李罕之 りかんし
842-899
唐末の群雄。陳州項城県の人。僧侶であったが、逃走して人を集めて五台山の麓を奪取した。避難民が身を寄せる摩雲山を陥落させて、軍を「李摩雲」と号した。
黄巣の反乱軍に従って長江を渡り、
高駢に降伏。知光州事となる。しかし
秦宗権に追われて項城に逃走。敗残兵を集めて河陽節度使
諸葛爽を頼り、懐州刺史となった。河南尹・東都留守となったが、
孫儒に追われた。光啓二年(886)諸葛爽が卒すると河陽節度使で内紛が起こり、さらに
秦宗権の部下の
孫儒の侵攻によって河陽軍は大敗。
張言と共に敗軍を再編成して河陽を得られた。張言との関係が悪化すると、
李克用の元に走り、沢州刺史、河陽節度使となり、張言を攻撃したが、張言は
朱全忠に救援を求めて李克用軍を撃破。光化二年(899)昭義節度使の
薛志勤が卒すると、李罕之は夜襲して潞州に入り、自ら留後と称した。そのため李克用軍の攻撃を受けたが、今度は朱全忠軍と結んだ。『新唐書』『旧五代史』『新五代史』に伝がある。
列伝
外部リンク
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』李罕之
最終更新:2026年08月03日 00:33