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巻一百九十八 列伝第一百二十三

唐書巻一百九十八

列伝第一百二十三

儒学上

徐文遠 陸徳明 曹憲 顔師古 相時 游秦 孔穎達 王恭 馬嘉運 欧陽詢 通 朱子奢 張士衡 賈大隠 張後胤 蓋文達 文懿 谷那律 従政 蕭徳言 許叔牙 子儒 敬播 劉伯荘 秦景通 劉訥言 羅道琮



  高祖が天命を受けて唐を建国すると、叛徒や異民族、天下はほぼ平定し、そこで担当官署に詔して周公・孔子廟を国学に建立し、四季の祭りをし、その後裔を探し求め、爵位と封土を与えた。国学は始め学生七十二名を置き、三品以上子弟もしくは孫を採用した。太学は百四十名で、五品以上を採用した。四門学は百三十名で、七品以上を採用した。郡県は三等に分けられ、上郡は学生六十名を置き、中・下はそれぞれ十名づつ減っていった。上県の学に学生四十名を置き、中・下県は同じく十名づつ減っていった。また宗室・功臣の子孫に詔して秘書外省に就かせ、別に小学をつくった。

  太宗は苦難と厳しい環境にさらされながらも、経書の研究に深い関心を抱いており、そこで王府に文学館を開き、名儒十八人を呼び寄せて学士とし、共に天下の事を議論した。即位後、宮殿の左に弘文館を設置し、ことごとく内学士を引いて交替で宿直させ、朝廷での政務の合間に、一緒に古今の事を討論し、前代の興亡の理由を鑑み、ある日には夜明けから夕暮れまで少しも怠ったことがなかった。貞観六年(632)、詔して周公祠を廃止し、改めて孔子を先聖とし、顔氏を先師とし、天下の学識と徳の高い学者を召集して学官とした。しばしば臨幸して釈菜を見て、祭酒博士に命じて経典の意味を講論させ、束帛を賜った。学生は一つの経典に通じた者は署吏となることができた。広学校は千二百区、三学(律・書・算)は学生数を増やし、あわせて書・算の二学を設置して、いずれも博士が置かれた。学生たちは三千二百名となった。玄武門の屯営の飛騎は、いずれも博士に師事する機会が与えられ、経典が一つでも通じた者は、貢挙する権利が与えられた。全国から優秀な人材が、書籍を携えて京師に集まり、文芸が繁栄・勃興した。ここに新羅・高昌(トルファン)・百済・吐蕃・高麗らの酋長たちがいずれも子弟を派遣して入学させ、集まった者は八千人以上にもなった。ゆったりとした衣服、四方の沓といった古代の服装が秩序立っている様子は、三代(夏・殷・周)の盛事であってもこのようではなかったであろう。帝はまた五経の誤りや欠陥を校訂し、天下に頒布して学者に示し、儒者たち共に章句を集めて義疏をつくり、その所伝を長らくさせた。そこで詔して前代の大学者である梁の皇偘(皇侃)・褚仲都、周の熊安生沈重、陳の沈文阿・周弘正・張譏、隋の何妥・劉炫らの子孫は、全員引き立てて抜擢した。貞観二十一年(647)、詔して、「左丘明・卜子夏・公羊高・穀梁赤・伏勝・高堂生・戴聖・毛萇・孔安国・劉向・鄭衆・杜子春・馬融・盧植・鄭玄・服虔・何休・王粛王弼・杜預・范寧の二十一人、著作は用いられ、その教えは通行しており、尊崇されるべきである。これより以後、全員孔子廟廷に配享せよ」と述べ、ここに唐の三百年の繁栄、貞観の治と称えられたのは、まさに相応しい事業である。

  高宗は官吏の統制を尊んでいたが、武后は臨機応変の政略を誇り、諸王・駙馬はいずれも祭酒となることができた。それより以前、孔穎達らは始め祭酒に任じられ、五経の設問を出して学生たちと共に討論していたが、これより吉凶の判断を三度のみ検討しただけで、廃止された。

  玄宗は群臣および府郡で貢挙されて経に通じた者に詔して、褚无量馬懐素らに禁中での講義を指導させ、天子は礼を尊び、全員を尊崇してあえて臣とはしなかった。集賢院を設置して典籍を整理し、乾元殿にて群書を蒐集して六万巻となり、経籍は大いに備わり、また開元の治と称えられた。安禄山の惨禍により、両京に蔵められた典籍は、すべて灰燼に帰し、官蔵や私蓄の典籍もほとんど失われ、儒者たちは攫われて兵士とさせられた。ここに後嗣の帝は些細な混乱も鎮めることができないのに、どうして貞観・開元の治について語ることができようか。楊綰鄭余慶鄭覃らからは大儒者であって宰相となり、学問の発展を議論し、経典の意味を重要視して、進士を貶め、文章作成能力を軽んじたから、また成功できなかった。文宗は五経を定め、これを石に刻み、張参らが誤りを正したが、わずか一・二ほどであった。この観点から見ると、始めは困難を克服してなしとげられたが、後に失敗することは簡単であったことがわかる。

  かつてこのことを論じて、武は世を救う強い良薬であり、文は美味い食べ物である、と言われた。乱が鎮定された後、必ず文によって統治する。そうでなければ、これは病で体力が落ちた者に強い良薬を進めることになり、かえって害を及ぼすことになる。だからこそ武で統治を行おうとすれば、霸道と略奪は免れない。聖人はこれの逆のことを行なうのが王であるとした。そのため武は創業、文は守成といい、百代不変の道なのである。もし天下をあげて仁義にしようとするなら、儒に勝るものはない。儒は礼儀や道徳が整っている人が現れるのを待つが、その成功を輝かしいものにできるのは、宰相・大臣だけである。専門に伝授して、他に大きな事業がなかった者については、そこで儒学篇をつくった。


【徐文遠伝】
  徐曠は、字は文遠で、字によって世間に通行した。南斉の司空の徐孝嗣の五世の孫である。父の徐徹は、梁の秘書郎で、元帝の娘の安昌公主を娶った。江陵が陥落すると、捕虜となって西に連行され、偃師県をさまよい、貧しくて自給することができなかった。兄の徐文林は書籍を市場で売っていたが、徐文遠はある日これを見て、広く五経に通じ、とくに『春秋左氏伝』に明るかった。当時、老儒の沈重が太学で講義しており、講義を受ける者は常に千人いたが、徐文遠はこれに従って質問したが、数日もしないうちに去った。ある者がその理由を尋ねると、「先生の学説は紙上の言葉にすぎず、深い境地についてはまだ見えていないのではないのですか」と答えた。沈重はその発言を知り、呼び寄せて一緒に何度も議論し、その才能を称賛された。性格は品行方正で、行いは純粋で慎重であった。竇威楊玄感李密王世充は全員従って受学した。

  隋の開皇年間(581-600)、累進して太学博士に遷り、詔によって漢王楊諒に経典を授業した。楊諒が叛くと除名されて平民となった。大業年間(605-618)初頭、礼部侍郎の許善心が徐文遠および包愷褚徽陸徳明魯達を推薦して学官とし、国子博士に抜擢され、包愷らは太学博士となった。世間では『春秋左氏伝』は徐文遠、『礼』は褚徽が、『詩』は魯達が、『易』は陸徳明がおり、全員が当時最も優れていたという。徐文遠は経を解説するにあたって、広く先賢の儒者の異論をあげ、是非をわかりやすくし、そこで新意を出して折衷したから、聴く者は疲れを忘れた。越王楊侗は国子祭酒に任じた。

  当時、洛陽は飢饉となり、徐文遠は自ら城から出て薪を拾っていたが、李密に捕らえられた。李密は徐文遠を南向きに座らせて敬意を示し、弟子の礼を備えて拝礼すると、徐文遠は辞退して、「先日、先王の道を将軍に授けましたが、今将軍は兵百万を擁して、武威は四海を揺るがせるほどです。それでもこの老夫の前で身を屈しておられるのは、実に素晴らしいことです。どうして私は全力を尽くさないでいられましょうか。将軍がもし伊尹や霍光のように絶えた跡を継がせて国家の危機を助けようとするのでしたら、私は老いているとはいえ、それでも力を尽くします。もし王莽・董卓のように、危機に乗じて強いるのなら、私は耄碌しているので何もすることはできません」と言うと、李密は頓首して、「幸いにも上公の地位を与えられたので、全力を尽くす方法を考えています。まず賊を討伐して国家の恥を刷新し、その後に天子に謁見して、我が罪を役人に裁かせることを願い出ます。どうか先生、ご指導ください」と言ったから、「将軍は名臣の子で、代々忠誠を尽くしてきました。以前は楊玄感の党派の手先になりましたが、迷っても遠からずして戻ってきました。今、もし一生を忠義に尽くすのでしたら、天下の人々は将軍に期待するでしょう」と答え、李密は頓首して、「恭んで命令に従います」と言った。にわかに王世充が専制すると、李密はまた徐文遠に尋ねた。徐文遠は「彼は残忍かつ心が狭く、必ずすぐに混乱を引き起こすでしょう。将軍は王世充を破らなければ朝廷は再興できないでしょう」と答え、李密は「常に先生は儒者と仰って、軍事については学んでいないと仰ってましたが、このような大計を立案するとは、智謀は人を凌駕しています」と言った。

  李密が敗れると、再び東都に入った。王世充は次第に特別扱いするようになったが、徐文遠はたちまち先に拝礼した。ある時、「君は李密に会うと相手が王公のようにへりくだると聞いたが、何故なのか」と尋ねると、「李密は君子だから、酈生(酈食其)のような礼であっても受けることができる。世充よ、君は小人だから、人の義理を受け入れることができない。時と相手によって行動を取るのだよ」と答えた。王世充は帝号を僭称すると、用いられて国子博士に任じられた。子の徐士会が長安に逃亡すると、王世充は怒って食料の給付を絶ち、徐文遠は飢えてほとんど死ぬところであった。自ら出て樵となると、羅士信に捕らえられて、京師に送致され、そこで国子博士となった。

  高祖国学に行幸して釈奠を見ると、徐文遠は『春秋』に関する題を提起した。論は鋭く説得力があり、状況に応じて返答し、屈させることができなかった。は優れた人物だと思い、東莞県男に封じた。卒した時、年七十四歳であった。

  孫の徐有功は、自らがある。


【陸徳明伝】
  陸元朗は、字は徳明で、字によって世間に通行した。蘇州呉県の人である。学問を得意とし、周弘正に受学した。陳の太建年間(569-582)、後主が太子となると、有名な儒者を集めて承光殿で講義させ、陸徳明は成人すると、儒者に列座した。国子祭酒の徐孝克が経を講義すると、高位であるから縦横に弁舌を振るい、多くの者が従ったが、一人陸徳明のみは自身の意見を述べ、しばしば反論を行ったが、推挙されて褒賞された。始めて官に任じられて始興国左常侍となった。陳が滅亡すると、郷里に戻った。

  隋の煬帝によって秘書学士に抜擢された。大業年間(605-618)、広く経典に詳しい人物を呼び寄せ、全国から相次いでやってきた。ここに陸徳明は魯達・孔褒と共に門下省で互いに論難し、屈服させることができなかった。国子助教に遷った。越王楊侗辟署されて司業となり、殿中に入って経を授けた。王世充が帝号を僭称すると、子の王玄恕を漢王とし、陸徳明を師とし、その家で束修の礼を行わせようとした。陸徳明はこのことを恥じ、巴豆剤(ハズの種子。熱性の下剤)を服用し、東壁の下で寝込んだ。王玄恕は入って床に沿って拝礼したが、陸徳明は対面中に下痢をし、話すことができず、遂に病のため成皋に移った。

  王世充が平定されると、秦王辟署して文学館学士とし、経を中山王李承乾に授け、太学博士に補任された。高祖が釈奠を行なう際に、博士の徐文遠・僧慧乗・道士劉進喜を召集してそれぞれ経を講義させ、陸徳明はそれぞれに従って解釈を行い、要点を分析した。は大いに喜び、「三人は実に雄弁だが、しかし陸徳明は一度声をあげるとたちまちに覆る。賢人と言うべきであろう」と言い、帛五十匹を賜い、国子博士に遷り、呉県男に封ぜられた。卒した。

  論述や撰述したものは非常に多く、後世に伝えられた。後に太宗がその書籍を見ると、陸徳明の博識と雄弁さを称賛し、布帛二百段をその家に賜った。

【附、陸敦信伝】
  子の陸敦信は、麟徳年間(664-665)、左侍によって検校右相となり、累進して嘉興県子に封ぜられ、老病によって致仕し、大司成で終わった。


【曹憲伝】
  曹憲は、揚州江都県の人である。隋に仕えて秘書学士となり、生徒を集めて教授すること数百人、公卿の多くは曹憲に従って学んだ。小学家に最も精通し、漢の杜林・衛宏より以後、古文は絶え滅んでいたが、曹憲が復興した。煬帝は儒者たちと共に『桂苑珠叢』を撰述させ、文字を正した。また『広雅』に注釈し、学者はその該博さを推し、書籍は秘府(宮中図書館)に収められた。

  貞観年間(623-649)、揚州長史の李襲誉が推薦し、弘文館学士として召還されたが、赴かず、そこで使者が家で朝散大夫に任命したから、当時の人々はこれを栄誉とした。太宗はかつて読書し、奇字難字があれば、たちまち使者を派遣して曹憲に尋ね、曹憲は詳細に音注をつくり、詳細に検討して返答したから、は感歎して尊んだ。卒した時、年は百歳以上であった。

  曹憲が始め梁の昭明太子の『文選』を生徒たちに教えると、同郡の魏模公孫羅・江夏の李善が相継いで伝授し、ここにその学は大いに興隆した。句容の許淹は、僧侶から還俗して儒者となり、博学で、古代の訓方に精通し、公孫羅らと共に著名な学者とされた。公孫羅の官は沛王府参軍事・無錫県の丞となった。魏模は、武后の時の左拾遺となり、子の魏景倩もまた代々その学に通じ、拾遺となって召喚され、後に度支員外郎に任じられた。李善は、子の李邕を見よ。


【顔師古伝】
  顔師古は、字は籀で、その先祖は琅邪臨沂の人である。祖父の顔之推は、高斉(北斉)から周(北周)に入り、隋の黄門郎で終わったから、遂に関中に居住し、京兆万年県の人となった。父の顔思魯は、儒学によって有名となった。武徳年間(618-623)初頭、秦王府記室参軍事となった。

  顔師古は若くして博覧強記で、訓詁の学に精通し、文章を得意とした。仁寿年間(601-604)、李綱の推薦によって、安養県の尉を授けられた。尚書左僕射の楊素がその年若きを見て、「安養県は激務の県であるが、お前はどうやって治めるつもりだ」と言うと、顔師古は「鶏を割くのに牛刀を用いません」と言ったから、楊素はその発言が雄大であることに驚き、後に果たして有能で統治能力があるとして有名になった。当時、薛道衡が襄州総管となると、顔之推と旧知であり、その才能を優れたものとして、文章をつくるたびに悪いところを指摘させた。にわかに失職し、長安に帰ったが、官に任命されず、極貧となり、教授として生計を立てた。

  高祖が関中に入ると、長春宮で謁見し、朝散大夫を授けられ、燉煌公府文学を拝命し、累進して中書舎人となり、専ら機密を預かった。顔師古の性格はすばやく気転がきき、政務にたけていた。軍事と国政が多岐にわたる中、詔はすべてその手に出され、封冊の巧みさは、当時比類する者がいなかった。太宗が即位すると、中書侍郎を拝命し、琅邪県男に封ぜられたが、母の喪によって解官した。服喪があけると官に復した。一年ほどして、賄賂を罪とされて免官となった。

  はかつて五経が聖人から遠くなり、伝承が次第に謬りとなっていくのを嘆き、顔師古に詔して秘書省にて考定させ、多く校訂を行った。完成すると、詔してすべての儒者を集めて議論させたが、それぞれが習ってきたことに固執し、全員が非として顔師古を詰った。顔師古はたちまち晋・宋の旧文を引用し、方々の詰問に対して明敏な解答をし、深い理解力を示し、彼らの理解を超えていた。人々は敬服した。ついで通直郎・散騎常侍の職を加えられた。帝はそこで改訂された書籍を天下に頒布し、学者はこれを頼りとした。

  にわかに秘書少監を拝命し、刊行・校正の事業を専門とし、古篇奇字で世間が惑わされているものを、検討・分析を反復・熟考し、必ず本源まで行き渡った。しかし多くは後輩の学生を引き立てて校訂を行い、有名ではない学者の意見は抑え込み、有力な者を先んじ、商人・富貴の子であっても、また選考過程に竄入したから、これによって世間から疎んじられ、郴州刺史に降格された。出発する前、はその才能を惜しんで、「卿の学問は、実に称賛に値するが、しかし自ら処理して官にいるとは、朕は聞いていない。今日の行いは、誰が選んだのか。卿のこれまでの功績を思えば、朕は罷免することは到底できない。今後はこのことを自戒しなさい」と叱りつけたから、顔師古は謝罪し、留任してもとの官に戻った。

  顔師古の性格は厳粛で、同僚に対しては傲慢で、滅多に交わろうとしなかった。自身の才能を自負し、若い頃から早くから登用され、心の中の期待は非常に高かった。頻繁に譴責されると、官職はますます昇進しなくなり、すっかり意気消沈してしまい、そこで門を閉ざして賓客を謝絶し、葛布の頭巾、田舎の粗野な衣服と言った山里の学者の衣服をまとい、心赴くままにのびのびとし、林や廃墟に心を寄せた。古代の図画・器物・書帖を多く所蔵し、非常に愛好した。五礼の共著を完成させると、進封して子爵となった。また太子李承乾のために班固の『漢書』を注釈して献上し、物二百段・良馬一頭を賜り、当時の人々は杜征南(杜預)・顔秘書(顔師古)は左丘明・班孟堅(班固)の忠臣であると思った。

  が泰山で祭祀を行なう際に、公卿・博士に詔して儀式を共同で定めさせようとしたが、異端であると意見をいう者がいた。顔師古は「臣は封禅儀注の書を撰定してから十一年たちましたが、当時の儒者たちは正しいと言ってました」と奏上し、ここに担当官署に任せると、多くはその説に従った。秘書監・弘文館学士に遷った。貞観十九年(645)、遼東への征伐に従軍したが、道中病となって卒した。年六十五歳。諡を戴という。

  注釈した『漢書』・『急就章』は当時大いに名声があった。永徽三年(652)、子の顔揚廷が符璽郎となると、上表して顔師古が撰述した『匡謬正俗』八篇を進上した。

  それより以前、顔思魯は妻と仲が悪く、顔師古は機嫌を損ねることを覚悟の上で諌言したが、は聞かず、二人の心に隔たりが生じてしまった。そのためは介入した。


【附、顔相時伝】
  顔師古の弟である顔相時は、字は睿で、同じく学問によって名声を馳せた。天策府参軍事となる。貞観年間(623-649)、累進して諌議大夫に遷り、諌臣の風があった。礼部侍郎に転任した。病弱で頻繁に病に臥せ、顔師古が死ぬと、悲しみにたえず卒した。


【附、顔游秦伝】
  顔師古の叔父の顔游秦は、武徳年間(618-623)初頭、累進して廉州刺史に遷り、臨沂県男に封ぜられた。当時、劉黒闥が平定されると、人々は暴動を起こしており、顔游秦が到着すると、礼譲が大いに行われ、村々はこのことを歌い、高祖が璽書を下して労った。鄆州刺史で終わった。『漢書決疑』を撰述し、顔師古は多くその解釈を参考にした。


【孔穎達伝】
  孔穎達は、字は仲達で、冀州衡水縣の人である。八歳で学につき、日に千言以上を読み記し、三礼の義宗を諳んじた。成長すると、服氏(服虔)の『春秋左氏伝』、鄭氏(鄭玄)の『尚書』『詩』『礼記』、王氏(王弼)の『易』に詳しく、文章をよくし、暦に精通した。かつて同郡の劉焯のところに行くと、劉焯の名声は全国に知れ渡っており、劉焯は当初孔穎達を礼遇しなかった。孔穎達が疑問に思うことを質問するよう頼むと意にかなったから、ようやく大いに敬服されるようになった。

  隋の大業年間(605-618)初頭、明経科に優秀な成績で及第し、河内郡博士を授けられた。煬帝は天下の儒官を呼び寄せて東都に集め、国子秘書学士に詔して共に議論させると、孔穎達は最優秀で、また最年少であったから、老年の儒者たちはそれよりも下であることを恥じ、密かに刺客を送って刺そうとしたが、楊玄感の家に匿われて免れることができた。太学助教に任じられた。隋が乱れると、虎牢に避難した。

  太宗が洛陽を平定すると、文学館学士を授けられ、国子博士に遷った。貞観年間(623-649)初頭、曲阜県男に封ぜられ、給事中に遷った。当時は新たに即位すると、孔穎達はしばしば諌言した。帝は「孔子は「能力があるのに無能の者に教えを請い、学識があるのに無学の者に教えを請い、能力がありながらまるでないようで、学識に満ちているのにまるで空虚のよう(『論語』泰伯)」と述べている。これはどういう意味だろうか」と尋ねると、「聖人がこのように教えたのは、謙虚さによってその人がさらに輝くように願ったからです。すでに能力があるのに、自分でそれを威張ったりはせず、まだ無能だと思って、能力の劣る人にその人のできることを教わり、すでに才智と技能をたくさん身に付けているのに、自分ではまだ足りないと思い、劣っている人について新しい益となることを教わるということです。そういう人は、自分に才能があっても、まだ足りないと思うから、まるで無能の人のように見え、すでに多くの技能を持っているのに、まだ足りないと思うから、まるで何もできない人のように見えるのです。これは、身分の低い者や庶民のことだけでなく、帝王の人徳もまたそのようにあるべきです。そもそも、帝王は内に輝く蘊蓄を持ちながらも、外には寡黙であって、奥深く計り知れないようにするものです。以上のことを『易』では「まだ純粋で蒙昧なうちに正しい心を養う(『易経』蒙)」を言い、「君子は聡明を隠して衆に臨む(『易経』明夷)」と言っています。もし、天子の地位にある者が、自分の聡明さを表に出し、人を凌駕するような才能を示すなら、その時は上と下の者の気持ちが離れ、君主と臣下が別々の道を歩むようになります。昔から、国の滅亡はすべてこのために起こります」と答えた。帝は褒め称えた。国子司業に任じられ、一年ほどで、太子右庶子として司業を兼任した。諸儒とともに暦および明堂の事を議論し、多くはその説に従った。議論や撰述の功労によって、散騎常侍を加えられ、子爵となった。

  皇太子は孔穎達に『孝経』の章句を選ばせると、孔穎達は『孝経』の文によって自分の見解を述べて諌めた。はしばしば太子の失策を諌めたことを知ると、黄金一斤・絹百匹を賜った。しばらくして祭酒、侍講東宮を拝命した。帝は太学に行幸して釈菜を観ると、孔穎達に命じて講経させ、終わると、「釈奠頌」を奉り、詔があってお褒めの言葉を賜った。後に太子がしばしば勝手な振る舞いをするようになると、孔穎達は諌め続けたから、乳母の夫人が「太子はすでに成人となっているのに、どうしてそんなに度々、面と向かって過失を責めるのですか」と言うと、「私は国の恩恵を受けていますから、太子を諌めたために死んだとしても怨むものではありません」と答え、諌めはますます手厳しくなっていった。後に致仕して卒し、昭陵に陪葬された。太常卿を追贈され、諡を憲という。

  それより以前、孔穎達は顔師古司馬才章王恭・王琰と共に詔を受けて 五経の義訓を百余篇にて撰上し、『五経義賛』と号したが、詔によって『五経正義』に改められたという。諸学派を包含し、網羅的であったものの、誤りがないわけではなかった。博士の馬嘉雲が誤りを訂正したが、相互に貶し合う状態に陥った。詔により勅により改めて裁定されたが、完成には至らなかった。永徽二年(651)中書門下に詔して国学・三館博士・弘文館学士と査閲と改訂が命じられた。そこで尚書左僕射の于志寧・右僕射の張行成・侍中の高季輔が加筆・修正を行い、ようやく刊行された。

  孔穎達の子の孔志は、司業で終わった。孔志の子の孔恵元は、学問に尽力して寡黙であり、同じく司業となり、累進して太子諭徳に抜擢された。三代にわたって司業となったから、当時の人々は称賛した。


【附、王恭伝】
  王恭は、滑州白馬県の人である。幼くして学問に熱心で、村々に教授して、弟子は数百人となった。貞観年間(623-649)初頭、召されて太学博士を拝命し、三礼を講義し、別に義証をつくり、非常に精密かつ該博であった。蓋文懿蓋文達はいずれも当時の大儒で、講義するごとに他人の教えを借りることはほとんどなく、流暢かつ敬意をもって話した。


【附、馬嘉運伝】
  馬嘉運は、魏州繁水県の人である。幼くして僧侶となったが、還俗して儒学を修め、論議を得意とした。貞観年間(623-649)初頭、累進して越王東閤祭酒に任じられた。白鹿山に退隠し、方々から学ぼうと千人がやってきた。貞観十一年(637)、召されて太学博士・弘文館学士を拝命した。孔穎達の『五経正義』が煩雑であったため、彼はその欠点を指摘し、当時の儒者たちはその精緻さに服した。高宗が太子となると、引き立てられて崇賢館学士となり、しばしば洗馬の秦暐と共に宮中に侍講し、国子博士で終わった。


【欧陽詢伝】
  欧陽詢は、字は信本で、潭州臨湘県の人である。父の欧陽紇は、陳の広州刺史で、謀反のため誅殺された。欧陽詢は連座による死刑が相当であったが、匿われて死を免れた。江総は友人の子であったから、密かに養った。容貌は醜く貧弱であったが、明敏で賢いことは人を超越していた。江総は書籍や文字を教えていたが、読むたびにたちまち数行を一緒に読んでしまい、遂に経史に該博となった。隋に仕えて太常博士となった。高祖がまだ身分が低い頃、しばしば一緒に遊び、即位すると、給事中に抜擢された。

  欧陽詢は初め王羲之の書を模倣していたが、後に力量を付けて凌駕し、そこで自ら書体の名とした。書かれた尺牘は伝えられ、人々は模範とした。高麗がかつて使者を派遣して欧陽詢の書を求めたが、は「彼の書を見て、容貌も立派だと思っているんじゃないか」と嘆いた。かつて旅先で索靖(西晋の書家)が書いた碑文を目にし、眺めながら数歩あるいてはまた戻り、疲れると布を敷いて座り、そこ傍らに泊まって、三日してから出発した。書を嗜む様子はこのようであった。

  貞観年間(623-649)初頭、太子率更令・弘文館学士を歴任し、渤海男に封ぜられた。卒した時、年八十五歳であった。


【附、欧陽通伝】
  子の欧陽通は、儀鳳年間(676-679)、累進して中書舎人に遷った。母を喪ったが、詔によって奪喪(服喪が終わる前に強制的に官に呼び戻されること)された。朝廷に入るたびに、裸足で門をくぐった。夜の当直の時に、藁を敷いて眠った。公務以外では語らず、家に戻ってたちまち慟哭した。この年飢饉で、埋葬することができず、家にいること四年、服喪を解かなかった。冬になると、家人が絨毯を密かに席の下に置いたが、欧陽通は悟ると、直ちに撤去した。殿中監に遷り、渤海子に封ぜられた。天授年間(690-692)初頭、司礼卿、判納言事(宰相)に転じた。宰相となって一月ほど、その頃、鳳閣舎人の張嘉福武承嗣を太子とするよう願い出て、欧陽通は岑長倩らと共に強く反対したから、武氏たちの意に背いた。岑長倩が獄に下され、大逆を罪とされて死刑となり、来俊臣は一緒に欧陽通も同謀として引き立て、欧陽通は過酷な拷問を受けながらも一言も話さなかったが、来俊臣は自白書をでっち上げ、誅殺した。神龍年間(707-710)初頭、追って官爵を復した。

  欧陽通は早くにを亡くし、母の徐氏は父の書で教えたが、怠けるのを恐れ、かつて銭を持たせて市で父の遺墨を買わせ、欧陽通はそこで父の書風を臨模し、自分の書も売ってみたいと思った。数年して、書は欧陽詢を継ぎ、父子は名声が等しく、「大小欧陽体」と号した。褚遂良もまた書によって自らの名声としたが、かつて虞世南に「私の書は智永と比べてどうですか」と尋ねると、「私は彼の一字が五万銭に値すると聞いています。君はどうしてこれほど高い評価を得ていますか」と答えたから、「欧陽詢とどちらがいいですか」と尋ねると、「私は欧陽詢が紙や筆を選ばず、すべて思い通りに出来ると来ています。君にはどうしてこのようにできますか」と言うと、褚遂良は「ならどうすればよいですか」と尋ねると、虞世南は「君がもし手と筆が調和しているなら、もとより素晴らしいものになるでしょう」と言ったから褚遂良は大いに喜んだ。欧陽通は傲慢となり、狸の毛を用いて筆とし、兎の毛をまとわせ、筆管はすべて象牙と犀角を用い、これでなければ書かなかった。


【朱子奢伝】
  朱子奢は、蘇州呉県の人で、郷人の顧彪から『春秋左氏伝』を授けられ、文章をよくした。隋の大業年間(605-618)、直秘書学士となった。天下が乱れると、病気として辞職して郷里に戻った。後に杜伏威に従って入朝し、国子助教を授けられた。

  太宗の貞観年間(623-649)初頭、高麗・百済が同時に新羅を攻撃し、連年戦争は止まなかった。新羅は緊急事態を告げてきたから、は朱子奢を員外散騎侍郎に任命し、使者を表す節を持って諭旨し、三国間の不和を和解させた。朱子奢に威儀があり、夷人は尊敬して畏った。二国は上書して謝罪し、非常にあつく贈り物をした。それより以前、朱子奢が行くときに、帝は戒めて、「海夷は学を重んじる。卿は大義を説くために行け。だが金銭を受け取ってはならん。戻ったら中書舎人で卿を処遇しよう」と言い、朱子奢はひたすらに承諾した。その国に到着すると、『春秋』の題目の講義を行い、その国の美女を納れた。帝は命令に背いたことを責めたが、それでもその才能を愛し、散官によって国子学に担当にし、累進して諌議大夫・弘文館学士に転じた。

  それより以前、武徳年間(618-623)、太廟は享(まつ)るのに四室止まりとしたが、高祖が崩ずると、神主(位牌)を廟で先祖に合わせて祀ろうとし、は詔して役人に詳細に議論させた。朱子奢は建言して、「漢の丞相の韋玄成は奏上して五廟を建立し、劉歆は七廟とすべきであると議論し、鄭玄は韋玄成が正しいとし、王粛は劉歆が適っているとし、ここに歴代の廟議は一致できませんでした。また天子は七廟、諸侯は五と、次第に二づつ減らしていくのは礼として正しいのです。もし天子が子爵・男爵と同じでしたら、その中間を容れるなどことがなく、徳が盛んな者は流風余福が遠く、徳が薄い者は流風が近いとはならないのです。臣が願うところは、古代によって七廟をつくることです。親族を排除し、王業によって基本をなしとげたのを太祖とし、太祖の部屋をあけて永遠とし、後代は順次移転させるのです」と述べた。ここに尚書は共に奏上し、「『春秋』以来、「天子七廟、諸侯五、大夫三、士二(『春秋穀梁伝』僖公十五年)」とあります。親族を親しむことを敷衍して尊属を尊ぶことは、変えてはならない法となっており、何卒親廟六を建立されますように」と述べ、詔して裁可された。そこで弘農府君高祖の神主(位牌)を併せ祀って六室とした。帝が崩ずると、礼部尚書の許敬宗が議して、「弘農府君は毀廟(毎日の食事の供えなど通常の礼を絶やされた廟)とすべきです。韋玄成の説を調べてみますと、毀廟の神主は埋めるべきとしますが、四海は常に宗族を享るので、一旦挙げたにも関わらず埋めてしまえば、神理の適ったものでありません。晋の范宣子(士匄。春秋時代晋の六卿の一人)は別廟に毀廟の神主を納め、または天府に治めるべきだと主張しました。天府は瑞異が宿るところです。『礼』に「祧に祭る先祖よりももっと遠い先祖を祭るには壇を用い、それよりももっと遠い先祖を祭るには墠を用いる(『礼記』祭法)」とありますが、臣はいずれも納得しかねます。唐家の宗廟は、一緒の建物に部屋を別とし、右を首とします。もし神主を右の部屋に移し奉れば、尊厳が得られ、祈祷や祈願が絶えることはないでしょう」と述べた。詔があって許敬宗の議の通りにした。しかし最初に七廟と言ったのは、朱子奢だったのである。

  はかつて詔して、「起居の紀録は秘匿されている。朕は見て得失を知りたいと思うが、どうだろうか」と言うと、朱子奢は、「陛下の行ってきたことに過ちはございません。疑惑はないとはいえ、しかしこれをお見せしてしまえば後世の史官の禍となり、憂慮すべき事態です。史官が自分自身を全うし、死を恐れているなら、数千年の後も過ちがないと思われるでしょうか」と答えた。

  池陽県令の崔文康による収賄事件について、櫟陽県尉の魏礼臣が弾劾し、捕縛されたが、御史は事実ではないとした。魏礼臣は御史が徒党を組んで私利を濫用すると訴え、関係官吏による尋問を要請し、もし主張の通りでなければ自身の死罪を要請した。調査の結果、魏礼臣の言うことが事実ではないことがわかり、詔によって魏礼臣の要請通り死罪になることとした。朱子奢は、「『律』に、「上書が事実でなかった場合罪を定める」とあり、今の事案は死罪に相当します。しかし死んだ者は再び生き返ることはできず、自ら改めようと思ってもそうすることができないのです。しかも天下がただ上書しても罪となることを知れば、上申しようと思っても、皆が恐れてあえて上申しないのです」と述べた。詔して裁可された。

  朱子奢の人となりは気さくで、会話に優れ、友情の技にも恵まれていた。酒宴に出席するごとに、は群臣と討論させ、贈り物は非常にあつかった。在官中に卒した。


【張士衡伝】
  張士衡は、瀛州楽寿県の人である。父の張文慶は、北斉の国子助教となった。張士衡は九歳で母の喪にあい、哀しみ慕うことは礼に過ぎ、博士の劉軌思はこれを見て、涙を流し、その操を優れたものとし、張文慶に向かって、「古来、親は子に直接教えることはなかったが、私は君のためにこれをやってみよう」と言い、そこで『詩』・『礼』を授けた。また熊安生劉焯らに従い経書を受学し、大まかな意味を深く理解した。隋に仕えて余杭県令となり、老いて家に戻った。

  大業年間(605-618)兵乱が起こり、儒者たちの学は廃された。唐が勃興すると、張士衡は再び郷里で講義した。幽州都督・燕王李霊夔が礼によって招聘し、臣下の礼である北面して仕えた。太子李承乾が風を慕って招致し、太宗と洛陽宮で謁見し、は食を賜い、朝散大夫・崇賢館学士に抜擢された。

  太子は張士衡が斉の人であるから、高氏(北斉)がなぜ滅びたのかを尋ねた。張士衡は、「高阿那瓌(柔然可汗)の凶悪、駱提婆(後主の近臣)の追従、韓長鸞(後主の近臣)の暴虐は、いずれも奴隸の才であり、これらを信じて用いたので、忠良の者は誅殺され、一族は離散し、民衆を滅ぼしたのです。そのため周の軍が城外に迫っても、人々は誰も仕えませんでした。これが滅亡した原因です」と答えた。また「仏に仕えて福田を営むと、どのような報いがあるか」と尋ねると、「仏に仕えるには清静・仁恕があるだけです。もし貪欲・傲慢・暴虐であれば、いくら財産を注ぎ込んで仕えたとしても、禍を免れません。また善悪は必ず報いがあり、影が物の形に従うようなもので、聖人はこれを述べているのです。君は仁、臣は忠、子は孝であれば、幸福や寿命は長く続くのです。これに背くのなら災いをもたらすことになるのです」と答えた。当時、太子は様々な欠点によって知られており、張士衡は諌めたが、用いられなかった。太子が廃されると、罷免されて伝馬を給付されて郷里に帰り、卒した。

  張士衡は礼を生徒たちに教え、当時名声があったのが、永年県の賈公彦・趙郡の李玄植である。


【附、賈公彦伝】
  賈公彦は太学博士で終わったが、撰述した文章は非常に多かった。


【附、賈大隠伝】
  子の賈大隠は、儀鳳年間(676-679)、太常博士となった。ちょうど太常寺が仲春に太廟に瑞兆を告げると、高宗は礼官に向かって、「いつの時代からそうしているのか」と尋ねると、賈大隠は、「古代では祭るのに最初の月を用い、仲月にお供えします。近世では元日に瑞兆を奏じ、二月に廟に告祭します。告祭では必ずお供えするので、これは昔からの慣例ですが、時期が間違っているのです」と答えた。累進して中書舎人に遷った。垂拱年間(685-688)、博士の周悰武氏廟を七室とし、唐廟を五室とし、諸侯の室数に下すことを要請した。賈大隠は奏上して、「秦・漢で母后が称制したことはありますが、古の礼式を変えるようなことはありませんでした。周悰が国廟の数を損うことは、大義に背くので、容認できません」と述べた。武后はやむを得ず、本心を偽って聴した。当時の人々は皆、賈大隠が沈着で偽りに従わないのに服し、大臣の礼をつくした。礼部侍郎で終わった。


【附、李玄植伝】
  賈公彦は学業を李玄植に伝え、李玄植は同じく『春秋左氏伝』を王徳韶に受学し、『詩』を斉威に受学し、百家の記書を概覧した。貞観年間(623-649)、弘文館直学士となった。高宗の時、しばしば召見され、方士・僧侶とともに講説した。李玄植はが暗愚であるから、厳しく短所を警告したが、帝は礼遇したものの悟らなかった。事件に連座して巴県令に遷り、卒した。


【張後胤伝】
  張後胤は、字は嗣宗で、蘇州崑山県の人である。祖父の張僧紹は、梁の零陵太守である。父の張沖は、陳の国子博士で、隋に入って漢王楊諒のために并州博士となった。

  張後胤は成人すると、学行によってその家を称えられた。高祖が太原の防衛の任にあたると、引き抜かれて客人となり、経書を秦王に授けた。義寧年間(617-618)初頭、斉王文学となり、新野県公に封ぜられた。武徳年間(618-623)、員外散騎侍郎に抜擢され、第一級の邸宅を賜った。

  太宗が即位すると、燕王諮議となり、燕王に従って入朝すると、謁見に召し出された。それより以前、は太原にいた時、「隋は終焉を迎えようとしている。天下を得るのは何姓だ」と尋ねると、「公の一家の徳と功績は、天下の心をつかんでいます。もし天意にしたがって動かれるなら、黄河以北は、簡単に平定できるでしょう。その後関中に進軍すれば、帝業がなるでしょう」と答え、ここにいたって自分の意見を申し述べた。帝は「この事は今まで忘れたことがない」と言い、そこで燕月池を賜った。帝はおもむろに「今日、この弟子のことをどう思うか」と言うと、張後胤は、「昔、孔子の門人は三千いましたが、子爵や男爵の位に達した者はおりません。臣が弟子を一人助けると、天下の王となりました。臣の功績を数えてみますと、先聖を凌駕しています」と答えたから、帝はその返答を笑い、群臣に『春秋』によって照会させた。帝は「朕は昔、君から大きな恩恵を受けた。今でも覚えている」と言うと、張後胤は頓首して、「陛下は生まれながらに知っておりましたが、臣は天の功績を勝手に自分のものにしました。これは罪です」と謝すると、帝は大いに喜び、燕王府司馬に遷した。京師から出されて睦州刺史となり、骸骨を乞い(辞職を求めた)、帝は張後胤が元気なのを見て、どの官になりたいのか尋ねたが、陳謝するだけで何も希望しなかった。帝は、「朕は卿から経を受けたのだから、卿は朕から官を求めるのに、どうして疑うことがあろうか」と言うと、張後胤は頓首し、国子祭酒の官職を願って、授けられた。散騎常侍に遷った。永徽年間(650-655)致仕し、金紫光禄大夫を加えられ、朔・望日の朝見、禄・馬料の給付はもと通りであった。卒した時、年八十三歳で、礼部尚書を追贈され、諡を康といい、昭陵に陪葬された。

【附、張斉丘伝】
  孫の張斉丘は、監察御史・朔方節度使を歴任し、東都留守で終わり、諡を貞献という。子の張鎰は、別にがある。


【蓋文達伝】
  蓋文達は、冀州信都県の人である。前時代の歴史について詳しく、最も春秋三伝に明るかった。刺史の竇抗が学生たちを集めて講論させると、劉焯劉軌思孔穎達はいずれも老大儒であるから門を開いて授業し、この日全員が到着すると、蓋文達は経典を根拠に弁論の理由をあげ、儒者全員が反論せず、一座は感歎した。竇抗は優れた人物だと思い、「一体誰から学んだのだろう」と尋ねると、劉焯は「この者は幼い頃から優秀で、天与の才能の持ち主です。多くの質問を寡弁な中でするものですから、この焯が初めての師となった次第です」と答えたから、竇抗は「氷は水から生まれて水よりも冷たいが、それはこのような者をいうのだろうか」と言った。

  武徳年間(618-623)、国子助教を授けられ、秦王文学館直学士となった。貞観年間(623-649)初頭、諌議大夫・兼弘文館学士に抜擢され、蜀王の師となった。蜀王が有罪となると、蓋文達も免官となった。崇賢館学士を拝命し、卒した。


【附、蓋文懿伝】
  一族の人である蓋文懿もまた儒学で称えられ、当時の人々は「二蓋」と号した。高祖は秘書省に学校を設置して王・公子に教えると、蓋文懿を国子助教とした。教壇に登ると、公卿が相継いで質問し、蓋文懿は難しいところをわかりやすくし、遠近の者を問わず尊敬を集めた。国子博士で終わった。


【谷那律伝】
  谷那律は、魏州昌楽県の人である。貞観年間(623-649)、累進して国子博士となった。群書に精通しており、褚遂良はかつて「九経庫」と称えた。諌議大夫、兼弘文館学士に遷った。太宗の狩猟に従い、たまたま雨となって濡れてしまった。そこで「油衣はどうすれば濡れないか」と尋ねると、谷那律は「瓦でお作りになれば、もはや濡れることはございません(狩に呆けず瓦を葺いた宮殿に居れば、雨に濡れることも治政の問題も起きないのたとえ)」と返答した。はその率直さを喜び、帛二百段を賜り、卒した。


【附、谷倚相伝】
  孫の谷倚相は、仕えて秘書省正字となり、図書の校訂を行い、多くを刊定した。


【附、谷従政伝】
  子の谷崇義は、天宝年間(742-756)末に幽州の大将となり、勇猛果敢であるため有名となった。左金吾衛大将軍となり、遂に薊門の客人となった。子に谷従政を生んだ。谷従政は儒学に精通し、人格も風雅であった。李宝臣に仕え、定州刺史を歴任し、清江郡王に封ぜられた。李宝臣および張孝忠の妻は、その姉妹である。李宝臣は当初頼りとしたが、晩年に次第に疎んじられ、谷従政はそこで門を閉ざして交遊を謝絶して仕えなかった。李惟岳が知節度となると、田悦と謀って天子の命令を拒んだから、谷従政は諌めて「お上が神々しく英断で、諸侯を退け、太平をもたらそうとしている。お前の亡父とは骨髄の怨みがある。天子が討伐なされれば、総指揮官に命じられるのは燕以上に可能性がある者はいない。恨みを晴らすには必ず尽力するのみだ。先日、お前の亡父は大将百人以上を誅殺したから、残された子弟存は常に不平があり、危機に乗じて互いに転覆をはかれば、誰がお前を助けられようか。昔、が洺州・相州を包囲したことがあったが、王師が四方から集まり、身を零陵に投じて、天を仰いで涙を流し、どうすればいいかわからないほどだった。お前の父に頼み込んで保身を図り、にわかに軍を停止したから、先帝は寛大にも赦されて死を免れた。そうでなければ、田氏に跡継などいようか。今、田悦は凶暴狷介なことはどうして田承嗣と同じであろうか。お前もまた幼くして富貴となり、外に出たこともないのに、軍を防ごうというのか。また人心は知りがたく、天道は欺くことは難しく、軍中の諸将は危機に乗じて状況を利用してきたことは、古代から多数あったことだ。今、長く安全となる計略を謀るなら、兄の李惟誠を摂留後にさせ、お前は速やかに京師に入って宿衛となるのに越したことがなく、そうすれば繁栄と富貴は保たれるだろう」と言ったが、受け入れられなかった。谷従政は門を閉ざして病と称して出なかったが、李惟岳は王他奴らが述べた谷従政が恨みを抱いているとの疑いを信じ、毎日監視した。谷従政は恐れ、血を吐き、そこで薬を仰ぎ、五日して死んだ。「私は死んでも恨まないが、この一族が滅亡するのが痛ましい」」と言った。後に李惟岳は王武俊に殺され、その推測の通りであったという。


【蕭徳言伝】
  蕭徳言は、字は文行で、陳の吏部郎の蕭引の子で、世系は蘭陵から出た。『春秋左氏伝』に明るかった。成年になると、国子生として岳陽王賓客となった。陳が滅亡すると関中に移された。僧侶であると偽って江南に逃れたが、州県によって京師に送還された。仁寿年間(601-604)、校書郎を授けられた。貞観年間(623-649)、著作郎・弘文館学士を歴任した。

  太宗は前代の王朝の栄枯盛衰を知りたいと思い、魏徴虞世南褚亮および蕭徳言に詔して、経史から百代の帝王の興亡の理由を編纂して進上させ、はその書籍が該博で要領を得ていることを好み、「私が古きを考え政治に臨んで惑わないのは、公らの尽力のおかげだ」と言い、賜い物は非常にあつかった。

  蕭徳言は晩年も勉学に励み、経書を開くたびに、たちまち身を清めて束帯して正座したから、妻子は「老人であるのにどうして終日自ら苦めるのですか」と諌めると、「先聖の言葉に接すれば、どうして苦労を嫌がることがあろうか」と答えた。詔によって経書を晋王に授けた。当時許叔牙が侍読となり、同じく講義をすすめた。晋王が太子となると、蕭徳言もまた侍読を兼任し、許叔牙もまた弘文館学士を兼任した。蕭徳言は致仕を願い出たが、太宗は許さず、詔を下してあつく励ました。武陽県侯に封ぜられ、秘書少監に昇進し、長い年月を経てようやく辞任を許された。

  高宗が即位すると、銀青光禄大夫を拝命し、俸禄は全て給付され、通事舎人を派遣して家で安否を尋ねられた。乗輿粛章門にやってきて引見し、礼遇はあつかった。これによって晋王府および東宮の旧臣の子孫は、全員秩禄を給付されて金を賜った。卒した時、年九十七歳で、太常卿を追贈され、諡を博という。


【附、許叔牙伝】
  許叔牙は、字は延基で、句容の人である。貞観年間(623-649)、晋王府参軍事・弘文館直学士に遷った。『詩』・『礼』に最も精通し、『詩纂義』十篇を献上し、太子は司経局に書写させた。御史大夫の高智周はこれを見て、「『詩』に精通したいと思う者は、まずこれを読むべきだ」と言った。

【附、許子儒伝】
  子の許子儒は、字は文挙で、高宗の時に奉常博士となった。それより以前、太尉の長孫无忌らが次のように意見を述べた。「「祠令」および「礼」では鄭玄の六天説を用い、円丘では昊天上帝を祀り、南郊では太微の感帝を、明堂では太微の五帝を祭っています。これは緯を根拠として説にしており、空を天としておりませんが、昊天帝を北辰の耀魄宝(北極五星の天帝星、つまり北極星)にあて、郊・明堂を太微の五帝にあてているのです。唐家では円丘にて祀り、太史が進上する図では、昊天上帝の外に北辰があります。太史令の李淳風は、「昊天上帝は壇に位座し、北辰・北斗の列は第二垓である」と言っています。これは緯書とは相互矛盾しています。司馬遷の「天官書」には、太微宮に五精の神があり、五星が奉るところとしています。人主の象があるから、名を帝といい、房星・心星に天王の象があるようなもので、どうしてすべてを天とすることができましょうか。日や月は天を麗しくし、草木は地を麗しくしているので、日・月を天とし、草木を地とするのは、無知な者には信じがたいことです。『周官(周礼)』に、「四郊において五帝を祭祀し壇位を設ける(『周礼』小宗伯)」とあり、また「五帝を祀る(『周礼』大宰)」とあって、いずれも天とは言っていません。ここに太微の神であることが判明し、天ではないことがわかります。『経』に「后稷をあわせ祀り(『孝経』聖治)とあり、王粛は郊・円丘を同一のものとしたのに対し、鄭玄は分けて二とし、円丘と郊にしましたが、これは聖人の意図ではありません。今、「祠令」では当初から鄭玄の説を守り、著された「式」と共に相違しており、改訂すべきです。また経に「父を尊厳あるものにすることについては父を天に配して祭ることが最上である(『孝経』聖治)」とあり、「明堂で天帝を祀るに際して父の文王をあわせ祀った(『孝経』聖治)」とあります。明堂の祭祀は、天であり、星はこれに配するには不足なのです。「月令」に「孟春、上帝を祀り、穀物の豊作を祈る(『礼記』月令)」とあり、『春秋』に「啓蟄の候になると郊祭を行ない、郊祭後に耕作を始めるのだ(『春秋左氏伝』襄公七年伝)」とあり、そのため后稷を祀って豊作を祈り、『詩』に「春夏、上帝を祀り、穀物の豊作を祈る(『詩経』周頌 臣工之什 噫嘻)とあるのは、いずれも天を祭っています。これを感帝と著すのは、全く根拠がありません。何卒、四郊迎気にて太微の五帝を祀り、郊・明堂では六天の説を廃止し、昊天を祀るのにとどめられますように。方丘はすでに地を祭っており、また神州の北郊を祭っていますが、いずれも経書に記されていません。何卒一祠にとどめられますように。」 詔に「よろしい」と裁可された。

  乾封年間(666-668)初頭、は封禅し終わると、また詔して感帝・神州を祭り、正月に北郊で祭ろうとした。司礼少常伯の郝処俊らが以下のように奏上した。「顕慶年間(656-661)に礼を定め、感帝への祭祀は廃止されて昊天への豊作祈願となり、高祖を配侑とします。旧来の祭祀では感帝・神州を祭り、元皇帝を配侑としてきました。今、豊作祈願を改めて感帝への祭祀とし、また神州を祭り、戻して高祖を配侑としていますが、なぜこのような混乱がおこるのでしょうか。虞氏は黄帝を禘祭し、嚳を合わせ祭りました。夏は黄帝を禘祭し、鮌をあわせ祭りました。殷は嚳を禘祭、冥をあわせ祭りました。周は嚳を禘祭し、后稷をあわせ祭りました。鄭玄のことを、円丘にて祭天するとしています。あわせ祭るのは、上帝を南郊で祭るとしています。崔霊恩は夏の正暦では天をあわせ祭り、王者はそれぞれ祖先の帝を祭ったと説き、これは所謂「王者は、まずその始祖の出で来ったところの天帝を祭り、これに合わせて始祖を祭るのであって、これがという祭礼である(『礼記』喪服小記)」なのです。つまり遠祖をし、始祖をあわせ祭るのです。今、もあわせ祭るのも同祖であり、この礼には根拠がありません。神州の本祭は十月で、十月は陰用の事としました。鄭玄は三王の郊を説き、一つは夏の正暦を用いました。崔霊恩は神州北郊を祭るのに、正月に行なうとしています。儒者たちの申したことは、勝手に言い合うだけでわかりません。臣が願うところは、願わくば奉常寺司成館・博士をあつめて遍く議論させますように」 ここに許子儒は博士の陸遵楷・張統師・権無二らが共同で以上のように申し上げた。「北郊が何月に行なうのか経書には見えず、漢の光武帝は正月に北郊を建立し、咸和年間(326-334)に議論して北郊を正月とし、武徳年間(618-623)以来、十月を採用してきました。何卒、武徳年間(618-623)の詔書に従われますように。」 翌年、詔して円丘方丘にて明堂・感帝・神州を祭る際に高祖太宗を配侑とし、そこで昊天上帝および五天帝を明堂にて祭った。

  許子儒は、長寿年間(692-694)、天官侍郎・弘文館学士に任じられ、潁川県男に封ぜられた。銓選の際に詳細は史句直に委ね、日がな一日臥せって筆を下さず、当時の人々は「句直はよい人事であった」と言った。後に任命が乱れ、批判の口実となった。


  蕭徳言の曾孫の蕭至忠は、自らがある。


【敬播伝】
  敬播は、蒲州河東の人である。貞観年間(623-649)初頭、進士に及第した。当時、顔師古孔穎達が隋の歴史を撰述しており、敬播に詔して秘書内省参纂に任じられた。再び著作佐郎、兼修国史に遷った。太宗に従って高麗を征伐し、帝は戦いの舞台となった山を名付けて駐蹕とした。敬播は「天子の輿は東には戻ってこない。山を名付けた理由は思うに天意なのだろう」と言ったが、その通りとなった。太子司議郎に遷った。当時、初めこの官が設置されると、最も名望高く、中書令の馬周が「官位が無意味に高いから、この職に任じられないことが恨めしい」と嘆いた。また令狐徳棻らと共に『晋書』を編纂し、大抵凡例はすべて敬播から出たものである。

  役人が「謀反大逆は、父子が死罪となり、兄弟には及ばない。改めて協議を要請する」と建言すると、群臣に詔して大いに議論させた。敬播は「兄弟に友愛の重きがあるとはいえ、しかし父子に比べて軽い。だから生きている時には別々の家に住み、死ぬと別の宗子となる。今、高官や陞爵・蔭位はただ子孫に与えられ、兄弟には及ばない。どうして栄誉は隔たっているのに、罪があれば均しく罰せられるのだろうか」と述べた。詔によって敬播の意見に従った。

  永徽年間(650-655)後期、仕えてますます貴くなり、諌議大夫・給事中となった。始め、敬播は許敬宗と共に『高祖実録』を撰述し、勃興・創業してから貞観十四年(640)までであった。ここに至って、また『太宗実録』を撰述し、貞観二十三年(649)。罪とされて京師から出されて越州長史となり、安州に遷って卒した。

  房玄齢はかつて敬播を「陳寿の流れだ」と称えた。房玄齢は顔師古の『注漢書』の文が繁多であるのを煩わしいと思っていたが、内容を摘要させて四十篇をつくらせた。

【附、劉伯荘伝】
  この当時、『漢書』の学が大いに興り、その中でも名が知れた者に劉伯荘秦景通兄弟・劉訥言がおり、全員が著名であった。劉伯荘の著書も百篇以上あった。


【附、劉之宏伝】
  子の劉之宏は、代々『漢書』を学とした。武后の時、著作郎の職によって修国史を兼任し、相王府司馬で終わった。睿宗が即位すると、秘書監を追贈された。


【附、秦景通伝】
  秦景通は、晋陵の人である。弟の秦暐と共に有名で、二人とも『漢書』をよくし、「大秦君」・「小秦君」と号した。当時『漢書』を学んでいた者、秦兄弟の教えを受けたものでなければ、『漢書』を知らないものとみなされたという。秦景通は仕えて太子洗馬兼崇賢館学士となった。秦暐も後にまた同じ官職を踏襲した。


【附、劉訥言伝】
  劉訥言は、乾封年間(666-668)都水監主簿に任じられ、『漢書』を沛王に授けた。沛王が太子となると、劉訥言を抜擢して洗馬兼侍読とし、かつて『俳諧』十五篇を編集し、太子に献上して喜ばれた。太子が廃されると、高宗に叱責され、除名されて民となった。また政治上の事を罪とされ、振州に流されて死んだ。


【羅道琮伝】
  羅道琮は、蒲州虞郷県の人である。寛大で節義を尊んだ。貞観年間(623-649)末、上書して天子に逆らったから、嶺表に遷された。同じく流された者が荊州・襄州の付近で死んだが、臨終の際に泣いて「人はみな生きては死ぬというのに、私一人だけが骨を異郷の地に委ねるというのか」と言うと、羅道琮は、「私がもし帰ることになるなら、君を一人だけここに留めるわけにはならない」と答え、道の左に埋葬して去った。一年程して、恩赦にあって帰還し、長雨と洪水が水を溢れさせ、葬儀をした場所がわからなくなり、羅道琮は野で慟哭すると、波中にたちまち湧き出てきたかのようであったから、羅道琮は「もし遺体があるのなら、再び湧き出させてくれ」と唱え終わると、水はまた湧き上がり、遺体を得ることができた。ついで明経科に及第し、仕えて太学博士となり、当時の名儒であった。


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最終更新:2026年03月05日 21:11
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