などをいくらあげつらっても、「総理大臣」という観念の意味を確定することにはならないであろう。
「天皇」は、何よりも制度であり、また、「天皇」という言葉は、科学的述語のように、研究者によって任意に定義可能な操作的な用語ではない。
とはいえ、このことは、天皇の意義について、唯一不変の絶対的なものがあることを意味しない。
あくまで、「天皇」という制度が、わが国の国家制度上どのように位置づけられてきたのか、また、「天皇」という言葉が、律令体制をはじめとして過去の法制において何を意味していたのかということを跡づけて、そうした過去の実践とそれへの解釈の集積をもとにしたうえで、現在の実践的関心に即して、解釈学的にその意味を確定すべきである。
それは、やはり、英米における判例法的な解釈手続きに似たような作業であって、いわば、高次の憲法学に属する探求であり、それには、天皇に関する「神学」と呼びうるような識見を必要とするであろう。
こうした前提に立った上で、宗教学や民俗学的見地からの探求もまた、憲法学の補助的理論として有益な寄与をなすと言うべきであろう。
このように「天皇」の意義を考えるとき、まず重要なことは、天皇についての「実質的な意味の憲法」とは何かという問題であろう。
この点についての細部にわたる論議に立ち入ることはここでは出来ないが、一言だけ述べておけば、新たな天皇の即位の際の「大嘗祭」の公的な挙行が必要か否かといった論議は、何よりもまず、「天皇」とは何か、すなわち、ある方が「天皇」と称されうるには、どのような要件が必要とされるかという、重大な問題と関わっているのであり、しばしば論議される「信教の自由」の条項との関係は、その次に位置する問題である。
現行の「大嘗祭」の儀式の各部分につき、明治期になって新たに整えられた部分が多いといったことを主張して、その伝統を疑問視する向きがあるが、これは、そもそも、伝統ということを取り違えて、単に本来の形態をそのまま保持することが伝統の維持だと考えている点で誤りである。
伝統の維持とは、それまでの形態の本質と思われる部分を、その都度、解釈を通して確認して、新たな形を与えて、その活性化を図ることである。
従って、重要なのは、その時点での儀式の改変や拡充が、どのような意図と認識のもとになされたかということである。
様々な事情から、やむを得ず伝統を逸脱するという意識のもとになされた場合は別であるが、そうした改変や拡充が、本来の伝統に合致するという認識に立脚しているなら、それは、十分、伝統の名に値する。
同様に、「大嘗祭」が途絶していた時期があることを挙げて、それが必ずしも必要ではないとする主張がある。
この場合も、そうした途絶が当時においてどのように評価されていたかが問題である。
「大嘗祭」を経ない天皇が「半帝」とされていたことは、自ずからその問題の答えとなるであろう。
次に、こうした「大嘗祭」を皇室の私事として行うべきだとする見解であるが、皇位に就かれる方が、真の天皇となられたか否かは、天皇によってその「統合」が「象徴」される「国民」が共通して確認すべき事項であることは言を俟たない。
従って、もちろん、公的儀式として行うべきことが憲法上の要請である。
「大嘗祭」と「信教の自由」の条項との関係については、既に多くの文献があるから、ここでは、「大嘗祭」の挙行が、この条項に関して、最高裁によって出された「目的効果基準」に適うものであるが故に合憲であるという点のみを指摘しておこう。
すなわち、「政教分離規定」は、いわゆる「制度的保障」の規定であり、国家や自治体の宗教への関わりが、その目的と効果のうえで、少数者の信仰の自由を実質的に損なわない限り、社会儀礼の範囲内で、国や地方公共団体が、宗教行事に関係することは許されるとする趣旨である。
ただ、改めて考察するなら、そもそも、「大嘗祭」のような儀式は、日本国憲法の根幹に関係するものであり、単なる宗教儀礼というよりは、各国の建国の式典にも類比される国家儀礼であり、一般の私人や団体の宗教行事に国家や地方公共団体がどのように関わりうるかといった事例をもとに考察するのは、必ずしも妥当ではない。
従って、公的な挙行を前提にしつつ、その一方で、国民の信教の自由が実質的に犯されないことに配慮するのが本来のあり方であろう。
この点については、後に改めて触れよう。
◇(2)「日本国の象徴」
次に「日本国の象徴」である。
これが、「日本国民統合の象徴」と同じ意義を持つのか否か議論のあるところである。
ここでは、「日本国民統合」を後に述べるような理由から、近代国民国家としての日本における国民観念の成立を念頭においた文言であり、「日本国」は、近代国民国家としての日本をも内包しながら、むしろ、主として建国当初からの日本という国家を指示するものと捉えよう。
さて、「象徴」については、議論百出、明確な定義を与えることは容易ではないが、従来のように、「象徴」を、単に消極的な概念として片付けるのではなく、むしろ、「象徴」ということの原義に即して、本来無形で不可視の存在に、改めて可視的な形象を与えることで、それについての実感的理解を可能なものにするという意味で、むしろ積極的な概念として理解すべきである。
時として「象徴」は「代表」と異なるとされ、その理由として、代表という言葉は、同質のものが他の同質のものを全体として表現する場合に用いられるという具合に説かれることがあるが、ここでは、C.シュミットの「代表」概念が、日本国憲法の「象徴」概念を理解するのに参考になる。
そもそも、シュミットの「代表」の原語は、Repres?ntation であり、訳者によっては、「再現前」と翻訳されうる言葉である(和仁陽『教会 公法学 国家』)。
シュミットは言う。
「代表(再現前)は規範的な過程、手続でなく、また方法でもなく、《実存的なもの》である。代表(再現前)するというのは、目に見えない存在を公然と現存している存在によって見えるようにし、現在化することである。・・・・・・このようなことはいかなる種類の存在についても起こりうることではなく、特殊の存在を前提とする。たとえば、死せるもの、劣等のものまたは無価値のもの、下等なもの等はこれを代表(再現前)することはできない。これらのものには、公然たる存在として引立たせ、《実存》させるに価する高度の存在が欠けているのである。偉大、高貴、尊厳、名声、威厳および名誉というような言葉は、高度の代表(再現前)されるに価する存在の右のような特性をいい当てようとするものである。単なる私的なものおよび単なる私的利害にのみ役立つことがらは、なるほど代理されることがあり、代理人、弁護人および代表者を見出すことはあっても、特殊な意味において代表(再現前)されることはないのである。・・・・・・代表(再現前)の理念は、《政治的統一体》として実存する人民が、何らかの共同生活を営む人間集団の自然的存在に比し、より高尚な、高度で強度な存在を有することに基づいている。政治的実存のこのような特殊性の意味がなくなり、人間がこれと異なる存在様式を選ぶならば、代表(再現前)というような概念についての理解もなくなるのである」(阿部照哉他訳『憲法論』245-246頁、傍点(※注:ここでは《》内)は原文、(再現前)は引用者による補足)。
シュミットの「代表」=「再現前」は、単なる「規範的な過程」でもなく、「手続」や「方法」でもなく、「実存」するものであるとされているが、このことは、天皇の「象徴性」を理解するうえで、「象徴」をともすれば抽象的・観念的関係として捉えがちな従来の多くの解釈 - 既に紹介した和辻の議論もそうだが - に比べれば、より有益な示唆を与えてくれるように思われる。
和仁氏によれば、Repres?ntation という言葉は、「上演」をも意味し、従って、この概念には、「ペルゾーン=公人=役柄による何らかのイデアー=理想像の具体的現出という観念が存在し、従って、公共=公衆=観衆(?ffentlichkeit, Publikum)を前にして行うこと=公共性(?ffentlichkeit, Publizit?t)と、それに結びついた(やはり多義的な概念である)可視性と密接な関係にある」という(和仁、前掲書)。
ここで言われていることを理解するには、たとえばシェイクスピアの『ハムレット』の台本(上演されないうちは不可視のイデアーとしてのみ存在する)が、それぞれの役柄に扮した現実の俳優たち(ペルゾーン=役柄)によって、多くの観客(公衆、観衆)の眼前で「上演」、すなわち「再現前」されることで初めて実際の劇として姿をあらわす(可視性=公共性)ような例を想定すればよい。
その場合、台本の解釈によって、様々な演出が可能となるが、劇があくまで台本に即して上演される限りで、その劇は、『ハムレット』たるを失わない。
そもそも、歴代の天皇とは、いずれも、常に存在しながらも、それ自体は不可視であるところの「皇祖皇宗」の神霊が、その都度「再現前」されたものであり、「現御神」とは、まさにその謂である。
なお、従来ともすれば、天皇が、その「御一身」において、「日本国」ならびに「日本国民統合」を象徴すると説かれることがあったが(美濃部達吉『日本国憲法原論』、清宮四郎『憲法Ⅰ(新版)』など)、これは誤解を招き易い解釈である。
このように解釈するから、天皇の生身の「御一身」が如何なる意味で「象徴」でありうるのかといった方向に議論が展開し、「象徴」の意味が、いたずらに不明確になっていくのである。
ここでは、「天皇」とは、先にも述べたように、あくまで制度であるということを念頭におくことが肝要である。
そのことの意味は、「天皇」という観念が、単に単独の個人の身体を指示するのではなく、「天皇」として行うことが定められた一連の行為を内包する観念であるということである。
とりわけ、天皇という制度は、その都度、状況に応じて適宜に活動することを要請されている総理大臣という職務以上に、前もって確立され標準化された行為形式としての側面が大きい。
そして、その行為は、シェイクスピア劇において主人公ハムレットの役割が成立するためには、それを取り囲む他の様々な役柄との共演が必要であるように、ペルゾーンとしての天皇を囲む他の役柄を定められた人々の一連の行為と連関することによって初めて意義を持つということである。
そして、『ハムレット』が、劇として成立するには、観客が必要なように、「天皇」がそうした制度を通して観衆である国民のなかに公然と姿を現すさまが、「日本国の象徴」という言葉に託されているのである。
たとえば、新年参賀の際に、天皇が観衆のなかに姿を現し、観衆がこれに歓呼をもって迎えるという劇的な場面そのものが、日本国を可視的に現前させていると考えればよいのである。
それは、フランス革命記念日のパレードや、アメリカ独立記念日の式典を眺めることで、これこそ、まさしくフランス共和国である、あるいはアメリカ合衆国であるという具合に実感的に理解するということと同様である。
もとより、日本国を可視的に「象徴」するものとしては、富士山や桜花など日本人のそれぞれにおいて様々なものがありうるであろう。
ただ、日本国憲法は、その第一条において、こうした国民それぞれの可視的イメージとは区別された日本国の公的な可視的表現として天皇を想定しているのである。
今日の新年参賀は、伝統によって規定されている度合は低いが、「天皇」の公的行為の多く、とりわけ古代に淵源する儀式が、源初に確立された理念の「再現前」であることは、江戸期水戸学の理論家、会沢正志斎が記している次のような一節からも見て取ることが出来る。
すなわち、会沢は、「新嘗祭」の意義についてまず次のように記している。
「この嘗というのは、はじめて新穀を召し上がって天つ神にお供えしたまうことである。天祖が穀物のよい種子を得たもうたとき、これにより人民を生活せしめることができると思し召し、これを田に植えたもうた。また口に繭を含んで糸を抽きたまい、ここにはじめて養蚕業がおこった。こうしてこれらを万民の衣食の根本とされたが、天下を皇孫に伝えるにあたり、とくに斎庭の稲穂を授けたもうた。人民の生活を重んじ、よい穀物を重視したもうたことがこれからわかるのである」(『新論』、橋川文三現代語訳、以下同じ)。
これは、「新嘗祭」の起源と理念を解き明かした部分であり、以下、この祭を代々挙行していくことの意味が次のように語られている。
「祭りの日には、中臣氏が中臣の寿詞(祝詞)を天皇に奏上し、斎部氏が新璽の鏡と剣を捧げるが、これは代々かならず当初の儀式どおりに行われ、《あたかも新たに天照大神の命を受けるかのようである》」。
「そして諸般のことにたずさわるものたちも、すべてその職を世襲して代々失うことのないものたちで、機敏にその職務をとりさばくさまは、《まったく天孫降臨の日とかわることがない》。こうして君臣ともにその太初を忘れることはあり得ないのである」(傍点(※注:ここでは《》内)、引用者)。
この一節からも、会沢の見るところの「新嘗祭」が、建国当初の理念とされてきたものの「再現前」であることがうかがわれよう。
すなわち、このような儀式は、日本国というものを、それが創設されて以来の時間的経過のなかで変わることのない存在として可視的に現前させることにその意義を有しており、こうした天皇を劇的な中心に据えた儀式が国民という観衆の前で公然と挙行されるまさにそのことが、「天皇は日本国の象徴である」ということの本来的な意味なのである。
ちなみに、戦後の「開かれた皇室」という言葉に託された態度は、天皇を始め皇室の方々の私的生活に異様な興味を寄せて、それを天皇そのものへの関心と錯覚しているものであり、それは、あたかも、『ハムレット』劇に出演する俳優の楽屋裏での個人的な私生活を見聞することで、『ハムレット』劇そのものを享受したような気持ちになるのと同様である。
こうした「開かれた皇室」といった発想が出てくるのも、日本国憲法の誤った解釈により、天皇が「制度」であるという理解が稀薄になったためであろう。
もとより、皇室の方々が、一定の範囲内で、国民の理想的な私生活のモデルとして姿を現すことは、後に見る「国民統合の象徴」との関連でそれなりに認めてよいことかもしれない。
しかしながら、その場合でも重要なのは、天皇の本義は、あくまでこのような古代儀式を含めた「制度」であるということを忘却しないことである。
ところで、日本国憲法に言う「日本国の象徴」が、こうした宗教性を帯びた古代儀式による「再現前」を意味すると考えることには、「政教分離」の見地から受け容れがたいとするむきもあるであろう。
しかしながら、かつてのソ連のように宗教そのものを弾圧しようとした例は別として、国教制度を定めているイギリスや、建国の宣言においてキリスト教の神に言及しているアメリカ合衆国の例に見られるように、国家の基本的構造に宗教的観念を織り込んでいることは、必ずしも異様なことではないし、今日においても、こうした国々の政治的首長が公的発言において神に言及することもしばしばである。
また、「政教分離」についての各国の状況を見れば、宗教と国家との関係が最も緊張を孕んでいるとみられるフランスの事例を含めて、多くの場合、それは、国家と特定の宗派との分離、すなわち、「国家と教会の分離」と解しているのが現状である(大原康男、百瀬章、阪本是丸 共著『宗教と国家の間』参照)。
にもかかわらず、それを「国家と宗教の分離」と厳格に解釈して、国家が、およそ宗教と完全に断絶していなければならないとする考え方は、特定の文化的・歴史的属性を一切捨象したところの、フィクション的な存在に過ぎない「人類」を主体とする物語を自己の来歴と定めた戦後日本に特有の、そしてそれこそ世界から見て異様な状況の産物である。
そもそも、先にも述べたように、日本国憲法が、「天皇」の概念を、全く新たな見地から創出したとは考えられないのであり、そうだとすれば、「天皇」については、やはり、その伝統に即して理解するのが本筋であろう。
そして、日本国憲法のいう「日本国」が、建国当初以来の日本という国家の理念を指示しているとするなら、「天皇」が「日本国の象徴」であるとの文言の意味を右のように解釈することは、きわめて当然のことではなかろうか。
もとより、「日本国」を「象徴」する「天皇」の制度は、右に引いた「新嘗祭」によってのみ成立しているわけではない。
その他にも各種の儀式が伴うし、その間にも、それぞれ軽重が存在しよう。
また、こうした儀式の他にも、天皇の私的生活の場である宮廷で発達した「みやび」のような宮廷文化の伝統をどのように位置づけるかという問題もある。
皇室が担う宮廷の文化的伝統は、直ちに憲法上の意味を持つものではないとしても、後に見る「国民統合の象徴」との関連で、間接的に国制の上での意義を有するということが言えるかもしれない。
ただ、このような点を含めて、「天皇」という制度の全体は、『ハムレット』の台本のように、明確に確定された原型があるわけでは必ずしもない。
従って、そこには、様々な解釈=演出が必要とされる。
また、「日本国」が国際関係のなかに置かれた近代国民国家としての「日本国」をも含むのだとすれば、単に古代以来の儀式に限らず、たとえば今日の外国使節の応接の際の儀式のように、日本国が外国に対して「象徴」される場合も考えねばならない。
その場合、天皇は当然、「元首」としての性格を持つ。
今日において如何なる儀式が必須のものであり、それを現在の社会状況との関連でどのように解釈=演出して挙行すべきか、この点の探求こそ、高次の憲法学、あるいは天皇神学が解明しなければならないところであろう。
もとより、そうした各種の儀式の挙行には、内閣の「助言」と「承認」が必要である。
功利的な言い方であることを承知の上で敢えて述べるなら、世界から単なる経済発展と技術革新の国であると思われている日本が、その国家としての理念を、こうした伝統に立脚した荘厳で優美な古代儀式によって「象徴」している国家であるということが公然と示されるなら、各国の日本に対する見方や態度も、従来とはおのずから異なったものとなっていくであろう。
◇(3)「日本国民統合の象徴」
次に、「日本国民統合の象徴」である。
これは、既に見てきたところの、近世以降のわが国における国民観念成立の歴史を念頭においた文言であると解釈してはどうであろうか。
すなわち、幕末以降の流動化する政治情勢のなかから、「国民」観念が形成され、その過程で様々に競合しあう国民の各部分、あるいは各層が誕生したが、それがいずれも、究極の統治の「正統性」の淵源として「天皇」を仰いだこと、逆に言えば、「天皇」の観念のもとに、「国民」としての「統合」を保ち得たことを、「天皇」が「日本国民統合の象徴」であるという文言で語っているのである。
こうした国民各部分や各層の「統合」が、より意識的になされなければならないことは、近代化が進行するにつれて、ますます切実に認識されつつある。
もともと、近代国家における「国民」とは、自然的に「統合」されている存在ではない。
共産党支持の国民と自民党支持の国民との間に、そのままで「統合」があると言えようか。
その意味で、日本国憲法前文、また、第四三条における「国会」が「国民の代表者」によって構成されると言われる際の「代表」とは、各議員が直ちに「国民」全体の代表者であることを述べたものではなく、それぞれが「国民」の各部分を代表しつつ、その審議を始めとする国会での活動の過程で、「国民」全体を「代表」するに至ると動態的に解釈すべきではなかろうか。
これに対して、天皇は、国民の各部分が共通して仰ぐ存在であるが故に、そのまま直ちに「国民統合の象徴」である。
ここには、フランスの憲法などで、大統領と議会のいずれが国民を真に代表するのかということが問題となるのと似たような状況がある。
日本においては、天皇が、その歴史的理由から、直接的に「国民統合の象徴」であると解するのである。
ただし、天皇が「国民統合の象徴」であることを、より現実的な次元で維持するためには、単にこうしたわが国における「国民」観念形成の歴史に依存するだけではなく、天皇として積極的に行わねばならない行為があるはずである。
その場合、そこでの「象徴」は、「日本国の象徴」と比べると、より緩やかな観念であり、「象徴」としての行為についても、伝統的な儀式と密接な連関を持ったものでは必ずしもなく、「統合」を「象徴」するためのアド・ホクな様々な行為が考えられる。
ただ、「主権の存する国民」という文言との関係で言えば、こうした天皇の行為は非政治領域においてなされねばならないものであり、それには、各種の福祉・救済事業や文化・芸術に関わる行事が考えられる。
その場合、皇室が担う文化的伝統も、大きな意味を持つかもしれない。
あらかじめ「国民」の間に政治的対立が想定されないような行事や領域のなかに、天皇が現前しつつ、それを主宰することを通して、天皇は、まさしく「国民統合の象徴」としての可視的で具体的な実質を獲得し、それを維持していくのである。
重要なことは、それが、実質的な政治決定の権能としての「主権」の保持者である「国民」の間で未だ決定を見ない政治的問題に関わるものであってはならないということである。
というのも、天皇が、国民のある部分が支持している決定内容について、それが国民全体の決定となる前に、それを支持するような発言や行為を行えば、それは、国民のある部分にのみ関わることになり、「国民統合の象徴」ということに反することになるからである。
この意味で、「主権の存する国民」と「日本国民統合の象徴」という二つの文言は、きわめて密接な内的な連関を持っており、しかも、それは、フランス革命の物語によって解釈された「国民主権」の理念が要請するところではなく、むしろ、幕末以来の大久保利通の言葉が示唆するような認識、すなわち、「勅命」は「公議輿論」に裏付けられて初めてその権威を維持しうるという政治的叡知が、より合理的な形態を取ったことの結果なのである。
「主権の存する国民」の間での政治決定は、「全国民を代表する選挙された議員」の間の討議と、議決すなわち「過半数」によってなされるとされているが、多数決の結果が、なにゆえ、少数派も含めた「全国民」の決定となるのかについては、議論のあるところである。
通常は、ルソーによる古典的な民主主義理論の基本をなす「一般意思」の観念に基づいて次のように理解している。
すなわち、政治決定は公共のことに関するものであり、それに関わる限りで人々は、単なる私人ではなく「国民」である。
その場合、人々は、自分自身にのみ関わる問題において発せられるべき「特殊意思」ではなく、あくまで、公共の問題を志向する「一般意思」において発言し行動しなければならない。
従って、そこでの多数決とは、個別利益の間に実存する相違を露(あらわ)にするものではなく、何が真の「一般意思」であるのかを推測するひとつの手段である。
多数派は、「一般意思」が何であるかの判断において正しかったのであり、少数派は誤っていたのである。
従って少数派が多数派の決定に従うことは、彼らの個別的利害に反することではなく、そのまま公共のことに尽くすことを意味するのであり、そこにおいて、多数派・少数派を含めた「国民」としての決定がなされたことになるのである。
ただ、今日、実際に行われている政治決定に関して、このような想定が現実に成立するか否かは問題となるところである。
ここでは、このような近代の議会政治の現実を考慮に容れつつ、国会を「国民」の各部分を「代表」するものの集合と捉えた上で、その現実の活動の過程で、「国民」全体を代表するに至ると理解した。
もっとも、このように解したとしても、国会の審議の過程で、国会が国民全体を真に代表するものとなると言えるか否かは、少なくとも現実の政治の実態を念頭におく限り疑問が残る。
このことは、従来の議会制民主主義が前提としているような政治決定の正統性の根拠が動揺していることを意味する。
すなわち、正統性の主体としての単一の「国民」という観念そのものが曖昧なものとなっているのである。
こうした事態を考慮するとき、日本国憲法が、直接的な政治領域以外のところで、シュミットのいう「規範的な過程、手続でなく、また方法でもなく、実存的なもの」として、「国民統合」を可視的に「象徴」している「天皇」が、政治決定の「正統性」を確認し、それを公的に表現すべき旨を定めていることは、民主主義を維持するうえでも、きわめて重要な意義を有していると言わざるを得ないであろう。
ここには、単に日本国憲法の解釈の問題のみならず、およそ、国家というものが安定的に存続するためには、抽象的に理解された法的関係や、今日の一般の政治学が描き出す政策決定の過程からは導出されえないところの何らかの共同性が国民の間においてリアルに実感される必要があり、それは、何らかの可視的象徴や儀式を通してはじめて可能になるのではないかという、より大きな問題が関わっているのである(たとえば、David I. Kertzer, Ritual, Politics, and Power esp. ch.4 参照)。
今日、国家の元首的存在について「国家の象徴」である旨を定めたり、また、国民主権を規定する一方で君主制度を有している国々の憲法において、君主が「国家」、「国民統合」、ないし「国家の統合と永続性」の「象徴」と定められている例がいくつか存在し(スペイン、モロッコ、ネパール、カンボジアなど)、とりわけ、その多くが比較的最近になって制定された憲法条文に見られることは(読売新聞社編『憲法 - 21世紀に向けて』、参照)、今日の政治世界において、上に述べたようなことが意識・無意識のうちに認識され始めたことのあらわれではなかろうか。
もし将来において、天皇の制度が日本の憲法の上で廃止され、かつ議会での審議や決定という手続きそのものが権威を失った場合に、あくまで仮説的に起きうる事態のひとつとして想像されるのは、主権者たる「国民」を直接にそして真に「代表」するものは何かという点が改めて切実な問題となることである。
この点は、今日の憲法学界で、「国民主権」の解釈をめぐって、フランス革命時のいくつかの憲法規定をもとに、「ナシオン(nation)主権」と「プープル(peuple)主権」とを区別する論議が展開されていることからもある程度予想される。
そこでは、「ナシオン」が国民という観念的存在であるのに対して、「プープル」こそは、たとえば選挙人団といった具体的に実存する人民であると説かれ、「ナシオン主権」が代議制を通しての一部特権層の支配を隠蔽する機能を持つのに対して、「プープル主権」こそが、真の人民の支配を意味するといった論議がなされているのである(杉原泰雄『国民主権と国民代表制』)。
しかしながら、仮に「プープル」が具体的な人民を指すとしても、「プープル主権」が、そうしたひとりひとりの具体的人民すべてが直接に支配するということを意味するのか、あるいは、それが実際にどのような政治体制を意味するのかはひとつの問題であり、場合によっては、真に「人民」を代表すると称するものの間で、苛烈な政治闘争が展開される可能性があろう。
王政を廃止して「国民」を政治的権威の源泉と認めた後のテロルの時代を含めたフランス革命以降の過酷な事態や、先年のロシアにおける議会と大統領との激しい対立は、まさしく、そのことが現実となった例である。
◇(4)「この地位」「主権の存する日本国民の総意」
次に、「この地位」と「主権の存する日本国民の総意」である。
「この地位」は、「その地位」とされていないことから、単に天皇の「地位」ではなく、その「象徴」としての「地位」を指すのではないかという説もある。
ここでは、「天皇」とは、単に、その「御一身」ではなく、「天皇」という制度全体を指すと解釈し、また、そうした「制度」そのものが、「日本国」や「日本国民統合」を「象徴」すると解しているから、その点の区別に神経質になる必要はない。
問題は、「主権の存する日本国民の総意」である。
この文言の前半部分は、これまで折りに触れて言及したように、実質的な政治決定の権能が国民にあることを明言したものであり、具体的には、国民から選挙された議員によって構成された「国会」が「国権の最高機関」であり、「唯一の立法機関」とされていることを指す。
これは、一面では、「国体」の解釈に即して、天皇の権威の維持の方法が合理化を辿ったひとつの帰結であり、他面では、幕末以来の「民主化」の到達点であろう。
それでは「日本国民の総意」とは何であろうか。
これは、事実を記述する文言であろうか。
すなわち、「天皇」に関わる「この地位」が「国民の総意に基く」ということは、日本国憲法制定当時の「日本国民」の資格を持つ人々全員について妥当する記述であろうか。
当時の「日本国民」のなかには、共産党のように、「天皇制打倒」を叫ぶ人々もいたのである。
とすれば、この文章は、当時の事実についてリアリズム的に記述するものとは言えないであろう。
そのためか、ここでの「総意」とは、「国民の大方の意思」という程度に解すればよいという説がある(横田耕一『憲法と天皇制』)。
ただ、この説は、日本国憲法の「天皇」をできるだけ「無化」する方向で捉えるべきだとする立場に立っていることに注意しなければならない。
すなわち、もし、「総意」ということを文字通り「全員の意思」に解すると、それが事実に妥当しないことになり、その結果、「総意」をルソーの「一般意思」のように解して、事実と区別された規範的理念としての「国民」について述べたものであるとする解釈が導かれることになり、その場合、かえって「天皇」の地位が強化されることを懸念して、あくまで、これを事実についての記述と解した上で、上のような「大方の意思」と理解するわけである。
すなわち、この部分は、何ら規範的要請を伴うものではないが故に、たとえば、この規定から、「天皇を尊重擁護する義務」などを導くのは誤りだとされるのである。
もっとも、この論者も、同じ第一条の文言において、「主権の存する日本国民」の部分については、規範的要請を含むと解釈するであろう。
そうなると、第一条は、ある部分は事実について記述し、他の部分は規範を語っているということになろう。
しかしながら、日本国憲法第一条のなかに、こうした区別を持ち込むことは果たして妥当であろうか。
むしろ、こうした文章は、全体として、事実について記述しながら、同時に未来についての規範的要請を語ったものと解すべきである。
すなわち、そこでの規範的要請とは、現実に対して、天下り的に設定されるものではなく、あくまで、過去の事実についての記述のなかに内在していると考えられているのである。
こうした事実を記述しつつ、それが規範的要請ともなっているタイプの文章として、たとえば、「アメリカ合衆国は民主主義の国である」というのがある。
この文章は、一見すると単に事実についての記述と受け取れるが、合衆国大統領が、なにがしか「非民主的」な内容の政策決定を下そうとしている際に発せられるなら、ある要請を伴ったものとなるであろう。
同様のタイプの文章として、倫理的な問題が絡む選択の前に立たされて、「自分は正直者である」と語る場合が考えられる。
この場合も、「自分は正直でなければならぬ」という未来に向けての規範的要請がそこに含まれていることは言うまでもないであろう。
法律の文章は、すべて上のような、何らかの行為の選択という場を想定した文章であり、それゆえ、事実記述の形態が、そのまま規範的要請となるのである。
ところで、過去及び現在について記述しながら、同時にそれが未来に向けて、ある種の行為のあり方を要請しているような文章の構造は、われわれに何かを想起させないであろうか。
しかり。
それは、まさしく、われわれの見てきた物語あるいは来歴の構造そのものなのである。
無論、第一条は、来歴や物語のように過去形を用いることをしていない。
しかしながら、そのことの意味は、それが、単に記述の時点での事柄を語っているからではなく、そうした事柄が、現在及び将来のいずれの時点においても現前すべきことを想定し、そうした現前の瞬間を念頭に置いて現在形が用いられているのである。
その限りで、そこでの現在形は、「2に3をプラスすると5になる」という命題の場合と同様である。
ただ、上に見た二つの文章や憲法第一条の例が右の数学的命題と異なるのは、そこで語られている事柄が、論理的・数学的命題が指示するものとは異なり、過去から現在にかけての事実でありながら、同時に未来のいつの時点においても現前すべきであるという要請を通常以上に強調するために、本来は過去形で語られるべきものが将来に引き寄せられて現在形になっているということである。
このように見るとき、日本国憲法第一条は、日本の国制の従来のあり方を物語りながら、それを将来に向けての要請として語っている文言だということになるであろう。
ただし、ここで問題となるのは、過去及び現在の事実について語っているという場合の「事実」の意味である。
ここでの「事実」とは、眼前に生じている可視的事態を指すものではないということである。
むしろ、「国民統合」の「国民」が「国民観念」を指しているように、観念や理念が展開されてきた過程としての事実を語っているのである。
その際、「主権の存する」の部分は、先にも述べたように、幕末以来の日本の「民主化」の過程を念頭に置きつつ、日本国憲法制定時点での到達点を宣言したものであり、「日本国民の総意」ということは、形成されてきた観念としての「国民」が、その意味構成において、すなわち、その定義上、「天皇」を「象徴」として仰ぐという意思をその属性としていると捉えるべきである。
この点に関して、ここでの「総意」を単に「意思」と解すればよいとする説もある。
ただ、敢えて「総意」という言葉を用いているのは、日本国憲法第一条が、「日本国民」について、天皇との関連では、複数の類型ではなく、単一のものを想定しており、その定義上、「天皇」を「象徴」として掲げる「意思」を持った存在であるとされてきた「事実」を強調するためであろう。
もとより、このような「事実」は、観念の成立について物語的に記述されたものであり、そうした観念が、個々の場合に、どの程度に現実に妥当してきたかは別の問題である。
しかし、およそ、法律の文章は、現実をリアリズム的に描写することを目的とするものではなく、現実を規制すべき観念のあり方、ここで改めて佐々木惣一の言葉を借りれば、「社会的事象」ではなく「法律事実」を語るものであることに留意しなければならない。
すなわち、「日本国民の総意」とは、歴史的に形成された「日本国民」という理念に関わる属性について述べ、さらに、それを未来にわたる規範的要請として掲げているのである。
ただし、法律の規範的要請は、国民の日常生活において、すべて一律の強度を有すものではない。
この「総意」に関わる規範的要請がどの程度の強度を持つか、すなわち、どの程度の法律的義務を課すことを要請しているかは、各国の例も参照して決定すべきであろう。
ただ、その際考慮すべきは、一般国民と天皇との関係について、かつての封建的な君臣関係のモデルで理解すべきか否かという点である。
この点について、日本国憲法には「臣民」という言葉はなく、また、あの「天皇の人間宣言」においては、「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ」とされており、後の記者会見でも、
昭和天皇は、「皇室もまた国民をわが子と考えられて、非常に国民を大事にされた。その代々の天皇の伝統的な思召しというものが、今日をなしたと私は信じています」と語られている。
すなわち、その全体の趣旨からして、天皇は、「国体」についてのご自身の解釈に基づき、従来ともすれば強調されてきた君臣の間の絶対的区別の観念を緩和したものと見做すことができる。
従って、天皇と国民との間には、封建的な君臣道徳ではなく、国民の側の敬愛の念を保った穏やかな信頼の関係が要請されていると解釈すべきであろう。
この点から見ると、「象徴侮辱罪」といった罰則規定はあるいは考慮することが可能であるかもしれないが、帝国憲法下の「不敬罪」のような規定は、やはり問題であろう。
◆2.いわゆる日本国憲法の三大原則
以上で、日本国憲法第一条の解釈を終えるが、ここで、日本国憲法の三大原則とされているものについて、いくつかの補足を加えておこう。
三大原則とは、(1)国民主権主義、(2)平和主義、(3)基本的人権である。
(※(1)~(3)は原文にはない便宜的な符号)
◇(1) 国民主権主義
第一番目のものについては、以上の記述以外に、さしあたり付け加えることはない。
◇(2) 平和主義(非武装の考え方)
二番目の平和主義に関しては、既に戦後の来歴について語った部分において、多くのことは述べておいた。
日本国憲法前文のしかるべき部分と、その第九条とりわけ第二項が、「平和と民主主義」に関わる「人類」の来歴に由来するものであり、根本的な見直しが必要であることは改めて繰り返すまでもないであろう。
ただ、第九条第一項の一般的な平和主義を宣言した規定は、日本が一九二八年の不戦条約を締結しており、また、日本が加盟している国連の憲章、そして、今日の国民世論の見地からも、そうした趣旨の条文を存続させるのが妥当であろう。
ここでの問題は、日本の「実質的な意味の憲法」、とくに「国体」との関連で、非武装の考え方をどのように理解すべきかという点である。
江戸期以前にまで遡って「国体」を考察するとき、「国体」は対外的軍備の保持に関して、どのような要請を掲げているとみるべきであろうか。
実質的な対外的常備軍を有さない時期も長期にわたっているから、日本が、ことさらに戦争を志向する国であったということはできないであろう。
ただ、対外的常備軍を設けないことが、敢えて規範的要請とされていたと解釈する根拠もない。
逆に、対外的常備軍を設置すべきであるということは、「国体」の強い規範的な要請であろうか。
先の会沢の「国体」解釈では、日本は、「武を以て国を建て」たことを国柄とするとされており、そうだとすれば、対外的常備軍の設置は、「国体」上の要請のようにも解せられよう。
しかしながら、このような解釈は、当時の国際情勢に対する認識をもとに、武士階層に特有の伝統を、そのまま「国体」として理解した結果ではないだろうか。
帝国憲法は、徴兵義務を規定したが、その論拠として、たとえば『憲法義解』は、「上古以来我が臣民は事あるに当て其の身家の私を犠牲にし本国を防護するを以て丈夫の事とし、忠義の精神は栄誉の感情と倶に人々祖先以来の遺伝に根因し、心肝に浸漸して以て一般の気風を結成したり」と述べている。
すなわち、帝国憲法は、水戸学以来の国際認識を継承しながら、古代律令国家の国制を念頭に置いて、そこでの兵制の観念を媒介にしつつ、武士的伝統を徴兵制によって全国民化しようとしたと言えよう。
興味深いのは、徴兵制に関しては、当時から、それが「四民平等」の原則の実現であるとする議論が広く行われていたという事実である。
すなわち、武器を帯びて国を護るという栄誉が、ひとり武士階級の特権であったような事態を克服して、全国民がこのような栄誉に与ることになったとするものである。
この点を、たとえば、明治の史論家、竹越三叉は次のように述べている。
「此に於てか平民は一段進みて、士族と共に肩を比べて、国家防護の栄職に上るの機を得たり」と(『新日本史 中』)。
平等化の進行と徴兵制度の設置が並行することは、フランス革命が、普通選挙と義務兵役制をもたらしたとされることからも(R. カイヨワ『戦争論』)、ある程度、近代の世界の動きに普遍的な道筋と言えそうである。
日本の場合は、律令国家の制度の再解釈を行い、その後に登場した武士階層の生き方を、全国民のそれへと「民主化」して継承することで、こうした世界史の普遍的道筋に沿った動きに参画することになったのである。
もっとも、明治国家においては、それを取り囲む国際環境もあって、日本の「武備」を尊ぶ伝統が過度に強調され過ぎたきらいもある。
そうした傾向が、果して、「国体」の要請するものであるか否かは、議論の余地があろう。
全国民が常に兵士であるべきか否かについては、「国体」は必ずしも明示的な解答を与えていないように思われる。
戦前期までの全国民の武士化の反動として、戦後においては、社会的安全の維持を武士階級に依存し、自らは経済活動を始めとする私的領域での活動に専念していた町人階層の価値観が、より平俗化した形で過度に行きわたりすぎた傾向がある。
「町人国家日本」という言葉は、国際社会において、秩序の維持という武士の役割をアメリカという外国に依存しながら、自らは、国際社会の町人に徹した日本の姿を象徴するものである。
ここで、言いうることは、どのような軍事制度を設置すべきかは、その時々の国際環境に依存するものであり、およそ自衛権そのものを放棄することは論外として、「国体」は、この点についてかなり広い選択の余地を与えていると解釈すべきである。
ただ、如何なる場合においても、ある種のバランスが必要なように、われわれは、目下の国際情勢を勘案しつつ、武士的伝統と町人的伝統との好ましい調和の姿を模索すべきであろう。
もし、この点に関して、憲法が改正されるなら、その出自の疑わしい現在の自衛隊は法的には一旦解散し、新たな国軍を創設するという手続きを取るべきであろう。
その場合に注意すべきは、軍事に参画することを、日本国憲法第十八条の「奴隷的拘束」や「その意に反する苦役」と解してはならないということである。
国民のどの範囲に人々が実際に軍事に関わるかは別として、兵役に参加することが栄誉と考えられていたという事実は、戦後という特別な時期は別にして、日本の歴史の上で一定しており、そのことを敢えて否定すべき積極的理由も乏しいからである。
軍事に関わることへの栄誉の授与ということを、どのように制度の上で表現していくかは、将来の憲法改正の際のきわめて重要な課題であろう。
◇(3) 基本権の尊重
次に、基本権の尊重である。
帝国憲法の臣民権利義務の諸規定は、「五箇条の御誓文」の「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ」と、「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス」に由来すると解するべきである。
『憲法義解』は、「臣民権利義務」の章の解説において、日本の太古以来の伝統において、天皇が人民を「大宝」として愛護の念を注いだことを挙げ、「上に在ては愛重の意を致し、待つに邦国の宝を以てし、下に在ては大君に服従し自ら視て以て幸福の臣民とす」という「我が国の典故旧俗に存する者」が、臣民権利義務の「源流」であると解釈している。
その意味では、かつて中江兆民が指摘したように、帝国憲法の臣民の権利は、「恩賜の民権」と称すべきものであって、西欧の自然法的な人権ではない(『三酔人経綸問答』)。
もっとも、このことは、当時の日本国民が、単に受動的に「臣民権利義務」を授与されるような存在であったことを意味しない。
帝国憲法制定以前に民間において案出された数々の憲法草案に定められた権利義務の規定からも、そのことはうかがわれるし、とりわけ、租税の対価として政治参加の権利があるという論理は民間において広く見られたところであり、しかもそれは、単に西欧の憲法理論による影響に留まらず、近世の村落運営のあり方の伝統のなかに存在していたものでもあった(参照、鈴木正節「国民国家構想と天皇」、『近代の天皇』所収)。
また、江戸期の百姓一揆についても、単に困窮の故の自然発生的な暴発ではなく、既得権とはいえある種の権利意識に基づくものである場合も多いことは既に指摘されている。
このような現実に対応して、明治期においても、日本の国民が、歴史的に見ても、常に強力に「人権」を主張してきた存在であったという議論が、たとえば、民友社の山路愛山のような論客によって展開されていたのである。
愛山は、「人権」といった観念をもっぱら「欧州の産物」と見做して、もっぱら権力への服従こそが日本の「国体」であると説くような論議を批判し、古代以来、日本の人民は、支配者の専横に対しては直ちにこれと戦い、「自己の権利を防衛し得べき力量あるを自覚すると同時に必らず其悪む所の政府を覆えして、其好む所の政府に更へんと」してきたと記している。
愛山によれば、古代の律令国家の成立は、氏や姓といった「豪族」の専横に対する人民の反抗に応えて、朝廷が新たな国家体制を創設し、それ故に人民がこれを支持した一例であり、それ以降の政治変動においても、それぞれの政治支配者は、人民の権利を無視しては、その支配を保ち得なかったというのである(「日本に於ける人権発達の痕跡」。明治三十年)。
これに対しては、従来から、こうした伝統的な権利意識が自然法的な人権とは言えないことが指摘されるのが常である。
しかしながら、西欧においても、多くの場合、人々の権利の主張は、何らかの具体的な歴史的伝統のなかにその根拠を求めてなされたのであり、それが、普遍的な「人権宣言」のような形をとるのは、アメリカやフランスのように、伝統から切り離されたり、従来の伝統が完全に崩壊したような状況が生じた場合においてであり、まさしく、過去との断絶としての「革命」の物語が想定されたような状況においてである。
わが国が、普遍的な人権宣言を発するような歴史的事実を持たなかったことから、直ちにわが国の権利意識のあり方を問題にするのは、これまた、他国の革命の来歴に無意識に支配されていることのあらわれであろう。
ところで、日本国憲法の「国民の権利及び義務」はどうであろうか。
日本国憲法では、各権利の主体は、「臣民」ではなく「国民」とされ、しかも、条項によっては、外国人を含めた「何人」も権利主体となりうるとされている。
すなわち、権利の規定としては、より充実した面が見られ、それは、もはや、単なる「大宝」の「権利」ではなく、普遍的人権をうたったものと見てよいであろう。
このような普遍的人権は、如何にして日本国憲法に取り入れられたのか。
これも、やはり、「五箇条の御誓文」の再解釈としての「天皇の人間宣言」に由来するものと見てよいであろう。
とりわけ、そこで「人類愛ノ完成」がうたわれ、その結果として、「臣民権利義務」が拡大されて、「何人」をも含めた一般的な人権規定へと発展したと考えるべきである。
すなわち、天皇は、当時の国際情勢と日本国および国民の現実を配慮して、わが国の新たな憲法が、普遍的な人権の規定を取り入れるべきことを「裁可」したのである。
これを依然として「恩賜の民権」と呼ぶか否かは、ひとつの問題たりうるが、実際の人権規定の解釈においては、この点が大きな問題となる例は殆どないであろう。
人権規定の解釈については、欧米を始め各国の事例をも勘案して適切な結論を得るべきである。
帝国憲法下の「臣民の権利」の規定が不十分なものであり、そのことが、「表現の自由」や「良心の自由」の実現に様々な問題をもたらしたことは事実である。
確かに、明治国家は、少数者の権利の保護に関して寛容ではなかった。
そのことは、たとえば明治期のキリスト者や社会主義者への対応についても示されている。
明治国家は、既に記したように、特定の「国体」解釈に立脚した、ある限定された意味での「革命政権」としての性格を有していた。
そうした新しい政権としての性格が、異論に対して不寛容な姿勢をもたらしたのである。
ただ、治安維持法制定以降軍国主義に至る過程での人権の制限や抑圧は、帝国憲法体制の最大の欠陥を示すもののように考えられているが、この時期の日本の人権状況を考えるに当たっては、単に、政府対国民という対置の図式にのみ立脚するのではなく、この時期以降、日本が国際的な冷戦を開始したのだという事実も考慮しなければならない。
ここでの冷戦とは言うまでもなく、ソ連とのそれである。
冷戦は、第二次大戦後、ソ連とアメリカ合衆国との間で初めて開始されたものではない。
そのように考えるのは、アメリカ合衆国の物語で国際情勢の推移を理解しようとするからである。
一九一九年、モスクワで世界革命の指令部としてのコミンテルンが結成され、さらにその意を受けて、日本共産党が、大正十一年に結成された時点で、日本は、ソ連との冷戦に突入したのである。
治安維持法の制定は、ひとつには、こうした国際情勢への対応としての面を持っていた。
すなわち、それは、ソ連のボルシェヴィキの指示を受け、さらにその組織原理をもとに結成された反体制団体に対処するには、従来の治安法規では不十分であるという認識のもとに制定されたのである。
もともと、ソ連という国家は、公式の国境線の内外にわたって「階級敵」および「人民の敵」と不断に抗争し、これを抑圧もしくは殲滅することを国是とする国家であった。
国内では、それが、数百万にわたるクラークの大粛清をはじめとする各種の迫害・虐殺、さらには巨大な収容所群島の出現としてあらわれた。
国外では、コミンテルンの指令下にある各国共産党によって現地の政治体制を内部から打倒することが、その国家方針となった。
治安維持法下の特別高等警察と日本共産党との闘争は、必ずしも、それまでの国内の政府対反政府勢力の闘争の延長上に位置するものではなく、大日本帝国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の新しい形態の国際的戦争としての側面があることを見落としてはならない。
もとより、ソ連の公的な対外政策も、その来歴が要請する方針にのみ立脚していたわけではなく、ひとつの国家としての現実主義的配慮も大きく作用していた。
すなわち、米ソの冷戦がそうであったように、現実の日ソ間の公的な外交関係には様々な局面があり、ひとえに対立と敵対のみがあったわけではない。
しかしながら、治安維持法下の日本共産党への政府当局の対応を考察する際には、やはり、こうした国際政治の要因を勘案しなければならない。
冷戦が終了した今日からみれば、共産主義建設の試みは、「二十世紀最大の悲劇」とでも称しうる結果をもたらした営みであることが明かとなった。
七十年にわたるこのような営みの結果、経済領域の破壊はもちろん、社会生活の精神的基盤や文化的歴史的伝統を完全に荒廃させてしまった旧ソ連邦下の人々の悲哀と苦難には想像を越えるものがある。
彼らが今後新たな来歴を模索していく道程には、われわれ日本人が想像もつかないような困難が横たわっているであろう。
しかしながら、戦前期の冷戦開始以降の日本においては、マルクス主義が、知識人を中心に非常な魅力を備えており、また、それに対抗するほどの魅力を備えた思想や観念を合理的に展開することも容易な作業ではなかった。
大正期末から昭和の軍国主義の時代にかけて、ナショナリズムや国家社会主義的傾向を帯びた様々な思想潮流が登場し、「国体」観念についても、きわめて偏狭でヒステリックな解釈が横行することになったが、それは、ひとつには、マルクス主義に思想的に対抗しようとする努力のあらわれであったと解釈できる。
しかし、それは必ずしも成功せず、そこから、治安立法によって共産主義思想そのものを抑圧するという方向が強化され、それが、共産主義者以外の多くの人々をも苦しめ、様々な人権の抑圧を招くことになったのである。
しかしながら、このことが、帝国憲法の「臣民権利義務」規定の欠陥に由来すると一概に言えないのは、四半世紀遅れて、ソ連との本格的な冷戦を開始したアメリカ合衆国において、「赤狩り」としてのヒステリックなマッカーシズムが吹き荒れたことを見ても解る。
治安維持法や各種の軍事的な機密保護法下の人権状況が、戦後の帝国憲法に対する評価に大きな影を落とすことになった。
しかしながら、改めて振り返ると、ソ連においては、当時の日本ほどにも、人権規定が意味を持たなかったことも考慮しなければならない。
ソ連もまた、日本の治安維持法を凌駕するような治安法規を持ち、共産党権力の便宜のために逮捕されたり迫害されたりした者の数や割合は、日本のそれをはるかに越えるものがあった。
もし、この冷戦において、日本共産党の目標が達成されていれば、日本において、どのような事態が展開したであろうか。
それは、単なる日本の国内体制の社会主義化を意味するだけではなく、日本の対外的主権がソ連の支配下におかれることを意味したであろう。
そして、おそらく、一般庶民を含めてブルジョアや地主と見做された人々はもちろん、自由主義者やマルクス主義者、さらには日本共産党内部の反ソ連派と見做された人々もすべて、いずれも「人民の敵」という普遍的で包摂的な観念に含まれ粛清されたということも十分想像しうる。
その結果、日本にも収容所群島が出現したであろう。
そして、かつて、ソルジェニツィンが痛恨の思いを込めて回想したような光景(『収容所群島』)、すなわち、新たに樹立された共産党政府から招かれた欧米各国からの知識人達が、ショウウインドウ的に設置された施設を案内されて、極東における新しいユートピア建設の試みに賛辞を送るといった光景が日本でも見られたかもしれない。
無論、こうした事態を想像することは、戦前の人権状況をことさら弁護することを意味しない。
確かに、戦前までの日本においては、冷戦ということを抜きにしても、政府当局者や一般の人々において、人権についての感覚は十分ではなかったと言えよう。
今日、この点についての反省は決して怠るべきではないし、人権感覚の拡充が依然として今日的課題であることも忘れてはならないであろう。
しかしながら、そもそも、人権がそれなりに擁護されるようになったのは、欧米諸国においても、植民地が失われ、人種差別が漸次撤廃されてきた、きわめて最近のことに属するのである。
以上に述べたことは、従来ともすれば、日本の国家体制における本来的な人権感覚の希薄さとして解釈されてきたような事態も、別の観点から考察が必要であることを指摘したまでに過ぎない。
すなわち、二十世紀に特有の国際環境を無視しては、この問題についても適切な理解が得られないということなのである。
最終更新:2014年04月29日 16:40