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地獄とは神の在らざることなり(前編)

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地獄とは神の在らざることなり(前編) ◆JvezCBil8U


――――死体が二つ、転がっていた。


動揺することもなく、見慣れたものとばかりにその光景を彼女は冷静に判断する。

「……もう始まっていると、そういう事ですか」

結崎ひよの――今はこう呼称しよう――が博物館に足を踏み入れたとき。
既にそこには肉塊が二つ、血の海に沈んでいるのが見えた。

広い、広い博物館。
雑多なモノの織り成す、知識と知恵を体現する文明の集積地。

あたかもその場の展示物であるかのように、動かぬ肉塊は実にその場に馴染んでいた。
ひとつは中心に位置する大ホールから放射状に分岐する展示室に。
もうひとつはそこから離れて間もない外縁上のギャラリーに。
ちょうど――それぞれがお互いに視界に入る位置で。

鉄錆の香りと静寂が辺りを満たし、結崎ひよのは警戒しつつも展示室の死体に触れる。
触れながら、違和感がないか探り始める。

……一応体温は残っているが既に右手の脈はない。
何故右手かといえば、左手は胴体と泣き別れしているからだ。

展示室とホールをつなぐスペースは防火シャッターによって遮断されており、
向こう側に左手を忘れてきてしまっているのは確認済みだ。

心臓は完全に停止しているし、瞳孔も開いたまま眼筋運動を仄めかす事もない。
彼女の見立てに間違いはなく、目の前の元・ヒトは自分が死体であることを主張するのに余念がないようである。

死因はおそらくは左腕の喪失での多量の出血による外傷性ショック。
その上でトドメとばかりに胸に一撃ブチ込まれている。
凶器は銃器。銃創から判断しておそらく38口径。

「――38口径? ……まさか」

いや、と首を振り、結崎ひよのは検証を進める。
憶測は後だ。今は事実確認を早々に終えなければこちらの身が危ない。
体温が残っている以上犯行を終えてまだ間もない時間のはずだ。
下手人がまだ近くにいる可能性は少なくない。

「エグいですね。ご丁寧に足に鉛玉をプレゼントしてからシャッターを閉じ、逃走経路を潰したわけですか。
 ……この分だと、シャッターで腕がちょん切られてしまったのは偶然かもしれませんね」

展示室のもう一端、外縁部に近い場所から血の川がホール付近のこの位置まで続いている。
また、そちらの入り口付近にはシャッターの開閉装置が保護カバーを破壊されてレバーを外気に曝しているのが見えた。
先ほど脈を取った時に気づいたが、あらためて死体を見つめなおすと手に握ったままの道具がどうしても目に付く。

「携帯電話、ですか」

しっかり握り締めたままのその手の指をほぐそうとするも、なかなかに難儀する。
死後硬直はまだ始まっていないのだが、よほど強い力で握り締めていたようだ。
どうにか携帯電話から指を引き剥がして中を確認してみると。

「……ダイイングメッセージでしょうか?」

――ひとつの名前が、血に塗れたディスプレイに浮かび上がっていた。

結崎ひよのに答える声はない。
死者は何も語らない。

だが、だからこそ語るとしようか。
二つのイノチが二つの肉塊に変わるまでの顛末を。

**********

この博物館の構造は、二重円を想定すれば分かりやすい。

内側の円は大ホールだ。
正面入り口から入ればまずここに展示された巨大な模型群が出迎えてくれる。
このホールは一番上の階まで吹き抜けになっているため、各展示室とは比較にならない大きなものを飾ることが可能なのだ。
たとえばそう――ミニチュア封神台とか。

そして外側の円はギャラリーになっている。
ここには絵画が展示されており、モチーフも技法も全部バラバラだが見る人が見れば気づくだろう。
これは、参加者たちの経験してきた様々な物語の1シーンを切り取ったものであると。
――崑崙十二仙が聞仲に手も足も出ず撃破される様が絵の一つに克明に描かれていた。

この2つの円を繋ぐように、内側の円から放射状に伸びているのが各展示室である。
各階を移動するには大ホールに設置されたエレベーターと、ギャラリーに設置された階段を使用する。

……と、ここまでが太公望が把握したこの建物の概要だ。

「うーむ……、しっかしけったいなモノばかりじゃのう」

どうやらこの博物館は自分たちに縁のあるものばかり展示しているらしい。
太公望がそれに気づくまで大して時間はかからなかった。

とはいえ、情報がない以上説明を見ても部分的にしか分かるものがない。
綾崎ハヤテがいるなら――と思うも、彼も似たり寄ったりなものだろう。
それでも別行動をとったのは失敗だったかもしれない。

今太公望がいるのは3F、秘密結社バロックワークスとやらを扱った一角だった。
その設立経緯や構成員について列挙されてる他、等身大の蝋人形や実際に用いた武器までもが展示されている。
何でもこの蝋人形はドルドルアーツとやらの能力で再現されたのだとか。
ただ、何故かMr.2という人物についての記述や情報だけがすっぽり抜け落ちており、
博物館をある程度見終えた太公望はその怪しさから再度ここに訪れたのだが。

「……む?」

そのMr.2に関する欠落以上に、あからさまなおかしさを太公望は感じる。
何だろうか、先刻訪れたときには感じなかった違和感。
つまり――、先ほどから今この時までに、何か変化が起こったという事だ。

あらためて周囲を見渡しつつ、記憶と現在を照合していく。

説明文の書かれたパネル――変化なし。
ガラスケース内部の展示物――変化なし。
構成員の蝋人形――、

じり、とそのうち一体ににじり寄り、にらめっこする。

「……ぷっ」

口を押さえて笑いをこらえる。
何とも見事なカールを描いたその髪に、ついつい笑いが漏れてしまった。

その人形の説明書きに記された名前は、Mr.8。
太公望の感じた変化は、人形の持っていた道具の喪失。

その、失われた道具の名前は――――、

**********

ぶじゅり、と足を動かす度に激痛が走る。
ぼとぼとと血溜まりが足元に広がり、臓腑の奥底から譬えようもない嘔吐感が込み上げて、
しかし口から吐き出すこともできず肉の中をかき回すようにぐっちゃぐっちゃに意識と吐き気が混濁する。

膝の皿を見事にブチ割り、尚且つ体の中に弾をとどめる絶妙な射撃。
いわゆる盲管射創は自分の機動力を大幅に削いでいる。
自慢の健脚は、いまや見るも無残な棒切れだ。

一歩踏みしめると関節のお肉の内側で銃弾の冷たい感触がゴリゴリと自己主張する。
骨と神経とが擦れあっては頭を真っ白にさせ、激痛は中身の異物の形を否が応でも意識させる。

それでも、立たねばならない。
立って逃げねばならない。
たとえたった一歩前に進むのが幾千里幾万里の砂漠行軍に匹敵する過酷だとしても、そうせねばならないのだ。

だけど辛いものはどうしようもなく辛くて、仕方ないから声を上げる。
大きく、大きく。
誰かに自分はここにいると知らしめるように。


「      !」

尤も、その声が誰にも届くことはないのだけれど。
そう――、自分のこの耳も含めて、だ。
どれだけ声を軋めても。
どれだけ叫びを震わせても。

何故か、何処にも届かない。
いや、声だけでなく歪んだ自分の脚の挙げる悲鳴すらもが、この耳に届かない。

――完全な無音の世界。

自分の呼吸の音も、やや五月蝿い空調の音も、とうとう堪えきれずに今こうして無様に地面に転がったその音すらも。
何一つ、ここには存在しない。

騒がしくも奏でられる尋常の世界がどれだけ音に満ち満ちていたのか。
今こうして真の静寂に纏わりつかれていることで、ようやく実感できる。

顔を涙でぐちゃぐちゃにして、引きつる頬を抑えても状況はただ続くばかり。

助けを呼ぶことは叶わない。
それどころか、自分が今ここでこうしていることすら全く気づかない。
誰も、誰一人とて。

だからこそ、仲間のところへたどり着かねばならない。
這ってでもいい、匍匐するように後ろも見ずただ、前に進む。

ただ前へ、前へ。
その意思で綾崎ハヤテは呪わしき運命に立ち向かう。

――つい先刻。
天球の鏡の前で思い出したひとつの誓い。

その直後に一つの出会いがあり、それが終わりの始まりだった。
客人と情報を交換した矢先の事。
客人から得た情報はやはり訳の分からない事ばかりで混乱するだけだったものの、一つ得た利益がある。
自分の持っていた賞金首の手配書を見せたら驚かれ、なんとご丁寧にもその賞金は取り消されていると教えてくれた。
そのことに非常に落胆したのは確かだが、それ以上に客人の仄暗く淀んだ瞳が印象的だった。

だが、何にせよ自分にそのことを教えてくれたのは確かだ。
とりあえず同行者のところまで案内しようとハヤテは背を向ける。
自分も素人ではない、何かあれば対応できるはずだと警戒は怠らずに。

そして、数歩歩いて気づく。

何故か自分の脚が血に塗れていた。

眼に映るのは、膝の裏から開いて表面に僅かに盛り上がりを見せる真ん丸い傷跡。
途端、肉を抉られ血と組織のミックスジュースを作るとき特有の鮮烈な痛みが脳髄を揺るがした。
一気に力が抜け、その場に哀れに倒れ込む。

何故、どうして、と問うも、この明らかな異常事態に頭がついていかない。
銃声は、全く聞こえなかった。
いつ撃たれたのかすらも分からない。
苦悶の叫びを上げようとして、そこでようやく気づいた。
喉に全く異常はないのに声が耳に届かないことに。

「    」

戦場において音が聞こえないというのがどれほど恐ろしく、おぞましい事か。
確かに五感で最も情報が多いのは視覚ではある。
だが、聴覚というのは何処で何が起こっているかを知らせてくれる、頼もしい門兵であり、斥候なのだ。
それが働かない事は、即ち無条件でまな板の上に体を横たえるのにも等しい。

警鐘が延々と、延々とやかましいほどに頭の中で鳴り響く。
震えそうになる手を握り締めて、背後を懸命に振り向く。

「  ……!?」

そこにはもう、誰もいない。

それを確認したとき、本当の恐怖を思い知る。

「     !  ……?
 ……    。    !!」

何処に客人――いや、敵が潜んでいるのか。
何処に自分の安息の場があるのか。
一度でも眼を離したが故に、足音も聞こえないが故に、それを知る術はもはやない。

そしてまた、音がない故に対話は完全に絶たれた。
選択肢は二つ。
逃げるか、立ち向かうかだ。

何を迷う必要がある。先ほど、決めたではないか。
ここは立ち向かわなければならない。
失った少女を取り戻すために戦うと、そう決めたのだから。

……けれど、感情は決意をねじ伏せる。

逃げたい、逃げたい、逃げたい、逃げたい、逃げたい、
逃げたい、逃げたい、逃げたい、逃げたい、逃げたい。

ガクガクと体が震える。
だって、そうだろう?
いきなり脚を潰されて、痛みで朦朧とする頭で戦うなどそれこそ勝ち目は万一ですらない。

そして同時にこうも思う。
この異常を、誰かに知らせなければならない。
声が伝わらない以上、あの太公望もこちらに全く気づいていないはずなのだから。

こんな恐ろしい相手がこの博物館を跋扈している事を、誰かが彼に知らしめなければならないのだ。

そう、だから今から行うのは絶対に逃走などではない。
理に適った行動だ。そのはずだ。
博物館の構造を思い出す。
太公望がいるのは確か階上。
この脚では階段を昇るのは不可能だ。
使えるのはエレベーターのみであり、それはホール側にしか存在しない。

だから使い物にならないはずの脚を必死に動かして、どうにか前に進もうとする。
高いところから一気に落ちたときのような浮遊感ある気持ち悪さと、
病気のときに感じる悪寒を何十倍にも濃縮したような気だるい寒さと、
灼熱した針を千本、同じ箇所に繰り返し突き刺したような余りにも鮮烈な痛みが、立ち上がった瞬間に襲い掛かる。
そして、ミリ単位で足を動かすのと同期してその波が幾度も襲い掛かるのだ。

だけど。

「……   。    。……       !
     !      !!」

前へ、前へ、ひたすら前へ。
びっこな片足を引きずって、口の中に吐瀉物を溜め込んでは飲み込んでの繰り返しをしながらも。

**********

「む。……やっぱり、妙じゃな」

――静か過ぎる。

この博物館とやらはそれなりの広さを持つ事もあり、最上階まで見て回るのにそこそこの時間を要した。
地図に名前が記載されている以上ランドマークとしての役割もあるからだろうが、非常に目立つ建物だ。
だから、自分たち以外にも新たな客人が訪れても全くおかしくはない。

おかしくはないし、実際にその痕跡がある。

だからこそ、妙なのだ。
自分以外に二人もこの建物にいる可能性が高いというのに、そんな騒がしさが全く感じられない。

人というのはそこにいるだけで案外五月蝿いものだ。
流石に呼吸音や心音などといった微細な音は、ヒトの域を超越した音の世界の主でもなければ聞き取れはしないだろう。
だが、たとえば足音などは存外響く上に個性的だ。
人によっては独り言が友であるものもいるし、空気の震えは嫌でも肌に響く。

「不味いの。……少し、様子を見てみんといかんか」

もしかしたら綾崎ハヤテや客人は何事もなく、平穏無事に展示物を眺めているかもしれない。
だが、太公望の策士としてのカンが遠目からワァワァと警報を鳴らしているのだ。
今は警戒に警戒を重ねてなお足りない事態であると。

選択肢は3つ。

このまま息を潜めてやり過ごすか、気づかれぬように逃げ出すか。
そして、どうにかして危機に立ち向かうか。

「わしとしては、出来れば逃げたいトコなんじゃがのー……」

――それが最も賢い選択だ。
未知の恐怖、とはよく言われるが、何故それが恐ろしいかといえばそれこそ『未知』だからだ。
知らないからこそ、人はそれを恐れる。

知らないが故に理解できない。知らないが故に対処できない。知らないが故に抗えない。

単純な話、何がどうなっているか分からないならば手の打ちようがないのだ。
そしてそれこそが太公望のような策を武器とするものにとっての天敵なのである。

「……まいったの」

ここには、誰もいない。
元始天尊も、楊ゼンも、普賢真人も、黄飛虎も、誰も彼も。
太公望にとっては彼らのもたらしてくれる情報こそが要の一つであり、
今の様な事態は正味な話彼にとって明らかに辛い状況なのだ。

「だがのう、未知を未知のまま放っておいてもいずれは正対せねばならんしの」

――この殺し合いが最後まで続けられるならば、たとえどんな相手でもいずれは相見えよう。
望む望まずに関わらず、だ。

……たとえ救えずとも、偵察のつもりで様子を伺っておくべきかもしれない。
綾崎ハヤテには悪いが、救えない公算は少なくない。
だがそれでも、救えるならばそれに越した事はない。

気づかぬうちに歯の根に力を込めながらも、太公望は太極符印を手に一人歩き始める。
友の形見を頼りにして。

**********

「  ……!   ……! ……   !!」

息を切らせて、嘔吐を耐えて、痛みを堪えて、ただただただただひた走る。
否、ひた歩く。
ジグザグにジグザグに、どうにか狙いをつけさせない様に。
それが脚の負担になると分かっていても、自分を侵食する寒さを振り払いながら。

――アテネを、取り戻す。その一念で、ただ綾崎ハヤテは進んでいく。
虎視眈々と今も自分を狙っているはずの狩人は、どうしてか追撃の気配を見せない。
それがあまりにも不気味で、だからこそその手を叩き落とすためにひたすらに。
もし弾丸が不足しているなどの理由で慎重になっているならば、そこに付け入る隙はある!

「      ……!」

その希望に縋る事への当て付けであるかのように。
優しさすら感じさせる無情さでシャッターが静かに道を閉ざしていく。
エレベーターまではほんの十数メートルだというのに、あともう少しだというのに。
脚がどうなろうともかまわないとその覚悟で持って更なる一歩を踏み出した、その時。

「……   !?」

どてっと、ギャグ漫画のように思いっきり転倒した。
ああ、そんなつまらないミスをした自分が、悔しくてたまらない。

霞む頭でもそれでも奮起し、歯の根が合わなくともギリ、と唇を噛む。
血がだくだくと溢れ、口に流れ込んでいく。
立ち上がろうとしても、脚には力が入らない。

まだだ。まだ、諦める訳にはいかない。
だから、這ってでも前に進むのだ。

手を伸ばす。その先にある何かを掴むかのように。
芋虫のように体をくねらせて、閉まり行く扉の向こうへと体を伸ばす。

その先へと、恥も外聞も無視してひたすらに進む。
――ハヤテのごとく。
ハヤテのごとく、誰かの居場所に辿りつく為に。


そんな想いは、決して現実には届かない。
物理的事実は頑としてここに立ち塞がる。

「…………    !!」

伸ばした手の二の腕に、シャッターの冷たい縁が食い込んだ。
ぐりぐりと、ぐりぐりと、皮膚が、血管が、筋が、骨が、神経が圧迫されていく。
急いで引っこ抜こうとした――いや、力で無理やりシャッターの下降を抑え、潜り抜けようとしたその瞬間。

「    !」

もう一度、今度は胸に激痛が走った。
やはり音はなく、……しかし、確実に銃撃と分かる痛み。

心臓が、バクバク言っている音が骨を伝って聞こえた。
久しぶりに聞く音は、自分の命の際を伝える音だった。

動いているということは、心臓は無事だったのだろう。
だが、それだけだ。
信じられない量の血が大量に流れ出している。
動脈を思いっきりやられたようだ。
まるで降りしきる雪に埋もれていくかのように、体が冷えていく。

それと同時に、ごりゅごりゅと自分の腕の皮膚が、血管が、筋が、骨が、神経が切断されていく感触がした。
嘔吐感などともはや呼べない、体の中の臓物が全部表に出てくるような息苦しさだけを感じている。

痛いイタイいたいいたいイタイ痛いいたいいたいイタイいたい痛いイタイ――!

気がつけばシャッターは降りきっており、自分の腕は壁の向こうに消えて無くなっていた。
既に痛みすら感じない。
ただただ、喪失感だけが自分を満たしている。

**********

――――吹き下ろしとなったホール。
そこを臨む通路に出てみれば、異変は一目瞭然だ。

見下ろす階下には、あからさまな異常がしっかと居を構えている。

「いつの間にあんなものが降りておったのだ?」

無骨な鋼色のシャッター。
先ほど見た時には、あんな物が道を塞いではいなかった。

「――――!?」

警報が、いつの間にか警鐘へと成り代わっていた。
耳が痛いくらいに、空気が張り詰めるほどにワンワンと唸りをあげている。

「……腕、じゃと?}

遠目からでも分かる。分かってしまう。
切り落とされた腕が、ついさっきまで生きた人間の体にくっついていた腕が、余りにも無造作に遥か下に転がっていた。

シャッターの向こうからじくじくとじわりじわりと、赤い血溜まりが少しずつ広がっていく。

「く……っ!」

予想を遥かに超える速さで、事態は刻々と悪化していた。
気づかぬうちに転移し再起不能なまでに体を蝕む病巣のように、太公望の知らぬところで早取り返しのつかぬところまで。

それでも見捨てられないと判断した太公望は、果たして賢者とは呼べぬ愚妹の輩だったのか。

それを判断するのは、読者諸氏に任せるとしよう。

**********

どろどろと、どくどくと、だらだらと、びちゃびちゃと、じゅぶじゅぶと。

あかいみずが、たっぷりとながれでていた。

ひとのからだってこんなにみずがはいっていたんだと、それはそれはしんじられないりょうだった。


直感した。

――――ああ、自分はここで終わる。
この出血量は間違いなく、充分だ。
死ぬ為に。

何も出来ないまま、ここで終わる。

絶望が、綾崎ハヤテの心を満たす。

いいのだろうか。

本当に、ここで終わっていいのだろうか。

「……  」

違う、と、そう言ったつもりだった。
だが相変わらず、音は聞こえない。

――その事から、一つ気づいた。
敵は、まだ近くにいる。
自分が死に絶えるのを、待っている。

ごろり、と、力尽きたかのように横転する。
それを警戒したかのように、何かがぴくり、と動くのが見えた。

天球の鏡の、すぐ横で。
その隣に飾られていた、あるものの影に隠れるように。

思い浮かべる、かつて袂を別ち失った一人の少女の事を。
せめて、自分が彼女のことを忘れていないとそれを伝えたくて。

「    ――――!」

片足に力を込めて、渾身の力で飛び掛る!
たとえどれだけ少ない確率でも、失ったものを取り戻すために!
せめて、せめて一太刀ぐらいは浴びせられる様に――!

そして、そこまでだった。

敵は身を隠していた『それ』ごと、飛来してきた綾崎ハヤテを殴り飛ばした。
蹴りか、掌打か、はたまた体当たりか。
綾崎ハヤテからは、『それ』が陰になっていて、何をしたのかも見えなかった。
本当にそこにいたのが敵だったのかも、見えなかった。

ぼきゅごりゅぼき、と、色々と大切なものがイッた感触が妙に生々しく感じた。


**********


結論から言えば。

どうしようもなく、遅すぎた。

「ハヤテ――――!?」

まあ、仕方あるまい。
見えないところで起こった事を知ることができる人間などいない。
ましてや見えないどころか、聞こえないという条件すら加わったのならばなおさらだ。
否、人間に限らず、すべての存在は自分の知覚出来ない場所で達せられた事を知る術などないのだ。
それは仙道であろうとまた然り。

我々に許された感覚情報というのは僅かに5つに過ぎないという事を実感している人は決して多くない。
視覚聴覚嗅覚触覚味覚、我々が外の世界を感じ取るのはこの5つでしかない、
知識ではそう知っていても、世界はそれ以上の情報に満ち満ちているという錯覚は決して拭えない。

だって、そうだろう?
この世界がたった5つの感覚の組み合わせで再現できるなんて、君たちは信じられるか?
脳に電極を繋いで5種類の刺激を送り込みさえすれば、どんな夢物語でも再現できると信じられるか?

話を戻そう。
要するに、自分の見えぬ場所、目の前で起こったのではない事という視覚情報の欠如。
そして、その場で何が起こったかを空気という媒介を通して伝えるはずの聴覚の欠如。
この2つが足りないだけで、人間はあまりに無知なる動物と化すのだ。
残っている感覚情報の内、触覚と味覚はそれこそ直に接しなければ全く意味のない情報。
少しでも離れた場所のことを教え得るのは、嗅覚だけなのだ。

太公望も良く馴染んだ血の匂いと、彼の時代には存在しない硝煙の匂い。
たったそれだけの情報でどう立ち回れるというのだ?

例えば、そう。

こんな風に心臓狙いの一発が、見事胸のど真ん中を撃ち貫いていた場合には。

「…… 、  ……   ?」

音がない世界――、死の宣告の前兆が全くない世界。
目の前に現れて、あるいは自分の体を貫かれて、はじめて脅威に気づける世界。

血の池に仰向けに浮かぶ綾崎ハヤテを見て、どう動くべきかを思案したその一瞬、だと思う。

確証できないほど静かに、そしていつの間にか、太公望の胸にまあるく一つ孔が開いていた。

肺腑に漏れた血液が流れ込んでいく。
約五億にもも計上される肺胞のひとつひとつを満たすまで、
あたかも雪が降り積もるように見た目にはゆっくりと、実質的にはとても早く、速く。
ごふ、と血を吐いた。
急激な貧血で、目の前がまっしろになった。
今度はまっくろになった。
その次はまた、まっしろになった。
黒と白とが、交互に目の前に現れた。

そして、そのままゆらりと倒れた。
ごとりという音すら、音界の覇者は許さなかった。

ぽっくり、と、そんなオノマトペが良く似合った。

ころころとすぐ傍に転がる太極符印に手を伸ばそうとして――、諦める。
もう済んだ事だ、どうしようもない。

すまんのう、と、形だけ口を動かして、太公望の瞼は花が萎むように閉じられていく。

血の池がもう一つ、健康なエキスに満ち溢れた山水画を作り出した。

**********

ただ空を仰いで横たわる。
いや、空どころか低い天井でしかない。
『それ』を体の上にのしかからせたまま、綾崎ハヤテは自分の呼吸が徐々に小さくなっていくのを実感していく。

のしかかっているものは、立派なトルソーとそれに掛けられた執事服だった。
なんとなく、ちょっと重く感じたので無造作にそれをどかす。
下半身はもう動かないけど、どうにかそれくらいは出来た。

と、その執事服の中に何か硬いものがあるのに気がついた。
ポケットを探ると、その中からプラスチックの塊が一つ。
携帯電話が、転がり落ちてきた。

どうしてそうしようと思ったのかは分からないが、それを開いて電源をつける。
電話帳の一番最初を見てみると、そこには知らない少女の名前が表示されている。
何故か迷うことなくそれを選択し、ゆっくりと耳に当てた。

『――あ、おいお前! どうして私の執事の服と携帯をパクったりなんてしたんだ!』

――覚えのある少女の声が、いきなり自分を弾劾した。
気が強そうだけれど、それでもどこか優しそうな可愛らしい少女の声。
いつのまにか世界に音が戻っていると、その事を知らしめてくれた。
……これは、誰の声だったろう。

そしてもう一つ、いつもどこかで聞いているようで、やはり思い当たらない声の持ち主が電話の向こうに現れた。

『……お嬢様、いきなりそれはマズいんじゃないですかねー、もしかしたら善意の人かも……』

……この少年は誰なんだろう。
知りたいけれど、知りたくもないという矛盾した感情がせめぎ合う。

『だ、だってこいつ怪しいぞ! さっきからなんかハアハア言ってばかりで一言も喋らないんだ』
『ちょっ、お嬢様、切ってくださいそれは! 
 携帯なら契約を切って買い換えればすみますし、それより不審者の手元にお嬢様との連絡手段があるのは危険ですって!』
『……う、うむ。でも、あの携帯は……』
『大丈夫ですって、携帯電話がなくても呼んでくれれば僕はすぐに駆けつけますから』
『ふふ……、そうだな。お前はいつだってそうだもんな』
『え、あ……』
『照れるな照れるな、もっとお前は自信を持っていいんだぞ?』

聞いている内に、何とはなしに少女誰なのかを思い出した。
ああ、この声は――、

『何せお前は、この私――、三千院ナギの執事なのだからな!』


とても嬉しそうに事実を告げるこの声は、自分が誘拐しようとした少女の声だ。

……何故か、安堵の吐息が出た。
誘拐などという最低の行為をしようとしていたのに、その安否を知ったらほっとしたなんておかしいなと思う。

そしてもう2つばかり、湧き上がった感情がある。
嫉妬と羨望。
どうしようもない程に、少女と一緒にいるらしい執事の少年にその感情を抱いてやまなかった。
やっぱり、理由は分からない。
分からない事だらけだ。

どうしてこんな事になったのだろう。
どうして自分はこんなところにいるのだろう。
どうして自分のそばには、誰もいないのだろう。

天王州アテネの事を想い、悲しさを中心とするたくさんの感情がごちゃごちゃになっては消えていった。
西沢歩を始めとする、学校の友人たちがあまりにも懐かしかった。

最後に残ったのは2つだけ。
ただ寂しくて、悔しくて、上を向いて表情を変えないままぼろぼろと涙をこぼす。
後から後から、どれだけ泣いても涙が枯渇しない。
同時に、意識が溶けていく感触がする。
混沌とした暗闇の中に一人、原型もなくどろどろにトロけていく。

自我とやらはもうとっくにはっきりしない。
もしかしたら、今の電話も幻聴だったのかもしれない。


「せめて――、」

最後にたった一つ思ったことは。

「せめて君たちは、幸せに……」



たとえどれだけ望もうと、足掻こうと、過去は過去。
綾崎ハヤテは前に進んでいるようで、結局は既に存在しない絆に縋り付こうとしただけでしかない。

綾崎ハヤテは執事である。
執事とは、他の何に変えても主を護りぬく者である。

だが、彼が選んだ選択は、今ある大切なものを『護ること』ではなく。
失ったものを取り戻そうと『戦うこと』だった。

彼がほんのわずか未来からこの場所に訪れたのなら。
運命と戦うと、執事の本分を忘れた世迷言を望まなかったなら。
新たな誓いを胸に、大切な何かを絶対に護り抜くと、その決意が出来ていたなら。

可能性を論じることに意味はない。
今はただ、一人の少年の結末を淡々と語るとしよう。

殺し合いに招かれた、この綾崎ハヤテは死んだ。
それだけの事だ。

そしてまた、今この場にいる彼の縁者たちはその多くが生きている。
ここに招かれた三千院ナギも、生きている。



Hayate the combat butler  BAD END



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