王処存 おうしょそん
831-895
唐末の武将・藩鎮・群雄。本籍は京兆万年県(陝西省西安市)の人。家は長安の
勝業坊の中にあり、有数の富裕であった。興元節度使の王宗の子。代々神策軍に属し、右軍鎮使から乾符六年(879)十月、検校刑部尚書・定州制置使、義武節度使に任じられた。
黄巣が長安を陥落させると、進軍して
中渭橋に駐屯し、
唐弘夫が一時長安を奪還すると長安に軍は入ったが、黄巣軍の反撃で再度奪われ、長安の民衆数万が殺害された。東南面行営招討使となり、
中和二年(882)、京城東面都統に任じられた。
李克用に使者を送って呼び寄せ、長安を再奪還し、朝廷が乱平定の功績の序列を定めた際に、勤王で義を挙げた者に王処存を功績第一とし、城を攻略して賊を破ったのは李克用を功績第一とした。検校司空となり、さらに検校司徒・同中書門下平章事に昇進した。
田令孜が河中節度使
王重栄を討伐しようと、王処存を河中節度使に任じたが、王処存は王重栄の無実を説きながらも軍を向かわせたが、王重栄の麾下は入城を拒んだから、実際には赴任しなかった。
李克用に従い、盧龍軍節度使
李可挙・
李匡威、成徳軍節度使
王鎔と抗争した。子に
王郜がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2026年08月19日 22:18