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リンドウ編 > 9


「……気がついた?」
俺を覗き込む瓶底眼鏡の黒髪が目の前にあった。
空に見えるのは夕暮れの空。
俺の体はベンチに横向きになっていた。リンドウに膝枕される形で。
「……うおっ!?」
俺は跳ね起きる。最初に目に入ったのはパンダの乗り物。
「ここは?」
「閉鎖されてたデパートの屋上遊園地」
運ぶの大変だったんだから、と肩を叩くリンドウを見て、俺は笑う。
動物のふかふかした乗り物や、小さなメリーゴーランド。妙に寂れた感じが郷愁をそそる。
もうすぐ日が暮れる。菱形の金網越しに橙色の空が広がっていた。
ベンチで座った俺らの傍を、春風が吹きぬける。
その度にリンドウの黒く長い髪が揺れ、甘い香りが俺の胸を焦がす。
心地よい沈黙が、俺らの間に流れていた。
「……大変な一日だった」
自然と言葉が口から出た。
夜明けから日暮れまで、戦いっぱなしな気がする。
「そうね。あなたはこれからも大変でしょうけどね」
「そうだな」
俺は苦笑する。
これからはリンドウやルローと言った愛すべき変人共と行動するのだ。
それが不安で、そして楽しみだった。
「あなたの過去を調べさせてもらったわ。本当に普通の素晴らしい家庭で育ったのね。
 あなたは本当はどう思っているの?きっと、こんな世界は辛いだけだと思うけど」
「そうだな……」
俺は思案する。そして一つの結論に至る。
「これも運命だった。そう諦めるさ」
リンドウはその答えを聞いてクスクス笑っていた。
「実はね、『運命レポート』にはあなたが仲間になる確率は低かったの。だけど、私たちが干渉を掛ける事によって徐々にその確率を上げていった。だから、今の答えは私たちの努力のおかげね」
「……たぶん、関係ないな。一つの因子を除いて」
デパートの屋上は意外と高く、周囲には高層ビルが並んでいて、それらがポツポツと明かりを付け始める。
空の色は段々と暗くなっていく。
リンドウが眼鏡を外し、俺の方を見た。
「その『時間操作』の能力。自らを世界の時間よりも早く活動させる事が出来る能力ね。でもまだ不安定。薬の影響のせいか、別のせいなのか」
そう“鑑定”した。
「あなたの本来の能力の発動が早まったのは、あなたが能力を受け入れたせい」
「俺が?」
「私たちと出会う前のあなたは、能力を否定していた。だからその体に能力が宿りにくかった。だけど今回の出来事を通じて能力者や能力の有効性に気付いたはず。それで――」
「それで能力が宿った。まだ不安定だけど、と言うわけか」
「今までの投薬は、本来の能力の発現を促すとともに、あなた自身が能力を受け入れる準備をするためでもあった」
なるほど。確かに俺は昔ほどは能力や能力者を毛嫌いしていない。
それどころか、能力をリンドウやルローを守るために積極的に使っていた。
「能力者なんて、ただの人間だろ。今日はそれを学んだよ」
受け入れる。これは進歩か退化か。
「人間……そうね。人に見える能力者はまだいい方だわ」
「人に見えるって、姿形がか?」
「心よ」
リンドウが上空を見上げる。

「私の家族はチェンジリング・デイを境に変わってしまった。政府に属していたお母さんは毎日、能力者の研究ばかり。それも、残忍で非道な研究をね」
「そう……なのか」
「だから私は家を出た。母さんは私を使えない道具だと罵っていたけど、あの人は違った。フェイヴ・オブ・グールはね」
その言葉に賞賛と尊敬の念が含まれていて、俺の中の黒い感情がとぐろを巻く。
「でも、非道な事も沢山した。敵の能力も、仲間の能力も再利用するために沢山処理した。彼ら彼女たちの死体の眼は私を責めたわ。『どうしてこんな酷い事をするの?』ってね」
「……そうか」
「……家を出たとき、私は死んでいた。心がね、死んでいた。それでもフェイヴ・オブ・グールは私の心を救ってくれた。だから私の命を掛けて、彼に忠誠を尽くすと決めている。ねぇヨシユキ」
リンドウが立ち上がる。夕焼け空を背景にして、黒い髪が揺れていた。
「世界と対峙する勇気はある?」
その真剣な瞳を見て、嘘は駄目だと思った。そもそも、陳腐な俺の嘘など通用しないだろう。
俺の心の中を探る。俺の心を解体し、分析する。心の奥底まで覗いた時、答えは見つかった。
「ある」
それは本心だった。だが、続く言葉を俺は言えなかった。
俺のもう一つの本心を。
「そう、良かった。これでやっと ……終わる事が出来る」
何?
そう言おうとした瞬間、リンドウが俺に覆いかぶさってくる。
抱き合ったままベンチの椅子から倒れて、俺とリンドウは地面に体を打ちつけた。
「な、なんだ?どうしたリンドウ」
腰に回していた手が熱く濡れている。嫌な予感がしながら恐る恐る掌を目の前にかざした。
赤い鮮血。リンドウの血だった。
「おい!大丈夫か!」
俺は必死に呼びかける。立ち上がろうとするが、リンドウがそれを許さず俺の肩を抑える手が離れない。
「まだ、立ち、あがっちゃ、駄目。狙わ、れて、る」
喘鳴しながらリンドウが声を掛ける。唇からは鮮血。だが、何かをやり遂げたように微笑んでいた。
駄目だ。人が、そんな顔をしてはいけない。
リンドウを無理やり引き剥がして、横に優しく寝かせる。
腹部に穿れた穴から流れる鮮血が、血だまりを造っていた。
リンドウが鎮痛剤らしき錠剤を合成して口に含む。
「お、おい。お前らの組織に医者はいねぇのか。もうすぐ夜になる。そうすればお前の置換能力でそいつの所にまで飛んでいける!」
リンドウはフフ、と薄く笑った。
「……嫌だ」
「……何でだよ」
リンドウの瞳が、力を失っていく。闇のような瞳の中に、藍色の空が映っていた。
「幸せが無い世界で生きていくのは疲れたわ、ヨシユキ。誰かを恨んだり、恨まれたりする世界もね。
 それにね、ヨシユキ。あなたの『夜』の能力は、私の死を因子として発現する。そう『運命レポート』に書いてあった。私はそれに従うだけ。
 あなたは大丈夫。私の最後の力を振り絞って、アジトへ連れていく」
それは、贖罪者のような底知れない忠誠心。
敵わない、そう思った。
リンドウのように世界と対峙するために自らの命すら犠牲にする事は、俺には出来ない。
太陽が微かな光を放つ。それはリンドウの命の残り時間を示しているようだった。
リンドウが死んでしまう。これから先に続くはずの未来が、消えてしまう。


――嫌だ。


リンドウが死ぬのなら、俺の命を犠牲にしろ。
大っ嫌いな能力よ、俺のために力を貸せ。
「うおおおおおおおおおおおおお!」
時間がゆっくりと遅くなる。
太陽の最後の残滓が消えかける頃、全ての時間は停止した。
やがて、俺の能力と世界が対峙を始める。
世界が刻む時間の音が、ぶっ壊れる音を遠くに聞いた。


「世界と対峙する勇気はある?」
リンドウがそう聞いている。
リンドウが生きている。
世界と対峙なら、さっきしてきた所だ。
だから俺は自信を持って、こう答える。
「ある。お前が好きだからだ、リンドウ。お前を守るために、俺はどんな敵とも戦う」
予想外の言葉にリンドウが硬直し、次の瞬間、赤くなった。
「な……な……」
「伏せろ、リンドウ!」
俺はリンドウを抱きかかえて横に跳躍する。
それまで俺が居たベンチに銃弾が突き刺さる。
「……俺は認めないからな、リンドウ」
「な、何が?」
硬直していた腕の中のリンドウに向けて、俺は言ってやる。
「世界と対峙するために、お前がお前の命を捨てるなんて認めない。きっと、お前の幸せは何処かにあるはずだから、それが見つかるまで俺が守るよ」
リンドウは顔を赤くして、はぁ~と溜め息をついた。
「私の本心を見抜くなんて、『運命レポート』には無かったわ」
「じゃあ新しく作り直すんだな」
太陽が沈む。夜の能力さえ使えれば、リンドウの置換能力でここを脱出できる。
太陽の残滓が沈む。沈んだ。昼と夜の能力が切り替わる。
「今だ!」
「……嘘。どうして発動しないの?」
リンドウの驚く声によって何かしらの問題が発生した事を確認。
そしてデパートの出入り口付近に、黒服の男が立っているのを眼の端で確認した。
そいつは黒い帽子で目元が見えない。
傭兵事務所“イモータル”の最後の一人、ゼンだった。

「女。『お前の能力は回収した』」
ゼンが呟く。低いが若い男の声。
リンドウが目を細めて、相手の能力を“鑑定”しようとする。
「……やめておけ、女。『お前の視力を回収する』」
リンドウが急に目を押さえてうずくまる。
その時になって初めて、リンドウの手首に赤黒い細い糸が絡みついている事に気付いた。
俺がその糸を足で斬ろうとしたが、まるで生きているかのように糸は回避。
その糸は黒服の袖口からゼンの手首の中へと収納されていく。
「リンドウ!大丈夫か!?」
「目が……視えない」
俺が彼女の顔を確認。
リンドウが目を開けてきたが、傷や損傷などは認められない。
ただ、瞳孔が広がっており、リンドウが光を失っているのは分かった。
「てめぇ、何しやがった!」
激情のまま黒服の男へとルローから貰った銃を向ける。
「その女の視力を回収した。俺の能力を解析されるのは、俺に不利だ」
「……返せ」
「その銃で俺を殺せば、自然と返る」
発砲。俺は躊躇なく顔面を狙った。
「……ただし、俺を殺せればの話だ」
ゼンが首だけ避けて回避していた。
銃口からの弾道の射線を見切って、指が動くと同時に動きやがった。
なんて度胸と反射神経をしてやがる!
「……リンドウ。一旦退く」
「……私を置いていって」
リンドウの言葉は無視。無理やり肘を掴んで立ち上がらせ、彼女の腕を肩に巻く。
だが、唯一の出入り口であるデパート屋上の出入り口は男が立ちふさがっている。
飛びおりようにも十階建ての建物から飛び降りるのは自殺に等しい。
吹きぬけていく夜風が、俺の冷や汗に当たる。
ただ俺はゼンに銃を突き付けたまま、立ち止まらせる事しか出来なかった。
優位を確認したゼンが言葉を紡ぐ。
「所長と違って、俺は貴様らの仇討ちしか考えていない。所員24名の命、その命で償え」
ゼンが動こうとした時、俺の左手が掌で制す。
「待て。ここは話し合いと行こうじゃないか」
「男。話し合いとは対等の立場の者が行うことだ。命乞いなら聞くまでもない」
歩み始めるゼン。
「だから待てって。俺の夜の能力は強力だ。全員死ぬぞ」
もちろんハッタリだ。俺に夜の能力なんてない。
余裕そうに演技の笑み。頼む、通じてくれ。
ゼンが歩みを停止。怪訝そうに黒い帽子を少し上げて、険のある視線が俺を射抜く。
ゼンが含み笑いを漏らした。
「バッフも持っていないのにどうやって?」
……こいつも鑑定士の力を持っているのかよ。
再び歩き出したゼンに向かって、俺は祈った。俺の能力が開花する事を。
頼む。なんでもいいからこいつを止めてくれ。
無意識にゼンに向けていた左手を握りしめた。
小さな爆発音。俺らの足場が揺れた。
「なっ」
驚きの声をあげたのは俺だった。
ゼンは俺に一瞥をくれただけで視線を外し、警戒して周囲を見回す。
こもった爆発音は段々と近くなってくる。
再度の爆発音。そして、ゼンの足元に放射状に亀裂が走り、粉砕。
ゼンは後ろに跳んで回避した。
大きく開いた穴から飛び出す茶色の影。
「にゃははははっ!ルロー様の登場にゃ!」
屋上の足場を粉砕しながら、ルローが飛び出してきた。

白黒パンダの遊具が、空けられた大穴へとずり落ちていく。
「ルロー!いったいどうやって此処に?」
安堵のため息と共に、疑問を吐く。
「ヨシユキの携帯のGPSを辿ってきたにゃ」
フェムとの戦いの後、ルローから黒い携帯を貰った事を思い出す。
「『運命レポート』通りに行ってなかったからにゃ。心配でアジトに向かわず戻ってきたにゃ」
ルローは俺たちの隣に立つと、リンドウに話しかけた。
「リンドウ。生きてるかにゃ?」
「……生きてる」
「『運命レポート』通りに行かにゃかったとは言え、生きてた方がうちは嬉しいにゃ」
満面の笑顔でリンドウの頭をポンポンと軽く叩く。リンドウは少し照れたように俺の肩に顔を沈めた。
「とりあえず、問題は目の前の男だ」
ゼンは真っ黒な服についた汚れを払いながら立ちあがった。
「現れたな、猫。“イモータル”副所長として、仲間の仇を取る。貴様だけは許さん」
「お前もあの腐れ髭豚と同じ運命を辿ればいいにゃ」
互いの間に膨れ上がる殺気。
ビリビリとした熱い空気を感じる。
ルローが駆けだす。先制の投げナイフは、ゼンの黒服を掠めるだけ。
ゼンは銃をずらして撃ってきたが、ルローは難なく回避した。
「……生体強化人間か」
「そんなもの当たらないにゃ」
間合いを詰めたルローが左手を突き出す。
ゼンが応射しようとしたが、その動きが急速停止。
銀のナイフを持った右手ではなく、何も付けていない素手の左手で攻撃してきた事に疑問を持ち、回避を優先する。
回避されたルローの左手は、壁に触れた。その瞬間、白く光る。
爆発。コンクリートの壁に大穴が開いた。
爆風と飛んでくる小石から逃れながら、ゼンは鋭く睨んでルローを“鑑定”する。
「……くっ!猫、貴様。触れた物を指向性を持たせて『爆発させる』能力か!」
「お前も鑑定士かにゃ。でも、能力を見られたからってどうってことないにゃ」
爆発で生じた粉塵に紛れながらルローが急速接近。
「さっさと死ぬにゃ」
逃げられない絶好の位置で、ルローが再び左手を突き出す。
その左手に、男の袖から伸びた赤黒い糸が絡みついた。
「猫。『お前の能力を回収する』」
ゼンの胸板に、ルローの左手が触れる。
何も起こらない。
「にゃっ!?」
特大の隙。
渾身の蹴りが、ルローに叩きこまれた。

ルローの体が軽々と宙を舞い、屋上中央の小さなメリーゴーランドの柱を折りながら停止した。
「ルロー!」
呼び掛ける声で茶色の体が跳ね起き、俺の元へと一蹴りで飛んでくる。
「にゃはは……しくじったにゃ」
無事そうな様子を見せても、ふらふらとした体の揺れは隠せていない。
「詰みだ。貴様らに能力を使える奴は居ない」
ゼンが俺らへと殺意の視線を向けてくる。
俺はため息をつく。
諦めの息を。
「ルロー。悪いがリンドウを頼む」
疑問符を浮かべるルローに、視力が戻っていないリンドウを預ける。
二人は能力を封じられ、リンドウは目が見えず、ルローは手負いだ。
俺は弱い。どうしようもなく弱い。
このままでは三人とも死ぬだろう。
だからと言って、仲間の命を諦められない。
だから、まだ動ける俺が二人が逃げる時間を稼ぐために、ゼンを足止めする。
だから、俺は俺の命を諦める。
「お別れだ。リンドウ、ルロー。楽しかったよ。能力者なら、また探してくれ」
「そ、んな。ヨシユキ……」
目の見えないリンドウが手を伸ばしてくるが、俺は一歩下がってその手から逃れる。
「これが、俺の運命だ」
俺がルローに視線で指示する。
ルローはただ黙って頷いた。
「じゃあにゃ、ヨシユキ」
リンドウを担いで、ルローが爆発で空けて来た穴に入ろうとする。
「そうはさせん」
ゼンが銃を構え、動きづらい二人を撃つ、事は出来なかった。
限界以上の脚力で走ってきた俺が、その腕の銃ごと腕に抱え込んだからだ。
「逃げろ!」
「ヨシユキ!」
俺の視線とリンドウの視線が一瞬交差し、やがて穴の中へ消えていった。
俺はゼンの腕の一振りで吹き飛ばされ、背中から地面に激突する。
ゼンは穴を見て二人を追おうとしたが、足を止めた。
「……やれやれ」
ゼンはため息をついた。

「男。貴様には貸しがある」
背骨を打った激痛に呻きながら、俺は上から降ってくるゼンの声を聞いた。
「事務所が襲われた時、所長トルトルは俺たちを見捨てて逃げた。裏切りは死だが、俺には仲間である所長を殺す事が出来なかった」
痛みを無視して立ち上がる。
「だが、貴様は俺の代わりに所長に処罰を与えてくれた。その点だけは感謝している」
「……感謝ついでに俺らを見逃せよ」
脳震盪で意識が揺れたが、痛みも何もかも無視。目の前の男に集中する。
「それはできん。だが、ハンデをやろう」
折れたメリーゴーランドの柱から、適当な長さの金属の棒を俺に放り投げて来た。
「俺は貴様を一撃で殺す事はしない。その代わり、味覚、嗅覚、触覚、視覚、聴覚の順に奪っていく」
震える腕で、俺は鉄パイプを構えた。
「最後に奪うのは、貴様の命だ」
俺が走り出す。銃は避けられるので撃たず、まずはこの棒で脚を潰す事を考える。
「うおおおおっ!」
思い切り振りかざし、頭を狙うと見せかけて脚を狙う。
小さく跳んで躱された。赤黒い糸と右手が俺の頭を押さえつける。
「まずは『お前の味覚を回収する』」
そのまま地面へと叩きつけられる。
痛みを堪え、回転しながら離脱し、すぐさま立ち上がる。
俺はペロリと口の中を切った傷を舐めた。
「……なるほど、味がしない」
そこには熱い痛みだけがあった。
「脚を潰してしまえば追跡できなくなるか。賢いが、やるなら殺す気でかかってこい」
ゼンは黒い帽子の位置を修正し、俺を睨んでくる。
相手は戦闘のプロだ。俺のような素人は素人らしく、素人の作戦で行く。
鉄パイプをやたらめったら振り回し、近づいていく。
「……ほう」
ゼンはギリギリの位置で後ろに下がっていく。
クソッ、なんで当たらないんだよ!
俺が腕を振り回して疲れかけたところへ、顔面への赤黒い糸との拳の攻撃。
「『お前の嗅覚を回収する』」
殴られた勢いのまま、後ろへと倒れる。
先程までしていた鉄と潮の匂いが消え去った。
鼻を押さえて、立ち上がる。
「次は触覚だ」
絶対王者のように、ゼンは立っていた。

最初にリンドウの置換能力を押さえられてよかったと、ゼンは思った。
最初のだけは完璧な詐術だった。
気付かずに糸を絡ませれたおかげで、リンドウは置換能力が使えなくなったと勘違いしてくれた。
その後に声を掛ける事が出来たが、もしあのまま敵のアジトへ『接触していたデパートごと』一緒に跳んでいってしまったら、さらなる敵と戦うところだった。
ヨシユキの荒々しく投げ出された拳を掴み、フックを繰り出す。
「『お前の聴覚を回収する』」
これでヨシユキの五感を麻痺させる事に成功した。
ゼンの能力は手首についた赤黒い糸に触れた物に、声で干渉する『絶対暗示』の能力。
『回収』などという言葉は詐術。相手に不安を与えるためだけの言葉だった。
五感を封じ込められたヨシユキが暴れだしたが、難なく背後を固める事に成功する。
命を奪おうと首の骨を折ろうとし、無駄な労力だと気づいてやめた。
「……やれやれ」
五感を奪ってしまえば、もう何も出来ないのだから。
暴れるヨシユキをそのまま放置し、二人の後を追おうと穴へと向かう。
銃声。ゼンはゆっくりと振り返る。
視力も触覚もないはずのヨシユキが、銃を構えていた。
ただし、見当違いな方向へ。
ゼンが見ている間にも、二、三発、方向を変えて撃っていた。
「……視力は無い。目を閉じて撃っても、当てれる人間などいない」
無視して進もうとし、足元に着弾するのを感じて再び振り返る。
感じたのは、底知れぬ不安感だった。
ヨシユキの視力を失ったはずの眼が、確かにゼンを見ている。
気のせいか、ヨシユキの周りに青い霧が発生しているみたいだった。
「……はっ。俺とした事が」
この矮小な男に感情移入でもしてしまったとでもいうのか。
仲間を守る姿が、以前のイモータルが壊滅したときの自分の姿とダブったとでも?
首を振って意識を戻し、次の瞬間、すぐに首を横に向けて避けた。
銃弾が掠めて、黒い帽子が吹き飛んだ。ゼンの驚愕した顔が露わになる。
「……な……」
あり得ない。そんなはずはない。
『絶対暗示』の能力を破るなんて事は。
そんなゼンを嘲笑うかのように、ヨシユキの唇は歪んでいた。
「視え…るぞ。お前の…姿」
ゼンは反射的に銃を構え、撃つ。
ヨシユキの腹部に着弾。
撃つ。
右肩を打ち抜いた。
撃つ。
左脚が血で弾けた。
ガチガチガチ。
銃弾は無くなった。
空っぽになった銃をそれでも構え、フェンスに倒れたヨシユキに近づいていく。
倒れて動かないヨシユキを引きずり起こす。
その瞬間、襟首を掴まれ、開いた口の中に堅い先端が入れられた。
銃の先端だった。
「!!!」
「お前に…あいつらを…殺させは…しねぇ」
掴んだ力は強く、ゼンの体は恐怖で動かない。
脂汗の浮かんだ苦渋の表情で、ヨシユキはゼンに言う。
「お前を…逃す事は…リンドウの…『死』に繋がるから…それだけは…駄目だ」
ヨシユキの顔に、何かをやり遂げたような笑みが浮かぶ。
ゼンは逃れようとするが、掴まれた襟首は怪物のような力を持っていた。
「じゃあな…ゼンさん」
引き金が引かれる。
ゼンの意識は、そこで途切れた。

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最終更新:2010年07月08日 02:52
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