お袋に『今日は受験勉強をちゃんとしたの?』と聞かれたときに、やってもいないのに『した』と答えるのは罪
悪感を感じるし、かと言って正直に『やっていない』と答えて夕食時の会話が小言で埋め尽くされるのもさすが
にどうかと思うので、少なくとも『した』と答えられるぐらいは勉強をしておこうと、昼食後の数時間を学習机
に向かってすごした時にかぎって予想していた質問を母親からされることも無く、少々拍子抜けしながらも風呂
に入りコタツに寝っころがりながら、たいして面白くも無いのにゴールデンタイムに冠番組を持っているコンビ
芸人のたいして面白くも無い番組を見るとも無しに眺めていると電話が鳴り出した。
台所で洗い物をしているお袋の『ちょっと出てー』と言う声を聞きつつ、妹が風呂の入っている状況では電話に
出る事が出来るのは俺ぐらいなので、仕方なくコタツから這い出ると立ち上がり受話器を取った。
「もしもし」
『やあ、キョンかい』
昨日も聞いた聞き覚えのある声。
「佐々木か」
『ああ。キミが直接電話に出るなんて珍しい。てっきりキミの母君か妹さんが出るものだと思っていたよ』
たまたま電話の近くに居たからな。
『そうかい。僕としてはキミの母君と会話をするのが楽しみだったんだがね』
くっくっといつもの調子で佐々木が笑う。
「それは俺にとって楽しくない結果になりそうだ」
『なにそんなに警戒することはない。ちょっとした世間話をするぐらいのものさ』
成績をお前と比べられる俺の身にもなってくれ。
『それはすまない。…ところで本題なんだが、キミの明日の予定はどうなっている?』
「明日か?予定は特に無いな」
『それは残念』
なんだそりゃ?
『朝から晩まで自主学習の予定が入っている。という答えが返ってくるかと期待していたんだが』
そいつは強烈な皮肉だな。
『すまない。僕としては軽い冗談のつもりだったんだが、気を悪くしたかい?』
いや別に。
『それはよかった』
本気でほっとしたような声が聞こえる。
『それではあらためて聞こう。明日の予定はどうかな?』
「朝から晩まで自主学習の予定が入っている」
佐々木の言うとおりに答えると、電話の向こうでくっくっと笑い声がした。
『そうか。では勉強の邪魔をして悪いんだが、明日参考書を買いに行くのにつきあってもらえないだろうか?』
「参考書?駅前の本屋へか?」
『駅前への買い物に保護者を必要とするほど僕は幼くは無いつもりだよ。駅前の本屋へはもう既に行ったんだが、
僕が必要としている参考書は置いてなかったんだ。だからもっと大きい本屋に行きたいんだけど…』
なるほど。二つ隣の市へ行けばいくらでも大きな本屋はあるが、一人で行くのは心許ない、と。
『あそこの地下街は何度行ってもよくわからない。まさに迷路のような街だ』
まあ日本一ややこしいと言われている地下街だしな。
「だからと言って、俺と行っても迷わないとは限らないぞ」
何度か行ったことがあるとはいえ、家族で私鉄のターミナル直結の百貨店で買い物・食事というパターンがほと
んどだ。
『同じ迷うにしても一人と二人では大きな違いがあるからね』
確かにな。なに、迷ったときは地上に出ればいいんだ。地下よりはよっぽど方向感覚が働くと思うぜ。
このあと待ち合わせ時間と場所を決め、それからまたしばらく会話をしてから電話を切った。
「キョン君、電話だれー?」
俺が電話を切るのを待ち構えていたらしい風呂あがりの妹がさっそくまとわりついてきたが、正直に答えるとま
た大声で母親に報告に行くのが目に見えているので適当にあしらいつつ、自分の部屋に戻った。
翌朝、強い風にふらつきながら自転車を走らせ、銀行の前に駐輪して時間を見ると約束の5分前。待ち合わせ時
間に遅れるのは論外だが、早く来過ぎるのも相手に気を使わせると思うので、5分前とはなんて良いタイミング
だと自画自賛しつつ待ち合わせ場所の駅前に向かうと、佐々木も同じ考えなのか、ちょうど通りの向こうからや
ってくるところだった。
「やあ、キョン。どうやらいま来たところのようだね。それにしても今日は風が強くて冷たいね。いわゆる木枯
らしと言うやつかな」
暖冬暖冬と毎年のように言われているが、やはり寒いものは寒い。こんな冷たい風に吹かれ続けていたら、木じ
ゃなくて俺が枯れてしまいそうだ。早く駅の中に入ろうぜ。
改札の前で佐々木はプリペイドカードを取り出し、そんな便利な物を持っていない俺は券売機に並んで切符を買
い、二人並んで改札を抜ける。
「そういえばキョン、今日は家の人に送ってもらったのかい?」
「いや、いつもどおり自転車で来たぜ」
「それにしては駐輪場と違う方からやって来たじゃないか」
まあそれは自転車を銀行の前に置いてきたからな。
「キョン、それは感心しないな。あそこは駐輪禁止のはずだろう。それによく不法駐輪の自転車が撤去されてい
るぞ」
そうか、俺も少しは悪いなと思っていたが。今度からは駐輪場に止めるとするよ。
「それがいい」
そんな会話をしながら二人してホームに降りると、ちょうど特急が発車していくところだった。仕方が無いので
出来るだけ風の当たらない所へ避難して次の特急を待つ。
あたりを見渡すと、北へ向かう路線のホームにいる人は皆一様に競馬新聞を読みふけっていた。俺にも競馬が面
白いと思える日がくるのか?
俺たちのいる東西に伸びる路線のホームには老若男女を問わずたくさんの人が電車を待っていた。東に行っても
西に行っても大きな街があるからな。そんな人たちの中でも向かい側、西行きのホームにいる女子高生?あの制
服はたしか…
「音楽学校の制服だね、あれは」
俺の視線の先に気がついた佐々木が口をはさんだ。なるほど。ここから北へ向かった市にある演劇学校。合格発
表から入学式、卒業式とテレビのローカルニュースで毎年のように採り上げられている。ある意味、究極のお嬢
様学校だ。なるほど、確かに十人中九人は振り返りそうな美人だな。
「キミはあそこの歌劇を観た事があるかい?」
テレビでチラ見ぐらいなら。
「僕は何年か前に劇場で観た事があるんだが、なかなかの衝撃を受けたよ。こんな世界があるのかと。カルチャ
ーショックというやつだ」
「…やっぱりお前も男役のほうがいいのか?」
「それは僕の一人称から来るイメージなのかい?」
佐々木はくっくっと笑い声を上げた。
「なぜ男役が人気があるのかと言うと、『自分もこんな美形の男性と恋に落ちてみたい』という乙女心からで、
つまり娘役は恋のライバルという訳だ。だから娘役は人気が無いんだが、逆に考えると自分を娘役に投影してい
るということになる。つまりどちらがいいかと問われると、娘役がいいと答える事になるね。まあ清くも正しく
も美しくも無い僕がこんな事を言っても仕方が無いんだが」
そんなことはないだろう。清く正しく美しいと思うぜ、一般的に見て。
「…そうかい、キミがそう言うのなら少し自信を持つことにするよ。そうだ、一度いっしょに歌劇を観に行って
みないかい?最近は娘役目当ての男性客も多いと聞くよ」
「遠慮しとく。あの雰囲気が俺に合うとは思えないしな」
「そう言うと思ったよ」
そのうちに向かいのホームに電車がやってきて、音楽学校生ほかの乗客を乗せ走り去った。佐々木は小さくなっ
ていく電車をじっと眺めている。
「ここから西に向かうと日本有数の観光地があるというのに観光目的で行った事は無いな。せいぜい小学校の遠
足で動物園や水族館に行ったぐらいだ。異人館とか一度は中に入って見たいものだが」
異人館か。俺も行った事は無いが結構入場料が高いと聞くぜ。まあ高校生になればクラスの友達とかと行く事も
あるんじゃないか?
「………」
あれだけ饒舌だった佐々木もやって来た東行きの特急に乗り込むと、無言で車窓を眺めていた。なんか情緒不安
定なのかね。
終着のターミナルに着くと復活したのか、口数も多くなった佐々木の用意した簡単な地図を見ながら駅近くの大
型書店を目指した。結局地下街は通らずに歩道橋を渡り、横断歩道を渡り、直線ならたいして時間がかかりそう
も無い距離を迂回しながら、人ごみを掻き分け結構な時間をかけて書店にたどり着いた。その間佐々木ははぐれ
ないよう俺の上着の裾を掴んでいたが、俺は好きなようにさせておいた。まあはぐれてしまってはお互い困るか
らな。
8階建ての大きな書店の参考書コーナーに行くと佐々木の目的の参考書はあっさりと見つかり、する事の無くな
ってしまった俺たちは帰って受験勉強にせいを出すことにした。帰る前に昼飯をどこかで食べるという事で意見
は一致したが。
駅まで戻り、駅ビルの中にあるカレー店に入る事にした。佐々木は一度来た事があるらしく、佐々木お勧めのカ
レーを注文したがこれが辛さ普通のくせに辛いのなんのって、顔中汗まみれだ。って佐々木、お前知ってて俺に
食わせただろう。自分はちゃっかり甘口を頼みやがって。お前の笑い声がどう聞いても必死で笑いを堪えている
ようにしか聞こえんぞ。
「キョン、今日はありがとう。とても有意義な一日だったよ」
いつもの駅前まで戻ってきて、佐々木はそんな事を言った。参考書を買いに行って昼飯食っただけなのに有意義
だったか?
「ああ、僕にとってはね。どんなに頑張っても報われない事もあるってわかったからね」
?報われないって事は無いだろ。頑張って勉強すれば志望校に合格出来ると思うぞ。
「くっくっ、そうだね。まあ『暖簾に腕押し』を実感したってことかな」
なんだかよくわからない事を言っている。急に黙ってしまったり、今日の佐々木はちょっとヘンだ。
「それじゃあ帰って勉強をするよ。まだ昼過ぎだしね。じゃあキョン、また明日学校で」
「あ、ああ、また明日な」
呆気に取られているうちに佐々木は駐輪場の方へ消えて行った。
さて、俺はそのまままっすぐ帰らずに駅前の本屋へ向かった。大型書店へ行ったときに漫画雑誌を立ち読みした
かったんだが、さすがに参考書を買いに来た佐々木の前では遠慮したからな。
本屋の中の参考書コーナーの前を通ったときに、佐々木が買った参考書が置いてあるのを発見した。入荷のタイ
ミングが悪いな。もうちょっと早く入荷していてくれたらわざわざ遠出して買いに行く必要なかったのに。
おわり