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白夜に輝く堕天の月 > 8


 デパートを出た時点でわかっていたこととは言え、やはりどれだけ歩いてみても他人とまったくす
れ違わないというこの状況に、陽太は軽く焦燥感を抱き始めていた。
 ドクトルが言っていたとおり、この能力の有効範囲もよくわからない。もしかしたら今この時、地
球上から自分たち以外の人間はみんな消え失せてしまっているんじゃないか。この能力に時間切れも
ないとしたら、半永久的にこの異界をさまようことになるんだろうか。

「本当に、誰一人存在しないわね。誰もかれも全て消え失せてしまったみたい」
「そうだな。もうわかってたことだが、改めて事実としてつきつけられると、軽く寒気がする」
 隣を歩く黒衣の少女がポツリと漏らした一言に、陽太は思わず同調する。きっと彼女も自分と同じ
ようなことを考え、似たような不安に駆られているんだろうと、陽太は思った。

 チラリとその横顔を窺う。こんな状況でも、感情の読み取りにくい無表情。その顔を見る限りでは、
この状況に不安や恐怖を抱いているようには思えない。
 それがたとえ偽りだったとしても、陽太はこの状況で彼女が隣にいることが心強く感じた。彼女が
自分よりさらに背の低い女の子だということや、そもそも出会い方からして敵だったということは、
この際どうでもいいことだ。
「でも、岬月下。どう思う? 異世(ことよ)の迷い人となったのは、私たち3人のほう? それとも、
失われた人間たちのほうかしら」
「……なんだって?」

「私たちが今いるこの世界は、あまりに非現実的な現実世界。失われた人々が現在いる世界のほうが、
現実的に着飾った非現実世界。そうは考えられない?」
「そう……考えられなくはない。だがそれはそんなに重要なことか?」
「いえ、重要ではないわ。ふと浮かんだ疑問をあえて口に出してみただけ。この能力が発動された瞬間、
ここに存在していた人々はどうなってしまったのか、それを考えていてね」
 失念していた。自分たちの周りから、忽然と姿を消してしまった人間たち。自分たちに起きている異
変は、言ってみれば間接的なものなのだ。
 だが『姿を隠された』人たちには、それはもっと直接的な異変としてふりかかってくるものじゃない
のか。だとしたらその異変とは――
 少し怖くなって、陽太は思考を中断した。

「でも、心配には及ばないのかもしれないわ。たとえ自分の居場所がいつの間にか何者かによって偽装
された非現実世界であっても、虚構と欺瞞で巧妙に現実に擬態した非現実であっても、そこで現実と何
も違えることなく生活していけるのなら。自分という存在さえ否定されているわけではなく、間違いな
く自分は存在していると断言できるなら、その世界に留まることを悪だと見なす理由はないもの」
「その論旨には賛成できかねるな。消された人たちが、現実に偽装した非現実の中にいるってなんで言
い切れる? それこそ4次元空間みたいなわけのわからねえ場所にスポーンと放り出されてるだけかも
しれないだろうが」

「岬月下。伝説にある異界への訪問譚というものはね――」
 そこまで言った時、白夜の表情がピクッとこわばるのを陽太は見逃さなかった。
 その場で歩みを止める白夜に、陽太もならう。
 白夜の視線は、彼らが歩を進める一本道の彼方一点に注がれているように、陽太には見えた。
 ついさっきも経験した、あの嫌な間が2人の間に流れていく。

「来てる……のか?」
「ええ。いるわね、この道の先に。ああ、こんなに遠くから見るだけでもおぞ気がするほど醜悪で汚ら
わしいわ。憐憫の情も感じないほどに。とにかく、道を変えましょう。今ならまだ逃げ切れるわ」
「馬鹿言うな。相手は元犬だぜ。そのうち追いつかれるに決まってる。それにたかだか犬っころ相手に
そう何度もケツ見せて逃げ出すってのも落ち着かねえ」

 そう言いのけて、陽太は止めていた足を再び前へと投げ出す。
 濃紫に染めあがった空を見上げる。煌煌とした妖しい輝きを纏い、少年を見守るようにその頭上に輝
くは、彼の守護者である白銀の月。
「待ってたぜ、この時を」
 叛神罰当【ゴッド・リベリオン】。天の慈愛が少年に授けた、陰の力。陰たる存在である月の庇護の
下、少年がその秘めたポテンシャルを完全に開放できる、真の能力。

 陽太は己の守護者をエスコートするかのように、月に向かって手を差し出す。
「さあ、久しぶりに出番だぜ。来いよ、レイディッシュ」
 そう言った次の瞬間、さしのべたその手には、見まがうことなき立派な大根が出現していた。
 純白のその大根は、まるで白光を纏う月からの授け物であるかのように、月光を受けて綺麗な輝きを
放っている。

「さあて、一暴れしてやるとするか。行くぜレイディッシュ!」
 得物を右手に携え、少年は力強く大地を駆ける。
 少し前に、白夜が言っていた言葉が胸をよぎる。
『私たちは業を負わされた。決して逃れられない宿業を』。
 その業を自分たちに負わせたのは、一体誰だ? その宿業とは、一体何だ?

 その答えは、もはやどうでもいい。何であれ、自分のやるべきことは定まっている。
 『岬月下』とは、神に叛く男の名前。だから今回もまた、ただ叛くだけ。
 神に、その神が運命(さだめ)た宿業とやらにも、ただ叛くだけ。叛いてみせる。ただそれだけだ。




 気づけば、キメラとの距離は陽太がそれを完全に視認できるほどに縮まっていた。陽太に気づいたの
だろう、キメラも全力で陽太に向かって駆けてきている。

「犬っころなんてのはなあ――」
 言いながら、陽太は右手の得物を大きく振りかぶる。しっかり腰も入れて、キメラに対してほぼ半身
の態勢になって、さらに距離を縮める。

 そして最接近。陽太の喉元に噛みつこうと大地を蹴るキメラと、陽太が跳躍するタイミングはほぼ同時。
「喉元に飛びかかるぐらいしか能がねえんだよ!」
 空中高く飛び上がったままそう叫びつつ、狙いを外してガラ空きになったキメラの鼻っ面へ、全力を
込めて右手を振り切る。
 鈍く若干湿っぽい音とともに、キメラはその場に苦しげな呻き声を上げながら崩れ落ちる――それが、
陽太のシナリオだった。

「な、そんな馬鹿な……。レイディッシュが犬っころ如きの鼻っ面に負けて折れるなんて……」
 自分の右手に戴く魔剣――だったもの――を見つめて、陽太は茫然とつぶやく。
 キメラにダメージがなかったわけではない。地面に崩れ落ちるとはいかないまでも、明らかにふらつ
いているし、そもそも陽太を視界に捉えることができていない。野菜の中でも硬い部類に入る大根で、
全力で顔面を殴りつけられたのだからそれは当然と言える。
 だがそんなことは問題ではなく、自分の自慢の相棒であるレイディッシュがこれほど簡単にへし折ら
れてしまったことが、陽太を戦慄させていた。

「愚者は己が愚者であることを理解できず、また認めることもしない。それは何故? 答えは至極単純。
それは彼の者が愚者であるが故。誰の言葉だったかしらね。今の貴方ほど、この言葉が似つかわしい者
はいないわ」

 いつの間にか、隣には白夜がやって来ていた。その発言にイラッとして言い返そうとした陽太だった
が、白夜のその顔は、冷ややかで小馬鹿にしたような言葉とは裏腹に穏やかに微笑んでいるように見え
た。
「でも、私は愚者は嫌いじゃないわ。地の果てまでも突き抜けたような真性の愚者ならね。唾棄すべき
は愚者を装う……って、岬月下! まずいわ! もう回復したみたい!」
 言われて目をやると、言葉の通りキメラはしっかり陽太と白夜に狙いを定め、がっちりと四肢を地面
に踏ん張っている。さっき与えたダメージは、もうすっかり抜けきってしまったようだ。

 陽太が気づいた次の瞬間、キメラは2人に向かって強く大地を蹴っていた。
 食われる。自分かこの少女のどちらかが。避けきれない。化け物の速度に、人間の反射神経で適うは
ずはない。
 それなら避けなきゃいい。そう、避ける必要なんてないんだ。
「来い! サァイレント・シールドオォ!」

 同時に陽太の手元に現れる、巨大な蟹。その頑強な甲殻は、犬よりもさらに凶悪に伸びたキメラの犬
歯さえも見事に弾いてみせた。
 だが、今度はキメラにダメージは一切ない。案の定そいつはすぐに態勢を立て直し、また2人に向かっ
て低く唸り声を上げて威嚇してくる。
「フン。さあ何度でもかかってくるがいいぜ。この鉄壁の護りサイレント・シールドを打ち破れるもん
ならな」

「ちょ、ちょっと岬月下。蟹はやめて。ていうか、魚介類はやめて」
 息巻く陽太の隣りから、そんな弱々しい声が聞こえてきた。見れば白夜の顔は張り付けたようにこわ
ばっている。チラチラと所在なさげに漂う視線が、たまに陽太の持つ蟹に向けられては、またすぐに散っ
ていく。
「白夜、お前もしかして……蟹嫌いなのか?」

「蟹に限ったことではないわ。魚、貝、海藻類……。海に育まれたものにはおしなべて嫌悪を感じるの。
巡り廻る輪廻の鎖の一片で、私は海に疎まれた存在だったのよ。その記憶はさらに何度も輪を巡ること
で歪められ、私もまた海を厭うこととなった。だから私自身にはなんの罪過もないはずだし、海で暮らす
生物たちに少しの咎を科すこともまたできないの。海に嫌われた存在だったという前世の記憶と、惰性
と化した輪廻による記憶歪曲さえなければきっと私も、蟹やフグをはじめとした海の幸たちを楽しめた
のでしょうね」

「こんな時によくそんな長台詞喋れるなお前は……って、来るぞ!」
 白夜の長広舌が終わるまで待っていてくれたかのようなタイミングで、キメラが再度攻撃をしかけてくる。
 狙いは――自分じゃない。
 そう判断して陽太は、白夜を庇うようにその正面を塞いだ。
 ガヂン、と硬いものがこすれながらぶつかる音。陽太の体にかかる一瞬の衝撃。

 蟹の甲殻が、またしても怪物キメラの禍々しい牙を完璧に防いだのだ。陽太はここに来て、自然が創造
するものたちの力強さを実感せずにはいられなかった。人工的な被造物であり、強化されているはずのキ
メラの牙が、あくまで自然で育ったはずの蟹の甲殻を打ち破れずにいるのだ。
 この盾が破られない限り、自分たちが負けることはない。そう思った。
 でもそれだけではダメだということもまた、陽太にはわかっていた。

「私たちの勝利を約束する剣がないわね」
「なんだ白夜。お前も同じこと考えてたのか」
 魔剣レイディッシュを出してみたところで、一発殴れば折れてしまう。しかも、こいつは立ち直りが異
常に早い。ふらついている間に逃げ切るなんてことはちょっと難しいだろう。
 つまり決め手がないのだ。サイレント・シールドがある限り負けはない。だが、レイディッシュを上回
る剣を得なければ、勝ちもない。

「……蟹の甲殻って、凄まじく頑丈なのね」
「あん? 今更何言ってる。サイレント・シールドは無敵の盾だ」
「いいでしょう。岬月下、貴方に命じるわ。その蟹の鋏の片方をもいで、私に寄越しなさい。片方と言う
のは片手という意味ではなく、鋏の刃の片方ということよ。それと、貴方がすぐに思いつくことのできる
長い野菜を一本生成して、それも私に寄越しなさい」
 矢継ぎ早に早口で出された白夜からの理解に苦しむ指示に、陽太の脳内は「?」で一杯になった。

「急ぎなさい! 私が貴方に剣を与えるから! 今は黙して命令を聞くのよ!」
 その檄を受けて、陽太はふっ切った。すぐにうかぶ長い野菜。長ネギ? いや、ごぼうにしとくか。
そう決めて、間髪入れずに左手にごぼうを出現させる。
 それを背後に立つ白夜に手渡すと、次は胸に構える蟹の鋏をもぐ作業にかかる。
 眼前には今にも飛びかかろうと隙を窺うキメラ。今この瞬間は隙ではないのかと不要なツッコミを入れ
つつ、陽太はやや苦労しながらもなんとかその鋏をもぎ取って、これまた白夜に渡す。

 少し躊躇いつつも一応ちゃんと鋏の欠片を受け取った白夜。ゴスロリファッションの少女が左手にごぼ
う、右手に蟹の鋏を持つという、前衛絵画の題材にでもなりそうな不思議な光景を作り出している。

「こんなところでこの能力を使うことになるなんてね……。岬月下、少し集中するわ。魔犬の注意を逸ら
しておいて」
「お前の夜の能力か……。なんか知らねえが、期待してるぜ、白夜」
「ふん。そんな言葉、なんの励みにもならないわ。貴方はそっちに集中してなさい」

「ハッ、だそうだわんちゃん。そういうわけだから、ちょっとの間だが2人きりで仲良く踊ろうぜ? 何
を踊る? ワルツか、それとも情熱的にベリーダンスでもするか?」
 返ってくるのは、「グルルル」という解読不能のつれない返事。だから陽太は勝手に決めてやった。体
と体を激しくぶつけ合う、ベリーダンスを踊ることを。

 姿勢を低く保っているキメラに向かい、陽太は自分から飛びかかっていく。顔面に盾である蟹を叩きつ
けての捨て身の攻撃。さらにそのまま首元にしがみつき、絡み合うように地面に引き倒してやる。
 だが、強化された元犬であるキメラの筋力は陽太の予想を上回るものだった。
 鋭い爪を立てた四つ足をばたつかせてのがむしゃらな蹴りを、陽太は体勢をうまく変えることでなんと
かやりすごしていたが、このままの抵抗が続けば自分が消耗するのは目に見えていた。

「うう……ぐぐぐ……クソッ、なんつー力だよこいつ。しかもなんか首が――」
 地面に引き倒したキメラの首元を、陽太は全力で押さえつけている。だがそれでいてその頭は、陽太の
喉元を噛みちぎろうと執拗に迫ってくる。その柔軟性に、陽太はこの怪物の怪物たる所以を感じた。
 まるで蛇みたいだ。もはやこの生物は完全に犬なんかじゃない。憐れみと同時に、新種の生物に対する
本能的嫌悪を抱く。

「岬月下! 立ちなさい!」
 そう叫ぶ白夜の声が聞こえる。だが起き上がろうにも、キメラを引きはがせない。離れようとして力を
緩めれば、キメラの狂える牙は確実に自分の喉に達する。
 賭けに出るしかないか。そう決めるや否や、陽太は右手をキメラの首元から離す。だが左手だけではキ
メラの太く頑健な首を抑えきれるはずもない。
 容赦なく、キメラの禍々しく湾曲した牙は少年の首へと達する――その間際、キメラの大きく開いた口
に、太く立派な大根が横向きに差し込まれた。キメラの牙はその大根へと盛大にめり込み、完全に無力化
されてしまう。

「ふぅー、間一髪」
 すっくと立ち上がりながら、陽太は大きく息をついた。右手を離した瞬間にレイディッシュを生成し、
自分への攻撃に合わせて噛ませる作戦。レイディッシュの出現と、自分の反射神経が少しでも遅れれば
確実にこちらがやられてしまう危険な賭けだったが、陽太は自分の力を信じた。

「岬月下! 受け取りなさい! これが貴方の新しい剣、必ず貴方に勝利を与えるはずよ!」
「うわ馬鹿! 剣を投げるやつがどこにいる! 俺を殺す気か!」
 と言った時にはすでに遅く、白夜の手から放たれた細長い物体はまっすぐに陽太に向かって飛んでくる。
 若干ビビりながらも、なんとかそれをキャッチする陽太。
 自分の右手に収まったそれを見て、陽太はただ目を見張ることしかできなかった。

「なんだ、これ……。蟹の鋏、なのか?」
 形を見ればそれはどう見ても蟹の鋏の片割れ、つまり白夜に渡したものと同じものだ。だが明らかにサ
イズがおかしい。なんとなくで判断しても1メートルはあるように思える。
「白夜、これは一体……」
「これが私の夜間能力。異形錬金【ヘレティック・アルケミスト】よ。2つの物質を結合させ、その特徴
を併せ持つ新種の物質を生成する力。それは私の能力によって作り出した剣。皇剣・朧夜(こうけん・お
ぼろよ)と命名したわ。しっかりとその名を刻みなさい。貴方の心に、深く。その剣が与える傷痕のよう
に、深く。断ち切れるほどに、深淵深く。さあ、刻みなさい」


 つづく

登場キャラクター



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最終更新:2010年07月10日 10:38
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