空から降る一億の星(後編)

 ◆

    ジュデッカ            不壊の盾               血塗られた献身     陽を堕とす者             
           流離の子                                                 
                 Dance of the Seven Veils                                          
       蓮の台                                                      ソルニゲル  

                                  革者                                   


         解放された世界          Fate/Bloody Zodiac ■■海底都市冬木          回帰の白             


                                 物語の王                                  
                      監視者                        餓狼伝                   
           アイボリー・メイデン              最終戦争                   総ての乙女の敵      
                                       キング・オブ・クロスオーバー                  
                不死の罰                                                   
                         日ノ本斬殺               殺られた事にも、気付かない    破滅的終局    
                                 久遠の赤                                  
 ◆

 ZONE10――『不壊の盾』

「あ、あの……さっきは逃げてしまいまして、申し訳ございませんっ」

 勢いよく上体を折り曲げ、誠意を見せる女性。そしてそれを、やれやれとでも言うような目線で見る、先程彼女を救ってくれた女性。
どうやら、怒りの感情を抱いているようではなかった。寧ろ、出来の悪い生徒や子供に対し、これからどう説明するか悩んでいる教師の様な面持と態度で、女性は口を開いた。

「あぁ~っとさ……まぁ、逃げた事は良いよ、それ程は怒っちゃあいない。だけどさ、何で逃げたのかな。アンタが逃げたせいで、あたしはお節介な警官に、危うくカス一つ残らず搾り取られる所だったワケよ」

「それは、その……ご、ごめんなさい!! 私、ああ言ったトラブルに、その……慣れて、いなくて……つい」

「それは、見りゃ解るよ。アンタ、見るからにあの手のコト苦手そうだもん」

 意識した事は欠片もなかったが、如何やら自分――『マシュ・キリエライト』は、思った以上に弱々しい姿に見えるそうだった。
人となりは勿論、マシュの名前すら知らない、見るからに意思の強そうな女性からですら、その本質を看破されてしまう程には、解りやすいらしいと、マシュは再認した。

「ここんところ物騒だしさ。知ってるでしょ? 『昨日の事件』。アンタ見た所スッゲー大人しそうで、あの手の悪い男の餌食になりやすそうだからよ、もうちょっとシャンとして、気をしっかり持ちな。悪い事してねーのに、おどおどする必要何てないんだからさ」

「は、はい!! ありがとうございます!!」

 「いいって、いいって」、と、マシュに背を向け後ろ手に手を振りながら、彼女を救ってくれた女性は去って行った。
気の強そうで、怖そうな外見の人物だと当初はマシュも思ったが、自分を助けてくれたと言う事実と、マシュとの接し方を鑑みるに、根っこの部分は善良な人物だったらしい。
それだけに、胸元をチクリと刺激するような罪悪感が、マシュの心の中に芽生える。やはり、あの場で逃げてしまったのは失敗だったのではないかと。

 あの女性と、マシュにちょっかいを掛けて来た男達三人が喧嘩を始めたのを見て、距離を取ってしまったのは事実だ。
そしてそれは、傍目から見れば逃走を選んだと見られるのも仕方のない事だと言うのは、マシュとしても重々承知している。
しかし、その人生の殆どを高度数千mの山に建てられた、閉塞的な世界で過ごして来たマシュにとって外の世界とは正に、
別の惑星の別の文明圏と言っても過言ではない程の未知の世界。そこで突発的にトラブルに巻き込まれたとなれば、頭で何をすべきか解っていても、混乱して逃げてしまうのも、仕方のない事であった。

 外の世界の常識には未だ慣れないマシュであったが、この場合何をするべきかは理解していた。
急いで、自分が持っていたスマートフォンと言う端末で、警察を呼ぶ。聖杯戦争のサーヴァント同士の争いには露程も役に立たないとは、
マシュの従えているサーヴァントからは言われているが、聖杯戦争に無関係の人物同士の喧嘩ならば効力を発揮する。そう思い、警察に連絡をしようとした、その時だった。
マシュ二~三人分以上の筋量があると言われても即座に信じてしまいかねない程の、威圧的な大男達を、あの女性はいとも簡単に一蹴してしまったのだ。
当初は凄いとマシュも思ったが、すぐに、世故に疎いマシュにですらやり過ぎと思ってしまう程に暴力を振るっていたが。
何れにせよ、自分よりも遥かに恵まれた体格の男三人を、いとも簡単に倒して退けた、その姿に、圧倒されてしまった。
流石に殴り過ぎたせいか、駆け付けた警官に酷く怒られてしまっていたのをマシュは見たし、警官から女性が逃走したのも見た。
見たからこそ、マシュは急いだ。お礼の一つを言う為に、世間も世界も全く知らない少女は、自分を助けてくれた女性の下へと駆けたのだ。
冬木の地理に未だに慣れぬマシュではあったが、それでも駆けずり回っていれば見つかるもの。何とかマシュは、数分の時間と引きかえに、恩人に出会えた。そこから、最初の会話に至る、と言う訳であった。

「何とか、お礼は言えましたね……」

 ふぅ、と一息ついた途端、ドッと疲れと汗が噴き出て来た。
走っている最中はそうでもなかったが、走るのを止めた瞬間、身体が熱を帯び、毛穴から汗が滲み出てくる。
元より、マシュは運動がそれ程特異ではない。遅れて、疲労の蓄積を認識したのは、まさにこの瞬間の事であった。

【律儀ですね、マスター。勿論、感謝の意を示す事は大事な事ですが、まさか探しに行くとは思いませんでしたよ】

 マシュの頭の中に響く、念話の声。心なしか、その声音はやや自分に似ていると。マシュはその声を聞く度に思ってしまう。
似ているのは声だけではない。今は霊体化している為余人には判別出来ないが、その姿や顔立ちですら、マシュと瓜二つ。
ウィラーフ』……ベオウルフの伝説において、英雄ベオウルフが生涯の最期に戦った恐るべき火竜との戦いで、最後まで逃げる事無くベオウルフと戦い抜き、そして生き残った盾の英雄。それが、マシュの引き当てたサーヴァントなのだった。

【お礼を言えないまま、最後の出会いになる……って言うのは、少し、嫌だなって思いましたから】

 マシュを助けた女性を急いで探したのには、もう一つの理由があった。
あの女性がマシュを助けた時、マシュは、炎の海に包まれた、宛らインフェルノの様相を示すカルデアの管制室と、瓦礫に下半身を潰された自分の事を思い出したのだ。
マシュ・キリエライトの運命は、本来ならばあそこで終わっていた筈なのだ。自分が生まれたその日に、彼女の命運は尽きる筈だったのだ。
見棄てる、逃げる、と言う選択肢を選ばず、自分を助けようとした青年がいた事を、今も彼女は思い出す。
巻き添えを喰って死にかねないのに、本当は彼だって怖かった筈なのに。死ぬのを覚悟で、湧き出てくる恐怖を勇気と言う麻酔で忘れて。
自分に手を伸ばしてくれた、あの青年の姿が、マシュの瞼に焼き付いて離れない。

 生まれて初めて目の当たりにした、キラキラとした輝く宝物。
生まれて初めて自分の心から素晴らしいと思うに足る、美しい贈り物。
それを見せてくれた『彼』に、マシュは未だお礼を言えていない。お礼を言う前に、冬木に飛ばされてしまったからだ。

 ひょっとしたら、この世界に彼……先輩はいないのではないかと、マシュは思っている。
一方的に助けられ、お礼の一つも言えないまま、志半ばで戦死する可能性すらあるのではないかと、マシュは思っている。
生まれて初めて、一つの物事への忌避感と、自分でも驚くばかりの生への希求感が湧いてくるのを彼女は感じていた。
生きたい。生きて生きて生きて、もう一度巡り会いたい。わがままだと思われても良い、もう一度奇跡が起きてくれるのを、マシュは祈った。
いや、一度だけではない。二度でも三度でも、四度だって奇跡が起きる事を心の底から願った。

【シールダーさん】

【はい、マスター】

【……奇跡は、どのようにしたら起きてくれるのでしょう】

 馬鹿な問だと思っている。
自分で起こせる奇跡など、奇跡ではないだろう。偶然起きるから奇跡なのだ。必然的に起きる奇跡とは、予定調和かご都合主義と言うのだ。
そうと知ってもなお、マシュは問わざるを得ない。あの、天文学的な確立に等しい奇跡を、また再現させるには、どのようにしたら良いのかを。

【マスターは賢い人ですから、奇跡は自分で起こせるものではない、と言う事は承知しているでしょう】

【はい……そう、ですね】

 やはり、無理か。マシュは思う。ウィラーフの口ぶりは、厳格で、反論の一つも許さない程の強い意思があった。

 ――が。

【ですが――それでももし、奇跡が起きてくれるのを願うのならば……】

 その後に続いた言葉は、厳しいながらも、何処か、柔らかなものを感じさせる、不思議な声音であった。

【願うの、ならば……?】

【正しい事に、勇気を以って取り組む事です。そして、自分の心が折れそうになったら、強く祈り、それ以上に、諦めないんだと唱え続けて下さい。そうすれば……奇跡は、起きないから、『起きるかもしれない』になります】

【シールダー、さん】

 奇跡を起こす方法は、人の身に備わっていない。いや、高次の霊的存在であるところの、英霊にですらそんな方法はないのかもしれない。
だが、奇跡が起きるかも知れない方法は、あるのだとウィラーフは主張した。その声音に揺るぎはなく、疑惑を憶えている風もない。
本心から、このシールダーは信じているのだ。そう、何故ならば、ウィラーフはそう信じる事で、恐るべき巨竜をベオウルフと共に打ち倒せたのだから。
蜘蛛の糸よりなお細い、希望と呼ぶのも烏滸がましい些細な光の糸に縋る事で、歴史に……。そして、尊敬していた英雄に、己の勇を示せたのだから。

【心からのお礼を言いたい人を持つマスター、マシュ・キリエライト。私は、貴女がその思いに対し真摯であり続ける限り……如何なる邪龍、妖獣の一撃も……古今無双の英雄の渾身の攻勢も。全て、貴女から弾いて見せると約束しましょう】

【――はい、お願いします、シールダーさん!!】

 折れる訳には行かない。目的を見失う訳には行かない。
この特異点の解決も、カルデアへの帰還も。そして、『彼』に再開する事も。全てマシュは、貪欲に求めると誓った。
自分の心に灯った、一つの小さな明かりと熱。彼女はこれに勇気と言う名を与えながら、一歩歩き出した。
この冬木における、初めてとも言っても良い、自分の意思による小さくも大きな一歩。マシュ・キリエライトは今それを間違いなく刻んだのだった。

 ――そして、彼女は気付かないのだった。その一歩を歩き出したのを遠目から眺める、一人の少女の事を。
運命の歯車が噛み違っていれば、燃え盛る地獄で彼女に対して手を伸ばしていたかも知れない、その人物が彼女を見ていた事を。

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           流離の子                                                 
                 Dance of the Seven Veils                                          
       蓮の台                                                      ソルニゲル  

                                  革者                                   


         解放された世界          Fate/Bloody Zodiac ■■海底都市冬木          回帰の白             


                                 物語の王                                  
                      監視者                        餓狼伝                   
           アイボリー・メイデン              最終戦争                   総ての乙女の敵      
                                       キング・オブ・クロスオーバー                  
                不死の罰                                                   
                         日ノ本斬殺               殺られた事にも、気付かない    破滅的終局    
                                 久遠の赤                                  
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 ZONE11――『最終戦争』

【どうしたよ、『ぐだ子』ちゃん】

【うーん……さっきの眼鏡の女の子……。何処かで見た事があるんだよなぁ……】

 それに加えて、自分に念話を飛ばして来たサーヴァント、『ロキ』に対し、『ぐだ子呼びは止めろ』と言いたくもなったが、
言って大人しく従う存在であれば彼女も苦労していない。頼むからマスター呼びして欲しいなぁ、と思いながらも、そっとその事は胸の奥にしまっておく。

【他人の空似、って奴じゃない? 此処、君が元居た世界で見た覚えのある存在が全く別の役割と人生を全うしてるんだろ?】

 ロキの言う通りである。
この冬木と呼ばれる街、ぐだ子が元々過ごしていた世界や環境で、彼女と接点の在った人物が多すぎるのだ。
日本にいた時の友人もいれば、カルデアに来てから見かけた覚えのある人物まで。近所や学校近く、商店街などで良く見受ける事が出来る。
ここまで自分と接点があった人物が多いと、最早偶然・運命と言う言葉では片付けられなくなる。では、どんな言葉を用いれば良いのか、と問われれば。
『作為』、と言う言葉で表現した方がこの場合適切なのだろう。それ以外に表す言葉がない程、ぐだ子の見知った人間がこの街には多かった。

 先程の眼鏡の少女にしても、ぐだ子は何処かで出会っていた、と言う確信はあった。
しかし、それが何処かは思い出せない。アジア人風の顔付きではない、欧風の顔立ちであった為、出会っていたとしたらカルデアだろう。
そうだとしても、どのタイミングであの少女を見たのだろうとぐだ子は自問する。思い出せないのは、やはり、記憶の障害の為か。
それとも、ほんの視界の端に映る程度位の時間しか、見ていなかった為か。どちらにしても、あの少女の素性は今のぐだ子には思い出せない。
数秒程悩んで見ても、やっぱり思い出せないので、悩んでいても仕方がないかと、頭を振って雑念を払い、思考を切り替える。
そして、あの少女に出会う前までロキと交わしていた会話に、再びぐだ子はレールを切り替えたのだ。

【それで、さ。アサシン。本当なの? さっきの話?】

【星座のカードに細工が仕掛けられてた、っての? ハッ、悪戯・小細工・破壊工作で鳴らしたボクが、あの程度の細工を見破れないとでも? 間違いなく、このカードは、ボクらサーヴァントの気配を消す役割を担っている】

 先程までロキと交わしていた会話とは、そう言う事だった。
『昨日の事件』についてどう思うか、と言うぐだ子の一言から会話は始まり、やはりあれはサーヴァントの手による物であり、アレだけの事件、
一組二組早速脱落したのではないかと言うロキの私見に耳を傾け、このまま自分達が無傷でやり過ごせれば良い、と言うぐだ子の一言から、ロキはこう言ったのだ。

 ――君としてはそれがベストなのかも知れないが、ボク達だけ平和、と言う時代もそろそろ終わりそうだよ――

 何とも意味深な言葉だった。
その言葉の真意を訊ねた所、ロキは言ったのだ。この冬木に於いて、『昨日の事件』のような出来事はもっと勃発していて良い筈なのに、
どうしてあの一件だけしか目立たなかったのか。その訳は、単純明快。『サーヴァントと出会う事自体が難しくなっているからだ』、と。
とは言え、サーヴァント自体は皆等しく、この冬木に召喚されている。問題は、サーヴァントが当たり前のように有している、
他サーヴァントの知覚機能が麻痺している事なのだそうだ。この不可解な現象のカラクリが、ぐだ子がこの世界に来るに至った、あの星座のカード。
このカードには極めて高度な仕掛けが施されているのだと言う。ロキですら、一時とは言え目を欺かれる程の高度な隠し機能だ。
彼――彼女と言うべきなのかぐだ子ですら今も迷っている――ですら一杯喰わされたその訳は、『この仕掛けには魔術的な措置が一切用いられてなかった』事にある。
つまり、この星座のカードに隠された秘密の機能、サーヴァントの気配を消失させるそれは、魔術ではなく『極めて高度な科学』によりて編まれた物であると言うのだ。
ただの魔術的な措置であれば、気付くキャスターも多い事だろう。だが、科学ともなれば、なまじそちらの方面に関する知識が疎いが為に、滅多な事では仕掛けに気付けない。
ロキがこの事に気付けたのは、彼が言った通り、彼自身の手先が器用である、と言う一点が大きいのである。

【うーん、私としては、何でこの仕掛けが、私の平穏の終わりに繋がるのか解らないんだけど? 寧ろ、サーヴァント同士の衝突が防げる分、平和に貢献してると――】

【この仕掛けが、聖杯戦争を仕掛けた奴らの胸先三寸で解除出来ると言う前提で、もしも相手が聖杯戦争の運営に意欲的なら、いつまでも今の状態のまま放置する訳ないだろ】

【うっ……】

 それは、確かにそうだ。
ロキの言う通り、この星座のカードの仕掛けは現段階では明らかに聖杯戦争を仕組んだ者が仕掛けたものとして見るのが筋であるし、
であるのならば、彼らの意思次第で自由にその仕掛けを解除できる物と見て間違いない。遠隔操作で自由にON/OFFを切り替えられる事位は容易に想像が出来る。

 現状では聖杯戦争を運営する者達の真意は、そもそも出会った事すらない為図りかねるが、仮に、聖杯戦争の管理に意欲的であったとして、
それならば当然戦局が進んで行く事が彼らの望みでもある筈だ。何時までも、サーヴァントとサーヴァントが出会わない。
言ってしまえば、仮初の平和の状態がいつまでも続く事は、彼らとしても好ましい事ではあるまい。それでは何故、その好ましいとは思わない状態が、今でも続いているのだろうか。

【恐らくだが、向こうとしても今すぐ始めたいんだろうさ。聖杯戦争を】

【じゃあ何で始めないの?】

【そんな事も解らないのかい、君は?】

 やれやれと、物覚えの悪い子供に物を教えるのに飽いたような態度が、念話とはいえロキの声音から非常によく伝わってくる。「悪かったわね、バカで」、とぐだ子は内心でむくれた。

【簡単な話だ。『出来ない事情がある』からだろう】

【それって、何?】

【それが解れば苦労はしない。まだメンバーが集まってないか、聖杯戦争開始前になって、重大なエラーが発生して、メンテナンスが延長してるのか。どちらにしても、向こうの事情が絡んでいるのは大いにあり得る】

 いつ始まるのかの告知もなく、未だに裏準備とメンテナンスに追われる運営。
何とも間の抜けた話であるとぐだ子は思わなくもないが、逆説的に、其処までやらねばならない程、聖杯戦争とは大規模な物である事にも繋がる。

 ぐだ子が特異点だと認識しているこの世界。聖杯戦争の解決が、特異点の解決と=なのかは、今を以ってしても彼女にも解らない。と言うより、一方的な思い込みだ。
それに、ぐだ子の本音を語るのであれば、聖杯戦争には始まって欲しくない所か、寧ろこのまま有耶無耶になり、催し自体なかった事になって欲しいとすら思っている。
ロキに対して、この冬木での特異点を解決すると即答した少女の考えとは思えないが、今の彼女等、実戦経験は勿論、喧嘩の経験一つもないただの小娘だ。
神話の住人、歴史の偉人、血塗られた悪党達を駆る聖杯戦争をさぁ解決しろ、と言われて腰砕けにならない訳がないのだ。
怖い。だが、やらねばならないと言う義務感も彼女には宿っていた。末席とは言え、カルデアの一員に選ばれてしまった事から来る誇りか。
それとも、世界の危機を救いたいと言うヒロイズムか。はたまた――世界を救ったと言う悦に浸りたいだけか。

 このまま誰も傷つかず、自分も一切痛い目を見ず。それで事態が解決してくれれば、勿論ベストなのだ。だが、その望みは薄い。
あの事件が起きてしまったからだ。それ程までに、『昨日の事件』と呼ばれるアレが、ぐだ子に与えた衝撃は大きかった。
サーヴァントと言う存在を操る意味。そして、それによって如何なる現実が齎されるのか。
人に対して剣を振えば、恐るべき結果が待ち受けているように、サーヴァント同士を争わせたら、どうなるのか。
それを、あの事件の惨状を見た参加者達は、少し前のぐだ子同様、嫌でも理解してしまった事であろう。

 聖杯戦争と言う笑ってしまう程非現実的な催しは、無慈悲なまでに現実のものであり。
その渦中に自分は巻き込まれている。その事実を認識する度に、吐き気を催す。そんなぐだ子の内面を推し量ってか。ロキは、念話でケラケラと笑い出した。
今のマスターの様子が、何処までもおかしいと言わんばかりに。

【そんなに、おかしい? 私が困ってる事が】

 ややキレ気味にぐだ子が言うが、相手は全く悪びれる様子も、反省する色もない。【うん】と即座に切り返して来た。

【言ったろ。ボクは面白い事を優先するって。ボクに対して『特異点を解決する!!』ってイキってた姿と、現状に悩む姿のギャップ。面白くない訳がない。笑ってやらない方が、失礼ってもんだ】

【それじゃ、私が死んだ方が面白いってアサシンが思った時には……】

 次の一言をロキが紡ぐのに、二秒程の間があった。図星を突かれて黙った訳ではない事は、ぐだ子にも解る。
きっとロキは、嗤っていたに相違あるまい。今のぐだ子には見えないが、恐ろしく邪悪な笑みを浮かべて、彼女に向き合っているに相違あるまい。

【ボクがどう言う存在か。君も勉強して来ただろ?】

 聖杯戦争は勿論、使い魔すら使役した事のない、魔術の道に関しては素人以下のぐだ子であるが、自分が従えるサーヴァントの素性を調べぬまま放置を決め込む程、
馬鹿な女ではない。彼女はロキを召喚したその日に、彼がどんな存在なのかを調べて見た。
移り気で、浮気性で、狡猾で、邪悪なトリックスター。世界の終焉のトリガーを引いた、戦犯中の戦犯。それが、ぐだ子から見たロキ評と言う物だった。
とてもじゃないが、自分に対して有効的な風を装っているのが信じられない程の超大物だ。いや、表面上は友好的と言うだけで、本当は自分の首を狙っているのだ、
とぐだ子が考えた回数もかなり多い。油断していたら寝首をかかれる。そうとぐだ子が思い込む程、ロキの経歴は真っ黒過ぎるのだ。

【心配するなよ。君を殺してしまったら、聖杯戦争を最後まで見届けられない。聖杯戦争を楽しむって事を目的とした場合、君を殺すのは悪手も良い所なんだよね。この前提があってなおかつ、君が面白い事をし続けてくれるのなら、ボクはキミの為の『道化』さ】

【道化って……】

【道化は良いものだよ、ぐだ子。その名と在り方の故に、神や王をも虚仮に出来るアウトサイダー。ほら、こう言われると憧れないかい?】

【あまり】

【ノリが悪い!! 面白くないポイント一点付けていい? 十点貯まったらボクが君を殺すってシステムなんだけど】

【駄目!!】

 ロキがそんな事を言うと、冗談に受け取れなくなる。
何せ面白くないと言う理由で、誉れ高い光明神の暗殺計画を立てる輩だ。人間のマスター如きを殺した所で、その心の水面には感情の漣一つすら起きないだろう。

【ま、殺されたくないのならさ、ボクと一緒に道化を楽しもうぜ、ぐだ子。この聖杯戦争、道化の大先輩たる悪い蜘蛛が巣を張ってるみたいだしね。ボクの当面の目標は、彼に勝利して当代最高のジェスターの座を勝ち取る事なのサ!!】

 何が何だか、と言う風のぐだ子。
蜘蛛と言うのも、何かの隠語だろうかと思ったその瞬間の事だった。おもむろに、車道の脇にタクシーが急停止、其処から勢いよく男が飛び出し、彼女の方に向かって行ったのは。

「や、やっと見つけました!!」

 息せき切って男は、ぐだ子の前に現れるや、「私、こう言うものです」と言って、名刺を差し渡して来た。
突如現れた男の様子に、「えっ? えっ?」、と。当惑の念を隠せないぐだ子。【……チッ、厄介な奴までいるな。何処まで捻じれてんだ、この世界は】、と言うロキの小言が気にならない位には、ぐだ子の頭の中は、酷く真っ白なのであった。

 ◆

    ジュデッカ                               血塗られた献身     陽を堕とす者             
           流離の子                                                 
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       蓮の台                                                      ソルニゲル  

                                  革者                                   


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                                 物語の王                                  
                      監視者                        餓狼伝                   
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                                       キング・オブ・クロスオーバー                  
                不死の罰                                                   
                         日ノ本斬殺               殺られた事にも、気付かない    破滅的終局    
                                 久遠の赤                                  
 ◆

 ZONE12――『キング・オブ・クロスオーバー』

 株式会社022プロダクションのロゴと、男の素性の書かれた名刺を受けとる事もせず。
男が手にしたままの名刺と、それを差し出している男の姿を交互に眺めて。目の前の少女は、キョトンとした顔を隠せないでいた。
無理もない。022プロと言えば、日本でも有数の芸能事務所の一つ。その事務所に所属する営業マンが、女性に対して名刺を送る事の意味は、そう言う事である。
スカウト。それ以外になかった。目を丸くしている少女に対し、男は畳みかけを掛けるべく、美辞麗句の洪水を浴びせ掛けに来た。

「どうしても外せない急務があったせいで、新都であなたを見かけても、声の一つもかけられなかった事を死ぬ程後悔した!! あなたみたいな原石を目にしておいて、もう会えないなんて、と!!」

「え、え?」

 困惑を隠せない様子の少女に対し、名刺を差し出すスーツの男から発散される、ギラギラとしたオーラ。
今の男は宛ら、獲物に狙いを掛けるライオンかトラ宛らであった。此処で、少女を逃しはしないと言う固い決意すら感じられる。

「いや、正直今この瞬間も急務に追われていますけど、ここであなたと言う原石を無視するのは余りにも惜しい。どうです、アイドルにご興味はありませんか!? あなたならきっと、トップアイドルの一人に――」

「そ、その――失礼しますっ」 

 男が全てを言い終える前に、少女は一礼、急いで彼に背を向け、猛ダッシュ。
数秒の内に彼女の背中は、豆粒の如く小さく遠ざかって行く。男が、少女の行動に気付いたのは、彼女が一礼してから三秒後程の事。
気付いた時には、もう遅い。「あ、待ってくれ!!」、そう言う頃には、既に彼女の背中は小さくなっているどころか、適当な路地に逃げ込み、物理的にその姿を拝む事すら叶わなくなってしまっていた。

「クソ、またデカい魚を逃した!! いや、俺がどんな素性の人間なのか解ってくれただけマシか……? 頼む、疑わないで事務所の電話番号にTELを……」

「――ねぇプロデューサー? タクシーの運転手さん、待たせちゃってますよっ」

 今にも地団駄を踏んで悔しがりそうなスーツの男に対して、そんな、若い女性の声が聞こえた。
ハイティーンともローティーンとも取れる、十代の少女の声である。平時の声からして明るく、陽性のそれを感じさせる声音だった。
声のした方角に、男が顔を向けると、そこにはいた。この男、プロデューサーと呼ばれる男が面倒を見ているアイドルの一人、『多田李衣菜』が。

「李衣菜か。すまん、勝手にタクシー止めて飛び出してしまって……」

「今日は絶対遅刻出来ない打ち合わせがあるから、早めに着くようにするぞ、って言ったのプロデューサーじゃないですか。自分から遅刻するような真似してどうするのさ」

「そ、それはそうなんだが……つい、スカウトマン魂が暴走してしまってな……」

「もう。早くタクシーに戻りますよ、プロデューサー」

 「あ、あぁ」、と頼りない返事をしてから、プロデューサーはやや重い足取りで、路肩に止められたタクシーの方に歩いて行く。
逃した魚の惜しさからか、ブツブツと意味不明な小言を口ずさむ、自分のプロデューサーを見て、タクシーに向かうがてら、李衣菜は口を開いてしまった。

「……さっきの人、ですよね? プロデューサーが冬木で見たって言う、凄いアイドルの原石って」

「そうだ。一昨日、今日の仕事の準備の為に新都を動き回ってたら、偶然見かけてな。一目見て確信したよ、磨けばトップアイドルの器になれるってな」

「そうかな……? 私にはどうにもそう見えなかったけど……」

「バカ、李衣菜。俺の目に狂いはないぞ。顔も良くてスタイルも良いだけじゃない。あの娘には、人を惹きつける何かがあるし、俺はそれを感じ取った。あれを放っておくなんて、余程の節穴としか俺は思えん」

「うーん……そう言うものですかね?」

「そうだ。この人を惹きつける何かは、通常自覚が出来ないんだ。李衣菜、お前にしてもそうだぞ。お前は「ないない」、と否定するかも知れないが、お前にだってその何かがあるんだ。だから、お前は022プロでアイドルとして輝けてるんだぞ」

「まったまたー、おべっかが上手なんですからー」

 と言って本気にしない李衣菜だったが、言われて嬉しくない訳ではない。
ちょっと変化球が掛かった褒め言葉と受け取るも、プロデューサーと呼ばれるスーツの男は、「自覚がないのかこのジゴロは」、と呆れた様子を隠せてない。
二人はこの時に、タクシーへと近付いており、李衣菜を上座に座らせてから、プロデューサーもタクシーに乗り込む。
「すいません、ご迷惑をお掛けしました」、とプロデューサーは謝罪。「結構結構」と、気にした様子もなく、運転手は再び車を走らせる。時間にして四分程の、ロスであった。

「うーんだけどなぁ、気のせいかな……何だか知らないが、同一人物っぽい感じがしなかったんだよな。前に俺が横目で見た時のあの娘と、今の娘が」

「えぇ? そんな事言われても、私あれが初対面何ですから、よく解りませんよ」

「いや、前に見た時は、チラリと見ただけで解る意思の強さがあって、そこに大人物の風格を感じたんだが……。さっきの娘は何て言うのかね……人並みの悩みを抱える、等身大の女の子って感じがしたんだよな」

「ちゃんとその人の事憶えてるんですか? プロデューサー。記憶違いで、別人をスカウトしちゃったりとか」

「いや、それはない。全く同一人物だった。……まぁ、『昨日の事件』のせいで少し怖がってるだけなんだろうとは思うがな。あんな良く似た別人なんて、あり得る筈がないからな」

 『昨日の事件』。何気なく、怖がらせるでもなく、プロデューサーが口にしたその言葉に、李衣菜はビクリと反応した。
「どうした、お前も怖いか?」、と笑うプロデューサー。冗談めかして彼は口にしたつもりなのだろうが、真実その通りであった。
そう、李衣菜は怖い。彼女は知っているからだ。あの事件は聖杯戦争の関係者が起こした事件でありそして、この事件を起こした張本人とやがて接敵する可能性がある事も。
当初は、ただの事故だろうと――無理があり過ぎるが――現実逃避も出来たのだが、自分のサーヴァントがそれを許さなかった。
自分の召喚したサーヴァントであるウォッチャーは、名の通り『視る』と言う行為に対して凄まじいアドバンテージを取れる存在である。
未来視は勿論過去視だって、彼にしてみればお手の物。彼は事件現場を見た瞬間に、あの事件がサーヴァントの手によるものだと断定してしまったのだ。

 ――では、斯様な慧眼の持ち主である、多田李衣菜の引き当てたサーヴァントは、何処にいるのか?
その答えは、彼女とそのプロデューサーが乗り合わせている、個人タクシーのルーフ部分。そのサーヴァントは其処で――

「HELLO~~~~~~~~~~!! 冬木シティ!!(DJサガラ) 何だよ何だよ、随分シケて侘しい活気になっちまったじゃないの、『昨日の事件』がそんなにショックだったかよ? 吉幾三が帰った後の青森県五所川原みてーになってんゾ!!」

 ……と、ご覧の通りである。
意味の解らない狂人の戯言を、正に機関銃の如き密度と速度で喋くりまくっていた。しかも相手は李衣菜に、ではない。
このウォッチャーのサーヴァントは時折、李衣菜と二人しかいない空間においても、誰もいる筈のない『虚空』に向かって喋り出す事が多いのだ。
「ニェッヘッヘッヘ!! リーナ、お前には見えてない方が幸せかもな!! 俺の話し相手が見えちゃったら、リーナのクリトリス並に小さい心じゃぶっ壊れちまうゼ!!」
いつだったか、誰に対して話しかけているのかと言うリーナの問いかけに対して、ウォッチャーはこう答えた。全く以って、意味が解らない。

 ウォッチャーのサーヴァント――フランソワ・デュヴァリエ……いや、『バロン・サムディ』とは常々こんな調子のサーヴァントだった。
霊体化以上に高度な幻術と魔術を用い、実体化しているのにその姿を霊体化以上に認識させぬ不思議の術を使って自由に振る舞う、縛る事の不可能な男。
今だってそうだ。生と死とセックスを司るこのロアは、霊体化を行わず、自前の隠匿技術で己の気配を遮断させている。
そう、今もサムディは実体化をリアルタイムで行なっていないのだ。それにも関わらず、多くの人々が彼の姿も声も認識出来ないのは、彼の術が高度なそれの証であるからだ。
そして、こうしながら李衣菜を守りつつ、小学生でも言わないような下ネタを恥ずかしげもなく披露し、李衣菜を赤面させて楽しませていると言う、こんな調子だった。

「Heyリーナ!! もうすぐ楽しい楽しいカーニバルが始まるってのに、その辛気臭いツラはなんだい!! パパ・タケウチも言ってたろ? アイドルは笑顔が大事だ、って!!」

【た、確かに笑顔は大事なんだけど……って言うか、楽しいカーニバルって、私全然楽しくないよ!!】

「馬っ鹿、リーナお前、楽しいのはお前さんじゃなくて、このサーカスを見てるお客様が楽しいって意味だぞ!! ……いや、良く考えたら楽しいのかこの企画? ……まぁいいや、笑ってやれ!! HAHAHAHAHAHAHAHAHA!!!」

 正味の話、李衣菜はこのサムディの言っている事の意味の多くを理解出来ないし、昨日の事件がサーヴァントの手によるものだと言う事を、
彼自らに説明されても最初は全く信じる事が出来なかった。典型的な虚言癖で精神異常者。それが、ウォッチャーのサーヴァント、バロン・サムディなのだ。

 ――だが、あの時。『昨日の事件』の事を説明する時のサムディの瞳と声は、李衣菜の見て来た彼のそれとは全く趣が違った。
今でも忘れない。あのロアが見せた、陽気さの欠片もない酷薄かつ冷酷な声音と、喜悦の色を宿した瞳。
それは、いつもサムディが見せているそれとは全く違う。恐らくは、あれこそが、彼の本心なのではと錯覚させるに足る力が、あの時の姿にはあった。
きっと、李衣菜によく見せている猥雑な姿と素振りも、あの時に見せた空恐ろしい様子も、バロン・サムディと言うキャラクターの真実の面なのだろう。
どちらもが、偽らざるバロン・サムディ。李衣菜は、今も自由に振る舞う彼の事を見て、思うのだ。自分は本当に、元の世界に戻れるのか。
誰一人殺さずして、身綺麗なままで元の世界に胸を張って帰れるのかと。このサーヴァントは、苦痛と絶望が渦を巻く地獄を楽しめる狂人である。
そんなサーヴァントを相棒にして、本当に自分は、大丈夫なのか。

「イエーイ!! 蜘蛛のアナンシパイセン見てるー!? それと、『紅』と、『顔無し』!! お前らもコソコソ覗き見してるって事知ってんだからな!! ま、後でこっちの方から、アナルからひり出したラムと葉巻(うんこの暗喩ではない)持ってお邪魔するからさ、盛大にもてなしてくれよな~!!!!!!」

 全く以って、意味の解らない事を口にするサーヴァントだと認識する李衣菜。
そして、年頃の少女の前で口にするには余りにも品の欠片もない下品な言葉に、思わず李衣菜は赤面してしまう。
「どうした、李衣菜、具合でも悪いのか?」と隣のプロデューサーが心配そうな声音を掛けて来るが、「大丈夫です、ちょっと緊張してるだけ」と誤魔化す。
こんなサーヴァントを相手に、同盟を組んでくれる人物は果たして存在するのだろうかと、恥ずかしさで気が狂いそうになりながらも李衣菜は考える。

 ――男の子のサーヴァントだったら……まぁワンチャンあるかもしれないけど、女の子のサーヴァントとか絶対一緒に戦ってくれないよねこれ……――

 同性のサーヴァントだったら、下ネタとかで心が通じ合えそうな気がしなくもないが、この乙女の敵みたいなサーヴァントと、
一緒に戦ってくれる物好きな女性なんていないんだろうなぁ、と李衣菜は悩み続ける。頼むから、サムディには紳士らしさ、と言うものを学んでほしかった。

 そんな事を思っていると、遂に一同は目的地へと到達した。
「先に降りてて良いぞ」、と言うプロデューサーの言葉に素直に従い、彼が料金を支払うまで車外で待機する李衣菜。
その間、東京の丸の内や新宿にでも立っていそうな、とても大きな高層ビルを見上げ、李衣菜は嘆息した。
今から彼女は此処で、大きな仕事の話をしなければならないのだ。言ってしまえば、一足早く同年代の子供達よりも、大人の階段を大きく上るに等しい。
何週間も前から打ち合わせをし続けていた――と言う事になっているらしい――企画。それが実を結ぶと思うと、仮初の都市での出来事とは言え、やはり緊張してしまう。

 ――日本有数の、大手人材派遣会社『KING』。
この会社で新しく行われると言う、高校を卒業してすぐ働く学生向けの職業斡旋サービス。
そのサービスのキャンペーンガールとして、022プロダクションのアイドルの何人かが選ばれ、その代表として、多田李衣菜がプロデューサーと共に、このKING冬木支社にいるという社長に挨拶をしに来た。と言うのが、事のあらましなのであった。

 ◆

    ジュデッカ                               血塗られた献身     陽を堕とす者             
           流離の子                                                 
                 Dance of the Seven Veils                                          
       蓮の台                                                      ソルニゲル  

                                  革者                                   


         解放された世界          Fate/Bloody Zodiac ■■海底都市冬木          回帰の白             


                                 物語の王                                  
                      監視者                        餓狼伝                   
           アイボリー・メイデン                                     総ての乙女の敵      

                不死の罰                                                   
                         日ノ本斬殺               殺られた事にも、気付かない    破滅的終局    
                                 久遠の赤                                  
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 ZONE13――『陽を堕とす者』

 KING、と言えば日本でも有数の大手人材派遣会社として、その名を轟かせている一大企業であった。
本業である人材派遣サービスや販促サービスは元より、最近ではブライダルや育児関係などの各種情報誌を発刊していたり、
住宅情報や飲食店、海外旅行についての検索・予約サービスなども行っていたりと、手広く会社を運営し、その全てに一定の利益を上げている、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの企業だ。

 KING、と言えば大手である以上にもう一つ、とても有名な事実が一つある。それは、代表取締役である男が、極めて若い人物である、と言う事だ。
ただ若いだけなら、ここまで話題にならない。そこに、金髪碧眼の美男子であり、ギリシャの彫像の黄金比さながらの、
肉体美の理想(イデア)そのものの如き完成された肉体の持ち主である、と言う事実が加われば、それは有名になるのもむべなるかなと言う物だった。

 富、名声、権力。その全てを男は、最高に近しいレベルで持ち合わせていた。
高層ビルの上階から冬木の街を眺めてみると、この街の全てが自分の物になったと言う錯覚すら覚える。
核の焔によって破壊された虚しい街並みではない。男の眼下に広がっているのは、人間達が経済活動を確かに行い、各々の生活を送っている生きた街なのである。

 ――こんな街なら、ユリアも……――

 自棄を起こさなかったのだろうかと、KINGの代表取締役――『シン』は考え、そして、その考えを脳内から排除した。
街が綺麗だとか、富があるからだとか言って靡く女では、ユリアはなかった。雑草の一本も生えていない崖(きりぎし)に咲く一厘の百合の如き気高さを誇る女。
それが、ユリアと言う女だった。だからこそケンシロウも、そしてシンも彼女を愛した。そんな女を、シンは自分なりのやり方で振り向かせようとした。
世紀末の世界において残っていた方が奇跡とすら呼べる程の、純白のドレス、大ぶりの宝石が輝くサークレットにリング、ネックレスで気を引こうとした。
ユリアの意思一つで思いのままに動く軍隊も、彼女が女王としての権威を発揮出来る都市も、シンは与えた。全ては、ユリアの為だった。

 だが、ユリアの心は変わらなかった。
自分の為に殺戮を繰り返すシンに、まるで憐れむかの如き言葉を投げた後、彼女はシンの居城から身を投げ、欲望を由とするシンの支配から解放されようとした。
そして、シンは――世紀末の世界を生き抜くだけの力を最高に近しいレベルで持ち合わせていた男は、己の道化(ピエロ)振りを初めて知った。
ユリアの為に動いていた時間の全ては、彼女の決意に満ちた行動が終わるまでのたった数秒の時間で帳消しになってしまった。
シンに残されたのは、自分に忠誠を誓う軍隊とそのトップの地位と言う権力、略奪の果てに得た富、KINGの主と言う名声。
その全てが、果てしないまでの空虚をシンに与えていた。得た物が大きければ大きい程、その分だけ、この強者の心に空白と空隙を約束する。
これら全部がユリアの為に用意した物である、と言う事実を認識すればする程に、シンの心の中に寒い風が飄々と吹き荒ぶのである。

 命を奪い、富を奪い、食を奪い。そして、愛と心を奪い損ねた哀れなピエロ。それが、シンと言う男であった。
元居た世界での因果応報を味わえとでも言わんばかりに、この冬木に於いてシンに用意された境遇は、元の世紀末のそれと似通っていた。
富もあり、名声もあり、権力もある。何一つ、この冬木で生きる上でシンを不自由にさせる要素などない。だがやはり――ユリアの姿はこの世界にもない。
平穏で、平和な世界でこそ美しいあの女性は、この世界で咲き誇る事もない。シンはこの世界でも、ユリアの為に殉じる事が出来ぬのだ。

 その上――この世界の平和は、世紀末の世界でこそ己の獣性と欲望、暴力を解放できるシンと言う男にとっては、毒そのものだった。
余りにも、生き辛い。平和の中で、己の心と身体が蝕まれていく感覚すら、シンは憶えていた。
戦いになれすぎた兵士は、戦場よりも寧ろ、戦場とは無縁の平和な日常の中で精神に異常を来たさせて行くと言うが、その気持ちをシンは痛い程理解している。
ユリアのいない平和な世界は、シンと言う強者の心を蝕むには、余りにも大き過ぎる威力を発揮していた。正にこれこそが、元の世界での応報そのものであった。

「……腑抜けた街よ」

 磨き上げられたガラス窓から見下ろせる冬木市を眺め、シンは唾棄する。
こんな街を有り難がるのは、あの小賢しい妖星の男位のものであろう。シンにとってはこんな街、如何程の価値もない。
元居た世界で彼が率いていた暴力組織を、大規模の会社組織に置換した物――尤も冬木でのそれは完全にクリーンなそれだが――、そのトップがシンである。
事もあろうに社名まで、元居た世界と同じ『KING』と来た。此処までシンの神経を逆撫でする程の皮肉を立て続けに用意する等、余程聖杯戦争の運営とやらは、己の南斗の拳で八つ裂きにされたいと見えるとシンは常々考える。

 シンは、この会社が嫌いだった。
南斗孤鷲拳の修行は、厳しくはあったが嫌いではなかった。自分が強くなっていると言う実感が、日を重ねるごとに得られたからだ。
あの血の滲むような修行の日々よりも、この会社に出社する事が苦痛なのだ。だからシンは、己が居城と認める深山町の町外れに存在する廃洋館で、
『時』が満ちるのを待っていたのだ。その意を曲げてまで、この会社に珍しく出社した理由はシンプルである。
風の噂で聞いた、昨日起こった恐るべき事件。その全貌を知るべく、我が意を曲げてまでこうして出社したと言う訳である。

 シン程の男の興味を引く事は、並大抵の事ではない。目の前で爆弾が炸裂したとて、この男は眉一つ動かす事はなく、その心に波一つ起こさせる事は叶わぬだろう。
――だが、サーヴァントが起こしたとされる騒動が自分の知らぬ所で起っていた、となれば話は別。
シンは、己の願いの為に聖杯を欲している。他の全てのサーヴァント、全てのマスターを下してまで叶えたい神聖な願いを秘めている。
有象無象のマスター如きであれば、シン一人で真正面からでも叩き潰せるが、超常の存在、神話の英傑、御伽噺の住民であるサーヴァントを従えていると言うのなら話は別。
全霊を以って、勝つ為の手段を模索せねばならない。その為には情報は必要不可欠。先ず間違いなく、『昨日の事件』はサーヴァントの手による物だ。
この情報を集める為に、こうしてKINGの支社に姿を見せた。シンの姿は市井の中では目立つ。その容姿と、発散される気風のせいである事は言うまでもない。
今現在、KINGの屋上に、己の召喚したアーチャーを待機させ、冬木市全土をその千里眼で監視。この時、アーチャーが見たものを、シンの視覚と同期させ、
情報を共有させると言う手法を行っているが、結果の方は芳しくない。どうやら、戦闘が得意なサーヴァントもいるなら、暗殺拳の基本である気配の隠匿を得意とするサーヴァントもいるようである。そのどちらも得意である、と言う可能性もゼロではない。兎に角、嫌な思いをしてまで出社していると言うのに、思いの外収穫がない。シンとしては、腹ただしいとしか言いようがないのであった。

【焦れているのか?】

 恬淡とした精神が透けて見えるような声音だった。
人によっては冷淡に聞こえるだろうが、シンにとってそのサーヴァントの声は、無私が極まり過ぎたが故に、感情の総量が虫と同じ程度にしかなくなった人物、
としか聞こえなかった。欲を由とする自分のそれとは違い、余りにも声音に覇気も熱もない。だが――強い。枯木を思わせるその声音には、シンですら畏怖する程の力があった。
枯木に強さが宿るなど、矛盾しているとしか思えないだろう。だが、その矛盾が現実になる程に、シンに従うサーヴァントは『強い』。
当たり前だ。南斗の拳とは元来中国で興った拳法に由来する。シンも嘗ては拳法を学ぶと同時に、己の南斗孤鷲拳と、それが包含されている南斗聖拳の歴史を学んだ事がある。
必然的に、中国の歴史・伝承・神話についてもある程度は学ぶ機会があったという事。ならば、知らない訳がない。
中国の神話において太陽の化身、いや太陽そのものたる焔の鳳(おおとり)を撃ち落としただけでなく、中国全土に禍を成していた様々な怪物を退治した大英雄。

 ――『ゲイ』。
それが、シンの召喚したサーヴァントである。北斗神拳の伝承者は時に神の化身とすら謳われる事があるが、シンに頭を垂れているこのアーチャーは、
正真正銘の神そのもの。尤も、伝承において彼は既に神性を失ったとされ、それはサーヴァントの身の上となった今でも同じであるらしいが。どちらにしても、この弓兵が例え神として聖性を失ったとしても、万夫不当の大英雄であると言う事実には一切の異論の余地がない。シンですら、口ではゲイにKINGと呼べと言ったものの、その英雄性に疑いを持ってなどいない程と言えば、どれ程のものか知れようと言うものだった。

【この程度で焦れる俺ではないわ】

 南斗六聖拳程に拳格の高い流派を習得するには、肉体面・武術面での天賦の才覚は勿論の事、精神性においても超人であるか否かが求められる。
いつ殺されるか解らない、動けば此方が殺されると言う極限状態の最中に在って、平常心を保て、擦り減らない程の強度の精神を保有しているか否かは、最大の指針の一つ。
敵が見つからないからと言って、動じたり焦燥したりする程シンの精神力は未熟なものではない。此処は、ゲイの索敵が成功するのを堂々と待つ時である。シンは、そう考えていた。

【そうか。要らぬ心配をしてしまったな。すまない】

【不要な言葉だ。アーチャー、お前は早く敵を探すが良い】

【心得た】

 其処で、二名の会話は途切れた。 
二人の会話は、いつもこうだった。サーヴァントとマスター、と言う、一蓮托生、運命共同体にも等しい間柄であっても、交わされる言葉は必要最小限。
まともに会話が続いていた時期は、召喚された時のみだけだと現状では換言しても良い。だがそれは、二人の関係に亀裂が走ったとか、仲違いを起こしているとか。
そう言う事を意味しない。極めて短い、最悪、単語のみの会話だけでコミュニケーションが図れると言った方が、この場合は正しい。
目まぐるしく戦局が変わる事が予想される聖杯戦争。マクロ的な目線で見てもそうなのだ。ミクロ的、つまり、個々人間での戦いであれば、有利不利の趨勢は目まぐるしく変わるであろう。そんな時に、極短い言葉で意思疎通が出来ると言うのは、とても大きいアドバンテージだ。この短期間で、此処までの関係を築き上げられる。この主従が戦闘と言う概念について、とても高い理解度を誇っている事の何よりの証でもあった。

 瞳を瞑り、ゲイの報告を待つシン。
やっている事は、禅の修行に近い。いる事すら御免蒙る空間であるが、こうして瞳を閉じ、精神を集中していると、時間が経つのが早く感じるのだ。
孤鷲拳、と言うより、北斗・南斗で共通して行われる、精神鍛錬の修練がこう言った形で役に立つ日が来るとは、流石のシンも思っていなかった。
ゲイの報告を待っていた、その時である。念話ではなく、確かにシンの耳に、コンコン、と言う音が聞こえて来た。彼の居る部屋に通じるドアを、ノックする音であった。

「……入れ」

 心底不機嫌そうに、シンが口にする。
閉じた瞼がゆっくりと開かれると同時に、ドアが開かれる。「し、失礼します」、と。委縮した様子で、力士めいた体格の男が部屋に入って来た。
このような仕事では御法度の髪型、つまり、頭を丸刈りにした、一見すれば肥満体(デブ)としか見られぬ様な身体つきの持ち主。
そんな男が、仕立ての良いヘリンボーンのスーツを着こなしていると言うのだから、驚きと言う物である。
この、ハンプティ・ダンプティを厳めしくしたような男を、シンは知っている。知らない筈がなかった。
体格こそ、世紀末の世界で生きていた頃に比べて若干常識的な範囲にまで落ち着いているが、この男は元居た世界のKINGと言う組織における、事実上シンに次ぐNO2。
本名こそ忘れたが、シンやKINGの構成員が『ハート』と呼んでいた男である。この世界においては、株式会社KINGにおける四人の大役員の内の一人に数えられていると言う。
世界観が違えば、此処まで人は変わるらしい。だが流石に、此処まで変わってしまうと、シンとしても驚きを隠せない。見知った人物がゴロツキやならず者稼業から足を洗い、それどころか立派な仕事に勤めているのを見るのは、何とも不思議な気持ちになる。

「何の用だ、ハート」

「え、えぇ。今日はかねてから計画していた、我が社の高校を卒業してすぐの子供向けの就職斡旋サービスのキャンペーンガールの子と、そのプロデューサー様と打ち合わせをしていたのですが……。本日は珍しく社長(KING)が御出社しておりましたので、私の独断で紹介をしておこうかと……」

「下らん。俺は忙しい。三十秒程でその紹介を済ませろ。いるのだろう、貴様の後ろにその女が」

 幾らシンの方が目上の人物であり、彼とハートとの関係が上司と部下のそれであるとは言え、この居丈高な態度は余りにも酷いと思われよう。
だが、それがサマになっている。社員のだれもが、シンのこの態度に疑問を憶える者はない。魚が水の中を泳ぐのを見て、鳥が空を飛ぶのを見て、変だと思う人はいない。
それと同じように人は、シンのこの態度が彼の常態であると錯覚してしまうのだ。彼の容姿と、放たれる威風。これが、異議と疑問を封殺する。
株主ですらが、シンのこの態度を認め、許容している程と言えば、どれ程この男が会社内で認められているのか窺えよう。

 シンの言葉を受け、慌ててハートが、部屋の外に待機させていた二名の人物。
即ち、キャンペーンガールを担当する少女と、彼女の面倒を見ているスーツの男に声をかけ、急いで入室させる。
「失礼しますっ」、少女の方は、やや声が裏返っている。緊張の為もあろうが、間近でシンの姿を見て、呆気にとられ、威圧されていると言う事実も大きい。
つまらぬ人間だと、シンは即座に看破した。男も女も、覇気と執念と言うものを感じられない。世紀末ではない、ぬるま湯のような現世であれば、どこででも見られるような人種。シンが関わる事すら嫌な人間達であった。

「わ、私、022プロダクションに所属していただ、おります、多田李衣菜と申します!! よ、宜しくお願いします!!」

 勢いよく一礼する李衣菜。彼女の礼の後に、経験を積んだ社会人らしい、ゆっくりとして落ち着いた言葉遣いで一礼する、李衣菜のプロデューサー。
少女の方は、余り敬語の方も使い慣れていないらしい。平素の言葉遣いが知れようと言う物だ。この上言葉も噛み噛みと言う、アイドルらしからぬ滑舌。先行きが不安になる。
とは言え、敬語を使えるだけマシだと思う程度には、言葉遣いに対するハードルはシンは低い。何せ彼の部下の殆どが、およそ教育を受けた事があるのかすら危うい程のならず者ばかりであった。今更、間違った敬語で目くじらを立てる程、気の短い男ではシンはなかった。

「覇気が足りん、執念が足りん。そして――成り上がりたいと言う欲望を感じぬ。屑星のままで終わる器だな、今のままでは」

 李衣菜とプロデューサーを一瞥し、三秒程時間が経過した所で、シンが口にした。人と言うよりも、器物に対して語りかけているような口ぶりであった。
大上段に過ぎる態度と語り口。噂は冗談か、尾鰭が付いて大げさになったものであると認識していたようである。しかし、此処にきて二名は認識したようだ。
シンと言う男の態度の大きさ、と言うものを。余りにも噂通りの立ち居振る舞いであった為に、怒るよりも如何やら、呆気にとられてしまったようである。

「顔は憶えた。ハート。下がらせろ」

「は、はい!! すいません、李衣菜さん、プロデューサー様。それでは先程の部屋までご案内致します」

 バツが悪そうにハートは二名に声をかけ、いそいそとシンの部屋から彼らを退室させる。
ハートが部屋から出て行く際、彼は目配せでシンに会釈をしては見たが、シンはこれを無視した。これが本当にあのハートなのか、と、シンはつくづく疑問であった。

【……助言をするとは、正直な所、意表を突かれた。そんな事をする性格だったか? KINGよ】

 全くだ、とシンは思う。
昔の彼であれば、誰かを助ける様な言葉など、一句たりとも与えはしなかったろう。あの言葉は、シンなりに遠回しに語ったアドバイスの一つであったのだ。
ユリアとの別れ、ケンシロウとの一戦、そして、この世界に蔓延する平和と言う名の毒は、確実にシンと言う強者に影響を与えていた。

 平和と言うのはいつだって、ある日突然崩れ去るものである。
元居た世界でもそうだった。世紀末の訪れは、豚と揶揄される程醜く肥え上がった権力者達の戯れによって押された核のボタンによって引き起こされた。
この世界でも、そうだ。聖杯戦争と言う、シンですらが未だにその存在を疑問に覚える程の戦い。その火蓋は、『昨日の事件』によってもう切って落とされている。
慎ましやかにこの世界に生き、平和を謳歌している人間達にとって、聖杯戦争の開催などたまった物ではなかろう。
命と時間を削って手に入れた財産、積み上げて来た友や家族との信頼や絆。その全てを失いかねない機会の到来を意味するのであるから、これは当たり前だ。
だが――その機会と、その機会によって平和が蹂躙されるその瞬間にこそ、シンはその力を発揮する。
シンがその力を発揮出来る理由は、南斗の拳を学んだが故に獲得した強さからではない。世紀末を味わったと言う確かな実績から来る『経験』だ。
この経験は時に、『戦闘に強い』と言う事よりも時に重要な意味を持つ。シンは、聖杯戦争が招く極限状況に強いと言う自負を持っている。
ならばこの戦い。シンと、彼に従うアーチャーたるゲイに、負けなどある筈がなかった。シンは堅くそう考えていた。

「ユリア。もう少し待っていろ。今だけだ。今暫く辛抱すれば――」

 お前は、自由だ。シンは、小さくそう呟いた。
シンが勝てば、ユリアの身体を蝕む、核の灰の影響を少なからず受けた死の病、その苦しみから彼女を解放させる事が出来る。
病が癒えたら、何処にでも飛ぶが良い。何処にでも咲くが良い。好きな男を愛するが良い。そして、人を殺した病を癒させた自分を、軽蔑するが良い。
例え彼女が、シンに一かけらの感謝の気持ちを抱かなくとも、関係ない。愛に殉じる星、故に殉星。
その星の下に生まれたシンは、今まさにその宿星の定めに従い、孤独の戦いに身を投げようとしていた。

【……小細工を謀ろうとしている蜘蛛を、その千里眼で見つけたら、構わん。撃ち抜いてしまえ】

【了解した】

 自分がこれから往こうとする、無限の荒野を夢想しながら、シンは瞼をゆっくり落した。
瞳に墨が塗られたように、彼の視界が闇に染まる。その闇の視界に光が満ちる。千里眼を持つアーチャーの見ているものと、シンの視界が同期した為である。
ゲイはしっかりとシンに命令された通り、冬木市全土をその千里眼で具に監視しているらしい。今ゲイは、ここKING支社から遠く数㎞程も離れた、
冬木教会の方を見ているらしい。小高い丘の上を歩く少女と、その隣を歩く男性以外、珍しい物は見られない。ゲイは目線を外し、別の方向を見やった。
教会に向かう人を見て、シンは、人とは危機に陥った時神に祈る生物であった事を、今更ながらに思い出した。世紀末の世界では、祈りを聞き届ける神など、何処にもいなかったが故に、すっかり頭からその事が抜け落ちていたのである。

 ◆

    ジュデッカ                               血塗られた献身                        
           流離の子                                                 
                 Dance of the Seven Veils                                          
       蓮の台                                                      ソルニゲル  

                                  革者                                   


         解放された世界          Fate/Bloody Zodiac ■■海底都市冬木          回帰の白             


                                 物語の王                                  
                      監視者                        餓狼伝                   
           アイボリー・メイデン                                     総ての乙女の敵      

                不死の罰                                                   
                         日ノ本斬殺               殺られた事にも、気付かない    破滅的終局    
                                 久遠の赤                                  
 ◆

 ZONE14――『監視者』

「見られてますね」

 立ち止まり、辺りを見回してから、フロックコートの美青年は言った。
目が覚める程の美男子、とは正に彼の為に存在し、また、彼の為に作られた言葉なのだと言われても、人は疑う事はないだろう。
艶やかに輝く灰色の髪、柔和な光を讃える透徹とした瞳、薄い微笑みを浮かべる甘めのマスク。そして何よりも、その顔立ちに恥じぬ、高い身長と、均整の取れた身体つき。
男性美と言うものの黄金比。美と雄々しさの、完全なる調和の形。およそそうとしか見られぬ程に、男は、完璧であった。その麗しい姿は愚か、その立ち居振る舞いですらも、この男は、非の打ちどころのない紳士のそれであった。

「――? どなたに、ですか?」

 男の言葉を受けて、彼の前を歩いていた女性が立ち止まり、こちらを見やった。
良く手入れされたブロンドの髪が特徴的な、貞淑そうな女性だ。言葉遣いと気風から、物腰柔らかな印象を見る者に与える。
綺麗な女性ではある。いや、同じ年代の女性と比較した場合、頭一つ抜けた可憐さであるとすら言っても良い。
だが、一緒にいた相手が悪かった。目の前の男は、女性――『クラリス』の愛くるしさが霞んで見える程の、美の持ち主。彼の美しさは、性別の違いすらも超えるのだ。
差し詰め今のクラリスは、太陽の輝きと比較される電球のようなもの。男の美に、彼女自身の美が併呑されてしまう形になっているのだ。何とも、哀れな物であった。

「サーヴァントに、ですよ」

 ――自分が呼び寄せたアーチャーのサーヴァント、『アザゼル』の言葉の意味を理解するのに、数秒の時間をクラリスは要した。
そして、その意味を理解した瞬間、クラリスの顔から血の気が引いて行く。水色の絵の具を刷毛で一塗りした様に、彼女の顔は青褪めて行き、辺りを見渡し始めた。

「此処にはおりません。遠方からの窃視を得意とする者がおるのでしょう。少なくとも、クラリス。貴女の目で見える範囲には敵はいません」

「それでは、何故貴方には、私達が見られていると?」

「監視者の中の監視者たる私が、他者から見られていると言う事実を見誤るとでも? 既にその称号は過去のものになったとは言え、見られていると言う事柄には敏感なのですよ」

 何ともアザゼルの説明は暴論極まりないが、それに不可解なまでの説得力が内在されていると言うのだから、クラリスとしては困りものだ。
エグリゴリ。クラリスは嘗て、堕天前のアザゼルが属していたと言われる一団の事について調べていた。
遥かな天の高見より、人間の営みを監視する天使の一派。成程、そう言った存在の首魁であるアザゼルであれば、誰かに見られていると言う事について人一番敏感なのも、納得は行く。

 ――と、言うよりも、クラリスはアザゼルが保有する、目線に対する超知覚能力については一切の疑いを抱いていない。
以前彼が見つけ、捕獲、そして破壊した、クラリスの目では捉える事すら出来ない程小さい、『虫型の機械』。
アザゼルは、クラリスの回りを飛翔するこの虫の機械を視認し、一方的に破壊した事があったのである。用途は、彼の持つ神域の叡智と呼ばれるスキルで、
機械学の知識を会得、それによって解析した所、人々の『監視』の為にあれは作成されたのだそうだ。アザゼルが気付かなかったら、クラリスのプライベートは勿論の事、
聖杯戦争についての考えですら、この機械を放った人間には筒抜けだったと思うと、ゾッとしない話だった。
こんな悪趣味な用途と、デザインのマシン、通常の人間にはまず作成出来ない。クラリスもアザゼルも同じ認識だ。
間違いなく、聖杯戦争の関係者の手による物、と見るべきだろう。戦いは、もう始まっている。その事をクラリスは、あの時嫌でも認識させられてしまった。
だからこそ、アザゼルの先の言葉に、クラリスは青褪めたのである。虫の機械を彼が見つけた日から、一日しか経過していない。
休む間もなく、超常の力を持った恐るべきサーヴァントの魔の手に晒される事を思うと、クラリスだって恐ろしくもなる。しかもアザゼルは明白に、サーヴァントに見られていると宣言した。恐怖はより一層、と言う物だ。

「御心配なく、クラリス。私は貴女のサーヴァント、その事を忘れた時はただの一瞬とて御座いません。貴女に迫る万難は、この私が全霊を以って排除致しましょう」

 「――それが」

「クラリス、貴女が傷一つ負う事無く、汚れ一つ受けず元の世界に戻る事が出来て。そして、私が理想とする神と悪魔から脱却された世界の成就に至る術だと信じているが故に」

 アザゼル。
地上に住まう人間を監視する者達の長でありながら、人間の女性の色香に負け、彼らに化粧と武器の作り方を教え、人の世の風俗を大いに潰乱させた者。
そして、地上の人間と地上の罪とを洗い流す為に神が起こしたあの大洪水が、その原因が彼なのだと言う。
そんな結果だけを見れば、この男は正に、神の教えを信奉する者にとっては不倶戴天の仇敵。憎んでも憎み切れない程の悪魔であり、この世の悪徳の長とも言うべき黒幕なのであろう。

 だが、クラリスから見たアザゼルとは、紳士の鑑のような男だった。
その物腰と言葉遣いの柔かさ、クラリスに対する態度、その在り方。クラリスは今の今まで、アザゼル以上の紳士など見た事も、聞いた事もなかった。
悪魔の中の悪魔、地獄に於いてはルシファーに次ぐ悪霊の統領。そんな異名は、後世の人間のでっち上げとしか思えぬ程、彼の在り方も性格も、『善』なるもののそれなのだ。
人を愛し、人を慈しみ、人を叱り、人の業を本気で嘆く。アザゼルは人間に対して本当の父性愛を抱いており、そして、本気で彼らの未来を考えている。そんな彼の何処に、悪性と言うものが宿り、そんな彼の何処に、悪魔と呼ばれる所以があるのだろうか。

 ……但し、それら全ては、『人』に対してのみ向けられる。
アザゼルの真の願いとは、この地球上に生きる全ての人間の記憶から、ありとあらゆる神霊、ありとあらゆる悪魔、ありとあらゆる霊的存在、及び超常存在。
その記憶の全てを忘却させ、その上で、強く逞しく今の世界を生きていて欲しいというもの。つまりは、信仰の放棄させるに等しい。
人は最早、神や悪魔に縋るまでもなく、地上を生きる術を磨き上げ、洗練させた。それにもかかわらず、人は今も神を信じ、不条理を悪魔のせいにし、
信仰の解釈の違いから世に争いの種を撒き続ける。それが、アザゼルには許せなかった。嘗て地上を支配していた、神の教えと支配の名残。
世界の裏側に隠れて久しい、神々達の傍迷惑な残滓。アザゼルにとって、今の地上に息づく、神や悪魔、妖精や妖怪の伝承とはこう見えているらしい。
そう、アザゼルは、神や悪魔、及び、幻想や御伽噺の中の住民にとって、一切の慈悲も慈愛も抱いていなかった。淡々と、滅ぼすだけの存在。こうとしか見ていない。
地上の人類の平穏の為、彼らに死を与えようとする存在。これこそが、アザゼルと言うサーヴァントの本質だ。そしてこれこそが、クラリスが受け入れたくても受け入れられない、アザゼルの側面の一つだった。

「どうあっても、アーチャーさん。この世から信仰を消滅させる、と?」

 敬虔なクリスチャンであるクラリスではあるが、神と、その子供であるキリスト、そして、神の分身である聖霊だけが、生きる縁(よすが)や寄る辺ではないと考えている。
偶像でも、歌でも、器物でも。それを信じている事で、生きる活力となるものがあるのならば、それを信じていれば良いのだと、クラリスは思う。
だがアーチャーは、その信じる事で生きる力となるもの・概念の中で、最も大きな影響力を持つ『信仰』を、人の独立の為のなかった事にすると言うのだ。
神を信じる身であり、神を信じる事で得られる心の安息に意義を見出しているクラリスに、アザゼルの願いは許容出来る筈がなかった。

「我が理想に曇りなし。然るに、その決意に迷いなし。神の張った信仰と言う名の蜘蛛の巣――それに捕らえられた人と言う名の蝶は今こそ、この巣から解放される時が来たのです」

 「そして――それが人に出来ぬ程重く苦しい使命であると言うのなら」、其処で、アザゼルは、柔和な微笑みを湛えた美しい顔を、クラリスの方に向けて、言った。

「嘗て人間達に生きる術を教え、一度は人類を浄化させてしまった者の責務として。彼らの代わりに使命を達成せねばなりますまい?」

 ――嗚呼、と、クラリスは思った。
やはり、クラリスはこの紳士の事が嫌いだった。自分の理想しか、この男には見えていない。
人類への限りない父性愛と、嘗て人類に齎してしまった破滅を見てしまった事への負い目。アザゼルが、人類から信仰を消そうとするその理由は、これに収斂されるのだろう。
身勝手だ、とクラリスは思った。彼の言う通り、最早神は人類の手を離れ、天使も既に人の世から隠れてしまったのかも知れない。
だが、だからと言って世界から信仰の光を消して良い理由にはならないのだ。これを生きる糧とし、そして、生きる為の支えとして、依拠している人間が確かにいる。
アザゼルは、信仰に縋る事でしか生きられない人間の姿が見えていながら、彼らが信仰から自立する事を願っている。彼らから拠り所を消してしまえば、どうなるか。
それが解らぬアザゼルではない筈なのに、彼は、人間の可能性と言うものを無限大に信じている。自分の理想しか、この男には見えていない。

 紳士であろう、アザゼルは。その外面だけを見たのなら。
だが、その内面にはやはり、男の誰もが大なり小なり抱いている強い欲望や野望が渦巻いてしまっているのだ。
アザゼルの場合は、それが聖なる物であるから、一目でそれと解らせないのである。そして、自分の理想が人類にとって一から十まで為になるものだと狂信している。
美青年の身体に、紳士の精神(こころ)。そして、歴史上に名を刻んだ支配者達の誰もが有していたであろう、果てなき野心を抱いたサーヴァント。それこそが、アーチャー・アザゼルなのだった。

「そう、ですか……」

 クラリスには、もう何も言えない。
アザゼルは確かに、個人的には嫌いなサーヴァントだ。だが、この男を頼らねば、自分はこの世界で殺されてしまう。
そして皮肉な事に、この堕天使はクラリスと言うマスターを守ると言う誓いに一切の嘘を交えていない。聖杯が欲しいと言えば、これに願いを掛ける事も良しとするのだろう。
一番頼りたくない相手が、その実一番頼もしく、そして、頼りにしなければならない存在。己が心に芽吹く葛藤に、クラリスは苦しんだ。
自分がクリスチャンでなければ、きっとアザゼルの願いもすんなりと飲み下し、肯定する事が出来たのだろう。これもまた、アザゼルの言う『信仰と言う蜘蛛の巣』による弊害なのだろうか。そうだとしても、クラリスにはこの蜘蛛の巣を捨て去る気はないが。

 浮かぬ気持ちのまま、クラリスは冬木教会へと続く丘を登って行く。
この場所に来ると、アザゼルは珍しく良い顔をしない。それはそうだろう、余りにもアザゼルの主張と神の家たる教会の存在意義は相反するそれなのだから。
それにクラリス自体、この教会に足を運ぶ意味はそもそもない。何故ならば今の彼女のロールとは、冬木教会に身を置くシスターと言う訳ではない。
この冬木市に仕事で訪れている、022プロダクションと言う芸能事務所に所属しているアイドルなのだ。それにも関わらず何故、彼女が此処に足繁く通っているのか。
それは彼女が、シスターであるからに他ならない。同じ神と教義を信じる者が集う場所。クラリスはそれが近くにあると、つい足を運んでしまうのだ。
そして、つい教会の雑務を、手伝う義務もないのに手伝ってしまう。クラリスとはそう言う人物だった。アザゼルを召喚してしまったのは、その雑務が夜中まで長引いてしまった日の出来事であった。

 教会までの道のりをクラリスは、シャトルランを終えた後のように重く、鈍くなってしまった足取りで向かって行く。
『昨日の事件』の事もある。じきに聖杯戦争が始まってしまうと言うのはアザゼルの言であり、クラリス自身もそう思う。それを思うと、気分が晴れない。
そんな顔のまま、教会に入ろうとするクラリスであったが、彼女がその扉を開けるよりも前に、冬木教会の礼拝堂へと続く扉が開かれた。
清浄さと森厳さで満ち満ちていると、クラリスですら思った冬木の教会。その雰囲気に似つかわしくない、金髪の男が、クラリスの視界に飛び込んでくる。
面白くなさそうな顔付きで、男は、クラリスと、アザゼルを一瞥。アザゼルの美貌に一瞬呑まれ、目を見開かせたが、それだけ。
後は両者を一顧だにせず、足早に彼女達の横を通り過ぎて行った。身体から香る煙草の臭い、顔に刻まれた傷痕。神の家には相応しくない、反社会的な臭いを感じさせる男だった。堅気の者では、先ずないだろう。

 ――あんな人でも、信仰を求めている――

 正業ではない人間でも、神の愛を求め、神の懐に憧憬を抱く。そして、己の罪を告白し、真面目に生きると神に誓う。
何て、素晴らしい事なのだろうとクラリスは改めて思った。これこそが、信仰をこの世から消してはならない事の証左ではないかと、そんな表情でアザゼルを彼女は見やった。
だが、アザゼルの興味は、彼女にはなく。今しがた通り過ぎて行った、タバコの臭いを香らせる男の方に、向けられていたのであった。

 ◆

    ジュデッカ                               血塗られた献身                        
           流離の子                                                 
                 Dance of the Seven Veils                                          
       蓮の台                                                      ソルニゲル  

                                  革者                                   


         解放された世界          Fate/Bloody Zodiac ■■海底都市冬木          回帰の白             


                                 物語の王                                  
                                                 餓狼伝                   
           アイボリー・メイデン                                     総ての乙女の敵      

                不死の罰                                                   
                         日ノ本斬殺               殺られた事にも、気付かない    破滅的終局    
                                 久遠の赤                                  
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 ZONE15――『アイボリー・メイデン』

 神を信じる訳じゃぁねぇ――『ヤバい時にはいつも神を拝み倒してる!!』。
奇跡を願う訳でもねぇ――『起って欲しいもんだな、ミラクルが!!』。
ただ、あの丘の上からだと、『昨日の事件』の様相がよく見えそうで、んで、偶然その位置に教会があって。それが物珍しかったから、俺は入っただけだ。

 この丘の上からじゃ、『昨日の事件』の現場がよく見えなかった――『よーく見えたぜ!!』。
そりゃそうだろうと、登りきってから気付いたんだから間抜けな話だ。丘より高いビルや、事件現場を囲むように建物が建てられてるんだったら、見られる筈がねぇ。
収穫ゼロじゃ癪だってーんで、俺は教会の中に足を踏み入れた。まぁ、言った通り、物珍しさ、ってのもある。だがそれ以上に――この教会、『臭い』。
悪党(ヴィラン)としての直感が告げている。この教会、まともじゃぁねぇ――『何処から見てもふっつーのチャーチだろ!!』
チープなドラマや映画、オーバーに物事を表現したがるコミックやゲームの中でよく見られるような、麗しく豪勢なその内装は、
本当に清貧を旨とする宗教の教義に則って建てられたそれなのかと疑っちまう。まぁ、普段は見られない物だったから、見てて少しは面白かったけどよ。

 ――この場に、御用でもおありかな?――

 ――コイツだ。俺は思った。
どんな香水(コロン)を付けてんのか。場末のバーで残りの人生を浪費するだけのババアですら付けないような、甘い匂いのする香水めいた香りを漂わせる、初老の神父。
この教会が臭うんじゃない。こいつ一人が、臭いんだ――『良い香水つけてんじゃねーか』。

 およそ、教育と呼べるものをまともに聞いた事がない……ぶっちゃけて言えば、学もねぇ。
そんな俺でも、こう言う事だけは直感で解るんだな。悪党って奴は、臭いと雰囲気で解っちまう――『神父様だろ、良い奴に決まってる!!』。
科学とか論理とかじゃない。そう言う物なんだ。ヴィランは、誰がヴィランであるのかが一目で解っちまう。引かれ合う、って言う表現も、まぁ間違いじゃない。

 ヴィランどころかヒーローと言う概念すらアニメやコミックの中でのお話なのは勿論の事、『個性』ですらが存在しないこの世界。
建てられている建物、街並み、道路の様子。何から何まで、俺のいた世界とそっくりで、鏡写しだと言っても良い程なのに、この点だけが大いに異なる。
ハッキリ言ってこの世界での俺は、完全な除け者、爪弾きだった――『馬鹿言え、人気たっぷしだろ』!!
今や個性と呼ばれる力を持っているのはこの世界じゃ俺一人。それ以外の全員が、俺の世界で言う所の無個性だ。こうなって来ると、イレギュラーなのはこの世界で俺だけだ。
一人ってのは慣れてるが、個性と言う元居た世界での当たり前すらが存在しねーとなると、孤独って奴を嫌でも感じちまう。
この世界の悪党って奴は、レベルが低すぎる。俺はこの世界に来てから、悪事の一つも犯してない。ヴィランの名が廃って行くのを実感する。
個性もヒーローも存在しないせいで、善と悪についての哲学って奴がどいつもこいつも未成熟、全然成熟しきってない。
個性もないもんだから、この世界で悪党って奴が犯す犯罪の殆どが、けち臭い、自分の生活の為だけに行う犯罪。
俺も正直そう言う、自分の為だけに行う悪事って奴の方が多いんだが、この世界の悪党共のそれは輪を掛けて悪事のレベル――規模や手口って奴が未熟だ。
つるむ気も、起きやしない――『一緒が良い』。この世界で悪事を珍しく働いてないのは、まぁとどのつまり、この世界の悪党共があんまりにも情けないからな訳だ。

 ……だが。
あの神父、みてーな奴は違う。俺達みてーな粗野な言葉遣いの対極にあるような落ち着いた振る舞い、知性って奴を感じさせる立ち姿。
叩いても埃なんか出そうにもないような、見事な聖職者って奴に見えるだろう。だがそれは、叩き方の問題だ。俺が叩けば、ボロって言う名の綿埃が飛び散るだろうよ。
断言する――『自信はないぜ』。アイツは、悪党だ。ヴィラン連合に所属してる、俺に負けず劣らずのイカレ共と比べて、何らの遜色もない、筋骨の通った狂人。それが、あの神父だ。

 ――用があるって訳じゃねぇ。こんな所に教会があったのかと思って、珍しかっただけさ――

 ――ほう。此処を知らぬと言う事は、冬木の外からやって来た御方かな――

 ――ま、そう言う事になるかな――

 ――近頃は参拝に訪れる者も減りつつあってな。今日など特に酷い。『昨日の事件』のせいで、この時間であると言うのに参拝者の数がゼロで、悪い言い方だが暇を持て余しているのだよ――

 ――一応言っておくが、有り難いお説教を聞く気はないぜ――

 ――心配は無用だ。私自身、説教と言うのは中々得意でなくてな――

 ――そうかい。ま、次来る時には得意にしとけよ――『もう来ないけどな!!』――

 ――善処しよう。では、お気をつけて。近頃は物騒だ。危難に遭わぬ事を祈っているよ――

 そんな、他愛のない会話を交わしてから、俺達は別れた。教会から出た瞬間俺は内心ホッとした。やっと、蜘蛛の巣から抜け出せたって感じにな。
只者じゃない神父だってのは解ってはいたが、この場で暴れちまうと目立つ。それに、サーヴァントって奴に傀儡にされただけの無関係の市民って可能性も、まぁなくはない。
あの場で殺して変に悪目立ちするよりも、とっとと帰った方が方策としてはマシだと思ったから、俺はとっとと教会の表口から外に出たのさ。
……その時に、目が覚める位の美形の男に出会っちまった――『俺の方がイケメンだろ!?』。今日は全く、ドギツイ特徴の奴らばかりに遭う日だった。

 きっと、聖杯戦争って奴が始まるからなのだろう。
自分がロクでもない奴だとは解っているが、このイベントは輪を掛けてロクでもない――『崇高だ』。
聖なる杯とやらを賞品にするから、ヒーローもヴィランも、なんの力もない一般人も。それを求めて争い、殺しあえ。その為の道具――サーヴァント――は用意した、だ?
これ程頭がおかしく、馬鹿げた催しがあるか。誰がヴィランを管理する? 誰がヒーローの義憤を挫く? なんの力もない無個性にどんなハンディを付けてやる?
俺には少なくとも解らない。こんなイベント、まぁ間違いなく頓挫するものだと思ってた。だが現実には、このイベントが着々と水面下で進んでいる事がよく解るんだ。
だが、何処かでエラーみたいな現象が起きる事も、勿論あり得る。現に、『昨日の事件』だってそんな感じなんだろう。
あれは恐らく、完全完璧な管理など困難と言っても言い過ぎじゃない、聖杯戦争の管理不届き。それが最悪の形で噴出したんだろう――『最良だろ?』。

 このイベントを運営する奴にとっても、それに踊らされる奴らにとっても。聖杯戦争って奴は一筋縄じゃ行かなくなるだろう。
だが、それで良い。俺は、このイカれたパーティーに乗った。聖杯って奴に、俺は興味がある――『ないぜ』。
しかし、それと同じ位、この聖杯戦争に招かれたイカレた奴ら……つまり、マッドな野郎共に興味がある。
このイベントの異常性を認識してなお、聖杯を求める奴らなんて、どっかしら頭のネジがキレてる奴以外にあり得ない。
同様に、聖杯って奴の万能性を認識してなお、聖杯を破壊しようと動く奴らもまた、頭がダブルの意味でキレてる奴ら以外あり得ない。
悪しざまに言ったが、聖杯戦争って奴には期待してる。ヤバいのはマスターだけじゃない。きっと、神話や伝説・伝承の中の存在であるサーヴァント達の中にも、俺が探しているようなイカれちまった奴がいるに間違いない。

 ――現に、だ

【ああ、かわいそうなお父様……。自分の中に住むもう一人のお父様に苦しむ、悲劇の人……。ガラティアは、貴方の苦しみを癒す術をしりません……】

 この、俺に対してお父様と言って来る、『ガラティア』って名前のバーサーカーもまた、イカれちまっているからだ。
血縁関係なんて俺とこいつには勿論ないし――『十五の時の子だ』、そもそもこのバーサーカーは人間ですらない。よく出来た『人形』なんだ。
人形の癖して、余りにも人間に近い。自分の意思を持ち、服を着せれば全く人形と解らない程滑らかな動きをする上、不細工な操り糸もなく勝手に動くこいつは、
最早普通の人間と何ら遜色がない。だが、例えどんなに人間に近かろうと、人は人形を産む事なんて出来ねぇ――『出来るさ』。
こいつは俺の事を、アガルマトとか言う昔の男だと錯覚しているらしい。人形と結ばれる男も男なら、愛した女を忘れるこいつもこいつさ。

 誰が見たって、狂ったマリオネットだ。俺の引き当てたサーヴァントは。
だが、これで期待出来る。きっと、コイツの他にも、俺の興味を引く狂った奴らがいるに違いない。そいつの姿を、俺は見てみたい。
そして、最終的に、聖杯を手に入れ、俺は、『俺』になるんだ。俺を長年苦しめ続ける、俺は俺じゃないと言う意識を改革させる。
その為に、俺は聖杯で本物に――『いいや、お前は、コピーさ』。

「うるせぇ、勝手に割り込むんじゃねぇ……!!」

 さっきからこいつは、俺の心の中にズケズケと……。
いい加減にしやがれと、俺がどれだけ凄んでも、心の中の俺は、俺をあざ笑うだけ。
殺せるものなら殺して見ろと、奴は言う。無論、殺せない。俺が死ぬ時が、心の中の俺が死ぬ時であり、そしてそれは、余りにも無意味な行いだからだ――『それで解放されるならアリだろ?』。

 この世にもし、神サマって奴がいて、そしてそいつが、俺みてーなヴィランにも優しい存在だったとして。
そんな存在がいるのならば、是非とも、俺の大きな悩みを、一つだけでも解決して欲しいものだった。

 神を信じる訳じゃあねぇ――『ヤバい時にはいつも神を拝み倒してる!!』。
奇跡を願う訳でもねぇ――『起って欲しいもんだな、ミラクルが!!』。

「アンタは如何なんだ、幸薄そうなツラしてるけどよ」

 偶然、俺とすれ違おうとした、幸薄そうで陰気なツラした、やけにガタイの良い、紫がかった黒髪の男に、俺は問いかけてみた。
そいつは、一瞬だけ立ち止まるが、俺の言葉に応えようともせず、ツカツカと歩き出し、丘の上を上って行く。きっと、教会に用があるのだろう。
あんな、陰鬱そうで神に見放されたような風貌の奴でも、神って奴を信じるらしい――『見放してないさ、お前と違ってな』。

 クソが、もう、耐えられねぇ。
俺は周囲を見渡し、人目が今ない事を認識してから、懐から黒いラバーマスクを急いで被り、大きく深呼吸をする。
やはり、これは落ち着く。どんなクスリよりも、このマスクは俺にとっての安定剤になる。
自己(オレ)と、限りなく他者に近い自己(オレ)が離れ離れになり、引き裂かれる感覚が、落ち着いて行く。
破れた紙の片方と片方を、ピッタリと繋ぎ合わせるように、俺の心の平穏もまた、元のそれへと戻るのさ。

 軽くなった足取りで、俺は丘を降りて行く。頭の中を覆っていた靄が祓われ、明瞭になった頭で考える。
俺の、コピーを複製出来ると言う能力から、『トゥワイス』と言うコードネームを採用した筈なのに。
それが今じゃ、自分と、自分の意思から離れ暴走しかけるもう一人の自分に葛藤する、俺自身を表す名前になるとは。何ともムカつく、皮肉な話だった。

 ◆

    ジュデッカ                               血塗られた献身                        
           流離の子                                                 
                 Dance of the Seven Veils                                          
       蓮の台                                                      ソルニゲル  

                                  革者                                   


         解放された世界          Fate/Bloody Zodiac ■■海底都市冬木          回帰の白             


                                 物語の王                                  
                                                 餓狼伝                   
                                                          総ての乙女の敵      

                不死の罰                                                   
                         日ノ本斬殺               殺られた事にも、気付かない    破滅的終局    
                                 久遠の赤                                  
 ◆

 ZONE16――『蓮の台(はちすのうてな)』

 元居た世界では、この世界で言う所の多神教と言う宗教形態が、その世界における信仰のメジャーストリームであった。人々は、時々によって信仰を使い分けた。
勿論、国によっては国教と呼ばれる物が定められているし、一つの神にしか信仰を捧げぬ人間もいた。
多神教の息づく世界に生きていながら、一神教的な教義を掲げる教団や人々、民族も少なからず見られた。
だが、彼らは全体で見ればマイノリティだ。多くの人々は、その状況によって神と言うものを信じ分けた。
これが我国の国教であると国の主君が定めても、大抵の人間は信じる神を国教で崇めるべき神の他に設定している物である。国の主君も、これを咎めない。
人々の信仰を禁ずる事は、大いなる軋轢を王と民草との間に産む事は過去数千年の歴史が詳らかにしている事は、少し過去を学べば誰でも知っている事であったからだ。
それに、信ずる神を使い分ける事は決して浮気であるのではなく、寧ろ合理的な判断である。
百姓や農民が、豊穣を司る神や大地を司る神、天候を司る神を信奉する事は、非合理的であろうか? 神の実存を疑ってしまえばそれまでだが、普通に考えれば理に適うだろう。
漁師や船乗りが、大海原を支配する神や海の恵みを司る土着の神を信奉する事は、非合理的であろうか? これもまた、理屈は通っているだろう。
彼らから信仰を取り上げると言う事は、国が割れる事を意味する。信仰を禁ずると言う事は、それだけ重大かつ深刻な結果を後々に及ぼしかねないのである。
だからこそ、王権を神から授けられたとのたまう国王ですら、信条を使い分ける。本音を言えば自分の国教の神を信じて欲しい。だがそれをやるのはリスクが大きい。
故に、『慈悲』や『寛大さ』と言う形で、彼らの信仰を赦すのである。これは、領地を上手く統治する事に腐心して来た国王や主君・貴族といった人種達が、幾百・幾千年もの間探り続け、磨き上げて来たあらゆるメソッド、その集大成の一つでもあった。

 しかし、如何もこの国では、信仰と呼ばれる行為そのものが混沌としているようであった。
異境の地で隆盛を誇る宗教が幾つも混在していると言う、この国の今の現状。
通常、異国の人間が多く集えばその分宗教も持ち込まれ、現地の人間もその宗教に染まる、と言うのが当たり前であるが、この国ではそうはならないようである。
寧ろ、大抵の人間が神の存在を信じていない。それどころか、殆どの神は既に『隠れた』らしく、神が直々に表れる事は勿論、遥か高みから神託や恵みを授ける、
と言う事すら現代ではされなくなったと言うではないか。神を祭る為の神事も、今ではその本来の意味合いがとうに薄れ、経済的な利潤や地域に活気を呼び込む為の、
ある種の通事にまでその意味合いが変化させられており、今では多くの人物が、祭りや神事の本来の意味も知らず、其処で丁重に扱われる神を敬う事もしなくなったようである。

 あらゆる意味で、神と人との位置が近く、生活に神、或いは、神に分類するべき超自然的な存在が根ざしていた、自分の世界とは違うな、と。
メロダーク』は、此処に来てから考えるようになった。この世界が悪い、と言う訳ではない。元々順応する力はメロダークは高い方である。
生活の仕方自体、この世界と、元居た世界では全く異なる。いや寧ろ、この男にとって冬木市とは真実、完全なる異世界であった。
捻ればそのまま口にする事が出来る水が出てくる、蛇口と言う装置。何時も物を冷たいまま保存出来る冷蔵庫。室温を自由に変えられるエアーコンディショナー。
季節のものではない果物や野菜が何時でも供給出来る、作物の生産体制。そして、種々様々な肉や魚、野菜に飲料が揃っているスーパーと言う施設等。
この世界の技術やシステムは、あらゆる点でメロダークのいた世界を上回る。寧ろ、勝っている所を探す方が、難しいと言う程であろう。

 今の世界の技術や道具諸々に、メロダークはまだ慣れていない。
こんな調子で聖杯戦争が始まってしまうとなると、極めて大きな重石を身体に巻き付けられた状態でスタートしてしまうのと同じ事だ。
生活必需品の使い方すら解らないのは、聖杯戦争以前の問題。ああこう言う物なのか、と、ある程度世界の在り方を受け入れられるのと、
その世界でメジャーである道具を使いこなすのとは、また別の話。今もメロダークは、聖杯戦争が正式に開催されるまでの間、この世界の常識と風俗、
そして最も良く使われるアイテムの使い方を学んでいる最中、と言う訳なのであった。勉強の甲斐もあり、スマートフォンを用いて『昨日の事件』の事を知れたのは、大いなる進歩と言えるであろう。

 この世界の見聞を広めようと、冬木の街を歩いていたメロダークだったが、この町に教会、と呼ばれる宗教的施設があると知ったのはつい三時間程前の話。
教会、キリスト教と呼ばれる、この世界に於いて特に隆盛を誇る一神教の宗教の施設であると言う。自分達の世界で言う所の神殿だろうと、メロダークは考えた。
ふと、その教会と言う施設の存在を認知した時、メロダークは興味が湧いたのである。聖杯戦争を生き残る為に必要な諸々の道具に慣れる事に必死で、
世界に息づくこう言った宗教施設については全く学ぶ事はなかった。学ぶ時間がなかったからである。
だが、冬木市の地理に慣れるのと同時に、スマートフォンの地図アプリと言う物を早く使いこなそうと言う意味も込めて、彼はこうして、一人自分の足で教会まで辿り着いた。

 教会、と呼ばれる施設の外観は、あらゆる意味でメロダークの世界での神殿とは一線を画していた。
俗に『神の家』、とも呼ばれるそうであるが、成程、確かにこれは家だなと、メロダークは考えた。
四方を外気に晒された所が、彼から見て確認が出来ず、布教や祭事等の殆どが、見た所施設の外ではなく中で行われる物と見て間違いなかった。
元の世界での神殿で行われる託宣や祭事、布教の為の説法などは、通常外で行われる事が殆どであった。これが文化の違いなのだろうと、彼は思う事にした。

 教会へと続く入口から、内部に入って行くメロダーク。やはり、外装も違えば内装も違うのは自明の理。
備えられた幾つもの長椅子は、その設置された数から推理するに、普段はもっと多くの参拝者が来る為に、それを想定してこれだけの数を用意した事が窺える。
今は、『昨日の事件』の影響のせいもあろう。参拝者が二人しかいなかった。その者にしても、メロダークよりも遥かに歳の若い女性と、彼女の付き人と思しき、
フロックコートの美青年と来ている。メロダークが目を瞠る程の、灰色の髪の美男。遅れて、男の方も、メロダークの方に柔らかな笑みを投げ掛けて来た。その笑みがまた、同性ですら魅力的だと思わせる程の、不思議な魔力を放つのである。只者ではない。メロダークが咄嗟にそう思う程、妖しい人物であった。

「どうも、こんにちは」

 綺麗な声で、その金髪の女性は此方に挨拶を投げ掛けて来た。

「どうも」

 我ながら不器用で、愛嬌も何もない挨拶だと思いながら、メロダークは短くそう言って頭を下げる。
それきり、三人の間に会話はなかった。無口なメロダークの性分もあって、尚の事会話が起らない。
とは言え、金髪の女性と、灰色の髪の青年は、メロダークにとっては赤の他人である。自発的に会話をしよう、と言う気自体、そう起らないのであるが。

【メロちゃん、口重いです。もうすこしお話しするどりょくをしてください】

 ――と、何処からか聞こえてくる、メロダークの引き当てたキャスター、『パドマサンバヴァ』の幼い声。
この念話と呼ばれる術に関しては、メロダークもすんなりと受け入れる事が出来た。寧ろ、こちらの術は、メロダークの世界よりの技術である為に、まだ驚きは少ない。
だがそれでも、驚くべき所があるとすれば、このパドマサンハヴァの念話の効果範囲であろう。
メロダークの今いる教会から、この幼い大覚が微睡んでいる所まで、距離にして十km以上は離れている筈なのに、平然と念話が届く。
これは、彼女が有している六神通と呼ばれる技術の応用だと言う。彼女が本気になれば、この冬木の両端に両名がいたとしても、平然と念話が届くレベルであるのだと言う。
少なくとも、あの少女との意思疎通に関しては、スマートフォンを経由する必要がないようだとメロダークも安心している。尤も、パドマサンハヴァがスマートフォンを扱えるとは、思えないが。

【特に話す事はない。それに、メロちゃんは止めてくれ。マスターか、そうでなくともメロダークだ】

【ぶー。したしみやすくていいのです】

 時たま、物事の本質や核心。
それどころか、有史以来地球上の至る所で生まれたであろう哲人や学者達ですら想到出来なかった、万物の真理すら剔抉するような、
鋭い一言を口にする事があるパドマサンハヴァであるが、その本質は見ての通り、無邪気と言う言葉がこれ以上となく合致する少女である。
己の心に浮かび上がった、諸々の本能、及び、降って湧いたような『これをやりたい』と思う気持ち。それに忠実な少女なのだろうと、メロダークは思っている。
それ故に、困っているのだ。元居た世界でも、彼女のような存在が一人いた。竜王が転生したあの無邪気な子供も、パドマサンハヴァと同じ性格の持ち主だった。
そう言った経験があったからこそ、扱い方も付き合い方もある程度は学んでいるが、このキャスターの場合は、時折恐ろしく透徹とした瞳で、
理性に溢れる事を口にするのだからゾッとする。ある意味で、竜王の転生体であるエンダよりも始末が悪い。
向こうは本質的には子供である為、叱れば大人しく従うものの、こちらは従う素振りがあまり見られない。解っていてやっているのだろう。
だからメロダークも、パドマサンハヴァを厳しく律する事を諦めている。と言うよりも、このパドマサンハヴァ自体が、密教と言う厳しい教義で縛られた宗教の僧侶なのである。厳しい掟で律し、縛ろうにも、無駄と言う物であろう。何せ相手の方が、そんな事に慣れているのであるから。

 【あ、こら、いすに座って黙りこくらないでください。話をしなさい】、と念話が送られてくるが、メロダークは無視して長椅子に座る事にした。
無理に話しかけて、あまり会話が続かなかった事の方が、寧ろ相手にとって失礼だろうと考えたからである。
全く奇妙で、不思議なサーヴァントであるが、メロダークは、この子供の高僧の実力については一片の疑いも抱いてない。間違いなく、このサーヴァントは自分よりも強いからだ。
と言うのも以前、パドマサンハヴァに対して、実力がどれ程のものか知りたいとメロダークは口にした事があるのだ。
それに対する少女の返事は、「かかってくるのです」、と言う物。自分の身体よりも大きい錫杖を構えるパドマサンハヴァに対して、大の大人であるメロダークが本気で木剣を打ち込んだのである。

 ――一撃たりとも、パドマサンハヴァに攻撃が当たる事はなかった。
風に舞う木の葉とは、正しくあの事を言うのだろう。自身に重力が掛かっていないかのような軽やかな動きで、パドマサンハヴァはメロダークの凄まじい攻撃をかわし続け、
また時に錫杖で彼の攻撃をいなしつつ、隙を見せたメロダークの急所に、錫杖の柄や先端を突き付けたり、そっと当てて見たり。
一撃たりとも、メロダークの攻撃がパドマサンハヴァに当たる事はなく。それどころか、少女の放つ攻撃の全ては、メロダークに当たっていて。
恐らく、殺す気で彼女が攻撃を仕掛けていたら、当の昔にメロダークなど物言わぬ骸であった事だろう。「……参った」、そう言ってメロダークは素直に負けを認めた。
「えへん」、パドマサンハヴァが可愛らしく威張った時の様子が今も忘れられない。兎に角、実力についてはパドマサンハヴァは一級品だ。
三騎士のクラス並に近接戦闘をこなせるキャスター、と言うのは大変貴重であるらしい。要するに、魔術の腕前も一級品、肉弾戦の実力も戦士以上と言う事だ。
これで弱い訳がない。魔術を嗜む戦士と言うのは往々にして器用貧乏に陥る傾向に強いが、パドマサンハヴァは、全ての魔法戦士にとっての理想体のような存在だ。サーヴァントに関しては、メロダークは間違いも疑いもない当たりを引いていたのである。

 これならば、聖杯戦争の裏に潜む野望を挫ける事であろう。
――いや、と、メロダークは思い直す。自分は、聖杯戦争で何をするつもりなのだ?
道徳的に、論理的に考えてみても、聖杯戦争が許される筈がない。そもそも、熾烈な争いの果てに現れる物が、神の薫陶を受けた聖なる杯だとはメロダークには思えない。
だが、もしも、聖杯が本物の願望器であり、メロダークの願いを叶えてくれる奇跡の品であったとしたのならば……?
背中に酷く汚れた油を掛けられたように、落ちず、拭えず。今も彼を苦しめる罪をなかった事に出来るのだろうか?
やがて現世に君臨するであろう、始祖帝の存在を消滅させる事も、聖杯によって可能なのだろうか?
始祖の憑代に選ばれた■■を、その苦しみから解放させてやる事も、聖杯の奇跡にとっては容易いのだろうか?

 メロダークは、無明の闇の中を彷徨い、迷っていた。
自分のこれまでの人生と、培って来た学と経験から、成すべき事は解っているのだ。聖杯戦争を頓挫させる。その一点を於いて他にない。
だが同時に、考えてしまう。これは、チャンスなのではないのかと。タイタスの依代に選ばれ、不当な境遇と、不当な死を与えられようとしている、
■■を救える千載一遇の機会の前に自分は立っているんじゃないのかと、メロダークは思ってもしまうのだ。
あの男は、確かに始末するべき対象である。タイタスの霊が■■の身体に受肉してしまえば、あの世界に平和な未来は最早ない。
事と次第によっては始末しろと言う命令も、メロダークは下されている。だが、本音を言えば、それはしたくないのだ。
密命を全うする使者としては、あってはならぬ事だろう。場合によっては抹殺も視野に入れねばならぬ対象に、情が湧いてしまうなど、エージェント失格である。
だがそれでも、苦楽を■■と共にする内に、メロダークは、彼を殺す事に躊躇いを憶えてしまった。
この世界に招かれる際に、他に良い方法があるのではないかと、思ってしまった。そして、神/悪魔は、メロダークにその方法を提示した。聖杯、と言う名前の、血で満たされた杯による奇跡を、である。

 ■■を救う事も、タイタスを葬る事も、その両方を成す事も、何も成さぬまま元の世界に帰る事も、聖杯戦争を台無しにしてから帰還する事も。
メロダークの行動次第では、夢物語ではないのだ。強いサーヴァントだって、彼の下に従っている。
だが、その上で、彼は何をするべきなのか解らない。無手で帰れば、■■はタイタスの憑代としての運命を歩んでしまう。
聖杯の顕現の為に人を殺し続ければ、メロダークは、過去に自分が犯した罪を再びなぞる事になってしまう。罪と解っていながら、罪を犯す。
それは、メロダークの人並の心には、余りにも重く、辛すぎた。一度目は、歯を食いしばり、見ないふりをする事で耐え切る事が出来た。
二度目は、無理だ。次同じ事をやってしまえば、もう目を背ける事が出来なくなる。今度と言う今度は、永劫その罪と睨み合い続けねばならないのだ。
そして、その罪を相手にメロダークは、勝つ自信がない。戦士として優れた技量を持っていながら……メロダークと言う男は、その心の強さだけは、ただの人間のそれなのだ。
その人並の器しかない心で、過酷な選択を彼は選ばねばならない。友を取るか、大義を取るか。余りにも、選ぶのが苦しい二択であった。

 ――心の向くまま気の向くまま、ますたーのしたいことをしていれば、信じるものは見えてくるのです――

 あの時、パドマサンハヴァが言っていた事が、メロダークの心の中でリフレーンする。
自分のやりたい事を、成したい事を、すれば良い。余りにも、尤もな事だ。あの高僧でなくとも、そんな事を言う人物は大勢いるだろう。
その当たり前の事が、今のメロダークには苦しい。掴める所が何もない、切り立った崖を素手で登るような苦しさと難度のように、思えてならない。

 ――キャスターよ。お前なら、解るのだろうか。
今まで心の向きを自分で定めた事もなく、誰かの打ち立てた大義に従い、誰かが突き立てた看板の向きに歩くだけだった男の、信じるものとは何なのかと。
野望と罪業、使命と言う名の蜘蛛の巣に絡め取られた自分に、何が出来るものなのかと。

 ――俺には、それが解らない……――

 俯きながら、物事を深く考えているメロダークだったが、不意に、その嗅覚が甘い香りを捉えた。
その臭いに当てられたように、聴覚も復活する。誰かが、自分を呼んでいる。メロダークはそう感じた。
「君、其処の御仁」、どうも声の調子から言って、自分に対し何度も声を掛けているようであった。
そんな声に気付かぬ程、深く物事を考えたままであったとは。戦士として、気が緩み過ぎている。バッと顔を上げるメロダーク。

「うむ、起きていたか。随分と深刻そうに悩んでいたようなのでな。声を掛けてしまったよ」

 メロダークの視界には、男が映っていた。
灰色の髪をした初老の男。身体から甘いアロマのような物を漂わせ、只ならぬ雰囲気を醸し出す、一目でこの施設に従事する聖職者であると、解る男が。

 ◆

    ジュデッカ                               血塗られた献身                        
           流離の子                                                 
                 Dance of the Seven Veils                                          
                                                                ソルニゲル  

                                  革者                                   


         解放された世界          Fate/Bloody Zodiac ■■海底都市冬木          回帰の白             


                                 物語の王                                  
                                                 餓狼伝                   
                                                          総ての乙女の敵      

                不死の罰                                                   
                         日ノ本斬殺               殺られた事にも、気付かない    破滅的終局    
                                 久遠の赤                                  
 ◆

 ZONE17――『殺られた事にも、気付かない』

 実の事を言うと『エイブラハム・グレイ』は、教会を訪れる者が一人もいないと言う現状を、有り難く思っていた。
聖杯自体に願いがあると言う訳ではないが、聖杯自体の真贋に興味のあるグレイにとって、聖杯戦争は捨てておける物ではない。
自分の死ぬと言う事についての恐怖は、グレイには薄い。己の命が惜しいと言う訳ではないが、聖杯をこの目で見れぬ事と、
聖杯戦争と言う実験の経過とその顛末だけは、非常に気になる。せめて、これらを目の当たりにしてから死にたいものだと、グレイは考えている。

「身体の調子でも悪いのかね」

 見るからに鬱蒼とした気配の漂う、体格の良い長躯の男に対し、グレイが問う。この場にいる、グレイ以外の二名も、陰鬱な空気を醸す男に目線を送っていた。

「……いや、すまない。考え事をしていた。」

「ふむ……。それは、私のような役目を負った者が、必要な悩みかね」

 一応、告解や相談などは、聖職者の端くれであるグレイは一応こなす事は出来るが、感動する程上手いと言う訳ではない。
本音を言うと、言葉でのみの解決は余り行いたくないのだが、職務上行わねばならない事もままある。

「いや、構わない。心配をかけた」

 故に、こう言った配慮はグレイにとっては有り難い。
キリスト教と呼ばれる宗教に従事する聖職者としては口にしてはならぬ事ではあろうが、こう言った悩みは自分で解決の糸口を探すに限るのだ。
大抵の悩みと言う物は、自分自身を冷静になれる境遇に身を置かせ、静かに考える事で意外と解決したりするような物が多いのだ。
無論、その悩みや問題の解決に、誰かの助けや後押しがあっても勿論良い。だが、そう言った助けや後押しを借りるのならば、深刻の一歩手前の状態になってからにして欲しい、と言うのがグレイの本音なのだった。

「そうか。この礼拝堂は、一人でゆっくり物事を考える為のスペースとしても開放している。一般開放が終了する時間までは、のんびりとしていたまえ」

 そう事務的に男に告げた後、グレイは、桜色を基調としたワンピースを身に纏う金髪の女性に目を向ける。

「精が出るな、シスター・クラリス。以前も言ったが、此処は君が身を置く教会ではないだろう。手伝いをしてくれるのは勿論嬉しいが、自分の時間も大事にしたまえ」

「いえ、グレイ神父。同じ信仰を共有する者として、神の家に私が足繁く通うのは当然のお話です。今の私は、キチンと自分の時間を有効的に使っているつもりです」

 やれやれ、とでも言うように苦笑いを零すグレイ。実に、よく出来た女性だと感心せざるを得ない。
シスターとして理想の女性である。この冬木教会に身を置くシスター・キャシーもよく見習ってほしい物だとグレイは切に思う。
クラリスはグレイの言った通り、この冬木教会に足を運び、教会の諸々の雑務を手伝ってくれるのだ。彼女はそもそもこの冬木に住んでいる訳ではない。
県が二つ以上も離れた、別の所に住んでいると言う。故に、この教会の仕事を手伝うと言うのは本来的にはやらなくても良い事柄なのだ。
それを承知で、彼女は仕事を肩代わりしてくれる。その理由は彼女の言った通り、同じ神を信ずる者達を助けたいから、だと言う。実に、良い教育を受けた女性である事が窺える。

「ふむ……それなら、シスター・クラリス。悪いが、教会の花壇の雑草毟りを手伝ってくれないか。エディ一人では少々身が重そうでな」

「まぁ、エディ君一人で? それは大変ですね、この教会はとても大きくて立派ですから、一人では手が足りないでしょう。解りました、お手伝いしてきますわ」

「助かるよ。それに、君と一緒ならエディも喜ぶだろう」

 グレイがそう言うと、クラリスは席から立ち上がり、彼に向かって一礼。
それでは、と短く告げて、表の花壇の方へと歩んで行く。遅れて、彼女の友達か、それとも、良い人と考えるべきであろう美青年も歩み出す。
礼拝堂の外へと出る一瞬、灰髪の男の向けた一瞥を受け、グレイは一瞬表情が強張った。グレイですらが一瞬委縮する程の、眩い聖性に溢れる男。
クラリスの連れと言う事は、同じ聖職者なのだろうか。だとしたら、さぞや名の通った者であるに相違ないとグレイは考えた。

 「失礼する」、そうグレイは、今も長椅子に座る長躯の男に告げ、礼拝堂を後にする。
『昨日の事件』が起った後だ、今日は人が来ないだろうとグレイは踏んでいたが、意外にも四人、物好きがいたようである。
しかも内一人など、生れ落ちてから神の奇跡など信じた事もないような、人相の悪い、反社の臭いのする男と来ている。
やはり、聖杯戦争と言う魔宴が醸す、異様な空気がそうさせるのであろうか。

 この聖杯戦争、真っ当な神経の持ち主ならば到底受け入れがたい非人道的なそれだと慷慨するであろうが、グレイは意外にもすんなりと受け入れられていた。
と言うのも、彼は元居た世界でこれに負けぬ程の、非人道的な観察実験を行っていたからである。
一つのビルの地下に独自に改修・改造した居住スペースを幾つも作りだし、其処にグレイが認めた殺人鬼――天使と彼は呼ぶ――を住まわせ、
彼らに外から搬入させてきた生きた人間を殺させる、と言う実験。実に、狂った実験だ。現にグレイですら、これが非人道的で、倫理性の欠片もないものだとは思っている。
今自分が聖杯戦争に招かれているのは、元の世界でのこう言った所業の報いでもあるのだろう。グレイは本気でこんな事を考えていた。
訳も分からず誰かを連れてこさせ、極めて有利な権限を持たせた殺人鬼達に一存を委ねさせていたグレイの実験と、誰かを何処かからか拉致して来て、サーヴァントと呼ばれる超常の技を誇る霊的存在を宛がわせ殺し合いを行わせる。何処かシンパシーめいた物を感じるし、グレイのサーヴァントの強さを思えば、成程確かに報いとしては成立する、真っ当な手段で、グレイが勝ち残る事は先ず難しいであろう。

 何処の誰が、聖杯戦争を仕組んだのか。疑問と、興味は尽きない。
ここまで見事な蜘蛛の巣を張れる手腕。そして張ろうと思うその精神。グレイの構想した、あの狂気の産物たるビルの地下よりもずっと、偏執狂的で、邪悪で、狂的で。
聖杯の真贋にも興味はある。この実験の行く末も、見届けたい。だが誰が、どんな思いで聖杯戦争と言う一つの織物を編み上げようとしたのか。
それが、グレイにとっての大きなの関心事の一つでもあった。あのビルで、悪魔の領分としか思われぬような実験をグレイが行っていた理由は、一つ。
神の視点に立ってみたかったから、と言う事に他ならない。天上から、下界に住まう人間の善なる姿、魔の姿、悪の姿を眺められる存在が神であるのなら。
その状況を人為的に作りだし、外から人々の模様を眺められるその存在は、事実上の神に等しい存在とも言えるであろう。
聖杯戦争を運営する者も、神の視点から、サーヴァントを宛がわれた人々の戦いを見て、何かを得たかったのだろうかと。グレイは考えていた。

 戦いと言うプロセスを経ている分、ある意味では聖杯戦争と言うイベントの方が、実験としての完成度は高いのかも知れない。
だからこそ、惜しい。この実験を、外から眺めていたかった。戦いの果てに現れる聖杯と呼ばれる物を見てみたかった。聖杯戦争の企画者と話もして見たかった。
だが現実にはグレイは聖杯戦争と言う名前の実験に使われるモルモットに過ぎず、しかも勝ち残ろうにも、呼び出したサーヴァント自体の性情が、
元の世界で自分が面倒を見ていた、難ありの殺人鬼のそれに近いと言う者と来た。神話・伝説・歴史に名を刻んだ、戦士でも魔術師でもないのだ。
ただ、殺しが上手いだけの阿婆擦れ。これで、聖杯戦争を生き残るプランを立てろと言うのだから、渋面を作りながら頭を痛める他ないであろう。

 ――そして、グレイの頭を痛めさせている、目下最大の原因たるサーヴァントは、今何をしているのかと言うと……。

 ◆

「あー……買い出しだっる……」

 『昨日の事件』の影響をモロに受ける形で、人っ子一人いない、冬木は新都の市民公園。
そのベンチに腰を下ろし、何処かのコンビニで購入したサラダチキン。それを齧る女性がいた。
紺色のベールを被った、修道服の女性である。顔つきはアングロサクソン風の美女と言う出で立ちで、極めて整った顔立ちを、今は七面倒くさそうに歪めさせていた。

 ポイッ、と、サラダチキンを食べ終えたか。それに封をさせていたビニールの真空パックをポイ捨てし、彼女は虚空を眺めた。
この世には、誰に語っても受け入れて貰えない真実と言うものが存在するが、彼女に関する真実もまた、その一つだろう。
――『ジャック・ザ・リッパー』の正体が、殺しが上手くて殺しが好きなだけのイギリス人女性である、など。
今では都市伝説を越えて、ある種の闇色の『伝説』としての地位を欲しいがままにし、今でも人々に昏い秘を提供し続けるジャック。
これに関しての捜査を進め、これに関する作品を世に提供して来た作家や監督は、到底こんな真実を許容すまい。余りにも、ドラマ性も意外性も、ないからである。

 だがそれでも、彼女は確かにジャック・ザ・リッパーなのである。いや、ジャック・ザ・リッパーと言う怪物(でんせつ)の側面なのである。
ジャックの正体は、生身の人間女性。五人の女性を惨たらしく殺し、現代的な科学捜査を取り入れ始めた当時のスコットランドヤードの捜査を逃げ切った、
伝説の快楽殺人者。こんな側面で現れたのが、今回のジャックなのである。

 小腹が満たされ、一息吐き始めるジャック。面白くない。ジャックはそう思っていた。
教会における禁欲的な生活が性に合わないと言う事もそうだし、この国には自分好みの眩しい女がいないと言う事もそうである。
だがそれ以上に、自分の起こした諸々の殺人事件が、話題にされなくなった事が面白くない。
ジャックにとって、自分が連続殺人の犯人である事が露呈される事は当然避けたい。だがそれとは矛盾する感情が、彼女の中には存在する。
自分の手による事件が、『話題にされなくなる事』もまた、彼女にとっては癪なのである。殺人とは通常、ギリギリまでバレなくさせるよう小細工を弄するのが常である。
死体をバラバラにするという手法も、あれは多くの場合猟奇的な意味を込めて行っているのではなく、死体を持ち運びやすくするようやっている者の方が多いのだ。
だがジャックの場合は違う。ジャックが被害者の女性をバラバラにするのは、完全に自分の趣味であり、嗜虐心及び、性的な欲求を満たす為である。
美しい女性ほど、惨たらしく殺したい。恋人も、親も、子も。それが自分の最愛の妻であり、子供であり、親である事を解らなくなるまで切り刻みたい。
それが、彼女、ジャック・ザ・リッパーの殺人の美学である。そしてそれは、誰にも知られずひっそりと終わるのではなく、誰かに知られて貰いたいのだ。
殺人鬼と言う、人の社会の闇に潜むアウトサイダーの中のアウトサイダーでありながら、彼女は、人の社会の光の部分に、己が闇で磨いた『アート』を見せ付けたいのである。そう、彼女の心は、破綻していた。

 ジャックの起こした、女性のみを狙った猟奇的な解体殺人。
その事件は、この冬木に不気味と恐怖の翳を、確かに落していた筈なのだ。……『昨日の事件』が起るまでは。
これがちっとも、面白くないのだ。あんな事件を起こされてしまえば、自分の起こした事件など目立たなくなるのは当たり前ではないかと、彼女は拗ねていた。
勿論、ジャックの起こした事件が全く話題にされないかと言えばそうではない。実際には、『昨日の事件』と関連付けさせる、アクセント的な役割を果たさせているのだ。
そう言う扱われ方は、ジャックとしても面白い物ではなかった。やるならもっと、大々的に扱われて欲しい物だとつくづく彼女は思っていた。

「あーのクソ神父……おつかいなんてキャシーの奴にでも頼めっての……」

 『昨日の事件』に加え、マスターであるグレイに頼まれた、教会の食料の買い出しと、ジャック好みのいい女がいないと言う現状。
テンションはゼロを振り切ってマイナスの閾にまで達している程であり、至極やる気が起きない。
そもそもこの国には、ジャックの食指が動く様な女性が少ない。『ヤマト・ナデシコ』とやらはさぞ殺し甲斐があるのだろうとワクワクしていたのだが、
それが全く以って存在しないのである。昔日にはそれはそれは沢山いたそうであるが、それらしい存在はとうの昔に絶滅したと言う。
オイオイ、リョコウバトかと突っ込みたくもなる。目当てのターゲットはおらず、活躍は注目されず。ただただ溜息を口から漏らすだけのジャック。

 再びジャックは、ベンチの傍においてあった、グレイに頼まれた買い出しの為に渡された、彼の財布。
その彼の財布の中の金を余分に使って購入したサラダチキンを取り出して、食もうとしたその時だった。彼女の動きが、ピタッと、身体の中の時間を全て停められたように停止する。

 ジャック・ザ・リッパーの目線は、公園の敷地の外を歩く、黒メノウのように艶やかで、美しい黒髪を持った、豊満な胸の可愛らしい女性に釘づけだった。
引っ込み思案そうで、儚げで、そして何より、何処か魅力的な影の差した陰性の美が気に入った。――あれは、良い。
「殺すか――!?」、と、いきり立った所で思い止まった。あの神父から、昼間は行為に及ぶなと釘を刺されていたのだ。ファック、死ね。
だが、その意見には賛同だ。確かに、敷地の外を歩く美女は、ジャック好みのそれである。だが、美女だけでは良くない。一流の切り裂き魔はシチュエーションにもうるさい。
今が夜の時間帯であれば、さぞやジャック好みのバラバラ死体が生まれていた事だろう。光を受けて夜に閃めく刃の煌めき。
煌めきの走った所をなぞる様に、バターの如くスムーズに解体されて行く美女の肢体。
そして、己の身体に何が起こったのかを認識する間もなく。己の身体がバラバラにされた事を知る事もなく、失血死で緩やかに、眠るが如く死んで行く。
それは正に――『殺された事にも、気付かない』、ジャック・ザ・リッパーの魔技。彼女がこれと認めた女のみに与える、SEX以上に気持ちの良い究極の快楽。
それを提供するには、まだ時間が悪い。歯噛みしながらジャックは、あの黒髪が過ぎ去って行くのを見送った。顔は憶えた、行動範囲もある程度は絞り込めた。
後は、運命の女神サマが自分に微笑むのを待つだけ、と、ジャックは心の中で祈った。

 チチ、と、ジャックの足元でスズメが鳴いている。
ジャックが落としたサラダチキンの破片を嘴で突いているようだが、食べ終えたのか、可愛らしくパタパタと飛び上がった。
瞬間、ジャックの左手が、陽炎の如く霞み、水平に伸びきった状態で停止。この瞬間だった。上空一m程を飛び上がり始めた、と言う段になって、スズメの身体が翼が斬り離され、その胴体が嘴から小さな尻尾まで縦に、胴体の真ん中から横に、十字に切断されたのは。

「大当たりィ」

 己の尖った歯を全て見せ付ける様な、品のない笑みを浮かべて、ジャックが言った。
近頃ハマっている占い方法だった。飛び立とうとする鳥を切断し、彼女の望むような斬り方で鳥を殺せば、今日明日はラッキー、と言う占いだった。
地面にボトリと湿った音を立てて落下するスズメから、遅れて鮮血がドロリと流れ出す。ジャックの左手に握られた、小さなメスには、血の一滴も付着していないのであった。

 ◆

    ジュデッカ                               血塗られた献身                        
           流離の子                                                 
                 Dance of the Seven Veils                                          
                                                                ソルニゲル  

                                  革者                                   


         解放された世界          Fate/Bloody Zodiac ■■海底都市冬木          回帰の白             


                                 物語の王                                  
                                                 餓狼伝                   
                                                          総ての乙女の敵      

                不死の罰                                                   
                         日ノ本斬殺                                破滅的終局    
                                 久遠の赤                                  
 ◆

 ZONE18――『Dance of the Seven Veils』

 永久の愛の逃避行、誰も邪魔する者のいない楽園(エリュシオン)での永遠。
愛と恋とに狂う男女が理想とする生活、過ごして見たいと夢想する楽土での一時の夢から、覚まされた女がいた。

 『桂言葉』は、永久の夢と言う水面を遊弋するヨットの上での微睡みから、覚醒させられてしまった女であった。
それはチープな言葉であるが、運命の悪戯による物だったのかも知れない。ともすれば言葉は、その夢から永久に覚めぬ事も、あったのかも知れない。
醒めぬ夢の中で、嘗て恋した伊藤誠の幻影と永遠の学生生活を送るだけの未来を送る可能性も、この少女には存在した。

 しかし今、言葉と言う少女は現実の中に生きていた。
死んだ筈の誠が生きている世界、それよりもなお非現実的な『聖杯戦争』と呼ばれる戦いを行わねばならない世界。
この世界こそが、言葉にとっては夢幻の世界そのものだった。何処の誰が、どんな願いでも叶えてくれる奇跡のカップを得んが為、
過去に死んだ英雄や猛将、恐るべき悪党の類を使役して殺し合わせる、と言う催しを信じる事が出来るのだろうか。
だが、このタチの悪い空想や妄想の類が厳として存在する現実の中に、今桂言葉は身を置かれており、そして、彼女はその妄想の中心人物の一人でもあった。

 幸せな夢から醒めた先の現実は、夢のちぐはぐな世界よりも尚歪みきった、悪意に満ちた世界であった。
だが――その悪意に満ちた世界を切り抜ければ、奇跡の光が言葉を包み込んでくれる。聖杯と言う、不条理・不合理・理不尽を覆してくれる魔法の杯が。
それは、黒く淀んだ泥の流れる大河に沈んだ、一粒のダイヤモンドを探すような作業である。
当然、ダイヤを探せば手は汚れる。爪の間にだって、泥が溜まって、どんなに洗っても取れないかも知れない。
いや、腕だけが汚れるならまだしも身体全体が汚れてしまう事だってあり得るだろう。
だが、その泥の中には、ダイヤが埋もれている。どんな負債も帳消しにしてしまう程の価値を秘めた、この世に二つとないダイヤが。

【マスター……もうすぐ……着きます……】

 脳内に響く、ダウナー気味の暗い口調。
声音だけを聞けばそれは確かに美女だと想起させるそれなのに、ボソボソとたどたどしく、そしてひたすらに暗い口調のせいで、生来の声の美しさが台無しになっていた。
名を、『サロメ』。旧約聖書にその名の語られる、洗礼者の首を欲した王女。その異常な物語、状況(シチュエーション)、そして猟奇かつ耽美的なエピソードと題材の故に、多くの芸術家達を魅了してきた魔性の女であった。

【ですが、宜しいのですか……? 私達と同じく……視察に来ている人達も……】

【ええ、解っています。けれど、どうしても見ておきたいので】

【マスターが……そう仰るのであれば、ご随意にします……】

 サロメは、言葉と言うマスターに対して従順だった。言葉がマスターとして見事で、優れているからと言う訳ではない。
サロメの性格は、マスターが見事であるからそうなっている、と言うよりも、これが地であるからそう振る舞っていると言う方が正しい。
外での口数が少なく、暗めなその性格は、誠に出会う前の自分を見ているようだと、言葉は、過去の己の鑑のような性格のサロメに、少しの嫌悪を憶えていた。

 二人は、『昨日の事件』が起ったという現場へと足を運ぼうとしていた。
これはサロメの言う通り、他のサーヴァントとも鉢合わせになる可能性が非常に高い選択である。
サロメは、竜を討ち倒した英雄と言う訳でもなければ、万軍を単騎で征服する様な猛将でもなく、天地に通じる魔術を習得した魔法使いと言う訳でもない。
彼女の本質は、ただの踊り子である。本質が戦士、戦を得意とする英霊を相手にしてしまったが最後、待っているのは確実な破滅だ。
勿論、妖女として歴史にその名を刻んだこの踊り子は、戦士を相手に渡り得る技術を保有こそしているが、過信して良いものではない。
なるべくならば、鉢合わせは避けたいと思うのは当然の考えである。そして、サロメのこの心配は何よりも、サーヴァントには遥かに劣る強さの、
桂言葉と言うマスターを慮っての事。当然だ、サーヴァント同士の戦いとなれば当然マスターにも火の粉が降りかかる。
ただの火の粉ではない。英霊同士の接触によって生じた火の粉は、焔の一かけらとは言え、容易く人間のマスター如きを焼き尽くす熱力を秘めている。
其処から、マスターを遠ざけたいとサーヴァントが思うのも当たり前だ。何せ、主たるマスターが死んでしまえばその時点で、サーヴァントは聖杯に願いを掛ける事が実質上不可能になってしまうのだから。

 ――それを承知で、言葉は『昨日の事件』が起った現場へと向かっている。
彼女は、本気で聖杯を狙っていた。幸せな夢が見せていた幻から覚めてしまった彼女は、思い知ってしまった。
首だけになった伊藤誠は、それはもう伊藤誠ではないのだ。嘗て伊藤誠だった、死体に過ぎぬのである。

 例え言葉がどんなに愛おしいと思っても、首だけの誠は睦言の一つも彼女に投げかけない。
例え言葉がどんなに強く抱きしめたとしても、首だけの誠は抱きしめ返したりもしてくれない。
例え言葉が――どんなに誠の子が欲しいと願っても、首だけの誠では、彼女の中にその子種を注ぐだけの身体を持たない。

 これらを認識した瞬間、言葉は悟った。もうこの世に、自分が愛した誠くんは存在しないのだ、と。
胸に、空気だけが突き抜けるだけの巨大な穴が開いたようだった。愛や慈しみといったあらゆる感情が消滅し、虚無の心地だけが身体の中を去来する。
自分が求めたのは、首だけの誠を抱いたまま夢の世界に閉じる事ではない。本当は――誠と一緒に、共に生き、共に同じ世界を視る事ではなかったのか?
こう思った瞬間、言葉にとって聖杯と言う道具が遠い世界のそれから、一枚の薄布(ヴェールを)隔てた向こう側、少し手を伸ばした先に存在する程近くに存在する、手に入れなくてはならない物になってしまった。

【欲しい……ですね……。聖杯】

 現場へと続く道のりを歩く言葉の脳裏に、サロメのボソボソとした、途切れ途切れの念話が響いてくる。
【そうですね】、と、事務的で淡々とした声音で言葉が返事をする。今の彼女には、現場に近付くにつれて多くなって行く、人通りの多さしか映ってないし見えてない。
野次馬と言うものは何処の世界にもいるもの。いや、今回に限って、責められた事ではないだろう。何せ事件が事件である。
多くの人間が、その爪痕を見てみようと大挙するのも当たり前の話であった。ある者はきっと野次馬根性を発揮するだけで。
ある者は自分の生活に影響が出るのではないかと言う恐怖で。またある者は、事件の概要を記事にする事で生計を立てんとする為に。
思いは様々だろうが、見たいと思う気持ちも解らなくもない。影響は、それだけ大きいのであるから。

【銀盆に乗せられた……あの方の首を見る度に……思います。ああ……あの素敵な笑顔は……何処に行ったのだろう、と……】

 銀の盆。それは、あらゆる芸術作品において、預言者ヨカナーンの切断された首を乗せている、美しい彫金の成された銀の皿の事である。
宝具となった影響で、物質の腐敗を停止させる効果を得たこの更には現状、言葉自身の意思で、斬られた誠の首も乗せて貰っていた。
誠の首には命はなく、勿論意思など宿りもしない。だがそれでも、あの首は正真正銘、桂言葉の愛した伊藤誠の首なのだ。
腐敗して行くままでは、忍びなさ過ぎる。だから、サロメに頼んで、ヨカナーンの隣に誠の首を乗せて貰ったのだ。彼女は、これを快諾してくれた。

 瞳を閉じると、伊藤誠の表情や挙措を、言葉は思い出す事が出来る。
自分が初めて好きになった人。いじめられていて、鬱屈としていた学生生活に光を差してくれた人。それが、言葉にとっての伊藤誠と言う存在であった。
もう、誠は微笑む事はない。言葉を喋る事すらない。冷たい銀盆の上で、見開かせていながらもその実何も映していない瞳で、言葉を見る誠の首を見る度に、つくづくそう思う。
だがある時、誠に対して、聖杯を捧げると口にした時――誠の口元が、笑ったのだ。笑ったように、見えたのだ。

 ――ああ、誠君……。私のする事を、許してくれるんですね……――

 その見間違いを見た時、言葉は決心したのだ。
何としてでも、聖杯戦争を勝ち抜くと。そして、殺された誠を蘇らせてみせると。
次は、悪い蜘蛛に誘惑されない世界で生きたい。誰にも寝取られず、誰にも奪われない。アダムとイヴになろうと言うつもりはない。
だが、二度と誠が他の女にかどわかされない世界で生きたい。それだけが、桂言葉、と言う少女の願いであった。

 夢を求めて彷徨う女二人が、歩いている。
幻の世界に閉じこもっていた女と、幻の中を舞う女。恋と言う悪魔に魅入られ、盲目となった女達は、誘蛾灯に誘われる羽虫が如く。
聖杯と言う、宙を舞う蝶蛾を焼き尽くす焔の塊目掛けて、二人は歩み始めてしまった。
一人の男の為に、修羅が蔓延る闘争の道を歩く二名の未来は、楽土か、地獄か。それを知る術は、二人には無い。

 やがて二名は、『昨日の事件』が起ったとされる事件現場へと到着する。
シロップに群がる蟻の如く、事件現場を見物しようとする人間達。そして、彼らが現場に入らぬように張り巡らせたバリケードテープ及び監視役。
彼らが市民の侵入を防いでいる境界のその先で、鑑識と思われる人物達が必死に現場の検証を行っていた。
現場に来てからまだ一分と経過していないが、そんな短い時間でも、解るのだ。捜査が遅々として進んでいないと言う事が。
【十分程、周りを見渡したら帰りましょう】、言葉の提案にサロメが了承の念話を送る。

 野次馬にも飽きたと見えた人々が帰って行くのと入れ替わりに、ゾロゾロとまた人が集まってくる。
その繰り返しを眺めながら、言葉は事件の現場を一番前まで見ようと人混みの中に混じって前へ前へと進んで行く。
こんな時、自分の低めの身長が恨めしいと言葉は思う。前にいる、春物のロングコートを纏う女性の方が、自分よりも背が高いせいで。
これではよく前が見えないではないか。サロメに、念話を伝えておく。自分と一緒に良く、現場を検証しておくように、と。

 ◆

    ジュデッカ                               血塗られた献身                        
           流離の子                                                 

                                                                ソルニゲル  

                                  革者                                   


         解放された世界          Fate/Bloody Zodiac ■■海底都市冬木          回帰の白             


                                 物語の王                                  
                                                 餓狼伝                   
                                                          総ての乙女の敵      

                不死の罰                                                   
                         日ノ本斬殺                                破滅的終局    
                                 久遠の赤                                  
 ◆

 ZONE19――『破滅的終局』

 ――とどのつまり、『昨日の事件』とは、何なのか?
その事件現場だけを見て判断するのであれば、極めて高い実力を秘めたサーヴァント同士の衝突の結果、大規模な施設がほぼ全壊した、と言う所なのだろう。
実際、それが真実であるのだろう。偶然起こった事故でこうなった、と言うには、聖杯戦争と言う事情を知っている者から見れば、余りにも無理がある。

 その大規模な施設は嘗て、『わくわくざぶーん』と言う名称で親しまれていたレジャー施設であった。
全天候型対応施設の中には、ウォータースライダーや流れるプールの他にも、通常の市民プールの他にマリンプロ育成用のダイビングプール、
飛び込みの為のプールに、五歳以下の子供達でも安心安全に遊べるように設計された水場などを兼ね備えた、極めて大規模かつハイ・クオリティーの遊興施設であった。
内部にはこの他、エステ店や日焼けサロン、様々なフランチャイズの飲食店を誘致したフードコート等、水遊びの合間から終わってからでも楽しめるエリアも存在する、
正に都市開発の進んだ冬木新都を象徴する、『進んだ』レジャー施設なのだった。冬木の成長した経済と、都市開発の進捗を象徴する施設、とも言って良い。

 それが、今や見る影もない。
嘗て訪れた者に楽しい時間を約束してくれるだろうと確信させるに足るオーラを誇っていたその威容は、今は見る影もない瓦礫の堆積になっており、
そこが元々どんな施設であったのかなど、予め知っている人間でなければ解らない程であった。戦闘機の爆撃を受けた、何らかの建物。
そうと説明されても誰もが納得しかねない程に、その破壊の有様は凄惨を極るものだった。

 先ずこの、瓦礫の撤去から行わねば話は進展しないのだろうが、何せ元となったわくわくざぶーんと言う広大な施設が、そのまま瓦礫になっているのだ。
撤去しようにも膨大な量である。消防と協力して、重機を持ち出して瓦礫を撤去している最中ではあるが、肝心の瓦礫の総量はそれほど減っていない。
この様子では最悪半月以上は掛かるであろう。つくづく、冬木の警察にとっても消防にとっても、難儀すぎる話であった。

【ふむ、意外と驚いてはいないな? マスター。まぁ、それもそうか。君の辿った道程を思えば、ね】

 野次馬の最前列で、撤去作業と鑑識作業を同時に行っている光景を眺めている女性の脳裏に、男の声が響いて来た。
二十代も半ばに近いその声音は、糖蜜のような不思議な甘さを内包する一方で、例え切れぬ程の『胡散臭さ』を内包した、
人から最初に信用ではなく、疑いと警戒心を持たれかねない声質でもあった。
魅力的で、人の心に染み入る力を秘めた一方で、内心に眠る猜疑の領域を喚起させるその声。在り方としてはそれは、山師のそれに近かった。

  もっと酷いの見てきたし……
 >少しは驚いてるよ

 彼女の言う通り、ショックは受けている。
この時代は、今まで彼女……『藤丸立香』が旅して来たどの時代の特異点よりもずっと、彼女の住んでいた世界の時代に近い。
生きていた時代に近いと言う意味では、特異点Fも同じような物かも知れないが、あの特異点は常に瓦礫の山と、焔で燃え盛っている地獄さながらの光景。
正直な所、嘗て自分達と同じ文明レベルが興っていた、荒廃した世界としか、立香の目には映っていなかった。
今彼女が呼ばれている冬木の街は、正真正銘目立った荒廃もなく、時代の方も、彼女が住んでいた時とそれ程前後していない。
彼女にとって最もイメージしやすい世界だ。そんな世界で、こんな恐るべき破壊が起きてしまえば、心にさざ波の一つでも起きると言う物。
尤も、さざ波程度しか心が動かない訳は、彼女が召喚したアルターエゴのサーヴァント、『アレイスター・クロウリー』の言う通り、自分が辿って来た七つの特異点の旅のせいでもあるのだが。

 >やっぱり、サーヴァントものだよねこれ
  サーヴァント以外に原因があるのかな、これ

【そうだろうね。まさかガス爆発でこうはなるまいよ】

 賛同するアレイスター。やはりと言うか、案の定そうであるようだ。
【どんなサーヴァントがやったのか解る?】、と訊ねてみるが、【千里眼の方は持たないので、残念ながら】、と肩透かしな返事。
サーヴァントの自発的な破壊行為、或いは交戦によって齎された物だとは解るが、どんな存在がやったのか、までは模糊としているようだ。
尤も、そのどちらにしたって、相当危険な性格、或いは性格に難を抱えている存在による破壊だと言う事は間違いない。出会ってしまえば、敵として振る舞われる可能性の方が、高かろう。

【こう言うと君は大変不愉快に思うかも知れないが、実を言うと僕はこの状況を大変興味深く、そして楽しく思っている】

 アレイスターの言った通りであった。
現に立香は、この希代の低俗人、堕落の魔王、サタンの再来のような男が言った通り、アレイスターの言った言葉に強い不快感を憶えていた。

【以前も言ったが、僕は本来キャスターとして呼ばれるのが、まぁ普通のサーヴァントでね。今のような特別なクラスでは、呼べないのだよ。理由は、解るね?】

 >身体に、獣(ビースト)を宿してるから?
  変人だから?

【その通り。冷静に考えれば当たり前の話だな。人理を破壊しうるカードを持ったサーヴァントを、そのカードの切れるクラスで派遣したりはしないさ】

 言っている事は正しい。
地球すら叩き割る爆弾を持っているサーヴァントが仮にいたとして、そのサーヴァントによる星の破壊を防ぎたい場合、
そのサーヴァントを召喚してから対処するのではなく、そもそも召喚させない事の方が、取れる対策としては上等――と言うより、常識的に考えて自然の筈。

 ――其処まで考えて、あれ、と立香は思った。
じゃあなんで――

【僕が召喚されているのか、だろう? 其処が面白い所でね】

 次第に、その声音に喜悦の色が混じって来た。或いは、持論をひけらかす事を喜ぶ、碩学のような態度か。

【恐らくだが、この世界――『抑止力』が働かない世界なのだろうね。或いは、抑止力の影響力が遠い世界とも言うべきか?】

 >すると、どうなるの?

【通常ではありえないようなサーヴァントが呼ばれたりするね。僕もそうであるが……神霊の類も、もしかするんじゃないかな?】

 >カルデアにもいたよ

【あれは、ケースがケースであるのもそうだが、特殊な召喚のメソッドを用いてるせいもあろう? 『聖杯戦争の形式を取っていながら、私や神霊が召喚される可能性がある』。これは最早、異常なケースと言う他ないんだよ】

 それは、『彼』が生きていた時に彼が教えてくれたし、ダヴィンチちゃんも言っていたなと立香は思い出す。
人理焼却と言うケースがあまりにも特殊なせいか、本来は呼ばれる可能性もないような、呼ぼうとしても召喚に応じないようなサーヴァントが、
平然と召喚される事もあるが、本来普通に英霊召喚を行っても、神霊の類等絶対に召喚出来ないのだ、と。
人理の焼却すら防いだ、無名の英雄である藤丸立香であるが、魔術に関してはズブの素人。だが、今まで習って来た事柄から今の事態を演繹すると、成程解りやすい。今回の聖杯戦争は、きっと、異常な形で行われているそれなのであろう。

【恐らくこの世界は、君達で言う所の『特異点の亜種』に近い物なのだろう。それも、抑止力すら遠い世界ときた。この特異点を救った所で、君の元居た世界には何らの影響もない。悪因もだ。この世界を救った所で、君に残るのは僅かな充足感と、徒労感だけさ。君は、それでも――】

 >救うよ

【ほう――】

 即答、である。流石は僕のマスターだ、と答えかけた所で、間髪入れずに、立香は告げた。

 >アルターエゴもだよ

【……僕も?】

 それまで、余裕を感じさせる態度であったアレイスターの口調に、訝しむような物が宿り始めた。

 >だって

 >ビーストのせいで、苦しそうだよ?

 沈黙が、二人の間に流れた。
自分達の回りにいる、『昨日の事件』の現場を見る為に集まっていた見物人達のガヤが遠い。
遥か数㎞先の事のように、今の二人には小さい物に感じられている。虚を突かれたように、呆然としているのか。アレイスターからの言葉はない。
たっぷり、十秒程経過してからだったろうか。フッ、と言う零すような笑みが、アレイスターの口から漏れ始めたのは。

【君には苦しく見えるのかい? ミス・立香】

 >違うの?

【まぁ、僕は社会の不適合者だからね。人間世界は生き難いさ。まともに働くのも、家業を継ぐのも嫌だったから、今の道を目指したってのもあるからね】

 【ただ、まぁ】

【人から真摯に心配されるのは……ハハ。中々、良い物なんだな。大丈夫さ、マスター。君が思っている程、エセルトレーダは凶暴じゃない。君が聖杯に王手を掛けるまでは、僕のパートナーでいてくれるだろう】

 そうなの? と思う立香。以前彼女が見た、鷹揚としたアレイスターの態度からは想像も出来ない、歯噛みする様な、何かに耐える様な態度は、何かのブラフだったのだろうか?

【名だたる英霊が、君に従う理由も解るな。君は、サーヴァントに『お前に召喚されて良かった』、と思わせる不思議な力を持っている。その力が、君に人理を救うだけの力を与えてくれたのだろうね】

 >アルターエゴは、どう思ってるの?

【勿論、僕は召喚されて良かったと思ってるよ。君のようなレディの剣になれる事は、英国紳士にとって誉れなんじゃないかな?】

 >……紳士の対極にいる様な人間の癖に

【ハハハ】

 笑って誤魔化すアレイスター。ジト目で、霊体化しているアレイスターを睨めつける立香。
今彼女が、自分にそんなに似合ってないロングコートを着ているのは、ゲーティアとの戦いの際に選んだ戦闘服を隠すと言う意味が大きいが、
やけに嫌らしい好色的な目線を向けて来るアレイスターに対する『ガード』の意味もあった。黒ひげとはまた違った意味で、エッチなサーヴァントであるらしいと、今も彼女は頭を抱えているのだった。

 ――そして、アレイスターの言った、召喚されて良かったという言葉は、偽らざる本音であった。
抑止力と言う、魔術師にとって最大の敵、不倶戴天の宿敵の『魔の手』が伸びないこの世界で。
『獣』を二度も退けたマスターの下に召喚された、と言うのは、彼にとってこの上ない幸運であった。
そして、藤丸立香自体もまた、好ましいと来れば、エイワスに最大限の賛辞を惜しまぬ程の天運だろう。
全ての手札が、揃っている。生前から、身が狂わんばかりに欲していた、『全人類の根源接続』と言う幻想。
その為に彼は、詐術と魔術の全てを用い、人類史に汚れた汚泥で己を刻み、英霊として座に登録されたのだ。
これが、最初にして最後の機会だろうと言う確信すらアレイスターにはあった。此処まで手札が揃う事は、二度とない。分水嶺と言う言葉でも温い程の、運命の瀬戸際。
此処だ。此処を凌げば、人類から負けがなくなる。戦争がなくなる。飢餓もなくなる。死もなくなる。一切合財の不幸が過去のものとなり、
全ての人類が全能となれる世界。それは、どれ程幸福で、どれ程素晴らしい世界だろうか。その世界を夢想する度に、アレイスターの瞳に喜びの光が煌めくのである。

【……マスター。約束しよう】

 >?

【僕が最初に幸せにするのは、君だ】

 ――曰く、ビーストとは人類を滅ぼす悪なのではなく、人類『が』滅ぼす悪なのだと言う。
憎悪も殺意も、一過性のものである。時間が流れれば多くの者は、身を焼く憎悪も滾り狂う殺意も薄らいで行く。
だが、人類を守ろうとする愛は、永遠なのだ。自分が善い事をしていると言う実感。それは確かに存在に喜びを与える。喜びが与えられるから、生きる実感が湧く。
その実感の故に、愛は永遠なのだ。より善い未来を望む精神が、今の安寧に牙を剥く。今の苦諦に満ちた世界が、許せないのだと言うように。自分であれば、もっと善い世界を産めるのだ、と言うように。

 憐憫の故に、世界を滅ぼす。懐古の故に、世界を回帰させる。善悪を知るが故に、世界を比較する。もっと良い絵図がある故に、世界に破滅と終局を与える。
アレイスター・クロウリー。全人類を縛る『限界』と言う蜘蛛の糸からの解放を願う為、全人類を根源に接続させ、
個人個人が全能人なる世界を夢見るこの男の精神は、人への愛に溢れていて――。それ故に、隠し切れない程、その精神は獣のそれに犯されている事に、この男は、気付いているのか、否か。

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最終更新:2017年11月15日 21:52