巻十 本紀第十

唐書巻十

本紀第十

昭宗 哀帝


  昭宗聖穆景文孝皇帝は、諱を曄といい、懿宗の第七子である。母は恭憲皇太后王氏といった。始め寿王に封ぜられた。乾符三年(876)、幽州盧龍軍節度使を領した。僖宗が乱に遇って再び出奔すると、寿王は兵を掌握して左右に侍り、最も頼りにされた。

  文徳元年(888)三月、僖宗の病が重くなると、群臣は吉王が年長であるので、これを立てたく思っていた。観軍容使の楊復恭が兵を率いて寿王を迎え、立てて皇太弟とし、敏と名を改めた。乙巳、柩の前で皇帝位についた。
  四月戊辰、孫儒が揚州を陥落させ、淮南節度使を自称し、楊行密が廬州に逃れた。庚午、母を追尊して皇太后とした。韋昭度が中書令となり、孔緯が司空となった。乙亥、張全義が孟州を陥落させ、李罕之が河東に逃れた。成汭が江陵を陥落させ、留後を自称した。辛卯、朱全忠秦宗権と蔡州で戦い、これを破った。
  五月壬寅、趙徳諲が襄州をもって降り、趙徳諲を忠義軍節度使・蔡州四面行営副都統とした。
  六月、閬州防禦使の王建が漢州を陥落させ、刺史の張頊を捕らえて、成都を寇した。韋昭度が宰相を退いて剣南西川節度副大使となり、両川招撫制置使を兼ねた。
  十月、陳敬瑄がそむいた。辛卯、恵聖恭定孝皇帝靖陵に葬った。
  十一月丙申、秦宗権が許州を陥落させ、忠武軍節度使の王縕を捕らえた。辛酉、奉国軍の将の申叢秦宗権を捕らえた。
  十二月丁亥、韋昭度が行営招討使となり、永平軍節度使の王建とともに陳敬瑄を討った。山南西道節度使の楊守厚が夔州を陥落させた。

  龍紀元年(889)正月癸巳、大赦をおこない、改元した。翰林学士承旨・兵部侍郎の劉崇望が同中書門下平章事となった。壬子、宣武軍の将の郭璠が奉国軍留後の申叢を殺し、留後を自称した。
  二月戊辰、朱全忠秦宗権を捕らえて献上した。己丑、秦宗権が処刑された。
  三月、孔緯が司徒となり、杜譲能が司空となった。丙申、銭鏐が蘇州を陥落させ、刺史の徐約を追放した。
  六月、李克用が邢州を寇した。昭義軍節度使の孟方立が亡くなると、その弟の孟遷が留後を自称した。楊行密が宣州を陥落させ、宣歙観察使の趙鍠がここに死んだ。廬州刺史の蔡儔が叛いて孫儒についた。
  八月甲戌、孟遷が叛いて李克用についた。
  十月、平盧軍節度使の王敬武が亡くなると、その子の王師範が留後を自称し、棣州を陥落させ、刺史の張蟾がここに死んだ。宣歙観察使の楊行密が常州を陥落させ、刺史の杜陵がここに死んだ。銭鏐が潤州を陥落させた。
  十一月丁未、太清宮で朝献した。戊申、太廟で朝享した。己酉、南郊を有事摂祭し、大赦をおこなった。
  十二月、孫儒が常・潤の二州を陥落させた。戊午、孔緯が太保となり、杜譲能が司徒となった。壬申、眉州刺史の山行章が叛いて王建についた。

  大順元年(890)正月戊子、群臣が尊号をたてまつって聖文睿徳光武弘孝皇帝といい、大赦をおこない、改元した。壬寅、簡州の将の杜有遷がその刺史の員虔嵩を捕らえ、叛いて王建についた。
  二月己未、資州の将の侯元綽がその刺史の楊戡を捕らえ、叛いて王建についた。
  三月戊申、昭義軍節度使の李克修が亡くなると、その弟の李克恭が留後を自称した。
  四月丙辰、宿州の将の張筠がその刺史の張紹光を追放した。丙寅、嘉州刺史の朱実が叛いて王建についた。丙子、戎州の将の文武堅がその刺史の謝承恩を捕らえて、叛いて王建についた。
  五月、張濬が河東行営都招討宣慰使となり、京兆尹の孫揆がその副使となった。幽州盧龍軍節度使の李匡威が北面招討使となり、雲州防禦使の赫連鐸がその副使となった。朱全忠が南面招討使となり、王鎔が東面招討使となり、李克用を討った。壬寅、昭義軍の将の安居受がその節度使の李克恭を殺して、叛いて朱全忠についた。癸丑、剣南東川節度使の顧彦朗が亡くなると、その弟の顧彦暉が留後を自称した。
  六月辛酉、雅州の将の謝従本がその刺史の張承簡を殺して、叛いて王建についた。辛未、朱全忠が河東東面行営招討使となった。この月、河東の将の安知建が邢州・洺州・磁州の三州をもって叛いて朱全忠についた。
  七月、楊行密が潤州を陥落させた。戊申、李克用が昭義軍節度使の孫揆を捕らえた。
  八月、銭鏐が蘇州刺史の杜孺休を殺した。楊行密が蘇州を陥落させた。淮南節度使の孫儒が潤州を陥落させた。庚午、朱全忠が中書令となった。
  九月、李克用が潞州を陥落させた。楊行密が潤州・常州の二州を陥落させた。
  閏月、孫儒が常州を陥落させた。壬戌、邛州の将の任可知がその刺史の毛湘を殺した。
  十月癸未、蜀州刺史の李行周が叛いて王建についた。李克用が邢・洺・磁の三州を陥落させた。
  十一月丁卯、李匡威が蔚州を陥落させた。この月、張濬李克用と陰地で戦い、敗れた。孫儒が蘇州を陥落させた。
  十二月、李克用が晋州を陥落させた。

  大順二年(891)正月庚申、孔緯張濬が宰相を罷免された。翰林学士承旨・兵部侍郎の崔昭緯と御史中丞の徐彦若が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。甘露鎮使の陳可言が常州を陷した。銭鏐が蘇州を陥落させた。
  二月乙巳、陳敬瑄を赦した。丁未、詔により王建の兵権を奪ったが、王建は命を受けなかった。
  この春、淮南で大飢饉があった。
  四月庚辰、彗星が太微に入った。甲申、大赦をおこない、正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめた。両軍に金帛を賜り、掠奪された男女を贖ってその家に帰した。民間で年八十以上および病により自分で生活できない者は、長吏に施しをさせた。武徳の功臣の子孫を訪れた。癸卯、王建が成都を寇した。
  五月、孫儒が和州・滁州の二州を陥落させた。
  六月、楊行密が和州・滁州の二州を陥落させた。丙午、子の李祐を封じて徳王とした。
  七月、李克用が雲州を陥落させ、防禦使の赫連鐸が退渾に逃れた。孫儒が揚州を焼いて逃げた。
  八月庚子、王建が成都を陥落させ、剣南西川節度使陳敬瑄を捕らえて、留後を自称した。
  十月壬午、朱全忠が宿州を陥落させた。
  十一月己未、曹州の将の郭銖がその刺史の郭詞を殺し、叛いて朱全忠についた。辛未、朱全忠が寿州を陥落させた。

  景福元年(892)正月己未、朱全忠が孟州を陥落させ、河陽節度使の趙克裕を追放した。丙寅、大赦をおこない、改元した。
  二月、劉崇望が宰相を罷免された。銭鏐が蘇州を陥落させた。甲申、朱全忠が鄆州を寇したので、天平軍節度使の朱宣がこれを破った。
  三月、戸部尚書の鄭延昌が中書侍郎・同中書門下平章事となった。乙巳、楊行密が楚州を陥落させ、刺史の劉瓚を捕らえた。また常州を陥落させ、刺史の陳可言がここに死んだ。丙辰、武定軍節度使の楊守忠と龍剣節度使の楊守貞が楊守厚の兵と合流して梓州を寇した。丙寅、福建観察使の陳巌が亡くなると、護閩都将の范暉が留後を自称した。庚午、泉州刺史の王潮が福州を寇した。
  四月辛巳、杜譲能が太尉となった。
  六月戊寅、楊行密が揚州を陥落させた。己巳、鳳翔隴右節度使の李茂貞が鳳州を陥落させ、感義軍節度使の満存が興元に逃れ、そのまま興州・洋州の二州を陥落させた。
  八月壬申、李茂貞が興元を寇し、楊守亮満存が閬州に逃れた。丙戌、丙戌、京畿および関中周辺の囚人の罪を一等降し、淮南・浙西・宣州の債務を免除した。
  十月、蔡儔が廬州をもって叛いて朱全忠につき、河東の将の李存孝が邢州をもって叛いて朱全忠についた。
  十一月、孛(ほうきぼし)が斗・牛を横切った。辛丑、武寧軍の将の張璲張諌が濠州・泗州の二州をもって叛いて朱全忠についた。乙巳、朱友裕が濮州を陥落させ、刺史の邵儒を捕らえた。孫儒の将の王壇が婺州を陥落させ、刺史の蒋瓌が越州に逃れた。
  この年、明州刺史の鍾文季が亡くなると、その将の黄晟が刺史を自称した。

  景福二年(893)正月、徐彦若が宰相を退いて鳳翔隴右節度使となり、李茂貞が山南西道節度使となった。李茂貞は命を受けなかった。
  二月、楊行密が常州を陥落させた。
  三月辛酉、幽州盧龍軍兵馬留後の李匡籌がその兄の李匡威を追放して、節度留後を自称した。
  四月乙亥、王建陳敬瑄と剣南西川監軍田令孜を殺した。乙酉、彗星が太微に入った。丁亥、王鎔李匡威を殺した。戊子、朱全忠が徐州を陥落させ、武寧軍節度使の時溥がここに死んだ。
  五月庚子、王潮が福州を陥落させ、范暉がここに死に、王潮が留後を自称した。
  七月、楊行密が廬州を陥落させ、蔡儔がここに死んだ。
  八月丙申、嗣覃王李嗣周が京西面招討使となり、神策大将軍の李鐬が副使となり、李茂貞を討った。庚子、昇州刺史の張雄が亡くなると、その将の馮弘鐸が刺史を自称した。この月、楊行密が歙州を陥落させた。
  九月壬午、嗣覃王李嗣周李茂貞と興平で戦い、敗れた。甲申、李茂貞が京師を侵した。乙酉、李茂貞は観軍容使の西門重遂・内枢密使の李周𧬤・段詡を殺した。杜譲能が左遷されて梧州刺史となった。壬辰、東都留守・検校司徒の韋昭度が司徒となり、御史中丞の崔胤が戸部侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。この月、昇州刺史の馮弘鐸が叛いて楊行密についた。
  十月乙未、杜譲能と戸部侍郎杜弘徽を殺した。楊行密が舒州を陥落させた。
  十二月、韋昭度が太傅となった。邵州刺史の鄧処訥が潭州を陥落させ、欽化軍節度使の周岳がここに死に、鄧処訥が留後を自称した。
  この年、建州刺史の徐帰範と汀州刺史の鍾全慕が叛いて王潮についた。

  乾寧元年(894)正月、孛(ほうきぼし)が鶉首を横切った。乙丑、大赦をおこない、改元した。李茂貞が兵をつれて来朝した。
  二月、右散騎常侍の鄭綮が礼部侍郎・同中書門下平章事となった。彰義軍節度使の張鈞が亡くなると、その兄の張鐇が留後を自称した。
  三月甲申、李克用が邢州を寇し、李存孝を捕らえてこれを殺した。
  五月丙子、王建が彭州を陥落させ、威戎軍節度使の楊晟がここに死んだ。この月、鄭延昌が宰相を罷免された。孫儒の将の劉建鋒馬殷が潭州を陥落させ、武安軍節度使の鄧処訥がここに死に、劉建鋒が留後を自称した。武岡指揮使の蒋勲が邵州を陥落させた。
  六月、大同軍防禦使の赫連鐸李克用と雲州で戦い、ここに死んだ。戊午、翰林学士承旨・礼部尚書の李磎が同中書門下平章事となった。庚申、李磎が宰相を罷免された。御史大夫の徐彦若が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  七月、長雨のため正殿を避け、膳を減らした。鄭綮が宰相を罷免された。李茂貞が閬州を陥落させた。
  八月、楊守亮が処刑された。癸巳、京畿・興元府・洋州・金州・商州の賦役を減らした。
  九月庚申、李克用が潞州を陥落させ、昭義軍節度使の康君立がここに死んだ。
  十月丁酉、子の李祤を封じて棣王とし、李禊を虔王とし、李禋を沂王とし、李禕を遂王とした。
  十一月、李克用が武州を陥落させた。
  十二月、新州を陥落させた。甲寅、幽州盧龍軍節度使の李匡籌が滄州に逃れ、義昌軍節度使の盧彦威がこれを殺した。丙辰、李克用が幽州を陥落させた。
  この冬、楊行密が黄州を陥落させ、刺史の呉討を捕らえた。

  乾寧二年(895)正月己巳、給事中の陸希声が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。壬申、護国軍節度使の王重盈が亡くなると、その子の王珂が留後を自称した。
  二月乙未、太子太傅の李磎が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。
  三月、崔胤李磎が宰相を罷免された。戸部侍郎・判戸部の王摶が中書侍郎・同中書門下平章事となった。楊行密が濠州を陥落させ、刺史の張璲を捕らえた。庚午、河東で地震があった。
  四月、蘇州で大雨と大雪があった。陸希声韋昭度が宰相を罷免された。泰寧軍節度使の朱瑾朱全忠と高梧で戦って、敗れ、その将の安福慶がここに死んだ。楊行密が寿州を陥落させ、刺史の江従勗を捕らえた。
  五月甲子、静難軍節度使の王行瑜・鎮国軍節度使の韓建李茂貞が京師を侵し、太保として致仕した韋昭度と太子少師の李磎を殺した。この月、李克用が絳州を陥落させ、刺史の王瑤がここに死んだ。
  六月庚寅、鎮海軍節度使の銭鏐が浙江東道招討使となった。癸巳、吏部尚書の孔緯が司空となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。
  七月丙辰、李克用が兵を河中に駐屯させた。戊午、匡国軍節度使の王行約が京師に逃れた。庚申、左右神策軍護軍中尉の駱全瓘劉景宣と指揮使の王行実および李継鵬がそむいた。莎城を行在とした。嗣薛王李知柔が権知中書事となった。壬戌、李克用が同州を陥落させた。甲子、次石門。前護国軍節度使の崔胤が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  八月戊戌、李克用が邠寧四面行営招討使となり、保大軍節度使の李思孝が北面招討使となり、定難軍節度使の李思諌が東北面招討使となり、彰義軍節度使の張鐇が西面招討使となった。辛丑、李克用が邠寧四面行営都統となった。李継鵬が処刑された。李茂貞を赦した。辛亥、石門から到着した。壬子、崔昭緯が宰相を罷免された。
  九月丙辰、徐彦若が司空となった。癸亥、孔緯が薨去した。前昭義軍節度使の李罕之が邠寧四面行営副都統となった。
  十月、京兆尹の孫偓が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。丙戌、李克用王行瑜と梨園で戦い、これを破った。庚寅、王行約が寧州を焼いて逃亡した。義武軍節度使の王処存が亡くなると、その子の王郜が留後を自称した。
  十一月丁巳、李克用王行瑜と龍泉で戦い、これを破った。辛酉、衢州刺史の陳儒が亡くなると、その弟の陳岌が刺史を自称した。丁卯、王行瑜が処刑された。壬申、斉州刺史の朱瓊が叛いて朱全忠についた。丁丑、王建が利州を陥落させ、刺史の李継顒がここに死んだ。
  十二月癸未、京師で赦をおこない、大順年間(890-891)以降に官爵を削奪されたものでその罪にあたらない者の官爵を復した。甲申、閬州防禦使の李継雍・蓬州刺史の費存・渠州刺史の陳璠が叛いて王建についた。丙申、王建が梓州を寇した。戊戌、通州刺史の李彦昭が叛いて王建についた。
  この年、安州防禦使の宣晟が桂州を陥落させ、静江軍節度使の周元静の部将の劉士政がここに死に、宣晟が知軍府事を自称した。

  乾寧三年(896)正月癸丑、王建が龍州を陥落させ、刺史の田昉がここに死んだ。
  閏月丁亥、果州刺史の周雄が叛いて王建についた。
  四月壬子、武安軍が乱を起こし、その節度使の劉建鋒を殺し、その将の馬殷が留後を自称した。
  五月癸未、楊行密が蘇州を陥落させ、刺史の成及を捕らえた。光州を陥落させ、刺史の劉存がここに死んだ。庚寅、成汭が黔州を陥落させ、武泰軍節度使の王建肇が成都に逃れた。乙未、董昌が処刑された。この月、蘄州刺史の馮行章が叛いて楊行密についた。
  六月庚戌、李茂貞が京師を侵し、嗣延王李戒丕がこれをふせいだ。丙寅、李茂貞と婁館で戦い、敗れた。
  七月癸巳、渭北を行在とした。甲午、韓建が来朝し、華州に行った。乙巳、崔胤が宰相を罷免された。丙午、翰林学士承旨・尚書左丞の陸扆が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。
  八月甲寅、王摶が宰相を罷免された。乙丑、国子毛詩搏士の朱朴が左諌議大夫・同中書門下平章事となった。
  九月乙未、武安軍節度使の崔胤が中書侍郎となり、翰林学士承旨・兵部侍郎の崔遠が同中書門下平章事となった。丁酉、陸扆を左遷して峽州刺史とした。
  十月、李克用羅弘信と白龍潭で戦い、これを破った。壬子、孫偓が持節・鳳翔四面行営節度・諸軍都統・招討・処置使となった。戊午、威勝軍節度使の王摶が吏部尚書・同中書門下平章事となった。
  十一月戊子、忠国軍節度使の李師悦が亡くなると、その子の李継徽が留後を自称した。

  乾寧四年(897)正月乙酉、韓建が兵をもって行宮を囲み、扈蹕都将の李筠を殺した。丙申、朱全忠が鄆州を陥落させ、天平軍節度使の朱宣がここに死んだ。己亥、孫偓が都統を罷免された。
  二月、朱全忠が兗州を寇し、泰寧軍節度使の朱瑾が淮南に逃れ、その子の朱用貞が兗州をもって叛いて朱全忠についた。朱全忠は沂州・海州・密州の三州を陥落させた。保義軍節度使の王珙が河中を寇した。韓建が太子詹事の馬道殷と将作監の許巌士を殺した。楊行密が江南諸道行営都統となった。癸丑、王建が瀘州を陥落させ、刺史の馬敬儒がここに死んだ。己未、徳王李裕を立てて皇太子とし、大赦をおこない、行廟に饗した。辛未、王建が渝州を陥落させた。乙亥、孫偓朱朴が宰相を罷免された。
  五月壬午、朱全忠が黄州を陥落させ、刺史の矍璋がここに死んだ。
  六月、王建を左遷して南州刺史とした。李茂貞を剣南西川節度使とし、嗣覃王李嗣周を鳳翔隴右節度使としたが、李茂貞は命を受けず、李嗣周李茂貞と奉天で戦い、敗れた。
  八月、韓建が通王李滋・沂王李禋・韶王・彭王・嗣韓王・嗣陳王・嗣覃王李嗣周・嗣延王李戒丕・嗣丹王李允を殺した。
  九月、銭鏐が湖州を陥落させ、忠国軍節度使の李継徽が淮南に逃れた。彰義軍節度使の張璉が鳳翔西北行営招討使となり、静難軍節度使の李思諌が鳳翔四面行営副都統となって、李茂貞を討った。
  十月壬子、遂州刺史の侯紹が叛いて王建についた。乙卯、合州刺史の王仁威が叛いて王建についた。庚申、王建が梓州を陥落させ、剣南東川節度使の顧彦暉がここに死んだ。甲子、子の李秘を封じて景王とし、李祚を輝王とし、李祺を祁王とした。
  十一月癸酉、楊行密朱全忠と清口で戦い、これを破った。丙子、銭鏐が台州を陥落させた。
  十二月丁未、威武軍節度使王潮が亡くなると、その弟の王審知が留後を自称した。

  光化元年(898)正月、徐彦若が司徒となった。
  二月、李茂貞を赦した。
  三月、幽州盧龍軍節度使の劉仁恭の子の劉守文が滄州を陥落させ、義昌軍節度使の盧彦威が汴州に逃れた。
  四月丙寅、淑妃何氏を立てて皇后とした。
  五月己巳、大赦をおこなった。辛未、朱全忠が洺州を陥落させ、刺史の邢善益がここに死んだ。また邢州を陥落させた。壬午、磁州を陥落させ、刺史の袁奉韜がここに死んだ。この月、馬殷が邵・衡・永の三州を陥落させ、刺史の蒋勲楊師遠・唐旻がここに死んだ。
  七月丙申、朱全忠が唐州を陥落させ、また隋州を陥落させ、刺史の趙匡璘を捕らえた。
  八月戊午、朱全忠が鄧州を陥落させ、刺史の国湘を捕らえた。壬戌、華州から到着した。甲子、大赦をおこない、改元した。
  九月丙子、北方に星が落ちた。甲申、銭鏐が蘇州を陥落させた。
  十月、魏博節度使の羅弘信が亡くなると、その子の羅紹威が留後を自称した。己亥、朱全忠が安州を陥落させ、刺史の武瑜がここに死んだ。
  十一月、衢州刺史の陳岌が叛いて楊行密についた。甲寅、子の李禛を封じて雅王とし、李祥を瓊王とした。
  十二月癸未、李罕之が潞州を陥落させ、節度留後を自称した。李克用が沢州を陥落させた。

  光化二年(899)正月乙未、綿州・剣州の二州を二年免税とした。丁未、崔胤が宰相を罷免された。兵部尚書の陸扆が同中書門下平章事となった。この月、李罕之が沁州を陥落させた。劉仁恭が貝州を陥落させた。
  二月甲子、朱全忠が蔡州を陥落させ、奉国軍節度使の崔洪が淮南に逃れた。
  三月丁巳、朱全忠が沢州を陥落させた。
  六月丁丑、保義軍が乱を起こし、その節度使の王珙を殺して、その将の李璠が叛いて朱全忠についた。
  七月壬辰、海州の戍将の陳漢賓がその州をもって叛いて楊行密についた。馬殷が道州を陥落させ、刺史の蔡結がここに死んだ。
  八月、李克用が沢州・潞州・懐州の三州を陥落させた。
  十一月、徐彦若が太保となり、王摶が司空となった。馬殷が郴州・連州の二州を陥落させ、刺史の陳彦謙魯景仁がここに死んだ。辛丑、保義軍の将の朱簡がその節度使の李璠を殺して、叛いて朱全忠についた。

  光化三年(900)四月辛未、皇后皇太子が太廟で享した。
  六月丁卯、清海軍節度使の崔胤が尚書左僕射となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。王摶が宰相を罷免された。己巳、これを殺した。
  七月、浙江が氾濫した。
  八月庚辰、李克用が洺州を陥落させ、刺史の朱紹宗を捕らえた。
  九月、朱全忠が洺州を陥落させた。銭鏐が婺州を陥落させ、刺史の王壇が宣州に逃れた。衢州刺史の陳岌が叛いて銭鏐についた。乙巳、徐彦若が宰相を罷免された。丙午、崔遠が宰相を罷免された。戊申、刑部尚書の裴贄が中書侍郎・同中書門下平章事となった。甲寅、朱全忠が瀛州を陥落させた。
  十月丙辰、朱全忠が景州を陥落させ、刺史の劉仁霸を捕らえた。辛酉、莫州を陥落させた。辛巳、祁州を陥落させ、刺史の楊約がここに死んだ。甲申、定州を陥落させ、義武軍節度使の王郜が太原に逃れた。
  十一月己丑、左右神策軍中尉の劉季述王仲先と内枢密使の王彦範および薛斉偓が乱を起こし、皇帝を少陽院に居らせた。辛卯、劉季述は皇太子の李裕を皇帝とした。丁未、太白(金星)が昼に見えた。
  十二月、劉季述が睦王李倚を殺した。
  この年、馬殷が桂州・宜州・巌州・柳州・象州の五州を陥落させた。睦州刺史の陳晟が亡くなると、その弟の陳詢が刺史を自称した。

  天復元年(901)正月乙酉、左神策軍の将の孫徳昭董彦弼周承誨が兵をもって乱を討ち、皇帝を位に復させた。劉季述薛斉偓は処刑され、皇太子李裕は降封されて徳王となった。戊申、朱全忠が絳州を陥落させた。壬子、崔胤が司空となった。朱全忠が晋州を陥落させた。
  二月甲寅、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。戊辰、朱全忠が河中を陥落させ、護国軍節度使の王珂を捕らえた。辛未、朱全忠を封じて梁王とした。この月、翰林学士・戸部侍郎の王溥が中書侍郎となり、吏部侍郎の裴枢が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。
  三月辛亥、昭義軍節度使の孟遷が叛いて朱全忠についた。
  四月壬子、朱全忠が沁州・沢州の二州を陥落させた。丁巳、儀州刺史の張鄂が叛いて朱全忠についた。甲戌、太廟で享した。丙子、大赦をおこない、改元した。武徳・貞観年間の配饗の功臣の主祭の子孫に叙位した。介公(北周の旧帝室)、酅公(隋の旧帝室)の後裔の一子に九品正員官を授けた。光化年間(898-901)以来の畿内の負債を免除した。
  五月、李茂貞が来朝した。
  六月、李克用が隰・慈の二州を陥落させた。
  十月戊戌、朱全忠が京師を侵した。
  十一月己酉、朱全忠が同州を陥落させた。壬子、鳳翔に行幸した。丁巳、朱全忠が華州を陥落させ、鎮国軍節度使の韓建が叛いて朱全忠についた。辛酉、兵部侍郎の盧光啓が権勾当中書事となった。癸亥、李茂貞朱全忠と武功で戦い、敗れた。丁卯、盧光啓が右諫議大夫となり、機密に参与させた。戊辰、朱全忠が鳳翔を侵した。辛未、邠州を陥落させ、静難軍節度使の李継徽が叛いて朱全忠についた。甲戌、崔胤裴枢が宰相を罷免された。
  十二月、鍾伝が吉州を陥落させた。
  この年、清海軍節度使の徐彦若が亡くなると、行軍司馬の劉隠が留後を自称した。武貞軍節度使の雷満が亡くなると、その子の雷彦威が留後を自称した。

  天復二年(902)正月丁卯、給事中の韋貽範が工部侍郎・同中書門下平章事となった。丙子、給事中の厳亀が汴・岐和協使となった。
  二月己亥、盗人が簡陵をあばいた。王建が利州を陥落させ、昭武軍節度使の李継忠が鳳翔に逃れた。
  三月庚戌、昼間でも暗かった。癸丑、朱全忠が汾州を陥落させた。乙卯、浙西で大雨と大雪があった。戊午、朱全忠が慈・隰の二州を陥落させた。丁卯、李克用が汾州・慈州・隰州の三州を陥落させた。
  四月、盧光啓が宰相を罷免された。丙申、温州刺史の朱褒が亡くなると、その兄の朱敖が刺史を自称した。楊行密が昇州を陥落させた。
  五月丙午、李茂貞朱全忠と武功で戦い、敗れた。庚午、韋貽範が宰相を罷免された。
  六月丙子、中書舎人の蘇検が工部侍郎・同中書門下平章事となった。丙戌、朱全忠が鳳州を陥落させた。
  七月甲辰、朱全忠が成州を陥落させた。乙巳、隴州を陥落させた。
  八月己亥、韋貽範を宰相に再起用した。辛丑、王建が興元を陥落させ、山南西道節度使の王万弘が叛いて王建についた。
  九月戊申、李茂貞朱全忠と槐林で戦い、敗れた。武定軍節度使の拓抜思恭が叛いて王建についた。
  十月癸酉、楊行密が東面諸道行営都統となり、湖南節度使の馬殷とともに朱全忠を討った。王建が興州を陥落させた。
  十一月癸卯、保大軍節度使の李茂勲が兵をもって鳳翔をたすけた。丙辰、韋貽範が薨去した。
  十二月癸巳、温州の将の丁章がその刺史の朱敖を追放した。己亥、朱全忠が鄜州を陥落させ、保大軍節度使の李茂勲が叛いて朱全忠についた。
  この年、盧光稠が韶州を陥落させた。岳州刺史の鄧進思が亡くなると、その弟の鄧進忠が刺史を自称した。

  天復三年(903)正月丙午、平盧軍節度使の王師範が兗州を取った。戊申、左右神策軍護軍中尉の韓全誨張彦弘と内枢密使の袁易簡周敬容を殺した。辛亥、翰林学士の姚洎が汴・岐和協使となった。壬子、工部尚書の崔胤が司空となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。甲子、朱全忠の軍に幸した。己巳、鳳翔から到着し、太廟で哭し、大赦をおこなった。庚午、崔胤朱全忠が中官七百人あまりを殺した。辛未、崔胤が判六軍十二衛事となった。丁章が誅殺された。
  二月、雨土。甲戌、陸扆を左遷して沂王傅とし、東都を分司させた。丙子、王溥が宰相を罷免された。朱全忠蘇検と吏部侍郎の盧光啓を殺した。戊寅、京畿・河中・鳳翔・興徳府、同州・邠州鄜州の三州の死罪以下を一等降した。己卯、輝王李祚が諸道兵馬都元帥となった。庚辰、朱全忠が太尉・中書令となり、副元帥とした。崔胤が司徒となった。乙未、清海軍節度使の裴枢が門下侍郎・同中書門下平章事となった。
  三月、朱全忠が青州を陥落させた。楊行密が密州を陥落させ、刺史の劉康乂がここに死んだ。
  四月己卯、朱全忠が判元帥府事となった。
  五月壬子、荊南節度使の成汭楊行密と君山で戦い、ここに死んだ。武貞軍節度使の雷彦威の弟の雷彦恭が江陵を陥落させた。
  六月乙亥、朱全忠が登州を陥落させた。
  九月、楊行密が奉国軍節度使の朱延寿を殺した。辛亥、朱全忠が棣州を陥落させ、刺史の邵播がここに死んだ。密州を陥落させた。戊午、平盧軍節度使の王師範が叛いて朱全忠についた。
  十月、忠義軍の将の趙匡明が江陵を陥落させ、留後を自称した。王建が忠・萬・施の三州を陥落させた。甲戌、夔州を陥落させた。丁丑、平盧軍の将の劉鄩が兗州をもって叛いて朱全忠についた。
  十二月、裴贄が宰相を罷免された。楊行密が宣州を陥落させ、寧国軍節度使の田頵がここに死んだ。辛巳、礼部尚書の独孤損が兵部侍郎・同中書門下平章事となった。丙申、朱全忠が尚書左僕射として致仕した張濬を殺した。

  天祐元年(904)正月乙巳、崔胤が宰相を罷免された。裴枢が判左三軍事となり、独孤損が判右三軍事となった。兵部尚書の崔遠が中書侍郎となり、翰林学士・右拾遺の柳璨が右諫議大夫となり、ともに同中書門下平章事となった。己酉、朱全忠が太子少傅の崔胤と京兆尹の鄭元規・威遠軍使の陳班を殺した。戊午、朱全忠が唐の都を洛陽に遷した。
  二月丙寅、日中に北斗が見えた。戊寅、陝州に行った。朱全忠が来朝した。甲申、子の李禎を封じて端王とし、李祁を豊王とし、李福を和王とし、李禧を登王とし、李祜を嘉王とした。
  三月丁未、朱全忠が判左右神策および六軍諸衛事を兼ねた。
  閏四月壬寅、穀水に行った。朱全忠が来朝した。甲辰、西都から到着した。太廟で享した。大風、土が雨に降った。乙巳、大赦をおこない、改元した。
  六月、静難軍節度使の楊崇本李克用王建の兵と合流して朱全忠を討った。
  七月乙丑、朱全忠が兵をつれて河中に駐屯した。
  八月壬寅、朱全忠が、左右龍武統軍の朱友恭氏叔琮・枢密使の蒋玄暉の兵に宮門を犯させた。この夕、皇帝が崩じ、年は三十八であった。明年、起居郎の蘇楷が「恭霊荘閔」と謚を改め、廟号を襄宗とするよう請願した。後唐の同光年間(923-926)初頭にいたって、もとの諡号にもどした。


  昭宣光烈孝皇帝は、諱を祝といい、昭宗の第九子である。母は皇太后何氏といった。始め輝王に封ぜられた。朱全忠昭宗を弑すると、詔をいつわって皇太子として立て、監軍国事とした。

  天祐元年(904)八月丙午、柩の前で皇帝位についた。衢州刺史の陳璋と睦州刺史の陳詢が叛いて楊行密についた。
  九月庚午、皇后を尊んで皇太后とした。
  十月辛卯朔、日食があった。癸巳、朱全忠が来朝した。甲午、朱全忠朱友恭氏叔琮を殺した。
  十一月、朱全忠が光州を陥落させた。
  この年、虔州刺史の盧光稠が亡くなると、衙将の李図が知州事を自称した。

  天祐二年(905)正月、盧約が温州を陥落させた。楊行密が平盧軍節度使の安仁義を殺した。丁丑、盜焚乾陵下宮。
  二月、楊行密が鄂州を陥落させ、武昌軍節度使の杜洪がここに死んだ。戊戌、朱全忠が徳王李裕および棣王李祤・虔王李禊・遂王李禕・景王李秘・祁王李祺・瓊王李祥を殺した。己酉、聖穆景文孝皇帝和陵に葬った。
  三月甲子、裴枢が宰相を罷免された。戊寅、独孤損が宰相を罷免された。礼部侍郎の張文蔚が同中書門下平章事となった。甲申、崔遠が宰相を罷免された。吏部侍郎の楊渉同が中書門下平章事となった。
  四月乙未、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。庚子、彗星が西北に現れた。甲辰、彗星が北河に出た。辛亥、京畿の死罪以下を一等降し、山陵で役にあたる者に一年免税とした。
  五月、王建が金州を陥落させ、戎昭軍節度使の馮行襲が均州に逃れた。
  六月、馮行襲が金州で勝利した。楊行密が婺州を陥落させ、刺史の沈夏を捕らえた。戊子、朱全忠裴枢・静海軍節度使の独孤損・左僕射の崔遠・吏部尚書の陸扆・工部尚書の王溥・司空として致仕した裴贄・検校司空兼太子太保として致仕した趙崇・兵部侍郎の王賛を殺した。
  七月、郊祀を行った。岳州刺史の鄧進忠が叛いて馬殷についた。
  九月甲子、朱全忠が襄州を陥落させ、忠義軍節度使の趙匡凝が淮南に逃れた。丙寅、弟の李禔を封じて潁王とし、李祐を蔡王とした。朱全忠が江陵を陥落させ、留後の趙匡明が成都に逃れた。乙酉、改めて郊祀を行った。
  十月丙戌、朱全忠が諸道兵馬元帥となった。
  十一月庚午、三度郊祀を行った。庚辰、淮南節度使楊行密が亡くなると、その子の楊渥を淮南節度副大使・東面諸道行営都統とした。辛巳、朱全忠が相国となり、百揆を総べ、魏王に封ぜられた。
  十二月乙未、朱全忠が天下兵馬元帥となり、蒋玄暉と豊徳庫使の応頊と尚食使の朱建武を殺した。癸卯、柳璨が司空となった。戊申、朱全忠皇太后を弑した。辛亥、南郊の祭祀を中止した。癸丑、柳璨を左遷して登州刺史とした。甲寅、柳璨と太常卿の張廷範を殺した。

  天祐三年(906)正月壬戌、淮南の将の王茂章が宣州・歙州の二州をもって叛いて銭鏐についた。
  二月、楊渥が岳州を陥落させた。癸巳、王建が帰州を陥落させた。
  四月癸未朔、日食があった。鎮南軍節度使の鍾伝が亡くなると、その子の鍾匡時が留後を自称した。
  六月、銭鏐が衢・睦の二州を陥落させ、刺史の陳璋陳詢が淮南に逃れた。
  七月、楊渥が饒州を陥落させた。
  八月癸未、朱全忠が相州を陥落させた。
  九月、楊渥が洪州を陥落させ、鍾匡時を捕らえた。乙亥、匡国軍節度使の劉知俊が坊州を陥落させ、刺史の劉彦暉を捕らえた。
  十月辛巳、楊崇本が鳳翔・涇原・鄜延・秦隴の兵と合流して朱全忠を討ち、美原で戦ったが、敗れた。
  十一月、忠国軍節度使の高彦が亡くなると、その子の高澧が留後を自称した。
  閏十二月戊辰、李克用が潞州を陥落させ、昭義軍節度使の丁会が叛いて李克用についた。乙亥、雷がなって、雪が降った。

  天祐四年(907)三月、劉守光がその父の劉仁恭を捕らえて、幽州盧龍軍節度使を自称した。
  四月戊午、銭鏐が温州を陥落させた。甲子、皇帝が位を譲り、曹州にうつされ、済陰王と号した。後梁の開平二年(908)二月に弑され、年は十七で、諡を哀帝といった。後唐の明宗が昭宣光烈孝皇帝と追謚し、陵を温陵といった。


  賛にいわく、古より亡国は、必ずしもすべて凡庸・暴虐の君のせいではない。その禍乱が起こると蓄積していって、その大勢はすでに去り、たまたまこの時にあたって智勇があったとしても、何もすることができなくなるのである。真の不幸というべきで、昭宗がそれに該当する。昭宗の人となりは明敏で、初めは復興の志があったが、外患がすでにおこり、内部には補佐する賢人がおらず、またかなり嘆き憂いて、非常時の人材を得ようと思って、その人物ではないのを用いてしまい、いたずらにますます乱れたのであった。自ら唐が滅亡してしまったのは、その禍根を残し、さらに五代五十年あまり、天下の分裂にいたり、大破壊と大混乱の後にようやく止んだのである。その禍乱をたどれば、それが積み上がったのがどうして一朝一夕のことであろうか。


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最終更新:2025年01月27日 02:05
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