繋がれた兎(腐らせた楔) ◆aOl4/e3TgA
【0】
死なねえもんは殺せねえよ。
【1】
天に召された魂は、死を司る蒼き直線を一切揺るがすこと叶わず。
それどころか、そんな些末極まる情報では、幼き体躯の少女に巣喰う蒼色の暴君を引きずり出すことすら叶わない。
彼女にとって真に重要な名前など、ただの一つだけ。
しかもそれは名前ではなく、単なる一記号としか表されない存在だ。
つい数時間前まで談笑をしていた彼女の同行者たちが、仮に余すところ無く死滅したとしても――恐らくは、無意味。
死線を覆すには至らない。
死線を催すには至らない。
死線を醒ますには下らない。
死線を冷ますには丁度いい。
電子の領域における絶対絶無唯一無二の天才児が、鍵盤を叩く。
ただそれは、鍵盤と称するには、些か押すべき箇所が多すぎた。
楽器ではなく、キーボードだ。
彼女がボタンを叩く度に、常人では理解することも烏滸がましいような難解極まる文字列が生まれていく。
キーを弾く少女の姿は苛烈を通り越して、既に優美の域に達している。
そんな《演奏者》が、一瞬だけ鍵盤を弾く手を止めた。
さながらプロのピアニストが、演奏の真っ最中に耳元を小蠅が舞い、あまりの鬱陶しさに手を止めるかのように。
その後直ぐに――また、暴君の演奏は再会される。
但し、彼女の思考を一瞬でも止められたことは名誉といっていい。
少なくとも死線の王女が脳裏に思い描いたその人物は、その事実を光栄として彼女へ恭しく頭を垂れたことだろう。
――ぐっちゃん、死んじゃったか…………
作業の手を一切緩めず、片手間に青い少女は思考する。
彼女は数十年をかけて当然の研究を、僅か数時間で完成させるほどの頭脳を持っている。
普通なら脳を目一杯使ってもどうにも出来ないような作業をしつつ、他の事へ気を回すなど、彼女にすれば本当に雑作もないことなのだ。
ぐっちゃん。
放送で呼ばれたその名前は、彼が少女やその仲間たちに名乗っていた名前とは異なっていたが、彼女はそれを把握していた。
空前絶後のサイバーテロ集団。少女は《チーム》と称する。
《チーム》の一員であった式岸軋騎という男は、本音のところを言うならば、少女にとっては仲間の一人としての認識でしかない。
彼は当時14歳の少女へと想いを寄せていたようだが、その想いが成就するなど天地が裏返っても有り得ない話。
彼女の恋人になれるのは、この世でただ一人だ。
その少年の代用品など存在せず、真にその存在は唯一無二。
そんな《街》式岸軋騎が仲間内でただの一つだけ突き抜けている面を挙げるとすれば、それは現実での戦い。
電子の海――0と1の世界でならば絶対を誇る彼らも、数式で表せない現実面では圧倒的なまでに無力な存在である。
ただ一人、式岸軋騎を除いては。
彼だけは白兵戦が出来る、敵を物理的に駆逐することが出来る。
何故なら、彼は魑魅魍魎とさして変わらない連中からも忌避される一賊《零崎一賊》が三天王の、その1人であるのだから。
いや、今はもう過去形で表記するべきか。
――ぐっちゃんなら、とは思ってたんだけどね……
式岸軋騎イコール、
零崎軋識。
シームレスバイアスと呼ばれる、天下に悪名を轟かす一賊の中でも、最多の人数を最も容赦なく殺した武勇を持つ鬼。
彼がそう簡単に殺されることはないだろう、と踏んでいた。
彼女もよく知る、鮮烈な赤色の請負人に比べれば確かに劣る。
それでも、そんじょそこらの有象無象にやられる雑魚ではない。
式岸もとい軋識が崇拝を寄せていた《暴君》は、彼の死を悼むでも慰めるでもなく、決して少なくない失望を覚えていた。
見事なまでに期待を裏切ってくれた。
もしも彼が生きていたら、殺していたところだ。
普段の無邪気さは陰を潜め、その思考は何時しか壮烈な蒼へと変化。
青い蒼い少女は、自身の仲間の体たらくに溜息をつく。
「ま、いっか。いーちゃんが生きてるんなら僕様ちゃんはそれだけでお腹いっぱいだよ。ぶいっ」
無邪気に微笑みつつも、思考は怜悧に張り巡らせる。
《街》が死んだ。名だたる零崎の鬼神が敗北して死んだ。
ひょっとすると、これは想像以上かもしれない。
想像以上に状況は混沌としており、それこそ自分の目の及ばないリアルな領域で、事態は刻一刻と狂いつつあるのか。
零崎が一人、《呪い名》が一人。
――そして放送の声の変化。
あの声は少女のものだった。
聞き覚えはないが、きっと女子高生くらいの年齢だろうか。
不知火袴と、あの覚えのある《声》。第一放送を担当した、哀れなる堕落者。いつかの事件以来どうしているかと思えば、まさかこのような愚行に肩貸しをしていたとは――とうとう、落ちるところまで墜ちたか。
堕落三昧(マッドデモン)・斜道卿一郎。
不知火袴はともかくとして、あんな小物は気に留めるまでもない。
あのような非凡な存在では、愛しい《彼》や自分を破滅させるなどどう考えても無理だ。荷が重すぎる。
耄碌した老人二人に、死線は抑えきれない。
死線を抑えても、あの人類最強を抑制するなど不可能だ。
仮に最強を倒しても、全てを乱す彼を潰すことは絶対に叶わない。
だから、主催陣にはまだ真打ちがいると玖渚は予想していた。
結果は予想通り。年不相応な堂々とした口調から察するに、もしかするとそれなりに名の知れた人物だったのかも知れない。
自身の兄とどうにかして連絡がつけば、事態は急転することだろう。
殺し合いなんて児戯は最悪、一分と満たず終結する。
今回は事態が事態だ――そのカードを切るのも、吝かではなかった。
「
掲示板の情報はもう纏めたし、あとはこの子のお洋服を脱がせてあげたらちょっと休憩かなー?」
掲示板は幸い、正常に機能している。
創設したのは無駄ではなかったらしい。
書き込みの内容は一言一句違わず脳髄に記録した。
そんなものは、青色サヴァンのキャパシティを前にしては、塵芥にも等しい小さな情報。
それより問題は、このハードディスクである――――。
暴君。
死線の蒼(デッドブルー)。
青色サヴァン。
――真なる名前を、
玖渚友。
彼女をして、このハードディスクは手応えのある壁だった。
《お洋服》というよりは、戦国甲冑のごとき堅牢な鎧だ。
中途半端なスキルしか持たない輩では、突破できないだろう。
《チーム》クラスの人材でなくては、この鎧は剥がせない。
その逆もまた然り。
生半可な使い手では、この鎧は作れない。
この《中身》には、それだけの価値があるのか。
それとも、あてつけの如く何も入っていないブラフなのか。
どちらにしろ、箱を開けてみるに越したことはない。
猫箱の中身は、蓋を開けるまで確定しないのだ。
何にせよ開けてみなければ、真にこれが有用か無用かを判断することが出来ない――それが何より、手痛い。
無知は最大の悪徳だ。
最悪の病魔といってもいい。
そんなものを抱えているくらいなら、それが無駄なことであったとしても、己の知識の一端にしてしまった方がいいに決まっている。
まあ、世の中には《知らない方がいいこと》も沢山あるのだが――
しかし、この小さな少女はそんな領域をとうに飛び越えていた。
彼女の指が鍵盤を叩く度に。
ハードディスクの内部に巣食う堅牢なる守護者(ガーディアン)が、成す術もなく駆逐されていく。
彼女にしては時間が掛かっているといえる、それでも勝負にさえなっていない、圧倒的すぎるゲーム展開だった。
この程度では、玖渚友にとってのタイピング練習としてさえ落第だ。
気怠げに、欠伸をひとつ。
あどけない瞳を欠伸による涙で潤ませて、両手のみが暴風のように死線を広げていく、そんなアブノーマルな光景が平然と存在している。
まさしく死線。
ただしく暴君。
青色サヴァンは止まらない。
玖渚友にとって、機械を扱うのは呼吸と同じだ。
それどころか、呼吸よりも容易いことでさえある。
彼女が奏でれば電子が弾けて、彼女が叩けば電子が狂う。
彼女が直そうと思えば壊れたモノは元の形を取り戻し、彼女が壊そうと思えば鉄壁の城壁だってがらがらと――崩れ去る。
――現にいま、城壁が崩れた。
丸裸の敵城には、脆弱な兵隊が残っているだけとなった。
玖渚はこの防衛プログラムを作成した人物を賞賛する。
悪名高きサヴァンの群青を、二十分近くも足止めすることに成功しているのだ。結果はどうあれ、それは間違いなく、並の腕前では叶わぬ芸当。
「ほいっと、これで《王手》だね」
休まる間もなく響き続けていたキーボードの音が、唐突に止む。
それは即ち、玖渚友が当然の如く勝利してのけた、たったそれだけの事実を簡潔に意味していた。
つい十数秒前まで画面を埋め尽くしていたエラー通知の数々は、今や電子の大海原に塵と消え失せ。
まるで人類がいなくなった地球のように、汚れが消えてやけに綺麗に見える蒼いデスクトップの画面が表示されている。
こうなればもう此方のものだ。玖渚はにんまりと笑うと、今度は情報を引き出すためのパスワード解読へと作業を移す。
錠前など、針金でこじ開けられる内なら無いにも等しい。
コンピューターでピッキングをやるとなれば当然難易度も段違いに上昇する筈なのだが、彼女にそんなありきたりの理屈は通じない。
錠前を徹底的に外され、セキュリティを全て潰されたハードディスクはいよいよ、内部に眠る貴重な情報の数々をさらけ出す。
クリック。
クリック。
ダブルクリック。
スクロール。
パスワード。
解除。
クリック。
――そうしていよいよ、《秘宝(なかみ)》が、死線の手に堕ちる。
「…………不知火一族?」
それは、参加者の情報でもなければ首輪の情報でもなく、主催者の一人である、不知火袴の《名字》についての記述だった。
黒神めだかなどの情報を得た時とは違い、テキストデータで簡潔に纏められており、幾分か読み辛い印象を受ける。
だがそれは決して無益ではない情報だった。確かな収入だった。
不知火袴、不知火半纏、不知火半袖、不知火――不知火、不知火不知火不知火不知火不知火不知火――。
――最下部には、動画ファイルがあった。
玖渚はほんの一瞬だけ躊躇ったが、まさかこれでペナルティということもないだろうと思い、やがてエンターキーを静かに押す。
そこには黒神めだかがいた。
彼女は相も変わらず異常に、いや、異常なのだが、どこか吹っ切れたような様子を見せつつ、戦っていた。
ダイジェスト風に紹介されていく、彼女たちの戦い。
言葉使い(スタイリスト)が登場し、婚約者たちを退け。
大切な友人《不知火半袖》を救うべく、《不知火の里》、いわば敵里の中心へといつもの通りに正々堂々真っ向から攻め入る。
途中までは順調。だがそれは一人の大男により妨害される。
異形なる鬼神の暴虐により仲間は散らされ、正義は負ける。
少し映像がカットされ、どこかの病院。恐らくは廃病院。
婚約者候補との激突。そして勝利。
スタイルなるものを開発した男が鬼神により殺される。
そこからは少し早送りされながらの、まさしく超人同士のぶつかり合いと称するに《相応しくない》、人の単語を冠することが憚られるほどの激闘が繰り広げられ――再びのチーム半壊。
結局は黒神の幼なじみの少年が立ち上がるところで映像は終わり。
字幕もテロップも無いその映像は、正直なところかなり意味不明といっていい映像だった。
だが、玖渚友はその意味を理解する。
持ち前の聡明な頭脳を、様々なものを犠牲にして成り立つ人智を超えた頭脳を働かせて、的確な仮説を提唱する。
「ふうん。じゃあこれが、《時系列超越》の証拠か」
つまらなそうに、彼女は言った。
映像の中には幾名か玖渚の知る、この殺し合いに参加させられている人間の姿があった。
その内の何名かは、玖渚の調査によって得たデータと僅かに異なっていた。
ならばそれを証明する理屈はひとつ、時系列を超越する技術を主催側が保持している――そんな、荒唐無稽なものしかない。
玖渚は科学を信仰するような趣味はない。
それが現実なら順応する、ただそれだけのこと。
だから彼女にとってこれはなんて事のない事実。
どうでもいいような話。
問題は、再生の終了した動画のラストカットとして表示されている、ペイントで描いたようなヘタクソな文字の羅列。
それは、こう読めた。
それは、玖渚友にとって覚えのある文章だった。
《――You just watch,"DEAD BLUE"!!》
【2】
不知火袴に、本当にこれほどの権限があるのか。
それが、全てのデータに目を通し終えた玖渚の感想だった。
袴の冷静かつ淡々とした舞台進行は確かに異常なものがある。
教育に狂った男、とすればまだ分からなくもなかった。
が、蓋を開けてみれば彼の正体は拍子抜けするようなもの。
黒神めだかの父親・黒神舵樹の影武者という、それだけの存在だ。
教育者としての適正は本物よりも高かったようだが、影武者風情がここまで出しゃばることが許されるのか。
舵樹がこの殺し合いを仕組んだというのなら分かる。
ただしそれも、あのビデオ映像を見れば違うと確信できるもの。
黒神めだかと対話をしていた舵樹はひどい親馬鹿に見えたし、とてもじゃないが娘を殺し合いへ投げ込むような男には見えなかった。
――なら、あれはなんだ?
なぜ、自分の役回りを超えたことをしている?
それは影武者の一族《不知火》に相応しくない、行動ではないのか?
考えられることはひとつ。
不知火袴が、既に次の仕事先に成り代わっている可能性だ。
何らかの理由があって舵樹の影武者を続ける理由が消滅し、新たに影武者を勤めることとなった《誰か》の指示に従っている。
あくまでもこれはただの仮説。
単に不知火袴が勝手に暴走し、自分の役を超えた行動に出ただけの話を、深読みしているだけという可能性も十二分にある。
けれど、このハードディスクの存在する意味。
明らかに主催者へ不利となるこの情報をわざわざ放置した意味。
どう考えてもそれは、主催陣営の不和によるもの。
主催に身を置いていながらもこのゲームへ難色を示す《誰か》が、危険も顧みずに貴重な情報を残したとしか考えられない。
その事実が、先の仮説の信憑性を格段に上昇させる。
不知火一族。
時系列の超越。
黒神めだかの更なる超人性。
そして、もうひとつ。
もうひとつ――分かったことは、ある。
「うふふ、ほんとうにいい子だね」
玖渚友は凄絶に笑う。
幼い顔面を愛らしく彩り、けれどその瞳だけが怜悧に輝いている。
たったの一文で十分だ。主催者側にいながらも反逆を志す存在の名前は、その一文から優に推測することが出来る。
何せあの事件は、なかなかのピンチだった。
忘れるわけがない。汚名挽回を見事に遂げた《彼》は、今回もまた、その《破壊》で何もかもをぐしゃぐしゃにぶち壊す気なのだ。
玖渚は笑う。死線は嗤う。
有能な仲間に恵まれた幸運を喜び。
彼の活躍に心からの期待を寄せる。
その姿はまさしく暴君。
死線を司る――無比の蒼色。
「うんうん、さっちゃんはほんとうにいい子だよ」
さっちゃん――
細菌――
グリーングリーングリーン――
害悪細菌――
――――兎吊木垓輔。
主催者の一人である研究者を徹底的に破壊した男。
彼はまたも、破壊する。
死線を救うために、取り戻した汚名を存分に披露するために。
「さてと。そろそろ迎えにくるころかなー」
自分で脱出しようとは思わない。
どうせ誰かが迎えにきてくれるのだから。
うにー、と背伸びをしたところで、玖渚は思い出したように掲示板へもう一度アクセスし、新たな投稿があったことを確認する。
ランドセルランドで待ってます、ただそれだけの内容。
最後の宛名にあった《委員長》という単語は恐らく、分かる者には分かるが、分からない者には分からない、そんな単純なコード。
情報としてはお世辞にも利益ではないが、参加者の動向が窺えたという点だけを見れば、無益でもない、といったところか。
そしてその前に書き込まれていた、黒神めだかが殺し合いに乗っているとの書き込み。
集まった情報は少ない。
しかし、まだまだ殺し合いゲームは《これから》なのだ。
死線の少女が植えた種はやがて育ち、大きな華を咲かせて実を生らせ、再び種をまき散らすことだろう。
うふふと笑って彼女は座する。
同胞との再会に少しだけ期待を寄せて。
【一日目/真昼/D-7斜道卿壱郎の研究施設】
【玖渚友@戯言シリーズ】
[状態]健康
[装備]携帯電話@現実
[道具]支給品一式、ハードディスク、ランダム支給品(0~2)
[思考]
基本:いーちゃんに害なす者は許さない。
1:迎えを待つ。掲示板を管理して情報を集める。
2:貝木、伊織、様刻に協力してもらって黒神めだかの悪評を広める。
3:いーちゃんとも合流したい。
4:ぐっちゃんにはちょっと失望。さっちゃんには頑張ってほしい。
[備考]
※『ネコソギラジカル』上巻からの参戦です。
※箱庭学園の生徒に関する情報は入手しましたが、バトルロワイヤルについての情報はまだ捜索途中です。
※めだかボックス、「十三組の十三人」編と「生徒会戦挙」編のことを凡そ理解しました
※言った情報、聞いた情報の真偽(少なくとも吸血鬼、重し蟹、囲い火蜂については聞きました)、及びそれをどこまで理解したかは後の書き手さんにお任せします
※掲示板のIDはkJMK0dyjが管理用PC、MIZPL6Zmが玖渚の支給品の携帯です
※携帯のアドレス帳には櫃内様刻が登録されています。
※ハードディスクを解析して以下の情報を入手しました。
・めだかボックス『不知火不知』編についての大まかな知識
・不知火袴の正体、および不知火の名字の意味
・主催側が時系列を超越する技術を持っている事実
※主催側に兎吊木垓輔、そして不知火袴が影武者を勤めている『黒幕』が存在する懸念を強めました。
【3】
その男は、鉄格子の中にいた。
どこにそんな設備があったのか、もしやすると《彼》の為だけに用意された特別な部屋なのかも知れない。
対策は万全を期すに越したことはない。対策のし過ぎなんてことは、この男を前にしては絶対に有り得ないのだ。
《破壊》を生業とする、スキンヘッドの男。
あの研究所での一件で断髪して見た目は大分変わっているが、その瞳に宿す爛々とした輝きは未だ欠片も衰えてはいない。
彼は危険だ。そう判断されての、この幽閉措置だ。
内部には彼に任せられた仕事、《情報管理》を行うための道具だけが置いてあり、他の物資は見渡す限り何処にも存在しない。
流石の彼でも、鋼鉄の檻を素手で破壊は出来まい。
これほどの万全を期しているのにも関わらず、檻には幾つもの鍵が掛けられている、その異常なまでの徹底っぷりが、檻の中でディスプレイに向かう男の危険性を何より明確に物語っていると、いえるだろう。
彼の名前は、兎吊木垓輔。
かつて世界中を席巻したサイバーテロリスト集団《チーム》《一群》の構成員で、破壊を司った危険極まる男である。
その悪名は《害悪細菌》。
細菌だから、頭文字を取って渾名はさっちゃん。
自分より一回りは年下の小娘に本気で心酔し、彼女の為なら喜んで命も投げ出す狂信者。
彼はまたも、囚われていた。
しかも今度は、以前より乱暴なやり方で。
「兎吊木さん」
にやにやと。
にやにやと、にやにやと、にやにやと。
にやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやとにやにやと。
ディスプレイを見つめて微笑んでいるいい年をした男は、数度の呼びかけあって漸く、自分を呼ぶ存在に気付いた。
檻の向こうで立つのは、あまりに場違いなセーラー服の女学生。
長く艶やかな黒髪に豊満な胸、整った顔立ちと、誰が見たってかなりの美少女に区分されるだろう姿だ。
尤も、兎吊木の心酔する玖渚友に比べれば、彼の心をそういう意味合いで動かすことは到底叶わないが。
「…………なんだか、すごく失礼なことを思われている気がするのですが」
「ん? ああ、いやいや。そいつは間違いなく気のせいだろう。風呂場でシャンプーをしている時に、後ろに気配を感じることがあるだろう? それと同じかそれ以上には気のせいだと思うね、俺は」
溜息をつく少女に、兎吊木はくくくと笑う。
そんな二人の様子からは想像も出来ないが、兎吊木垓輔の幽閉を提案したのは何を隠そう、この美しい少女だ。
不知火袴、斜道卿一郎の二人をものの見事な口で説き伏せて、余すところ無く兎吊木の危険性を報告されてしまった。
あくまでも《仮説》として。
けれどその内容はほぼ全て《真実》で。
結果として兎吊木の第一の思惑――主催陣営を内部から瓦解させて、完璧に破壊し尽くすことを、未然に防がれてしまった。
噂には聞いていたが、この少女。
やはり伊達ではないことを、身をもって思い知った。
「――で、俺に何の用だい、策士っ娘」
「用、という程のものではありませんよ。私は、《何も命じられてはいません》からね」
あは、と策士は微笑んだ。
嘘か真実かを見抜くことは兎吊木には出来ない。
読心術を呼吸のように行うという、最強の存在ならば違うのだろうが、兎吊木垓輔はそこまでブチ切れた人間ではない。
いや――《害悪細菌》をまともと称するような人間は、彼の仲間の中にすら誰一人として、いないだろうが。
しかし兎吊木は馬鹿ではない。むしろその真逆だ。
策士・萩原子荻の有能さを考慮すれば、彼女が無駄な行動を働くなんてことが有り得ないことくらい、すぐに分かる。
仮に本当に暇潰しがてらの散歩だったとしても、彼女はこうしている間にも何かを考えているのだろう。
兎吊木垓輔を、縛る策か。
兎吊木垓輔を、殺す策か。
兎吊木垓輔を、操る策か。
兎吊木垓輔を、惑わす策か。
兎吊木垓輔を、欺く策か。
「あのですね、兎吊木さん」
「何だい」
「わたしは、別に落ちぶれた研究者の研究にも、途方もないような大きな意味を持つ計画にも、興味はないんですよ」
兎吊木垓輔も預かり知らぬ事だが、このバトルロワイアルの根底に何があるのかは、子荻さえも未だ把握していない。
故に子荻が動く理由は、ただの業務感覚だ。
だからこうして職務を怠慢しようとも、やるべきノルマさえきちんとこなしてくれれば構わない――と、あの老人は言った。
「わたしはとりあえず、生き残ることを考えます。生きてこのろくでもない物語から抜けられるなら、それが最善だと思いませんか?」
「さあ――どうだろうね。俺はとりあえず、あの会場にいる《死線の蒼》をどうにかしてやりたいが」
心配するのも烏滸がましいがね、と付け足し兎吊木は笑む。
目の奥は笑っていない。子荻を見定めるように、何とも取れない色を灯した瞳が、笑顔の奥に存在していた。
子荻も怯まずに、慌てることもなく会話を続ける。
漂う空気は異様なまでの歪。
錆びてギチギチと音を立てる歯車のように、どこか落ち着かない、不安を醸すようなムードが空間を満たしていた。
他愛もない雑談が少し続くと、子荻は「そろそろお暇しますね」と行儀良く告げ、時計で時刻を確認する素振りを見せた。
そこで彼女は思いだしたように、兎吊木の方を向く。
少女期特有の愛らしい笑顔で、策士は害悪へ言うのだ。
「《落とし物》の件ですが――わたしの独断で、誤魔化しておきましたので」
兎吊木は含み笑いではなく、愉快で堪らないという風に笑った。
子荻も隠すことなくお淑やかながら確かに笑い声を漏らす。
そんな時間が数秒続いて、あとは言葉を交わすこともなく別れた。
兎吊木垓輔と萩原子荻。
彼らに共通していることは、主催者に心からの協力を示しているわけではない、というその一点に集約される。
兎吊木は愛する死線を生かすために、子荻はどんな形であろうと生きて物語から抜け出るために。
そのためなら、この二人は手段を選ばない。
「おっと、そうだ。一応やることだけはやっておかないとねぇ――粛正で死亡だなんて、真っ平御免だよ」
兎吊木はそう言うと、思い出したようにPCへと向き合う。
現時点で出来ることはやった。
あとは見届けるだけだ。《死線の蒼》と、死線に溺愛された欠陥製品の少年が、如何にしてこの事態を乗り越えるのかを。
無用となった実験材料、兎吊木垓輔。
彼は閉ざされた白色一色の空間で、有らん限りの害悪を誇示する。
――見ていて下さい、《死線の蒼》。
――貴女のご期待に添えるように、此方も善処しましょう。
スキンヘッドの男の笑い声だけが、静かに反響していた。
最終更新:2013年06月16日 11:11