対峙する黒衣の少女と、地獄の番犬。張り詰める緊張感と静寂が、両者の間にわだかまっている。
息苦しさを感じるほどのその空気はしかし、意外な形で破られることになった。
「いやいや、素晴らしい。実に威勢のいいお嬢さんだ。見るからに凶悪なキメラ、それにこのケル
ベロスの異形を前にして少しも怯まないその胆力。そちらの少年にも言えることだが、無謀と紙一
重のその勇気は素直に称賛に値するよ」
宵闇に沈む街並みから、突如滲みだすように現れる一人の男。平然とケルベロスの隣りに立つと、
乾いた拍手をしながらそんな賛辞を述べる。
消耗した体をなんとか奮い立たせた陽太は、そのまま白夜の隣りに並び立つ。思いがけない来訪
者に、白夜もまた戸惑っている風だった。
「しかもキメラ一体は完全に破壊されてしまったと。僕にはそれが一番の驚きでね。食材を創り出
す能力と物質合成能力を併用することで、それほど強力な武器を作ることができるとは。能力の可
能性というのは本当に無限大だということを再認識させてもらったよ」
夜だというのに黒いサングラスをかけたその男は、全身を覆うほどの黒いロングコートを着込ん
でいる。こんななりだから、白夜にも視認できなかったんだろうか。陽太にはその点が不思議だった。
だがおそらく、今そんなことを気にしても仕方がない。この男が何者なのか。なぜここにいるのか。
問題にすべきはそこだ。
実際には聞くまでもない気がする。結界能力によって、ターゲットとなった自分たち3人以外の人
間は根こそぎ消えてしまった。そんな中、のこのこと姿を現したのがこの男なわけだ。
ならばそこから導き出される解は――小学生でもわかることだ。
「今回の事件の元凶はあんたなんだな? この結界能力もあんたの仕業か?」
「単純明快な質問で実にありがたい。答えはどちらもノーだ。僕にはこんな大規模で便利な能力は
残念ながらないのでね。これは僕の協力者の能力だよ」
「協力者だと? だったらやっぱりあんたが――」
「元凶じゃねえか。そう言いたいかい? でもそれについては僕はあくまでも否定するよ。『元凶』
という意味で言えば、今回の事件の引き金を引いたのは『彼』だ。君たちが
ドクトルJと呼んでいる
あの彼だ」
隣で相変わらず興奮状態にあるケルベロスの右頭を適当に撫でながら、無機質で無感情な声で男
は言う。
陽太は少し混乱していた。ドクトルJが元凶? それは事件の裏で手ぐすね引いているのがあの中
年だという意味なのだろうか。
でもそれじゃあ、仲間であるはずの白夜まで襲われる意味がわからない。
ふと、隣から視線を感じた。引かれるように首を巡らせば、白夜の力強い眼差しがそこにあった。
彼女はただゆっくりと、首を左右に振る。
彼女の言いたいことが、それだけでわかった気がした。
「ロングコートのおっさんよお。あんたはドクトルJのなんなんだ? 敵か? それとも味方か?」
「またいい質問だね。もちろん、敵だよ。彼が味方だったら今回の事件は起きていない。君たちを
危険な目に遭わせることも勿論なかった」
「咎はドクトルJにある。貴方はそう主張するつもりね」
「その通り。まあこれ以上は僕の口から語るのも面倒だから、本人から直接聞くといい。彼自身は
きちんと理解しているはずだからね。自分の軽率さが面倒事を招いたのだと」
「……あんたは結局何がしたい? なんでここに姿を現した」
「せっかくの機会だから観察しようと思ったんだ。何の罪もない少年少女が、異形の化け物に体を
引き裂かれて悲鳴を上げる、理不尽なその光景を。でもまさか君たちがここまで頑張るとは思いも
しなかったよ。期待していたものとは違っていたが、僕はとても興奮した。だから今日はもうこれ
で引き上げようと思って姿を見せたのさ。こいつを放って帰るわけにもいかないからね」
ケルベロスの頭をポンポン叩きながらそう語る男の口元には、ひきつった笑いが浮かんでいるよ
うに見えた。狂気じみた歪んだ笑み。それはこの男が見せる最初で最後の、表情らしい表情だった。
「引き上げる、ですって? 私を愚弄する気!? 逃がさないわ。その魔犬も、無論貴方も」
「お嬢さん。命は一つしかない。特殊能力によって不死の体を得た人間もいるとは言え、君はそう
ではないだろう? だから大切にしなきゃね。さあ帰るぞケルベロス。型番は……なんだったか?
まあいい。それじゃあ達者でね、勇敢な少年とお嬢さん。またそのうち会うことも……なくはない
かもしれないね…………おっと、最後にひとつ。この結界能力ももうすぐ解けるから、何も心配は
いらないよ。じゃあ今度こそ、バイバイ。勇敢な子どもたちよ」
一方的に長々と言い捨てて、男は踵を返し去っていく。ケルベロスも従順にそれにならう。
現れた時と同じ、まるで夜の闇に溶け込むように。目がおかしくなったのかと思うほどに、その
姿はまるで霧が消えるかの如くあっさりと見えなくなった。
「待ちなさい!」
そう言って走り出そうとした白夜の腕を引っ張って、陽太ははやや強引に引きとめた。
「やめろ白夜! 無理に追う必要なんてないだろ! 状況はさっきより良くなった。今はそれでよ
しとするんだ」
「でもあの者が黒幕なら、仕留めるべきでしょう! 姿を現すだけ現して何もさせずに逃げるなん
て……」
「あいつ言ってたろ。また会うこともあるかもって。きっとその通りなんだよ。俺たちとあの男の
間に今夜、決して断ち切れない因縁ができたんだ。その鎖で繋がれた以上、あいつはきっとまた姿
を現す。その時でもきっと遅くはない」
「岬月下……。そうね、確かにそうなのかもしれないわね。因縁の輪、因果律の鎖。今宵の邂逅で、
あの者と私たちは繋がれてしまったのね。忌まわしいことだけど、鎖でつながれている限り、私た
ちは必ずあの者に巡り合える。決着はその時に着ければ、それでいいんだわ。私としたことが、少
し熱くなり過ぎていたみたい。気付かせてくれてありがとう。岬月下」
陽太は盛大に面食らった。まさか白夜の口からありがとうなんて言葉を聞くことになるとは思い
もよらなかったから。あまりの不意打ちに、少しばかり胸が熱くなる。
「いや、まあ、その、なんだ……ほ、ほら、俺が今こんな剣を持ってられるのは、お前の能力のお
かげって面が多少なくはないかもしれないわけだし? だからそれについては、俺からも礼を言わ
なきゃいけない気もするわけで」
「……皇剣・朧夜は偶然の産物よ。私はこの能力を正しく使いこなすことができていないの。どれ
だけ修練を積んでも、まともなものを創り出せたことはなかったわ。だから朧夜の錬成に成功した
時は、心の底から安堵した。初めてこの能力を役立てることができたのだから」
「この朧夜は、合成能力の初めての成功例だってことか? そうか、そうなんだ。それだったら、
これはお前に返さなきゃいけないな」
そう言って陽太は、朧夜を白夜にそっと差し出す。きょとんとして陽太と朧夜を交互に眺める白
夜の手を取って、少し強引に握らせた。何か言いたげな白夜を制しつつ、
「いいんだよ、これで。なにせ、俺にはレイディッシュっていう相棒がいるしな」
ニヤリと笑ってそう告げた。
「……愚者の思考と行動は、理解に苦しむばかりね」
皮肉っぽくそう囁いた白夜の表情は、いつになく穏やかで幸せそうだった。
「なんとなくいい雰囲気っぽいところ、こんな中年が邪魔してごめんね。でもそろそろ気付いてく
れてもいいと思うんだよね。なんかでかいおっさんが隣で声をかけて欲しそうに突っ立ってることにさ」
なんとなくいい雰囲気になりかけていた空気を吹き消すような、場違いな低い声。今日一日ですっ
かり聞き慣れてしまった、それでいてすでに懐かしさを感じる男の声。
「ドクトルJ! 無事だったのね! よかった……。本当によかった……」
その姿を見て、陽太より一歩早く歓喜とも安堵ともつかない声を上げる白夜。その語尾にはすで
に湿り気が混じっているように、陽太には聞こえた。
そんな白夜に向かって、ドクトルは満面の笑顔を向ける。それは、別れ際に見せたあの笑顔とま
ったく同じ。見る者を不思議と安心させる、中年男性らしからぬ魔法の笑顔。
「ああ。幸か不幸か私は生きてるよ。それよりも2人が無事で本当によかった。夢の中で2人が大変
なことになってたから、まさかと思っちゃったけど」
「……今なんだって? 『夢の中』? ドクトルJ、あんたまさかこの状況でのんびり居眠りこいて
やがったのか?」
ドクトルの失言に、陽太はすかさず噛みついた。返答によっては白夜の手から朧夜を拝借して思
いっきり額を割ってやる。そんな勢いだ。
「やめなさい岬月下。ドクトルJは能力を使った後休息が必要になるの。今でも少し足取りが怪し
いでしょう? そんな有様でよくここまで一人で歩いてきたわね。無茶をしないで。そうだわ、
十六夜を貸してあげる。これで体を支えるといいわ。光栄に思いなさい」
「え? いや、何これ? 杖なの? すごく物騒な形をした杖なの? ま、いいや。借りるね」
訝しげな顔をしつつも十六夜を受け取り、そのまま杖代わりに体を預けるドクトル。仕立てのよ
さそうなスーツを着た中年男が持つ紅色の鎌。その光景のアンバランスさはどうしても否めない。
「岬月下君」
少し和んだ空気を引き締めるように、低く緊張感のある声が陽太の名を呼ぶ。
「君には今日一日でいろいろと迷惑をかけてしまったね。その命まで危険にさらすことになってし
まった。本当に申し訳ないと思っている。本心を言えば、君には全てを話してあげたい。今回の事
件の詳細。私たちの目的、身分、正体。何もかもを。それが最低限の礼儀だし、むしろそうしなけ
ればならないと思う。だがそれでも私には……」
笑顔の消えたドクトルの顔は、ただひたすらに沈痛だった。せめぎ合う何かの間で葛藤する男の
顔は、そんなに悪いものじゃないと陽太は思った。
ドクトルの次の言葉は、陽太にはもうわかっていた。それは本当は陽太の望むものではない。そ
れでも陽太は、ニヤリと笑って流すことにした。この日いつも笑っていた中年には、その答えが相
応しいと思った。
「今すぐじゃなくてもいい。いつか話してくれ。あんたたちのこと。今日のところはそれで許して
やるから」
銀縁の奥の瞳は、少し光の反射を増しているように見えた。それを隠すように、ドクトルは瞼を
閉じる。
「わかった、約束する。必ず話す。ありがとう、月下君」
「ああ、でもな。俺は神に叛く男。いつ神罰を下されて、この世から消滅させられるかわからねえ。
だからそれまでに頼む」
ドクトルと白夜に背を向けて、陽太は静かに歩き出す。
「岬月下。どこへ行くつもり?」
「見ろよ。今日は綺麗だろ、月が。久しぶりに、あの月とゆっくり語らおうかと思ってな」
歩みを止めず、地上を照らす月を指さす。背中越しに聞こえてくる、最後の別れの言葉。それは、
あと少し歩くのが速ければ聞こえなかっただろう、小さな呟き。
「そうだね。人間がいつ死ぬか、そんなことは誰にもわからない。君も、私も、白夜ちゃんも。こ
の次の瞬間には、この世のものでなくなってしまうのかもしれない。だから、できるだけ早くまた
君の前に現れることにするよ。それまでさようならだね。岬月下君」
おわり
登場キャラクター
最終更新:2010年07月10日 10:53