未来の記憶(前編) ◆LKgHrWJock
またあの夢を思い出す。
まるで現実の出来事のように熱や匂いすら併せ持つあの悪夢を。
夢の中で彼女は野生の竜となり、人間の集落を襲っていた。
ある者は彼女の吐き出す霧の中でのた打ち回りながら絶命し、
またある者は巨大な鉤爪にその身を引き裂かれて命を落とす。
巨獣と化した彼女の前では老いも若きも男も女もみな一様に
捕食されるべき下等な生物に過ぎなかった。
人としての原形を彼らから奪うことなど、彼女にとっては文字通り“朝飯前”だった。
――嫌! こんなことしたくない!
そう思っているはずなのに、身体が言うことを聞いてくれない。
肉体と精神が完全に分離してしまったかのようだ。
彼女は拒絶の声を上げることはおろか目を閉じることすらできず、
自らの引き起こす惨劇を眺めていた。
そして自分の悲鳴で目を覚ます。夢から覚めても闇の中。自分以外には誰もいない。
物心ついたときからずっと彼女は暗い部屋に幽閉されていた。
眠ることだけを強いられ、悪夢と闇を行き来する。
それが彼女――すなわち神竜族の王女として生まれたチキの幼少期のすべてだった。
何故自分がこんな目に遭わねばならないのか、誰一人として納得のいく説明をしてくれない。
だからチキはこう考えた。
自分がこんなに怖くて寂しい思いをしなければならないのは、あの夢と関係があるのだろう。
あの夢は“本当のこと”だから、つまり自分はいつか野生の竜になって人間を襲ってしまうから、
どんなに泣いても頼んでもこの暗い部屋から出してもらえないのだろう――
そしてそれは真実だった。彼女は真相に気付いていた。
しかし誰にもそのことを話さなかった。
「もう眠りたくない、みんなと一緒に暮らしたい」と泣きじゃくる彼女に
優しい言葉をかけてくれた大好きな
マルス王子にさえも。
そんな話をすれば、マルスは不安になるだろう。
人間を無差別に襲うようになるだなんて知られたら、嫌われてしまうかもしれない。
マルスおにいちゃんに嫌われたらまた独りに戻ってしまう。
そう思うと、自分の抱える不安や恐怖を正直に打ち明けることなどできなかった。
でも、別にそれでも構わなかった。マルスのそばにいるときは、あの夢を忘れることができた。
マルスに「大丈夫だよ」と言われただけで、未来の自分が書き換わる。
理屈ではない。この人が言うのだから本当にそうなのだろうと純粋に信じることができる。
チキにとってマルスとはそのような存在だった。
しかし今、チキの隣にマルスはいない。
この世界に召喚される直前まで、彼女はアカネイアパレスにいた。
傍らにはマルスがおり、「もう少しで<封印の盾>が完成するよ」と彼女に笑顔を向けたのだった。
<封印の盾>が完成すれば、これからもずっと一緒に暮らせるとマルスは言った。
<封印の盾>が完成すれば、あの夢とは違う未来が自分に訪れるのだとチキは理解した。
――マルスおにいちゃん、ありがとう!
そう言おうとした次の瞬間、チキは暗闇の中に立っていた。
彼女は絶望した。泣くことはおろか、声を出すことすらできなかった。
マルスたちと過ごした日々は全て夢で、自分は今もあの暗い部屋に幽閉されており、
外の世界に出ることは未来永劫叶わないのだと思った。
しかし部屋には人がいた。それも一人や二人ではない。
大勢の人間が暗がりにひしめいているのが分かった。
首の辺りに違和感を覚える。
軽く指で触れてみると、身に覚えのない首輪がそこにあった――
◇ ◆ ◇
「それを寄越しな。そうすりゃ見逃してやることも考えてやるぜ?」
言いながら、男はチキに向かってゆっくりと足を踏み出した。
腰元には複数の刃物が見える。様々な形状のナイフがベルトから下がり、あるいは差さっている。
その口元は笑っているが、野獣の牙を思わせる凶暴な輝きが暗い双眸に宿っている。
あのときの人だ、とすぐに気付いた。赤毛のお姉さんを襲っていた人だ。
彼の姿を初めて目にしたそのときから“悪い人”と認識してはいたものの、
こうして間近で顔をつき合わせてみると改めて油断のならない相手だと思う。
しかもこの男、言っていることもどこかおかしい。
チキは男の顔を見た。
遠目で見たときはレンツェンとさほど年の変わらない“お兄さん”のように思えたが、
やつれた頬と青白い肌、そしてこの世のすべてを憎悪するかのような険しい表情を見ていると、
彼が一体どれほどの歳月を生きたのかすら分からなくなる。
チキは脳内で男の言葉を反芻した。
――それを寄越しな。そうすりゃ見逃してやることも考えてやるぜ?
チキは首をかしげた。見逃す、とは一体どういうことだろう。
先ほど彼は「怪我のお礼をたっぷりとしたい」と言ってきたが、
怪我を負わされたことに対して感謝するというその発想が理解できない。
それ以前に、このお兄さんの表情は「ありがとう」と言おうとしている人のものとは何か違う気がするし、
自分やレンツェンの行動とこのお兄さんの足の怪我がどう関係しているのかすらも分からないのに、
寄越せだとか見逃すだとか言われても話がまったく見えてこない。
そもそも、感謝しているはずの相手に物を要求するというのは何なのだろう。
分からないことが多すぎる。
知らず知らずのうちに、チキは右腰に下げたガラスの小瓶に手を伸ばしていた。
この臭い液体が何なのかチキにはよく分からないが、
レンツェンに言わせると子供には理解できない良さを秘めたものとのこと。
良いものなら、この局面を打開するための役に立つだろうか。
でもあんな意地悪なことを言うレンツェンの主張する“良さ”なんて――
「俺を甘く見るなよ?」
凄絶な笑顔で男が凄んだ。
チキではなく、彼女を庇うような場所に立つレンツェンに対して。
レンツェンは崩れ落ちるようにへたり込む。
一体何をされたのだろう。
自分に背を向ける格好で震えているレンツェンの表情や
彼のこうむった被害の実態を確認することはできなかったが、
彼を見下ろす男の残忍な笑顔を一目見てチキは直感した。
男には、レンツェンの内心が手に取るように分かるのだ。
そしてチキには想像することもできないその詳細が、彼のいびつな心を満たしている。
その表情から察するに、この男は自分がとても強くて偉くて大きな存在になったかのような
錯覚に浸っているのだろう。
――ホントに強くて偉い人は、誰かをいじめたり困らせたりしちゃいけないのに。
このお兄さん、すごく嫌! レンツェンがかわいそう!
チキはレンツェンを助け起こすべく駆け寄ろうとした。
男の言っていることはよく分からない、でもこれだけは理解できる。
このお兄さんは、自分やレンツェンに決して優しくしてくれないだろう。
それどころか、意地悪なことばかりしようとするだろう。
彼は赤い髪のお姉さんをいじめていた人だ。そんな人とは仲良くできない。
「女の人をいじめるのは悪いことだよ。悪い人の言いなりになっちゃ駄目だよ」と
マルスおにいちゃんだって言うだろう。そう、マルスおにいちゃん。
さっきはあんなことを言ってたレンツェンも実際にマルスおにいちゃんと顔を合わせれば
きっとその正しさを分かってくれるだろう。
それにレンツェンはずっとチキと一緒にいてくれたのだ。面白いことを言って
チキを沢山笑わせてくれたんだから間違ったことを言ったくらいで嫌いになっちゃ駄目、
マルスおにいちゃんだって
ハーディンおじちゃんが変になっても嫌いになったりしなかったんだから
チキもレンツェンのことを嫌ったりしないでちゃんと助けてあげなきゃ――そう思い、
レンツェンに駆け寄ろうとした。
しかし男が先に動いた。
わずか半歩ばかり間合いを詰められただけだったが、
何をしでかすか分からない彼の異常な存在感にチキは思わず身をすくめた。
男はチキを見据えて嗤う。
己の勝利を確信しながら尚も貪欲に食らいつくような笑顔、
敗者に対する唾棄と憐憫を内包しながらそれら一切を食らい尽くそうとするかのような
その笑顔は、今しがたレンツェンに向けられたものとよく似ていた。
男の表情は、チキの胸をざわめかせる。
まるで昨日の出来事のようにあの夢が脳裏に映り、
チキは知らず知らずのうちに胸の前で両手を握り締めていた。
男が楽しげに眼を細める。チキは反発を覚えた。
どうしてこのお兄さんはチキが嫌な思いをしているときに嬉しそうな顔をするのだろう。
――チキはおもちゃじゃないのに。やっぱりこのお兄さん、すごく嫌!
チキは男をねめつけた。男は大げさに肩をすくめて見せる。
「ククッ、怖いねぇ。
慈悲深い俺は身の程知らずなおまえらのしでかしたことを
すべて水に流してやってもいいって考えてるってのに、その顔。
この俺の純粋な親切心を踏みにじりたくて仕方ねえってツラをしてやがるぜ。
なあガキ――」
「ガキじゃないもん! チキだもん!」
「は?」
チキの抗議に男は一瞬だけ真顔になり、ひどく間の抜けた表情を見せた。
無防備な顔をした彼はレンツェンとさほど年の変わらない若者に見える。
しかし次の瞬間には合点がいったようににやりと笑い、やがて元の悪辣な笑顔を取り戻した。
「ほう、おまえの田舎ではガキのことを“チキ”っていうのか。
聞いたこともねえなぁ、そんな方言は。
しかし人様を平然と踏みにじるようなクソガキが出来上がるくらいだ、
ロクでもねえ連中の吹き溜まりの言葉に違いねえ。
ハハッ、一体どんな扱いを受ければこんな歪み切ったクソガキになるんだろうなぁ?」
男は顎をそびやかし、蔑むような視線をチキに向けながら哄笑する。
チキは何も言わなかった。
言葉をあまり知らないチキにも目の前の男が自分や自分に優しくしてくれた人たちを
侮辱していることは理解できたが、不思議と腹立たしさを感じなかったのだ。
チキには男の言葉が自分ではない誰かに向けられているように思えた。
それが誰なのかは分からない。
ただ、人間であることを放棄したこの男の抱える人間的な絶望を垣間見たような気がして、
そこに安堵を覚えたのだった。憐れみにも似た、苦痛を伴う安堵ではあったが。
しかし実際に憐れみを表出させたのは男のほうだった。
男は出来の悪い妹を諭すように低い声で話し始める。
目には悪意を宿したまま、高価な砂糖菓子を味わっているかのような満ち足りた笑みを湛えて。
「図星で言葉も出ないか。
まあしかし、おまえを身の程知らずなクソガキに至らしめた肥溜めのクソどもを
あまり恨むモンじゃないぜ。
腐った連中に潰されて駄目になるような奴は最初からその程度だったってことさ」
そこまで言うと、男は一旦言葉を切った。
チキには彼の話が理解できない。
男はどうやらチキが“肥溜めのクソ”とやらに恨みを抱いていることを前提に話をしているようだが、
排泄物を恨むという発想自体がチキにとっては青天の霹靂だった。
無論、人間を排泄物に喩えるなど想像の埒外である。
変なの。チキは男の顔を眺めながら小首をかしげた。
男の笑顔が曖昧になり、僅かな苛立ちが去来する。
彼が再び口を開いたとき、その笑顔からは余裕が失せ、
餓えた獣を思わせる凶暴な悪意のみが残っていた。
「さて、そろそろその剣を貰い受けたいんだがね。
あんたは剣を扱えないんだろう?
無力なあんたの代わりにこの俺がその剣を有効活用してやろうってんだ、悪い話じゃないだろう」
今度はチキにも理解できた。難しい言葉は知らないが、彼の望みはよく分かる。
「お兄さんはチキの鞄に入ってる剣がほしいの?」
「意外と話の分かるガキだ。そうさ、俺はその剣がほしい。
その剣を寄越すならこの怪我のことは見逃してやらんでもないし――」
男は喉の奥で声もなく笑う。
その顔ににじみ出た獣じみた残虐性が鋭く深く研ぎ澄まされていく。
「――何ならこの俺がその剣を有効活用するさまを特等席で拝ませてやってもいいんだぜ?」
チキは確信した。やっぱりこのお兄さんは変だ。
言っていることと表情や声色がちぐはぐでとても嫌な感じがする。
ただ意地悪なだけじゃない、ただ悪い人ってだけじゃない、
このお兄さんはなにか重大な隠し事をしている。
そしてチキには想像することもできないようなとても恐ろしいことを企んでいる。
このお兄さんはきっと、あの悪夢のような惨劇を引き起こしても平気でいられるのだろう。
そう思うと、今現在の気分だけでなく自分の未来までもが
黒く塗りつぶされていくような絶望感に囚われる。
チキはマルスの言葉にしがみついた。
大好きなマルスおにいちゃんが「大丈夫だよ」と言ってくれたのだ、
だからもうあの夢に怯える必要はない。自分はあの夢と決別できる。
悪夢の世界に生きるこの男にだって負けることはないだろう。
チキはデイパックの肩ひもをしっかりと握り締め、毅然と男に言い放つ。
「ダメ! この剣はマルスおにいちゃんのだもん!
悪いことする人にはあげないもん!」
「そうか。なら、仕方ねえなァ」
仕方ない。その言葉とは裏腹に男の顔は笑っていた。
チキのその返答を心の底から待ち望んでいたかのように。
男がチキに飛び掛る。その背後で何かが揺れた。
宵闇の村の景象そのものに男の影が差したかのように、男の背後の空間に暗い影が伸びていた。
チキの心に恐れはなかった。少なくとも数秒前までは。
しかし今は体が動かない。黒い影の中に浮かび上がる美しい女の目を見た途端、
まるで金縛りにかかったように足が竦んでしまったのだった。
この世のものならざる人影が陽炎のように揺らめきながらチキに向かって手招きする。
女のようでありながら男のようにも見え、
子供のように見えたかと思うと次の瞬間には老人のような表情を見せ、
あらゆる姿に変化しながらいずれの存在にもなり得ない混沌の化身たる死神が
チキの身体に流れる神竜の血を凍りつかせた。
男の手元が鈍く光る。
襲撃者はチキの腹部に拳を叩き込みながらもう片方の手を左肩の向こうに伸ばした。
チキの呼吸が衝撃で止まり、焼けるような不快感が喉の奥に込み上げる。
腹部にちくりと痛みが走り、チキの肩の後ろにある何かを男の右腕が掴むのを感じた。
鞄から出ているあの柄だ。このままでは男に剣を奪われてしまう。
チキは右腰で揺れるガラスの小瓶に手を伸ばした。
しかしチキの指は冷たい瓶から滑り落ちた。
上半身に左向きの強い力がかかり、転倒しそうになったのだ。
しかし実際にバランスを崩していたのは襲撃者のほうだった。
男の左手がチキの腹部から離れ、石と金属のぶつかる音が足元で小さく鳴った。
その顔からは笑みが失せ、焦りと戸惑いが取って代わる。
一体何が起きたのだろう。
蒼白い顔で身体をよろめかせる男の姿はまるで死神に取り憑かれた重病人のようだった。
己を世界に繋ぎ止めようとするかのように、骨ばった指がチキのしなやかな二の腕を掴んだ。
短い爪が肌に食い込み、襲撃者の体重が小柄な体にのしかかる。
チキは悲鳴をあげながら左向きに転倒し、地面に横臥した彼女の上に男が覆い被さる格好となった。
視界に己の腹部が入る。
自身のまとうピンクのチュニックに大きなシミがついている。
色彩感覚を狂わせる夕闇の中にあっても、
それが自らの流した血であることを痛みによって理解する。
そして理解することによって痛みがいっそう存在感を増す。
永遠にも思える数秒の間、襲撃者はチキに全体重を預けていたが、
やがて荒い息をつきながらゆっくりと体を離した。
錯乱しつつあったチキの意識に男のかすれた声が割り込んでくる。
「クソッ、早いとこ終わらせねえとマズいな……」
襲撃者はチキの側頭部を右手で抑えつけながら脇腹の辺りに跨った。
傷口に直接触れられてなどいないはずなのに、
男の一挙手一投足が耐えがたい激痛を腹部にもたらす。
チキは苦痛に喘ぎながら「痛い、動かさないで」と懇願した。
しかし男はチキの訴えに耳を貸す気配など見せない。
地面についたその膝が立てるかすかな土埃にむせ返りそうになり、
伸縮する腹筋のもたらす激痛に呼吸が止まり、チキは耐え切れずに泣き出した。
どうしてこんなことになったのだろう。
両腕は自由に動かせるものの、男の体に遮られあの小瓶に手が届きそうにない。
一体どうすればいいのだろう。
さっきまであんなにチキを笑わせてくれたレンツェンはどこに行ってしまったのだろう。
「レンツェン……、レンツェン! レンツェンはどこに行ったの!?
助けて! 痛い……痛いよレンツェン……助けて……」
泣きじゃくるチキに男が問う。
「レンツェンってのは、あの派手な格好をした男のことか?」
チキは何も言わなかった。男の嘲笑が聞こえる。
「あの兄ちゃんならとっくに逃げたぜ。
つがいの鳥を狩るときは先に雌を殺るってのが基本だが、
おまえのようなガキごときに雌としての価値なんざねえってことだな。
それどころかあいつは心の中でおまえを邪魔者扱いしていたんじゃねえか?」
「チキ、意地悪な人とはお話ししたくない」
「だったら俺の前でガタガタ騒ぐんじゃねえ。
もうすぐ楽にしてやるからおまえを見捨てた奴のことなんざ忘れな」
視界の外にある男の表情を確認することはできないが、その声は意外なほど優しかった。
大人しくしているだけで苦痛を取り除いてもらえるのなら黙って従おうと思えるほどに。
しかし痛みが彼の本心を教える。
両肩を後ろに引っ張られるような感覚があり、チキははっと息を呑んだ。
チキの背負っているデイパックに強い力がかかっている。
男がデイパックを物色し、おそらくはその向きを変え、何かを力任せに取り出そうとしているのだ。
それが何なのかは見なくても分かる。
このお兄さんは、さっきからずっとチキの鞄に入っている剣を欲しがっていたのだから。
込み上げる絶望が、潰えたはずの闘志を復活させる。
この男はとても恐ろしいことを企んでいるのだ。
彼に剣を奪われたらマルスには二度と会えなくなるような気がした。
――そんなの嫌! マルスおにいちゃんと離れたくない!
チキは悲鳴をかみ殺しながら男の右足にしがみついた。
彼はさっきチキたちのせいで足に怪我を負ったと言っていた。
男の怪我がどの程度のものなのかは分からないが、
血が沢山出ているときは体を少し動かしただけでもたまらなく痛いということを
チキは今日身をもって知った。
このお兄さんは怪我を負わされて「ありがとう」と言いに来るくらいだから、
本当は痛くなどないのかも知れない。
でも、たっぷりと礼をしたいと言いながらちっとも感謝しているようには見えないから、
やっぱりとても痛いのかも知れない。
このお兄さんの考えていることはチキにはよく分からない。
ただ、お兄さんのズボンの右足には血が沢山ついているから、
怪我をしているという話は本当なのだろう。
このお兄さんから剣を守るためには痛みを与える必要があり、
痛みを与えるためには怪我を負った個所を責めればいい。
どこに怪我をしたのかは大体分かる。
お兄さんのズボンは少しだけ破れているから――
チキは右手を男の太股に這わせながら、
ベルトに差したナイフを奪うべくもう一方の手を伸ばそうとした。
しかし頭を押えつけられているせいで左手が腰まで届かない。
両腕を少し動かしただけで腹筋までもが伸縮し、激しい苦痛に苛まれる。
それでもマルスとの別れに比べれば肉体の痛みなどほんの些事に過ぎなかった。
剣を奪われればマルスにはもう会えないだろう。
チキにとってマルスを失うことは世界の終焉と同義だった。
自分の人生からマルスが去ればあとに残るのは闇と孤独、そして終わることのない悪夢のみ。
マルスは光、怪物になるはずだった少女に人としての命を与えた救い主。
腹部の傷がまるで異物のように熱を帯びて疼き、チキの心身を支配しようとするが、
チキはマルスの笑顔を思い出し彼のもとに戻ることのみを考えて苦痛を意識から締め出した。
右手が布地の裂け目を探り当てた。
潜り込ませた指を力任せに突き立てるが、襲撃者の体には何の変化も生じない。
傷口そのものを責めなければ意味がないのだ。
素肌に指を滑らせると、明らかに他とは違う個所があった。
見つけた、これで勝てる。チキは湿り気を帯びたそこに指を突き立てようとした。
しかし男が先に動いた。
彼はチキの頭を押さえつけていた右手を離すと、膝をついたまま腰を浮かせ、上半身を前に倒した。
ナイフを奪うべく伸ばした左手が木製の柄に触れる。チキは柄に手をかけながら、
男の足から滑り落ちそうになっていたもう一方の手の親指を傷口の辺りにねじ込んだ。
「クソッ、往生際の悪いクソガキが……」
男が毒づき、デイパックの肩ひもが深く食い込んだ。
このままではこの男に剣を奪われてしまう。マルスおにいちゃんに会えなくなる。
チキは男の傷口を叩き、引っかき、指を突き立て、力任せに抉った。
加害行為の代償だとでも言わんばかりに、胴を引き裂くような激痛が腹部を貫く。
自らの意に反して無様な悲鳴が漏れるが、それでもチキは指先に込めた力を緩めようとはしなかった。
頭上から罵声が降り注ぐ。
布越しに感じる男の筋肉の動きから、彼が体勢を大きく変えようとしていることに気付く。
チキは左手に掴んだ木製の柄を力任せに引き抜くと、
形状すらも確認できないその刃を男の足に叩きつけた。
しかし返ってくるのは岩を刺そうとしているかのような手応えのみ。
チキの細い腕では分厚い布地と鍛え上げられた筋肉を切り裂き、或いは貫くことなどできなかった。
背中を地面に縫い付けられるような感覚に襲われ、
チキの両手が襲撃者の太股から滑り落ちた。
それがデイパックを踏みつけられたためだと気付いたのは、
もう一方の足で腹を蹴り飛ばされてからのことだった。
激痛に貫かれ薄れゆく意識の中で何かが割れるような音を聞いた。
奇妙な清涼感を伴う液体が腹部を濡らし、
人工的な甘さと鋭さを有する濃密な匂いが鼻腔を突く。
あの小瓶が割れてしまった。小さな希望がこぼれ落ちてゆくのを感じる。
襲撃者は身を転がしながら体勢を立て直す。
その手に握られた長剣の柄には見覚えがあった。
チキの鞄に入っていたものだ。男に剣を奪われた。
長剣を地面に突き立て、それを支えにゆっくりと立ち上がる
襲撃者の姿にチキの心が冷えていく。
――マルスおにいちゃんごめんね……、チキはもう……。
このまま意識を失えば二度と目覚めることはないだろうと思った。
きっとあの夢すら届くことのない深い眠りに就くのだろう。
あの夢から逃れたい、あの夢とは違う未来がほしいと切に望んでいたが、
このような形での決別は不本意極まりなかった。でも、もう――
あまりにもひどい悪臭のせいだろうか。
チキの意識は消え失せるどころか冴え渡り研ぎ澄まされていく一方だった。
心なしか腹痛も和らいだように感じる。
全身にみなぎっていく活力を己の内にとどめておくことなどできず、チキはゆっくりと体を動かした。
慎重な動作は苦痛を警戒してのことだったが、思ったほどの痛みは感じない。
それどころか疲労が消え失せ身体が軽くなったようにすら思える。
チキは男から奪ったナイフを右手に持ち替え、しっかりと握り直した。
その刃は薄く、大好きなマルスおにいちゃんの手のひらほどの長さしかなかったが、
襲撃者を退けマルスの元に戻ることのできる可能性が未だ手の中にあるのだと思うと勇気が湧いた。
男の様子を窺うと、彼もまた手に入れたばかりの武器を両手で持って確認し、
片手で握り直していた。あんなに重いものを腕一本で扱うなんて。
相手との力の差を改めて実感し、岩のような存在感に圧倒されそうになる。
男は淡く輝く刀身をしげしげと眺めながら愉悦し、残忍な笑顔をチキに向けた。
「さて、切れ味のほどを試してみるとしようかね?」
言いながら、ゆっくりと歩を進める。
しかしその足が不意に止まり、男の顔から笑みが消えた。
「嫌な匂いだ。こいつ、ガキの分際で香水なんざ持ち歩いてやがったのか」
男は嫌悪もあらわに顔をしかめた。
半眼になった目にはもはや獣じみた貪欲さはなく、
拒絶にも似た憤怒が抜き身の刃物のような危うさをその視線に与えていた。
「ふざけやがって! おまえも心の中で俺のことを馬鹿にしていたんだろ!
そうに決まっているさ、そういうものを身に付けたがるような女はみんなそうだ、
淫売の分際でこの俺を見下してやがる! クソッ、ナメやがって!」
感情の赴くまま怒鳴り散らす男の姿にチキは呆然となった。
このお兄さんは一体何を怒っているのだろう。
彼の支離滅裂な言動は今に始まったことではないが、
この激昂ぶりはあまりにも常軌を逸していると言わざるを得ない。
男は長剣を逆手に持ち替え、もう一方の手も柄に添えると、
その切っ先をチキの右太股に叩きつけた。
骨の砕ける衝撃に声を出すこともできないチキを冷ややかに見下ろしながら、
肉を抉るように刀身をねじり、ゆっくりと引き抜いた。
湧き水のように溢れ出す鮮血が地面に黒い模様を描く。
「一太刀で殺してやろうと思っていたが、気が変わった。
おまえには俺と同じ傷をくれてやる」
◇ ◆ ◇
レンツェンハイマーは民家の外壁に背をもたせかけ、暗紫色の空を仰ぎ見た。
隙を見計らって民家の陰に逃げ込んだものの、
未だ足腰はまともに立たず、早鐘を打つ心臓は今にも口から飛び出しそうだ。
――ええい、うるさいぞ! この鼓動は一体どうしたことだ。
こんなに激しく脈打っていてはあの少年に聞こえてしまうではないか!
俺の心臓よ、止まれ、止まれ、止まれ止まれ止まれ止まれ、止まらんか!
何故止まらん! 俺の命令が聞けぬのなら無理矢理にでも止めてくれるぞ!
……あ、いや、それはまずい。それではこの俺様が死んでしまう。
ああ、俺の頭は一体どうなってしまったのだ。
俺は天才軍略家レンツェンハイマー、リーヴェ王になるはずだった男なのだぞ!
レンツェンは両手で頭を抱え、視線をゆっくりと地面に落とした。
向こうからあの少年とチキの声が聞こえてくる。
会話の詳細は聞き取れないが、その声色からチキが泣いているのだと分かる。
彼女はしきりに痛みを訴え、半ば悲鳴混じりに「動かさないで」と懇願している。
恐らく、あの少年に強姦されているのだろう。
――あんなガキに欲情するのか。浅ましい。これだから育ちの悪い奴は嫌だ。
レンツェンは苛立ちを覚え、そんな自分に疑問を覚えた。
――どこの馬の骨とも知れないガキがならず者の少年に強姦されたからといって、
何故俺が腹を立ててやらねばならん?
そのような行為に及ぶ者は俺の配下の兵士にもいたし俺はずっと黙認してきたというのに、
今朝知り合ったばかりのガキを特別扱いしてやる必要性がどこにあるというのだ?
むしろこれは歓迎すべきことではないか。
少年の注意がガキに向いている隙に、俺は安全な場所まで逃……もとい撤退できる。
落ち着いて考えてみろ、あのガキが一体何の役に立った?
有能なボディガードを連れて来るどころか、
いらん騒ぎを起こして俺様の命を脅かしたではないか。
人間様に危害を加える家畜などただの害獣、殺されて当然だろう。
自分を取り戻すにしたがって、心拍も平常に戻っていく。
そろそろ動けるだろう。逃……もとい撤退の時間だ。
レンツェンは壁に立てかけていたゴールドスタッフを両手で持って地面に突き立てると、
杖に体重を預けながらゆっくりと立ち上がった。支えを外しても直立できることを確認してから、
杖をデイパックに収納し、音を立てぬよう慎重に歩を進める。
このまま民家の裏手に回り、村の外まで一気に走ろう。幸いこの靴は動きやすい。
あの少年に気付かれたとしても足に怪我を負っている彼に追いつかれることはないだろう。
そのときチキの悲鳴が聞こえた。
「レンツェン! レンツェンはどこに行ったの!? 助けて!」
レンツェンは思わず足を止めた。
首の辺りに違和感を覚え、首輪がそこにあることを自らの指で確認する。
自分の名を呼びながら助けを求める者の声など
レンツェンにとっては虫の鳴き声同然の取るに足りないノイズだった。
彼らはレンツェンに命乞いをする。レンツェンが権力者だから。ラゼリアの太守だから。
レンツェンは常に彼らの期待に背くよう最大限の配慮をもってその声に応えた。
彼らが求めるのはレンツェンハイマーという人間の慈悲ではない。
自分に都合の良い支配者、すなわち憎き
リュナンのような人間だ。
だからレンツェンは彼らを裏切る。
リュナンを求める者など苦しめばいい、彼らの姿を見たリュナンもまた苦しめばいい。
リュナンになれない俺を認めない者などみな死んでしまえばいいと思っていた。
しかしあの少女は違った。彼女は太守の意味すら理解しておらず、
このレンツェンハイマーがリュナンのような人間ではないと思い知ったにも拘わらず、
レンツェンに救いを求めたのだ。
では、助けに戻るか? レンツェンは振り返り、かぶりを振った。
――馬鹿な。俺は一体何を迷っている?
一時の情に流されて無謀の挙に出るなど、
天才軍略家にあるまじき愚行の極みではないか。
あのようなガキなど見殺しにすればいい。
ガキは簡単に人を頼る、それだけの話だ。振り回されてやる義理などない。
息を殺し、足音を忍ばせ、レンツェンは民家の裏手に辿り着いた。
あとは駆け出すだけだ。
建物の向こう側からチキと少年の声が聞こえるが、何を言っているのかまでは聞き取れない。
レンツェンは地面を蹴ろうとして逡巡する。
チキの声が聞こえるということは、彼女がまだ生きているということだ。
今なら間に合うかも知れない。チキの言葉が脳裏によみがえる。
――えらい人には、その地位にともなう責任と、義務があるんだって。
だから、えらい人は困った人や弱い人がいれば助けなきゃいけないの。
不快だった。その内容もさることながら、
善人気分を味わいたい連中の悪趣味な戯言ごときを黙殺できず
合理的な行動を取れなくなった自分に対して苛立ちを覚える。
――俺は一体何をしているのだ?
赤の他人の悪趣味をわざわざ思い出して感情を揺さぶられてやるなど悪趣味の極みだ。
そのような娯楽はラゼリアに帰還して余暇ができてから気が済むまで満喫すればいい。
今は一秒すら無駄にはできない。余計なことを考えている暇があるならさっさと走れ――
「クソッ! このガキは化け物か!?」
少年の怒鳴り声が聞こえ、レンツェンは踏み出すはずだった足をまた止めた。
少年は焦り、戸惑っている。チキが反撃に出たのだろう。
戦うすべを持たないガキなど足手まといにしかならないと思っていたが、
あの少年にここまで言わせたとなれば話は別だ。
戦力になるなら手元に置いておきたいし、助けに戻る価値だってある。
引き返そうかと思い始めたとき、再びチキの悲鳴が聞こえた。
「触らないで! チキは物じゃないもん!
……放して! チキに触らないで!」
怒りと嫌悪に腕が震えた。
育ちの悪そうなならず者ごときに自分の持ち物を勝手に汚されるなど許しがたく、
極刑をもって臨まねばならないほどだった。しかし身体が動かない。
チキが危害を加えられているのなら自分一人であの少年と戦わねばならないし、
あの少年がチキに何をしているのかをこの目で確認する羽目になるだろう。
許せない。そう思っているはずなのにレンツェンはその場に立ち尽くす。
空は紫から黒になり、風が冷たくなってきた。
ふとレンツェンは異変に気付いた。チキの声が聞こえない。
少年が一人で何事かを話しているようだが、声色が普通ではなかった。
その具体的な内容を聞き取ることはできないが、彼の声は到底勝者のものとは思えない。
今なら勝てる。確実に勝てる。天才軍略家の勘がそう告げる。
――よし、出陣だ。あの見るからに育ちの悪そうな少年には、
この俺様の所有物に傷をつければどうなるのかを思い知らせてやらねばならん。
レンツェンは装飾過多な黄金の杖を取り出し、両手で握り直す。
この重みから察するに、純金製なのだろう。
大小様々な宝石を散りばめることで軽量化を図っているが、
それでも鉄の剣などとは比べ物にならないほどの重みがある。
この杖で相手の頭を殴りつければ命に関わるような怪我を負わせることも可能だろうが、
自分の腕力ではそのような使い方はできないだろう。
それに武器として用いた場合、耐久性に疑問が生じる。
相手に気付かれる前に、一撃で決めなければ。
逃……もとい撤退できるだけの隙さえ作り出せればそれで――
「助けて! マルスおにいちゃん助けて!」
空気を引き裂くチキの悲鳴がレンツェンの心を切り裂いた。
見捨てられた。杖が手から滑り落ち、レンツェンはその場にへたり込む。
チキが最後に頼ったのは自分ではなくマルスだった。
ラゼリアの民が自分ではなくリュナンを求め支持したように、チキもマルスを選ぶのだろう。
やはり子供など気紛れで身勝手、さっさと見捨てて逃げ出すべきだった。
あの時走り出してさえいれば、自分の中のチキはいつまでも
レンツェンを必要としてくれていたのに。
脳裏に映る記憶の中のチキが無垢な瞳でレンツェンに問う。
――レンツェンも、マルスおにいちゃんと一緒でとってもえらい人なんでしょ?
その言葉が弱音を粉砕し、死んだ心に命を与えた。
――マルスおにいちゃんと一緒で、か。
貴様はこんな俺でもマルスやリュナンのように生きられると信じてくれていたのだな。
ならば貴様に対してだけは俺もそうなってやろう。
レンツェンは きれいなレンツェンに しんかした!
のうないが 8ビットに なった!
チキから 5パーセントの しえんこうかを えた!
しぼうフラグ を てにいれた!
→ どうぐ
→ しぼうフラグ
→ すてる
しぼうフラグ「わたしをすてるなんて ゆるさない! ころしてやる!」
レンツェンは Bボタンで キャンセルした!
→ どうぐ
→ しぼうフラグ
→ つかう
しぼうフラグ「あなたのかのうせいを めざめさせてあげる!」
レンツェンは ハイプリンスに クラスチェンジした!
テンションが 5 あがった!
しえんこうかが 5 あがった!
ごうとう の スキルを おぼえた!
→ ターンしゅうりょう
最終更新:2011年01月28日 14:51