孔穎達 くようだつ
574-648
初唐、
太宗の文化政策を助けた経学者・官人。「こうえいたつ」とも。字は冲遠。諡は憲公。衡水(河北省衡水県)の人。父の孔安は北斉の青州法曹参軍。4才のとき、北斉は北周に滅ぼされ、4年して北周は隋に滅ぼされた。そういう動乱のつづくなかで学問を始め、日に千余言を暗誦し、梁の学者ことに礼学に深かった崔霊恩の『三礼義宗』を修めた。彼が早く礼学を修めたことは、注意されねばならない。伝記の強調部分であるが、次のことが伝えられている。学問がすすんだころのこと、当時大儒といわれた同郡の
劉焯に学を受けようとしたが、質問してみると、尊敬に値しないことを知り、劉焯の引きとめるのを振りきって帰ったという。家にあって学徒に教授した。その学は『春秋』では服虔注、『尚書』は鄭玄注、『易』は王弼注をとり、『毛詩』『礼記』にも通じ、兼ねて算学、暦法をよくした。これは漢学を主とする北朝の傾向である。隋の大業の初め32才のころ、明経にあげられ、
煬帝が天下の儒官を洛陽に集め、国子監、秘書監の学士と議論させたとき、彼は最も若く、先輩老儒を屈するので、刺客に襲われそうになったが、礼部尚書
楊玄感の守護で無事であることを得た。ついでその推薦で太学助教になったが、楊玄感が反乱を起こして敗死したので、難をさけて隠退した。唐が起こるとともに秦府(後の
太宗)の学士となり、50余才のとき、国子博士を授けられ、太宗が即位して曲阜県開国男を授けられ、右庶子兼国子司業と昇進した。命を受けて暦と明堂(政治をつかさどるところ)の事を議定し、ついで
顔師古らと『隋書』85巻を編纂した。また『大唐儀礼』100巻を顔師古らと編纂して、637(貞観11)年完成し、その功によって子爵を授けられた。さらに太子
李承乾の命で『孝経義疏』を撰したが、いまは伝わらない。638年、国子祭酒となり、東宮侍講となった。しかし太子はたびたびのいさめも用いず、後年不幸に終わった。太宗は前に顔師古に五経の定本をつくらせたが、その解釈が一定しないために、孔穎達を中心として、代表的な学者多数を動員し、注釈を作らせた。その前には南北学派が競い起こり、経伝の注をさらに詳しく解釈する義疏学が発達していた。そこで唐では南北学派を統一しようとして、まず劉焯、
劉炫らの義疏の1つを選び、それに各家の説を参考して定説をたてようとした。642(貞観16)年『五経正義』180巻が完成した。しかし困難な大事業で、校訂の必要が指摘され、のちに
馬嘉運および
長孫无忌らの校訂をへたが、当時科挙試験の標準となったのはもちろん、後世、経典解釈の基本的文献となった。643年官を退き、その年太子承乾は廃せられ、東宮職にあったものは罪を受けたが、彼には及ばなかった。死後太宗の陵に陪葬された。彼は経学者として終始し、詩は伝わらず、文集『孔穎達集』5巻も早く失し、『全唐文』146に明堂議、正義序など数編がみえる。子に
孔志約がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典』3(平凡社,1960)
外部リンク
最終更新:2025年12月01日 23:55