巻一百一十 列伝第三十五

唐書巻一百一十

列伝第三十五

諸夷蕃将

史大柰 馮盎 智戴 子猷 阿史那社尒 忠 執失思力 契苾何力 明 黒歯常之 李謹行 泉男生 獻誠 李多祚 李湛 論弓仁 惟貞 尉遅勝 尚可孤 裴玢


  史大柰、本西突厥特勒也、與処羅可汗入隋、事煬帝。從伐遼、積勞為金紫光禄大夫。後分其部於樓煩。

  高祖興太原、大柰提其衆隸麾下。桑顕和戰飲馬泉、諸軍、大柰以勁騎数百背撃顕和、破之、軍遂振。授光禄大夫。從平長安、以多、賞帛五千匹、賜姓史。從秦王平薛挙・王世充竇建徳劉黒闥、功殊等、積前後賜侍女三・雜綵万段。貞観初、擢累右武衛大将軍、検校豊州都督、封竇国公、食封戸三百。卒、贈輔国大将軍。


  馮盎字明達、高州良徳人、本北燕馮弘裔孫。弘不能以国下魏、亡奔高麗、遣子業以三百人浮海歸晋。弘已滅、業留番禺、至孫融、事梁為羅州刺史。子宝、聘越大姓洗氏女為妻、遂為首領、授本郡太守、至盎三世矣。

  隋仁寿初、盎為宋康令、潮・成等五州獠叛、盎馳至京師、請討之。文帝詔左僕射楊素與論賊形勢、素奇之、曰:「不意蠻夷中乃生是人!」即詔盎發江・嶺兵撃賊、平之、拜漢陽太守。從煬帝伐遼東、遷左武衛大将軍。隋亡、奔還嶺表、嘯署酋領、有衆五万。番禺・新興名賊高法澄・洗宝徹等受林士弘節度、殺官吏、盎率兵破之。宝徹兄子曰智臣、復聚兵拒戰、盎進討、兵始合、輒釋冑大呼曰:「若等識我耶?」衆委戈、袒而拜、賊遂潰、禽宝徹・智臣等、遂有番禺・蒼梧・朱崖地、自號総管。或説盎曰:「隋季崩蕩、海内震騷、唐雖應運、而風教未孚、嶺越無所係屬。公克平二十州、地数千里、名謂未正、請上南越王號。」盎曰:「吾居越五世矣、牧伯惟我一姓、子女玉帛吾有也、人生富貴、如我希矣。常恐忝先業、尚自王哉?」

  武徳五年、始以地降、高祖析為高・羅・春・白・崖・儋・林・振八州、授盎上柱国・高州総管、封越国公。拜其子智戴為春州刺史、智彧為東合州刺史。盎徙封耿。貞観初、或告盎叛、盎挙兵拒境。太宗詔右武衛将軍藺發江淮甲卒将討之、魏徴諫曰:「天下初定、創夷未復、大兵之餘、疫癘方作、且王者兵不宜為蠻夷動、勝之不武、不勝為辱。且盎不及未定時略州県、搖遠夷、今四海已平、尚何事?反未状、當懐之以徳、盎懼、必自來。」帝乃遣散騎常侍韋叔諧喩盎、盎遣智戴入侍。帝曰:「徴一言、賢於十万衆。」時兵已出、欲遂有功、遣副将上盎可撃状、帝不許、罷之。

  五年、盎來朝、宴賜甚厚。俄而羅・竇諸洞獠叛、詔盎率衆二万為諸軍先鋒。賊據險不可攻、盎持弩語左右曰:「矢盡、勝負可知矣。」發七矢斃七人、賊退走、盎縱兵乘之、斬首千餘級。帝詔智戴還慰省、賞予不可計、奴婢至万人。盎善為治、閲簿最、擿姦伏、得民懽心。卒、贈左驍衛大将軍・荊州都督。

  子三十人、智戴知名、勇而有謀、能撫衆、得士死力、酋帥皆楽屬之。嘗隨父至洛陽、統本部鋭兵宿衛。煬帝弒、引其下逃歸。時盜賊多、嶺嶠路絶、智戴轉戰而前。至高源、俚帥脅為謀主、會盎至、智戴得與盎倶去。後入朝、帝勞賜加等、授衛尉少卿。聞其善兵、指雲問曰:「下有賊、今可撃乎?」對曰:「雲状如樹、方辰在金、金利木柔、撃之勝。」帝奇其對。累遷左武衛将軍。卒、贈洪州都督。


  盎族人子猷、以豪俠聞。貞観中、入朝、載金一舸自隨。高宗時、遣御史許瓘視其貲。瓘至洞、子猷不出迎、後率子弟数十人、撃銅鼓・蒙排、執瓘而奏其罪。帝馳遣御史楊璟驗訊。璟至、卑辭以結之、委罪於瓘。子猷喜、遺金二百兩・銀五百兩。璟不受。子猷曰:「君不取此、且留不得歸。」璟受之、還奏其状、帝命納焉。


  阿史那社尒、突厥処羅可汗之次子。年十一、以智勇聞。拜拓設、建牙磧北、與頡利子欲谷設分統鉄勒・回紇・僕骨・同羅諸部。処羅卒、哀毀如礼。治衆十年、無課斂。或勸厚賦以自奉、答曰:「部落豊餘、於我足矣。」故首領咸愛之。頡利数用兵、社尒諫、弗納。

  貞観元年、鉄勒・回紇・薛延陀等叛、敗欲谷設於馬獵山、社尒助撃之、弗勝。明年、将餘衆西保可汗浮圖城。會頡利滅、西突厥統葉護又死、奚利必咄陸可汗與泥孰爭国、社尒引兵襲之、得其半国、有衆十餘万、乃自號都布可汗。謂諸部曰:「始為亂破吾国者、延陀也、今我據西方、而不平延陀、是忘先可汗、非孝也。事脱不勝、死無恨。」酋長皆曰:「我新得西方、須留撫定。今直棄之、遠撃延陀、延陀未禽、葉護子孫将復吾国。」社尒不從、選騎五万、討延陀磧北、連兵十旬、士苦其久、稍潰去。延陀縱撃、大敗之、乃走保高昌、衆纔万人、又與西突厥不平、由是率衆内屬。

  十年入朝、授左驍衛大将軍、処其部于霊州。詔尚衡陽長公主、為駙馬都尉、典衛屯兵。十四年、以交河道行軍総管平高昌、諸将咸受賞、社尒以未奉詔、秋毫不敢取、見別詔、然後受、又所取皆老弱陳弊。太宗美其廉、賜高昌宝鈿刀・雜綵千段、詔検校北門左屯営、封畢国公。從征遼東、中流矢、揠去復戰、所部奮厲、皆有功。還、擢兼鴻臚卿。

  二十一年、以崑丘道行軍大総管與契苾何力・郭孝恪・楊弘礼・李海岸等五将軍發鉄勒十三部及突厥騎十万討亀茲。師次西突厥、撃処蜜・処月、敗之。入自焉耆西、兵出不意、亀茲震恐。進屯磧石、伊州刺史韓威以千騎先進、右驍衛将軍曹繼叔次之。至多褐城、其王率衆五万拒戰。威陽卻、王悉兵逐北、威與繼叔合、殊死戰、大破之。社尒因拔都城、王輕騎遁。社尒留孝恪守、自率精騎追躡、行六百里。王據大撥換城、嬰險自固。社尒攻凡四十日、入之、禽其王、并下五大城。遣左衛郎将權祗甫徇諸酋長、示禍福、降者七十餘城、宣諭威信、莫不歡服。刻石紀功而還。因説于闐王入朝、王獻馬畜三百餉軍。西突厥・焉耆・安国皆爭犒師。孝恪之在軍、帷器用多飾金玉、以遺社尒、社尒不受。帝聞、曰:「二将優劣、不復問人矣。」帝崩、請以身殉、衛陵寢、高宗不許。遷右衛大将軍。永徽六年卒、贈輔国大将軍・并州都督、陪葬昭陵、治象山、謚曰元。

  子道真、歴左屯衛大将軍。咸亨初、為邏娑道副大総管、與薛仁貴討吐蕃以援吐谷渾、為論欽陵所敗、盡失其兵。詔有司問状、免死為民。


  阿史那忠者、字義節、蘇尼失子也。資清謹。以功擢左屯衛将軍、尚宗室女定襄県主、始詔姓獨著史。居父喪、哀慕過人。會立阿史那思摩為突厥可汗、以忠為左賢王。及出塞、不楽、見使者必泣、請入侍、許焉。封薛国公、擢右驍衛大将軍。宿衛四十八年、無纖隙、人比之金日磾。卒、贈鎮軍大将軍、謚曰貞、陪葬昭陵。


  執失思力、突厥酋長也。貞観中、護送隋蕭后入朝、授左領軍将軍。會頡利敗、太宗令思力諭降渾・斛薩部落、稍親近。帝逐兔苑中、思力諫曰:「陛下為四海父母、乃自輕、臣竊殆之。」帝異其言。後復逐鹿、思力脱巾帶固諫、帝為止。

  及討遼東、詔思力屯金山道、領突厥扞薛延陀。延陀兵十万寇河南、思力示羸、不與确、賊深入至夏州、乃整陣撃敗之、追躡六百里。會毘伽可汗死、耀兵磧北而歸。復從江夏王道宗破延陀餘衆。與平吐谷渾。

  詔尚九江公主、拜駙馬都尉、封安国公。坐交房遺愛、高宗以其戰多、赦不誅、流巂州。主請削封邑偕往。主前卒。龍朔中、以思力為歸州刺史、卒。麟徳元年、復公主封邑、贈思力勝州都督、謚曰景。


  契苾何力は、鉄勒哥論の易勿施莫賀可汗の孫である。父は葛で、隋末に莫賀咄特勒(バガトゥルテギン)となり、地が吐谷渾に近く、狭隘で病気が多いから、熱海(イシク湖)付近に移り住んだ。何力は九歳の時に父を失い、大俟利発と号した。

  貞観六年(632)、母と衆千人あまりを率いて沙州に詣でて服属し、太宗はその部を甘・涼の二州に置いた。何力を抜擢して左領軍将軍とした。貞観九年(635)、李大亮薛万徹薛万均とともに吐谷渾を赤水川に攻撃した。薛万均は騎兵を率いて突出し、賊のために包囲され、兄弟はみな傷つき落馬して、歩兵戦闘し、士卒で死ぬ者は十人中、七・八人に及んだ。。何力も騎馬で馳せ参じ、包囲をおかして奮戦し、敵は囲みを解いて撤退した。この時吐谷渾王の慕容伏允は突淪川にあって、何力は襲撃しようとしたが、薛万均は前の敗北に懲りて、許可しなかった。何力は、「賊には城郭がなく、薦草や美水を追って生活しています。その油断に乗じなけば、鳥や魚でも恐れさせれば散ってしまいます。後でその巣穴を窺うことはできなくなることを恐れます」といい、そこで精鋭の騎兵千あまりを閲兵し、ただちにその牙を叩かんとし、斬首は数千級で、駱駝・馬・牛・羊が二十万あまり、その妻子は捕虜となって慕容伏允を身を挺して免れさせた。詔があって軍を大斗抜谷で慰労した。薛万均は何力の下に自身の名が出ることを恥じ、そこで何力を排斥して、引いて自らの名で功績とした。何力は憤懣にたえず、刀を抜いて立ち上がり、まさに殺そうとしたが、諸将が諌止した。

  帰還すると、帝はそのことを言って責めたが、何力は詳細に薛万均の欠点を述べた。帝は怒り、まさにその官職を解いて何力に授けようとした。何力は頓首して、「臣をもって薛万均の官を解けば、恐れらくは四夷で聞く者は、陛下のことを夷を重んじて漢を軽んじるというでしょう。すなわち誣告はますます多くなります。また夷狄は無知ですが、漢将といっても皆このようであれば、安泰ではなくなります」と言ったから、帝はその言を重きとし、そこで止めた。詔があって宿衛北門・検校屯営事となり、臨洮県主を拝命した。貞観十四年(640)、葱山道副大総管となり、ともに高昌(トルファン)を討ち、これを平定した。

  始め、何力の母の姑臧夫人と弟の沙門は涼州にあり、沙門は賀蘭都督となっていた。貞観十六年(642)、詔して何力を母のもとに見に行かせた、ここに薛延陀の毘伽可汗(ビルゲカガン)は次第に強盛となり、契苾の諸酋は争ってこれに帰順しようとし、そこでその母と弟を脅して従わせた。何力は驚いてその配下に「お前は主上に大恩があるではないか。そして我も厚く遇してくださる。どうして叛こうとするのだ」と言った。皆が「可敦・都督は去られた。なおどうして行かないのか」と言った。何力は「弟は行って侍ったところで足りるが、我は義は国に許せば、行くことができない」と言ったから、衆は何力を拘束して、毘伽の牙前に連行した。何力は両足を投げ出して座り、佩刀を抜いて東に向いて叫んで「唐の烈士が賊の朝廷に屈辱を受けることがあろうか。天地日月よ、わが志を見よ」といい、そこで左耳のを割き、不屈を誓った。毘伽は怒り、殺そうとしたが、その妻が諫めたから止めた。何力が拘束されるや、ある者は讒言して帝に「何力は薛延陀に入って涸魚が水を得るがごときで、我らから抜けて必ず迫ってくるでしょう」と言ったが、帝は「いや、この人の心は鉄石のようであり、ほぼ我に背くことはない」といい、その時使が至って言状した。帝は涙を流した。そこで兵部侍郎の崔敦礼に詔して持節して派遣し、薛延陀に公主を娶せることを許し、よって何力を求めた。そのため帰還することができた。右驍衛大将軍を授けられた。公主が行くことになった日、何力は不可を陳情した。帝は「天子に戯言はなく、すでにこれを許している。どうしてだめなのか」と言った。何力は「礼というものは親を迎えることにあります。詔して毘伽の身を京師に到らしめ、あるいは霊武まで詣でさせます。彼がこちらを恐れていれば、必ず来ることはありません。そうすれば婚姻は成立しません。しかも憂憤で出るところを知らなければ、部下は必ず離反します。一年もたたずに、たがいに疑い阻みます。毘伽はもとより道理にもとっているので、必ず死にます。死ねば二子は国を争います。内部分裂して外部とは連絡をとり、戦わずして捕虜とできます」と言った。帝はその通りであるとした。毘伽ははたして敢えて迎えず、鬱々として志を得ず、憤りのあまり死んだ。幼い子の抜酌はその庶兄の突利失に殺されて自立し、国中は乱れたから、その策の言う通りとなった。

  帝が高麗を征伐し、何力に詔して前軍総管とした。白崖城に侵攻すると、賊の槍にあたり、傷は重く、帝は自ら薬を世話した。城が陥落すると、何力を刺した高突勃という者を得て、使を走らせて自らこれを殺そうとしたが、辞して「彼はその主のために白刃を冒して臣を刺しました。これは義士です。犬や馬でもなお飼主に報いようとします。ましてや人間ではどうでしょうか」と言ったから、ついにこれを捨て置いた。にわかに崑丘道総管となって亀茲(クチャ)を平定した。帝が崩じると、殉死しようとしたが、高宗が諭して止めた。

  永徽年間(650-655)、西突厥の阿史那賀魯が処月・処蜜・姑蘇・歌邏禄・卑失の五姓を率いて叛き、庭州に侵攻し、金嶺を陥落させ、蒲類を略奪した。何力に詔して弓月道大総管とし、左武衛大将軍の梁建方を率い、秦・成・岐・雍州および燕然都護、回紇の兵八万を率いて討伐させた。処月の酋の朱邪孤注は遂に招慰使果毅都尉の単道恵を殺し、牢山に拠って守った。何力は等しく兵を数道に分け、蔓でよじのぼって急襲し、賊は潰滅した。朱邪孤注は夜に遁走した。軽騎兵で追い迫って、行くこと五百里、朱邪孤注は戦死した。捕虜とした将帥は六十人、捕虜や戦死者は一万あまり、牛馬やその他の家畜は七万、処蜜の時健俟斤・合支賀らを捕らえて帰還した。左驍衛大将軍となり、郕国公に封じられた。

  顕慶年間(656-661)、浿江軍行軍大総管となり、蘇定方および右驍衛大将軍の劉伯英とともに高麗を討ったが勝てなかった。龍朔年間(661-663)初頭、再び遼東道行軍大総管を拝命し、諸蕃三十五軍を率いて進攻した。帝は自ら軍を率いてこれに続こうとした。鴨緑水に侵攻し、蓋蘇文は子の泉男生を遣わして精兵数万で要害で防衛し、衆は敢えて渡ることができなかった。その時氷結し、何力は兵を率いて騒々しく渡河したから、賊は驚き、遂に潰滅した。追撃して斬首三万人で、ほかの衆は降伏し、男生は身を脱れて逃走した。詔して軍を撤退させた。

  その時、鉄勒の九姓が叛き、何力に詔して安撫大使とした。何力は軽騎兵五百を率いてその部に馳せ入れたから、敵は大いに驚いた。何力は喩えて「朝廷はお前たちが欺かれたことを知っており、遂に行動を起こした。我をしてお前たちの過ちをもらい受けたから、自ら一新することができる。罪は凶渠にあって、これを取ればすなわち止むだろう」と言ったから、九姓は大いに喜び、偽葉護(ヤクブ)および特勒(テギン)ら二百人を捕虜として帰還した。何力はその罪を数え上げて誅殺したが、ほかの衆は遂に安んじた。士卒が道で死ぬ者は、その場所で埋葬し、その家の賦役を免除した。

  しばらくもしないうちに、蓋蘇文が死に、男生が弟のために追放され、子をして宮中に詣でて降伏を願い出た。そこで何力に遼東道行軍大総管・安撫大使とし、これを経略させた。李勣を副とし同じく高麗に急行した。李勣はすでに新城を攻略し、何力を留めて守った。その時高麗の兵十五万が遼水に駐屯し、靺鞨の数万の衆を率いて南蘇城に拠った。何力は奮戦してこれを撃破し、斬首は一万級、勝ちに乗じて進撃して八城を陥落させた。兵を転進させ、李勣と合流し、辱夷・大行の二城を攻撃して勝利した。進軍して扶余を陥落させた。李勣は兵を整えていたから未だ進軍しなかったが、何力は兵五十万を率いて先に平壌に急行し、李勣は続いて進軍した。攻めることおよそ七か月、これを陥落させ、その王を捕虜として献じた。鎮軍大将軍、行左衛大将軍に累進し、涼に移封された。

  総章・儀鳳年間(668-679)、吐蕃は吐谷渾を滅ぼし、勢力はますます伸張し、鄯・廓・河・坊などの州に入寇した、詔して周王(後の中宗)を洮州道、相王(後の睿宗)を涼州道行軍元帥とし、何力らを率いてこれを討伐させようとした。二王は行かず、またその時、何力も卒した。輔国大将軍・并州大都督を贈位し、昭陵に陪葬し、謚を毅といった。

  それより以前、龍朔年間(661-663)、司稼少卿の梁修仁が新たに大明宮を造営し、白楊を宮廷に植えた。何力に示して「この木は成長しやすく、数年もしないうちに庇まで届くでしょう」と言った。何力は答えず、ただ「白楊悲風多く、蕭蕭として人を愁殺す(白楊は物悲しく感じられる秋風が多く、風が物寂しく吹いて人を深く悲しませる)」の句を詠んだから、梁修仁は驚き悟り、さらに桐を植えた。


  子の契苾明は、字は若水、幼くして上柱国を授けられ、漁陽県公に封じられた。年十二にして奉輦大夫にうつった。李敬玄が吐蕃を征伐すると、明も柏海道経略使となり、戦いが多かったから、左威衛大将軍に進んだ。襲封し、錦袍・宝帯を賜り、他の物はしげく夥しかった。嫡子が抜擢されて三品官となった。再び鶏田道大総管となり、烏徳鞬山にいたり、誘って二万帳を帰順させた。武后の時、明の妻および母の臨洮県主はみな武姓を賜った。左鷹揚衛大将軍となって卒した。年四十六。涼州刺史を贈られた。謚は靖といった。

  明は性格は博学かつ真心あつく、学を喜び、弁論に長じた。子の聳が襲爵した。


  黒歯常之、百濟西部人。長七尺餘、驍毅有謀略。為百濟達率兼風達郡将、猶唐刺史云。蘇定方平百濟、常之以所部降。而定方囚老王、縱兵大掠、常之懼、與左右酋長十餘人遁去、嘯合逋亡、依任存山自固、不旬日、歸者三万。定方勒兵攻之、不克、常之遂復二百餘城。龍朔中、高宗遣使招諭、乃詣劉仁軌降。累遷左領軍員外将軍・洋州刺史。

  儀鳳三年、從李敬玄・劉審礼撃吐蕃。審礼敗、敬玄欲引還、阻泥溝、兵不得出、賊屯高壓官軍。常之夜率敢死士五百人掩其営、殺掠数百人、賊酋跋地設棄軍走。帝歎其才、擢左武衛将軍、検校左羽林軍、賜金帛殊等。進為河源軍副使。調露中、吐蕃使賛婆等入寇、屯良非川。李敬玄之敗、常之引精騎三千夜襲其軍、斬首二千級、獲羊馬数万、賛婆等單騎去。即拜河源道經略大使。因建言河源當賊衝、宜增兵鎮守、而運饟須広。乃斥地置烽七十所、墾田五千頃、歳收粟斛百餘万。由是食衍士精、戍邏有備。永隆二年、賛婆営青海、常之馳掩其屯、破之、悉燒糧廥、獲羊・馬・甲首不貲。詔書勞賜。凡軍七年、吐蕃憺畏、不敢盜邊。封燕国公。

  垂拱中、突厥復犯塞、常之率兵追撃、至兩井、忽與賊遇、賊騎三千方擐甲、常之見其囂、以二百騎突之、賊皆棄甲去。其暮、賊大至、常之潛使人伐木、列炬営中、若烽燧然。會風起、賊疑救至、遂夜遁。久之、為燕然道大総管、與李多祚・王九言等撃突厥骨咄禄・元珍於黄花堆、破之、追奔四十里、賊潰歸磧北。會左監門衛中郎将爨宝璧欲窮追要功、詔與常之共計、宝璧獨進、為虜所覆、挙軍沒、宝璧下吏誅、常之坐無功。會周興等誣其與右鷹揚将軍趙懐節反、捕繋詔獄、投繯死。

  常之御下有恩、所乘馬為士所箠、或請罪之。答曰:「何遽以私馬鞭官兵乎?」前後賞賜分麾下、無留貲。及死、人皆哀其枉。


  李謹行、靺鞨人。父突地稽、部酋長也。隋末、率其屬千餘内附、居営州、授金紫光禄大夫・遼西太守。武徳初、奉朝貢、以其部為燕州、授総管。劉黒闥叛、突地稽身到定州、上書秦王、請節度。以戰功封耆国公、徙部居昌平。高開道以突厥兵攻幽州、突地稽邀撃、敗之。貞観初、進右衛将軍、賜氏李、卒。

  謹行偉容貌、勇蓋軍中、累遷営州都督、家童至数千、以財自雄、夷人畏之。為積石道經略大使、論欽陵衆十万寇湟中、候邏不知、士樵采半散。謹行聞虜至、即植旗伐鼓、開門以伺、欽陵疑有伏、不敢進。上元三年、破吐蕃于青海、璽書勞勉、封燕国公。卒、贈幽州都督、陪葬乾陵。


  泉男生字元徳、高麗蓋蘇文子也。九歳、以父任為先人。遷中裏小兄、猶唐謁者也。又為中裏大兄、知国政、凡辭令、皆男生主之。進中裏位頭大兄。久之、為莫離支、兼三軍大将軍、加大莫離支、出按諸部。而弟男建・男産知国事、或曰:「男生惡君等逼己、将除之。」建・産未之信。又有謂男生:「将不納君。」男生遣諜往、男建捕得、即矯高藏命召、男生懼、不敢入。男建殺其子獻忠。男生走保国内城、率其衆與契丹・靺鞨兵内附、遣子獻誠訴諸朝、高宗拜獻誠右武衛将軍、賜乘輿・馬・瑞錦・宝刀、使還報。詔契苾何力率兵援之、男生乃免。授平壤道行軍大総管、兼持節安撫大使、挙哥勿・南蘇・倉巖等城以降。帝又命西臺舍人李虔繹就軍慰勞、賜袍帶・金釦七事。

  明年、召入朝、詔所過州県伝舍作鼓吹、右羽林将軍李同以飛騎仗廷寵。遷遼東大都督・玄菟郡公、賜第京師。因詔還軍、與李勣攻平壤、使浮屠信誠内間、引高麗鋭兵潛入、禽高藏。詔遣子齎手制・金皿、即遼水勞賜。還、進右衛大将軍・卞国公、賜宝器・宮侍女二・馬八十。儀鳳二年、詔安撫遼東、并置州県、招流冗、平斂賦、罷力役、民悅其寬。卒、年四十六、帝為挙哀、贈并州大都督。喪至都、詔五品以上官哭之、謚曰襄、勒碑著功。

  男生純厚有礼、奏對敏辯、善射藝。其初至、伏斧鑕待罪、帝宥之、世以此稱焉。


  獻誠、天授中以右衛大将軍兼羽林衛。武后嘗出金幣、命宰相・南北牙群臣挙善射五輩、中者以賜。内史張光輔挙獻誠、獻誠讓右玉鈐衛大将軍薛吐摩支、摩支固辭。獻誠曰:「陛下擇善射者、然皆非華人。臣恐唐官以射為恥、不如罷之。」后嘉納。來俊臣嘗求貨、獻誠不答、乃誣其謀反、縊殺之。后後知其冤、贈右羽林衛大将軍、以礼改葬。


  李多祚、其先靺鞨酋長、號「黄頭都督」、後入中国、世系湮遠。至多祚、驍勇善射、以軍功累遷右鷹揚大将軍。討黒水靺鞨、誘其渠長、置酒高會、因醉斬之、撃破其衆。室韋及孫万榮之叛、多祚與諸将進討、以勞改右羽林大将軍、遂領北門衛兵。

  張柬之将誅二張、以多祚素感、可動以義、乃從容謂曰:「衛軍居北門幾何?」曰:「三十年矣。」「将軍撃鍾鼎食、貴重當世、非大帝恩乎?」多祚泣数行下、曰:「死且不忘!」柬之曰:「将軍知感恩、則知所以報、今在東宮乃大帝子、而嬖豎擅朝、危逼宗社。国家廢興在将軍、将軍誠有意乎?捨今日尚何在?」答曰:「苟縁王室、惟公所使。」乃引天地以自誓、辭氣毅然、柬之遂定謀。以敬暉・李湛為右羽林将軍、命総禁兵、與多祚・王同皎請太子至玄武門、斬關入。及長生殿、白武后曰:「諸将誅逆臣易之・昌宗、恐漏大謀、不敢豫奏、頓首請歸死。」后病臥、顧湛曰:「我於而父子不薄、亦豫是邪?」

  中宗復位、封多祚遼陽郡王、食実戸八百、子承訓為衛尉少卿。湛遷大将軍、封趙国公、食実戸五百。帝祠太廟。特詔多祚與相王登輿夾侍。監察御史王覿謂多祚夷人、雖有功、不宜共輿輦。帝曰:「朕推以心腹、卿勿復言。」

  崔玄暐等得罪、多祚畏禍及、故陽厚韋氏。節愍太子誅武三思、多祚與成王千里率兵先至玄武樓下、具言所以誅三思状、按兵不戰。宮闈令楊思勗方侍帝、即挺刀斬其壻羽林中郎将野呼利、兵因沮潰、多祚為其下所殺、二子亦見害、籍沒其家。景雲初、追復官爵、并宥家屬。


  湛者、義府最幼子、字興宗、沈厚有度。六歳、授周王府文学、累遷右散騎常侍、襲河間郡公。武后徙上陽宮、留湛宿衛。頃之、復為右散騎常侍、賜鉄券。三思惡之、貶果州刺史。歴洺・絳二州、累遷左領軍大将軍。開元十年卒、贈幽州都督。初、義府以立武后故得宰相、而湛為中興功臣、世不以其父惡為貶云。


  論弓仁、本吐蕃族也。父欽陵、世相其国。聖暦二年、弓仁以所統吐渾七千帳自歸、授左玉鈐衛将軍、封酒泉郡公。神龍三年、為朔方軍前鋒游弈使。時張仁愿築三受降城、弓仁以兵出諾真水・草心山為邏衛。

  開元初、突厥九姓亂、弓仁引軍度漠、踰白檉林、收火拔部喩多真種落、降之。跌思太叛、戰赤柳澗、弓仁騎才五百、自新堡進、時賊四環之、衆不敵、弓仁椎牛誓士自若、再宿潰圍出、人服其壯。凡閲大小戰数百、未嘗負。賜宝玉・甲第・良田、等列莫與比。累遷左驍衛大将軍・朔方副大使。會病、玄宗遣上醫馳視。卒、年六十六、贈撥川郡王、謚曰忠。

  孫惟貞。


  惟貞名瑀、以字行。志向恢大。開元末、為左武衛将軍。肅宗在霊武、以衛尉少卿募兵綏・銀、閲旬、衆数万。從還鳳翔、遷光禄卿、為元帥前鋒討撃使。戰陝州、以功進殿中監。

  史思明攻李光弼於河陽、周摯以兵二十万陣城下、惟貞請鋭卒数千、鑿数門出、自旦及午、苦戰破之。光弼表為開府儀同三司。光弼討史朝義、以惟貞守徐州。賊将謝欽讓據陳、乃假惟貞潁州刺史、斬賊将、降者万人。封蕭国公、実封百戸。光弼病、表以自代。擢左領軍衛大将軍、為英武軍使、卒。


  尉遅勝本王于闐国。天宝中、入朝、獻名玉・良馬。玄宗以宗室女妻之、授右威衛将軍・毘沙府都督。歸国、與安西節度使高仙芝撃破薩毘・播仙。累進光禄卿。

  安禄山反、勝使弟曜攝国事、身率兵五千赴難。国人固留勝、勝以少女為質而行。肅宗嘉之、拜特進、兼殿中監。広徳中、進驃騎大将軍、遣還、固請留宿衛。加開府儀同三司、封武都郡王、実封百戸。勝請授国於曜、詔可。勝既留、乃穿築池観、厚賓客、士大夫多從之游。從徳宗至興元、為右領軍将軍、歴睦王傅。貞元初、曜上言:「国中以嫡承嗣、今勝讓国、請立其子鋭。」帝欲遣鋭襲王。勝固辭、以「曜久行国事、人安之﹔鋭生京華、不習其俗、不可遣」。當是時、兄弟讓国、人莫不賢之。睦府除、徙原王傅。卒、贈涼州都督。


  尚可孤字可孤、東部鮮卑宇文之別種、世処松・漠間。天宝末、隸范陽節度使安禄山、復事史思明。上元中、自賊所歸、累授左・右威衛大将軍、封白水県伯、為神策大将。以功試太常卿。徒封馮翊郡王、食実戸一百五十。

  魚朝恩主衛兵、器其勇、養為子、名智徳。使将兵三千、屯扶風・武功、歴十餘年、隊伍閑整。朝恩死、詔賜氏李、名嘉勳。李希烈叛、擢為招討、應援荊襄、使復本姓名、累戰有功。

  朱泚之難、召可孤、可孤率兵三千、道襄・鄧而西、屬賊兵鋭、乃壁七盤。偽将仇敬忠等來寇、可孤撃卻之、遂收藍田。徳宗将遷梁州、命引兵守灞上、拜神策・京畿・渭南・商州節度招討使。敬忠拒戰、可孤急撃斬之。進軍與李晟收長安、為先鋒。以功加検校尚書右僕射、封馮翊郡王、食実戸二百。又會諸軍進討李懐光、次沙苑、卒于軍、贈司空。

  可孤性謹審沈壯、既有勳勞、未嘗自論功、御衆公嚴、晟数稱之。


  裴玢、五世祖糾、本王疏勒、武徳中來朝、拜鷹揚大将軍、封天山郡公、留不去、遂籍京兆。

  玢初事金吾将軍論惟明為傔力。徳宗在奉天、以功封忠義郡王。從惟明鎮鄜坊、署牙将。後節度使王栖曜卒、中軍将何朝宗夜縱火作亂、玢獨匿不出。遅明、禽朝宗以待命。有詔并軍司馬崔輅斬之、以同州刺史劉公濟領節度、擢玢為司馬。踰年、公濟卒、乃授玢節度使。元和二年、徙山南西道。

  玢為治嚴稜、畏遠權勢、不務貢奉。蔬食弊衣、居処取避風雨而已。倉庫完実、百姓安之、當世将帥、未有及者。以疾辭位。入朝、不事騶仗。妻乘竹輿、二侍婢、黄碧縑服。七年卒、贈尚書左僕射、謚曰節。


  賛曰:夷狄性惇固、其能知義所在者、鷙挺不可遷、蓋巧不足而諒常有餘。観大柰等事君、皆一其志、無有顧望、用能功績光明、為天子倚信、至渾瑊・跌・光顔輩、烈垂無窮、惟其諒有餘故也。瑊・光顔自有伝、今類其人著之篇。

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最終更新:2022年11月21日 01:06
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