裴談 はいだん
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盛唐、
殤帝の宰相(在任710)。
中宗の時に御史大夫となって、恐れられた。
桓彦範が
武三思を倒そうとして失敗すると、死罪を主張する御史大夫の
李承嘉と、李承嘉の取り調べを要求する大理丞の
李朝隠が対立した際に、大理卿として桓彦範の即時死罪と家財没収を主張した。東都留守となり、譙王
李重福が叛いて
李邕に敗れて逃走すると、捜索して自殺に追い込んだ。景雲元年(710)六月、
韋皇后によって刑部尚書同中書門下三品(宰相)に任命されたが、八月に韋皇后が倒されると罷免されて蒲州刺史となった。さらに滑州刺史に遷されり、開元年間(713-741)初頭に酷吏であることを理由に登用を禁止された。
本紀・表・列伝
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最終更新:2024年12月14日 00:16