王伾 おうひ
?-806
中唐の官人。杭州の人。永貞の改革の「二王八司馬(
王叔文・王伾・
韋執誼・
韓泰・
陳諌・
柳宗元・
劉禹錫・
韓曄・
凌準・
程异)」の一人。風采が上がらず、南方の言葉を話す人物であったが、書待詔から太子時代の順宗の信認を得て太子侍書となり、大明宮の柿林院に出入りするようになり、宦官の
李忠言や寵姫の
牛昭容と知遇を得た。順宗が即位すると王叔文による永貞の改革がはじまったが、王叔文は順宗の尊敬を得ていたにも関わらず、出入り可能であったのは翰林止まりであり、同じく非官僚出身の王伾は柿林院まで出入りしたため、その連絡役となって行動した。王叔文が母の喪に服すと、王文叔を宰相とするよう願ったが、却下された。宦官の
倶文珍らにより順宗が憲宗に譲位することになると、永貞の改革の「二王八司馬」は貶され、王伾もまた開州司馬に貶された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2023年12月25日 01:23