15-696「キョンと佐々木の消失」-2

「そんな、どうして九曜さんが…」
「九曜さんの真意を、まだ僕らは把握できていなかったはずだよ。何か彼女なりの理由があるのだろう。
それより、なぜ喜緑さんが彼女の名前だけを伝えてきたのかが気になるね、そのまま名前を書けば済むと
ころをわざわざ暗号という形にして」
俺は考える。雪山の古城でも、長門はただ扉の鍵を開けるのではなく、けったいな数式を提示してきた。
それも、俺たち4人の部屋に偽者まで出現させて。あの時の長門のように、喜緑さんにも何らかの負荷が
かかっているんだろうか。
「もしくは、暗号そのものに何か意味を持たせているのかもしれない」
どういうことだ?
「さあね、このような形で情報が伝えられたことに、何らかの必然性があるんじゃないかと考えたまでさ。
僕は直感に長けているわけではないからね、もし意味があるとしたら、それを考えるのは君の仕事だ」
そんなこと言われてもな。正直、長門をあそこまで追い込むような奴に太刀打ちできるとはとてもじゃな
いが思えない。裏技みたいなものがあるなら、教えて欲しいくらいだぜ。
「…仕方がない、少々不安ではあるが九曜さんには警戒するということにして、昨日君が言っていた長門
さんのマンションに向かおうか。何か手掛かりが残されているかもしれない」
警戒したところで何ができるってんだ? 俺はその思いを、口には出さずに飲み込んだ。

緊急事態が起こるたびに歩いている感のある道を経て、俺たちは駅から程近い高級分譲マンションの前に
立った。予想はしていたが、長門の部屋を呼び出してもインターホンに反応はない。だから俺は予定どおり、
タイミング良くマンションから出てきた老婦人に会釈しながら、ハルヒ式に玄関を突破した。
「君はもう少し良識のある人間だと思っていたんだが、僕の記憶違いだったかな?」
7階に向かうエレベーターの中で、佐々木がからかうように聞いてくる。言うな、俺だってあいつに感化
されたとは思いたくないし、今のはあくまで非常手段だ。こら橘、お前までそんな目を向けるか。人攫い
をするような地下組織の幹部に、これっぽっちのことで非難される謂れはないぞ。
見慣れた7階の通路を、先頭に立った俺が部屋番号をカウントしながら進む。702、703、704…
「わぁ、いい眺め。あたし、昔から高いところって好きなんですよね」
なにも全力で脳味噌の軽さを主張することはあるまいに。こいつのこういうところは妙に憎めないから
厄介だ。もっと普通に登場してくれりゃあよかったんだよ。706、707、709…… えっ?
「おい、キョン!」
俺は唖然として立ち尽くす。少なからぬ思い出の詰まったあの708号室は、まさに部屋ごと、完膚なきまで
に消失していた。

「嘘だろ…」
下一桁に4がつく部屋を外す建物ってのはよくあるが、まさにそんな感じだった。何度確認したところで、
707号室の隣には709号室しかない。俺はこの世界の歪みのひどさを改めて実感していた。
ハルヒ達の突然の転校といいその理由といい、やることなすこと無茶苦茶だ。きっと消えた部屋のことも
誰も疑問に思っちゃいないんだろう。指摘されてはじめてその不自然さに気付く、そういう風になってい
るんだ。そんなことを考えながら、俺はふと709号室前からその先に続く通路を眺め……
「ん? どうしたキョン?」
妙な違和感を覚えた直後のひと瞬きの間に、通路沿いの手すりが、ずらりと並んだ無数のカラスで埋め尽
くされていた。そして、そいつらは一斉に首を回して俺たちを―――見た。

俺になにか訊ねかけた佐々木が、後ろで小さく息を飲んだ。首筋がちりちりと疼き、こいつらがまっとうな
存在じゃないことを本能が全力で告げる。くそ、どこから湧いて出やがった。俺は佐々木と橘を背後に
庇い、じりじりと後退する―――刹那、先頭のカラスが甲高い声を上げ、黒い集団が俺たちに飛びかかっ
てきた。
やばい! 咄嗟に両腕で顔を覆った俺の全身に、バシバシと音を立ててカラスがぶつかってくる。痛え、
くそ、息ができねえぞ、早く終りやがれ―――! 意識が飛びそうになる直前にふっと衝撃が止み、俺は
カラスの第一撃を辛うじてやり過ごしたことを知った。ふたりは無事か、と後ろを見れば、佐々木を庇って
床に倒れ込んだ橘と目が合った。その目に二人の無事を確認した俺は、次いで空に目を向ける。
―――いた。敵機に襲いかかるレシプロ戦闘機のような一糸乱れぬ単縦編隊で、カラスの群れは旋回運動
から2回目の突撃に移りつつあった。速い!
「へっ、わわわっ、うひゃあっ!」
間の抜けた橘の声がしたのはその時だった。そして、振り向いた俺は目を見張ることになる。橘の手の中に、
青白い光の矢が生まれていたからだ。

「それを投げろ、橘っ!」
慌てふためく橘に向かって俺は叫んだ。色も形も違うが間違いない、殺虫灯のような音を立てて橘の手の
中で光るこいつは、カマドウマの空間で古泉が使っていたのと同じ類のものだ。視界の隅で、黒い槍のような
カラスの編隊が迫って来る。
「早く!」
「んんっ、もうっ!」
妙な掛け声とともに、橘の手から光の矢が放たれた。それは猛スピードで空を裂き先頭のカラスを貫くと、
後続を巻き込んで爆発。その爆炎の中から数羽のカラスが四方に散っていった。

「い、一体…」
悪いがそんな、私どうなっちゃったんですか? ってな顔で見られても俺には分からん。なぜお前に突如
としてこんな能力が芽生えたのか、いや、そもそもここは閉鎖空間ではないはずだ。じゃあ…ここは一体
なんなんだ? 俺は今どこにいる?
「キョン、考えるのは後だ。それほど余裕ができたわけではないらしい」
佐々木の目線を追って空を見ると、なるほど、新手のカラスが二手に分かれてこちらを目指していた。
一方は逃げ道を塞ぐ形で、もう一方は背後から。鳥類ごときが生意気な、カラスが頭いいってのは本当
なんだな…俺は橘の顔を見る。こいつに古泉のような能力があるのなら、試してみる価値はあるだろう。
「橘、ここから逃げるぞ」
「は、はい。でもどうするのですか?」
「飛べ」
「へっ?」
「いいから飛べ、考えるな、信じろ」
「そっ、そんな無理です!」
「おいキョン、ふざけている暇はないぞ!」
見れば、カラスの二重編隊がすぐそこまで迫って来ていた。頼むぜ超能力者、ここで一発決めてくれ!
俺は橘の手を取り、力いっぱい叫んだ。
「佐々木を守るんだ! やれっ、橘!」
「は、はいっ!」
返事をするが早いか、橘の体が青い光球に包まれ、ゆっくりと浮かび上がる。よし、いいぞ橘!
「佐々木、掴まれ!」
次の瞬間、俺たちはものすごい勢いで―――夕暮れの空に飛び出していた。



長門のマンションがあっという間に遠ざかってゆく。カラスごときが追いつけるような速度ではない。
耳元でごうごうと風が鳴っていた。見上げれば、遮蔽物ひとつないオレンジ色の空に切れ切れに雲が浮か
んでいる。その光景を見ながら、ああ、きれいだな…と、俺は場違いな感動を覚えていた。古泉も、いつも
こんな光景を見ていたのだろうか。だったらアルバイトとやらもそう悪くはないじゃないか、なんて 言ったら、
あいつは爽やかスマイルで延々と嫌味を吐き続けるんだろうな。
橘の反対側の腕にしがみついた佐々木も、ポカンとした顔で眼下に広がる街を眺めている。こりゃ珍しい、
こいつのこんな顔なんて、めったに拝めるもんじゃないぞ。携帯で一枚撮っておきたいところだが、あい
にくと両手が塞がっちまってる…なんてことを考えていた俺を、橘のひと言が現実に引き戻した。
「あの、これってどうやったら曲がるんでしょう…」
進行方向を見れば、駅前デパートの壁に吊るされた「春の奥様大感謝フェア」という緊張感の欠片もない
ピンク色の垂れ幕が、ありえない速度で迫っていた。

「強く念じりゃ勝手に曲がるんじゃないのかよ!? 何とかしろ!」
「そ、そんなこと言われても、う~ん、曲がれ曲がれ、曲がるのです!」
「全然変わってないぞ! 下手糞! お前それでもエスパーか!」
「なっ、あなたが煽って発動させたんでしょう!? 無責任です!」
「お前高いとこ好きなんだろ! 自分の好みには自分で責任持てよ!」
「お、おいキョン、やばいぞ…!」

我に返って前を見た俺の視界一杯に、ピンク地に白く染め抜かれた「奥様」の2文字が広がった。
「うわあああああああああっ!」
全くの無意識だった。俺の生存本能がそうさせたのかは分からない、全くの無意識のうちに手が動き、
俺は橘の顎を強く押し上げて無理矢理に上を向かせていた。
「ぐきっ」という嫌な音がしたのと同時に青い光球は急上昇に転じ、デパートの壁面ギリギリをかすめて
屋上に飛び出すと―――シャボン玉のように割れ、消えた。
「いやーっ!」
「うわあっ!」
「はひゃっ!」
ん、ひょっとして最後のは佐々木の声だったのか? さっきのポカンとした表情といい、今日は貴重なもん
が見聞できたな…夕焼け空を走る飛行機雲をぼんやりと見つめながら、俺たちは屋外劇場のテント屋根に
バウンドした後、その下の生垣に落下した。

生垣から、キョトンとした表情の佐々木の顔が生えている。その右に同じく橘の顔も。ふたりとも髪の毛に
頬に額に、木の葉をぺたぺたと貼り付けている。お互いの目が合った。そして…
「ぷっ」
「くっ」
「くくっ」
3人同時に吹き出した。口をついてこぼれ出た小さな笑いは、やがて衆目を集めるくらいの大爆笑に変わ
り、それにも関わらず俺たちは大声で笑い続けた。涙で滲んだ目に、俺を指差して笑う佐々木の顔が映っ
ている。一息つこうと息を吸い込んでも、ふたりの顔を見た瞬間に次の笑いが込み上げてくる。こんなに
心底笑ったのはいつ以来だろう、横隔膜が破けちまいそうだ―――結局、俺たちは警備員の爺さんが
すっ飛んでくるまで、飽きることなく笑い続けていた。



その場で絞られただけで済んだのは、佐々木の模範的な謝罪と、ひょっとしたら有名進学校の制服が
もたらした効果もあったかもしれない。幸いなことに、青い飛行物体の目撃者もいないようだった。気の
抜けた顔を並べて、俺たちは飲み物を片手に屋上のベンチに腰掛けていた。
「いくら緊急事態だったとは言え、女の子に掌底を放つのはいかがなものかと思うよ、キョン」
いや、悪い。本当に無意識のうちに体が動いてたんだ。橘もそう睨むな、ジュース奢ってやっただろ。
「まだちょっと痛むんですよ。ジュースくらいで済むと思ったら大間違いなのです」
「だが驚いたね。君の話では、ああいった能力は限定された状況でなければ本来発動しないんだろう?」
最大の謎はそこだった。かつて2回だけ見た古泉の超能力者っぷりは、ハルヒの閉鎖空間とカマドウマの
異空間という、この世ならざる状況においてのものだった。詰まるところその謎は、今俺たちがいる世界
の成り立ちそのものへの疑問に行き着くことになる。
「認識を改める必要があるのかも知れないね。ここは本当に単なる改変世界なのか、それとも…」
情報が少なすぎるせいだろう、さすがの佐々木の言葉も歯切れが悪くなっている。だが一方で、俺は安堵
にも似た気持ちを覚えていた。橘の能力があれば、最悪あの九曜とやりあう羽目になったとしても、やり方
次第では何とかなるんじゃないか? と―――

ピュイーーーーーーガーーーーーヒューーーーーー

無線通信のシーンにうってつけに思えるSEが突然響いた。俺と橘の視線が、音源である佐々木のブレザー
のポケットに集まる。そこから取り出されたのは、例の黒いポケットラジオだった。やがてラジオはノイズ
混じりの、途切れ途切れの音声を流し始めた。

「藤・・・・・今いる世・・・・震源・・・・・の生み・・・・変世・・あると我・・・・・
閉・・・・・ースにし・・・・不安・・時空だが・・・世・は我・・・来に繋が・・・ない。
よって・・・・・ンである・・サルベ・・・・・断層突破・・・・・みる。
TP・・・・上応用・・・・ある・・・・・界の・安定・・・・成功率・・・・高・・・・・・
ただ・・・・破の障害・・・・・いる。障・・・除し、その世・・・盾の部・・向・・・」

それだけを流すと、一方的にラジオは沈黙した。ちなみに最初から最後まで、ボリュームスイッチはオフ
のままだ。いつの間にか鞄からノートを取り出した佐々木が、聞き取れた部分だけを書き写していた。
「さて、どう思う?」
「男性の声ですね。一番最初、藤原って言ってたように聞こえたんですけど…声も似ているのです」
「僕も同感だ。このメッセージは、恐らく藤原君からのものと見て間違いないと思う。それと途中で聞こえ
たこのサルベ…という部分だが、サルベージと言いたかったんじゃないのかな」
あのいけ好かないパンジー野郎が俺たちを救助しようとしている? ぞっとしない考えだ。
まてよ、奴はああ見えても時空移動者だ。いつ、どこにいる藤原からのメッセージだ、これは。
「事ここに至っても藤原君からのアクションがないのは不自然だと思っていたが…橘さん、彼に連絡を
とることは可能かい?」
「それが…すみません、彼も九曜さんも、連絡先を一向に教えてくれないんです。何かが起こる時は事前
にそれを知っていたかのように、向こうから連絡があるのですが」
ふむ、と考え込んでメモを睨んでいた佐々木だったが、やがて顔を上げ、
「キョン、橘さん。申し訳ないが、僕は一足先に帰宅してこのメッセージを落ち着いて見直してみようと
思う。ちょうど塾も終る時間であることだしね。何か分かったら、明日の集合場所なども込みで今日中に
連絡しよう。今日はいろいろあったが…くっくっ、まあ楽しかった。それでは」
そう言って席を立ち、デパートの中に消えていった。残された俺は橘に話を振り、万一九曜と対峙する
事態に陥った時のためにあることを試し、意外にもそれが実行可能であることを確認した。
せっかく喜緑さんが九曜の名を事前に教えて下さったんだ、やれることはやっておかないとな。



その夜。
制服がボロボロになった件を誤魔化すのに一苦労したものの、それ以外には特に変わったこともなく、
時刻はそろそろ8時を回ろうとしていた。疲れ具合からすればすぐにでも眠りに落ちそうなものだったが、
あれだけのことがあると却って神経が高ぶってしまうようで、俺はベッドの上で雑誌を読みながらその
高揚を鎮めようとしていた。と―――

コツン。
何だ? 窓ガラスに虫でも当たったんだろうか。俺は視線を雑誌に戻した。だが、
コツン、コツン …コツン。
いよいよおかしい。恐る恐る窓を開けた俺は、家の前の街灯の下に立つ、佐々木の姿を認めた。

「どうしたんだこんな時間に。このあたりも最近は物騒になってきてんだ、ひとり歩きはやめとけ」
上着を羽織ってこっそりと玄関から抜け出した俺は、そういって佐々木の無用心さを嗜めた。佐々木は俺の
注意をどこ吹く風で受け流し、手の中の小石をもてあそんでいる。
「くくっ、君が僕なんかを心配してくれるとはありがたい限りだ。そう心配するな、明るい大通りを選んで
来たんだ、そのへんに抜かりはない」
「そうは言ってもな、大通りからウチまではけっこう距離があるぜ。何かあったら俺がたまらん」
「君の家のそばなら、いざの時に大声を上げれば君が駆けつけてくれるだろ? …なんて顔をしてるんだ、
冗談だよキョン。それより、ここまで来たのは他でもない、例の藤原君からのメッセージの一部が判明
したのでね、君の意見を聞こうと思ったのさ」
「そんなこと、それこそ電話一本で済むじゃないか」
俺の言葉に佐々木は空を見上げて、今日は月がきれいだったからね、散歩も悪くないと思ったのさ―――
と、端正な顔に柔和な笑みを浮かべて、俺に視線を戻した。

家から程近い公園のベンチに座り、佐々木はノートを広げながら俺に解説してくれた。要約すると、

   ・藤原が俺たちのサルベージを考えている、あるいは既に試みている。
   ・理由は、この世界が彼の未来に繋がっていないからである。
   ・サルベージの成功率は高い。
   ・だが、どうやら障害が存在している模様。

以上の4点となる。あのノイズだらけのメッセージから、よくこれだけの情報を拾ったもんだ。俺はこの
世界に佐々木がいてくれたことに対して、心から感謝していた。
「重要なのは、この『障・・・』から始まる最後の文節だ。ここだけは、文章を構成する上で必要な条件
が比較的残っていたからね、まわりの文脈からの憶測も含めて、完全に復元することができた。恐らく、
藤原君からのメッセージはこんな文章で締め括られていたはずだ」
佐々木はノートの一点を指す。そこには―――

   『障害を排除し、その世界の矛盾の部屋に向かえ』

矛盾の部屋? いちいち謎かけみたいな言葉を使いやがって。くそ、顔を思い出したら腹が立ってきた。
「キョン、ここからが君の類稀なる直感力の出番なんだよ。いや、むしろ見方によっては、君は既にその
答えにたどり着いてさえいると言えるかもしれない。くくっ、全く大したものだよ」
佐々木、お前まで花畑野郎みたいな言い方をするか。分かったよ、降参するから正解を教えてくれ。
「長門さんのマンションで、突然カラスが現れた時のことを覚えているかい?」
あの時は確か…何気なく先の通路を眺めて、気がついたらカラスが並んでいやがったんだよな、うん。
「そこだよ。まさにその通路を眺めた時、君は一瞬だけ難しい顔をしていただろう。君がああいう顔をす
るのは、沸き起こった違和感を起点に何らかの事実に行き着いた時だ。昔からそうだった」
違和感…そういえば、カラスどもの出現に気をとられて忘れちまってたが、確かにあの時何かがおかしい
と俺は感じていたはずだ。それは一体何だ?
「あのマンションの7階では、708号室だけが消えていた。ちなみにあの建物は、1階から9階までの
フロアは全て16部屋で構成されている。ロビーにあった住居表示で僕が確認済みだ」
そのヒントで俺も気付いた。16部屋で構成されたフロア、消えた708号室、通路で感じた違和感―――

「そうか、一部屋消えちまったってことは、あの先には本来存在しないはずの717号室があるのか」
「君が感じた違和感の正体はそれだ。また、君が部屋の存在を直感的に見抜いた瞬間にカラスの群れが
現れたことも偶然ではあるまい。矛盾の部屋とは、あの通路の先にある717号室。そして障害とは、あの
カラスもしくはそれを操っている存在のことさ。ひょっとしたら橘さんが障害の一部を取り除いたことで、
藤原君のメッセージを受信できたのかも知れないね」
前に佐々木は言っていた。この世界の綻びは、必ず元の世界に通じていると。なるほど、そういうことか。
だがどうする。あそこに近づいただけで、またあのカラスどもに襲われるぞ。無限に湧いてくるような
気配もあるし、大挙して襲い掛かられたら橘でも持たんだろう。どうやってあの部屋に近づくんだ?
「簡単さ。連中が増える前に、橘さんの背中に乗って真っ直ぐ突っ込めばいい。カラスなんかより
よっぽど速いよ、彼女は」
あいつのフライトスキルを思い出してげんなりする俺を、佐々木が可笑しそうに見つめた。

その後。
ひとりで帰るという佐々木を制し、俺は部屋着のままママチャリを漕いでいた。佐々木を荷台に乗せて。
あろうことか、こいつは歩いて俺の家まで来たらしい。軽く30分はかかるだろうに物好きなことだ。でも…
佐々木の言うとおりいい夜だった。銀色の月は遥かな高みにあり、夜の世界を覗き込むように輝いていた。

「懐かしいな、この場所からの眺めは」
―――そうだな、もう1年と少し経っちまってるからな。
「僕の指定席に、その後誰かを乗せたのかい?」
―――ハルヒと長門を、一回だけな。
「ふうん」
――― ………
「今日はいろいろあったな、キョン」
―――橘の超能力に未来人のメッセージ。ずいぶん進展したんじゃないか?
「ああ、世界にかかった鍵をひとつ開いた気がするよ」
―――ありがとな、佐々木。
「え?」
―――お前がいなけりゃ、たぶん駄目だった。
「くくっ、君のそういうところ、変わってないな」
―――お前も変わってないぜ、一年前から何もな。
「…キョン」
―――なんだ?
「人が変わらずにいられるのは、数少ない奇跡のうちのひとつだと、そう思ったことはないか?」
―――そうか? 俺はガラリと変わっちまうことの方が難しいと思うけどな。
「いわゆる多重人格のことを、乖離性同一性障害というだろう。これは、同一の人格だと周りが認識
できない程に、人格が乖離してしまった状態を表した言葉だ」
―――聞いたことがあるようなないような。
「だが、僕らの人格の同一性を一体誰が保証してくれるんだ? 朝起きた時の自分が、昨日の自分と
全く同じであることを、僕らはどうやったら認識できる? そんなことは不可能だ」
―――そうかもな。
「そんな夜を何百回と越えてなお、僕は再会した君と、以前と全く変わらない感覚で話すことができた。
これはもう、立派な奇跡だ思うんだ―――だからね、キョン」
―――ん?
「やっぱり君は僕の、親友なのさ」

俺は、佐々木の儚げな温もりを背中に感じながら、月明かりに浮かぶ坂道を下って行った。

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最終更新:2007年08月22日 03:43
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