39-345「H5N1-変異」

「何しに来たんだ」
「ずいぶんな挨拶だね。もちろん君の看病に来たんだよ」
インフルエンザに倒れて3日目となる土曜日のことだ。
母親が来客と応対していると思ったら、見慣れた顔が俺の部屋に侵入してきた。
「インフルエンザは治ったのか」
「予防接種を受けていたからね、君のように悪化することなく終わってくれた。
 ああ、もちろん感染した日に君が適切に対処してくれたことも大きい。
 ありがとう」
予防接種か。俺はそんな殊勝なことはもちろんやっていない。
「せっかく治ったのに、病人の近くにいたらまたぶり返すぞ」
「あいにくだが一般的な風邪と違って、ウイルス性の病気の場合はそうはならないのだよ。
 同じ種類のウイルスに対しては免疫が出来ているから、その免疫が効いている間はほとんど感染することはない。
 従ってインフルエンザの看病に最も適しているのは、そのシーズンに既に罹って完治した者なのだよ。
 ということをご母堂に説明申し上げて、君に移した者として責任を取りに来たというわけさ」
そういうことなら有り難い。
母親ときたら、父と妹の面倒を見られなくなったら困るという大変もっともな理由で、
感染を避けるためと称して、あまり息子の看病を熱心にしてくれないのだ。
だがそれはそれで三分の理はあるのであまり文句も言えずにいる。
とりあえずさっきから我慢していた下の用を足すため、
佐々木に肩を貸して貰ってなんとかトイレまでたどり着くことに成功した。
「一人で用が足せるかい、くっくっく」
さすがに男としてそのラインは死守する。
とはいえ用が終わると体力が落ちているので行きよりもさらに苦しくなった。
肩を借りるというよりは、佐々木に半分おぶさるようになった。
確かにこれは免疫の無い人間にさせるわけにはいかないな。
自室に戻り、佐々木の手を借りて上半身だけでも下着と寝間着を取り替えた。
湯に浸したタオルで脇や腕を拭いて貰うと、三日分の汗が落ちたようで爽快だった。
それから佐々木の姿がしばらく見えなくなったと思ったら、
俺のマグカップに何やら暖かそうな飲み物を入れて持って来た。
「粥を作ってもまだ食べられそうにないからね。いわゆる蜂蜜レモンというやつだよ」
よく俺の現状を解ってるな。
少し舌に熱いが、十分な甘みとともに飲み込むと、
インフルエンザの熱と違う暖かさが身体の中に満たされてきた。
飲み終わり、カップを片づけてもらうと、一通りやってもらうことは無くなった。
帰るのかと思ったら、佐々木はいつまで経っても帰らない。
「やること無いから退屈になるぞ。帰って受験勉強でもしたらどうだ」
「くっくっく、病人にしては生意気なセリフだね。あいにくだが僕は退屈はしていないのだよ。
 友人の部屋で過ごすこのゆったりとした時間を掛け替えのないものとして楽しんでいるのさ」
何が楽しいのか知らないが、佐々木の顔はとても満足そうで、
取り繕っているようには見えなかった。
「それとも、君が退屈しているのかな」
三日間ほとんど寝るしかしていないからな、確かにそうだ。
「それでは、三日前の話の続きでもしようか。
 ウイルスが我々生物に付属するという話だったね。
 これは単なる哲学ではなく、近年の科学では重要視されつつある考えなのだよ。
 DNAに直接関与することができるウイルスは、生物の多様性に深く関与していると言われるのだ。
 ウイルスにより、DNAが大規模に書き換えられることで、生物が進化するのではないかという考え方だ」
「進化論の一種か?」
 こいつの長話を聞いていると、なんだか自分の調子が戻ってくる気がするから不思議なものだ。
「そうであるとも言えるしそうでないとも言える。
 進化論には決定的な弱点があってね。
 環境に応じて進化したにしてはその進化が急激すぎるんだ。
 その間をつなぐミッシングリングと言われる中間種の化石が見付かっていないのだ」
なるほど、徐々に進化するんならもっと生物は均一性を失っていそうなものだ。
まあ、ホモ・サピエンスの中にもネアンデルタール人みたいなのはいるが。
「しかし、インフルエンザは進化の役に立つどころかただの災害だな」
「そう切り捨てたものでもない。
 鳥インフルエンザが哺乳類にも感染するように変化することを考えると、
 インフルエンザの原種が遙かな昔に哺乳類と鳥類を分岐させたのかもしれないのだよ」

話がえらく壮大になってきたな。
「ではもう少し身近な話で表現しようか。
 少なくともウイルスによって免疫ができたことで、結果として僕は君の部屋に安全に入る生物となった。
 DNAを変えるまでもなく、これも見方によっては進化したといえるのではないかな。
 そして、僕の身体の中で培養され、変質したであろうウイルスは、君に感染して君の身体を作り替えた。
 僕の助けが無ければ満足に動けないようにね。
 同じ人間であってもこのように差を付けるというのはなかなか興味深いだろう」
意図的に作ったのであろう、邪悪な笑みを浮かべて佐々木が俺の顔をのぞき込んできた。
どう考えてもこの俺の状況は退化だと思うんだがな。
「素直に僕の言うことを聞いて着替える君というのは進化していないかい」
お前の身体の中にあったウイルスに作り替えられて言うことを聞かされているわけだが。
「くっくっく、女の僕の身体から男の君の身体に送り込まれたものが
 その身を変質させるというのはなかなか逆説的でかつ官能的だね」
逆説的、と言う言葉がどういうことかと考えて、ああなるほどと思い至った。
「別にウイルスでなくても、人間はどうせ互いに吐き出した空気を吸い込み合ってるんだろうが」
「なるほどね。
 今僕の肺と動脈に満ちている酸素の半分くらいは君の身体を素通りしてきたものに違いない。
 ますます君と一群の生物であるように思えてきたよ」
ああ、人間は吸い込んだ空気に含まれる酸素の大半をそのまま吐き出しているという話だったか。
「お前と一群の生物になったら不自由しなさそうだな」
業腹だが佐々木が来てくれて助かった身として素直な感想が口から出た。
「お褒めの言葉ありがとうと受け取っておくよ。
 しかし、君と一群の生物になるというのはなかなか悩ましい選択だね。
 一群であってもよいが少なくとも僕は君とは別個の生命体でありたいね。
 一体となってしまってはこうして話すこともできない」
一体の生命体が複数の頭を持っていたらどうなるんだろうと考えるとわけがわからんな。
どうやら高熱で頭がおかしくなっているらしい。
「では逆に、もし僕が君とは別種の生命体になってしまったとき、君はどうするのかな」
熱でぼうっとしかかった頭に、佐々木の玲瓏な声が透き通ってくる。
別種の生命体か。少なくとも手の届く存在であってほしいもんだ。
「くっくっく、我ながら柄にもないことを聞いたらこれだよ。
 眠くなってきたのかい、キョン。ゆっくりと休むといい」
優しげな手つきで掛け布団をかけ直してくれる佐々木のシルエットが、重くなる瞼で視認できなくなってきた。
熱のせいか考えがうまくまとまらない中、予言のように妙なことを閃いた。
神様ってのは、進化した別種の生命体なのかもしれない、と。


その命題と対面することになるのもまた、一年半の後のことだった。

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最終更新:2009年03月14日 22:16
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