鄭畋 ていでん
825-883
晩唐の宰相(在任874-878、881、882-883)・藩鎮。滎陽鄭氏の出身。
鄭亜の子。母の李氏は
李翱の娘。進士科・書判抜萃科に及第したが、父鄭亜は牛李の党争において
李徳裕に引き立てられて出世した人物であったため、
武宗をはじめ
白敏中・
令狐綯・
鄭薫に徹的的に忌諱されて官吏としての昇進を閉ざされた。父が没すると宦官の
西門思恭に養われた。
劉瞻が宰相になると、戸部郎中、翰林学士、知制誥、戸部侍郎と昇進したが、劉瞻が罷免されると梧州刺史に貶された。
僖宗が即位すると、郴州・絳州刺史から右散騎常侍となり、
乾符元年(874)十月、兵部侍郎、同中書門下平章事(宰相)に昇進した。
黄巣の乱が勃発し、
乾符六年(879)、
黄巣が安南を占領して自身を天平節度使とするよう求めると、懐柔策を主張したが、強硬派の宰相
盧攜と僖宗の面前で激しい罵り合いをしたため、二人とも宰相を罷免された。鳳翔隴西節度使に飛ばされたが、黄巣の乱が激化して長安が陥落すると、長安北西に位置する同地の重要性が増し、京城西面行営都統に任じられてこの地方の作戦を担当した。涇原節度使
程宗楚らと盟約を結んで
王璠を龍尾坡の戦いで殲滅したが、長安奪還を急いだ部下
唐弘夫と程宗楚が黄巣軍の反撃により潰滅した。
中和元年(881)六月、司空(在任881)となり、同年八月、節度使在任のまま同中書門下平章事(宰相)に復帰。十月、
李昌言に節度使を追放され、十一月に宰相を罷免された。成都の僖宗のもとに参じると、
中和二年(882)二月、司空・門下侍郎・平章事(宰相)に任命し、軍務のすべてを決済した。中和三年(883)二月に司徒(在任883)となり、黄巣からついに長安を奪還したが、僖宗が長安に戻る最中に鄭畋とは過去の因縁がある
李昌言の領域を穏便に通過するため、同年七月、宰相を辞任。まもなく没した。黄巣の乱にて、長安陥落の絶望的状況から反撃を実施し、いくばくか実を結びながらも自身が節度使を追放されたため成就しなかったが、宰相として軍務を後援して最終的に黄巣の乱鎮圧の一因をなした。子に
鄭凝績がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2026年09月15日 02:06