王仲昇 おうちゅうしょう
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中唐の武将・藩鎮(第3代淮西節度使)。招討党項使で、乾元元年(758)七月に党項が侵攻してくると迎撃し、九月に
拓抜戎徳を斬った。右羽林大将軍となり、乾元二年(759)申・安・沔等州節度使に任じられた。
来瑱が兵士の心をつかんでいるから一任地に留めるべきではないと讒言した。上元元年(760)宋州刺史の
劉展に叛意があるとして上表した。宝応元年(762)
史朝義の将で襄州の張維瑾の部将
謝欽譲と申州で戦い、敗れて捕虜となった。後に再度唐に帰順したが、
来瑱が賊と内通していると誣告したから、来瑱が賜死する一因となった。宝応二年(763)六月、右羽林大将軍、兼御史大夫となった。六軍将軍が大夫を兼任するのは王仲昇が初例となった。渭北節度使となり、広徳元年(763)
僕固懐恩が叛いて吐蕃とともに侵攻してくると、
郭子儀によって朝堂の守備に配置された。
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最終更新:2025年07月30日 08:25