高力士 こうりきし
684-762
盛唐の宦官。嶺南の蛮酋
馮盎の曾孫と伝えられ、潘州(広東省茂名県)の人。幼少のとき去勢者となり、698年ごろ、嶺南討撃使
李千里により、同類の金剛とともに宮中にすすめられ、宦官高延福の養子となって高姓を称した。
中宗の景竜(707-709)中、在藩時代の
玄宗に親んで韋氏の乱平定に活躍し、713(開元元)年
太平公主を除くのに力があり、右監門衛将軍を加えられて内侍省のことをつかさどった。こうして、彼は玄宗の寵をうけて権勢をほしいままにし、広大な土地をもち、碾礎を営んで利益を収め、その生活は王侯にひとしく、また宦官でありながら妻帯し、貴婦人と密通事件をおこしたと伝えられる(手術不完全であったらしい)。実に、唐代宦官の跋扈は彼にはじまり、当時四方から進奏の文表はかならず彼に提出してのち進められ、小事は彼が決し、
宇文融・
李林甫・
楊国忠・
安禄山らは、いずれも彼とむすんでその地位をえ、皇太子李亨(
粛宗)も彼に兄事するありさまであった。安史の乱がおこり、彼は玄宗の成都逃避にしたがい、760(上元元)年宦官
李輔国によって巫州(湖南省芷江県)にながされ、762(宝応元)年許されて帰京の途中に没した。代宗は揚州大都督を贈り、玄宗の泰陵(陝西省蒲城県北東金粟山)に陪葬した。『旧唐書』柳登伝によると、
柳芳の『唐暦』40巻は、柳芳が巫州にあった高力士から、開元(713-741)、天宝(742-756)中のことをきき、その事実を加えて完成されたものであるという。また、唐の郭湜の『高力士(外)伝』(『顧氏文房小説』『説郛』『唐人説薈』『竜威秘書』所収)は、高力士と玄宗との関係を描いた小説であるが、玄宗時代の宮中の秘事を知る参考となる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典』3(平凡社,1960)
外部リンク
最終更新:2024年08月17日 13:35